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ロベルト・シューマン-1(オマージュと付記、クライスレリアーナ)

2002〜3年にHPに記載したものを転載;冒頭のみ、2010.04.23にTwitterに記載したものを転載(一部補記、2010.08.16/08.20)
(吉田秀和氏)(シューマンの音楽)ショパンなどと比べればその和声はごたごたと錯綜していて、整理されていないようなところ...

この錯綜は、彼の魂そのものに由来しているとともに、――これと不可分であるが――理路整然としたバッハ音楽の構造と本質を引きずったかれの音楽そのものの構造から来ていることを思うとき、バッハとは何であるか、また彼自身に於てベートーヴェンを経由した(※彼の場合、それと同時にシューベルトも経由してはいるが)バッハ音楽とは何であるかといぶかしむ。それは (「未だ」) 整理されて「いない」、というニュアンスを越える。

(※…Twitterのツイートでは削除した覚えがあるが、元のHPの記載(2002/12/20)のまま、削らずに載せておく。付記10/09/29)

音楽美的な位相では「整理されて」いないかもしれぬが、思考や魂の質においては逆である。見えている人間の表現のほうが、見えていない人間の整理された表現より、これをふたたび整理するのに要する分、はるかに圧倒的な時間と精神的負担を要するのである。

錯綜とは、知的で論理的であることと相反するのではなく、知的で論理的で、良心的で反省的であるからこそ見えてくる世界、見えてしまっている世界、またそうした思考や精神の位相に付帯する状況であり状態であることを、つよく思う。

理知的で批判精神にみちてあることと、幻想的で飛翔的で錯綜する、ということがひとつの魂であること、またありうること。そのどちらかがBachの合理主義を必要とした、と考えるのも――理知性の側がBach的重厚さと理路整然さを求めた、と語るのも、錯綜する魂がその調停のためにこれを欲した、と語るのも、無理がある。 なぜならそれは‘ひとつの’魂であり、従ってBach的なものともひとつだからである。

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経験とは時間である。時間なしに経験できるのは神のみだ。つまり私たちは身体であるということであるが、そうした身体的存在にとって、世界という経験が現勢と潜勢の区別の、また現在に於ける過去と未来の区分のもとより付きにくく、その輪郭も曖昧ものなのであってみれば――すなわちそれ(まったき明証性も可視性もあらかじめ保証されていないということ)こそが主体と世界との間の現実なのであってみれば――、シューマンがメロディラインをけして露骨に描かずに交錯する旋律と旋律を跨いだある暗示性のもとに訝しげに辿らせたのはある意味で内面のリアリズムとさえいえるし、また彼の丹念にまたある意味執拗に追う時間が、<錯綜>するのは――つまり<錯綜>を、謂わば 継起的→転倒的(=遡行的)→再-継起的、時間の再編作業というなら――それはごく至当と言えるのだ。

シューマンの音楽、とりわけクライスレリアーナは、現前するとは何か、をよく物語る。音楽にゆきわたる、この<ずれ>。音列の錯綜(時には対位法の痕跡をそのまま残したような複雑な分散和音)ももちろんだが、このリズムのずれは、全き対象として自分自身を、他者を把捉できない存在、すなわち身体的存在特有の、時間感覚であり、匿名世界の中から主体(自己・他者)が――その意味とともに露わになるまでの延着作用であるとともに、その延着を待機しつづけ同時にこの暗示性の秩序に参与し働きかけていった、また働きかけられていたはずの、われわれという時間的存在の性質である。(付記:2010,08,16)

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クライスレリアーナのすべてがずれの芸術ではあるが、ことに最終8(Vivace a Scherzando)。この音楽に映しだされた、見事なまでの現前というものの暗喩性。そしてその運動のさなかにあって、このたどたどしく淡く錯綜する右手は「これまでのすべての」主題であったかにみえる出現しつつある意味であろう。が、その描き方はいわば<素描>――それはフロレスタンの跳梁として暗躍的旋律とリズムによって現される。がそれは<背景にうごめく>、出来事を先取りする素描である――にすぎない。にもかかわらず、このppによる素描のがわが、遅れつつ到来するもの、すなわち出来事としての受肉作用のがわ(左手)より、シューマンにとって「現在」の照準であるかのようだ。それでいて、ずれる左手の同音連打(=出来事の到来、またそのリアライズ;「覚」化)は、素描より“微妙な”遅れをとる楔打鍵を以てあまりに深く尖鋭的に現されることにより、意味の<重心>はこちらにかかるかのようでもある…(反省/把持)。この旋律はだから、たんに錯綜的であるばかりでなく、二重性を帯びる。

ところで、その出来事とは無論、偶有性としてのそれではない。物語のフィナーレにふさわしく、必然的なそれなのだ。まさしく到来、また意味の受肉である。なぜなら主体、及び*<ほぼ>同じように立ち会う他者の主体が、それまでたえずその到来を望み/半ば状況へと返し、編み込んできたことだから。つまりここにはそれまでの暗示性の秩序と、主体同士の<向き>の問題がある。つまりその主体(登場人物)たちはそれまで十分に待機的であったのだ。ずれの芸術とは、――それが時間的芸術であればある程――向きの問題と不可分だ。つまり、8にて到来する打鍵の出来事とは“真実としての”出来事(受肉)である。だからこの<到来>は、或る(遡及の)刻印を帯びているのでなければならないし、実際この音楽の場合、その刻印こそが――ホロヴィッツの演奏などを代表格とする――あの穿坑的な、延着する打鍵なのである…。

*<ほぼ>……(この主体に対する他者の主体による)侵犯可能性の部分。また不可能性=出会いそこない、の部分を担保する。つまり自己と他者の主体の間には、生きた呼吸=互いの自律性のための隙間があるはずである。これは(己自身の根源的疎外=)ずれの問題とも不可分であろう。

ところでこの音楽は勿論、ハッピーエンドとして理解していいのだろう。というのもこの8に於ては、この音楽全体の本質とは相容れないはずの――つまり自己は、他者はおろか自己自身とも完全には一致・同期しえない(※ナルシシズムの表現=形式としてなら別だが 10/09/29)という、言い換えれば予め他者の可能性を含まされることによって時空を閉じられないという、存在論的本質の問題がある。我々存在には、同一性と、同期性synchronizationの保証というものがあらかじめ奪われているはずであり、またじっさい人間シューマンの抱える根源的違和感・精神的危機の問題も、もとよりここから出発しているはずだからである(※と同時にこのことの、大きな要因になっているかも知れない現実的問題と、それの精神にもたらす亀裂に、この若い時点でのシューマンが十二分に「自覚」的であったかどうかは解らないが)――、死の飛沫すら漂う(何故「死」の飛沫と感じるのかは、後になって論理的にも理解できた。これ後述)ほの暗さの中にも幸福そうなほほえみを浮かべる、あのたゆたうユニゾンが登場する(27〜49小節)。これは、背景となった文学的には色々なモチーフと展開があろうが、その更に背後にただよう音楽上の意味性としては、勿論シューマン自身とクララの合一(理想郷)と見てよいであろう(その理想郷に死の飛沫がただよい跋扈するとは、いかにも彼のあまりに秀でた潜在意識のなせるわざであるともいえるし、皮肉なことにシューマン自身の人生の縮図とさえ思われるが)。勿論、このユニゾンに<最低限の>非-同期性(アルペジオ)を与えることをシューマンは忘れていない。このもっとも高度に純粋なロマンティシズムの処理には、祈りをささげたい。(付記:2010,08,20/12,21)

 

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2003年01月14日 (火)

シューマンの半音階性の強い音楽は、ひとつの和音のなかに主和音と属和音の同時的共鳴(ペダル使用で混濁しないよう、しかし前の残響を消さないよううまく余韻として融合させ、響かせる必要がある)がある。また、先に少し触れたようにいつ転調するとも解らぬ危うげな進行にみちており、事実調性記号の表記としてまで表わされなくとも、実際には密かに幾度も転調らしきをとげている、或いは転調が伏在している箇所、というのが多い。これと全く同じ現象はバッハの平均律の中でも遭遇したりする…。

尤も半音階法というのはおよそそのような性質を有しやすいのであって、その性質の色濃いシューマン以前の音楽と音楽家は、それだからこそ後世前衛音楽にも影響を与えたのだろうし、それらの音楽と直かに通じるのであろう。 ブラームスも晩年の間奏曲ではかなり半音階を多様していたし――もっともブラームスの間奏曲の多くはシューマンの音列を鏡状に映した、人生の返歌のようなものではないだろうか――、ベートーヴェンでは、後期弦楽四重奏などでは、分けても14番に於て全体にその色が著しくつよく、また13番大フーガなども無調音楽に無限に近い。バッハの音楽もまた、特に後期の大作に於てその性質は強まる。マタイ受難曲でも、例えばコーラス1&2によりかけ合いで叫ばれるLass ihn kreuzigenの短いフレーズの中や、69番アルト-レシタティヴォを導入するエヴァンゲリスト(テノール68)のたった3小節分の朗詠――die mit ihm ge kreutiget wurden――、この中に意表をつくような潜伏的転調が見事に織り込まれている。勿論つづくオリエンタルなアルト-レシタティヴォ(Gorgotha)そのものの変幻性も、眼を見張るものがある。

平均律クラヴィーアでは殊に第一巻の著名な短調作品、4番,8番などが端的で、つねに可変性にみちているのが解りやすいかも知れない。 例えば8番などでは、典型的には60小節〜marcatoに入っていく箇所、また64〜70小節への次のmarcato部分であろう。 曲想としては純古典的で理解しやすい5番フーガなどでさえ、調性をわかりやすくするための伴奏和音を自分で添え木のように細かく付けて追ってみると、実に微細に調性が動く、ないし動く「兆し」を孕む和音を挿入しつつ精妙な陰影をつけることに成功しているのがわかる。こうした例な一部にすぎないが…。 バッハとシューマンというのはこうした調性と(バッハの曲のフレーズと和声を<和音>に変換して鑑みた場合)和音の変幻性という点でも、互いに音楽的特性としてのひびきの要素が非常に近しいと想える。

さてクライスレリアーナであるが、対位法的性質とともに、このような和声と和音の構造もできるだけ気付いたことを記して行かなくてはならない、、、(i〜i)
(グランドソナタなどにも同様のことが当てはまると理解して戴くものとして)

 

2003年01月15日 (水)

<クライスレリアーナ>

複雑で立体的な構成上、また音楽的質等の点で非常にバッハ的であると同時に、(中期)ベートーヴェン色もかなり強い作品であるようにあらためて思う。

※昨日記した、転調のあまりに頻繁な部分は、シューマンの半音階法の必然的特徴であるから、およその転調のしくみを自分なりに解析し、◇に記した。
尚、注)も自分の思う所を記してみた。

  1. 第1曲:A(ニ短調)-B(変ロ長調)-A(ニ短調)
  2. 第2曲:A(変ロ長調)-B(ヘ長調-間奏曲1)-A(変ロ長調)-C(ト短調-間奏曲2)-A(変ロ長調)

    ◇C…ト短調-間奏曲2:ト短調-ニ短調-嬰ヘ長調(=変ト長調?笑)-変ロ長調*piu lento という変化。
    注)尚この*piu lentoが後、(4)・6・8番主題となる。(……と思う(笑))
    このように楽章の挿入部分や途中の展開部分が後の楽章の主題への伏線になることが多いようである。弁証法的である(デリダなどがこの言葉を以て捉える「ヘーゲル的」それではなく、<より細心で周到な>「弁証法」的)。

  3. 第3曲:A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)

    注)B=変ロ長調は、旋律の進行、付点リズムともに第8曲のテーマに通じる、一種の前口上風変奏曲となっている…と思われる

  4. 第4曲:A(変ロ長調)-B(ト短調)-A(変ロ長調)
  5. 第5曲:A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)
  6. 第6曲:A(変ロ長調)-B(ハ短調*)-A(変ロ長調)-C(変ロ長調支配)-A(変ロ長調)

    ◇C:変ロ長調支配…変ロ長調〜ハ長調〜変イ長調*un poco piu mosso/謝肉祭フィナレ?調

  7. 第7曲:A(ハ短調)-B(ト短調)-A(ハ短調)-C(ヘ短調支配)-B(ハ短調=移調)-A'(ハ短調+変ロ長調poco meno mosso部)

    ◇C:ヘ短調支配…ヘ短調〜ト短調〜ハ短調*non legato部
    とりわけベートーヴェン的パッショナートのつよい楽章と思われる(殊にnon legato部分)
    注)A'…poco meno mosso部:2番主題,*3番B,4番主題,5番B,6番主題らの緩徐長調部分と或る種の関係性を保つ→*3番Bが‘ト短調化’した形での8番開始(A)へと導入する

  8. 第8曲:A(ト短調)-B(変ホ長調支配)-A(ト短調)-C(ニ短調支配)-A(ハ短調-ト短調)

    ◇B:変ホ長調支配…変ホ長調〜(ニ長調;-ト長調〜イ長調)〜変ホ長調〜変ロ長調〜ト長調 →A(ハ短調A〜ト短調A)へ。
    ◇C:ニ短調支配…ニ短調〜ハ短調(ハ長調含)〜ト短調〜イ短調〜ホ短調〜イ短調〜ト短調 →A(ハ短調A〜ト短調A)へ。


    注)尚、第8曲に特徴的である絶妙なシンコペによる付点リズムであるが、恋愛感情告白の曲にしては知的(省察的・批判的)で、不気味なほどの雰囲気を醸す。これは調性的には、つねに転調に於る両義性を持ち合わせた、いわば鍵となる音であることを発見したように思う。この簡潔に選ばれたる音を故意に残し、次の調へとめくるめくトリック的転回を果たしている。

    注2)また、C部は、ベートーヴェン交響曲第5番「運命」のまさにピアノ変奏曲版という感じで付点を除けば不思議なほど一致する。(後述する<霊-愛>が「運命」によって遮断される、という訳であろう…。12/06/28)これはシューマンの、殆ど無自覚から出たものか、充分に自覚的な発想か、その意図は私には計りかねる…(笑)

クライスレリアーナ第8曲部分。ベートーヴェン交響曲第5番「運命」と似ている箇所
参考1:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ、第8変奏、74〜75小節

参考2:→譜例、ベートーヴェン交響曲第5番冒頭部(別窓リンク)

 

2003年01月16日 (木)〜2003年01月17日 (金)

<クライスレリアーナ>続

第1曲

A-B-A

A…2/4拍子:1小節当り<16分の3連音符×4>でつながっているが、各3連音符の真ん中がつねに最も低い音である。もしこれらの各最低音のみを選び独立させて、1つの声部として繋げ、残りの2つの16分音符を別の声部として繋いで行くと、

a:イロハホ-イロニヘ-♯ロ ♯ハホト-♭ニ♭ホイハ… b:ホトヘイト ♭ロイハ… c:イニホヘト ♯トイ… =(左伴奏部)

以上の3声部による、どれもバッハ的でうつくしい古典的な諸旋律のからみが出来上がる。 b(内声部)とc(通奏低音?)だけで作られる音楽はベートーヴェン風に近いが、aが多分に半音階進行的――といっても勿論シューマンらしく飛翔的ではあるが――なため、シューマン独特に聞こえる。

B…これもリズム上Aを引き継いでおり、 旋律的には第2曲A(主題)B(間奏曲)、第3曲B、第4曲A、第6曲A、第7曲A'peco mono mosso部、第8曲Aなどに、はやくも暗示的に通じる。また リズム的には第2曲C(間奏曲)、第3曲A、第5曲A、第7曲A、第8B曲などへの伏線になっていると思われる。

 

第2曲

A-B-A-C-A

A…この主題は、かれ自身の交響曲第2番4楽章の終盤(到達点)と同じ原体を思わせる(とくに5:50周辺)。それはつまり、前田昭雄氏など複数の研究者が交響曲2番(幻想曲ハ長調op17でも同様)に於てこの由来を指摘するように、ベートーヴェン「遙かなる恋人に寄せて」を彷彿させるということである(11/01/14)。→###(但、最後尾に付記。ベートーヴェン「幽霊」op70-1他について 12/06/27)

と同時に(後述するが)殊に8との濃密な関係が、見いだせる。(シューベルト「死と乙女」。シューマン自身の交響曲第1番「春」にも反映)→####(同じく、但、最後尾に付記。ベートーヴェン「幽霊」op70-1他について 12/06/27)

そしてこのパッセージのしめくくりは、弱起1拍目に当たる印象的なsfp指定の繰り返し和音。ペダル記号が随所に記されており、殊にこの和音部分には精妙さが要求される。これらの和音は前旋律の残響として巧みに漂わせる主和音(♭ロニヘ)と新たに響かせる下属和音(イハ(♭ホ)ヘ)との共鳴により、不協和音ぎりぎりの両義的余韻を醸し出さなくてはならない。 この冒頭5小節のフレーズ自身は必ずしも半音階法ではないが、これに近い幻想的効果を要求される。次の8小節目冒頭和音ハ♯ニ_(ニ) ♭ロハ、9小節目冒頭ヘロ ♯トハ、これらはとりわけ不思議な余韻を持つ。11〜14小節にもこうした不思議な和音は低音の装飾音符とともに重厚に打たれる。古典音楽でいえばこれらの冒頭鳴らされる低い装飾音符は通奏低音の役割であり、これに対し高音部も♭ロ音で続けざまに鳴らされる。主旋律は右と左の一部同士で交錯する内声部であり、これのみを抽出してもバッハ的雰囲気である。 18小節後半からはまた、通奏低音付きで非常にコラール的な、上昇/下降同時進行の対位法3度差並行との下降と、これらに対し転回形をとる上昇声部(右手最上旋律)が用いられる。このフレージングのまとめとなる22小節ritard.部の和声はまたバッハ的交錯をみせる3声部で絶妙である。

B…intermezzo1:準_対位法的
左手低声部のバッハ的動きと右手内声部がうつくしい交錯をなしカノン風な単純フーガのようでほぼ対位法の関係になる

C…intermezzo2:対位法的
平均律第1巻1番prel.を短調化したような動きの内声部を主旋律に、右上声部と左低声部(octv.和音)が ♭ホニハ/イト ♯ヘと、5度差のフーガがカノン形式的にズラしつつとられている。尚この左低音部はoctv.で行われるため、その重厚さは進行するフレーズ自体とともにベートーヴェン的である。 5小節目の後半から、転回形(2度ではなく3度ずつ跳躍する転回形)に準じるカノン式となる。 10小節目からは濃厚な半音階法旋律となり、平均律prel.的内声部も半音階的、右上声部と、転回形である左低声部のフレーズ進行も半音ずつ上昇乃至下降する。が、平均律prel的内声部の動きの効果のため、フレーズ全体としては上下蛇行しつつ上昇・下向する形となっている。

piu lento部…この存在自身が4番A(主題,ことに2小節後半〜4小節)、6番A(主題)の幻想性に対する潜勢要因となっている。

きわめて半音階法濃厚。6度差の単純フーガ(並行)とこれの転回形の交錯する3重フーガ。 9小節目最後部からは左の上下2声部がイ音を軸に水に映した絶妙な転回形で交錯し、そのうちの上声部は右内声部(主旋律)と半6度の並行。 その後Aのテーマが左右10度差で織りなされ、転調してふたたび6度差で織りなされるが、このふとした夢幻的転調は、基本的にはイホ ♭ニ、の1和音だけで瞬時に!なされてしまっている。(変ト長調→変ロ長調)

 

第3曲

A-B-A

Aは、ややベートーヴェン的フレーズである。 が、ベートーヴェンであれば、3連音符の中間音を、むしろ3連音符から毎度はみ出す次8分音符(スタカート付)の方へ持っていくだろう。その方が音は連続的であり、より古典的、正統的である。だがシューマンは殆ど意表をつく音列のほうを選ぶ。この奇妙な配置の性癖が、旋律の上でもシューマンのリズムの有つ<跳梁性>を、活かし,高めている。

ここは、直接的には 第1曲A=ヘ短調 がト短調に転移した形の変奏曲であろうが、弁証法的思考の必然性からいえば、第2曲のIntermezzo1&2を経由していなければ発生してこない楽想のながれである。これもまた、(ともすると挿入部が不意打ちのように介在するのはシューマンならではの奇矯的展開であるにせよ、音楽的分析がたんにそこに留まるだけでは不十分であるばかりか非本質的であるとさえいわねばならない)このクライスレリアナが非常に立体的、螺旋的で有機的な――すなわち(ヘーゲル的意味ではなく逆に)<ベートーヴェン的意味における弁証法的>な――構造のゆえんである…。

3連音符の中間音が、左通奏低音(octv.和音)と並行し通奏的であるが、これを除去した声部をフレージングすると、非常にバッハ的な音列となる。或いはまた、3連音符の第3音をも第2音(=中間音)とともに取り外しても面白い。この場合のほうがベートーヴェン的なものに近い…。

他方Bは、第2曲テーマ(A)をひきずりつつ、既述したようにすでに第8曲テーマ(A)への潜勢的条件をもそなえている。これも弁証法的進行のひとつである。 シューマンの長調(部分)は、長調とはいっても、殆どの場合ひどく短調的気分に浸っている。この点でもバッハに通じるものがあるが、いつでも短調を内包しており、この面でもつねに自己自身が両義性の境域にいる。まともに長調と言い切れそうなのは、第2曲テーマくらいなものであろう。このB冒頭=変ロ長調も、本質的にハ短調への気配を潜ませており、実際、早々に左手第2和音(♭イハ)がこのからくりを端的にものがたっている。尚この和音がoctv.=♭イ♭イでないのは、――#普通ならば選ぶと思うが――、おそらくこれ自身生きた内声部(4声のうち2番目に低い声部)として働いているからであり、上の方の♭イ音を線で採ったこの旋律が4小節から、内声部であるまま交錯的に主旋律となって追従するハニホヘトイロハニホ…の上昇――冒頭テーマ旋律と5度差の単純フーガ――とひとつの旋律になって繋がるからであると思われる…。。それは非常にコラール的である。 尚戻ったAの最後部、piu mosso部は、非常にベートーヴェン(熱情)的である…。この部分も、右手3連音符の中間音を除いた主旋律は、左低音部と対位的(転回形)であり、他方この右中間音のみ独立させると出来る内声部が、左手3連音符の第1音を独立させたものと対位的である(ハンマーは同じ音を打つが、タイミングが1/2小節カノン風にずらされる。=両手は交差する)

 

2003年01月17日 (金)

第4曲

A-B-A

Aは、全体的にはひときわバッハ平均律的な半音階法の精妙さが伏しているが、2度目のA、曲のしめくくりの3和音は非常にベートーヴェン的で重厚な和音である。(A主題全体としては,否Bも含め4全容か?、がシューベルトのD960を想わせなくもない。すべての音を和音にしてみると似たものがあるのではないであろうか。付記10/10/03)

B=piu mosso部は中〜後期ベートーヴェン的である。が、バッハ平均律風でもある。

※こうした古典のコラール的要素を詩情溢れる分散和音風にもつれさせる力量がシューマンならではである。ちなみにシューマン自身としてはこのB Piu mosso部は音型的には同じように夢幻的憂いを帯びたフモレスケを(こちらは長調であるが)去来させるものがある。(※付記10/10/03)
譜例クライスレリアーナNr4-001(Kreisleriana-Nr4 Piu mosso)
参考:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ-4 Piu mosso
譜例フモレスケ冒頭(Humoreske)
参考:↑譜例、シューマン・フモレスケ冒頭

 

Aの諸声部関係はコラール風であり、同時にベートーヴェン中期(悲愴・テンペストの主に緩序楽章)風である。 気分的には第2曲テーマをひきずっている。 2小節目トリル(32分=トヘホヘ-ト)また3小節終トリル(32分=ハロイロ-ハ)は、微細な刻印ではあるが、ここで4曲自身のB―piu mosso は勿論、第5曲の冒頭躍動的16分音符を非常に想起しやすくなるのは驚きである。また第6曲テーマ(A)殊に5小節目、7小節〜の上下向する32分音符、第7曲、殊にC―non regato部―、などを予兆する。と同時に、過ぎた 第1曲のB部分(直接的にはここから発生して来ているかも知れない)、また第2曲テーマ(A)とくに最後部32分音符、などの余韻をひきずっており、発展しつつも反省的である…。これらのトリルが、左手の下降を伴いつつ、旋律としてまとまると(6小節目=トロ ♭イ トロイ)、いよいよクライスレリアナ本体として受肉し、第1曲A展開部(11小節以降,冒頭反復記号以下)の想起、と同時に第6曲と、第8曲の気分に迄見事に通じてくる。

Bの省察的主題は一応長調であるだろうが、やはりまた短調の色彩が濃い。当然第2曲全体(長調的側面としてはAテーマの他、短調的側面ではIntermezzo部分も含)にわたる 反芻であるけれども、同時に第1曲B、平坦化した音列的には、第3曲とも対位的(転回形)であるかも知れない。

 

2003年01月18日 (土)

第5曲

A-B-A

A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)

既術したように、先の第4曲2小節目及3小節終の32分トリルが促す曲想として、第5曲が開始する。 この右旋律は、第1曲Bの左手の動きとも通じるし、同旋律を、16分音符,8分音符,休止符などのリズムを無視して、同じく第1曲の、冒頭主旋律;3連音符×4の函数に入れると、或る種の変奏曲としても意識されるだろう。 5小節目からは非常に対位的であって、フレーズ全体としてはニハロイトヘホニハ;トヘホニハロという2声部の掛け合い(4分音符ひとつ分のズレを保つフーガ)のように聞こえるが、octv.奏法をとっており4声部で成立っている。この際、右-下声部と左-下声部は、シューマンらしいリズムの役割を果たしつつも、この下降旋律(右-上旋律と左-上旋律の掛け合い)の各発起と終始に<つなぎ>の役割を果たしている。つまり、右はニ…ハ/ヘ…ホ/イ…ト,左は ♯ヘト/イロ/ ♯ハニ,という具合。

ところでこの下降旋律自身は、第2曲主題7〜8小節(ヘホニハ_ハロイトヘ)に呼応するし、これを含めた4声部のoctv.規模の交錯としても構造的に準ずるものがある。シューマンらしさのひとつであろう。 同時にここでも左の不気味な跳躍は、第6曲B=unpocomosso部と第8曲の気分を、すでに漂わす。

√2(15小節)からは、第1曲テーマを激烈でなく緩く弾いた時のような雰囲気を引き連れつつ、第2曲テーマAの展開部(10小節目〜,特に左低音部による主旋律の動き)の変容をも、いわば遂げたものであり、第3曲B=menomosso部をより半音階風に変奏したものであるともいえる。これが、先の第4曲主題Aとも連じるのである。こうして、ここ第5曲で、後の第6曲主題A、さらに8曲A,B,C(殊にB)を取り持つ中間地帯のようなものになりつつある。 この辺りも非常に変幻自在に転調の施されていく箇所であって(変ロ長調〜ヘ長調〜変ロ長調〜変イ長調)、この多義性にはうなるものがある。一度目の変ロ長と次の変ロ長とは全く志向性の異なるものであり――<ロ ♯ヘトロ>→<ロ ♭ヘ ♭トロ>、その証拠に転調先がへ長から変イ長に、替わるのである。こうした音階の奥義を短いフレーズで端的に示している。

ここでは、旋律自身もそうであるが、左和音の曖昧さが、これまた多義的な際だったうつくしさを醸している――keyになる和音:ハホ→ヘ ♯ハイ→ニ ♭ロヘ→♭イホハ――。それもoctv.を越す幅広い分散和音であるが、もともとピアニストという弾き手の物理的構造から生じた音楽というよりは、コラール的な4〜5声部の広域和声で対位的に生じた音楽であるので仕方がない。(笑)

ところでこのめまぐるしい転調の、一連のフレーズを終わらせる、何気ない左内声部の♭トのたった1音がまた印象的であって、こうした鍵となる1音というのは、見つけ出すのがあながち容易でないはずである。鋭い知性であり、音感である。

こうした点でも、シューマンの音楽とは無駄に、或いは未整理に能弁なのではなく、端的な表現は表現で、心得ているのであり、その他の和音の不自然なほどの重厚さ・リズムの錯綜は、むしろ対位法などその古典的傾向、すなわち交錯した構造上の問題から由来しているのであることがわかる。

Bの a tempo部は、バッハ平均律第2巻18番fugaと同根である。だがここでは故意に、これまでの錯綜したタッチとは異なり、左右同旋律を奏でており単声風である。このシンプルさは、グランドソナタのクララの主題も彷彿する。 このホモフォニック効果が後の情感の上昇性(64〜68小節〜)に働きかけている。その後、自問的となる(69〜72小節)が、ふたたび向上し、展開部の頂点を迎える。この辺りは非常にベートーヴェン的である。頂点のff(88小節〜)以後、比較的安定したっぷりした90小節以降、明るいうねりのような右手8分音符による進行は、事実上前2音(octv.差)だけで前進していくが、後2音はシューマン独特の半音階的反芻性にみちる。左手進行の半音階法とともに、この前進に幻想的余韻と厚みを与えている。 だが和声の構造上は、右前1音目はどちらかというと左手和音のがわに近く、右-上声部と左-下声部とがともに半音階法で呼応している。

 

2003年01月19日 (日)

第6曲

A-B-A-C-A

A(変ロ長調)-B(ハ短調*)-A(変ロ長調)-C(変ロ長調支配)-A(変ロ長調)

第6曲は全体に、とみに半音階法の特色顕著な楽章である。平均律風(第1巻5番prelや特に第2巻20番fugaとは、曲想はともかく音列的には同根である)

Aは、暗い雰囲気は保たれているものの一応長調であり、基底には第2曲と、また直接的には第4曲Aから変換されているが、第5曲のリズム・気分、また特に√2部(15小節〜)が、もし先になければ生じてこないものであろう。緩徐楽章の置かれる順序として先に4曲テーマ、後に6曲テーマ、となるのは至当である。

同じように、B(ハ短調)への導入部5小節目と、Bに入ってからAに還帰した15〜18小節に、ホモフォニーないしホモフォニックな音列があるのも、5曲(先述したB部)を経由した所以である。

ちなみにこのB部(ritardando〜)は、バッハの宗教音楽をも想わせる重厚なコラール風4声編成であるが、7小節目以降<4分音符+32分音符×5>+<4分音符+32分音符×5>は、第2曲から変奏的に生じている短調であるとともに第7曲A(テーマ)の暗示である。

Bの終息11〜12小節目のやや沈滞した瞑想的気分は、第2曲の名残である。 それを契機にもたらされる13小節以降は、左低音部に主旋律を移した形で再びAに帰るわけだが、同じく第2曲の主題フレーズの長調風余韻の蘇りとともに、リズム的には第5曲Bが非常に潜在的に生きており、このAの主題が、いかに融合的変奏曲となっているのかがわかる。

C(6のUn poco piu mosso以降の部分)は、典型的にシューマネスクな音型。端的には、謝肉祭フィナーレ(「フィリスティンたちを打つダヴィド同盟」)(※ここでは、Michel Dalbertoの演奏で、1:55秒〜を参照)であるが、付点や休止符が躍動的に働くダヴィド同盟のテーマも、ここでは寧ろ省察的人間特有のひきずるような足取り、憂愁を帯びた、或る種の感情の<もつれ>をあらわす音楽として出現していて、グランドソナタ-クララ・ヴィークの主題からのアトモスフェールを想起させる。

構造的には左低音部が通奏低音の役割を果たし、主旋律(ダヴィッド同盟風)は右高音部が担ってはいるが、この特有の愁いを帯びた雰囲気そのものは、付点と休止符を活かした左/右の内声部のモチヴェションに負っており、両者の関係は、ほぼ対位的(単純形、及び後半は転回形)である。

 

2003年01月20日 (月)

第7曲

A-B-A-C-A

A(ハ短調)-B(ト短調)-A(ハ短調)-C(ヘ短調支配)-B(ハ短調=移調)-A'(ハ短調+変ロ長調poco meno mosso部)
◇C:ヘ短調支配…ヘ短調〜ト短調〜ハ短調*non legato部

どの部分も、中期ベートーヴェン性のつよい楽章。(殊にnon legato部分)

A冒頭部分は悲愴3楽章(Beethoven Op13 Pathetique Sonata 3rd)に、non legato部は熱情3楽章(Beethoven Op57 Appassionata Sonata 3rd)など。(付記10/10/01)

Aは第1曲Aの変奏曲である。(※厳密にはここでも第8曲に最も端的に現れるソドレミ♭ファソド…(下部枠内注を参照)、Aの原体短調の変奏曲というべきであるが、同時にベートーヴェン悲愴のソドレミ♭ファレミ♭ドが被っている。付記10/10/01)

第2曲intermezzo2部も起因する。また同曲次のpiu lento内声部主旋律(ハニ #ニホヘホロホ #ハニロ #ハニ #ニホイトヘトホヘニ)も、ここの主題構成に影響を与えているだろう。そうした意味で有機的立体的に統合されている、といえるが、より直接には、左右旋律とも第3曲が構造的にもっとも近い。が、第5曲の付点と休止符を抜いた16分音符による繋がり×3、というリズムの延長、また旋律的に5〜6小節(同型が10小節までつづくが)を、タイをもう1つの音符と捉えた場合のvariationと捉え、結合させたものと言えなくもない。

Bは第1曲A後半(11小節〜、殊に14・15小節の右最高声部ニト→ハヘ→ロホ→イニと下降する部分が、7曲B15小節〜ロホ→イニ→トハと下降するのと呼応)と、同第1曲B(左右旋律がひとつに繋がっている特徴)、またこれらのことを含めつつ直接的には第5曲Aに起因する。

Cは第1曲Bを短調化したもので、ハ短調から転調を伴いつつ、4度差のフーガ(ト短調)、また転調して単純フーガ(ハ短調)となる。その後再び左手主題と4度差となり(ト短調)、以後めまぐるしく転調を(ト短調→ハ短調と)繰り返す。

A'poco meno mosso部は、最高声部と最低声部のうごきのコントラストが非常にシューマネスクなフレーズであるとともに、コラール的な要素が濃い。 先述したように、2番主題(ラ(orファ)-シ♭-レ-ミ♭-ソ-シ=長調が原体),*3番B,4番主題,5番B,6番主題らの緩徐長調部分と或る種の関係性を保っており、これ自身は変ロ長調の開始であるが、変ホ長調に変位し、♭ホト ♭ロで終始しておくことで、これが変ホ長からト短調(ト ♭ロニ)への変位の鍵を保つことで、すでに第8曲が潜在的に始動しつつある→*3番Bが‘ト短調化’した形での8番開始(A)への導入が準備される。

 

2003年01月21日 (火)

第8曲

A-B-A-C-A

A(ト短調)-B(変ホ長調支配)-A(ト短調)-C(ニ短調支配)-A(ハ短調-ト短調)

A☆について。左手進行は、第1曲A、第3曲A、第5曲Aなどに近い。右進行と含めて言えば、第1曲A後半(11小節〜)を反映すると見られ、これとかなり対位的な関係にある(主に転回形に近い)変奏曲とも想える、第1曲B、第2曲Aの一部分(10〜15小節)、同第2曲B、第3曲B、第4曲A・B、第5曲、第6曲C-un poco mosso部、第7曲全体、etcetc.と殆ど全体にかかわり通底するものが潜む。

☆…このト短調主題ファ♭(orレ)-ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ソ…をニ短調にすると、ラ-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-(ラ)-レとなり、より無意識相での強靭な反復強迫に見舞われ続けるシューベルトの死と乙女第5楽章と同様になる。この付記は前田昭雄氏著「フランツ・シューベルト」(春秋社)による提示「ソドレミファソド(ソ)」から、主に死と乙女第5楽章を最も端的と想起した為、記載。10/09/29
-------
そういう意味から言うと、クライスレリアーナ全体を貫くのは、つまりAの原体とは(ファ♭またはレ)-ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ソ【短調】、(ラまたはファ-)シ♭-ド-(レ)-(ミ♭)-ファ-ソ(-シ♭)[その逆(シ♭-)ソ-ファ-ミ(♭)-レ-ド-シ♭-ラも出現する]【長調】――この場合、そのもとになったベートーヴェンの「遙かなる恋人へ」を彷彿とさせる、幻想曲ハ長調op17コーダや、より近いのは交響曲2番4楽章の終盤の変容(ハ調で書くと、ラシドソファソファミ-「ラシドミファ(ソ)(ミ)」)を彷彿とさせることにもなる(※これについては、前述を含みつつもじつはのちにベートーヴェン幽霊を基にしたものであることが判明するがそれは後述。 ###および####について、の記。120627)――といったものかも知れない。したがってその原体を長調の方から最も端的に見い出す場合2番から、となるし、短調の方から端的に見い出す場合8番から、ということになるだろう。
ところでこの原体の始まりの音を、ファ♭(短調)/ラ(長調)と、次音に近く解すべきか、レ(短調)/ファ♭(長調)と遠く解すべきかは、正直よくわからない。2番・5番・6番・8番では全体としては二股を掛けられているが、2番Intermezzo2・3番冒頭・5番冒頭・7番全体などでは遠く解され(これらはいずれも4度乃至5度を一足飛びに翔るフロレスタン的跳躍の鍵となる)、2番Intermezzo1やPiu Lento部、3番Meno mosso部、5番展開部(15小節から)などは、バッハ的幽玄さをもたらす半音階進行か常に転調予感を孕むファジーな展開仕様のため(オイゼビウス?)、近く解される。シューマン自身(和音または部位により)二股を掛けているように感じられるが、やはりもとは直接?「死と乙女」と同じ原体(★sym1「春」同様)を――適宜ベートーヴェン中期やバッハ的半音階進行を織り交ぜながらも――土台にしていると考えられるのかも知れない。10/09/29  また「遙かなる恋人」の方(★★sym2同様。但、より厳密には「幽霊」というべき 120627)を原体に近づけて考えれば、その逆になる。11/01/14
★…この8のAと同じワンフレーズは交響曲第1番(春/spring)Op38第4楽章(0:48〜1:05秒)にも登場する(下、譜例)
★★…交響曲第2番4楽章の終盤(到達点)同(承前。2の説明部分、交響曲第2番Op61第4楽章、ここでは5:50秒辺り)
(ハ調に直して)ソドレミファソドソミレファミレド。 そのせいか同「冒頭」(0:00秒〜)はクライスレリアーナ2-A(原体:長調)を想わせなくもない(笑)。(付記10/10/04)

死と乙女第5楽章冒頭
参考:↑譜例、シューベルト・死と乙女第5楽章冒頭(ピアノ版から)
クライスレリアーナ8冒頭譜例
参考:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ8冒頭(A部分)
交響曲第1番(春/spring)Op38第4楽章におけるクライスレリアーナ8-A部分同様のフレーズも参照(前述)

 

一体この8は(2との濃密な関係=原体の長-短調的関係であることを考え合わせると)、クライスレリアーナ全体の原基であるとともに、「死の予感」(死と乙女)と「霊的愛の成就への希求」(遙かなる恋人に寄せて&不滅の恋人&幽霊op70-1)が一体となった音楽といえるとは…。

 

さてシューマン自身は[ die basse durchaus leicht und frei ]と記しており、「謝肉祭」にでも出てきそうな役柄たちと通じる軽妙な気持ちを込めたのかも知れないが、実際に聞こえてくる音の世界は神秘的なほど暗く省察的で、ときに無機的ですらあり、遊戯風に跳躍するリズムには、冷めたものさえ感じられる。 微細な付点と休止符にみちあふれ、その付点の効果はバッハ マタイ41番tenore-Ariaや66番Bass-Ariaでの、ヴィオラ・ダ・ガンバ,ソロによる導入部すら彷彿させる程、ぎくしゃくとした何か黙秘的なものがある。音列的にも、一見跳撥するようでありながら半音階法を酷使しており非常に近しいものがある。

Bは左octv.和音(アルペジオ付きユニゾン)の声部が主旋律であって(シューマンとクララの勝利のランデブーと理解出来る)、右の舞踊的、跳梁的リズム(フロレスタン?)がこれを背景的・素描的にたゆたいつつ装飾する。基本的に変ホ長調支配。冒頭の変ホ長調からト長調〜イ長調へと変わる、と書いたがその前提として、一瞬のハ長調と、あらかじめニ長調及び変ホ長調(再)が、予言的支配をしており、ふたたび変ホ長調へと戻る。→変ロ長調〜ト長調。 この辺りはじつにバッハ顔負けの程一時もじっとしていない転調ぶりである。→A(ハ短調A〜ト短調A)へ。

Cも、基本的にはニ短調支配でベートーヴェン的な激烈さを伴う。よく聞けばベートーヴェン交響曲第5番「運命」の変奏曲という感も抱く。付点を除けば不思議なほど一致するのである。(既出。上記譜例1)ややグランドソナタ風でもある。

始めのニ短調〜ハ短調(ハ長調と交互に、と捉えられる)。この後、極めて微細に転調、ト短調〜イ短調〜ホ短調〜イ短調〜ト短調とめまぐるしい。→A(ハ短調A〜ト短調A)へ。

------

このAへの帰還の際、(一見)意表をつくズレを伴う――というのは、右手進行の暗示的動態(反復強迫)とは旋律上ほぼ無関係に(がじつは呼び込まれる形で)、しかもやや延着して、打ち込まれるのである――断片的羅列としての左手和音の穿坑的打鍵が、怜悧な歓びの覚醒として進行する。これは最上部で記したように待機したものたちへの出来事の到来(真実としての受肉)とそのリアライズとしての<楔>(存在論的にも、こちらの方が右手の予告的素描のうごめきより当然遅れをとるのである)といえるが、少し言い方を変えれば歴史の打鍵(振り返りの打鍵・時間=意味の再生としての打鍵)ともいえよう。だから意表をつくとはいえ、それはまったき偶有性ではなく、成就=必然性としての出来事である…。

先述したように、これら絶妙なシンコペによる付点リズムによって鳴らされる左打鍵の音は、厳選されたものであって、調性的につねに転調に於る両義性を持ち合わせたいわば鍵となる音である。この簡潔に選ばれたる音を故意に残し、次の調へとめくるめくトリック的転回を果たしている。(第8曲について。一部改、2010,08,20)

 

上記、###と####について(12/06/27)

タータタ、タータタ、これはベートーヴェンsym7第2楽章で繰りかえされる律動――ダクテュルスdactylusというらしい(久保文貴様より 12/09/05)――の影響を引きずって、クライスレリアーナの終曲8番にもタ、タータ(タ)、タータ(タ)というもう少しシューマンらしい吃りのようにぎくしゃくとしたリズムが不気味に(というのもsym7-2楽章のリズムのみならずある種の暗鬱さも同時に投影されているのと、死と乙女の付点との合体の故であろう。ベト7-2楽章の投影ついてはのちに触れる)刻まれる。この暗躍的跳梁律動をも伴いつつベト7自身のバックグラウンドが、この終曲8番には貫通している。(この躍動感と背景の正体は第2楽章のみならずベト7の他楽章も伏在しているといえよう。)

バックグラウンドの暗示でもっとも顕著なのは2楽章と思われる。それに、シューベルトの「死と乙女」が、シューマンの潜在意識の中で混じっているのである。なおかつ、たんにこれらの結合とだけ言って片づけられるよりニュアンスは深く、同時に「幽霊(op70-1)-不滅の恋人(ベト7sym op92)-遙かなる恋人(op98)」【※これらはベートーヴェン自身にも通底するしシューマンの中でもしばしば癒着・連動する。私はこれを霊-愛の旋律と呼びたい】由来が頻出する。記事最下部に記した、naxosの「幽霊op70-1」リンクでいう、2:12-2:47辺りの旋律(ファーミレドレミファソラシ♭ドレ…シ♭ドレミ♭ファソファソファミ♭レド/ファソラシ♭ドレドレドシ♭ラソ…の動きは、クライスレリアーナ第2曲の霊ともなっており、つまり最終曲8に於る右手旋律の、二股のうちのひとつ=波動のゆるいオイゼビウス側(ファ♭-ソラシ(ド)レミ…=「幽霊」主題)=上述した跳躍性のない半音階性を帯びた側、に投影しているといえる。)

ベト7(op92)は、ベートーヴェンが傑作の森(曰くロマンロラン)の実り豊かな中期の時期を経て、深刻な苦境に陥るもこれを克服する頃の作であり、不滅の恋人の旋律といえる。事実この時期、双子のようなもうひとつの旋律であるところの、シューマンの好んだ遙かなる恋人に寄す(op98)も作られている。繰り返すがふたつはしばしば変奏至芸の下で互に誘発連動するし、幽霊とも癒着する。

ベト7op92の2楽章を長調化すると、幽霊op70-1/遙かなる恋人op98の最終曲――シューマンの好んだ有名な旋律、たとえば幻想曲やsym2・ピアノトリオ2(全体がベートーヴェンの幽霊op70-1と遙かなる…op98のメタモルフォーゼとして出来上がっている。同時にこのトリオは、幽霊-不滅の恋人(「第九」へも繫がる)-遙かなる恋人間のメタモルフォーゼの往来をより自覚的に導入――グレイトの発見と自身の交響曲作曲以降、シューマン自身にとってより意識に上りやすくなったのであろう――したうえでの、ピアノ曲グランドソナタ(/幻想曲)/クライスレリアーナ合成型焼き直し作品と私は捉えている。これについては別記事でも述べたい)・弦楽四重奏曲第1番 Op41-1 4楽章(ピアノトリオOp80と同じ、自覚的導入による変容の和合旋律が、楽章全体にラズモフスキー色で震刻される律動とLvB晩年SQのOctv裂開旋律風の交代劇の間に登場。これも最下部【付録】スコア参照。ちなみにこの第3楽章はLvB晩年SQ各モティフの複合的薫りを継承した渋い弦の語法と空気感に導かれる「第九」-3楽章のモチーフでできあがってもいる *…これについて小文字で下記に注。)・弦楽四重奏第2番(2楽章の冒頭直後に天使の主題―後述―が登場することでも有名であろうこのSQも、4楽章にはLvB-op98のおなじみの部分がそのまま露出するが、これまたLvB後期SQの薫りで彩る作品全容のなかにLvB-op98のメタモルフォーゼを巧みに展開させる形で仕上がっていると思われる)・op88(2楽章はLvB-幽霊op70-1による開始と不滅の恋人モチーフop92による応答、加えて3楽章では遙かなる恋人op98モチーフとがシューマンの中で合成されたもっとも典型的な作品といえよう)etcetc...らにも登場する、なじみ深い旋律群――に似てくる。

下線部について…

シューマンSQ1番(Op41-1)-3楽章冒頭は、LvB-SQ15番最終楽章の速いパッセージ、エリーゼ由来旋律(ファードミレシ/ミーシレドラ=これは、――より厳密にはエリーゼと、sym5を貫くエクリチュールとの融合と言うべきだろうか――最も直接的にはSQ15番-最終楽章から生ずるといえるが、第九3楽章主題とも同じ基である。ちなみに同シューマンOp41-1に於ては第1楽章でもこのエリーゼ由来転回形のメタモルフォーゼが二度登場する)後の、チェロのうなるようなかけあがりと酷似した形で始まるが、このかけあがりはトレースであろう。それからすぐ最初の3音が第九の3楽章を彷彿とさせる旋律にうつるが、これ=第九の3楽章主題は、LvBにとってもエリーゼ(ファードミレシ)と同根のメタモルフォーゼであるとともにSQ同15番3楽章テーマの(準-)転回形とその転回形(元に戻る)でもある、ということができる。もともと第九とLvB後期SQはエクリチュールが密接に通じており、当然シューマンもこれを理解していたと思われる。ただそこに同時にLvB13番-5楽章のほの明るい慈愛の諦観がシューマンの頭の中で混じっているようにも聞こえるのである…。いずれにせよクライスレリアーナからは外れるので、これについては別記事で記したい。

 

逆に言うと幽霊/遙かなる…を短調化すればベト7の2楽章に近づくのであるが、それと同じ基(エクリチュール)がクライスレリアーナの8に、否、全体に、流れているのである。8に関してはシューベルトの死と乙女(レソラシ♭ドレソレ。フロレスタン的跳梁の側)と合体しつつ、LvB op70-1旋律=op92律動 由来(☆ファ♯ソラシ♭ドレミ♭…、ここは、8の旋律内に織り込まれているもうひとつの線、すなわち「オイゼビウス的半音階性の強い側面の旋律」=同クライスレリアーナ上第2番的原体にも近づいていくもの)が交錯しつつ、ずらされつつ、跳びたゆたう。ここは、(2と8の原体が)「二股を掛けられている」、と上述したところのものである。

注)☆これ=シューマンに於る幽霊由来旋律―スコアとともに後述―はベートーヴェン自身に於ても勿論、幽霊op70-1に登場しつつも、遙かなる恋人op98(=同じ調で言うとファーファソラ♭ーミ♭ミーレ♭ード)、不滅の恋人=sym7-2 op92(同じ調でいうとファ♯ーファ♯ソ♯ラ♭ーラ♭ー、ミーミファ♯ソーソー)、第九(ファソラ♭ラ♭-レミ♭ファファ-シドレレ-ファソラ♭…/ファ♯ファ♯ソラ{ラソファ♯ミレ}レミファ♯…)にまで通じていくもの。ちなみに――第九ということはすなわち――これはシューベルトのグレイト=ドレミラシドにまでも受け継がれる。(ドレミラシドはベートーヴェン幽霊自身にもソーラ♭シ♭シ♭ーレーミ♭ー(ファ)…を筆頭にそのメタモルフォーゼが頻出する。これらはみな密に変容上繫がっており、シューマンに於てしばしば融合・誘発されやすいのもけして偶然ではないのである)ちなみにこの準-転回形はミレドファミレ(天使の主題)となる。

ここで言いたいのは、シューマンが表層的にベートーヴェンの旋律のうちお気に入りのものを手当たり次第に借用したというよりはもっと潜勢的なレベルにまで及んで、すなわちベートーヴェン自身に通底していた<エクリチュールにまで遡行>し、随伴して、この<旋律の歴史ごと>自分の音楽/体験として受肉=再-主体化している、という点である。この受肉は、逆説的な言い方だが、皮相にベートーヴェンを扱っていない事の現れであり、その受肉の遡行と審級が深いほどベートーヴェンへのただならぬ尊敬と愛が見てとれることにもなろう。シューマンがそうした作業を、このクライスレリアーナを書いた当時、無意識または潜在意識下のみで行ったか、或程度自覚化もしていたかどうかは微妙と思われる程に、その再現性が錯綜し暗示的である点が、いかにもシューマンらしくも思うのである。

 

参照)

http://ml.naxos.jp/work/1580 (ベートーヴェン幽霊 op70-1)

http://ml.naxos.jp/work/1669 (ベートーヴェン7sym op92)

http://ml.naxos.jp/work/410719 (ベートーヴェン 遙かなる恋人 op98)

-----------

http://ml.naxos.jp/album/arts47526-2 (シューマン,ピアノトリオ第2番 op80他)

http://ml.naxos.jp/album/8.570151 (シューマン,弦楽四重奏曲集 op41-1,2,3)

-----------

http://ml.naxos.jp/album/mc106 (シューマン,クライスレリアーナ Kreisleriana op16)

【付録】

Beethovenベートーヴェン「Geister(幽霊)」Op70-1に見るRSchumannシューマン「Kreisleriana」op16第2曲の原体と第8曲における上記二股旋律の片方(Eusebiusオイゼビウス型)

※↑クリックして拡大してください(2倍)//別窓表示

Beethoven「Geister(幽霊)」Op70-1に見るSchumann Kreisleriana op16第2曲の原体と第8曲における上記二股旋律の片方――Eusebius型(ゆるやかな上下向)

cf)※florestan型=Der Tod und das Mädchen D531「死と乙女」(スコア上既出)

 

 

Beethovenベートーヴェンop70-1「Geister(幽霊)Trio」冒頭のスコア

※↑クリックして拡大してください(2倍)//別窓表示

 

☆上記楽譜内で、RSch op80 1楽章と、op41-1 4楽章(最終結部)、つまりレミファファラ(レー) への、Beethovenの幽霊(レミファファ♭ソラ…)を筆頭の基としたこれらのテーマの結合について書いてあるが、このシューマンの好んだレミファファラ(レ)…は、上記のみならず、Op68子供のためのアルバム21番(無題)etwas langsamer部などにも登場する。これらのフレーズは同時にシューベルトの「楽に寄す」 D547のモティフ(終結部――レミファファーラ(ラ)ド――)ともかさなるといえ、RSchの中で由来を一にすると言ってもいいのだろう。この歌曲に最も近い形では、「楽園とペリ」(「遠い歌声に耳を傾けながら」/「あの太陽の寺院へ降りていこう」ソプラノ部分の最終部)にも登場する。(付記120824/120906)

 

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