八ケ岳 2
四月了
庭のモクレンが初めてひとつの蕾を開かす。今、森は春をようやく展げはじめている。すこしずつ、すこしずつ...。
カラマツの芽吹きの点描画——あれは小人の捧げものにみえる。淡緑色(ライトグリーン)のとんがり菓子。復活祭のための、恰好のメサージュなのだ。天使らの降天への合図。ひそかな、呼びかけの世界。
山桜の枝々は、あちこちの丘にうっすらと気のせいのような紅みを帯びた花を咲かせ始めている。
だがある種のものは遠目にはほとんど紅とは気づかれない。そればかりか花の重なるほどにまるでコブシのそれへと近づくように、雪を通り越し、次第に殆ど乳白色をすら帯びていく。
それらは悪戯な雲の、空を覆い過ぎる瞬間には、天からばらまかれた粉乳よろしく輝くのだ。
そうして辺りがふたたび光に充たされる頃には、群がり停まる無数のもんしろ蝶のたたずまいをみせながら、遠い昔のままの画のように、あどけなく憩っている...。
遠景——コブシ。
かれらは、枝付燭台の蝋燭が仄暗い闇の中を順繰りに灯されるごとく、灰色の森の処どころにくっきりと白い火を灯している。
あるものはまだ、森が織りなすようやく萌えはじめたばかりの山間(あい)の、ちょうど陽の当たる斜面づたいに、おもむろに縁取られていく片側の枝々に、行儀のよい孤を描く灯を点しつつも、まるでそうした樹木のぜんたい、無疵なひとつの白い炎を形象っていくのも、また計らいとでもいいたげに、気高く...陶然と憩っている。
デザイン画めいた形状と、何処となく人工的な光を帯びた色彩。——蝋で造った電飾洋燈(ランプ)。
炎状にととのった形姿。——あれらは蝋燭の 'うえに’ 灯った火というよりは、むしろ無数のそれを宿す燭台それ自身、ひとつの白い炎であるかとみまがうばかりに、真率に点っている。
その枝ぶりは、天上へと燃えさかるようにというのでもなく、またある形のままたちまち凍り付いたというふうでもなしに、なにかまえもってその形象へと定められていたものの、ひとりでなる成就といった佇まいなのだ。
彼らの几帳面さ。——
おとといなどは、八ヶ岳が、その広大なすその一帯を真っ暗な雷雲に覆われて、あやしい風のなか、いつもの真昼の山麓にふさわしい光沢をすっかり喪失したまま、ただ処どころに不屈の、天地さかさまにしたあのディオニソスの髭の、容赦なくグロテスクな線をさらす白樺並木らの交互に織りなす、一種異様な光沢をばかりを際だたせていたが、そんな不可解な暗示に満ちた風景のなかにあってなお、例のコブシの一群だけが、点在する外灯さながらに、ほんのりと親切な光を旅人に向かい放ちながらこれを導くように立っているのが、めずらしく不穏なこの辺り一帯を、ひとつのほのぼのとした素描のなかに、かろうじておさめているようにみえた。
五月のはじまり
カラマツのとんがり帽子は、いつしか霜の結晶よろしき氷砂糖の小部屋に。と、そこから徐々に蜘蛛の糸をまねるモヘアのモオルをつむいでは垂らしはじめた。
エメラルド色のこの梯子が降りはじめると、小人たちはじきにミズキの玉座に光の精らをうつしかえ、カリフラワーさながら形戯けた冠を、いそいそとかかげる準備に入るのだ...。やがて彼らに向かって五月の風が手招きをする。女のひとの指にも似た、あの垂れこめるカーテン越しに。
八ケ岳
八ヶ岳
この頃は隣の林のすぐ近くでクロツグミの声がすばらしい…。早朝は、アカハラの囀りが。
思えば引っ越して早々から、夏を迎える手前になると小鳥たちはいつも、私たちが朝食をとるまでの間にも、入れ替わり立ち替わりやって来ては、無邪気に鳴き交わしていた。家のすぐ傍を、イカル・アカハラと…。
それから梅雨明けに相応しい午前のすがすがしい風にのって、森の方からもの真似好きなクロツグミの器用な鳴き声が、しきりにやってきていたっけ。
晩春の散歩――
みどり湖。湖畔の桜のこと
あんなにもはなやいでいた遠い記憶の花びらを散り落とし、今はもうすっかり重たげになった枝をはりめぐらしている。首をうなだれるように。
少し前までは若葉が競って生い茂り、所々に虫食いの地図のような斑点を織りなしていた。
そうしていまはすっかり生い茂った自分自身の葉陰の、ひっそりとした翳りを編む日傘におおわれて、ハンモックを思わす斑模様の影絵を時折煙のようにたゆたわせながら、もうほのぐらいほどのトンネルを、互い違いにつくっては佇んでいる。
と、いつのまに少し青苔のむした着物の縞が、次第にその文様を顕わにし始めた。器用にたわむ、あのしなやかな形姿を生き返らせたという具合に。
カラマツたちも今はすっかりカーテンかタペストリのようだ…だがあれらも、五月のほんの始めの頃には、まだ<ふしくれ>だった。カラマツの枝の<ふしくれ>…。ナッツステッチのようにぽつぽつと。宙で織りなすまばらの刺繍。
そういえばあの頃、樅の木のほうでは、尖端々々(さきざき)に、赤茶けたおしゃぶりをぶらさげはじめていた。うとうとしているうち、手招きする女性の嫋やかな指のように風にゆられてはしなうカラマツの、いつの間に大人びた挨拶を、まるでかくまう垂れ幕のように、鋭い光りを帯びるつもりなのだったろう、と――(が、かとおもえばそうするにはまだ少し赤ん坊なのだ、とはがゆくも)――思わせていた。
不思議なのは春先のあの時期、冬枯れで見慣れたはずの幹という幹が、気のせいとは思えぬ程に白んでみえることだった。まるで内がわから――オーラといったものを醸し出す…。そう、或種の人々が姿態から坦々と放射する、あの内面的な光に似た――あかるさを発散しているようにもみえる。
内部で何かが起きていた。
その徴にか――或いはたんにおのずと好対照をなすがために互いを際立たせようとしているのかもしれないが――枝の方はむしろ赤味をすら、帯びているのだった。秋にもまた一度そうなるように(尤もその時期のそれは、もっと湿り気を帯びていないが…)えもいわれぬ独得の赤味がさしていた。
そうして遠くの山全体もそれと同じ赤味をにじませ、霞がかっているのだった…。(それも秋とよく似てはいる。)があの赤味、五月のは、やはりもうじき何かがはじまるための、それなのだ…(!)――あれは風景を消沈させない。
白んだ木立の群れがその背景にディオニソスの白髯のような無数の掻き傷を入れる…。
ガラス版画のそれ。或いはカンヴァスの布目。