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プログレ ブリティッシュロックとその他、イタリアンロックなどとその底

一片の小説、詩、絵画、音曲はそれぞれ個体である。つまり表現と表現される物とを区別することが許されない存在、従って直にそれに接することによってしかその意味に近づくことができない存在であり、それらの存する時間的・空間的場所を離れずにその意義を投射する存在なのである。

『知覚の現象学』 (メルロ=ポンティbot @merleaupontybot)

 

1)人のありようのみならず、すべての表現行為は、「状況づけられて」いる、と、自分がずっと言いたかったことのすべてかな。
状況づけられている、ということこそが、(制約性でもあると)同時に 尊厳 でもある、という..。

 

 

2)主体と状況。
たとえば、ある科学者なりある芸術家なりが、自分は政治的人間でない、と宣言しつつ、自分の研究や発言、また作品を、その時の政治状況と無関係に?作り上げたり発表しても、無関係だ「というスタンス・態度で研究し作った」という政治性を帯びてしまう、というカラクリに無頓着であれば、そのような研究や作品となってしまう、ということ。
(このことは、その研究や作品の中で、直接政治的なことに触れ政治の問題として語るかどうかとは関係がない)

 

 

 

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エルガー以降のイギリス系音楽系譜。

 

これがYESを筆頭とするプログレッシブロック( Progressive Rock )の昇華性の高い、調性拡張後の聖歌的『ハモリ』(ポリフォニーや対位法の利用法 これをなしたのは主に影の力?クリス・スクワイヤと、より東洋寄りなジョン・アンダーソンだと思う。ハウは、もうすこしダウランド等の系譜を通っているから。合流しうるとは思うが)と通底するように聞こえる。

 

オルガンを彷彿させるエレキやキーボードなど楽器の声になっていても、同じ。

 

ブリティッシュの音楽家系譜————NAXOSなんかの収録を参考にすると、 具体的には エルガー ディーリアス アイアランド バックス ヴォーンウィリアムス ホルスト バターワース などという把握が妥当のかな。

半年くらい前に気づいたのだが、一番最近ではジョン・ラターという人がいる(この人も同系譜だと言っていいと思うのだけど)、まだ現役でやっている。もしかするとラターは、一応はクラシックなはずだけれどもかなりジャンル横断的に思える。

2013年に亡くなっているジョン・タヴナーなども入れるべき?(すこしバタ臭い、ビザンツ-東欧的匂いも醸す現代——前衛音楽崩壊後——作曲家)

 

(ブルックナーの聖歌などもそうだが、結局このイギリスへ行った[再-]遡及点はシューマン-ブラームスということに私的にはなるのだが。シューべルトもじつは対位法をやっていたが。いずれにしてもヴァーグナーがいてもいなくても、すでに調性拡張の芽は、バッハはもちろん、試みとしてはハイドンがあったし、ベートーヴェンの特に後期には十分音楽として、あったのだから。況やサティ、ドビュッシーにおいてをや つまり彼ら(ヴァーグナー/ドビュッシー)を通過しなくとも、また表立った 起点 としなくとも、調性の逸脱、拡張、崩壊は成された)

 

 

 

イギリスにはクリスチャンロック っていうジャンルがあるんだそう!(知るのが遅すぎる というかプログレ自体を知ったのがかなり最近なのだけれど)

 

 

ところで、この中にあるディーリアス-グリーグという路線の存在。これによりたぶん、 イギリスと北欧がつながっていく。

 

このことはロックの分野にもおそらくそのままつながっている。

 

ブリティッシュのみに進まずに、イタリア系プログレにも興味が引っ掛かっている人びとの意見と感性も面白い。

これもまた、クラッシックの方の系譜を垣間見ても納得ができるから。

 

前にあげた記事で色々触れたので詳細は省くが ざっくりとクラシックからいうと

グレゴリアンチャント(教会旋法)が長々といろいろありつつフランドルなど絡みながらドイツ→イギリスに音楽の系譜が移行するのだけど、その前にヴェネチア(イタリア→ルネサンス)経由しているというのがかなり要諦で——その後イギリスで初期ルネサンスが、後期はイギリス——Wマンディ等——・イタリア(・フランドル)同時!に、高度かつ洗練されたポリフォニーが成就している。それでトレチェント、クワトロチェントをきくと(まあじつはその手前、ヤコボ・デ・ボローニャなどにも)、ルネサンス→モンテヴェルディへ至る鍵が意外とある気がする訳だが、こういう経緯と系譜は、プログレにも反映してるように聞こえる。

 

なにしろルネッサンスが開花したのがざっくりいえばイタリア(フランドルから降りるが、開花のきっかけを多く北〜中部に持つ)なので当たり前なのだが、この時期ヴィクトリアなどのようにスパニッシュなのにフランスの古いシャンソンの原型を象ったような人もいるのだから、いろいろと異化しつつも底の方では グレゴリアンチャントの誕生と展開、そして讃美歌、伝承歌、舞踊などの存在とともに音楽系譜はつながっている。

 

もちろんもっとスパンを広げれば、ケルト民族とその移動などを通じて 世界は東西さえもが、まえもって越境的である。

 

 

またドイツのプログレについては、友人からドイツは他の地域に比べてあまりぱっとしない、とも聞いていたが

その(プログレらしさからすれば?)パッとしない(のかもしれない) ドイツのプログレ、というのはクラシックがドイツで著しすぎる隆盛を見たから、というのもあると思うけれど、ヴァーグナーの存在が調性の拡張で大きいからも無論あるだろう(※もっと言うとバッハ〜ベートーヴェン〜ヴァーグナー〜無調等々と展開して行く調性問題と、同時に哲学的・政治的問題、そしてそれと不可分な芸術の存在の問題、等々が重すぎたのかもしれない)。

[※...この点について、最下部に追記]


まえからFBなどで言っていたように 私は、ヴァーグナーを経由しなくても、ましてドビュッシーを踏まなくても、(ルネサンス以降ジェズアルドのような実験的な音楽が出現しえたこと、そしてバッハが到来し、ベートーヴェンの特に後期の顕著な調性拡張・旋法使用等の試みがあり、シューマン-ブラームスにおいては——ウェーベルンなども注目していたように——すでに十全すぎるほどのその発展継承性を見出し得、フォレもまた、ヴァーグナーの存在なしに(も)自身の音楽性を獲得しえた。音楽のもたらす影響力・効果、という点ではヴァーグナーが大いに参考になったろうが、それ以外のフォレ自身の幽体離脱的音楽性の確立そのものは、調性問題を含め!シューマン(→ブラームス)による先代(〜同時代)の音楽性の発展形という置き土産ですでに十分であり、ヴァーグナーの存在の有無とほぼ関係がない。

よって)調性はどのみち拡張され崩壊した、という意見の方なのだけれど。
ヴァーグナーは世渡り上手。

 

私はこのことを、スクリャービン(→マーラー)的な音楽性を含めて、言っている。バッハ、ベートーヴェンは前提として、シューベルト→ショパンとシューマン(→ブラームス)とフォレがあれば、スクリャービン(的な個性及び音楽)もまた出現しえた。その片鱗は、ニイチェの存在(音楽作品)が明かしている。

 


それと昨日だか一昨日、これを見つけた

http://kakereco.com/magazine/?p=9794

 

これに行き当たったのは ジョン・アンダーソンの音楽性からきこえる東洋志向が(シッダールタ や ビートルズ以来のヨガとヨガ思想の影響などのこともあるが)、ノヴァーリスともなんか繋がっているのかなあと思って、ダメモトで検索したら、直接アンダーソンがノヴァーリスを読んでいたとかファンだったっていう記事はなかったけど、上記を見つけたという訳。。。

読んでいるとなかなか面白そう。

 

 

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追記。

昨日これを書いた後に、ドイツでプログレが生真面目なまま?停滞した点について、ヴァーグナー一つを引き合いに出した形で通り過ぎたが、至極大事な点を落としていたのに気づき(入り込むと、例の巨大な問題——私自身の長い問題——となるので回避した感もある)、どの範囲で止めておこうかそれとなく考えた。

そこへ、友達の反応で、シュトックハウゼンなどがプログレの代わりにクラシック界で突破口をやってしまった感があるのがジャーマンロック停滞の原因ではないかとの指摘があった。

たとえばあの辺りは、タモリの番組でもシュトックハウゼンと数名扱っていたりしていた(クラシックファンからは面白可笑しく取り上げやがって、といった反発も出る分野かも知れない)が、私は正直あの番組「姿勢」に賛成であった。

 

ずっと前の記事にも音楽・美術にかかわらず触れたが、とくにジョンケージあたりからシュトックハウゼンなどのああした破壊的ともいえる試みでクラシック音楽がおおむね自壊(自滅)したと思っていて——私自身は、あまり彼らに対し寛大でない。過去の(けして「等身大」などではない)遺産に対し攻撃的乃至退嬰的な表現と表現者。こうした産物や傾向に対する 物わかりのよさ を拒否するタイプである——自己崩壊音楽と心の中でも呼んでいる。

で、プログレに興味が行ったのも、だったらそちらのほうがむしろ音楽の尊厳を担保することに成功し尊敬できると思ったのである。

 

調性の拡張〜崩壊期間にかけては、作曲家や作品にもよるが、クラシックという分野にそのまましがみついた人々や作品より得てしてプログレの方が表現として成功しているとも思える。

 

調性問題の移行と、プログレの(変拍子など多用するリズム等を含めた)表現形式、「斬新さ」の意味性——attitude——が合っていると思う。

 

もし(ドイツの)プログレがシュトックハウゼンみたいな試みをしたら、私としてはプログレにも失望してしまったと思う。

彼らはそれはしなかった、できないと思ったので、ドイツ外域のプログレよりある意味(生)真面目なまま停滞したのでは、とも思える。

 

がもともとの原因は、私自身はさらにもっと前に遡る、と思っており、それを書き足したい。

 

この記事の中でも、タラレバ的にヴァーグナーを——事実存在していたにも拘らず無き者のように扱っているのも、言いたいことと関係がある。 まあ実際には存在した人だし、居たからにはそれなりの影響力を事実与えたので、無視などできないのだが、それにしてもヴァーグナーに関しては周りの捉え方が過剰かもしくは好意的に迎えすぎ洗脳されすぎたと正直思う。

(こうした点は、哲学・政治、色々な問題が不可分に、表現と表現者の質の判定・価値づけとして関わってきてしまうところなのと、通常のクラシックファンにはとても言いにくいことがたくさんである 笑)が、ヴァーグナー以降えてして構成的にも表現のありようとしても、冗長な音楽が肯定されてきた。(同じ尺度でいえば、やれ構築性に問題があるだの構成的才能に欠けるだのといった、シューベルトやシューマンに対し、まま厳しく当て嵌められた尺度は、調性逸脱-無調-崩壊を辿った人々には当て嵌められずにいるが、それでいいのか?という問題も不問に付されたまま。)そしてその構成上の「冗長さ」が退嬰性と絡みやすい(思うに、これは至当な問題である)のは、類的な音楽(個と同時に人間性全般の尊厳について真摯に向き合っている質のもの)というより、個人的な栄誉や野心、逃避願望等々といった自我(といってもselfというべきものとエゴというべきものがあるが、まま後者に陥りやすいもの)の充足・発散が表現され、作品となっている、と判断される。この質の低落が、調性拡張-崩壊を辿る時期のクラシック音楽のattitudeや質(にも拘わらず彼らはクラシックという旧来のジャンルにしがみついているのである!)より、ここから脱したプログレのほうが、まま、意識が高いと感じざるを得ない所でもある。

 

他者の問題を放棄した自己の延長へと終始しがちな音楽と、調性崩壊問題とのつながり——一言でいうのは難しいが、あえて言うと、(何らか和声上の)「解決」をみようとしない姿勢、むしろいかに解決せず放置・延長するかという、*,**表現における(逆説的)形式主義——内的必然からでなく戦術至上主義、手法の自己目的化——謂わば未到未決イデオロギーに走った結果であるといえるのではないかと思う。別な観点からいえば音楽美至上主義ともいえようが、犠牲にしたものは人間性であったりHonestyであったりするだろう。よってそれはほとんど必ず、社会的位相においては倫理的な退廃だの権力不感症(不耐性)、といった問題にも通じてしまう。

 

*...機能和声上の解決放置、を表現上始めたのはシューマンによるところが大きいが、彼の場合は、その象った形式が内的必然に合致していた、これに徹したといえるのではないだろうか。未解決型和声は、これが登場する場合、自分の魂にとりこの問題(憧憬なり苦悩なり)が未決のままであることの赤裸々な表現に過ぎなかったのである。言ってみればそこが、表現の力量における決定的な差異なのではないかと思っているし、そうした点にこそ芸術の「質」の問題が横たわっているであろう。

 

**...形式のイデオロギー化という点では、ずいぶん前にグールドの題目でだったか、十二音技法についても触れたことがある。

例えばこんな言い方がよくあると思われるが、「十二音技法は理詰めだったために大衆に理解されなかった」それで、別な作曲家らが試みたのには(たとえばヒンデミットとかコルンゴルトというところになろうか)、「受けが良いように上手に調整した」云々。

しかし、この捉え方に終始しないほうがよいだろう。それと引き換えに寧ろ後者の彼らが音楽に「息」を吹き替えさせたのならそれがなぜか、ということを考えたほうがいいだろう。理詰め?だったことそれ自身より、理詰めのありよう(裏を返せば自発性とは何か、自律運動性とその機能(発揮・回復)可能性の裏付けや土台とは何か、その相関関係とはいかなるメカニズムに基づくかetcetc...)についてもう少しよく考えたほうが良いと思う。

[付記。尤も、秘密の多い社会に生きることを強いられる場合、芸術表現がある種の窒息的形態—— 一見無秩序に見えるパターナリズム?——に陥らざるを得ないという面を、私自身、昔ほど理解できない訳でもないのだが。死んだ呼吸を生きなければならないのである。]

 

ヴァーグナーに聞きとれる野心の拡張、逆にリヒャルトシュトラウスに聞きとれてしまうある種の逃避願望、(これらの一見真逆な問題はけして偏倚的ではなくむしろ交錯的な問題でもあると思うが)といったものの、調性拡張-崩壊問題としての現れ方...。

こうした、ドイツはもちろんだろうが、西洋全体を覆った問題に、クラシック界はもう少し取り組んだ方がよいのではないか?

 

 

典型的にはナチズムを台頭/到来させたこと。ひいてはこれに対する長い敗北感(台頭させてしまったことに対し、どう反省・再生したら良いのかわからない)が、芸術界・哲学界、色々な分野の文化人にとって重荷となりすぎ、遣り切れなくなっていった。

こうした精神的に自暴自棄な姿勢が、哲学的にはポストモダンのように犬儒的もしくはニヒリスティックな形で現れるし、音楽表現、絵画表現にも退嬰的 乃至 破壊的に現れていると私は思う。

 

しかしその際言っておきたいのは、ナチズムが、ベートーヴェンを利用したのは「誤解」に基づいているが、ヴァーグナーを利用したのははたして全き誤解なのか、こうした点にもきちんと射程してほしいものである。

 

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