Entry: main  << >>
絵画空間(時・空軸の交換など)
2002年12月13日:HPに記載したもの。※言葉遣いを一部修正

形而上絵画〜未来派にかけては、絵画空間といういわば“生まの”時間軸を欠いた次元の中で、その非運動性/静止性というものを存分に発揮させようとする傾向と、その逆を行くもの、つまり時間軸の空間化をあらゆる手段で試みる傾向のものとがある気がする。

前者は典型的にはモランディのようなもの、その他(ミロの一部やカルラ等)多くの形而上絵画作品、またマグリットのようなシュルレアリスムも一部分、そうした〈要素〉を含むであろう。(それのみでないが)

後者はたとえばボッチョーニなどの生々しげな手法によるなだれるような絵画に典型的に見出される。ボッチョーニでは、ラファエロ辺りから既に見いだせる古来からの手法の延長のように、複数の人を用いて継承される挙動の連続性=時間軸の空間化・軸の交換処理 をほどこすなり、同じく(運動する複数の)影で、それを暗示する、という方法をとる。

他方、知的なもの?の介在を示唆する一群によく当てはまる前者―*キュビズムのやったことも或意味そういう訳だし、モンドリアンの具象性排除も或る種そうした意味をおのずと含んでくるだろう。当然それはデュシャンらのダダイスムやデ・シュティルにも通じている―に関しては、そもそもそれらを惹起させたセザンヌの試み自体、その目的を持っていた。

*…これに就いては、「否。キュビスムとは断続的“運動”性そのものだ」と言えるかもしれないが、時間軸の空間化ないし空間軸の時間化とは変幻するものの同一「次元」への閉じこめを意味するのであって、おなじものの多様相を二次元へと封じ込めることによって見事に生きた運動体の統合的―諧謔的でもある―静止性を実現するともいえるのである…

が、二次元世界という空間軸で時間軸の示唆を行うには、色値変化か、動作所作――運動という非連続の連続――の帯びる指向性によってそれらを擬似的に暗示させるしかないのであって、そういう意味ではこうした傾向というのは必然といえば必然なのでもある…。

ただ形而上学絵画という、既得観念の陥穽・錯覚を逆利用したかのような一連の絵画が、どちらかといえば静止的な様相をおびるというのはおもしろい。―彼ら自身、或る種の観念至上主義に居る という場合も、あり得る―

こうした時代のなかで、ユトリロのもつ静止性というのは、―見ようによってはたしかに、彼の筆致の上/下向・奥行きのなさが及ぼす独特の非現実感覚が、一種トリック絵に見えなくもないような、少し特異な感も与える。しかしここに通底してある「厚みのなさ」!は――かれの孤独と不可分である。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |
Comment








Trackback

Calendar

    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

当BLOGの目次

-------▼「目次」------

目次誘導
電子出版予定 コピー禁止
メモ書き記事では、かならずしも論証例示は多くなし

Profile


Rei
Reiのtwitter-HOME

Archives

Category

Favourite

Reiko Suzuki

バナーを作成

Search

Link

Feed

Others

-Powered by Jugem-

Mobile

qrcode

Recommend