Page: 2/2  << 

マーク・ロスコと自滅の去就

以前マーク・ロスコの絵を見た時、このやり方はずるいと思ったが、その意味が自分にも――抽象表現主義の手法「だから」という簡便な偏見と*少し違う処から来ているような気もした――まだよく解らなかったので放っておいた。けれども最近シューベルトのあの “ 親密な ” 死への手なづけ方を学ぶうち(この種の親密さは、その絶対的な孤独と全然矛盾しない)何となく感じ始めたものがある。

そういえば少し前に何とかいう作家がロスコの絵を見ると自殺したくなる、と言ったとかいう文章を見た気がするが、その作家はおそらく良心的か、そうでなければロスコとは<別の>死を企てるだけの勇気もしくはそれに足る動機があるのかも知れない。

私にはロスコの絵は自殺というより自滅に近いと思えるが、それではその自滅に同乗できるかといえば、そうもいかない。あそこには予め孤高のLet it be――「これは私の自滅であってあなたのではない」――があるが、その意味の由来の多くは彼がシューベルトのようにナルシシズムと死への恐怖を同時に昇華して行った(昇華のプロセスを私たちと共有した)のとは違って、ナルシシズムの所在、もしくは何らかの無条件な自己肯定とか過剰な自己否定とかの問題を、前以て棚上げしたことにあるだろう。とちょうどそのぶんだけ不可解な恐怖が、あの入念な禁欲的安息と絶妙な色彩の交換作用のさなかにあって恐怖だけが、濾過されぬままタブローの背面を漂うことになる。したがってあれらの絵の前に立たされたものは、<同乗>出来ずにその自滅を手をこまねいて見ているか、目を・身体を背ける(見なかったことにする/関心がない)かの選択を迫られる。それなのに――意味を了った場合――その、死が親密にならない、誰でもあり誰でもないものにならないまま猶予されていた分の、謂わば放置された自滅の恐怖もしくは深さを<こちらが>(引き込まれ追放されつつ)引き受けなければならなくなるのだ。

 

 Favourite:Mark Rothko,Orange and Yellow 1956

(こうした世界はたとえば東洋的滅却;生の極限としての空滅、というよりはやはり自-滅=死、へと至るだろう、作品の全てではないにせよ)

 

*…まったくではなく、少しと言っておきたい。というのも、逆説めくかも知れないが 具象性/個々が被っている処遇というものを語りつつこの克服(顔のなさにまで至る過程)を公開することを、予めかなりの程度棄てた次元から出発するのをゆるされている抽象表現主義というスタイルのもつ特権状態とこの問題とが全く無関係で有りうるのか――それはちょうど、意味が蘇生するまでの一定の内的時間(運動)を費やさずに意味が出現したことを一方的に通告する音楽作品と似た意味を持たないだろうか、勿論それ程にまで専政的ではないにせよ――今でも解らずにいるのである。或いはたんに絵画という対象世界に於ける時間軸の引き受け(させ)方の問題なのだろうか。
| Rei八ヶ岳高原2 | 18:43 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フェルメールとヴェラスケスにおける外界示唆(窓・鏡)

2003年03月30日にHPに記載したものを転記

フェルメールとヴェラスケスに於る比較(前記事との関連から)――鑑賞者と 鏡・窓(乃至 額縁)の関係
(このような比較もあろうかと思い、図として記しておくことにした)

 

窓や、額縁、鏡、などといった存在が、フェルメール作品にもヴェラスケス作品にも示唆的な役割を持つものとして登場する。それらは単独で配置される場合もあるし、並んで配置、もしくはほぼ同一次元に配置、される場合もある。

フェルメールの場合は、主に単独で登場し、配置されるのは「窓」である。ヴェラスケスの場合、単独で登場・配置されるものとして他者性への開けを喚起させるものは「鏡」であり(「ラス・メニーナス」及び「鏡の前のヴィーナス」の場合)、また扉である(ラス・メニーナス)。

この際、ヴェラスケスの鏡とフェルメールの鏡(窓)に、次のようなことが云える。

フェルメールはいつも、

 

窓―――モデル
\鑑賞者/

 

という構図で、窓or鏡に<モデルを>そのまま直面させる。窓・鏡(他者性)はあくまでもモデルにとっての、またモデルの居る空間にとっての他者性である。(絵画中の別の登場人物はともかく)われわれ鑑賞者は、つねにじかにこの間に割って入ることはなく、それ故に徹頭徹尾 影の存在、絵画空間に対しては傍観者として、姿を隠したままに立ち会わされる。

他方ヴェラスケスの場合は、「ヴィーナス」の場合(また、以下で触れるが「ラス・メニーナス」の場合も)

 


|(モデル)
鑑賞者

 

<鑑賞者に>、いきなり鏡を直面させ、モデルはその脇の媒介者や一種の喚起体=我々(鑑賞者の身体)の化身、または立場の代理のようなものであるところが、面白いし、ヴェラスケスらしい。

 

ここに、もうひとつの道具が配置される場合も同様である。

フェルメールの場合もヴェラスケスの場合も、「鏡」と「窓」(または「扉」など<もうひとつの世界>を示唆する道具)は、ほぼ‘並んで’置かれることにより、その効果と役割とを発揮することがあった。

フェルメールの場合、「鏡や額縁」がつねに“モデルに対して”正面か・ほぼ正面であるのに対し、ヴェラスケスの場合、これらはむしろ直接私たち“鑑賞者に対して”正面、乃至ほぼ正面であるところが興味深い。

ヴェラスケスでは「ラス・メニーナス」中、 「鏡」と「扉」(「扉」…それは半ば開けられた、もうひとつの世界としての存在として配置)とは、並んで置かれていた。

他方、フェルメールの一部の作品中にある、「窓」と「鏡」(※さらに、額縁の絵・地図など,ここには図像学などの解析余地がある、付記10/09/30)は時折、並んでいる。もしくは、ほぼ同一次元(もっとも奥まった層)に配置される。

 

フェルメールでは、(首飾り天秤音楽の稽古
図1
フェルメール構図01

または
図2
フェルメール構図02

 

ヴェラスケスでは、(ラス・メニーナス)
図3
ヴェラスケス構図03 となるのである。

 

たしかにこの比較は、彼らの“主題”とその際の道具の扱いと配置、役割の持たせ方…etcetc.、それゆえ至当に帯びる構図性といったものを、それぞれ端的に示唆しているように思われる。

注1) ことにフェルメールの場合、窓・(半ば)開いた窓、などが、殆ど鏡と同じような効果をすでに持つ面が多くあると思われる。

  1. 1)閉じた窓:全き自己同一性=鏡1
  2. 2)他者にむかって幾分か開きかけた窓≒鏡2(地図などが最も奥手の層にあったりする)

というような具合…

注2) 尚、ヴェラスケスの場合、「ヴィナス」に於る「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである。

「ヴィナス」に於るトリックは、本来画家の立つべき視座を、画家自身の気配を空無化したまま鑑賞者にあけわたした格好で、画家のかわりに特権的闖入者である私たちが、絶対不可侵領域でにいるはずのモデルに見られる、というものであるが、ラス・メニーナスに於る「見られる者の交換」が4重構造になっている、――つまり扉を開け放って傍観する紳士、鏡に投影された国王夫妻(ともに、あちら側-彼岸とこちら側-此岸の交換)、また本来ここに立つべき画家自身、身体のない国王夫妻、また鑑賞者(絵によって存在を暴かれ視線としては絵画空間の中を侵入しうるも、身体として永遠に参与できぬ自由で不自由な鑑賞者)、の間で――のと較べれば、画家と鑑賞者との間で生じる、まだ単純で原初的なものである。

また鏡に写っているのが、「ヴィーナス」ではモデルであるヴィーナス自身(此岸と彼岸の中間地帯――純粋「絵画空間」に在る者)に過ぎぬのに対し、「ラス・メニーナス」では国王夫妻(画内に受肉しないモデル;鏡像として示唆されるモデル;此岸であり彼岸)、という重層トリックであるという面からの比較でも、「ヴィーナス」に於るそれはまだまだ素朴な現象学である。

が、ヴィーナスの「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである、この効果は、モデルと画家の位置づけ上当然のことながら、見方を変えればそのままおそらくちょうど「ラス・メニーナス」に於て、画家ヴェラスケスの姿と、私たち鑑賞者の間に立っていた“カンヴァスの背中”の役割と同様であって、画中のモデル乃至登場人物たちが<視線>をぶつける対象であるとともに、そこで「くの字」に曲がった彼らの視線を、私たち鑑賞者の視線と交換させる為の喚起体である。 (2003'04/05:附記/2004'03/06一部施:訂正)

 

2003年03月31日 (月)

ディエゴ・ヴェラスケスの画を丹念に見て行くのは、ラス・メニナスがきっかけとなったつい昨日からのことで、まだよく解らないし、正直 生まも見たことがない(来日したスペイン王宮絵画展を見ておくべきだった)。

しかし、こうして時を追って彼の画を見ていくと、時間の流れとともに彼の芸術の多面性を、垣間見ることが出来る…。

カラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する、ことに静物に於る写実主義にはじまり、1630〜40年代の比較的動性ゆたかな画風。筆致にはある種の省略法のようなもの見受けられる。

=====

  1. Three Musicians, Gemaldegalerie, Berlin(年代不詳?)
    カラッチ(豆を食べる男)→ドメニキーノなどとともにボローニャ派の特色ももつが、その中にあるカラヴァッジョ的。

    以下は皆ヴェラスケス自身の画。
  2. An Old Woman Cooking Eggs, approx. 1618
    多分にカラヴァッジョ的。。。
    下の画に較べ、カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率もまだ働きはじめない…。奥行きを出すのに効果的な上からの角度を保持。
    ※(カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率…カラヴァッジョの徹底したリアリズムの中で唯一置き去りにされているものがあるとすれば画面の奥行であろう。これが満たされるには詩性を帯びる画風を待たなければならない。たとえば17Cオランダ絵画 cf)カメラ・オブスキュラの登場。シャルダンに関しては故意であろう。)
  3. Christ in the House of Martha & Mary(年代不詳?たぶん10年代後半ではないだろうか)
    オランダのアールスト的な徹底的写実主義が、物の描き方に見出されるが、それに比し人物のほうは、幾らか実在感を省略されている感があるのはおもしろい。静物に較べた時の人物描写のこの実在感のなさは、写実主義の未成熟というよりは寧ろ近代主義の先駈けだろう…。
    ここにはカラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する静物に於る写実主義と、同時にシャルダンと近代絵画に共通の、奥行(z軸)の圧殺も見出される気がする。 が、右手の断片はすでに17Cオランダ絵画同様の素描的省略法(シャルダンにも見られる)が。
  4. Joseph's Bloody Coat Brought to Jacob, 1630
    プッサン→‘カラヴァッジョ周辺画家’的 人物描写とその動性…。色彩はバロック(プサン〜リュベンス)/新古典主義アングル・ダヴィッド
  5. The Adoration of the Magi, 1619
    カラヴァッジョ的、でも微かにティエポロ的なものの予感が(?)。。
  6. The Needlewoman, 1640
    ここには、フェルメール的<没入>――他者非介入が見出される。
  7. The Coronation of the Virgin, 1641-44
    ここにはムリーリョが。(動性、また色彩)
    cf1)ドラクロワ
    cf2)↑リュベンス?×ヨルダーンス;同時代バロック
  8. A Woman as a Sibyl, 1644-48
    ここにはロココの予兆。
  9. The Feast of Bacchus (Los Borrachos), 1628-29
  10. Don Sebastian de Morra, 1645
    庶民を描く。リアリズムと省略法の同居。こうした庶民的粗野さ・伏在する動性は、17c初期オランダ絵画ハルス、フランスのル・ナンの人物画が彷彿する。またはヴェラスケスよりやや後のボルフ(17Cオランダ)へ?こうした省略はロココへ通じるのではないだろうか。
  11. Juan de Pareja, 1650, oil on canvas
    ここには、はやくも写実主義の或る種の頂点がある。何故ならこれ以降(ヴェラスケス自身を含め)、写実主義は新古典主義的形式主義を帯びはじめるからだ。他方、ロココやオランダ絵画は、すでに印象派にも通じる主観(主義)的動性を帯びてくる。がこの絵には、未だ静性→動性の可変的両義性、瞬間の抽出におけるごく自然で適切なバランスがある。
  12. そして昨日のラス・メニナスの中の、幾人かの人物や、同年のこうした王女の絵
    The Infanta Margarita, 1656
    には、ダヴィッドを典型とする奇妙な新古典主義的「停止性」が、すでに伏在する。
    もっともこの宮廷風な凝結感は王女のドレスなど当時の形式的な文化から生じるのであろう。逆に庶民を描く際は生き生きと動的である。宮廷の人物には、動きの瞬間・時間の断片がひとつの空間に奇妙に持続させられるかの強制力をともなった停止を強調する。
  13. The Medici Gardens in Rome, 1650
    これなどに見受けられる或る種の省略法(<ものの厚みのリアリティを確保した>詩的省略法)は、グァルディなど18世紀ヴェネチア派を想わせる!(或いは英自然主義ボニントンの海岸の絵)。カナレットのような写実主義にはこの点=厚みが欠けていた――ことに壁面、大地の描き方――。
    が同時に樹木などの幾分かよどんだような暗い省略法には、すでにテオドア・ルッソーのようなバルビゾン派〜英・仏ロマン派の予兆が混在してみえる…(そしてそれらは印象派に通じるだろう)。
| Rei八ヶ岳高原2 | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

生の根源:無・空・滅と、理知性(の介在余地)を巡って。その際の自我の位置づけ

メモ。http://bit.ly/dxqcL9
(参考文献。偶然見つけた非常に有意義な上記Blog記事をきっかけに、以下、二・三日つらつら考えたことです。どうもありがとうございました)

これは、シューベルト――郵便的/事事無碍に限りなく近い表現のスタンス――とシューマン――本来的意味における(と私は捉えている)解釈学的/理事無碍に限りなく近い表現のスタンス――の関係と距離について考え続けているためでもある。

 

上記Blogから引用

[西谷啓治の『宗教と無』はジャン・ポール・サルトルの『存在と無』批判であったという。西谷/ブライソンによれば、サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果しているという。西谷/ブライソンがここで持ち出すのがいわずもがな「空」であり、「無」であり、そして「場」の論理である。「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定としてある。西谷の二重否定はもともとヘーゲルからきているが、禅的な「非ず非ず」の論理とも言える。=以上、引用]

 

こういった事を巡ってのつらつら。

 

まず[サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果]、この点は解る気がする。

たとえば西田幾多郎は後期以前では、(現象学が意識を対象化して見る主体を自我に置くのに対し)知の主体は自我をどこまでも主体方向に超えてゆくと捉え、「於いてある場所」の窮極は超越的述語面(見る私を超えてこれを包むもので「私」はその働きをセルフのうちに映す)という形だったようだが――もちろん後期は自<覚>の成り立つ地平=場の構造として把捉――、現象学(この場合フッサル?)と同様、サルトルも知=意識対象化の主体をセルフにくるまれない直かな自我の地平に置いている、ということへの批判と捉えてよいのかと思うし、たしかにそれだと主体を強化するにすぎなくなる、そうなりやすいと、実際思う。

 

ただ、以下の点、[「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定…]に関して、こうした西谷/ブライソンによる理解仕様には、疑問が残る。禅的な立場からはやはりつねにそう捉えるだろうが、いつもそれ「しか」ありえない・ゆるされないのだろうか?(とくに空じられた後、覚の後。すなわち 覚の覚 における問題)

場の論理だと直接的生に還帰した主体は空じられ(=あえて仏教用語でいえば事事無碍)、リアライズされる際、極(いわば「脱中心化」の極限)となるゆえ、知 とくに反省 は生じないのだろうが、人間はそこ(直接的生の体験、また体験をした極)から、この超-個矛盾的同一の、把捉とある種の伝達願望を半ば織り交ぜた表現を発する際(=理事無碍へ。)、その体験したリアライズ=覚→覚の覚について、理知でその出来事とその事-事の関係性とを捉えるにあたり、極としてのセルフ、その中にくるまれる舵取り役としての自我という構造のもとに在るまま表現しうる(成功することがある)ので、その場合には、その関係性を踏み外さなければ主体を強化してしまうということはない、という把捉が成り立ちうるのではないのだろうか? (認知が複雑になる為主体がかさばることはあっても、それは所謂<自我が強まる>という*罪の意味とは少し別の観点から扱いうる地平および浄化的魂の性質がありうるという問題である。)

 

と、その際、そのまっとうな!?自我、本来的位置づけに還帰しえた自我にしてみても、リアライズの出来事を理知で感知=把捉し、「語る」際、やはり〈象徴形式としての〉遠近法、他者との距離把捉を使う必要の生じる局面があるのではないか? つねに<これ=象徴としての遠近法、を使っているか否か>という観点のみを以て、その自我を、またその自己-自我があつかう理知を、(空滅の不十全として、無碍の働きと「力」の場としての不徹底として、またありうべからざる主体の状態として)ただちに罰するべき、なのだろうか?それとも(もしそうだとすると)理知を以て表現すること自体を一切無効としなければならないのだろうか――表現のスタイルとしても?――とすると、表現として唯一認められるべきは、or成立可能なのは、やはり隠喩的方法しかないと、、、? (またしても 郵便的、の時と同じ結論になってしまうのか?)

 

すると上( http://bit.ly/dxqcL9 )文献上部でいわれている「審級」(意味作用の可動的モザイク、動的テッセラであるところのネットワーク=文化的構築物=了解可能性)を組み入れた表現のうち、その伝達・啓蒙性により重きを置いた分野や性質のもの――教育・(一部の)芸術・哲学――などの問題は一体どうなるのか。。

 

つまり私が思っているのは、(ブライソン/西谷的思考によって)サルトルが不十分だと言われなければならないのは、「〈象徴形式としての〉遠近法」を<用いていること>、に由るのではなく、その用いる<当体>、自我の在りようの問題、つまり極としてのセルフに包まれた舵取り役の自我でなく、極化/脱中心化し切れていないままの自我であること、セルフによって包摂されていない自我の(残っている)ままであること、そのものに由ってでなければならないのではないだろうか?、ということである。

 

自我が本来の在るべき座に戻っているという<条件付き>で、無→リアライズされた「後の」働き方としての理と知を、その質によってはもう一度復権させる必要を考えている(多分そのような時代がじき到来するはずと思う。ポストモダニズム以降、カントやデカルト、ライプニッツの捉え直しなどなされる流れもあるらしい今日であるだけに、己が寡聞なだけでひょっとするともう到来しているのかも知れないが)私としては――いつもこの点がネックになってしまうのだが――メタファの価値の尊重とともに、**(存在論的限定条件付きの)自己-自我に於ける理知の評価しなおし・捉え直しという面も、きちんと考える必要のある観点であることが世の中でもっと主張されるべきであり、そういう時期に来ていると思っている。

 

マーカー部分、*および**について

 

ちなみに、このことにも関わるであろうTwitterでの茂木健一郎さんのツイート(2010/09/16)を二つ程紹介列挙しておきたい。

 

  1. 無記(11)諦念と慈愛を絵に描いたような老父の中に、冷たい刃のような気持ちが隠れている。人間というものは、複雑で、重層的である。見えるものが全てではない。しかし一方で、すべてを外に顕す必要もない。
  2. 無記(12)フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。小津安二郎はそのことをわかっていた。

 

私はこうした位相に関する理知性の作用はまさにシューマン的 理事無碍(もしくはベートーヴェン的といってもいい。音楽的に言えば内声部の充実・思考の錯綜-重層化ないし、時に省略)の非凡さにも関係する事柄だと思っている。つまりここにまさしく<人格>-自我の問題、(無意識→潜在意識→意識への)「審級」のクオリティの問題が関わると思っているのである。

キリスト教においてイエスは、「右手にしていることを左手に教えるな」(自意識の問題・意識の直接性と純粋度の問題)と説いている。たしかに非常に鋭く、また尊いリアリティを突いている(この考えはおそらく禅にも通じる)。実際、この直接性と匿名性の世界にのみ現出可能な、まぎれもない価値を持つ表現というものがたしかにある。また右手のしていることを左手に教えることによって傲慢=主体の強化につながり、またこれにより同時に失うものもたしかにある。

そのことを、見込んだ上であえて言うのだが、それは多角-多元的な問題のうちの核心的な一面ではあるが――宗教にはしばしばこのうち「傲慢・不純・失うもの」をばかり、ともすると強調しすぎるきらいがある――その他の側面、つまりこの窮極の深い位相に於いてすら、ともすると関わってきてしまうことのある他者連関。この問題にも一考を要すべきではないだろうか。つまりここで人格・精神の尊厳として表出すべきリアリティとすべきでないリアリティを峻別しようとする、理知性の作用の問題である。その最も浄化された形は、直接性と匿名性、すなわち融通無碍を殆ど浸蝕しない(かにみえる)性質のものとなるであろう。日常的な会話等ではその理知による瞬時の判断が、芸術表現のレベルでは熟達した判断が、それぞれ要求されるということになると思われる(その表現者の資質と感性との協力関係により、殆ど無意識レベルのままなされるか(事事無碍)、潜在意識や意識レベルでなされるか(理事無碍)の違いはあれ)。

 

そうした、直接的生の「覚」と表現とに伴う理知性の「質」について、もっと宗教も、出来ればもう少し、教育や芸術、哲学などと共に(無粋だとはいわずに…)考え対話してほしいと、思っている。

というのも、<直接性>の生命力に根ざしている場合、そのアクロバティクな凄絶さに他者を巻き込む、もしくは悪酔いさせる種類の生のリアリティ表出が――つまり共生感覚を ともすると欠いたままの表現・自己表出が――あり得ないわけではないからである。(虚無・ニヒリズム・エゴイズムを克服し切れていない直接性の場合。この際、そこへの理知性の介在なり存在を全否定すると、その生のリアリティを共生可能性の方向へと修正し難い面が生じてくる)

尤も、ニヒリズムや絶望の表現に関しては、むしろその吐露、社会への告発そのものこそを表現目的・問題提起とする場合は別であり、それ自身の質が高ければ「表現の力量」「スタイル」として<全面的に認められるべき>であるし、その営為により自己救済されるべきでもあるが、そのアトモスフェールが人間社会の「倫理」と「時代的気分」をも担う――ニィチェがあまりに強力に支配したように――べきであるかどうかは、慎重に考えなければならないと思う昨今である。

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

闖入者、そして注視ということ――覗き見る/視線のすべり/見渡し-見られ-取り込まれる

2003年のHPに掲載したものとTwitterで2010年5月〜6月につぶやいたことのまとめ

一体これは或る種のメディア論ということにもなるのだろうか。フェルメール、カフカ(城)、ヴェラスケス(ラス・メニーナス)の作品を巡っての考察

 

  1. 風船ガムを上手に膨らまして、膨らましつつ自分がその内部に入っていく…成功すれば、自分の口という孔が、世界の内と外同時に繋がる場所となる (ラカン 訳/新宮一成)
  2. 不条理とは、身体を途方もなく超えていくものが、ほかでもないその身体に住まう魂なのだということである(カミュ 訳/粟津則夫)
  3. 内部にいることを止めずに、自分を外部から眺める世界(サルトル 訳/粟津則夫)

 

小さい頃三面鏡のはるか遠くまで覗いた記憶がある。たくさんの自分を見たいのではなく、三面鏡を可能な限り閉じた状態に近づけた時、最も遠くに映る自分の像が、自分があらかじめ喪っている<自分自身>に、一番近づくのではないかと思われたからだ。{この}私を直視している単純に真正面の鏡像は、左右があべこべで私と似ていない(と教えられる)。が、隣りの像やせいぜいその隣りの像はといえば、{この}私自身を直視していない。その隣りもまぁ似たようなものだ。三面鏡の世界では、殆ど全ての像が、私?の像はみなてんでんばらばらな方角を向いている。ただ狭めた時、遠くにある像ほど、「ほぼ」私のほうを見ていると取れなくもない。(勿論、限りなくほぼであって、まったき一致をとげてはいないが)。{こちら}を直視する私の像は、他人ならばいとも容易に目にしているものだ。それなのにこの本人には延々と隠されつづけている。それで昨日も今日もついのぞき込むのだが、やっぱりどうしても出会われないのだった…。

そうして、時にはこうも思うのだ。もし一番遠くに、私自身と一致する像を見いだすことが出来たとしよう。だがそれは、このあらかじめ喪っている私をいまさらどう穴埋めしてくれるのだろうか、と。それがもしこの鏡のどこかに見い出せたとしても、そしてもし何らかの方法でこの自分の面前にある鏡の像と取り替えられたにしても、結局はせいぜい<差し向かい>――対象的存在でしかない。その像はけして、喪っていた・そしていまもこうして喪いつづけている{この}私と-なって-穴埋めされることはないのだ、とも…。

そうした解決不可能さと、にもかかわらず「覗こうとする執拗な」いぶかしさとが、カフカの「城」やヴェラスケスの「ラス・メニーナス」に没入するとき、何故だか今でもふつと去来する。

自分自身とは、自分であって自分でない。(ほぼ)自分であるままに自分とは最も遠い存在でもある。永遠に何かから追放されており、そのためたえず分極し、そしてまたできそこないの媒介でもある。

他者が私を見ることはごく容易である。その他者が、この私には見えない私のことをどれほどよく知っているか。それは私より知っているともいえるし知らないともいえる。誰にとっても、この同じ構造は当てはまるが、この構造自身と諸状況による理解・解釈の多義性、行方不明の多元性は枚挙にいとまがない。幼心に感じる、何か逸らされたようないぶかしさといったものも、こうした暗示的経験を積み上げられて生じるものなのだろう。

だが小さい頃というのは他方、普段はたいていそんな事を忘れてはしゃいでも居るものだ。けれどもその経験の何らかの刻印が漂っている以上、厳密な意味で無邪気さというのは無いにひとしい。じっさい思春期ともなれば、それはせいぜい初々しさといったところだ。(ただ時々、奇蹟的なひとに出会うが。)

はにかみなどという言葉が当て嵌まるような年頃も過ぎつつある頃には、反芻しはじめたものだ…。初々しさにはにじんだようなしみがある。あるいは水の中に絵の具を一滴落としたような余韻があると。

しみとは全てを知ろうとするこの私自身(が見えない)という盲点だろう。

そのにごりさえ許せないなら、――無罪(not-guilty)であるためには――知ろうとしないしかない。

すると今度は責任の問題がつきまとう。

責任を問われる、ということは、私自身にある私自身の殆どあずかり知らぬ点(or運動)を、私自身の持ち物?であるからといって私自身のがわに帰着せられる、というあの矛盾だ。(しかしだからといって他者の側に着せてよいものでも、さらさらない)(2010 6/16 twitter)

つまり自分が閉じておらず、はぐらかされている限り、不意に立ち現れてくるもの、探しているのはこれかと自分に問うてくるもの、お前に見えていないのはこれだよと<不意に示唆してくるもの>を、また時には全くの異者を、どうしても呼び込まなければならない。そこには(希望や歓びがあると同時に)たえず不安やおののきが付きまとうのである。

だがそうした希望と不安への待機、要請・促しへの応答・拒絶などと云った宿命的作用連関は他人にとってもいえることで、同じ存在構造である以上、この自分が、他者にとって他者の閉じられない輪の隙間から不意打ちをくらわす存在、すなわち闖入者にもなりうることも意味している。

 

芸術作品に於ける他者性、注視、不意打ち、もしくは「闖入者」について考えてみる。

 

【注視1――覗き見る(闖入者としての己を隠滅したまま)//フェルメール】

 

室内画というジャンルを知らなかった大学時代、フェルメールの作品を小冊子をひもといて知って、ひどく愕いたのを思い出す。当時の私の驚愕は、数少ない風景画とされるデルフト以上に、室内画を描くフェルメールのまなざしそのものに行ってしまった。 ちょうど哲学科の講義でデカルトのコギトを、「(実験的)他者性の排除」として学んでいたのとも重なり、この画家のどの作品も一様に帯びている「静謐さ」は、当時の私にとって新鮮な感動だった。―――彼は成功している。彼自身の気配の隠蔽に。

当時私はカメラ・オブスキュラの知識がなかったが、画家がこれを使用していたとすると、この装置をモデルに知らせなかったことも、この視線気化の奏功する一因であったかも知れない。

フェルメール絵画の静謐。この静謐さは、たしかに構図の精緻さ、計画性自身のもたらす所も大きい。だがそれのみならず、まず場面設定そのものが大きな鍵を握っていることがしばしばだ。

ひとつの大きな特徴として、 フェルメールの室内画のモデルとなった女性たちは、――画家のほうを振り返っている幾つかの作品を除けば――多くの場合、他者に「見られて」いることを意識してはいない(ドガの、背中を向けた裸婦などの作品などにも言えるが)。自意識を働かせていないという点がやはりなにより描き手にとって大事であったにちがいない。静謐さの条件とは至純さであり、ときに集中力であり、また無防備さ――或る種の大胆さの中に潜む、前提としての「他者不介入の意識」――なのである。

  1. 青衣の女
  2. 真珠の首飾りの女
  3. 紳士とワインを飲む女
  4. 婦人と召使

画面を見ている私たちは、画家の選んだ題材となった生まな状況に、時を越えて<立ち会わされる>!……この偶有性こそが室内画の命なのであった。図らずも私たち鑑賞者は、彼女らの秘事、また密約を、――或る時はカーテン越しに、或る時は見えない空気と化して――意図せぬままに侵犯してしまうのである。さらに驚くことには、どの画面にも、私たち鑑賞者の視線と同様、画家フェルメールの視線の影もまた、どこにもない。

一部、ワインを飲まされている娘や、絵画中の画家にモデルとしてポーズをとっている娘にみられる、一定の自意識といったものはあるが、それもあくまで登場人物同士の関係でのみ生じる対象への意識、もしくは初々しい或る種の(想像上の)性的交換作用であって、これを真に描いている正体としてのフェルメール――それは同時に、私たち鑑賞者という第三者の介入余地可能性でもあるが――に対するそれではない。

画家(フェルメール)の立つところ、また凝視する視線の影は、画家自身の細心の気配りと、おそらくは巧妙な装置のもとに、全くと言っていいほど<隠滅されて>いる。

こうしてみごとに密閉された「場」への、私たち鑑賞者の目線の‘不意の侵犯’。 この驚きと或る種の不誠実?への戸惑いが、画家フェルメールの写実性巧みな筆致を通し、或種の逆説性として奏功する。

さてつぎに、さきにフェルメール絵画の静謐さには、構図の精緻さ、計画性そのもののもたらす所が大きい、と書いたことに再度触れる。それは私たち鑑賞者の目線がその侵犯性に罪悪感を起こすことなく、透明なまま、微細なディテールの永遠に「停止した時間」へと同化することを許す、まさにそういった作品もある、その顧みのためである。そこには構図の密約性から、視線がおのずと一点に凝集される巧みな技術が関与している。

  1. ミルクメイド
  2. レースを編む女

ミルクメイドの人物は、パンに似せた石像のようにまるでテーブル上の静物とまったく同じ物質感で立っており、人体というには躯の芯に天から垂直に降りてるような、あまりに完璧な堅固の軸が貫通する。この人物は静物たちと、そして部屋(壁や窓や卓)とまったくひとつにつながっている。

その腕の角度、壺の傾き・角度、また傾げた首の角度などから、興味はやはり左側のテーブルの上の静物群に集中される。そして沈黙の中のおしゃべりがはじまり、その卓上では沈黙とざわめき、動と静(停)、流れと永遠が矛盾するものでなくなる。魔法が成り立つための照準が、合っている。

人物の身体の向き、片側の壁にばかり寄り沿った ものの配置などの見た目とは違い、見れば見るほどその内密さの中に複数のシンメトリックな伏線を用意しているのがわかる、奥深い絵である。

静物への視線の収斂と時間停止効果のため、窓の角度、壁に平行に置かれていない卓と、ねずみとりとされる木箱の角度、また女性の顔(鼻筋)の傾きと壁に映る影(バスケットの角度の示唆も含むが、フェルメールに於ては壁の影線の暗示する功績も大きいであろう)等々の複数に交差する暗示線の対称性は――時に分度器状のもの・三角形(相似)なども含まれ、また奥行きの集約的極端さも含まれる――じつに見事である。それらの向きの集まりが、人物に物同様の実在感と堅固さを与えつつも、この画の主題が、人物よりその手元から下、むしろテーブルの上の静謐であることを、われわれに示唆するには十分だ。

 

※構図参照(自作ミルクメイド用図解)リンク-リンク先の画像にマウスで触れると図解が出ます

 

レースを編む女。この作品を流れる、親密で持続的な時間。室内の時計の音すら聞こえるか聞こえぬかくらいの静寂と慰安にみちた専心。張り詰めた空気が同時に安らぎを帯びるという不思議な息吹が命の作品である。

この作品もやはり、女性の指から延長される分度器状のベクトルの放射と収斂、またミルクメイド同様三角形の相似が自足的な時間を放出する。またこれは、そのようにすべてを放出するこの交点を取り巻く、幾つかの傾きを持った平行線・垂直線がその収斂の純一さへと静かに参与する作品でもある。

糸と、女性の8本の指の向き、この示唆によって女性の両手の間にある点描で描かれた糸の一点(=X点。下、裁縫箱の線が導線となり女性の肩から巻き毛へと繋がる)へと全てが収斂する一方、これに平行して上述の暗示線と平行な机の脚線(これとほぼ垂直に交わる机の傾き!これが、もちろんX点を結ぶ横軸(=小指の傾きにて暗示)とパラレルである。女性の顔の傾きと平行な手前の紅白糸の向きの暗示、鼻筋と平行な右側のテーブルクロスの線、女性の腕のラインと平行な手前のテーブルクロスの傾斜線。指に収斂する放射線の一部とそれぞれ平行な、女性の左右の襟のライン…など、その均整のとれた構図の妙は枚挙にいとまがないほどだ。

 

※構図参照(自作レース編みの女用図解)リンク-リンク先の画像にマウスで触れると図解が出ます

 

ある時は画面の向こうの「内面」が瞬く間に凝縮する永遠となり、またある時はミルクポットから瓶へ、さらにはパン籠へと視線をつなぐあの微細なディテールの永遠に「停止した時間」となって、その静謐さは結晶化する。静物をめぐる、無数の点描や、その焦点より手前にあるものたちの帯びる輪郭のぼやけた線描とともに。(それらはのちの印象派以降の手法をすでに内在する)

いずれにせよ我々の視線が突入する、その閉じた空間=「場」の密閉性、また隠蔽性とは、フェルメールの場合、しばしば緻密に計算された構図とも、切っても切り離せないのであり、その妙を知ったとき、この驚きはまた殆ど得心となるのであるが、とまれ、フェルメールとは、われわれ鑑賞者という闖入者に、あくまでその気配を隠蔽したままその空間に参与できるという、この画家自身と同等の極秘の特権を与えてくれた、おそらく絵画至上最初の画家であろう。

 

【注視2――闖入者の視線のすべり//カフカ(「城」)】

 

測量士K…他所者としてとしての(村からすれば)野心的な闖入者。またつねに敗者として存在しつづける。

「城」の中にはこんな記述がある。

Kは城を眺めていると、安らかにそこにすわり、ただぼんやりと前方を見ているだれかを、自分が観察しているような気がよくしてくるのだった。この男(※城の擬人化)はもの思いにふけって、そのためにすべてのものから孤立していたりするのではなく、自由で平然としており、自分ひとりしかいないし、だれも自分を見てはいないのだ、といった様子をしている。ところがやはりこの男は、自分がKに見られていることに、気がつかないではいられない。だがそれはこの男の落ち着きをわずかたりともそこなうことがないのだ。そして事実――それがことの原因なのか、それとも結果なのかわからなかったが――観察しているこちらの視線は、つかまりどころを得られずにすべり落ちていってしまう。

――そんな存在のようにみえるのだと。

つまりここでは、他所者(闖入者)のほうが一方的に無力である。そもそも存在論的に、あちらとこちら(彼岸と此岸)を厳密に分けることは出来ないが――なぜならそれは互いを回り込むからであろう――あえてそう呼ぶとすれば、あちらがこちらに対して何の影響も及ぼすことが出来ない。内部は勿論外から「見られる」余地を残している存在な点に関していえば不完全で、その世界は閉じられてはいない。にもかかわらず外からの志向性に対し、内なる世界は不動なままだ――カフカ自身の言い方を借りれば、一瞥をよこすくらい――。むしろその超自然性ゆえに外(闖入者)のがわが面くらい、視線のすべりを起こしてしまう。外部に影響を与えることも互いに影響することもない。とそれは、闖入者のがわにしてみれば、受容のための空隙が、何処かにきっとあるはずにもかかわらず、永遠に中に入れてはもらえぬ、自分は他所ものなまま受け容れられずに、永遠の巡礼を余儀なくされるということになる。

任命を受けつつも、半ば確信犯的闖入者自身に絡みつく、無辺の外部。傍らを離れることなく何処までも付き沿われるのを感じ、あきらかに〈このもの〉を巡っているのだということを知っていながら、それ自身へはけして近づくことの出来ぬ、あまりに馴染みぶかい存在、異邦人であることを余儀なくされつづける。

この終わりなき物語全体が、Kの迂遠な非-到達としての異邦者・闖入者としての奇異性と、延々たるはぐらかしの刑を描出テーマとしており、超越的なものへむかっての、その隙間への執拗な投企と挫折の連続体が物語られているのであるが、上述の一文によって城への受け容れられなさと力関係を、如実に典型的に、物語っている。

これを逆に言えばおおきな主体、つまり本来欠損としての招き入れへの徴を帯びるはずの「城」のがわのほうは、その他者侵犯を悠然と拒み続け、また拒み続けても己自身を何ら失効しない、殆ど無時間性に近い特権を帯びる存在として描かれている、ということでもある(Kの絶望的に長大なる時間性とは逆に)。

不条理な受動性、また不可逆性。城は、無表情に、殆ど事務的な様相すら帯び乍ら、或いは精妙に目に見えぬ形をとりながら、じつは厳然たる支配秩序として個々の精神領域に浸透することによりその思考や感情をたくみに操りその権能を行使し、かくてこの不正を着々と制度化(心情的には圧迫しつつ気化)する。それでいながら実は特権的地位の行使を、城の何らかの役職に就く人間らは、下層(村の住人)に対して行っていく。(ところがこの位階構造に於て奇妙なことには、この村の秩序の上層部は上層部で――つまり「城」の何らかの役職に就く者たちなのであるが――、そのさらに上層より降り来る命令について、自分たちはもっぱら迂遠な手続きを以てこれを通告するのみ、秩序の媒介者伝達者にすぎぬとの、非-主体・被-権能者としての、きわめて不透明な自己認識を抱いている。)そうした気の遠くなるような矛盾を含め、カフカはすぐれて暗示的に描いてみせているし、主人公Kの空虚、底深い不安と怒り、また自己の存在根拠へのあくなき関心、正義感から来る挑発心と滑稽なほど忍耐強い挑戦への動機といったものは、そのおおきな主体の抱える堂々たる矛盾の途方もなさゆえにこそ一層かきたてられるものとも言えそうだ。

 

【注視3――見渡し-見られ-取り込まれる//ヴェラスケス】

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

さて、次にヴェラスケス作:ラス・メニーナスであるが、この場合、幾つかの闖入者に出会うことができる。画面の中の闖入者は勿論だが、鑑賞者という闖入者を含めて!である。(フェルメールが、闖入者としてのわれわれ鑑賞者を絵画空間の中へと巧みに招き入れつつもその存在の気配を画中の登場人物たちに隠しておいてくれたのとは対象的である。)

  1. 闖入者その1:喚起体:傍観者としての彼岸の紳士
  2. 闖入者その2:鑑賞者自身(1と連動して)
  3. 闖入者その3:喚起体:鏡に映る国王夫妻
  4. 闖入者その4:鑑賞者自身(3と連動して)

ヴェラスケスは、おおざっぱに言って遠くの画面中央をほぼ2分割している。そして双方に意味の位相のやや異なる闖入者を、配置している。

ひとつは分割された向かって右側の、空間一つぶん奥に配置された実物であるところの傍観者である、やや素描に近い紳士像(ホセと言われるらしい)。階段をのぼりかけてふと足を止めたという風情で、かれはまったく無謀備かつ殆ど不躾に、傍観者として彼岸にいながらにして自分もこの絵画の中の構成人物の中に絡め取られているのも知らぬまま絵画空間に参加している恰好なのだが、その無防備さに於いて、たしかにこの空間の中では傑出している。その存在の在りようが他者の視線の影響を受けぬという点では(彼岸にあることのつよさ)。

しかし他方彼には彼岸にあることの弱さもつきまとう。というのは彼岸であるがゆえに、その内側の絵画空間自身に関しては、彼は何ら影響を及ぼすことが出来ない。内側の人物たちは、メイドもマルガリタ王女も、ヴェラスケスも(但し、<この画>を描いたヴェラスケスではなく、絵画空間の<中に>登場しているヴェラスケス=分身のほうだが)、みな彼に気づくことがないため、絵画空間の中へと永遠に招待されなく、(絵画空間の中での意味役割としては)けして呼び込まれない――謂わば政治的にいえば、批判と中立を訴えようとも状況そのものを変えることのない万年野党のような立場ではある。

そうした点に於ても彼の立場の意味は、我々鑑賞者とほぼ同一である(螺旋のひと回りぶん、違うが)。けれども、そう言う彼も、否、そのことを以てして、私たち鑑賞者との間に、或る種の交換作用を果たしうる重要な位置にいる(勿論それがもとより、重要な画面を2分割してまで彼を登場させたヴェラスケスの意図なのだけれども)。つまり彼=紳士はこの、自分を含まない内側の絵画空間の、互いに外にいるということ(ポジシオンの示唆)を以て、むしろ私たち鑑賞者と間で、不意の闖入者としての、また他所者としての<立場>の共有、そして交換をするのだ。

もうひとつ彼に関して注目すべき点は、彼の視線とその意味するところである。紳士の視線の先には、画中のヴェラスケスが対面している巨大なカンバスがあって、やや斜めを向いて置かれている。つまり紳士は自分の手前の絵画空間(orそのうちの誰か)をというよりは、カンバスの中身、そこに描かれているものを、じかに気にしている徴としての唯一の存在である。彼の気にしている、それとは何でありどういう世界なのか。それはともかく、彼の単純な視線(身体の向き)、について考えてみる。

この彼岸の紳士の視線が単純=端的、というのは、他の登場人物たちのように、ちょうど私たち鑑賞者の「方角」を(鑑賞者を、とは言って置かぬことにする)何とはなしに気づかう視線――もっと言えば画面中央マルガリタ王女の周りを取り巻く侍女達を典型とする、<虚勢された相貌たち>の一様に帯びる、遠慮がちにかしづくような、ヴェールを纏うような不透明さで目配りする・乃至は(Xを)視野に入れている、といった一群の視線――のニュアンスとは、真逆な意味を呈している、ということを意味する。素描に近い、云ってみれば暗号に過ぎぬともいわんばかりの筆致で描かれた彼は、気配りなく、ひたすら画中の<カンバスを>注視する。

この強さは、ひとつには絵画空間に於けるこの紳士の立場の問題がある。つまり描かれたもののなかでは、彼は唯一かろうじて不可視的存在である――かろうじて、というのは、唯一この画の<モデルとなった人物>の立ち位置からは彼は不可視ではないからである。が、ポーズをとりつづけるそのモデルは、それ=闖入と注視 を禁じる自由も、そう身振りで示す自由も奪われている――。ついでに言うと、(※ディテール画をみれば解るが)、逆にこの紳士以外のすべての登場人物(此岸)には、彼ほど、カンバスそのものに関心を寄せているものも、見入っているものもいない。むしろ微妙な目配りもしくは気配りを以て、*X=鑑賞者の立ち位置とその身分への関心を、保持しつづけているという素振りである。

*…これは勿論、画中のヴェラスケスに於ても或る程度当て嵌まる。勿論画家であるがゆえ、この立ち位置に立つ人物をその身分の差を超えた画家としての視線で観ている、という他の人物たちとは唯一違った特権的表情も見事に含まれているようだが。そうではあるにしてもこの、画中のヴェラスケスの注視線は、カンバスと、このモデルの立ち位置に居る人物との両方を微妙に跨いでいるのがわかる。画家としては当たり前な仕草なのではあるが。※この辺りのニュアンスについてもディテール画を参照)

彼岸の紳士の単純-端的な視線、これは、ちょうど画中のヴェラスケス前の大カンバスに突き当たり、カンバスの角度を経由してこちら側(鑑賞者の立ち位置)に屈折してくる。謂わば、くの字に曲がるベクトルである。このことこそが、これを逆に辿る、カンバスに描かれた世界はどんなものなのか、についての私たちの興味をそそるのだ。

さて、分割された画面の中にある闖入者のもうひとつだが、われわれの視線は、これまた殆ど素描に近く示されている遠景の二人の人物にたどりつく。これはフェリペ2世とその妻、国王夫妻像である。それは一見、奥の壁面に掛けられている額縁に入った他の数々の絵画たちと同じ、額縁の中の絵画のように見えるのだが、よく見ると不自然に曇った光の反射の様子から、それが絵画でなく鏡であることをやや遅着的に知らされる、という具合)つまりあれは**国王夫妻が映し出されている<鏡像>である。

**…主にこの点に関してはフコー自身と、蓮見重彦氏によるフコーの著名な紹介本(「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」。これが、志向的侵犯を巡る現象学についての紹介でなく、構造主義者フコーとしての紹介であることが幾分か不思議な感も与えるが。がとにかくこれはフコーの、非常に優れた考察視点と言説であることに間違いない。)によってラス・メニーナスの鑑賞仕方として既に詳しく述べられているし、私自身は知識不足であるがその他すでに優れた有名な解説があるはずと思うのでおおかたは省くが。

すると私たち鑑賞者は、この映し出されている鏡像のもとは何処にあるかを顧みざるをえない。とまさしく、それはわれわれ鑑賞者の立ち位置に他ならないが、その途端、この絵画空間にとって(無条件に)不可視的存在であったはずのわれわれ鑑賞者は、いきなり国王夫妻という形姿を纏わされる、受肉させられるのである。われわれが不用意にも、この絵画の前に立ち、また<立ち会って>しまった、その時間の経過を含めて。つまりここでは、私たち鑑賞者という匿名の闖入者は、今度は(状況に対する)<立場>の交換ではなく、<身体>の交換という仕方で、状況に出会わされることになる=姿をとる、ということ。

したがって私たちは、このラス・メニーナスという絵画空間に於いては、――立場の交換作用と身体の交換作用とを分けて考えれば、――じつに少なくとも4つの闖入者に、出会われることになる。

結局のところ、この絵画空間において、もっとも自由を勝ち取っているのは誰あろう、画家ヴェラスケス自身ということになりはしないだろうか。彼の意味とは、或る面で彼岸にいる紳士や、鑑賞者である部外者な我々よりも、勝利者的である。なぜなら紳士もわれわれ鑑賞者も、謂わば彼岸に居ることにより、この絵画空間(状況)に何ら影響を与えることはできない。むしろ絡め取られる側に回ってしまう。視野に入っていなかったはずの外部空間に居る効果的人物を描き入れたり、この絵画より何世紀か後になって生まれここに出会われた私たちの存在さえ巻き込みながら<見事に絡め取っている>のは、画家ヴェラスケスなのである。その意図は彼自身であり続けながら同時に彼を超えていく。

つまりこの絵画空間のただ中に、自己自身を分身として置きながら、否、置いたまま、専ら描くという行為を以て――つまり幾つかの鏡(性)という媒介を取り込みつつ、また人や視線、ものの向きといった喚起体を巧みに利用しつつ――登場人物たちの身分や、われわれ部外者たちの立場と視座をも巻き込みながら、その状況全体を超え出ている。まさしく「世界のただ中にあり続けながら、その世界を超え出る」のである。

被-構成者でありつつその己を以て構成する。被-構成者である己を以て、その己自身とともにすべてを描くこと。構成者相互にとっての、鏡の問題。これが、全ての人間の意識に透徹されること。内にありつつ外にあるために、メタファとしての鏡を持ち、用いること、これがわれわれひとりひとりにつねに保障されること。蛇足だがこれらは、芸術や哲学上の問題のみならず、今日においては政治や社会全体のMEDIA=媒介とそのありようの問題、われわれ個々の鏡の持ち方の問題としても大きくなっていると言えるだろう。媒介(としての可能性と自律性)を個々が持つ、そのことによりメディアとして働くような気がするのだが、現今ではしばしばマス...と名乗るそれによって、今日、私たちひとり々のそれが働かんとする傾向性と自律性を奪われていないだろうか。するとイデオロギーが隠され見えなくなってしまうであろうことを懸念する。

この記事のつづきへ(追記分)

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

セガンティーニと分割描法

2004年にHPに記載したものを転載
先日土曜日早朝のTV美術番組が、セガンティーニのスイスアルプス風景画と分割描法について触れていた。恥ずかしながらこれまでセガンティーニのごく一部の作品―(象徴画・世紀末画展などで目にした、その路線の彼の絵画ごく数点)しか知らずに居り、そうした方面自体にさして関心の無かった私には、長いこと取り立てて向き合う画家でなかったのだけれども、先日ようやくTVの画面を通してではあるが幾つもの彼の作品――若い頃独学で画を学んでいた時期の、幾らかバルビゾン派〜写実・ロマン派めいた仄暗い色調の美しい作品から、アルプスの強烈な光線と自然豊かな風景を描写した作品――に触れ、驚かされた。

セガンティーニの細密な自然描写法、分割描法は、点描というよりは線描である。比較すると興味深いが、スーラやシニャックの点描画法が描き出したものは、「光」景であり、つまり光のトーンそのものであった気がする。 たとえばその舞台が公園や水辺など戸外であれば、その描かれた対象および主題は、人物でもなく風景ですらなくむしろ「戸外の光」そのものであり、分けても紫外線(をはじめとする光線)を、――見せるために風景という媒介を通し――描出したのだとでもいえる程である。 またホールやアトリエなど室内の光景であれば、主役はこれまた人物たちというよりは、彼らを照らし出す照明であるとともに陰影である。
何れにしろ彼らの手法に於ては、風景そのもの、殊に人物たちは、光の背後に後退し薄められた形で存在し、どれもとってつけたように――まるで立像か殆ど物体さながらに――配置されている。それは謂わば照らすものとその作り出す影とを抽出するために置かれている、といった恰好である。けして彼ら自身がモデルでもなく主題でもない。当然ながら、光を語るための手段なのである。人物たちはどれも、自然な所作を停止し、その挙動の前後は、ちょうど残響をそぎ落とされたホールでの楽器の音のように、きれいさっぱりはぶかれている。しなう腕や、服の袖のしわまでもが、時間と所作の流れの経過を物語るよりは、むしろ文様のようにその場と時に滞っている。 また雲の行方や木漏れ日が刻々織りなしていたであろう翳の揺らぎさえ、その余韻をものがたる事を差し止められている。こうした非連続性――時間と動勢とを犠牲にすること――により、任意に切り取られたほんの「一刻」が有した光の真実を、彼らの或る種科学的な眼は、カンバスにしっかりと保持させたのだ。
けれどもこの払った犠牲、自然の連続性、というものを、光の描出の真実と両立させる方法はなかったのだろうか、と思う時、それ以前の印象派の手法のほうに、やはり惹かれてしまうのをどう仕様もなかった。
だがセガンティーニの線描によって描き出されたものは、光と同時にそれを受け浴びて「生きている」地上のものたち、屹立する山々、流れる雲、また輝く水を飲み、山羊や牛を牽いて生きるひとびと自身でもあるのだ。 彼は描き出すべき二つの主題、光という生の「媒介者」とこれを享受し生きる者たち、「受肉者」とを、しっかりと同居させた。

人を圧倒するほどの広大な風景、創造行為以前に、もうそれ自身いやというほどの《光》に充たされ完結的に存在する山岳風景というものを、多くの画家はあえてカンバスに描き出してこなかった。主に室内から再出発した近代絵画の歴史自身もまた、そのように進行して来なかった。広大無辺な風景は、それ自体完成されており、強烈な光を受けつつもみづから放ってなによりも充実し、圧倒的にそこに存在している。 この強烈さは、写真として切り取ることは或る意味容易でも、これと差し向かい、丹念に描き上げていくのに適当な対象では、おそらくなかっただろう。
だがセガンティーニはこの孤独な作業を地道に遂げていた。 線描によると、点描とは違い、「自然」と「生命」は、光という“媒体”に負けることなくカンバスの中にそれ自身の姿を立たせやすい というのは、面白い。 スイスアルプスの地を覆う草たち、それらは、文字通り、輝く「線」で埋めて行かれるべきであろうというのは考え易い。それはたしかに、点で埋められるより一層自然なことだろう。光は、点としてよりむしろこれを受けて浴びる草みづからの姿を以て物体としての細密な線を、実際私たちに印象づける。 けれどもセガンティーニは、屹立する遠景の山脈の描出にも、この線描という手法を延長させた。それにより、緑草に覆われた山面は必然的にナチュラルな風貌をかもす。 が、露出する岩肌のがわにも、線はじつは或る種象徴的に、存在している。肉眼というよりは、それはむしろ望遠レンズ、あるいは顕微鏡のトリックを部分的に絡めたような効果といっていいかも知れない。
岩肌のみならず彼は面を以て反射するもの――雪や青空――にも分割描法をあてはめる。がそれはたしかに奏功している。 じっと相対していると目の前が暗くなりそうなほどの、あのスイス山岳の強烈な紫外線は、細密な線として描かれても尚――否、線として描かれるからこそ(?)――そのデリケートでたくましく圧倒的なまばゆさを刻み、またこれをみづからの身体に刻ませ、浴びる地上のものたちを生かす。 ここでは光も《存在》であり、光を享受するものたちも同等に、“背後の時間のながれとともに”、存在している。
| Rei八ヶ岳高原2 | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ロベルト・シューマン-1(オマージュと付記、クライスレリアーナ)

2002〜3年にHPに記載したものを転載;冒頭のみ、2010.04.23にTwitterに記載したものを転載(一部補記、2010.08.16/08.20)
(吉田秀和氏)(シューマンの音楽)ショパンなどと比べればその和声はごたごたと錯綜していて、整理されていないようなところ...

この錯綜は、彼の魂そのものに由来しているとともに、――これと不可分であるが――理路整然としたバッハ音楽の構造と本質を引きずったかれの音楽そのものの構造から来ていることを思うとき、バッハとは何であるか、また彼自身に於てベートーヴェンを経由した(※彼の場合、それと同時にシューベルトも経由してはいるが)バッハ音楽とは何であるかといぶかしむ。それは (「未だ」) 整理されて「いない」、というニュアンスを越える。

(※…Twitterのツイートでは削除した覚えがあるが、元のHPの記載(2002/12/20)のまま、削らずに載せておく。付記10/09/29)

音楽美的な位相では「整理されて」いないかもしれぬが、思考や魂の質においては逆である。見えている人間の表現のほうが、見えていない人間の整理された表現より、これをふたたび整理するのに要する分、はるかに圧倒的な時間と精神的負担を要するのである。

錯綜とは、知的で論理的であることと相反するのではなく、知的で論理的で、良心的で反省的であるからこそ見えてくる世界、見えてしまっている世界、またそうした思考や精神の位相に付帯する状況であり状態であることを、つよく思う。

理知的で批判精神にみちてあることと、幻想的で飛翔的で錯綜する、ということがひとつの魂であること、またありうること。そのどちらかがBachの合理主義を必要とした、と考えるのも――理知性の側がBach的重厚さと理路整然さを求めた、と語るのも、錯綜する魂がその調停のためにこれを欲した、と語るのも、無理がある。 なぜならそれは‘ひとつの’魂であり、従ってBach的なものともひとつだからである。

------

経験とは時間である。時間なしに経験できるのは神のみだ。つまり私たちは身体であるということであるが、そうした身体的存在にとって、世界という経験が現勢と潜勢の区別の、また現在に於ける過去と未来の区分のもとより付きにくく、その輪郭も曖昧ものなのであってみれば――すなわちそれ(まったき明証性も可視性もあらかじめ保証されていないということ)こそが主体と世界との間の現実なのであってみれば――、シューマンがメロディラインをけして露骨に描かずに交錯する旋律と旋律を跨いだある暗示性のもとに訝しげに辿らせたのはある意味で内面のリアリズムとさえいえるし、また彼の丹念にまたある意味執拗に追う時間が、<錯綜>するのは――つまり<錯綜>を、謂わば 継起的→転倒的(=遡行的)→再-継起的、時間の再編作業というなら――それはごく至当と言えるのだ。

シューマンの音楽、とりわけクライスレリアーナは、現前するとは何か、をよく物語る。音楽にゆきわたる、この<ずれ>。音列の錯綜(時には対位法の痕跡をそのまま残したような複雑な分散和音)ももちろんだが、このリズムのずれは、全き対象として自分自身を、他者を把捉できない存在、すなわち身体的存在特有の、時間感覚であり、匿名世界の中から主体(自己・他者)が――その意味とともに露わになるまでの延着作用であるとともに、その延着を待機しつづけ同時にこの暗示性の秩序に参与し働きかけていった、また働きかけられていたはずの、われわれという時間的存在の性質である。(付記:2010,08,16)

------

クライスレリアーナのすべてがずれの芸術ではあるが、ことに最終8(Vivace a Scherzando)。この音楽に映しだされた、見事なまでの現前というものの暗喩性。そしてその運動のさなかにあって、このたどたどしく淡く錯綜する右手は「これまでのすべての」主題であったかにみえる出現しつつある意味であろう。が、その描き方はいわば<素描>――それはフロレスタンの跳梁として暗躍的旋律とリズムによって現される。がそれは<背景にうごめく>、出来事を先取りする素描である――にすぎない。にもかかわらず、このppによる素描のがわが、遅れつつ到来するもの、すなわち出来事としての受肉作用のがわ(左手)より、シューマンにとって「現在」の照準であるかのようだ。それでいて、ずれる左手の同音連打(=出来事の到来、またそのリアライズ;「覚」化)は、素描より“微妙な”遅れをとる楔打鍵を以てあまりに深く尖鋭的に現されることにより、意味の<重心>はこちらにかかるかのようでもある…(反省/把持)。この旋律はだから、たんに錯綜的であるばかりでなく、二重性を帯びる。

ところで、その出来事とは無論、偶有性としてのそれではない。物語のフィナーレにふさわしく、必然的なそれなのだ。まさしく到来、また意味の受肉である。なぜなら主体、及び*<ほぼ>同じように立ち会う他者の主体が、それまでたえずその到来を望み/半ば状況へと返し、編み込んできたことだから。つまりここにはそれまでの暗示性の秩序と、主体同士の<向き>の問題がある。つまりその主体(登場人物)たちはそれまで十分に待機的であったのだ。ずれの芸術とは、――それが時間的芸術であればある程――向きの問題と不可分だ。つまり、8にて到来する打鍵の出来事とは“真実としての”出来事(受肉)である。だからこの<到来>は、或る(遡及の)刻印を帯びているのでなければならないし、実際この音楽の場合、その刻印こそが――ホロヴィッツの演奏などを代表格とする――あの穿坑的な、延着する打鍵なのである…。

*<ほぼ>……(この主体に対する他者の主体による)侵犯可能性の部分。また不可能性=出会いそこない、の部分を担保する。つまり自己と他者の主体の間には、生きた呼吸=互いの自律性のための隙間があるはずである。これは(己自身の根源的疎外=)ずれの問題とも不可分であろう。

ところでこの音楽は勿論、ハッピーエンドとして理解していいのだろう。というのもこの8に於ては、この音楽全体の本質とは相容れないはずの――つまり自己は、他者はおろか自己自身とも完全には一致・同期しえない(※ナルシシズムの表現=形式としてなら別だが 10/09/29)という、言い換えれば予め他者の可能性を含まされることによって時空を閉じられないという、存在論的本質の問題がある。我々存在には、同一性と、同期性synchronizationの保証というものがあらかじめ奪われているはずであり、またじっさい人間シューマンの抱える根源的違和感・精神的危機の問題も、もとよりここから出発しているはずだからである(※と同時にこのことの、大きな要因になっているかも知れない現実的問題と、それの精神にもたらす亀裂に、この若い時点でのシューマンが十二分に「自覚」的であったかどうかは解らないが)――、死の飛沫すら漂う(何故「死」の飛沫と感じるのかは、後になって論理的にも理解できた。これ後述)ほの暗さの中にも幸福そうなほほえみを浮かべる、あのたゆたうユニゾンが登場する(27〜49小節)。これは、背景となった文学的には色々なモチーフと展開があろうが、その更に背後にただよう音楽上の意味性としては、勿論シューマン自身とクララの合一(理想郷)と見てよいであろう(その理想郷に死の飛沫がただよい跋扈するとは、いかにも彼のあまりに秀でた潜在意識のなせるわざであるともいえるし、皮肉なことにシューマン自身の人生の縮図とさえ思われるが)。勿論、このユニゾンに<最低限の>非-同期性(アルペジオ)を与えることをシューマンは忘れていない。このもっとも高度に純粋なロマンティシズムの処理には、祈りをささげたい。(付記:2010,08,20/12,21)

 

==============

2003年01月14日 (火)

シューマンの半音階性の強い音楽は、ひとつの和音のなかに主和音と属和音の同時的共鳴(ペダル使用で混濁しないよう、しかし前の残響を消さないよううまく余韻として融合させ、響かせる必要がある)がある。また、先に少し触れたようにいつ転調するとも解らぬ危うげな進行にみちており、事実調性記号の表記としてまで表わされなくとも、実際には密かに幾度も転調らしきをとげている、或いは転調が伏在している箇所、というのが多い。これと全く同じ現象はバッハの平均律の中でも遭遇したりする…。

尤も半音階法というのはおよそそのような性質を有しやすいのであって、その性質の色濃いシューマン以前の音楽と音楽家は、それだからこそ後世前衛音楽にも影響を与えたのだろうし、それらの音楽と直かに通じるのであろう。 ブラームスも晩年の間奏曲ではかなり半音階を多様していたし――もっともブラームスの間奏曲の多くはシューマンの音列を鏡状に映した、人生の返歌のようなものではないだろうか――、ベートーヴェンでは、後期弦楽四重奏などでは、分けても14番に於て全体にその色が著しくつよく、また13番大フーガなども無調音楽に無限に近い。バッハの音楽もまた、特に後期の大作に於てその性質は強まる。マタイ受難曲でも、例えばコーラス1&2によりかけ合いで叫ばれるLass ihn kreuzigenの短いフレーズの中や、69番アルト-レシタティヴォを導入するエヴァンゲリスト(テノール68)のたった3小節分の朗詠――die mit ihm ge kreutiget wurden――、この中に意表をつくような潜伏的転調が見事に織り込まれている。勿論つづくオリエンタルなアルト-レシタティヴォ(Gorgotha)そのものの変幻性も、眼を見張るものがある。

平均律クラヴィーアでは殊に第一巻の著名な短調作品、4番,8番などが端的で、つねに可変性にみちているのが解りやすいかも知れない。 例えば8番などでは、典型的には60小節〜marcatoに入っていく箇所、また64〜70小節への次のmarcato部分であろう。 曲想としては純古典的で理解しやすい5番フーガなどでさえ、調性をわかりやすくするための伴奏和音を自分で添え木のように細かく付けて追ってみると、実に微細に調性が動く、ないし動く「兆し」を孕む和音を挿入しつつ精妙な陰影をつけることに成功しているのがわかる。こうした例な一部にすぎないが…。 バッハとシューマンというのはこうした調性と(バッハの曲のフレーズと和声を<和音>に変換して鑑みた場合)和音の変幻性という点でも、互いに音楽的特性としてのひびきの要素が非常に近しいと想える。

さてクライスレリアーナであるが、対位法的性質とともに、このような和声と和音の構造もできるだけ気付いたことを記して行かなくてはならない、、、(i〜i)
(グランドソナタなどにも同様のことが当てはまると理解して戴くものとして)

 

2003年01月15日 (水)

<クライスレリアーナ>

複雑で立体的な構成上、また音楽的質等の点で非常にバッハ的であると同時に、(中期)ベートーヴェン色もかなり強い作品であるようにあらためて思う。

※昨日記した、転調のあまりに頻繁な部分は、シューマンの半音階法の必然的特徴であるから、およその転調のしくみを自分なりに解析し、◇に記した。
尚、注)も自分の思う所を記してみた。

  1. 第1曲:A(ニ短調)-B(変ロ長調)-A(ニ短調)
  2. 第2曲:A(変ロ長調)-B(ヘ長調-間奏曲1)-A(変ロ長調)-C(ト短調-間奏曲2)-A(変ロ長調)

    ◇C…ト短調-間奏曲2:ト短調-ニ短調-嬰ヘ長調(=変ト長調?笑)-変ロ長調*piu lento という変化。
    注)尚この*piu lentoが後、(4)・6・8番主題となる。(……と思う(笑))
    このように楽章の挿入部分や途中の展開部分が後の楽章の主題への伏線になることが多いようである。弁証法的である(デリダなどがこの言葉を以て捉える「ヘーゲル的」それではなく、<より細心で周到な>「弁証法」的)。

  3. 第3曲:A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)

    注)B=変ロ長調は、旋律の進行、付点リズムともに第8曲のテーマに通じる、一種の前口上風変奏曲となっている…と思われる

  4. 第4曲:A(変ロ長調)-B(ト短調)-A(変ロ長調)
  5. 第5曲:A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)
  6. 第6曲:A(変ロ長調)-B(ハ短調*)-A(変ロ長調)-C(変ロ長調支配)-A(変ロ長調)

    ◇C:変ロ長調支配…変ロ長調〜ハ長調〜変イ長調*un poco piu mosso/謝肉祭フィナレ?調

  7. 第7曲:A(ハ短調)-B(ト短調)-A(ハ短調)-C(ヘ短調支配)-B(ハ短調=移調)-A'(ハ短調+変ロ長調poco meno mosso部)

    ◇C:ヘ短調支配…ヘ短調〜ト短調〜ハ短調*non legato部
    とりわけベートーヴェン的パッショナートのつよい楽章と思われる(殊にnon legato部分)
    注)A'…poco meno mosso部:2番主題,*3番B,4番主題,5番B,6番主題らの緩徐長調部分と或る種の関係性を保つ→*3番Bが‘ト短調化’した形での8番開始(A)へと導入する

  8. 第8曲:A(ト短調)-B(変ホ長調支配)-A(ト短調)-C(ニ短調支配)-A(ハ短調-ト短調)

    ◇B:変ホ長調支配…変ホ長調〜(ニ長調;-ト長調〜イ長調)〜変ホ長調〜変ロ長調〜ト長調 →A(ハ短調A〜ト短調A)へ。
    ◇C:ニ短調支配…ニ短調〜ハ短調(ハ長調含)〜ト短調〜イ短調〜ホ短調〜イ短調〜ト短調 →A(ハ短調A〜ト短調A)へ。


    注)尚、第8曲に特徴的である絶妙なシンコペによる付点リズムであるが、恋愛感情告白の曲にしては知的(省察的・批判的)で、不気味なほどの雰囲気を醸す。これは調性的には、つねに転調に於る両義性を持ち合わせた、いわば鍵となる音であることを発見したように思う。この簡潔に選ばれたる音を故意に残し、次の調へとめくるめくトリック的転回を果たしている。

    注2)また、C部は、ベートーヴェン交響曲第5番「運命」のまさにピアノ変奏曲版という感じで付点を除けば不思議なほど一致する。(後述する<霊-愛>が「運命」によって遮断される、という訳であろう…。12/06/28)これはシューマンの、殆ど無自覚から出たものか、充分に自覚的な発想か、その意図は私には計りかねる…(笑)

クライスレリアーナ第8曲部分。ベートーヴェン交響曲第5番「運命」と似ている箇所
参考1:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ、第8変奏、74〜75小節

参考2:→譜例、ベートーヴェン交響曲第5番冒頭部(別窓リンク)

 

2003年01月16日 (木)〜2003年01月17日 (金)

<クライスレリアーナ>続

第1曲

A-B-A

A…2/4拍子:1小節当り<16分の3連音符×4>でつながっているが、各3連音符の真ん中がつねに最も低い音である。もしこれらの各最低音のみを選び独立させて、1つの声部として繋げ、残りの2つの16分音符を別の声部として繋いで行くと、

a:イロハホ-イロニヘ-♯ロ ♯ハホト-♭ニ♭ホイハ… b:ホトヘイト ♭ロイハ… c:イニホヘト ♯トイ… =(左伴奏部)

以上の3声部による、どれもバッハ的でうつくしい古典的な諸旋律のからみが出来上がる。 b(内声部)とc(通奏低音?)だけで作られる音楽はベートーヴェン風に近いが、aが多分に半音階進行的――といっても勿論シューマンらしく飛翔的ではあるが――なため、シューマン独特に聞こえる。

B…これもリズム上Aを引き継いでおり、 旋律的には第2曲A(主題)B(間奏曲)、第3曲B、第4曲A、第6曲A、第7曲A'peco mono mosso部、第8曲Aなどに、はやくも暗示的に通じる。また リズム的には第2曲C(間奏曲)、第3曲A、第5曲A、第7曲A、第8B曲などへの伏線になっていると思われる。

 

第2曲

A-B-A-C-A

A…この主題は、かれ自身の交響曲第2番4楽章の終盤(到達点)と同じ原体を思わせる(とくに5:50周辺)。それはつまり、前田昭雄氏など複数の研究者が交響曲2番(幻想曲ハ長調op17でも同様)に於てこの由来を指摘するように、ベートーヴェン「遙かなる恋人に寄せて」を彷彿させるということである(11/01/14)。→###(但、最後尾に付記。ベートーヴェン「幽霊」op70-1他について 12/06/27)

と同時に(後述するが)殊に8との濃密な関係が、見いだせる。(シューベルト「死と乙女」。シューマン自身の交響曲第1番「春」にも反映)→####(同じく、但、最後尾に付記。ベートーヴェン「幽霊」op70-1他について 12/06/27)

そしてこのパッセージのしめくくりは、弱起1拍目に当たる印象的なsfp指定の繰り返し和音。ペダル記号が随所に記されており、殊にこの和音部分には精妙さが要求される。これらの和音は前旋律の残響として巧みに漂わせる主和音(♭ロニヘ)と新たに響かせる下属和音(イハ(♭ホ)ヘ)との共鳴により、不協和音ぎりぎりの両義的余韻を醸し出さなくてはならない。 この冒頭5小節のフレーズ自身は必ずしも半音階法ではないが、これに近い幻想的効果を要求される。次の8小節目冒頭和音ハ♯ニ_(ニ) ♭ロハ、9小節目冒頭ヘロ ♯トハ、これらはとりわけ不思議な余韻を持つ。11〜14小節にもこうした不思議な和音は低音の装飾音符とともに重厚に打たれる。古典音楽でいえばこれらの冒頭鳴らされる低い装飾音符は通奏低音の役割であり、これに対し高音部も♭ロ音で続けざまに鳴らされる。主旋律は右と左の一部同士で交錯する内声部であり、これのみを抽出してもバッハ的雰囲気である。 18小節後半からはまた、通奏低音付きで非常にコラール的な、上昇/下降同時進行の対位法3度差並行との下降と、これらに対し転回形をとる上昇声部(右手最上旋律)が用いられる。このフレージングのまとめとなる22小節ritard.部の和声はまたバッハ的交錯をみせる3声部で絶妙である。

B…intermezzo1:準_対位法的
左手低声部のバッハ的動きと右手内声部がうつくしい交錯をなしカノン風な単純フーガのようでほぼ対位法の関係になる

C…intermezzo2:対位法的
平均律第1巻1番prel.を短調化したような動きの内声部を主旋律に、右上声部と左低声部(octv.和音)が ♭ホニハ/イト ♯ヘと、5度差のフーガがカノン形式的にズラしつつとられている。尚この左低音部はoctv.で行われるため、その重厚さは進行するフレーズ自体とともにベートーヴェン的である。 5小節目の後半から、転回形(2度ではなく3度ずつ跳躍する転回形)に準じるカノン式となる。 10小節目からは濃厚な半音階法旋律となり、平均律prel.的内声部も半音階的、右上声部と、転回形である左低声部のフレーズ進行も半音ずつ上昇乃至下降する。が、平均律prel的内声部の動きの効果のため、フレーズ全体としては上下蛇行しつつ上昇・下向する形となっている。

piu lento部…この存在自身が4番A(主題,ことに2小節後半〜4小節)、6番A(主題)の幻想性に対する潜勢要因となっている。

きわめて半音階法濃厚。6度差の単純フーガ(並行)とこれの転回形の交錯する3重フーガ。 9小節目最後部からは左の上下2声部がイ音を軸に水に映した絶妙な転回形で交錯し、そのうちの上声部は右内声部(主旋律)と半6度の並行。 その後Aのテーマが左右10度差で織りなされ、転調してふたたび6度差で織りなされるが、このふとした夢幻的転調は、基本的にはイホ ♭ニ、の1和音だけで瞬時に!なされてしまっている。(変ト長調→変ロ長調)

 

第3曲

A-B-A

Aは、ややベートーヴェン的フレーズである。 が、ベートーヴェンであれば、3連音符の中間音を、むしろ3連音符から毎度はみ出す次8分音符(スタカート付)の方へ持っていくだろう。その方が音は連続的であり、より古典的、正統的である。だがシューマンは殆ど意表をつく音列のほうを選ぶ。この奇妙な配置の性癖が、旋律の上でもシューマンのリズムの有つ<跳梁性>を、活かし,高めている。

ここは、直接的には 第1曲A=ヘ短調 がト短調に転移した形の変奏曲であろうが、弁証法的思考の必然性からいえば、第2曲のIntermezzo1&2を経由していなければ発生してこない楽想のながれである。これもまた、(ともすると挿入部が不意打ちのように介在するのはシューマンならではの奇矯的展開であるにせよ、音楽的分析がたんにそこに留まるだけでは不十分であるばかりか非本質的であるとさえいわねばならない)このクライスレリアナが非常に立体的、螺旋的で有機的な――すなわち(ヘーゲル的意味ではなく逆に)<ベートーヴェン的意味における弁証法的>な――構造のゆえんである…。

3連音符の中間音が、左通奏低音(octv.和音)と並行し通奏的であるが、これを除去した声部をフレージングすると、非常にバッハ的な音列となる。或いはまた、3連音符の第3音をも第2音(=中間音)とともに取り外しても面白い。この場合のほうがベートーヴェン的なものに近い…。

他方Bは、第2曲テーマ(A)をひきずりつつ、既述したようにすでに第8曲テーマ(A)への潜勢的条件をもそなえている。これも弁証法的進行のひとつである。 シューマンの長調(部分)は、長調とはいっても、殆どの場合ひどく短調的気分に浸っている。この点でもバッハに通じるものがあるが、いつでも短調を内包しており、この面でもつねに自己自身が両義性の境域にいる。まともに長調と言い切れそうなのは、第2曲テーマくらいなものであろう。このB冒頭=変ロ長調も、本質的にハ短調への気配を潜ませており、実際、早々に左手第2和音(♭イハ)がこのからくりを端的にものがたっている。尚この和音がoctv.=♭イ♭イでないのは、――#普通ならば選ぶと思うが――、おそらくこれ自身生きた内声部(4声のうち2番目に低い声部)として働いているからであり、上の方の♭イ音を線で採ったこの旋律が4小節から、内声部であるまま交錯的に主旋律となって追従するハニホヘトイロハニホ…の上昇――冒頭テーマ旋律と5度差の単純フーガ――とひとつの旋律になって繋がるからであると思われる…。。それは非常にコラール的である。 尚戻ったAの最後部、piu mosso部は、非常にベートーヴェン(熱情)的である…。この部分も、右手3連音符の中間音を除いた主旋律は、左低音部と対位的(転回形)であり、他方この右中間音のみ独立させると出来る内声部が、左手3連音符の第1音を独立させたものと対位的である(ハンマーは同じ音を打つが、タイミングが1/2小節カノン風にずらされる。=両手は交差する)

 

2003年01月17日 (金)

第4曲

A-B-A

Aは、全体的にはひときわバッハ平均律的な半音階法の精妙さが伏しているが、2度目のA、曲のしめくくりの3和音は非常にベートーヴェン的で重厚な和音である。(A主題全体としては,否Bも含め4全容か?、がシューベルトのD960を想わせなくもない。すべての音を和音にしてみると似たものがあるのではないであろうか。付記10/10/03)

B=piu mosso部は中〜後期ベートーヴェン的である。が、バッハ平均律風でもある。

※こうした古典のコラール的要素を詩情溢れる分散和音風にもつれさせる力量がシューマンならではである。ちなみにシューマン自身としてはこのB Piu mosso部は音型的には同じように夢幻的憂いを帯びたフモレスケを(こちらは長調であるが)去来させるものがある。(※付記10/10/03)
譜例クライスレリアーナNr4-001(Kreisleriana-Nr4 Piu mosso)
参考:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ-4 Piu mosso
譜例フモレスケ冒頭(Humoreske)
参考:↑譜例、シューマン・フモレスケ冒頭

 

Aの諸声部関係はコラール風であり、同時にベートーヴェン中期(悲愴・テンペストの主に緩序楽章)風である。 気分的には第2曲テーマをひきずっている。 2小節目トリル(32分=トヘホヘ-ト)また3小節終トリル(32分=ハロイロ-ハ)は、微細な刻印ではあるが、ここで4曲自身のB―piu mosso は勿論、第5曲の冒頭躍動的16分音符を非常に想起しやすくなるのは驚きである。また第6曲テーマ(A)殊に5小節目、7小節〜の上下向する32分音符、第7曲、殊にC―non regato部―、などを予兆する。と同時に、過ぎた 第1曲のB部分(直接的にはここから発生して来ているかも知れない)、また第2曲テーマ(A)とくに最後部32分音符、などの余韻をひきずっており、発展しつつも反省的である…。これらのトリルが、左手の下降を伴いつつ、旋律としてまとまると(6小節目=トロ ♭イ トロイ)、いよいよクライスレリアナ本体として受肉し、第1曲A展開部(11小節以降,冒頭反復記号以下)の想起、と同時に第6曲と、第8曲の気分に迄見事に通じてくる。

Bの省察的主題は一応長調であるだろうが、やはりまた短調の色彩が濃い。当然第2曲全体(長調的側面としてはAテーマの他、短調的側面ではIntermezzo部分も含)にわたる 反芻であるけれども、同時に第1曲B、平坦化した音列的には、第3曲とも対位的(転回形)であるかも知れない。

 

2003年01月18日 (土)

第5曲

A-B-A

A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)

既術したように、先の第4曲2小節目及3小節終の32分トリルが促す曲想として、第5曲が開始する。 この右旋律は、第1曲Bの左手の動きとも通じるし、同旋律を、16分音符,8分音符,休止符などのリズムを無視して、同じく第1曲の、冒頭主旋律;3連音符×4の函数に入れると、或る種の変奏曲としても意識されるだろう。 5小節目からは非常に対位的であって、フレーズ全体としてはニハロイトヘホニハ;トヘホニハロという2声部の掛け合い(4分音符ひとつ分のズレを保つフーガ)のように聞こえるが、octv.奏法をとっており4声部で成立っている。この際、右-下声部と左-下声部は、シューマンらしいリズムの役割を果たしつつも、この下降旋律(右-上旋律と左-上旋律の掛け合い)の各発起と終始に<つなぎ>の役割を果たしている。つまり、右はニ…ハ/ヘ…ホ/イ…ト,左は ♯ヘト/イロ/ ♯ハニ,という具合。

ところでこの下降旋律自身は、第2曲主題7〜8小節(ヘホニハ_ハロイトヘ)に呼応するし、これを含めた4声部のoctv.規模の交錯としても構造的に準ずるものがある。シューマンらしさのひとつであろう。 同時にここでも左の不気味な跳躍は、第6曲B=unpocomosso部と第8曲の気分を、すでに漂わす。

√2(15小節)からは、第1曲テーマを激烈でなく緩く弾いた時のような雰囲気を引き連れつつ、第2曲テーマAの展開部(10小節目〜,特に左低音部による主旋律の動き)の変容をも、いわば遂げたものであり、第3曲B=menomosso部をより半音階風に変奏したものであるともいえる。これが、先の第4曲主題Aとも連じるのである。こうして、ここ第5曲で、後の第6曲主題A、さらに8曲A,B,C(殊にB)を取り持つ中間地帯のようなものになりつつある。 この辺りも非常に変幻自在に転調の施されていく箇所であって(変ロ長調〜ヘ長調〜変ロ長調〜変イ長調)、この多義性にはうなるものがある。一度目の変ロ長と次の変ロ長とは全く志向性の異なるものであり――<ロ ♯ヘトロ>→<ロ ♭ヘ ♭トロ>、その証拠に転調先がへ長から変イ長に、替わるのである。こうした音階の奥義を短いフレーズで端的に示している。

ここでは、旋律自身もそうであるが、左和音の曖昧さが、これまた多義的な際だったうつくしさを醸している――keyになる和音:ハホ→ヘ ♯ハイ→ニ ♭ロヘ→♭イホハ――。それもoctv.を越す幅広い分散和音であるが、もともとピアニストという弾き手の物理的構造から生じた音楽というよりは、コラール的な4〜5声部の広域和声で対位的に生じた音楽であるので仕方がない。(笑)

ところでこのめまぐるしい転調の、一連のフレーズを終わらせる、何気ない左内声部の♭トのたった1音がまた印象的であって、こうした鍵となる1音というのは、見つけ出すのがあながち容易でないはずである。鋭い知性であり、音感である。

こうした点でも、シューマンの音楽とは無駄に、或いは未整理に能弁なのではなく、端的な表現は表現で、心得ているのであり、その他の和音の不自然なほどの重厚さ・リズムの錯綜は、むしろ対位法などその古典的傾向、すなわち交錯した構造上の問題から由来しているのであることがわかる。

Bの a tempo部は、バッハ平均律第2巻18番fugaと同根である。だがここでは故意に、これまでの錯綜したタッチとは異なり、左右同旋律を奏でており単声風である。このシンプルさは、グランドソナタのクララの主題も彷彿する。 このホモフォニック効果が後の情感の上昇性(64〜68小節〜)に働きかけている。その後、自問的となる(69〜72小節)が、ふたたび向上し、展開部の頂点を迎える。この辺りは非常にベートーヴェン的である。頂点のff(88小節〜)以後、比較的安定したっぷりした90小節以降、明るいうねりのような右手8分音符による進行は、事実上前2音(octv.差)だけで前進していくが、後2音はシューマン独特の半音階的反芻性にみちる。左手進行の半音階法とともに、この前進に幻想的余韻と厚みを与えている。 だが和声の構造上は、右前1音目はどちらかというと左手和音のがわに近く、右-上声部と左-下声部とがともに半音階法で呼応している。

 

2003年01月19日 (日)

第6曲

A-B-A-C-A

A(変ロ長調)-B(ハ短調*)-A(変ロ長調)-C(変ロ長調支配)-A(変ロ長調)

第6曲は全体に、とみに半音階法の特色顕著な楽章である。平均律風(第1巻5番prelや特に第2巻20番fugaとは、曲想はともかく音列的には同根である)

Aは、暗い雰囲気は保たれているものの一応長調であり、基底には第2曲と、また直接的には第4曲Aから変換されているが、第5曲のリズム・気分、また特に√2部(15小節〜)が、もし先になければ生じてこないものであろう。緩徐楽章の置かれる順序として先に4曲テーマ、後に6曲テーマ、となるのは至当である。

同じように、B(ハ短調)への導入部5小節目と、Bに入ってからAに還帰した15〜18小節に、ホモフォニーないしホモフォニックな音列があるのも、5曲(先述したB部)を経由した所以である。

ちなみにこのB部(ritardando〜)は、バッハの宗教音楽をも想わせる重厚なコラール風4声編成であるが、7小節目以降<4分音符+32分音符×5>+<4分音符+32分音符×5>は、第2曲から変奏的に生じている短調であるとともに第7曲A(テーマ)の暗示である。

Bの終息11〜12小節目のやや沈滞した瞑想的気分は、第2曲の名残である。 それを契機にもたらされる13小節以降は、左低音部に主旋律を移した形で再びAに帰るわけだが、同じく第2曲の主題フレーズの長調風余韻の蘇りとともに、リズム的には第5曲Bが非常に潜在的に生きており、このAの主題が、いかに融合的変奏曲となっているのかがわかる。

C(6のUn poco piu mosso以降の部分)は、典型的にシューマネスクな音型。端的には、謝肉祭フィナーレ(「フィリスティンたちを打つダヴィド同盟」)(※ここでは、Michel Dalbertoの演奏で、1:55秒〜を参照)であるが、付点や休止符が躍動的に働くダヴィド同盟のテーマも、ここでは寧ろ省察的人間特有のひきずるような足取り、憂愁を帯びた、或る種の感情の<もつれ>をあらわす音楽として出現していて、グランドソナタ-クララ・ヴィークの主題からのアトモスフェールを想起させる。

構造的には左低音部が通奏低音の役割を果たし、主旋律(ダヴィッド同盟風)は右高音部が担ってはいるが、この特有の愁いを帯びた雰囲気そのものは、付点と休止符を活かした左/右の内声部のモチヴェションに負っており、両者の関係は、ほぼ対位的(単純形、及び後半は転回形)である。

 

2003年01月20日 (月)

第7曲

A-B-A-C-A

A(ハ短調)-B(ト短調)-A(ハ短調)-C(ヘ短調支配)-B(ハ短調=移調)-A'(ハ短調+変ロ長調poco meno mosso部)
◇C:ヘ短調支配…ヘ短調〜ト短調〜ハ短調*non legato部

どの部分も、中期ベートーヴェン性のつよい楽章。(殊にnon legato部分)

A冒頭部分は悲愴3楽章(Beethoven Op13 Pathetique Sonata 3rd)に、non legato部は熱情3楽章(Beethoven Op57 Appassionata Sonata 3rd)など。(付記10/10/01)

Aは第1曲Aの変奏曲である。(※厳密にはここでも第8曲に最も端的に現れるソドレミ♭ファソド…(下部枠内注を参照)、Aの原体短調の変奏曲というべきであるが、同時にベートーヴェン悲愴のソドレミ♭ファレミ♭ドが被っている。付記10/10/01)

第2曲intermezzo2部も起因する。また同曲次のpiu lento内声部主旋律(ハニ #ニホヘホロホ #ハニロ #ハニ #ニホイトヘトホヘニ)も、ここの主題構成に影響を与えているだろう。そうした意味で有機的立体的に統合されている、といえるが、より直接には、左右旋律とも第3曲が構造的にもっとも近い。が、第5曲の付点と休止符を抜いた16分音符による繋がり×3、というリズムの延長、また旋律的に5〜6小節(同型が10小節までつづくが)を、タイをもう1つの音符と捉えた場合のvariationと捉え、結合させたものと言えなくもない。

Bは第1曲A後半(11小節〜、殊に14・15小節の右最高声部ニト→ハヘ→ロホ→イニと下降する部分が、7曲B15小節〜ロホ→イニ→トハと下降するのと呼応)と、同第1曲B(左右旋律がひとつに繋がっている特徴)、またこれらのことを含めつつ直接的には第5曲Aに起因する。

Cは第1曲Bを短調化したもので、ハ短調から転調を伴いつつ、4度差のフーガ(ト短調)、また転調して単純フーガ(ハ短調)となる。その後再び左手主題と4度差となり(ト短調)、以後めまぐるしく転調を(ト短調→ハ短調と)繰り返す。

A'poco meno mosso部は、最高声部と最低声部のうごきのコントラストが非常にシューマネスクなフレーズであるとともに、コラール的な要素が濃い。 先述したように、2番主題(ラ(orファ)-シ♭-レ-ミ♭-ソ-シ=長調が原体),*3番B,4番主題,5番B,6番主題らの緩徐長調部分と或る種の関係性を保っており、これ自身は変ロ長調の開始であるが、変ホ長調に変位し、♭ホト ♭ロで終始しておくことで、これが変ホ長からト短調(ト ♭ロニ)への変位の鍵を保つことで、すでに第8曲が潜在的に始動しつつある→*3番Bが‘ト短調化’した形での8番開始(A)への導入が準備される。

 

2003年01月21日 (火)

第8曲

A-B-A-C-A

A(ト短調)-B(変ホ長調支配)-A(ト短調)-C(ニ短調支配)-A(ハ短調-ト短調)

A☆について。左手進行は、第1曲A、第3曲A、第5曲Aなどに近い。右進行と含めて言えば、第1曲A後半(11小節〜)を反映すると見られ、これとかなり対位的な関係にある(主に転回形に近い)変奏曲とも想える、第1曲B、第2曲Aの一部分(10〜15小節)、同第2曲B、第3曲B、第4曲A・B、第5曲、第6曲C-un poco mosso部、第7曲全体、etcetc.と殆ど全体にかかわり通底するものが潜む。

☆…このト短調主題ファ♭(orレ)-ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ソ…をニ短調にすると、ラ-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-(ラ)-レとなり、より無意識相での強靭な反復強迫に見舞われ続けるシューベルトの死と乙女第5楽章と同様になる。この付記は前田昭雄氏著「フランツ・シューベルト」(春秋社)による提示「ソドレミファソド(ソ)」から、主に死と乙女第5楽章を最も端的と想起した為、記載。10/09/29
-------
そういう意味から言うと、クライスレリアーナ全体を貫くのは、つまりAの原体とは(ファ♭またはレ)-ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ソ【短調】、(ラまたはファ-)シ♭-ド-(レ)-(ミ♭)-ファ-ソ(-シ♭)[その逆(シ♭-)ソ-ファ-ミ(♭)-レ-ド-シ♭-ラも出現する]【長調】――この場合、そのもとになったベートーヴェンの「遙かなる恋人へ」を彷彿とさせる、幻想曲ハ長調op17コーダや、より近いのは交響曲2番4楽章の終盤の変容(ハ調で書くと、ラシドソファソファミ-「ラシドミファ(ソ)(ミ)」)を彷彿とさせることにもなる(※これについては、前述を含みつつもじつはのちにベートーヴェン幽霊を基にしたものであることが判明するがそれは後述。 ###および####について、の記。120627)――といったものかも知れない。したがってその原体を長調の方から最も端的に見い出す場合2番から、となるし、短調の方から端的に見い出す場合8番から、ということになるだろう。
ところでこの原体の始まりの音を、ファ♭(短調)/ラ(長調)と、次音に近く解すべきか、レ(短調)/ファ♭(長調)と遠く解すべきかは、正直よくわからない。2番・5番・6番・8番では全体としては二股を掛けられているが、2番Intermezzo2・3番冒頭・5番冒頭・7番全体などでは遠く解され(これらはいずれも4度乃至5度を一足飛びに翔るフロレスタン的跳躍の鍵となる)、2番Intermezzo1やPiu Lento部、3番Meno mosso部、5番展開部(15小節から)などは、バッハ的幽玄さをもたらす半音階進行か常に転調予感を孕むファジーな展開仕様のため(オイゼビウス?)、近く解される。シューマン自身(和音または部位により)二股を掛けているように感じられるが、やはりもとは直接?「死と乙女」と同じ原体(★sym1「春」同様)を――適宜ベートーヴェン中期やバッハ的半音階進行を織り交ぜながらも――土台にしていると考えられるのかも知れない。10/09/29  また「遙かなる恋人」の方(★★sym2同様。但、より厳密には「幽霊」というべき 120627)を原体に近づけて考えれば、その逆になる。11/01/14
★…この8のAと同じワンフレーズは交響曲第1番(春/spring)Op38第4楽章(0:48〜1:05秒)にも登場する(下、譜例)
★★…交響曲第2番4楽章の終盤(到達点)同(承前。2の説明部分、交響曲第2番Op61第4楽章、ここでは5:50秒辺り)
(ハ調に直して)ソドレミファソドソミレファミレド。 そのせいか同「冒頭」(0:00秒〜)はクライスレリアーナ2-A(原体:長調)を想わせなくもない(笑)。(付記10/10/04)

死と乙女第5楽章冒頭
参考:↑譜例、シューベルト・死と乙女第5楽章冒頭(ピアノ版から)
クライスレリアーナ8冒頭譜例
参考:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ8冒頭(A部分)
交響曲第1番(春/spring)Op38第4楽章におけるクライスレリアーナ8-A部分同様のフレーズも参照(前述)

 

一体この8は(2との濃密な関係=原体の長-短調的関係であることを考え合わせると)、クライスレリアーナ全体の原基であるとともに、「死の予感」(死と乙女)と「霊的愛の成就への希求」(遙かなる恋人に寄せて&不滅の恋人&幽霊op70-1)が一体となった音楽といえるとは…。

 

さてシューマン自身は[ die basse durchaus leicht und frei ]と記しており、「謝肉祭」にでも出てきそうな役柄たちと通じる軽妙な気持ちを込めたのかも知れないが、実際に聞こえてくる音の世界は神秘的なほど暗く省察的で、ときに無機的ですらあり、遊戯風に跳躍するリズムには、冷めたものさえ感じられる。 微細な付点と休止符にみちあふれ、その付点の効果はバッハ マタイ41番tenore-Ariaや66番Bass-Ariaでの、ヴィオラ・ダ・ガンバ,ソロによる導入部すら彷彿させる程、ぎくしゃくとした何か黙秘的なものがある。音列的にも、一見跳撥するようでありながら半音階法を酷使しており非常に近しいものがある。

Bは左octv.和音(アルペジオ付きユニゾン)の声部が主旋律であって(シューマンとクララの勝利のランデブーと理解出来る)、右の舞踊的、跳梁的リズム(フロレスタン?)がこれを背景的・素描的にたゆたいつつ装飾する。基本的に変ホ長調支配。冒頭の変ホ長調からト長調〜イ長調へと変わる、と書いたがその前提として、一瞬のハ長調と、あらかじめニ長調及び変ホ長調(再)が、予言的支配をしており、ふたたび変ホ長調へと戻る。→変ロ長調〜ト長調。 この辺りはじつにバッハ顔負けの程一時もじっとしていない転調ぶりである。→A(ハ短調A〜ト短調A)へ。

Cも、基本的にはニ短調支配でベートーヴェン的な激烈さを伴う。よく聞けばベートーヴェン交響曲第5番「運命」の変奏曲という感も抱く。付点を除けば不思議なほど一致するのである。(既出。上記譜例1)ややグランドソナタ風でもある。

始めのニ短調〜ハ短調(ハ長調と交互に、と捉えられる)。この後、極めて微細に転調、ト短調〜イ短調〜ホ短調〜イ短調〜ト短調とめまぐるしい。→A(ハ短調A〜ト短調A)へ。

------

このAへの帰還の際、(一見)意表をつくズレを伴う――というのは、右手進行の暗示的動態(反復強迫)とは旋律上ほぼ無関係に(がじつは呼び込まれる形で)、しかもやや延着して、打ち込まれるのである――断片的羅列としての左手和音の穿坑的打鍵が、怜悧な歓びの覚醒として進行する。これは最上部で記したように待機したものたちへの出来事の到来(真実としての受肉)とそのリアライズとしての<楔>(存在論的にも、こちらの方が右手の予告的素描のうごめきより当然遅れをとるのである)といえるが、少し言い方を変えれば歴史の打鍵(振り返りの打鍵・時間=意味の再生としての打鍵)ともいえよう。だから意表をつくとはいえ、それはまったき偶有性ではなく、成就=必然性としての出来事である…。

先述したように、これら絶妙なシンコペによる付点リズムによって鳴らされる左打鍵の音は、厳選されたものであって、調性的につねに転調に於る両義性を持ち合わせたいわば鍵となる音である。この簡潔に選ばれたる音を故意に残し、次の調へとめくるめくトリック的転回を果たしている。(第8曲について。一部改、2010,08,20)

 

上記、###と####について(12/06/27)

タータタ、タータタ、これはベートーヴェンsym7第2楽章で繰りかえされる律動――ダクテュルスdactylusというらしい(久保文貴様より 12/09/05)――の影響を引きずって、クライスレリアーナの終曲8番にもタ、タータ(タ)、タータ(タ)というもう少しシューマンらしい吃りのようにぎくしゃくとしたリズムが不気味に(というのもsym7-2楽章のリズムのみならずある種の暗鬱さも同時に投影されているのと、死と乙女の付点との合体の故であろう。ベト7-2楽章の投影ついてはのちに触れる)刻まれる。この暗躍的跳梁律動をも伴いつつベト7自身のバックグラウンドが、この終曲8番には貫通している。(この躍動感と背景の正体は第2楽章のみならずベト7の他楽章も伏在しているといえよう。)

バックグラウンドの暗示でもっとも顕著なのは2楽章と思われる。それに、シューベルトの「死と乙女」が、シューマンの潜在意識の中で混じっているのである。なおかつ、たんにこれらの結合とだけ言って片づけられるよりニュアンスは深く、同時に「幽霊(op70-1)-不滅の恋人(ベト7sym op92)-遙かなる恋人(op98)」【※これらはベートーヴェン自身にも通底するしシューマンの中でもしばしば癒着・連動する。私はこれを霊-愛の旋律と呼びたい】由来が頻出する。記事最下部に記した、naxosの「幽霊op70-1」リンクでいう、2:12-2:47辺りの旋律(ファーミレドレミファソラシ♭ドレ…シ♭ドレミ♭ファソファソファミ♭レド/ファソラシ♭ドレドレドシ♭ラソ…の動きは、クライスレリアーナ第2曲の霊ともなっており、つまり最終曲8に於る右手旋律の、二股のうちのひとつ=波動のゆるいオイゼビウス側(ファ♭-ソラシ(ド)レミ…=「幽霊」主題)=上述した跳躍性のない半音階性を帯びた側、に投影しているといえる。)

ベト7(op92)は、ベートーヴェンが傑作の森(曰くロマンロラン)の実り豊かな中期の時期を経て、深刻な苦境に陥るもこれを克服する頃の作であり、不滅の恋人の旋律といえる。事実この時期、双子のようなもうひとつの旋律であるところの、シューマンの好んだ遙かなる恋人に寄す(op98)も作られている。繰り返すがふたつはしばしば変奏至芸の下で互に誘発連動するし、幽霊とも癒着する。

ベト7op92の2楽章を長調化すると、幽霊op70-1/遙かなる恋人op98の最終曲――シューマンの好んだ有名な旋律、たとえば幻想曲やsym2・ピアノトリオ2(全体がベートーヴェンの幽霊op70-1と遙かなる…op98のメタモルフォーゼとして出来上がっている。同時にこのトリオは、幽霊-不滅の恋人(「第九」へも繫がる)-遙かなる恋人間のメタモルフォーゼの往来をより自覚的に導入――グレイトの発見と自身の交響曲作曲以降、シューマン自身にとってより意識に上りやすくなったのであろう――したうえでの、ピアノ曲グランドソナタ(/幻想曲)/クライスレリアーナ合成型焼き直し作品と私は捉えている。これについては別記事でも述べたい)・弦楽四重奏曲第1番 Op41-1 4楽章(ピアノトリオOp80と同じ、自覚的導入による変容の和合旋律が、楽章全体にラズモフスキー色で震刻される律動とLvB晩年SQのOctv裂開旋律風の交代劇の間に登場。これも最下部【付録】スコア参照。ちなみにこの第3楽章はLvB晩年SQ各モティフの複合的薫りを継承した渋い弦の語法と空気感に導かれる「第九」-3楽章のモチーフでできあがってもいる *…これについて小文字で下記に注。)・弦楽四重奏第2番(2楽章の冒頭直後に天使の主題―後述―が登場することでも有名であろうこのSQも、4楽章にはLvB-op98のおなじみの部分がそのまま露出するが、これまたLvB後期SQの薫りで彩る作品全容のなかにLvB-op98のメタモルフォーゼを巧みに展開させる形で仕上がっていると思われる)・op88(2楽章はLvB-幽霊op70-1による開始と不滅の恋人モチーフop92による応答、加えて3楽章では遙かなる恋人op98モチーフとがシューマンの中で合成されたもっとも典型的な作品といえよう)etcetc...らにも登場する、なじみ深い旋律群――に似てくる。

下線部について…

シューマンSQ1番(Op41-1)-3楽章冒頭は、LvB-SQ15番最終楽章の速いパッセージ、エリーゼ由来旋律(ファードミレシ/ミーシレドラ=これは、――より厳密にはエリーゼと、sym5を貫くエクリチュールとの融合と言うべきだろうか――最も直接的にはSQ15番-最終楽章から生ずるといえるが、第九3楽章主題とも同じ基である。ちなみに同シューマンOp41-1に於ては第1楽章でもこのエリーゼ由来転回形のメタモルフォーゼが二度登場する)後の、チェロのうなるようなかけあがりと酷似した形で始まるが、このかけあがりはトレースであろう。それからすぐ最初の3音が第九の3楽章を彷彿とさせる旋律にうつるが、これ=第九の3楽章主題は、LvBにとってもエリーゼ(ファードミレシ)と同根のメタモルフォーゼであるとともにSQ同15番3楽章テーマの(準-)転回形とその転回形(元に戻る)でもある、ということができる。もともと第九とLvB後期SQはエクリチュールが密接に通じており、当然シューマンもこれを理解していたと思われる。ただそこに同時にLvB13番-5楽章のほの明るい慈愛の諦観がシューマンの頭の中で混じっているようにも聞こえるのである…。いずれにせよクライスレリアーナからは外れるので、これについては別記事で記したい。

 

逆に言うと幽霊/遙かなる…を短調化すればベト7の2楽章に近づくのであるが、それと同じ基(エクリチュール)がクライスレリアーナの8に、否、全体に、流れているのである。8に関してはシューベルトの死と乙女(レソラシ♭ドレソレ。フロレスタン的跳梁の側)と合体しつつ、LvB op70-1旋律=op92律動 由来(☆ファ♯ソラシ♭ドレミ♭…、ここは、8の旋律内に織り込まれているもうひとつの線、すなわち「オイゼビウス的半音階性の強い側面の旋律」=同クライスレリアーナ上第2番的原体にも近づいていくもの)が交錯しつつ、ずらされつつ、跳びたゆたう。ここは、(2と8の原体が)「二股を掛けられている」、と上述したところのものである。

注)☆これ=シューマンに於る幽霊由来旋律―スコアとともに後述―はベートーヴェン自身に於ても勿論、幽霊op70-1に登場しつつも、遙かなる恋人op98(=同じ調で言うとファーファソラ♭ーミ♭ミーレ♭ード)、不滅の恋人=sym7-2 op92(同じ調でいうとファ♯ーファ♯ソ♯ラ♭ーラ♭ー、ミーミファ♯ソーソー)、第九(ファソラ♭ラ♭-レミ♭ファファ-シドレレ-ファソラ♭…/ファ♯ファ♯ソラ{ラソファ♯ミレ}レミファ♯…)にまで通じていくもの。ちなみに――第九ということはすなわち――これはシューベルトのグレイト=ドレミラシドにまでも受け継がれる。(ドレミラシドはベートーヴェン幽霊自身にもソーラ♭シ♭シ♭ーレーミ♭ー(ファ)…を筆頭にそのメタモルフォーゼが頻出する。これらはみな密に変容上繫がっており、シューマンに於てしばしば融合・誘発されやすいのもけして偶然ではないのである)ちなみにこの準-転回形はミレドファミレ(天使の主題)となる。

ここで言いたいのは、シューマンが表層的にベートーヴェンの旋律のうちお気に入りのものを手当たり次第に借用したというよりはもっと潜勢的なレベルにまで及んで、すなわちベートーヴェン自身に通底していた<エクリチュールにまで遡行>し、随伴して、この<旋律の歴史ごと>自分の音楽/体験として受肉=再-主体化している、という点である。この受肉は、逆説的な言い方だが、皮相にベートーヴェンを扱っていない事の現れであり、その受肉の遡行と審級が深いほどベートーヴェンへのただならぬ尊敬と愛が見てとれることにもなろう。シューマンがそうした作業を、このクライスレリアーナを書いた当時、無意識または潜在意識下のみで行ったか、或程度自覚化もしていたかどうかは微妙と思われる程に、その再現性が錯綜し暗示的である点が、いかにもシューマンらしくも思うのである。

 

参照)

http://ml.naxos.jp/work/1580 (ベートーヴェン幽霊 op70-1)

http://ml.naxos.jp/work/1669 (ベートーヴェン7sym op92)

http://ml.naxos.jp/work/410719 (ベートーヴェン 遙かなる恋人 op98)

-----------

http://ml.naxos.jp/album/arts47526-2 (シューマン,ピアノトリオ第2番 op80他)

http://ml.naxos.jp/album/8.570151 (シューマン,弦楽四重奏曲集 op41-1,2,3)

-----------

http://ml.naxos.jp/album/mc106 (シューマン,クライスレリアーナ Kreisleriana op16)

【付録】

Beethovenベートーヴェン「Geister(幽霊)」Op70-1に見るRSchumannシューマン「Kreisleriana」op16第2曲の原体と第8曲における上記二股旋律の片方(Eusebiusオイゼビウス型)

※↑クリックして拡大してください(2倍)//別窓表示

Beethoven「Geister(幽霊)」Op70-1に見るSchumann Kreisleriana op16第2曲の原体と第8曲における上記二股旋律の片方――Eusebius型(ゆるやかな上下向)

cf)※florestan型=Der Tod und das Mädchen D531「死と乙女」(スコア上既出)

 

 

Beethovenベートーヴェンop70-1「Geister(幽霊)Trio」冒頭のスコア

※↑クリックして拡大してください(2倍)//別窓表示

 

☆上記楽譜内で、RSch op80 1楽章と、op41-1 4楽章(最終結部)、つまりレミファファラ(レー) への、Beethovenの幽霊(レミファファ♭ソラ…)を筆頭の基としたこれらのテーマの結合について書いてあるが、このシューマンの好んだレミファファラ(レ)…は、上記のみならず、Op68子供のためのアルバム21番(無題)etwas langsamer部などにも登場する。これらのフレーズは同時にシューベルトの「楽に寄す」 D547のモティフ(終結部――レミファファーラ(ラ)ド――)ともかさなるといえ、RSchの中で由来を一にすると言ってもいいのだろう。この歌曲に最も近い形では、「楽園とペリ」(「遠い歌声に耳を傾けながら」/「あの太陽の寺院へ降りていこう」ソプラノ部分の最終部)にも登場する。(付記120824/120906)

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:59 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

2004年の木曽音楽祭のこと、シューマン弦楽四重奏曲Op47

2004年2月にHPにアップロードしたものを転載

2004'02/18

ここ数日は真夜中でも春一番が吹き荒れて、家中の窓ガラスがガタガタ踊っている... 眼の調子はまだよくなかったが、兄も母も出かけてしまったので、昨昼留守番にNHK中部の「クラシック倶楽部」を見ていた。木曽音楽祭である。木曽福島の、総檜のお寺だったか神社だったかでひらかれた。 私が見た時、ちょうど日本人ばかり4人の編成で、ナント、シューマンの室内楽を!やっていたのである。かなりレベルの高い演奏なのに驚き、薄目を開けながら第四楽章までじっと聞き入っていた。 自宅のTVで聴いた限りでは、バランス上、ヴィオラの音量をもう少しあげてほしかった気がするが、全体にテンポ、リズムアクセント、弾力、4人の呼吸と「溜め」、緊張感など、あのシューマンのP四重奏曲に相応しい演奏だった。 さすがに第三楽章は、日本人らしい衒い?からか――シューマンのロマンチシズムを、“ いわゆるロマンテイックなもの、として気恥ずかしく ”感知するのであろうか――やや素っ気ないほどのアップテンポで処理しており、あのシューマンの魂にしてようやく訪れえた、稀な平安の情緒を、あっさり駆け抜けていった感があるが、全体としてかなりレベルの高いすばらしい演奏であった。とくに第四楽章の弾力と緊張感、意気投合には感動した。 野島稔氏のPianoの澄明な音色、また音の粒だちは、すばらしかった。きわめてシューマン的フレージングでのリズム感なども、早いパッセージではなかなか出しにくいと思うが、たっぷりとしておりみごとだった。日本人であのような深み・厚みのある澄んだタッチと、実在性ある音の拡がりを同時に持つのはむずかしいと思われるが、努力の人である... 極東の小さなホールに、日本人のみによるあのように生き生きしたシューマンの音楽が、鳴り響いていたひとときがあったのだ。
今年度の木曽音楽祭 http://www.town-kiso.com/music/000607.html
| Rei八ヶ岳高原2 | 16:54 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

バッハ平均律クラヴィーアとリヒテル

中学時代にはじめてBachの平均律を知った。それはリヒテルだった。

その世界は、その時期の私には名付けようもないものだった。忽ちのうちにその神妙かつ幽玄なる世界に、心は占拠された。当時の音楽評論家たちが言うような、単なる「ロマンチック」な世界であり、演奏であるなどとは、あの頃ですら到底思えなかった。

まもなく死というものに直面する時期が到来した。(父親のであったが)

私の平均律に対するのめり込みは、いよいよ通常のものでは無くなった。ここには、心の慰安・平安を求めえた…。

だが当初、第2巻の方に顕著な一種地に足をつけたような意味性・世界観というのは、主に第1巻の方で顕著であった瞑想性、短調に於ては無常感、超脱しつつ沈潜し、沈潜するかと思えば柔らかに喚起させられるかのようなえもいわれぬ魂の語りともいうべき世界に較べ、まだまだ解り難いものだった。ただ2巻の多くには、1巻にはなかった独特の‘開け’のようなものを感じさせる、という予感のようなものだけはあった…。長調と短調の間に生じる差異―己を取り巻きつつ己を促し、したがって己の希う処のものが、現前するかにみえつつも永遠に訪れない事のもたらす、明るみと無明性との間のギャップ―、というものが、比較的2巻には少なく、言ってみれば“why”・“否”ではなく、そうあらしめられている己の在りようへの“然り”と、“主体であること”(統合作用を受肉しこれを運動化する当体であること)への意識―これは晩年フーガの技法に於て、祈りの介在余地もない程により確かで生まなものとなるのだが、いずれにしてもバッハの場合、この主体・神の働きかけを映現する当体というものが、己ひとりのみならず複数のvoiceに拠っている―、そしてただそうした在りように即するのみといった心身脱落の開示性のようなもの(それこそは、或る種の悟りでもあろう)が基底にあることも、実に曖昧にではあるが、体感的には理解できた。

第1・2巻を通して、その物語っている世界、意味性とは何かについて――その浮上と沈潜、平安、緊迫する拮抗と調和。暗示性とあかるみ、激烈さと沈静、諦念、かと思えば天上的浄福と歓喜踊躍の無窮動性。かと思えばまた一音一音打ち付けるような楔の連打、非連続の連続と、或る種の不条理の感覚、求心力と遠心力のバランス、“空”じられたかの人間の、坦々たる日常性への還帰、etcetc...それもこれも含め総じて感じられる、バッハ特有の、世界“という”広大無辺なる無関心と運動性の持続。無慈悲と表裏一体の慈愛。――そうしたものらの‘物-語り’を、動機づけるものが、いったい「何」であるのかを、思春期を通し、思えばずっと探し続けていた…。

大学時代、聖歌隊入隊とそこでのカントールによる適確な指導、また最初に練習したのが「マタイ受難曲」であったという偶然が、曲がりなりにも、バッハの世界の何たるかを知る、の解明に、ますます心強いヒントを与えてくれた気がする。

芸術表現の世界で、広い意味における宗教“性”に出会い、また知った。また、学問の上でキリスト教と、またのちに禅を垣間見る。仏-基の邂逅、接点、などというメジャーではなかったが確実な学問的動向も素人なりに探る中、その宗教哲学に於ける主体と超越の関係、また超越と内在、即非と往還関係への学問的探究(禅的世界)などを知り、―またそこでの自己と他者とのえもいわれぬ諸契機にみちた関係を知り―その感動に触れたとき、音楽という運動体、ことにバッハ音楽のイマージュが、これと合致した。

そうした自分自身の歩みをみちびいてくれていたのが、父を亡くした時から支えてくれたリヒテルの平均律だったということを、理解した。

 

半音階的音楽とは、文学的形而上学的に云い替えるなら、いわば反省的音楽である…。反省的とは何か。省察的、という面をも多分に含むが、模索的であり、ひょっとすると懐疑的ですらあり、同時に他者・社会・世界への批判的まなざしであると言えるだろう。

バッハの宗教性とは、すでにこのことの予告的裏返しであり、裏返しとしての、一種 *黙秘権の行使のようなものであった。ベートーヴェンの精神性とは、この批判的な姿勢を基に真理に見合わぬ様相を呈するあらゆる世の中のありようと対決すべく、バッハのまなざしよりもっと個の座にじかに降り、大地に足を付けた自己として直接状況と関わり、これを真正直に地で行くところのものであった。それが為に晩年の、殊にピアノソナタと弦楽4重奏作品は精神の破綻すれすれなまでの緊張の持続と至高な諦念にみち、断片的であるが或る種バッハ的運動性やまなざしに近づいた。だが、それとともにバルトーク,ウェーベルンらのような12音音階〜無調へと進む現代音楽に直結する道を十二分に示しもした…。

*黙秘権の行使は、謂わば特権的である。特権的…そうであるためには、内実としては構造的・構築的、また語っていく形態としては動態―これは不可避である―であっても、語る姿勢としては静止的(滅度的場“からの”発語)にならざるをえない。ただその際、バッハはけして己が神に成り代わって、否なりすまして、発語していない。それどころか表現者としての己自身が神の働きかけの具現体であるがゆえに、その己の生み出した運動体の全てを神の働きの具現体として神に捧げている。それはそうと、バッハは、(彼自身の実人生ではともかく)少なくとも表現の位相つまり“音楽上”のスタンスとして、情況に関わりその中に積極的に身を投じる(=受動性を引き受ける)―ベートーヴェンの音楽のように―ということは、おそらくしていない。 彼は、人類の問題を<解決>しようとしなかった。が、あらかじめ総てを“知っていた”。(バッハの音楽は黙秘権の行使であると思うのは、そのためである。)

バッハの驚異は、自然=必然性の合一と精神性の無辺な深さにある。構造性と生命性と精神性とがひとつになっているところにある。構造性とは、対位法の厳格さ緊密さ精緻さ多様さであり、そうした数理学的とすら言える必然性の構築物が、音楽という<偶然=必然>的なものとして合一的に存在しうることの不可思議を伴って存する。生命性とは、絶え間ない生成の現場でのみ立ち会える、有機体の自律運動性であり、まれな無窮動性であり、旋律の自存性としてのうごめきとともに緊密な連鎖を帯びる共同体としてのうごめきである。

精神性とは(広義に於る)宗教性であるといってもよいが、端的に長調の悠久性天上性であるかと思えばまた短調の底無しの深遠さである、と言えるが、主に短調に於て区別して言えば、第一巻ではおおむね主に瞑想性であり、―殊にリヒテルのピアノ演奏によって空間へと刻々放たれる余韻によれば―虚無であり空であり無であり、禅的に言う空智である。また第2巻に多く見られるのは―こちらは演奏者や楽器による印象の差異が生じにくく思われるが―精神的開示性、日常と天上が不一不二となった禅的に言う実慧の境地。地に足のついた空、でありその空じられた当体=無的主体の生活圏への還帰である。……相当する観念としては、である。

要約的に言ってしまえばこういうことになる。

  • 第1巻(おおむね)…空智 ―――世俗→空へ(至「悟」・己を包む促しに応じる自己の相)
  • 第2巻(おおむね)…実慧 ―――空→世俗へ(空=涅槃に“住まわず”。『受肉せる』空相(=自己)の生死的世界への帰還。開け

尚デリダなどで言われる、非現前性・非対象性・非同期性といったじつに的を得た言葉を借りて言えば、1巻は前の二つに主体の比重がかかり、2巻に於いては非同期性(より高度な、運動体としてのフーガの構造の透徹・生命世界の再現)に、より重心が置かれた発語であるといえよう。1巻と2巻の境地は丸きり切断されているのでなく、主体と超越という、同じ構造に於かれても、表現主体の発語する相面・座の置き方で表現内容とニュアンスも変化するものとみる。無論、第2巻にも1巻の多くの作品が書かれたのと同じ年代の作品なども所々に置かれている――以後何度となく手を加えられたものもあるらしいが――わけであるから、おおむねそう言える、という事である。

リヒテルの平均律は、総じてこうしたバッハの宗教性を見事に現成させていると言えるだろう。ただ、2巻の演奏スタイルには、1巻に於いて支配的な*非現前性と非対象性に居る自己のスタンスが尾を引き、**涅槃に“住する”かの如くと言えなくもないし、それが2巻の多くの作品に特有の滅度的主体の《開示性》を損なっている面があるとも言いうる。

*…これに関しては2000年に発売されたリヒテル平均律ライブ録音(録音1973年インスブルック)にて、2巻の多くの作品に於る、演奏スタンスの大幅な変更が見られる。このライブではリヒテルは最初のCD(LD)録音時のように稀有な世界を提示し得た1巻の沈潜的なスタンスをそのまま2巻に於いても延長する、といった姿勢(謂わば真摯で生真面目な固定観念といっていいかも知れぬ)をほぼ脱し、2巻特有の開示的・明示的、時には坑穿的ですらある世界をそのまま生かす吹っ切れた演奏をしていると言える。
**…尤も、涅槃に住するかの如くと言ってもそれは仏教で言う大我などの、‘尊大で罪のある自我の在りよう’ではなく――というのも此処にはなりすましは無い(付け加えるならばこれが尊大で危険なもの、真の意味で罪なものとなるのは、この「状態」以上に、むしろこの座からの発語がイデオロギー装置と同化して-もしくはさせられて-個が普遍と※《故意に同一化》させられたまま政治化・社会化される場合である)――ただたんに非現前性・非対象性の世界に於ける或る不透明さ、そこにて実存がおのずと包まれる暗示性の膜の中でその響きと祈り・瞑想性を反芻する、涅槃の余韻を噛みしめるというだけのものに思われる。
だからそれが畢竟ロマンティシズムではないかといえばそうかも知れぬが、ではそのロマンティシズムをそもそもバッハの音楽自身が持っていなかったのかといえば、1巻では2巻に比して実際多くの曲が(演奏者・楽器の違いを問わず)その様相を呈していた――バッハという実存に於いてまだ天・地が作用的「一」を遂げ切っていない、したがって即する、というよりは寧ろ希いとか促しとか祈りとかいったものの余地が介入しやすいのである――し、そもそも祈りとか救いといったアトモスフェールや概念さえ、それ自身そうした高度なロマンティシズムの醸成を伴うとも、言えるのである。
したがってもし、リヒテルの位相は、或る種のロマンティシズムに在る、という述定にはあえて甘んじるとしてもなお、彼の平均律録音の公開当時からしばらくの間この演奏に対して浴びせられていた安易な意味での「ロマンティック」のフェーズとは、およそ違うと断っておきたい。またロマンティシズムと呼ぶにせよ、それはかの冷戦下において、父親がソ連当局によりスパイ容疑で銃殺される、であればこそ自分の中のドイツを堅持しようとする、などリヒテルという個人の中に影を落とす全体と個との間に生じる相克の問題、埋めがたい不条理中の不条理を、この身を以て体験した(#モンサンジョン著「リヒテル」)リヒテル自身の実人生を察してみれば、その個がせめてそうした「ロマンティシズム」に、また願わくば或る種のトランス状態の持続に、救いと浄化を見いだそう,として何が悪いのであろうか?とも、さし当たっては言っておきたい。
※個が普遍と《故意に同一化》…個と普遍のまったき同一はありえない。もしそうありうるならそもそも宗教性自体が無くなるのである。何故なら宗教性の発生とは個が普遍と絶対に“同化できない不条理”の発生と、ひとつの構造だからである。

ついでに言っておけば、そうした不断に醸成されかねない高度な意味でのロマンティシズムをすらその生起手前で拒否し、つまりそういう広義な意味での宗教‘性’をも排したうえで、バッハ音楽の運動体を担う有機性・律動性・無窮動性・また個々の音の実存性を存分に引き出し、持続せる緊張としての遊戯を実現したのがグールドの平均律である。そしてもし尚、あえて発する、そこに“究極の宗教性”はもはや無いのか、という問いには、存るともいえるし、無いともいえる。もし存るというならば、つまりその宗教性は、生命科学や宇宙物理学などがそれ自身持っている宗教性のフェーズと、酷似しているとも言えよう。


------------------

バッハ平均律の長調に於いてはその境位の多くは典雅であるか清冽であかるく、天と地の「一」性を、またゆらぎよりもたしかさを、またものの輪郭を覚えやすくもある。が短調に於いては事象の輪郭が曖昧で、もののあはれ・うつろい・無常を感じやすい。世の中に実在していると思えるものは偶の現象であり、ほんとうのところ“実”とは形象となって現れてこないものの方にあるのでないかという考えが一部の哲学や仏教などにはあるようだが、劇的感情や高揚する精神などを直かに表現せず音楽のエッセンスとその有機的動態をそのまま結晶化させたに近いバッハの短調作品には、たしかに空性やうつろいを通した無常感の滲出するものが多い。音の消失しやすさ(生滅、すなわち生-死的存在表現の相応しさ)とその霊妙な余韻効果を生かしたピアノ演奏に拠ればなおさらであるとすると、この点に於いて傑出しており殆ど前人未踏の境地を達成しているのがスヴャトスラフ・リヒテルの平均律、ことに第1巻であることは間違いない。

もし、短調作品に於いてもなお、明確なものの輪郭を表せしめんとなれば、たとえ今のこの形姿は仮有にすぎぬかもしれずとも何某かの秩序をここにこうして受肉せる具現体たちの姿々をそこに成就-再現させること、そうして刻々明滅する生命秩序の“構築性と動態それ自身を描き切る”、ということになる。平均律第2巻に於ける短調の多くは事実そのようにして存る。同じ短調であっても第1巻より総じて第2巻の短調のほうに、ものの輪郭の明快で、非-暗示的なものの多いのは、ケーテン時代以降、フーガという形式をより充実した有機的運動の構築物に仕立てるとともに(このこととも不可分であるが)バッハ自身のスタンスが、sacrifice謂わば天に呼び出され応じに行く(空智)というよりは、もはや diligent service 地上に居たまま天との「一」を果たしている自己の“相面”(全てではない)、及び語り部としての位相(実慧)、謂わば「然り」であることによる精励勤勉(運動性によって可能な限りの、絶対他者即絶対自者の相面)を、‘ 前面に押し出している ’ためであろう。

勿論、人間が相対者である以上、矛盾面(天地が即「一」と成り切らない側面)は必ず残る。普遍と個の間にはかならずや虚無があんぐりと孔腔(くち)を開けている。そうした或る種の疑義すらそこはかとなく漂うかの不条理感、また1巻にはなかった或る種の告発的激しさとなって―バッハ自身が意図しようとしまいと―短調の音楽表現として現れ出ているし、またおそらくは半ば意識的にも、―あくまで形式的秩序を完璧に保ちながらも―バッハは或る種の楔を打ち込んでいるとみえる(それらの同音連打や、16分音符の間断なき叩打は、のちにピアノという楽器が登場・進化するにつれ、アタッカーや深めの打鍵による坑穿的なスタカートなどとして表現されることによって、より強靱で先鋭的な意味を帯びるに至る、といえるだろう)。

音の並びそのものに、そうしたより直截な実存性を感じるのは、たとえばcis-moll BWV 873fuga(4番)、d-moll BWV 875fuga(6番)、e-moll BWV 879fuga(10番)―これらは後のベートーヴェンやシューマンのスタンスにもかなり直かに繋がる―、f-moll BWV 881fuga(12番)、g-moll BWV 885のfuga(16番)、a-moll BWV 889fuga(20番)―このふたつは実存的位相にとってはじつに示唆的な音列を含む作品で、16番fuga冒頭の3音、20番fuga冒頭の4音は、これとパラレルなままヘンデルメサイア第2部受苦「打たれし主の瘕に我ら・・・1741」の重々しいコーラス部分にも現れるし、後にはモーツァルトのレクイエム・キリエなどにも現れる―など。

これらの短調fugaは、1巻の頃に比しより確実なる短調の成立を見る時期を迎えたことも相まって、短三和音での終止、前古典派への移行時期としてのソナタ形式導入と云った表現形式上の兆候以上の変化を、おそらくバッハ音楽に与えており、それが晩年フーガの技法のより深遠な実存的曲調となって姿を現すことは今更言うを待たない。

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:24 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

無題

2010/4/01にtwitterでつぶやいたもの

表現の自発性と表現の形態としての音楽

色即是空・空即是色の動態、というのがある。私たち生きているもの(相対者)は絶対無を―働き、という面からすれば神と言い換えることができるというのが、現今の洋の東西を越えた宗教哲学的知見でもあるようだ―を、或る種“知る”ことが出来るのはどうしても、この動態(言ってみるなら弁証法)に拠ってしかあり得ない。だから、あの訝しい自発性の秩序―デリダ的に言うなら非現前・非対象・非同期―の謂わば体現である処の音楽という表現形態は、ひときわ能弁なのである。

(余談だが非同期性、についていえばバッハはフーガという音楽形式での実現以外に登場人物構成に於ける非同期性すら、マタイ受難曲に於て仮構的に提示していた(コラールとコーラスとしての後世の人間)

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:46 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

無題

2003年HPに記載したものを一部抜粋し2010/3/22Twitterで呟いたもの

未完結性のさなかで超越を受肉する(M.メルロー=ポンティ)―イデオロギー・装置を媒介にした超越の受肉には欺瞞性がつきまとう。何故なら予め他に奪われあずけてしまった超越性を、私たちはかならずまた他の人間に於て奪還しようとするだろう。

 

己を滅した(滅することを余儀なくされた)主体というものが、――己を滅しえた真理の具現体として振る舞い、――そのあげく、別の主体にたいしていかなる行為に走り、その自由と権利とを拘束するものとかは…。

| Rei八ヶ岳高原2 | 09:09 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

表現=知覚性の反映、絵画における聴覚

絵画の場合、感覚を視覚へと収斂させていくことで、聴覚部分の反映が或程度犠牲とされるかにみえる。が、じつはそれは聴覚的世界さえもが視覚的世界へと能弁に転化されることによる特有の静謐さが成就し、画面を支配する結果ともいえる。そのため鑑賞者はその絵に立ち会ったまま―コローの描く森に響く鳥の囀りや、またフェルメールの描く部屋の女性の持つ幽かな金属音に―思わず耳を傾けるほどだ。かと思えば、逆に雑踏や人々のざわめきなどを最大限活かした視覚世界を、享受することもある―マネのバーの絵の中で、溶け込むような人々の会話とあちこちで鳴るグラスの音とをともに愉しむように―。が、ファン・ゴッホの絵の場合、明らかに外界から遮断される、否、描き手自身が外界から遮断されている場合がある。(そして彼の切り落としたのは耳だ。)
| Rei八ヶ岳高原2 | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

モーリス・ユトリロの無重量感

2002年12月24日:HPに記載したもの

建築物における〈厚みのなさ〉といったのものは、写実主義にもあるし、形而上絵画にもある。写実主義においてはそんなことはありえないように一見思われそうだが、かなり透徹した写実主義、その極地にも現れる。

カナレットなどはその典型で、写実性そのものに於ては頂点にあるひとりだと言ってよいのだろうが、重力感といたものはかなり削がれている。そういう性質が、かたやターナーのような茫洋さへ、かたやボニントンなどの印象派に“通じる”人びとへと受け継がれていったようにみえる。

*私の手にある小さな美術書では、ボニントンはカンスタブルやドラクロワの路線を継ぐとしてあるが、むしろカナレットからくる要素も大きいように見える。色彩などは、(ドラクロワ→)カンスタブルからのちのテオドア・ルソーに通じるような所があるが。

ボニントンに於ては、建物の厚みのなさは、ターナーの宙に浮いたような茫洋とはまた少し違った、特有の精妙さの中で継承されていったように見える。

他方、写実主義と逆に、印象派はみな厚みを帯びないかといえば、意外にそうでもない。モネの教会も、シスレーの教会も、輪郭のさほどはっきりしないスタイルのなかで、ものの厚みと質感を光と影を通して間接的に時間の経過と共に具現している。

さてユトリロの建物の厚みのなさは独特である……。筆致としてはかならずしも薄弱でなく、輪郭線を強く出し、入念に「黒」を入れてものの境界線をはっきりと打ち出しているのだが、その建物の存在自身はというと、まるで舞台の建て具のように、厚みを帯びていないのだ。

あるいは右半分がすっぱりと切り落とされたような哀愁をたたえた教会があったりする。

パリの急坂の路地の果て、遠くにみえる長い階段も、徐々にのぼっていく辛さを演出しているというよりは、むしろ垂直に立った塀にひとが何人かへばりついている―しかも、宙に浮いた格好で!―とでも言うようだ。

こういう厚みのなさ、奥行きと重量感のなさとは何であろうか。 かれの実存は孤独の宙に浮いたようだ。しかしそのような非現実性のなかにこそ、かれの虚脱感にも近い哀愁がただようのである。

無重量感とは、つよい輪郭線によっても、黒を多く使う明快なコントラストによっても克服される事なくにじみ出うるのだというのを、かれの絵から知らされる。

| Rei八ヶ岳高原2 | 13:02 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

絵画空間(時・空軸の交換など)

2002年12月13日:HPに記載したもの。※言葉遣いを一部修正

形而上絵画〜未来派にかけては、絵画空間といういわば“生まの”時間軸を欠いた次元の中で、その非運動性/静止性というものを存分に発揮させようとする傾向と、その逆を行くもの、つまり時間軸の空間化をあらゆる手段で試みる傾向のものとがある気がする。

前者は典型的にはモランディのようなもの、その他(ミロの一部やカルラ等)多くの形而上絵画作品、またマグリットのようなシュルレアリスムも一部分、そうした〈要素〉を含むであろう。(それのみでないが)

後者はたとえばボッチョーニなどの生々しげな手法によるなだれるような絵画に典型的に見出される。ボッチョーニでは、ラファエロ辺りから既に見いだせる古来からの手法の延長のように、複数の人を用いて継承される挙動の連続性=時間軸の空間化・軸の交換処理 をほどこすなり、同じく(運動する複数の)影で、それを暗示する、という方法をとる。

他方、知的なもの?の介在を示唆する一群によく当てはまる前者―*キュビズムのやったことも或意味そういう訳だし、モンドリアンの具象性排除も或る種そうした意味をおのずと含んでくるだろう。当然それはデュシャンらのダダイスムやデ・シュティルにも通じている―に関しては、そもそもそれらを惹起させたセザンヌの試み自体、その目的を持っていた。

*…これに就いては、「否。キュビスムとは断続的“運動”性そのものだ」と言えるかもしれないが、時間軸の空間化ないし空間軸の時間化とは変幻するものの同一「次元」への閉じこめを意味するのであって、おなじものの多様相を二次元へと封じ込めることによって見事に生きた運動体の統合的―諧謔的でもある―静止性を実現するともいえるのである…

が、二次元世界という空間軸で時間軸の示唆を行うには、色値変化か、動作所作――運動という非連続の連続――の帯びる指向性によってそれらを擬似的に暗示させるしかないのであって、そういう意味ではこうした傾向というのは必然といえば必然なのでもある…。

ただ形而上学絵画という、既得観念の陥穽・錯覚を逆利用したかのような一連の絵画が、どちらかといえば静止的な様相をおびるというのはおもしろい。―彼ら自身、或る種の観念至上主義に居る という場合も、あり得る―

こうした時代のなかで、ユトリロのもつ静止性というのは、―見ようによってはたしかに、彼の筆致の上/下向・奥行きのなさが及ぼす独特の非現実感覚が、一種トリック絵に見えなくもないような、少し特異な感も与える。しかしここに通底してある「厚みのなさ」!は――かれの孤独と不可分である。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Calendar

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>

当BLOGの目次

-------▼「目次」------

目次誘導
電子出版予定 コピー禁止
メモ書き記事では、かならずしも論証例示は多くなし
ReiのMain Photo blogへ誘導LINK

Profile


Rei
Reiのtwitter-HOME

Archives

Category

Favourite

Reiko Suzuki

バナーを作成

Search

Link

Feed

Others

-Powered by Jugem-

Mobile

qrcode

Recommend