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フォルムの問題。形式感(観)とは何か

主題と変奏にかんする形式(感)について

 

 

Twitter  Novaris_botより

 

地上的な身体の形象は、内に潜む霊[精神]の表現体や器官としてはあきらかに不十分であるが、この不十分さの知覚こそが、固定化を排して前進する思考そのものなのだ。この思考が、あらゆる真の思考の基盤になり、知性の進化を促すきっかけとなる。 『花粉』

 

複数の人物から成り立っている人物はみな、二乗された人物―もしくは創造的精神[Genius]―である。この観点からすると、ギリシア的創造的精神というものがあったのであって、ギリシア人というものがいたのではないと言ってもいいのではないか。 『断章』

 

 

2012年 FBより転記

 

例 シューマンとブラームス

 

ある作曲家の作品は、主題とのつながりが希薄、等という判断根拠は何か。

その際の判断根拠は、音楽の、その時代時代における形式・構築感に対する理念や感覚、判断力となっている既成観念の呪縛をこえているのか、あるいは(深層)心理学的・哲学的なつながりやら、それらの今後の人間精神に対する探究・洞察の方法の多義的な発展の仕方を考慮したのを、まえもって上回るだけの恒久的な意味を本来的にもつのか。

 

ましてこのことが、言語・弁術における「論理的思考」とはちがい、こと音楽的な{暗黙的}構築性(の価値判断、またはこれを越えることへの価値判断)について拡げて把捉しなおされるとき、その飛躍する想像力の多角的・交錯的な可能性や、芸術が人間心理に与える充溢度を考えた場合、どう考え評価するべき事柄になっていく、と捉えられるのか

(たとえばブラームスとシューマンとの間で、「変奏に関して…異なる考えをもつようになった」…「主題とのつながりが希薄な自由変奏を避けるか避けないか、という相違が生まれた(意訳)」とされる点)

 

主題とのつながり、というのを考えている視野(聴野)の既成範囲、主題の背景となっているエクリチュールへの射程深度の問題も――しばしばこの(既成)範囲と構築性を超えた時、ただちに「破綻」といわれるのだろうけれども――生起してくる気がする。

 

むしろ{暗黙のエクリチュールに沿って}主題が別の主題につながっていくのを理解することによって、逆に迂遠に獲得されて来る、より大きな主題(の流れ)への驚愕、主題aと思われたものが異?主題bとの同一位相内(厳密には転位を含むことになろうが)交錯をあえて汲まれることでより大きな主題Aへと発展する、という芸術表現ならではの感動もあると思うが

 

(※補記 2018/02/04)ということになると、そもそも2主題間の関係の希薄、ましてや別主題であるとの知的判断の射程そのものが、深層心理を含めた世界——創作者の内的必然性——からみればじつは浅慮であった、ということにすらなりかねない事態も、しばしば起こりうる...。

 

★ひとつの身体によって通常得られる変奏(変容)の範囲とその帯びる構築的形式というものを、どの身体もが拘束されるべきなのだろうか。(その意味でzero地点の身体=表現の発現体としての身体は予めひとつであるべきなのか?)

 

 

ツイッターでのまとめ 2012/06/07

 

 

(※※補記 2018/02/04)

こたえは、シニフィアン-シニフィエ関係に於る「シニフィアン優位」性、及び「シニフィアンの自律性」問題等の観点からしても、こんにちの現象学〜精神分析学の諸成果により殆ど明らかであろう。こうした問題意識と事績が芸術の世界に於るフォルム(の価値)観に投影するのも、時間の問題であるように思われる

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:02 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |
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