Entry: main  << >>
セガンティーニと分割描法
2004年にHPに記載したものを転載
先日土曜日早朝のTV美術番組が、セガンティーニのスイスアルプス風景画と分割描法について触れていた。恥ずかしながらこれまでセガンティーニのごく一部の作品―(象徴画・世紀末画展などで目にした、その路線の彼の絵画ごく数点)しか知らずに居り、そうした方面自体にさして関心の無かった私には、長いこと取り立てて向き合う画家でなかったのだけれども、先日ようやくTVの画面を通してではあるが幾つもの彼の作品――若い頃独学で画を学んでいた時期の、幾らかバルビゾン派〜写実・ロマン派めいた仄暗い色調の美しい作品から、アルプスの強烈な光線と自然豊かな風景を描写した作品――に触れ、驚かされた。

セガンティーニの細密な自然描写法、分割描法は、点描というよりは線描である。比較すると興味深いが、スーラやシニャックの点描画法が描き出したものは、「光」景であり、つまり光のトーンそのものであった気がする。 たとえばその舞台が公園や水辺など戸外であれば、その描かれた対象および主題は、人物でもなく風景ですらなくむしろ「戸外の光」そのものであり、分けても紫外線(をはじめとする光線)を、――見せるために風景という媒介を通し――描出したのだとでもいえる程である。 またホールやアトリエなど室内の光景であれば、主役はこれまた人物たちというよりは、彼らを照らし出す照明であるとともに陰影である。
何れにしろ彼らの手法に於ては、風景そのもの、殊に人物たちは、光の背後に後退し薄められた形で存在し、どれもとってつけたように――まるで立像か殆ど物体さながらに――配置されている。それは謂わば照らすものとその作り出す影とを抽出するために置かれている、といった恰好である。けして彼ら自身がモデルでもなく主題でもない。当然ながら、光を語るための手段なのである。人物たちはどれも、自然な所作を停止し、その挙動の前後は、ちょうど残響をそぎ落とされたホールでの楽器の音のように、きれいさっぱりはぶかれている。しなう腕や、服の袖のしわまでもが、時間と所作の流れの経過を物語るよりは、むしろ文様のようにその場と時に滞っている。 また雲の行方や木漏れ日が刻々織りなしていたであろう翳の揺らぎさえ、その余韻をものがたる事を差し止められている。こうした非連続性――時間と動勢とを犠牲にすること――により、任意に切り取られたほんの「一刻」が有した光の真実を、彼らの或る種科学的な眼は、カンバスにしっかりと保持させたのだ。
けれどもこの払った犠牲、自然の連続性、というものを、光の描出の真実と両立させる方法はなかったのだろうか、と思う時、それ以前の印象派の手法のほうに、やはり惹かれてしまうのをどう仕様もなかった。
だがセガンティーニの線描によって描き出されたものは、光と同時にそれを受け浴びて「生きている」地上のものたち、屹立する山々、流れる雲、また輝く水を飲み、山羊や牛を牽いて生きるひとびと自身でもあるのだ。 彼は描き出すべき二つの主題、光という生の「媒介者」とこれを享受し生きる者たち、「受肉者」とを、しっかりと同居させた。

人を圧倒するほどの広大な風景、創造行為以前に、もうそれ自身いやというほどの《光》に充たされ完結的に存在する山岳風景というものを、多くの画家はあえてカンバスに描き出してこなかった。主に室内から再出発した近代絵画の歴史自身もまた、そのように進行して来なかった。広大無辺な風景は、それ自体完成されており、強烈な光を受けつつもみづから放ってなによりも充実し、圧倒的にそこに存在している。 この強烈さは、写真として切り取ることは或る意味容易でも、これと差し向かい、丹念に描き上げていくのに適当な対象では、おそらくなかっただろう。
だがセガンティーニはこの孤独な作業を地道に遂げていた。 線描によると、点描とは違い、「自然」と「生命」は、光という“媒体”に負けることなくカンバスの中にそれ自身の姿を立たせやすい というのは、面白い。 スイスアルプスの地を覆う草たち、それらは、文字通り、輝く「線」で埋めて行かれるべきであろうというのは考え易い。それはたしかに、点で埋められるより一層自然なことだろう。光は、点としてよりむしろこれを受けて浴びる草みづからの姿を以て物体としての細密な線を、実際私たちに印象づける。 けれどもセガンティーニは、屹立する遠景の山脈の描出にも、この線描という手法を延長させた。それにより、緑草に覆われた山面は必然的にナチュラルな風貌をかもす。 が、露出する岩肌のがわにも、線はじつは或る種象徴的に、存在している。肉眼というよりは、それはむしろ望遠レンズ、あるいは顕微鏡のトリックを部分的に絡めたような効果といっていいかも知れない。
岩肌のみならず彼は面を以て反射するもの――雪や青空――にも分割描法をあてはめる。がそれはたしかに奏功している。 じっと相対していると目の前が暗くなりそうなほどの、あのスイス山岳の強烈な紫外線は、細密な線として描かれても尚――否、線として描かれるからこそ(?)――そのデリケートでたくましく圧倒的なまばゆさを刻み、またこれをみづからの身体に刻ませ、浴びる地上のものたちを生かす。 ここでは光も《存在》であり、光を享受するものたちも同等に、“背後の時間のながれとともに”、存在している。
| Rei八ヶ岳高原2 | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |
Comment








Trackback

Calendar

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>

当BLOGの目次

-------▼「目次」------

目次誘導
電子出版予定 コピー禁止

Profile


Rei
Reiのtwitter-HOME

Archives

Category

Favourite

Reiko Suzuki

バナーを作成

Search

Link

Feed

Others

-Powered by Jugem-

Mobile

qrcode

Recommend