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フェルメールとヴェラスケスにおける外界示唆(窓・鏡)

2003年03月30日にHPに記載したものを転記

フェルメールとヴェラスケスに於る比較(前記事との関連から)――鑑賞者と 鏡・窓(乃至 額縁)の関係
(このような比較もあろうかと思い、図として記しておくことにした)

 

窓や、額縁、鏡、などといった存在が、フェルメール作品にもヴェラスケス作品にも示唆的な役割を持つものとして登場する。それらは単独で配置される場合もあるし、並んで配置、もしくはほぼ同一次元に配置、される場合もある。

フェルメールの場合は、主に単独で登場し、配置されるのは「窓」である。ヴェラスケスの場合、単独で登場・配置されるものとして他者性への開けを喚起させるものは「鏡」であり(「ラス・メニーナス」及び「鏡の前のヴィーナス」の場合)、また扉である(ラス・メニーナス)。

この際、ヴェラスケスの鏡とフェルメールの鏡(窓)に、次のようなことが云える。

フェルメールはいつも、

 

窓―――モデル
\鑑賞者/

 

という構図で、窓or鏡に<モデルを>そのまま直面させる。窓・鏡(他者性)はあくまでもモデルにとっての、またモデルの居る空間にとっての他者性である。(絵画中の別の登場人物はともかく)われわれ鑑賞者は、つねにじかにこの間に割って入ることはなく、それ故に徹頭徹尾 影の存在、絵画空間に対しては傍観者として、姿を隠したままに立ち会わされる。

他方ヴェラスケスの場合は、「ヴィーナス」の場合(また、以下で触れるが「ラス・メニーナス」の場合も)

 


|(モデル)
鑑賞者

 

<鑑賞者に>、いきなり鏡を直面させ、モデルはその脇の媒介者や一種の喚起体=我々(鑑賞者の身体)の化身、または立場の代理のようなものであるところが、面白いし、ヴェラスケスらしい。

 

ここに、もうひとつの道具が配置される場合も同様である。

フェルメールの場合もヴェラスケスの場合も、「鏡」と「窓」(または「扉」など<もうひとつの世界>を示唆する道具)は、ほぼ‘並んで’置かれることにより、その効果と役割とを発揮することがあった。

フェルメールの場合、「鏡や額縁」がつねに“モデルに対して”正面か・ほぼ正面であるのに対し、ヴェラスケスの場合、これらはむしろ直接私たち“鑑賞者に対して”正面、乃至ほぼ正面であるところが興味深い。

ヴェラスケスでは「ラス・メニーナス」中、 「鏡」と「扉」(「扉」…それは半ば開けられた、もうひとつの世界としての存在として配置)とは、並んで置かれていた。

他方、フェルメールの一部の作品中にある、「窓」と「鏡」(※さらに、額縁の絵・地図など,ここには図像学などの解析余地がある、付記10/09/30)は時折、並んでいる。もしくは、ほぼ同一次元(もっとも奥まった層)に配置される。

 

フェルメールでは、(首飾り天秤音楽の稽古
図1
フェルメール構図01

または
図2
フェルメール構図02

 

ヴェラスケスでは、(ラス・メニーナス)
図3
ヴェラスケス構図03 となるのである。

 

たしかにこの比較は、彼らの“主題”とその際の道具の扱いと配置、役割の持たせ方…etcetc.、それゆえ至当に帯びる構図性といったものを、それぞれ端的に示唆しているように思われる。

注1) ことにフェルメールの場合、窓・(半ば)開いた窓、などが、殆ど鏡と同じような効果をすでに持つ面が多くあると思われる。

  1. 1)閉じた窓:全き自己同一性=鏡1
  2. 2)他者にむかって幾分か開きかけた窓≒鏡2(地図などが最も奥手の層にあったりする)

というような具合…

注2) 尚、ヴェラスケスの場合、「ヴィナス」に於る「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである。

「ヴィナス」に於るトリックは、本来画家の立つべき視座を、画家自身の気配を空無化したまま鑑賞者にあけわたした格好で、画家のかわりに特権的闖入者である私たちが、絶対不可侵領域でにいるはずのモデルに見られる、というものであるが、ラス・メニーナスに於る「見られる者の交換」が4重構造になっている、――つまり扉を開け放って傍観する紳士、鏡に投影された国王夫妻(ともに、あちら側-彼岸とこちら側-此岸の交換)、また本来ここに立つべき画家自身、身体のない国王夫妻、また鑑賞者(絵によって存在を暴かれ視線としては絵画空間の中を侵入しうるも、身体として永遠に参与できぬ自由で不自由な鑑賞者)、の間で――のと較べれば、画家と鑑賞者との間で生じる、まだ単純で原初的なものである。

また鏡に写っているのが、「ヴィーナス」ではモデルであるヴィーナス自身(此岸と彼岸の中間地帯――純粋「絵画空間」に在る者)に過ぎぬのに対し、「ラス・メニーナス」では国王夫妻(画内に受肉しないモデル;鏡像として示唆されるモデル;此岸であり彼岸)、という重層トリックであるという面からの比較でも、「ヴィーナス」に於るそれはまだまだ素朴な現象学である。

が、ヴィーナスの「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである、この効果は、モデルと画家の位置づけ上当然のことながら、見方を変えればそのままおそらくちょうど「ラス・メニーナス」に於て、画家ヴェラスケスの姿と、私たち鑑賞者の間に立っていた“カンヴァスの背中”の役割と同様であって、画中のモデル乃至登場人物たちが<視線>をぶつける対象であるとともに、そこで「くの字」に曲がった彼らの視線を、私たち鑑賞者の視線と交換させる為の喚起体である。 (2003'04/05:附記/2004'03/06一部施:訂正)

 

2003年03月31日 (月)

ディエゴ・ヴェラスケスの画を丹念に見て行くのは、ラス・メニナスがきっかけとなったつい昨日からのことで、まだよく解らないし、正直 生まも見たことがない(来日したスペイン王宮絵画展を見ておくべきだった)。

しかし、こうして時を追って彼の画を見ていくと、時間の流れとともに彼の芸術の多面性を、垣間見ることが出来る…。

カラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する、ことに静物に於る写実主義にはじまり、1630〜40年代の比較的動性ゆたかな画風。筆致にはある種の省略法のようなもの見受けられる。

=====

  1. Three Musicians, Gemaldegalerie, Berlin(年代不詳?)
    カラッチ(豆を食べる男)→ドメニキーノなどとともにボローニャ派の特色ももつが、その中にあるカラヴァッジョ的。

    以下は皆ヴェラスケス自身の画。
  2. An Old Woman Cooking Eggs, approx. 1618
    多分にカラヴァッジョ的。。。
    下の画に較べ、カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率もまだ働きはじめない…。奥行きを出すのに効果的な上からの角度を保持。
    ※(カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率…カラヴァッジョの徹底したリアリズムの中で唯一置き去りにされているものがあるとすれば画面の奥行であろう。これが満たされるには詩性を帯びる画風を待たなければならない。たとえば17Cオランダ絵画 cf)カメラ・オブスキュラの登場。シャルダンに関しては故意であろう。)
  3. Christ in the House of Martha & Mary(年代不詳?たぶん10年代後半ではないだろうか)
    オランダのアールスト的な徹底的写実主義が、物の描き方に見出されるが、それに比し人物のほうは、幾らか実在感を省略されている感があるのはおもしろい。静物に較べた時の人物描写のこの実在感のなさは、写実主義の未成熟というよりは寧ろ近代主義の先駈けだろう…。
    ここにはカラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する静物に於る写実主義と、同時にシャルダンと近代絵画に共通の、奥行(z軸)の圧殺も見出される気がする。 が、右手の断片はすでに17Cオランダ絵画同様の素描的省略法(シャルダンにも見られる)が。
  4. Joseph's Bloody Coat Brought to Jacob, 1630
    プッサン→‘カラヴァッジョ周辺画家’的 人物描写とその動性…。色彩はバロック(プサン〜リュベンス)/新古典主義アングル・ダヴィッド
  5. The Adoration of the Magi, 1619
    カラヴァッジョ的、でも微かにティエポロ的なものの予感が(?)。。
  6. The Needlewoman, 1640
    ここには、フェルメール的<没入>――他者非介入が見出される。
  7. The Coronation of the Virgin, 1641-44
    ここにはムリーリョが。(動性、また色彩)
    cf1)ドラクロワ
    cf2)↑リュベンス?×ヨルダーンス;同時代バロック
  8. A Woman as a Sibyl, 1644-48
    ここにはロココの予兆。
  9. The Feast of Bacchus (Los Borrachos), 1628-29
  10. Don Sebastian de Morra, 1645
    庶民を描く。リアリズムと省略法の同居。こうした庶民的粗野さ・伏在する動性は、17c初期オランダ絵画ハルス、フランスのル・ナンの人物画が彷彿する。またはヴェラスケスよりやや後のボルフ(17Cオランダ)へ?こうした省略はロココへ通じるのではないだろうか。
  11. Juan de Pareja, 1650, oil on canvas
    ここには、はやくも写実主義の或る種の頂点がある。何故ならこれ以降(ヴェラスケス自身を含め)、写実主義は新古典主義的形式主義を帯びはじめるからだ。他方、ロココやオランダ絵画は、すでに印象派にも通じる主観(主義)的動性を帯びてくる。がこの絵には、未だ静性→動性の可変的両義性、瞬間の抽出におけるごく自然で適切なバランスがある。
  12. そして昨日のラス・メニナスの中の、幾人かの人物や、同年のこうした王女の絵
    The Infanta Margarita, 1656
    には、ダヴィッドを典型とする奇妙な新古典主義的「停止性」が、すでに伏在する。
    もっともこの宮廷風な凝結感は王女のドレスなど当時の形式的な文化から生じるのであろう。逆に庶民を描く際は生き生きと動的である。宮廷の人物には、動きの瞬間・時間の断片がひとつの空間に奇妙に持続させられるかの強制力をともなった停止を強調する。
  13. The Medici Gardens in Rome, 1650
    これなどに見受けられる或る種の省略法(<ものの厚みのリアリティを確保した>詩的省略法)は、グァルディなど18世紀ヴェネチア派を想わせる!(或いは英自然主義ボニントンの海岸の絵)。カナレットのような写実主義にはこの点=厚みが欠けていた――ことに壁面、大地の描き方――。
    が同時に樹木などの幾分かよどんだような暗い省略法には、すでにテオドア・ルッソーのようなバルビゾン派〜英・仏ロマン派の予兆が混在してみえる…(そしてそれらは印象派に通じるだろう)。
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生の根源:無・空・滅と、理知性(の介在余地)を巡って。その際の自我の位置づけ

メモ。http://bit.ly/dxqcL9
(参考文献。偶然見つけた非常に有意義な上記Blog記事をきっかけに、以下、二・三日つらつら考えたことです。どうもありがとうございました)

これは、シューベルト――郵便的/事事無碍に限りなく近い表現のスタンス――とシューマン――本来的意味における(と私は捉えている)解釈学的/理事無碍に限りなく近い表現のスタンス――の関係と距離について考え続けているためでもある。

 

上記Blogから引用

[西谷啓治の『宗教と無』はジャン・ポール・サルトルの『存在と無』批判であったという。西谷/ブライソンによれば、サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果しているという。西谷/ブライソンがここで持ち出すのがいわずもがな「空」であり、「無」であり、そして「場」の論理である。「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定としてある。西谷の二重否定はもともとヘーゲルからきているが、禅的な「非ず非ず」の論理とも言える。=以上、引用]

 

こういった事を巡ってのつらつら。

 

まず[サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果]、この点は解る気がする。

たとえば西田幾多郎は後期以前では、(現象学が意識を対象化して見る主体を自我に置くのに対し)知の主体は自我をどこまでも主体方向に超えてゆくと捉え、「於いてある場所」の窮極は超越的述語面(見る私を超えてこれを包むもので「私」はその働きをセルフのうちに映す)という形だったようだが――もちろん後期は自<覚>の成り立つ地平=場の構造として把捉――、現象学(この場合フッサル?)と同様、サルトルも知=意識対象化の主体をセルフにくるまれない直かな自我の地平に置いている、ということへの批判と捉えてよいのかと思うし、たしかにそれだと主体を強化するにすぎなくなる、そうなりやすいと、実際思う。

 

ただ、以下の点、[「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定…]に関して、こうした西谷/ブライソンによる理解仕様には、疑問が残る。禅的な立場からはやはりつねにそう捉えるだろうが、いつもそれ「しか」ありえない・ゆるされないのだろうか?(とくに空じられた後、覚の後。すなわち 覚の覚 における問題)

場の論理だと直接的生に還帰した主体は空じられ(=あえて仏教用語でいえば事事無碍)、リアライズされる際、極(いわば「脱中心化」の極限)となるゆえ、知 とくに反省 は生じないのだろうが、人間はそこ(直接的生の体験、また体験をした極)から、この超-個矛盾的同一の、把捉とある種の伝達願望を半ば織り交ぜた表現を発する際(=理事無碍へ。)、その体験したリアライズ=覚→覚の覚について、理知でその出来事とその事-事の関係性とを捉えるにあたり、極としてのセルフ、その中にくるまれる舵取り役としての自我という構造のもとに在るまま表現しうる(成功することがある)ので、その場合には、その関係性を踏み外さなければ主体を強化してしまうということはない、という把捉が成り立ちうるのではないのだろうか? (認知が複雑になる為主体がかさばることはあっても、それは所謂<自我が強まる>という*罪の意味とは少し別の観点から扱いうる地平および浄化的魂の性質がありうるという問題である。)

 

と、その際、そのまっとうな!?自我、本来的位置づけに還帰しえた自我にしてみても、リアライズの出来事を理知で感知=把捉し、「語る」際、やはり〈象徴形式としての〉遠近法、他者との距離把捉を使う必要の生じる局面があるのではないか? つねに<これ=象徴としての遠近法、を使っているか否か>という観点のみを以て、その自我を、またその自己-自我があつかう理知を、(空滅の不十全として、無碍の働きと「力」の場としての不徹底として、またありうべからざる主体の状態として)ただちに罰するべき、なのだろうか?それとも(もしそうだとすると)理知を以て表現すること自体を一切無効としなければならないのだろうか――表現のスタイルとしても?――とすると、表現として唯一認められるべきは、or成立可能なのは、やはり隠喩的方法しかないと、、、? (またしても 郵便的、の時と同じ結論になってしまうのか?)

 

すると上( http://bit.ly/dxqcL9 )文献上部でいわれている「審級」(意味作用の可動的モザイク、動的テッセラであるところのネットワーク=文化的構築物=了解可能性)を組み入れた表現のうち、その伝達・啓蒙性により重きを置いた分野や性質のもの――教育・(一部の)芸術・哲学――などの問題は一体どうなるのか。。

 

つまり私が思っているのは、(ブライソン/西谷的思考によって)サルトルが不十分だと言われなければならないのは、「〈象徴形式としての〉遠近法」を<用いていること>、に由るのではなく、その用いる<当体>、自我の在りようの問題、つまり極としてのセルフに包まれた舵取り役の自我でなく、極化/脱中心化し切れていないままの自我であること、セルフによって包摂されていない自我の(残っている)ままであること、そのものに由ってでなければならないのではないだろうか?、ということである。

 

自我が本来の在るべき座に戻っているという<条件付き>で、無→リアライズされた「後の」働き方としての理と知を、その質によってはもう一度復権させる必要を考えている(多分そのような時代がじき到来するはずと思う。ポストモダニズム以降、カントやデカルト、ライプニッツの捉え直しなどなされる流れもあるらしい今日であるだけに、己が寡聞なだけでひょっとするともう到来しているのかも知れないが)私としては――いつもこの点がネックになってしまうのだが――メタファの価値の尊重とともに、**(存在論的限定条件付きの)自己-自我に於ける理知の評価しなおし・捉え直しという面も、きちんと考える必要のある観点であることが世の中でもっと主張されるべきであり、そういう時期に来ていると思っている。

 

マーカー部分、*および**について

 

ちなみに、このことにも関わるであろうTwitterでの茂木健一郎さんのツイート(2010/09/16)を二つ程紹介列挙しておきたい。

 

  1. 無記(11)諦念と慈愛を絵に描いたような老父の中に、冷たい刃のような気持ちが隠れている。人間というものは、複雑で、重層的である。見えるものが全てではない。しかし一方で、すべてを外に顕す必要もない。
  2. 無記(12)フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。小津安二郎はそのことをわかっていた。

 

私はこうした位相に関する理知性の作用はまさにシューマン的 理事無碍(もしくはベートーヴェン的といってもいい。音楽的に言えば内声部の充実・思考の錯綜-重層化ないし、時に省略)の非凡さにも関係する事柄だと思っている。つまりここにまさしく<人格>-自我の問題、(無意識→潜在意識→意識への)「審級」のクオリティの問題が関わると思っているのである。

キリスト教においてイエスは、「右手にしていることを左手に教えるな」(自意識の問題・意識の直接性と純粋度の問題)と説いている。たしかに非常に鋭く、また尊いリアリティを突いている(この考えはおそらく禅にも通じる)。実際、この直接性と匿名性の世界にのみ現出可能な、まぎれもない価値を持つ表現というものがたしかにある。また右手のしていることを左手に教えることによって傲慢=主体の強化につながり、またこれにより同時に失うものもたしかにある。

そのことを、見込んだ上であえて言うのだが、それは多角-多元的な問題のうちの核心的な一面ではあるが――宗教にはしばしばこのうち「傲慢・不純・失うもの」をばかり、ともすると強調しすぎるきらいがある――その他の側面、つまりこの窮極の深い位相に於いてすら、ともすると関わってきてしまうことのある他者連関。この問題にも一考を要すべきではないだろうか。つまりここで人格・精神の尊厳として表出すべきリアリティとすべきでないリアリティを峻別しようとする、理知性の作用の問題である。その最も浄化された形は、直接性と匿名性、すなわち融通無碍を殆ど浸蝕しない(かにみえる)性質のものとなるであろう。日常的な会話等ではその理知による瞬時の判断が、芸術表現のレベルでは熟達した判断が、それぞれ要求されるということになると思われる(その表現者の資質と感性との協力関係により、殆ど無意識レベルのままなされるか(事事無碍)、潜在意識や意識レベルでなされるか(理事無碍)の違いはあれ)。

 

そうした、直接的生の「覚」と表現とに伴う理知性の「質」について、もっと宗教も、出来ればもう少し、教育や芸術、哲学などと共に(無粋だとはいわずに…)考え対話してほしいと、思っている。

というのも、<直接性>の生命力に根ざしている場合、そのアクロバティクな凄絶さに他者を巻き込む、もしくは悪酔いさせる種類の生のリアリティ表出が――つまり共生感覚を ともすると欠いたままの表現・自己表出が――あり得ないわけではないからである。(虚無・ニヒリズム・エゴイズムを克服し切れていない直接性の場合。この際、そこへの理知性の介在なり存在を全否定すると、その生のリアリティを共生可能性の方向へと修正し難い面が生じてくる)

尤も、ニヒリズムや絶望の表現に関しては、むしろその吐露、社会への告発そのものこそを表現目的・問題提起とする場合は別であり、それ自身の質が高ければ「表現の力量」「スタイル」として<全面的に認められるべき>であるし、その営為により自己救済されるべきでもあるが、そのアトモスフェールが人間社会の「倫理」と「時代的気分」をも担う――ニィチェがあまりに強力に支配したように――べきであるかどうかは、慎重に考えなければならないと思う昨今である。

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