ロベルト・シューマン(R Schumann),エリック・ロメール(E Rohmer)の流儀と現象学(Phenomenology)
これ——現象学的態度——はまさしくシューマンの精神であり、ロメールの精神であり、
彼らの芸術性であり表現態度であって、流儀である。
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FB 過去の今日 2016 10/16
RT @merleaupotybot
目に見える物としての全ての個体は、次元としてもまた機能する。それらは存在の裂開の結果として与えられているからである。結局、<見えるもの>の特性は、厳密な意味では<見えない>裏面、つまりそれがある種の不在として現前させる裏面を持っていることだ、ということを意味する。『眼と精神』
RT @merleaupotybot
受肉せる主観としての私は他人にさらされており――別の観点からは、他人が私自身にさらされているように――、そして私は、私の前で話している他人に自分を「同一化」するのだ。『世界の散文』
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明日のぶんの記事
FB 過去の今日 2016 10/16
(シューベルトの後期ピアノソナタ
─ 歌曲を通じての一考察 ─
三好 優美子)
http://www.piano.or.jp/report/04ess/ronbunreport/2000/04/01_8989.html
面白いとは思う
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社会に適応できず、自然界にも安らぎはない。神を拒否し、優しく包み込んでくれると思っていた死にまで見放され、気が狂うことすらできない。安息を得られないままさまよい続けるのが、『冬の旅』の「さすらう」主人公なのである。
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といった一文なんかも、痛くわかるし 見事だと思うし♬
だけれど
こういう、楽典にも即しつつしっかり語っていそうな分析のなかで
思わず著者の管見が出てしまっている所、たとえば
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「苦難を乗り越えて歓喜へ」と、力強く闘ったベートーヴェンとは少し違い、シューベルトは、「すべてを受け入れる」という方向に向かったのではないだろうか。すべてをあるがままに受容することは、闘うことよりも更に心の強さが要求されよう。否定しないで、苦しいことも事実として受け止める。」
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にくると、めげるというかしょげる...
ベートーヴェンに対する偏見は、批評空間での浅田彰の音楽評論(ヘーゲル=擬制弁証法=べートーヴェン!みたいな捉え方)や
雑誌「思想」での、音楽もの特集(シューベルト特集でも見た)でもよく散見されるけれど——で、シューベルト好きに、多いと思うんだよネ^^*——
ベートーヴェンを「このレベルで!?」批判してしまえることが、結局はシューベルト自身への冒涜にもなっちゃうことに気づかないんだろうか...。
「すべてを受け容れ」なければ——零れるもの、落ちるもの、漏れるものらに、全霊を以て傾注ができるものでなければ——苦悩を突き抜けて歓喜に至ろうなどとは思えないこと、内なる平和と外なる平和が合致する世界の「成就を希え」ないことを、
ベートーヴェン自身ほどじゃなくてもいいから、知ってほしい。
(シューベルト賛歌=ベートーヴェン否定 っていう構図はそろそろいいかげんにしてくれないかな〜)
こんな言葉をスッと書けちゃうって
<創造行為(その創造行為は音楽じゃなくても何でもいいけど)の現場>に立ったことがないことを露呈してしまうのではないのかな