Entry: main  << >>
闖入者、そして注視ということ――覗き見る/視線のすべり/見渡し-見られ-取り込まれる
2003年のHPに掲載したものとTwitterで2010年5月〜6月につぶやいたことのまとめ

一体これは或る種のメディア論ということにもなるのだろうか。フェルメール、カフカ(城)、ヴェラスケス(ラス・メニーナス)の作品を巡っての考察

 

  1. 風船ガムを上手に膨らまして、膨らましつつ自分がその内部に入っていく…成功すれば、自分の口という孔が、世界の内と外同時に繋がる場所となる (ラカン 訳/新宮一成)
  2. 不条理とは、身体を途方もなく超えていくものが、ほかでもないその身体に住まう魂なのだということである(カミュ 訳/粟津則夫)
  3. 内部にいることを止めずに、自分を外部から眺める世界(サルトル 訳/粟津則夫)

 

小さい頃三面鏡のはるか遠くまで覗いた記憶がある。たくさんの自分を見たいのではなく、三面鏡を可能な限り閉じた状態に近づけた時、最も遠くに映る自分の像が、自分があらかじめ喪っている<自分自身>に、一番近づくのではないかと思われたからだ。{この}私を直視している単純に真正面の鏡像は、左右があべこべで私と似ていない(と教えられる)。が、隣りの像やせいぜいその隣りの像はといえば、{この}私自身を直視していない。その隣りもまぁ似たようなものだ。三面鏡の世界では、殆ど全ての像が、私?の像はみなてんでんばらばらな方角を向いている。ただ狭めた時、遠くにある像ほど、「ほぼ」私のほうを見ていると取れなくもない。(勿論、限りなくほぼであって、まったき一致をとげてはいないが)。{こちら}を直視する私の像は、他人ならばいとも容易に目にしているものだ。それなのにこの本人には延々と隠されつづけている。それで昨日も今日もついのぞき込むのだが、やっぱりどうしても出会われないのだった…。

そうして、時にはこうも思うのだ。もし一番遠くに、私自身と一致する像を見いだすことが出来たとしよう。だがそれは、このあらかじめ喪っている私をいまさらどう穴埋めしてくれるのだろうか、と。それがもしこの鏡のどこかに見い出せたとしても、そしてもし何らかの方法でこの自分の面前にある鏡の像と取り替えられたにしても、結局はせいぜい<差し向かい>――対象的存在でしかない。その像はけして、喪っていた・そしていまもこうして喪いつづけている{この}私と-なって-穴埋めされることはないのだ、とも…。

そうした解決不可能さと、にもかかわらず「覗こうとする執拗な」いぶかしさとが、カフカの「城」やヴェラスケスの「ラス・メニーナス」に没入するとき、何故だか今でもふつと去来する。

自分自身とは、自分であって自分でない。(ほぼ)自分であるままに自分とは最も遠い存在でもある。永遠に何かから追放されており、そのためたえず分極し、そしてまたできそこないの媒介でもある。

他者が私を見ることはごく容易である。その他者が、この私には見えない私のことをどれほどよく知っているか。それは私より知っているともいえるし知らないともいえる。誰にとっても、この同じ構造は当てはまるが、この構造自身と諸状況による理解・解釈の多義性、行方不明の多元性は枚挙にいとまがない。幼心に感じる、何か逸らされたようないぶかしさといったものも、こうした暗示的経験を積み上げられて生じるものなのだろう。

だが小さい頃というのは他方、普段はたいていそんな事を忘れてはしゃいでも居るものだ。けれどもその経験の何らかの刻印が漂っている以上、厳密な意味で無邪気さというのは無いにひとしい。じっさい思春期ともなれば、それはせいぜい初々しさといったところだ。(ただ時々、奇蹟的なひとに出会うが。)

はにかみなどという言葉が当て嵌まるような年頃も過ぎつつある頃には、反芻しはじめたものだ…。初々しさにはにじんだようなしみがある。あるいは水の中に絵の具を一滴落としたような余韻があると。

しみとは全てを知ろうとするこの私自身(が見えない)という盲点だろう。

そのにごりさえ許せないなら、――無罪(not-guilty)であるためには――知ろうとしないしかない。

すると今度は責任の問題がつきまとう。

責任を問われる、ということは、私自身にある私自身の殆どあずかり知らぬ点(or運動)を、私自身の持ち物?であるからといって私自身のがわに帰着せられる、というあの矛盾だ。(しかしだからといって他者の側に着せてよいものでも、さらさらない)(2010 6/16 twitter)

つまり自分が閉じておらず、はぐらかされている限り、不意に立ち現れてくるもの、探しているのはこれかと自分に問うてくるもの、お前に見えていないのはこれだよと<不意に示唆してくるもの>を、また時には全くの異者を、どうしても呼び込まなければならない。そこには(希望や歓びがあると同時に)たえず不安やおののきが付きまとうのである。

だがそうした希望と不安への待機、要請・促しへの応答・拒絶などと云った宿命的作用連関は他人にとってもいえることで、同じ存在構造である以上、この自分が、他者にとって他者の閉じられない輪の隙間から不意打ちをくらわす存在、すなわち闖入者にもなりうることも意味している。

 

芸術作品に於ける他者性、注視、不意打ち、もしくは「闖入者」について考えてみる。

 

【注視1――覗き見る(闖入者としての己を隠滅したまま)//フェルメール】

 

室内画というジャンルを知らなかった大学時代、フェルメールの作品を小冊子をひもといて知って、ひどく愕いたのを思い出す。当時の私の驚愕は、数少ない風景画とされるデルフト以上に、室内画を描くフェルメールのまなざしそのものに行ってしまった。 ちょうど哲学科の講義でデカルトのコギトを、「(実験的)他者性の排除」として学んでいたのとも重なり、この画家のどの作品も一様に帯びている「静謐さ」は、当時の私にとって新鮮な感動だった。―――彼は成功している。彼自身の気配の隠蔽に。

当時私はカメラ・オブスキュラの知識がなかったが、画家がこれを使用していたとすると、この装置をモデルに知らせなかったことも、この視線気化の奏功する一因であったかも知れない。

フェルメール絵画の静謐。この静謐さは、たしかに構図の精緻さ、計画性自身のもたらす所も大きい。だがそれのみならず、まず場面設定そのものが大きな鍵を握っていることがしばしばだ。

ひとつの大きな特徴として、 フェルメールの室内画のモデルとなった女性たちは、――画家のほうを振り返っている幾つかの作品を除けば――多くの場合、他者に「見られて」いることを意識してはいない(ドガの、背中を向けた裸婦などの作品などにも言えるが)。自意識を働かせていないという点がやはりなにより描き手にとって大事であったにちがいない。静謐さの条件とは至純さであり、ときに集中力であり、また無防備さ――或る種の大胆さの中に潜む、前提としての「他者不介入の意識」――なのである。

  1. 青衣の女
  2. 真珠の首飾りの女
  3. 紳士とワインを飲む女
  4. 婦人と召使

画面を見ている私たちは、画家の選んだ題材となった生まな状況に、時を越えて<立ち会わされる>!……この偶有性こそが室内画の命なのであった。図らずも私たち鑑賞者は、彼女らの秘事、また密約を、――或る時はカーテン越しに、或る時は見えない空気と化して――意図せぬままに侵犯してしまうのである。さらに驚くことには、どの画面にも、私たち鑑賞者の視線と同様、画家フェルメールの視線の影もまた、どこにもない。

一部、ワインを飲まされている娘や、絵画中の画家にモデルとしてポーズをとっている娘にみられる、一定の自意識といったものはあるが、それもあくまで登場人物同士の関係でのみ生じる対象への意識、もしくは初々しい或る種の(想像上の)性的交換作用であって、これを真に描いている正体としてのフェルメール――それは同時に、私たち鑑賞者という第三者の介入余地可能性でもあるが――に対するそれではない。

画家(フェルメール)の立つところ、また凝視する視線の影は、画家自身の細心の気配りと、おそらくは巧妙な装置のもとに、全くと言っていいほど<隠滅されて>いる。

こうしてみごとに密閉された「場」への、私たち鑑賞者の目線の‘不意の侵犯’。 この驚きと或る種の不誠実?への戸惑いが、画家フェルメールの写実性巧みな筆致を通し、或種の逆説性として奏功する。

さてつぎに、さきにフェルメール絵画の静謐さには、構図の精緻さ、計画性そのもののもたらす所が大きい、と書いたことに再度触れる。それは私たち鑑賞者の目線がその侵犯性に罪悪感を起こすことなく、透明なまま、微細なディテールの永遠に「停止した時間」へと同化することを許す、まさにそういった作品もある、その顧みのためである。そこには構図の密約性から、視線がおのずと一点に凝集される巧みな技術が関与している。

  1. ミルクメイド
  2. レースを編む女

ミルクメイドの人物は、パンに似せた石像のようにまるでテーブル上の静物とまったく同じ物質感で立っており、人体というには躯の芯に天から垂直に降りてるような、あまりに完璧な堅固の軸が貫通する。この人物は静物たちと、そして部屋(壁や窓や卓)とまったくひとつにつながっている。

その腕の角度、壺の傾き・角度、また傾げた首の角度などから、興味はやはり左側のテーブルの上の静物群に集中される。そして沈黙の中のおしゃべりがはじまり、その卓上では沈黙とざわめき、動と静(停)、流れと永遠が矛盾するものでなくなる。魔法が成り立つための照準が、合っている。

人物の身体の向き、片側の壁にばかり寄り沿った ものの配置などの見た目とは違い、見れば見るほどその内密さの中に複数のシンメトリックな伏線を用意しているのがわかる、奥深い絵である。

静物への視線の収斂と時間停止効果のため、窓の角度、壁に平行に置かれていない卓と、ねずみとりとされる木箱の角度、また女性の顔(鼻筋)の傾きと壁に映る影(バスケットの角度の示唆も含むが、フェルメールに於ては壁の影線の暗示する功績も大きいであろう)等々の複数に交差する暗示線の対称性は――時に分度器状のもの・三角形(相似)なども含まれ、また奥行きの集約的極端さも含まれる――じつに見事である。それらの向きの集まりが、人物に物同様の実在感と堅固さを与えつつも、この画の主題が、人物よりその手元から下、むしろテーブルの上の静謐であることを、われわれに示唆するには十分だ。

 

※構図参照(自作ミルクメイド用図解)リンク-リンク先の画像にマウスで触れると図解が出ます

 

レースを編む女。この作品を流れる、親密で持続的な時間。室内の時計の音すら聞こえるか聞こえぬかくらいの静寂と慰安にみちた専心。張り詰めた空気が同時に安らぎを帯びるという不思議な息吹が命の作品である。

この作品もやはり、女性の指から延長される分度器状のベクトルの放射と収斂、またミルクメイド同様三角形の相似が自足的な時間を放出する。またこれは、そのようにすべてを放出するこの交点を取り巻く、幾つかの傾きを持った平行線・垂直線がその収斂の純一さへと静かに参与する作品でもある。

糸と、女性の8本の指の向き、この示唆によって女性の両手の間にある点描で描かれた糸の一点(=X点。下、裁縫箱の線が導線となり女性の肩から巻き毛へと繋がる)へと全てが収斂する一方、これに平行して上述の暗示線と平行な机の脚線(これとほぼ垂直に交わる机の傾き!これが、もちろんX点を結ぶ横軸(=小指の傾きにて暗示)とパラレルである。女性の顔の傾きと平行な手前の紅白糸の向きの暗示、鼻筋と平行な右側のテーブルクロスの線、女性の腕のラインと平行な手前のテーブルクロスの傾斜線。指に収斂する放射線の一部とそれぞれ平行な、女性の左右の襟のライン…など、その均整のとれた構図の妙は枚挙にいとまがないほどだ。

 

※構図参照(自作レース編みの女用図解)リンク-リンク先の画像にマウスで触れると図解が出ます

 

ある時は画面の向こうの「内面」が瞬く間に凝縮する永遠となり、またある時はミルクポットから瓶へ、さらにはパン籠へと視線をつなぐあの微細なディテールの永遠に「停止した時間」となって、その静謐さは結晶化する。静物をめぐる、無数の点描や、その焦点より手前にあるものたちの帯びる輪郭のぼやけた線描とともに。(それらはのちの印象派以降の手法をすでに内在する)

いずれにせよ我々の視線が突入する、その閉じた空間=「場」の密閉性、また隠蔽性とは、フェルメールの場合、しばしば緻密に計算された構図とも、切っても切り離せないのであり、その妙を知ったとき、この驚きはまた殆ど得心となるのであるが、とまれ、フェルメールとは、われわれ鑑賞者という闖入者に、あくまでその気配を隠蔽したままその空間に参与できるという、この画家自身と同等の極秘の特権を与えてくれた、おそらく絵画至上最初の画家であろう。

 

【注視2――闖入者の視線のすべり//カフカ(「城」)】

 

測量士K…他所者としてとしての(村からすれば)野心的な闖入者。またつねに敗者として存在しつづける。

「城」の中にはこんな記述がある。

Kは城を眺めていると、安らかにそこにすわり、ただぼんやりと前方を見ているだれかを、自分が観察しているような気がよくしてくるのだった。この男(※城の擬人化)はもの思いにふけって、そのためにすべてのものから孤立していたりするのではなく、自由で平然としており、自分ひとりしかいないし、だれも自分を見てはいないのだ、といった様子をしている。ところがやはりこの男は、自分がKに見られていることに、気がつかないではいられない。だがそれはこの男の落ち着きをわずかたりともそこなうことがないのだ。そして事実――それがことの原因なのか、それとも結果なのかわからなかったが――観察しているこちらの視線は、つかまりどころを得られずにすべり落ちていってしまう。

――そんな存在のようにみえるのだと。

つまりここでは、他所者(闖入者)のほうが一方的に無力である。そもそも存在論的に、あちらとこちら(彼岸と此岸)を厳密に分けることは出来ないが――なぜならそれは互いを回り込むからであろう――あえてそう呼ぶとすれば、あちらがこちらに対して何の影響も及ぼすことが出来ない。内部は勿論外から「見られる」余地を残している存在な点に関していえば不完全で、その世界は閉じられてはいない。にもかかわらず外からの志向性に対し、内なる世界は不動なままだ――カフカ自身の言い方を借りれば、一瞥をよこすくらい――。むしろその超自然性ゆえに外(闖入者)のがわが面くらい、視線のすべりを起こしてしまう。外部に影響を与えることも互いに影響することもない。とそれは、闖入者のがわにしてみれば、受容のための空隙が、何処かにきっとあるはずにもかかわらず、永遠に中に入れてはもらえぬ、自分は他所ものなまま受け容れられずに、永遠の巡礼を余儀なくされるということになる。

任命を受けつつも、半ば確信犯的闖入者自身に絡みつく、無辺の外部。傍らを離れることなく何処までも付き沿われるのを感じ、あきらかに〈このもの〉を巡っているのだということを知っていながら、それ自身へはけして近づくことの出来ぬ、あまりに馴染みぶかい存在、異邦人であることを余儀なくされつづける。

この終わりなき物語全体が、Kの迂遠な非-到達としての異邦者・闖入者としての奇異性と、延々たるはぐらかしの刑を描出テーマとしており、超越的なものへむかっての、その隙間への執拗な投企と挫折の連続体が物語られているのであるが、上述の一文によって城への受け容れられなさと力関係を、如実に典型的に、物語っている。

これを逆に言えばおおきな主体、つまり本来欠損としての招き入れへの徴を帯びるはずの「城」のがわのほうは、その他者侵犯を悠然と拒み続け、また拒み続けても己自身を何ら失効しない、殆ど無時間性に近い特権を帯びる存在として描かれている、ということでもある(Kの絶望的に長大なる時間性とは逆に)。

不条理な受動性、また不可逆性。城は、無表情に、殆ど事務的な様相すら帯び乍ら、或いは精妙に目に見えぬ形をとりながら、じつは厳然たる支配秩序として個々の精神領域に浸透することによりその思考や感情をたくみに操りその権能を行使し、かくてこの不正を着々と制度化(心情的には圧迫しつつ気化)する。それでいながら実は特権的地位の行使を、城の何らかの役職に就く人間らは、下層(村の住人)に対して行っていく。(ところがこの位階構造に於て奇妙なことには、この村の秩序の上層部は上層部で――つまり「城」の何らかの役職に就く者たちなのであるが――、そのさらに上層より降り来る命令について、自分たちはもっぱら迂遠な手続きを以てこれを通告するのみ、秩序の媒介者伝達者にすぎぬとの、非-主体・被-権能者としての、きわめて不透明な自己認識を抱いている。)そうした気の遠くなるような矛盾を含め、カフカはすぐれて暗示的に描いてみせているし、主人公Kの空虚、底深い不安と怒り、また自己の存在根拠へのあくなき関心、正義感から来る挑発心と滑稽なほど忍耐強い挑戦への動機といったものは、そのおおきな主体の抱える堂々たる矛盾の途方もなさゆえにこそ一層かきたてられるものとも言えそうだ。

 

【注視3――見渡し-見られ-取り込まれる//ヴェラスケス】

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

さて、次にヴェラスケス作:ラス・メニーナスであるが、この場合、幾つかの闖入者に出会うことができる。画面の中の闖入者は勿論だが、鑑賞者という闖入者を含めて!である。(フェルメールが、闖入者としてのわれわれ鑑賞者を絵画空間の中へと巧みに招き入れつつもその存在の気配を画中の登場人物たちに隠しておいてくれたのとは対象的である。)

  1. 闖入者その1:喚起体:傍観者としての彼岸の紳士
  2. 闖入者その2:鑑賞者自身(1と連動して)
  3. 闖入者その3:喚起体:鏡に映る国王夫妻
  4. 闖入者その4:鑑賞者自身(3と連動して)

ヴェラスケスは、おおざっぱに言って遠くの画面中央をほぼ2分割している。そして双方に意味の位相のやや異なる闖入者を、配置している。

ひとつは分割された向かって右側の、空間一つぶん奥に配置された実物であるところの傍観者である、やや素描に近い紳士像(ホセと言われるらしい)。階段をのぼりかけてふと足を止めたという風情で、かれはまったく無謀備かつ殆ど不躾に、傍観者として彼岸にいながらにして自分もこの絵画の中の構成人物の中に絡め取られているのも知らぬまま絵画空間に参加している恰好なのだが、その無防備さに於いて、たしかにこの空間の中では傑出している。その存在の在りようが他者の視線の影響を受けぬという点では(彼岸にあることのつよさ)。

しかし他方彼には彼岸にあることの弱さもつきまとう。というのは彼岸であるがゆえに、その内側の絵画空間自身に関しては、彼は何ら影響を及ぼすことが出来ない。内側の人物たちは、メイドもマルガリタ王女も、ヴェラスケスも(但し、<この画>を描いたヴェラスケスではなく、絵画空間の<中に>登場しているヴェラスケス=分身のほうだが)、みな彼に気づくことがないため、絵画空間の中へと永遠に招待されなく、(絵画空間の中での意味役割としては)けして呼び込まれない――謂わば政治的にいえば、批判と中立を訴えようとも状況そのものを変えることのない万年野党のような立場ではある。

そうした点に於ても彼の立場の意味は、我々鑑賞者とほぼ同一である(螺旋のひと回りぶん、違うが)。けれども、そう言う彼も、否、そのことを以てして、私たち鑑賞者との間に、或る種の交換作用を果たしうる重要な位置にいる(勿論それがもとより、重要な画面を2分割してまで彼を登場させたヴェラスケスの意図なのだけれども)。つまり彼=紳士はこの、自分を含まない内側の絵画空間の、互いに外にいるということ(ポジシオンの示唆)を以て、むしろ私たち鑑賞者と間で、不意の闖入者としての、また他所者としての<立場>の共有、そして交換をするのだ。

もうひとつ彼に関して注目すべき点は、彼の視線とその意味するところである。紳士の視線の先には、画中のヴェラスケスが対面している巨大なカンバスがあって、やや斜めを向いて置かれている。つまり紳士は自分の手前の絵画空間(orそのうちの誰か)をというよりは、カンバスの中身、そこに描かれているものを、じかに気にしている徴としての唯一の存在である。彼の気にしている、それとは何でありどういう世界なのか。それはともかく、彼の単純な視線(身体の向き)、について考えてみる。

この彼岸の紳士の視線が単純=端的、というのは、他の登場人物たちのように、ちょうど私たち鑑賞者の「方角」を(鑑賞者を、とは言って置かぬことにする)何とはなしに気づかう視線――もっと言えば画面中央マルガリタ王女の周りを取り巻く侍女達を典型とする、<虚勢された相貌たち>の一様に帯びる、遠慮がちにかしづくような、ヴェールを纏うような不透明さで目配りする・乃至は(Xを)視野に入れている、といった一群の視線――のニュアンスとは、真逆な意味を呈している、ということを意味する。素描に近い、云ってみれば暗号に過ぎぬともいわんばかりの筆致で描かれた彼は、気配りなく、ひたすら画中の<カンバスを>注視する。

この強さは、ひとつには絵画空間に於けるこの紳士の立場の問題がある。つまり描かれたもののなかでは、彼は唯一かろうじて不可視的存在である――かろうじて、というのは、唯一この画の<モデルとなった人物>の立ち位置からは彼は不可視ではないからである。が、ポーズをとりつづけるそのモデルは、それ=闖入と注視 を禁じる自由も、そう身振りで示す自由も奪われている――。ついでに言うと、(※ディテール画をみれば解るが)、逆にこの紳士以外のすべての登場人物(此岸)には、彼ほど、カンバスそのものに関心を寄せているものも、見入っているものもいない。むしろ微妙な目配りもしくは気配りを以て、*X=鑑賞者の立ち位置とその身分への関心を、保持しつづけているという素振りである。

*…これは勿論、画中のヴェラスケスに於ても或る程度当て嵌まる。勿論画家であるがゆえ、この立ち位置に立つ人物をその身分の差を超えた画家としての視線で観ている、という他の人物たちとは唯一違った特権的表情も見事に含まれているようだが。そうではあるにしてもこの、画中のヴェラスケスの注視線は、カンバスと、このモデルの立ち位置に居る人物との両方を微妙に跨いでいるのがわかる。画家としては当たり前な仕草なのではあるが。※この辺りのニュアンスについてもディテール画を参照)

彼岸の紳士の単純-端的な視線、これは、ちょうど画中のヴェラスケス前の大カンバスに突き当たり、カンバスの角度を経由してこちら側(鑑賞者の立ち位置)に屈折してくる。謂わば、くの字に曲がるベクトルである。このことこそが、これを逆に辿る、カンバスに描かれた世界はどんなものなのか、についての私たちの興味をそそるのだ。

さて、分割された画面の中にある闖入者のもうひとつだが、われわれの視線は、これまた殆ど素描に近く示されている遠景の二人の人物にたどりつく。これはフェリペ2世とその妻、国王夫妻像である。それは一見、奥の壁面に掛けられている額縁に入った他の数々の絵画たちと同じ、額縁の中の絵画のように見えるのだが、よく見ると不自然に曇った光の反射の様子から、それが絵画でなく鏡であることをやや遅着的に知らされる、という具合)つまりあれは**国王夫妻が映し出されている<鏡像>である。

**…主にこの点に関してはフコー自身と、蓮見重彦氏によるフコーの著名な紹介本(「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」。これが、志向的侵犯を巡る現象学についての紹介でなく、構造主義者フコーとしての紹介であることが幾分か不思議な感も与えるが。がとにかくこれはフコーの、非常に優れた考察視点と言説であることに間違いない。)によってラス・メニーナスの鑑賞仕方として既に詳しく述べられているし、私自身は知識不足であるがその他すでに優れた有名な解説があるはずと思うのでおおかたは省くが。

すると私たち鑑賞者は、この映し出されている鏡像のもとは何処にあるかを顧みざるをえない。とまさしく、それはわれわれ鑑賞者の立ち位置に他ならないが、その途端、この絵画空間にとって(無条件に)不可視的存在であったはずのわれわれ鑑賞者は、いきなり国王夫妻という形姿を纏わされる、受肉させられるのである。われわれが不用意にも、この絵画の前に立ち、また<立ち会って>しまった、その時間の経過を含めて。つまりここでは、私たち鑑賞者という匿名の闖入者は、今度は(状況に対する)<立場>の交換ではなく、<身体>の交換という仕方で、状況に出会わされることになる=姿をとる、ということ。

したがって私たちは、このラス・メニーナスという絵画空間に於いては、――立場の交換作用と身体の交換作用とを分けて考えれば、――じつに少なくとも4つの闖入者に、出会われることになる。

結局のところ、この絵画空間において、もっとも自由を勝ち取っているのは誰あろう、画家ヴェラスケス自身ということになりはしないだろうか。彼の意味とは、或る面で彼岸にいる紳士や、鑑賞者である部外者な我々よりも、勝利者的である。なぜなら紳士もわれわれ鑑賞者も、謂わば彼岸に居ることにより、この絵画空間(状況)に何ら影響を与えることはできない。むしろ絡め取られる側に回ってしまう。視野に入っていなかったはずの外部空間に居る効果的人物を描き入れたり、この絵画より何世紀か後になって生まれここに出会われた私たちの存在さえ巻き込みながら<見事に絡め取っている>のは、画家ヴェラスケスなのである。その意図は彼自身であり続けながら同時に彼を超えていく。

つまりこの絵画空間のただ中に、自己自身を分身として置きながら、否、置いたまま、専ら描くという行為を以て――つまり幾つかの鏡(性)という媒介を取り込みつつ、また人や視線、ものの向きといった喚起体を巧みに利用しつつ――登場人物たちの身分や、われわれ部外者たちの立場と視座をも巻き込みながら、その状況全体を超え出ている。まさしく「世界のただ中にあり続けながら、その世界を超え出る」のである。

被-構成者でありつつその己を以て構成する。被-構成者である己を以て、その己自身とともにすべてを描くこと。構成者相互にとっての、鏡の問題。これが、全ての人間の意識に透徹されること。内にありつつ外にあるために、メタファとしての鏡を持ち、用いること、これがわれわれひとりひとりにつねに保障されること。蛇足だがこれらは、芸術や哲学上の問題のみならず、今日においては政治や社会全体のMEDIA=媒介とそのありようの問題、われわれ個々の鏡の持ち方の問題としても大きくなっていると言えるだろう。媒介(としての可能性と自律性)を個々が持つ、そのことによりメディアとして働くような気がするのだが、現今ではしばしばマス...と名乗るそれによって、今日、私たちひとり々のそれが働かんとする傾向性と自律性を奪われていないだろうか。するとイデオロギーが隠され見えなくなってしまうであろうことを懸念する。

この記事のつづきへ(追記分)

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |
Comment








Trackback

Calendar

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>

当BLOGの目次

-------▼「目次」------

目次誘導
電子出版予定 コピー禁止

Profile


Rei
Reiのtwitter-HOME

Archives

Category

Favourite

Reiko Suzuki

バナーを作成

Search

Link

Feed

Others

-Powered by Jugem-

Mobile

qrcode

Recommend