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クラシック音楽と音楽史について 雑感

FB(2017 5/24)より転記

 

クラシック音楽にとって悩ましいのは、だいたいいつも、こういうことだ。

 

ヴィトゲンシュタインをして

「私が、決して近づかない問題。私の世界や、私の道程にはない問題がある。西洋の思想界の問題だ。ベートーヴェンが(そしてもしかしたら部分的にはゲーテが)近づいて格闘した問題だが、これまでどの哲学者も取り組んだことのない問題である」(botより)

 

[といわせつつまた]

 

「ベートーヴェンは音楽によって語られるものの領域を拡大した。」(Rei意訳)

 

といわしめる所のもの。

 

[そしてその後の継承的展開において]

(これまたヴィトゲンシュタインをして)

 

「しばしば考える事なのだが、私の抱いている文化の理想は、新しいものつまり時代にあったものなのか、それともシューマンの時代のものなのか? 少なくとも私にはシューマンの時代の理想の継続であるように思える。 とは言え、当時の理想が実際に継続されたものではない。ー とすれば、十九世紀後半は除外される。それはただ本能的にああなったのであって、よく考えた結果ではないのだから」

 

と言わしめるもの。

 

[そしてこの哲学者にとってはほとんど意味のないマーラーによると] ]

 

「ブラームスを侮辱したってしかたがないけれど、あえて言うなら彼が行き詰まるのは決まって展開においてなんだ。主題はそれなりに美しいのに、それをどう扱ったらいいかが分からなかったのさ。もっともそれが出来たのはベートーベンとワーグナーくらいかもしれないけれど。」

 

と言わしめるものの、存在。

 

 

思うに、ベートーヴェンが否応なくその後の音楽史に課した問題の存在と、(ある種の)時代的達成、及びその「質」自身の問題——シューマンの時代の理想の継続、の問題は、シューマンの作品自身の取り組み仕様・課題にも「すでに」かかっていた——換言すると 理想の継続性そのものの問題(抽象性---具象性の影の取り去り方、とその逆 の問題を含め) それと、 調性(拡張-崩壊の必然とその展開)、とその帯びる「意味」の問題 そして 音楽「作品の展開」能力の問題 みなそれぞれ違うこと。

 

(もちろんまったく接点・基底がないわけでは『さらさら!』ないが)

 

その後、この三者が統合(※但、ベートーヴェンの時代におけるこれの統合、とは形式も質も異なることにはなるのだが、それにしても、統合)されていないこと。

 

勿論、統合されるべきからには 最初の問題においては、二つ目と三つ目は同時に達成されるべきだったのだが... でも、私はあえてこのような書き方(価値の取り方)を、とりあえずはしたい もちろんこの際、そもそも第一の問題---継続 自身が、可能なのかどうか、はまた別にして。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |
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