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モーリス・ユトリロの無重量感
2002年12月24日:HPに記載したもの

建築物における〈厚みのなさ〉といったのものは、写実主義にもあるし、形而上絵画にもある。写実主義においてはそんなことはありえないように一見思われそうだが、かなり透徹した写実主義、その極地にも現れる。

カナレットなどはその典型で、写実性そのものに於ては頂点にあるひとりだと言ってよいのだろうが、重力感といたものはかなり削がれている。そういう性質が、かたやターナーのような茫洋さへ、かたやボニントンなどの印象派に“通じる”人びとへと受け継がれていったようにみえる。

*私の手にある小さな美術書では、ボニントンはカンスタブルやドラクロワの路線を継ぐとしてあるが、むしろカナレットからくる要素も大きいように見える。色彩などは、(ドラクロワ→)カンスタブルからのちのテオドア・ルソーに通じるような所があるが。

ボニントンに於ては、建物の厚みのなさは、ターナーの宙に浮いたような茫洋とはまた少し違った、特有の精妙さの中で継承されていったように見える。

他方、写実主義と逆に、印象派はみな厚みを帯びないかといえば、意外にそうでもない。モネの教会も、シスレーの教会も、輪郭のさほどはっきりしないスタイルのなかで、ものの厚みと質感を光と影を通して間接的に時間の経過と共に具現している。

さてユトリロの建物の厚みのなさは独特である……。筆致としてはかならずしも薄弱でなく、輪郭線を強く出し、入念に「黒」を入れてものの境界線をはっきりと打ち出しているのだが、その建物の存在自身はというと、まるで舞台の建て具のように、厚みを帯びていないのだ。

あるいは右半分がすっぱりと切り落とされたような哀愁をたたえた教会があったりする。

パリの急坂の路地の果て、遠くにみえる長い階段も、徐々にのぼっていく辛さを演出しているというよりは、むしろ垂直に立った塀にひとが何人かへばりついている―しかも、宙に浮いた格好で!―とでも言うようだ。

こういう厚みのなさ、奥行きと重量感のなさとは何であろうか。 かれの実存は孤独の宙に浮いたようだ。しかしそのような非現実性のなかにこそ、かれの虚脱感にも近い哀愁がただようのである。

無重量感とは、つよい輪郭線によっても、黒を多く使う明快なコントラストによっても克服される事なくにじみ出うるのだというのを、かれの絵から知らされる。

| Rei八ヶ岳高原2 | 13:02 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |
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