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バッハ、フーガの技法1
2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2003年11月20日 (木)

ついつい、「ながら」でフーガの技法を――オルガン、ハープシコード、弦楽合奏、ピアノと――聞いていた。 それ自身に就て深く聞き込むというのでなく、バッハの他の音楽に就て考えながら、他の音楽家に就て考えながら、演奏家に就て考えながら...そして漠然と、音楽や絵画に就て考えながら、生きていくこと・日常の苛々しい事ども、遅々として進まぬ些末な事どもに就て、考えながらetcetc...。

だがそろそろバッハを考えるに於てこれ以上相応しいもののないであろう、フーガの技法に就て色々と自分なりに探っていかなくてはならないと思っている。 そこで、ついぞ断片的・主題別に摘み読みはするものの未だ真剣に読むことのなかったフーガの技法に就てのCDに添付されたややこしそうな解説書に、目を通してみる。

読んでいるうち、曲を聞きながら自然と形成されていた印象からして、思いもよらぬ記なども、目にする。 ざっと通し読みをしての印象であるが、ミュンヒンガー/シュトットガルト室内管弦楽団のCDに添付されている解説書――高橋昭氏――は、ごく平明で非常にまともであり、納得のゆくものである。

他方G.レオンハルトの「フーガの技法」の解説書は、あまりに意表をつく。 レオンハルトの「フーガの技法」演奏は、彼の他のバッハ作品の時よりずっと装飾が無く、演奏としても演奏する精神としても真率で素晴らしい。私の手持ちの中でも、グールドのピアノによるもの及びミュンヒンガー指揮管弦楽のと同等かそれ以上に、最もお気に入りの、おそらくこれ以上ないほど上質で完璧な演奏、最上級の意味で所謂「過不足ない」演奏である。が、彼が彼自身の解釈により「フーガの技法」の演奏をコントラプンクトゥス18番a・b(これは通常の19番a・bと思われる)で終わらせてしまっていること、また実際そこまでなのである*という彼自身の自信にみちた見解――このCDの解説は彼自身の筆による――には、予め同意できかねるものがある。 何故なら、最後の未完のフーガは、未完といえども最初(第1番)の主題と直結しており、また当然のことながら、彼が此処までが「フーガの技法」と主張する中に含んでいるコントラプンクトゥス第8番や10番、11番にもそれは直結しているからである。 直結しているばかりではなく、寧ろ未完のフーガ(その第1・2・3主題のどれもが)が予めあの「はじまり」(「技法」冒頭の第1主題、所謂“基本主題”と言われるもの)とともに在る、からである。

否…ともに、というよりは寧ろ、未完フーガの1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分である――半音階性が強すぎるため――、がしかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題)を呼び起こすのであると言っていいほどである。 (だからむしろ私自身の正直な印象からすると未完のフーガ――B-A-C-Hの主題(第3主題)と、同時にこれが必要とする同(未完のフーガ)第1主題――は、初発性(謂わば、ネガと粗描のような初発性)であり、同時に大成でもあるはずである。#)

これだけ有機的に濃密に体系として予めつながっている最終曲をフーガの技法の一部として、集大成として、認めず組み込まないのは、ひどく訝しいことである... *未完フーガは原作品の一部でなく、作品の最後に組み込まれたことは作曲者死後の出版上の手違いによるものであり、何か別の曲(3つの新しい作品と言われるもの?)の構想の一部であったとしている。 「フーガの技法」をめぐるこうした問題はレオンハルトにはじまったことではなく、「帰属問題」として昔からあったらしい。(このような問題が、「音楽家」たちの耳の間で歴史的に発生してしまうこと自体――この作品が絶筆であるためにさまざまな研究上の波紋が生じやすいとはいえ――私には信じられない問題である。)

 

2003年11月21日 (金)

「フーガの技法」の楽譜――Peters版Nr.8586b――がもうやって来た。 下手をすると1ヶ月くらい待たされるかと思っていたのに、いささか早すぎる到着... もう少し猶予が欲しかった気もするが、あまり待たされすぎるのよりましである。

楽譜を見ての印象。あまりに有機的で合理的。生物のように、ごく断片的な小節も、他のどこかしらと緊密に繋がっており、隙のない絶対的構築物へと発展されていくという、生々しい予感。 CDを聞きながら追っていると、オルガンも弦楽合奏も、それらの演奏の息づかいが、楽譜を通したバッハ自身の頭脳の呼吸のように、濃密に伝わってくるようで圧倒される。

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昨日の#部に補足 (だからむしろ私自身の正直な印象からすると未完のフーガ――B-A-C-Hの主題(第3主題)と、同時にこれが必要とする同(未完のフーガ)第1主題――は、初発性(謂わば、ネガと粗描のような初発性)であり、同時に大成でもあるはずである。#) これに補筆。 また同第2主題はというと、「技法」冒頭の第1主題ののちの展開――コントラプンクトゥス9番の新主題(開始に単独走する)や、コントラプンクトゥス2番の付点とタイの施された低音部(3小節以降)に象徴的な変奏スタイル、また11番第3主題(8番第2副主題の転回形)とも、じつに緊密な音楽的、乃至運動上の繋がりがあるのである もっとも平明妥当と思われるシュトットガルトChamber orche.添付の解説にも、例えば、コントラプンクトゥス9番開始に単独走する「新主題」に関して、何処から生じるものであるかの説明がないが、こうした、あたかも唐突に出現してきたかのような――or実際そう思われて来た――新主題などにも見られる、有機的な潜伏要素が、これからも、「技法」の各所にバッハによって散りばめられているのが、自分なりに発見(発聞?)できるかもしれない。

 

2003年11月25日 (火)

20日・21日の文章に、補筆を施した

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つづき... 未完フーガ第1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分であるが――半音階性が強すぎるため――、しかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題,所謂“基本主題”)を呼び起こすのであると言っていいほどである。

これに就て 「技法」冒頭第1主題(基本主題)=コントラプンクトゥス第1番の開始:ニ-イ-ヘ-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ と、 未完フーガ第1主題=ニ-イ-ト-ヘ-ト-イ-ニ の差異。 勿論、この間には、当然のようにコントラプンクトゥス5番や6番(反行フーガ)に代表される基本主題の変形、 ニ-イ-ト-ヘ-ホ-ニ という介在者があるので、 こういう書き方をしておくと、 基本主題アルファ=ニ-イ-(ト)-ヘ- (ホ)-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ と 未完フーガ第1主題=ニ-イ-ト-ヘ- ト-イ-ニ の違いは、主に後半部分にある。

前者は基本主題だけあってメロディクで明晰、それ自身に躍動性も存するが、後者は反対に虚しく、茫漠としており、殊に後半の全音符4連の長大な徐行は、他の声部の律動性や躍動的な喚起力を、おのずと要求する。 (この第1主題の茫漠たる長大さは、同じ親から生ずるものの、あの明快な冒頭の基本主題より、はるかに第3主題との関連が濃厚であり、論理的にも緊密な連鎖のある旋律となっている)

実際、この後半ト-イ-ロ-ニの部分にはまず遁走として第3声部の弾力ある旋律が重なるのである――6〜10小節。この進行のダイナミズムは当然同第2主題の予兆であるとともにコントラプンクトゥス8番、11番の各主題とその変形とも連関する――。 また、この後半ト-イ-ロ-ニの部分は、第2声部の動き――17小節以降――をも喚び起こさす。これも基本主題を彷彿させるとともに14a2声の反行カノン(基本主題の変形)も惹起しうる旋律である。 コントラプンクトゥス3番は、最初でもっとも顕著な未完フーガ第3主題の序曲である。それは未完フーガ第3主題の極めて可変的な半音階性を早々に暗示しうる、まだ「明瞭な位相」に於るデッサンであるだろう。

したがって、未完フーガの第2主題はコントラプンクトゥス2番に早くも頭をもたげ(21日に記した)、第3主題は3番にすでに潜在することになる。 余談だがコントラプンクトゥス3番には、未完フーガ第3主題の登場ばかりが見られるのではない。 コントラプンクトゥス3番第3声部の11小節目の動きと、より顕著なのには同第4声部(最低音部)の動き*に、すでに未完フーガ第2主題もが、同時に伏在しはじめて来ている――まだ途切れ途切れではあるが――、といってもまず間違いはなかろう。 *…殊に19〜25小節と、29最後尾〜35小節にその特徴(未完フーガ第2主題の暗示)は顕著である。 またそれらの中間の、trを織り交ぜた26・27・28小節は、未完フーガ第2「主題そのもの」というよりはその遁走部(未完フーガ121〜127小節が代表的)の変奏スタイルといえる。

 

2003年11月26日 (水)

※便宜上、今後「コントラプンクトゥス」をCp.と略す

K.ミュンヒンガーは、通常至極ゆっくりと演奏されることの多いCp.4番を、かなり急速なテンポで演奏している。しかもリズミカルな諸声部同士の掛け合いをややアタッカー気味にくっきりと際だたせている。 このプレストがかったテンポ選択は、まことに示唆的であって、Cp.4番と、最終(未完)フーガ第2主題の濃密な関係を理解させる。 つまり基本主題(Cp.1番)の真の転回形と、未完フーガ第2主題との関係を、である。 ところでこのCp.4番の主題が基本主題の「真の」転回形、と言われるのは、これに対し、その前のCp.3番にまず現れる主題が、基本主題の「調的な」転回形、であるからである。

つまりCp.3番にまず現れる転回形は、調的に転回された基本主題である。 興味深いことに、後半のほんのわずかの差異ではあるが、こちら(調的転回形)は、ファジーな半音階性が顕著で、未完フーガの第2主題をと言うよりは寧ろ第3主題を、彷彿させる。 そしてCp.4番では、3番に較べた躍動感と音階の明瞭さに於て第2主題の本源的な出処が、(まずは付点などの跳躍感を伴いつつCp.2番に於て早々に登場していたものが)いよいよ端的な形で此処にあるのを、確認できるのである。 もっともCp.3番の中でさえ後半には未完フーガ第2主題の前兆(ミュンヒンガーの指揮するテンポでのCp.4番のようなもの)の出現を、特に最低音部の動きに於て、必然的にさせる要素がある。――30小節以降。

であるからここでは謂わば、未完フーガ第2主題のエネルギッシュと躍動感を以て未完フーガ第3主題の半音階的可塑性を描き出す、という恰好がとられているかのようである。―― このように、別の主題のエサンスの代表同士も、勿論基底が同じな為、互いに緊密に繋がっているのではある。 Cp.4番は、オルガンや鍵盤楽器、弦楽合奏など楽器の選定に拘わらずじっくりゆっくり演奏されても非常にうつくしい部分であるが、曲の構造理解という事を考える時、ミュンヒンガーのこの指揮、テンポ選択は非常に賢明のように思われる。

蛇足だがミュンヒンガー/シュトットガルトchamberorche.の音は幾分かup気味である。 (現今)通常とされる「ニ短調」のtoneよりややうわずった調律である。だがこれはCD作成上の問題だろうか まぁいいや

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きのうのつづき... 未完フーガ第1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分であるが――半音階性が強すぎるため――、しかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題,所謂“基本主題”)を呼び起こすのであると言っていいほどである。 昨日までに未だ触れられていない、上文の この部分 ・同時に両者の『関係のありかた』が必然的に第1番の主題(所謂“基本主題”)を呼び起こす、 という点に就て。

未完フーガの第1主題と第3主題はいかなる関係の元にあり、また何故それが基本主題を喚び起こすか。

 

2003年11月28日 (金)

・同時に両者の『関係のありかた』が必然的に第1番の主題(所謂“基本主題”)を呼び起こす、 という点に就て。

だがここに第2主題も含めて語られなければならないだろう。 つまりこういうことである。未完フーガの第1主題・第2主題・第3主題はいかなる関係の元にあり、また何故それが基本主題を喚び起こすか。

未完フーガの第1主題――ニ-イ-ヘ-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ-ニ は、基本主題の調的な転回と、基本主題の真の転回形の両義性を含んでいる。 他方同第2主題は真の転回形の系列である*――その原型としてCp.4番のようなものは(未完フーガへのより必然的収斂の為には)前提として存在させられていなければならない。実際、言葉少なではあるが、とくに低音部(4声部)には顕著に、19〜22,67〜72小節、73〜76,81〜82小節(これは全声部に渡る)、87〜90小節、などに未完フーガ第2主題の原基的旋律とその運動性は周到に潜在させられている――。

*同時に基本主題そのもの(転回前)ともそのまま呼応する (丁度Cp.9番が基本主題と同時並行で奏じることができるのと同じ原理である) 。第2主題は旋律構造上便利で自在な幅がある。 未完フーガ第3主題は、調的転回の系列に属する。 これらの融合は、その遁走的旋律展開と運動性から、基本主題の転回形あるいは基本主題を喚起する。

 

2003年11月29日 (土)

旋律の帯びる性格とその由来に就ては昨日のようなことだが さらに詳述しなければならない。

運動体としての相互関係 未完第2主題と基本主題との関係。 第2主題は、そのまま基本主題と並行して奏することができるほどハーモニーとしてじかに相和する。 (または基本主題と基本主題の転回形と、未完フーガ第2主題を同時に奏でることも可能であるような関係である。) 第2主題は、(実際未完フーガ147〜152小節、156〜162、183〜188etcにあるように*)1小節遅れ(休符を含み)の第1主題と相和する。

*但し167〜174小節では2小節遅れていることにより、茫漠たる不協和にも近いほどの半音階性を醸し、巧みに第3主題(B-A-C-H)の誘導を計っている [ここでの2小節遅れの第1主題は、殆ど第3主題(の予言)、2→3への変換作業と見なすことが出来るのでないか] 第2主題と第1主題のこうした関係からも、第1主題もまた、基本主題と、1小節(休符を含み)遅れの呼応が可能である 第3主題(B-A-C-H)は、201小節の第1主題対第2主題’(ダッシュ)との絡みから、また上記の*印(例外補筆)から、基本主題とは2小節遅れ(休符を含み)の遁走が可能であり調和的となるような関係性が、あると思われる。

 

2003年11月30日 (日)

昨日の続き *但し167〜174小節では2小節遅れていることにより、茫漠たる不協和にも近いほどの半音階性を醸し、巧みに第3主題(B-A-C-H)の誘導を計っている [ここでの2小節遅れの第1主題は、殆ど第3主題(の予言)、2→3への変換作業と見なすことが出来るのでないか]

何故そう感じるのだろうか。この感覚が一層強くなる箇所がさらに続く。

この後いよいよクライマックスの茫漠たる暗鬱さに拍車がかかるのだが、こうした効果的遁走によるズレは、180小節以降も同様であるが、この第1主題の登場では、この際第1主題は、それ自身も4度上がっているばかりではなく――レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ⇒ソ-レ-ド-「シ」-ド-レ-ソ――、後半のkeypointの音(「シ」)――が半音階上昇し、調的にも変化を遂げている。 それはますますもって第3主題に近づく印象的なステップである。 バッハに特徴的な「半音階性の着脱」を繰り返す旋律パターンは、この未完フーガの始まりから第1→第3主題移行のための伏線の蓄積として割合頻繁に登場するが#、この、主題が丸ごと出現するシーンでのkey音の半音階上昇は、アトモスフェール転換点として尚更劇的に印象づけられる。

これは、以下のような関係を持つともいえるだろう。 第1主題 レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ(原型) ソ-レ-ド-シ♭-ド-レ-ソ(原型移調4度) シ♭-レ-ド-シ♭-ド-レ-ソ(原型’ダッシュ) シ♭レ-ド-シ(ナチュラル)ド-レ-ソ(原型’ダッシュの調的変化) シ♭-ラ-ド-シ(ナチュラル)-ド-レ-(ソ)(原型”ダブルダッシュの調的変化)

こうして、遁走の絡み合いと不協和的響きのトリックを伴いつつ第1主題と第3主題は丸切り無関係に近いというよりはむしろかなり近づいていくのである #…34〜35小節、49〜50,55〜56小節、etcetc...。 (これらが半音階性着脱がそのまま主題化しているB-A-C-H主題の巧みな伏線になることは非常に示唆的である。)

バッハは未完フーガに於る対位法駆使の中で、この種の半音階性の着脱を、水面の波のように可変的に繰り返しながら、いよいよ主題そのもののkey音を用いて第1主題→第3主題(=B-A-C-H主題)への移行に寄与させるのである。 こうして、第3主題の単独の登場(114小節〜)までに響きと運動の緊張感を高めている。 ちなみに、上記の第1主題のkey音による半音階性の着脱のみならず、同主題丸ごとで、このようなパターンの変奏も、開始早々から絶えず行っている レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ→レ-ラ-ラ-ソ-ラ-シ-レ (ソ-レ-ド-シ-ド-レ-ソ→ソ-レ-レ-ド-レ-ミ-ラ)

 

2004年01月13日 (火)

思いがけない用事で途絶したまま随分と時間が経ってしまった。

以前、多くはミュンヒンガーの弦楽合奏を、また時にヴァルヒャのオルガンを耳にしながら追っていたスコアの所々に見られる走り書きも、自分が書いたものであるにも拘わらず、今となっては意味がわからなくなってしまった。 何故こんな所に文字が走らせてあるのか、何と何をどんなポジションから連関させていたのか、どんな直感や思考に基づいていたのか、意味不明である(笑)

それで、あまり全体、乃至在るべき終局から部分(各コントラプンクトゥスやカノン)を聞き取るのではなく、とりあえず最初から一曲ずつ感じること、また気づいたことを、演奏への感想とともに記すことにする。 そうしているうちに耳もまた馴れてくることであろうし、全容をもう一度再考できていくと思う。

が、 それにしても、フーガの技法の場合、一応の目途を立てておかねばならない。一曲一曲を綴るには、互いの連関が濃厚でありすぎるだけにかえって虚しい。 また毎日、一曲について記す為に、考えの外に置いておくには行かぬ全体というものにも幾らか配慮するべきとはいえ、毎度毎度ただ漫然と聞き流して行くには、その全体はあまりに長すぎるし、巨大でありすぎる。

そこで、Cp11番迄で、前半を一応区切ることにする。 バッハの発想、思考がここでひと区切り付くように思われるし、何より聞いている方の意識としてここで区切りを強いられる気がするからである。 また、このCp11は前半(?)の差し当たりの集大成というべき壮大さを帯びていると言っていい。 これ自身、未完の終曲に直結しうる大きな要素が多分にある。またCp1〜11までの連綿とした世界は、それ以降(Cp12〜未完f)の世界がどちらかというと自存性?のつよい一曲一曲の統合体、ともいうべき世界なのであるのに比べ、その連関性・一貫性がずっと揺るぎがたく思われる。

フスマン、ダヴィッド、グレーザー等、曲順に関しては幾つかの有力な人々による解釈の余地がある中で、ミュンヒンガーもバルヒャも、グレーザーの解釈に依っているようであった。それは私の手持ちのスコアとは曲順が違う。(スコアを追いながらという形ではまだCDの前半しか聞いていなかった。)

バルヒャのCDに添付されて解説書を読んだところ、これは出版原譜の曲順と、バッハの意図していた真の(と思われる)曲順との差異からならしい。 ということで、諸々の問題――バッハ当人によるいきさつやその後の解釈――から、やはり後半?の曲順はバッハ自身に於ても!、また「フーガの技法」研究者による全容の把握の仕方に於ても、幾つかの解釈の余地があるのである。

 

2004年01月14日 (水)

眼と頭が痛くでてモニタを凝視していられないので箇条書きのみ。 Cp8…未完フーガ第3主題/未完フーガ第2主題 との要素(?) 落下のテーマ(注:私の付けた呼称…113〜117/117〜126小節など。ちなみにこれはCp11の117〜最終小節へと発展する)と、 これとよく呼応する

・レードファシシ♭ラレ(ラソラソラソファソ=tr)ファソラソラーレ(Cp8冒頭) 

・ラーシ♭ファドド#レラミーファミレミレーラ(Cp11 a4 27小節-、上の転回系とみられる)

これらの半音階的絡みが、もたらす意味、 B-A-C-Hへの伏線。

 

これについて

上記(Cp8冒頭)は C-H-B-A すなわち ()C()HBA()()の運動。

下記(Cp11 a4 27-30小節)は A-B-C-A【A-H-C-A】 すなわち ※AB()C()()A()【AHCA】…の運動。B-Hの交換運動もしくは着脱運動。

注)※第二声部、【】内のみは第一声部

 

下線部、B-A-C-Hへの伏線の意味は、ここCp11-a4に於けるこの後の展開で、90-91小節でついに、B-B-A-C-C-C-Hがついに(未完フーガ第三主題 B-A-C-H に前以て)露出するのである、という意味。まず第二声部にて、またこの後の小節でも繰り返される=93-94小節、第一声部。前哨線は、直前の89-90小節第三声部より。

この部分は、上述のように音列としては未完フーガ第三主題へかかると同時に、リズム・推進的運動体としては未完フーガ第二主題を予告させていると言えると思う。

(自分での発見、20110916、記載20110215)

 

2004年01月17日 (土)

一曲ごとへの記述に入る前に、補筆。 Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就て。

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形) Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ #…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形 ##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

こう見ても、如何にCp.8と11とが、予め緊密な織物として連携させられているかがわかるのだが、 驚くべきは、そうした経緯を以て到達して来たここCp.11に於て、織り糸とされるこれらの主題(1・2・3)が、どれも最終フーガ(未完)への意味深長な前触れとなっている点である。

第1主題…未完フーガの第1主題(レラソファソラレ)と第4主題(来るべき冒頭主題レラファレ…) どちらの主題にとっても緊密な変奏曲的関係にある(中和剤、またはどちらへの発展性をも帯びる巧妙なる予備軍)

第2主題…落下の主題及びその転回形、どちらにも旋律上繋がりやすい、もしくは遁走上、きわめて自発的な交代性を持つ音列でありつつ、 未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の予兆的性質を帯びる(この転回前――すなわちCp.8での第1主題時――はそのサワリが未完フーガ第3主題BACHと共通であり、同様の半音階性を有つ。と同時に、遁走性としては――2度上げられていることもあり――かえって転回前よりも未完フーガ第3主題BACHと呼応性を持ち、仮に同時に奏されてもよく共鳴する)

第3主題…(C=落下主題が)転回されたことにより直かに未完フーガ第3主題BACHの音列そのものを喚起する。

未完フーガ第3主題とは、このCp.11の第2/第3主題の奇妙な融合であると言ってよい。

蛇足であるが ここ(Cp11)、及びCp8では登場していない、未完フーガ第2主題はといえば、両者の間に置かれたCp.9に於て十全に扱われているのである。

 

2004年02月01日 (日)

※補記 Cp.6の遁走に於ける全体的変奏スタイルのtheme性が、――短い音符・付点リズムにより独特の(フランス形)を帯びてはいるが、その為に有効的に――未完フーガ第2主題に、非常に密接に関わる、ということ。 3小節後半〜4小節のミファソラファミレドの上昇〜下降型、 18小節第1&2声部の旋律を予兆として 殊に26〜28小節(縮小形として)、また54小節〜(縮小形として)の第3声部の動き (59〜61〜)62〜68小節辺りの3・4声部の動きは非常に如実な、あの未完フーガ第2主題の暗示となっている。 あの第2主題は、第1第3、また来るべき第4主題との接着剤のために唐突に現れたのでも何でもなく、主要主題の遁走の進展と必然性によって着々と事前から頭をもたげていたものであるといえる。

 

2004年02月02日 (月)

※補記 そして、昨日Cp.6で述べたことは、そもそもCp.2でもすでに、当てはまることである(未完フーガ第2主題への前哨線)。 (他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。 周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして)

Cp.2で、未完フーガ第2主題へと向けて、どういう点が予告的であるのかといえば、 ここでもCp.6と同様、付点リズムが特徴的ではある――この付点の躍動感・推進力(近代自我的・ベートーヴェン的音楽性)を、バッハは当然あのCp.9へと、最も的確な形で至らせている。そしてこれが未完フーガ第2主題へと及ぶと同時に、第2主題と、来るべき第4主題(冒頭主題でもある)の自発的遁走を十分に得心させる形を生み出す親と、せしめていく訳であるが、こうした旋律の躍動性にとって有効な付点を効果的に用いてバッハは、(未完フーガ第2主題にとっての)key旋律の基を幾つか作り上げる。

・第4〜5小節(ファ--ソファミレミレド-レドシ-) →未完f第2主題:ファソファミレ#ドの下地

・第6小節(ラシドレミファレミファミレドシラ#ソ)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...=(4度下)ラミラシドシラドシミシドレドシドレミ...に同じ、の下地 また高音部(第1声部の)

・第64〜65小節(♭シラソファミレド#レ「レミファソ」--「ファミファラ」)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...

・第76〜78小節(♭シラソ-ラソファ-ソファミ-ファミレ-シ#ド#ミラ)」)→未完f第2主題:ファソファミレド#〜ラソファソラ--ソファソラシ--の下地。

 

2004年02月03日 (火) 〜 02月04日 (水)

(他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。 周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして) ------ これに就て。 いつかもざっと書いたことだが、次Cp4が「真」の転回形で有るのに対し、こちらは「調的」転回形である。 調的転回形の後にまたCp.4(真)が、ここに置かれ補強されることで、なるほどCp.9への自然必然性が高まり、また未完フーガ第2主題と、あるべき第4主題(冒頭主題再現)との絡みを意図しやすくさせている。 *未完フーガ第2主題との差異は、前進力と躍動性にみちた未完f2との絡みを演じる未完f第4主題が、転回以前(原型)なままであるのに対し、Cp4の方は転回形との絡みである点である。

さて今日のテーマの方に戻るが、 調的転回形であるCp.3であるが、何故これが未完フーガの半音階性際だつ第3主題と、上下動緩やかで荘厳なな第1主題を喚起させる、と直観されるのだろうか。 いつかも触れたように、最初の「調的」転回、つまり 第4小節――#ド--ラシ#ド(レ)(;本来ド--シドレ(ミ)で有る所)――の処理を契機に、 第5〜6小節――ド-シ♭シラ#ソラシド#ド、 13小節――レミ#ファソファミレ#ドレ、 など、ド(=C)・シ(=B)など同じ音の#乃至♭の脱着を開始している点である。 (これは勿論、未完フーガ第2主題でも頻繁に脱着される所の音である) もうひとつ、未完フーガ第1主題をも彷彿させると感じるのは、何故か。

ところで元々、未完f第1主題とは、来るべき第4主題(冒頭主題再来)の変奏曲であるにすぎない。 だが何を目的とした――どこを志向した――変奏なのか。冒頭主題(第4)のほうが、躍動的な同第2主題との競演にマッチした個性であるのに対し、これの拡大的変形である第1主題の個性は、その中間――第2主題とも半音階性濃厚な第3主題とも呼応する、という性質を帯びている。

ところでCp.3に於る第1〜4声部の諸旋律の動きは巧妙にファジーで、お互いの可塑性を尊重しながら未完フーガ第1〜4主題のどれもに成り代わりうる、乃至暗示するに十分な運動を、連携プレーの中でゆったりと役割交換しつつ展開していくように思われる。

 

2004年02月19日 (木)

01/17記 …Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就てのさわり

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形) Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ #…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形 ##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

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この、#と##に就て。

Cp8は前半の集大成ともいうべきCp11が四声三重フーガであるのに対し、三声三重フーガで構成されている。非常に物理学的秩序を感じさせる楽章である。 最初に登場する半音階秩序の不可思議な主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、一見無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは*Cp5(4声反行フーガ)冒頭で出てくる基本主題の変形の転回形――これを4度あげたもの*――といえる形の応用である。もっと言えば、その付点をとり去ったものを、原型としたものの応用・変奏なのであって、その証拠に実際、ここCp8自身に於て91小節から、この付点を取り去った形のものが、第1拍目にシンコペーションを伴って登場する(91小節〜。)これが基本主題のCp3,4的転回)の再現である。

じつに論理的なつながりがあると私には思える。(それだけに、同時に演奏してもおそらくよく共鳴する)

*…それは、元はといえばCp3・4の基本主題の転回形――調的・及び真の――からおそらく生じているだろう... しかも、このCp8の最初に登場するこの主題は、何とも不可思議で効果的な半音階性を付与されていることによって、当然未完フーガ第2主題を暗示させてもいる。 この半音階性の濃い主題は、ミュンヒンガーCD添付解説では、第一副主題とされている。ところでこの半音階的主題は、39小節以降に現れる、私の言う落下の主題と、非常に呼応する。(ミュンヒンガーCDの添付解説では第2副主題とされている) 何故、この二つは呼応するのか。 また何故、落下の主題は、出現しうるのだろうか。 落下の主題は――ちょうど紙を、高い建物から落としたような線を描いて聞こえるので仮にそう名付けたが、面白いことにバッハの対位法の工夫により、他声部、主に低音部の援助によって、この主題は、まるで紙を投げ落とした窓から落ちていくものを見るようにも、逆に建物の下から落ちてくるものを見上げるようにも聞こえる――そもそも何処から生じたものなのか。これも、けして唐突に現れたものではないと私には思われる。 一番近しいところでは、この発想のもとになっているのはCp5(4声反行フーガ)の基本主題変形(同冒頭)及びその転回形(4小節〜)が、基礎であると思われる。この適度の躍動感は、落下主題の小刻みなリズムに移行しやすく、呼応もしやすい。 そしてまた、これらは先ほど述べた基本主題のCp3,4的転回の再現とも、呼応する(148小節以降) すると、このCp8を構成している3つの主題は、――副主題とされる、無関係で便宜的な挿入と思われるものも含め――みな同じ親(A及びその転回形∀の系列)から生じているにすぎないことがありありと浮かび上がって来るのである。

 

2004年02月20日 (金)

フーガの技法を毎日毎日聴くのは、実のところ平均律を聴くより余程厳しいものがある。平均律の時は――記すことは少しは大変であったけれど――毎日が楽しかった。しかしフーガの技法にとことん付き合うのはまだシンドい面がある。 音楽それ自身の巨大な重みと、一瞬たりとも気を抜けぬ精巧度の問題だけでもなかろう。あの長大かつ凄絶な世界観、あの精神世界である。 それとバッハ自身の音楽性が、たとえば平均律第一巻などと較べて二巻の世界がそうである以上に、いよいよ人生の終局フーガの技法にあっては、純-音楽的な自発性というよりはむしろ合理的・物理学的・思弁的自発性(生命秩序といってもいい)ともいうべきものが、彼の音楽の本質を担っており、そのおそるべき科学的有機性が「すなわち音楽的」自発性となっている、という桁外れたたくましさと厳しさに貫通されているために、それと長い時間対峙しているのは、さすがにしんどいのである。 しかし勇気もわく。バッハの音楽は、つねに生み出せ、構築せよ・構築せよと言っている(もし近年の、構築性という言葉に対する世界的アレルギー現象を考慮して言いかえれば、変容(的構築性)と言ってもよいが)。結局は何らかの構築「的作業」をすること以外に、ひとが救われないことを証明している。 逆説的に響くかもしれないが、或意味で、半音階性の極意とも言えるバッハの音楽性ほど、懐疑性を露わにしたとも云うべき表現もこの世に他に無いほどだが、それは言い換えればこういうことにほかならない。 懐疑するにしろ、徹底的に構築せよ。構築し、解体し、再編し再構築する、そうしてただひだすら構築する以外には、懐疑すら成り立たないのだ、そう言うかのようなメサージュに充ちている。懐疑もまた、じつは徹底的構築作業をまぬかれないのである。 そうやって不可知論にも、安易な相対主義にもうち勝つように、バッハの音楽は、フーガの技法は、言っている。 どんな哲学者よりも社会学者よりも、宗教家よりも真正な、弁証法的摂理――「真に」弁証法的思考と「生産的に対話的」なる精神とは何かを、彼自身の音楽を以て全身全霊、体現してくれているのだ。

ほんとうに貴重な宝物をのこしてくれたのである。

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明日から第一曲目からの分析に入りたい。

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