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Liberaのこと classical cross-over のこと

シューマン——6 Etudes after Paganini, Op. 10——聞きながらクロスオーヴァーのこと書くのも変(*)だけれども?笑)、

最近、UKのソプラノユニット Libera に嵌っている。

 

*... 否 そもそも論からするとけして変じゃない。。。あらためて♪

※シューマンが直接歌われるか、ということとはとりあえず関係なしに。ある意味、シューマンを多くの意味で発掘の起点としたフォーレが鑰もしくは(ドビュッシーやサティ以上に大きな)分岐点に、なっている[※ワーグナーとは言わない所が、私らしい...。今のところWikiなどでも、フォーレはワーグナーからいろいろ学んだとあるが、まずそれ以前に調性への問題意識のとっかかりからしてもシューマンであろう。それは早晩明らかになるように思う。ワーグナーは、もし自分が調性拡張の起点であると自負するなら、シューマンが精神病院に行く前から自称すべきであったろう。それと、シューマンが辿った地点からフォーレ的幽体離脱の転換へと至るダイナミズムに絡む、諸問題がある(**)。]ことが改めて把握され、それが脈々たるイギリスの ジャンルを超えた Choir 乃至 多声部音楽の伝統と合流し相まって育くまれていれば十分なのである——ドイツ→フランス(ガリア・ケルト)→イギリス精神(エルガー以降+北欧→アメリカへと通じる調性逸脱)へとつながっていく、例の脈(***)——。

 

**...おそらくベートーヴェンからしっかりと始まった、世界における“自律”的主体性(カント・デカルト等近代観念論とその様式・意匠における弁証法)の確立の必/当然性と、こんにちの弁証法(現象学的真理)の狭間にどうしても一度は横たわった問題であり、それは倫理性を含む。

参照:サン=サーンスの諸言葉(ツイッターのBOTでも手繰れる(★)。かれの悩みは思慮深い。ここには、弟子のフォーレに比しサン=サーンスは保守的であった、などといって解消できない何か様式(美)観=主体性確立問題に、合通ずる、人間的良心(個の自律性及び公共空間の確立とその律法化問題?)と表現倫理の問題がある。ワーグナーの問題も然りである。)

 

***...RSchumann→Brahms・SaintSaens・Faure→Elger(と彼以降のイギリス)+Grieg等北欧、のこの線。その手前に、スラブなど民族派に行く流れがあるのだが)

 

★...

●ああ、明晰さよ。人々はこの明晰さを少しは愛してきた、これは確かだ。明晰さ。これは様式の純粋性だ。

●今日、すべての事柄のしりぬぐいをさせられなければならなく、またすべての事柄の弁明をしなければいけないのは、象徴主義だ。もしあなたが象徴主義者であるとするなら、心おきなく無意味で、耐えがたい程に退屈であるがいい。そんなことは大した問題ではない。

●人々は、昨日の不協和音は今日の協和音だという。確かに、人々はすべてのことに慣れることができる。しかし悪い習慣もあるのだ・・・

●私が死んだら、人びとは20年間私を忘れるだろう。いやもっとかも知れない。私の作品は自力で身を守らなければならないだろう。私は自分の書いたものに自信を持っている。それらの価値を発見する新しい世代がそのうち生まれてくるだろう・・・

●はっきりと世俗的な音楽と区別されるような本来の意味での宗教芸術はない。あるのは良い音楽と悪い音楽であって、それ以外は流行や慣習の問題にすぎない。

——by C_SaintSaens

関係記事 http://reicahier.jugem.jp/?eid=88

 

 

 

 

LiberaとClassical Crossoverに話を戻そう。

 

わたし自身、聖歌隊出身であり、もともとクラッシックのジャンルのなかで人間の声のジャンルではオペラやオペレッタ(これでもか系?^^*)の方に行くよりChoir——聖歌や宗教音楽等、人間臭さの濃くない質の=自我肥大や出世欲などに汚されたくない質の 笑)音楽の方——に行きたがる性分であったので、

クラシカル・クロスオーヴァーの側で、相応の宗教性をもおのずから担保する形で《一定程度》その技術と表現レベルがアップしたなら、ある種のしがらみと形骸にしがみついたままのクラシックの世界よりむしろその『外』の側が、人間と時代との真理といったものを健気に獲得することも、必然といえば必然...と思えるのだ。

 

ところがLiberaの場合、その質においても、一定程度なんていうものじゃなかった。

歌としての技能・技術もさることながら、表現力・純粋度と完成度——自発性(みずからとおのずからの一致)の完遂力。それはまさしくこの時代において至った、本来的宗教性の発露なのである!——といった点においても、完璧というべきだろう。

 


 

■↑deep peace の元歌は、John Rutter!のGaelic Blessing(https://www.youtube.com/watch?v=7d5ZuOVO3f4

 

 

それと、時代が時代、ということが、それこそcrossoverしちゃってる。

 

 

音楽史の点からも“究極の局面”に突入した——クラシック自らの側からもそれ(思い切っていってしまえば、一部の人々の真摯な努力や良心を除き、自らのジャンルの 終焉もしくは自滅)を呼び込んだ、と私は思う...し、クラシックの外のジャンルが成してきた運動展開自身の必/当然性もある——と同時に、<人間社会>という面からも、ざっくり言って「祈り」の時代に否応なく至らしめられた訳だ。

 

 

祈り、というのは、Liberaの子たちがレパートリーとしている多くの曲にも当てはまるのだが、大まかに言えるところの「棄民」排出の多い昨今、『人間』への希いと、それを超越した(しかし『人間』味を失わない)位相にいるであろうものへのひたむきな訴求——寄り添いと見守りと平安への切なる願い、「愛」の希求——が「祈り」として現されていること。人-神の両者が合一化もしくは中間地帯化している領域、そこにこそ住む何かに、彼らから発される至純な言葉も旋律も、向けられていること。ここに、すべてが端的に明かされている。

そう。一言で言ってLiberaの発想と運営には、明確な哲学があり、人間と社会への深い洞察があるのである。

 

 

生身の人間だけに訴えても、おそらくけして成就されはしない(不安や懼れや悪に、所詮打ち勝ちはしない)願いであろうが、かといってまるきり人間の相貌を失った超越的なるものに向かっては、このような純粋さと切実さとが告白されもしないだろうような、魂の領域。。。つまり愛の希求=祈りでしかないようなもの。それを、現代人が抱かされている。そのような時代に至ったということ。

 

 

ところで、バッハパッヘルベルタリス(Canon)サン=サーンスカッチーニシューベルトベートーヴェン(Immortal Beloved)ドヴォルザークシベリウス、といったクラシックジャンル(Liberaが彼らの曲の魅力を最大限に発揮した形で聖歌風に昇華させている)はもとより、日本の上質なポップクラシカルの作曲家・演奏家も、Liberaに曲を提供したり共演したりしている。

 

村松嵩継(Takatsugu Muramatsu)氏である。

私は9月に彼のコンサート(作曲家・ミュージシャンとしてのみならず、シンガーソングライターとしてもデビューされたとか)にも、行く予定である。

 

 

映画「誰も守ってくれない」の主題歌(You were there 冒頭に紹介)や、彼方の光(Far Away)、など自らの曲を提供することで Liberaを日本でも有名にした音楽家 といえるが、

 

 

私の一番好きな曲 We are the Lost(それこそグレゴリアンチャント由来の旋法を生かしたフォーレのレクイエム的コード進行の究極版といえようもの)にも かれは一枚絡んでいる。

 

 

(※ We are the Lost についてのlicenseについて記されたページ——この曲が何人かの作品の集合体ということ——を見ると、LiberaのMusic DirecterでKey ManであるRobert Prizemanの他Dvoark,Sibelius,Holstなどクラシック作曲家とともに、彼 Takatsugu Muramatsu が名を連ねている...。)

 

私はこの曲の譜をもたないが、自宅の小さなオルガンでちょっとこの和声進行の秘義をひそかに手繰っている...。

とてもよく出来ていて驚くばかりである...。

 

 

Liberaの運営に、自由さとともに着実さと画期性を感じるのは、イギリスの伝統でもあろうが、変声期を過ぎた隊員にもそのまま学校に在籍することを許可している点もある。Beatlesでは Paul McCartney,John Lennon,プログレのYesメンバーであるJon AndersonやChris Squireも聖歌隊員であった。その時期にGregorian ChantsからThomas Tallis,William ByrdなどRenaissance期のPolyphonicな音楽を叩き込まれており、作曲に生かした。Kate BushやNorah Jonesもそうだ。リズムや変拍子などに気を奪われやすいが、音列を平易化すれば旋法であるかそれを生かした曲想である。彼女らも、ピアノ、ヴァイオリンなど楽器を習っているが、やはり聖歌隊員としても在籍している。

 

凡その民間伝承音楽がそうなのかもしれないが、bossa nova などもリズムを除外すればもとは旋法チック(Modal)である...。西洋音楽とはもとよりそういうものなのかもしれない。

 

征服されたガリア人やケルト人の元来もつ音楽性が、お経めいたChantの平易さに、よりはげしくメロディックなゆらぎと表情を与えてきたのかもしれない。

そんなこんなで、人材育成の点からしても、系統だった旋法系の多声部学習とその透徹は必須条件なのであろう。

 

Liberaは AVE MARIA をシューベルトのもの、カッチーニのもの、カッチーニのを編曲しつつ新しく創作したもの(by Robert Prizeman?)、いくつか録音しているが、これ↓はそのRobert Prizemanの作曲らしい。

 

 

 

かなりの名曲、名演だと思う!Liberaの少年たちにはもちろんだが、村松氏の作品への眼の付け方や

こうしたAve Mariaの創作仕方ひとつとってもそうであるが、他にも諸古典、FaureやSaint-Saënsの各曲への注目・変容仕方(アプローチ)など、****

やはり個人的にはR Prizemanという人への興味がつきない。

 

****...

Lux Aeterna という曲にはFaure's Requiemのin Paradismから引用乃至インスピレーションを付与されそこから構成されている旋律がある

 

O Sanctissima (Songs of Praise)  には、Saint-Saëns  Le carnaval des animaux「動物の謝肉祭」水族館<Aquarium>の影が支配的に伏在するとか(ソプラノソロの背景になっているコーラスの在りようでわかるのだが、グラスハーモ二カの奏でる最後の旋律でもその描線が暗示されている)。

 

など。

 

 

 

 

最後に。Schubertのもの。これを聞くまで、生きていてよかったと思う演奏。。

この少年のひたむきで的確な表現力には頭が下がる思いだった...。(F Schubert's AVE MARIA)

 

 

 

 

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