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グレン・グールド――27歳の記憶 をめぐって

2003年11月にHPに記載したものを転記

2003年11月10日(月)

ドキュメンタリー映画「グレン・グールド――27歳の記憶」の中で、若きグールドが弾いている、バッハ「フーガの技法-コントラクンプトゥス1番」のじつに貴重な録音がある。無論古いフィルムなのであまり音は良くないが、そんなことはもうすっかり飛び去ってひたすら聞き入ってしまえる稀な音楽に、出会うことが出来た。 それは勿論、スタジオ録音の際のあのハミング混じりのとはちがった類の、彼の「素の」音楽で、他者の視線や耳といったものを(“ 殆ど ”、と言っておこう)意識していない、彼特有の自意識の自由即呪縛世界――*非主題的なものが唐突に主題化(出来事化)されないための延々たる緊張状態の持続運動;偶有性拒絶状態の保持;起伏の隠蔽――とは殆ど無縁といえる程に虚心な自我、宙吊りからの解放、**彼の通常のバッハ演奏に於るのとは一見正反対、否逆説的とも思える窮極的ロマンティシズムの地平への自己肯定による、VORT-DA(退隠-現前)の襞了承(*/**付記11.01.02)――から生ずる演奏であったろう。

彼は他者と彼自身の緊張から解き放たれた時、やはりあのようにゆったりとしたテンポの内省的な音楽を奏することが出来るのであった。こうした折の彼から生ずる、奇跡的に純度の高い、と同時に20代後半にしてはあまりに成熟した、意味深長な音楽をきくことが出来るのはじつに一興である。思えばこの成熟度と純粋度は、この映画の録られる翌年後位に演奏された「ブラームス間奏曲集」、ブラームスの最晩年作品でみせた世界にそのまま通じる所のあるものであろう。

その演奏に就てはまた別の日に述べるとして、今日はこのドキュメンタリー映画の中で、彼が知人の音楽家と自宅の居間で雑談をするなかで交わした、興味深い発言について、これを観ながら私自身つらつら想ったことを綴っておきたい。

彼はウェーベルンと同じ学校に通っていた音楽家の知人と、こんな会話をする。

「彼は内向的な性格だった」
頷くグールド。
「彼の音楽もかなり内向的だ」

それを聞くと、突然くるりと椅子を回し鍵盤に向かって言う、
「これが内向的な音楽?」
そうして大胆な身振り手振りと跳梁的指遣いで、ウェーベルンの前衛音楽を奏で出すグールド。 「彼は寡黙な人間だった...寡黙な音楽だ」と知人。
「内向的な音楽というのはこういうんだ」
グールドは言ってシューベルトの交響曲第5番のさわりを弾き始める。その演奏はしかしかなり陽気でたくましく(笑)、いつものハミングよりずっとまともで太い歌声――殆ど声楽家の発声なみにたっぷりとした大声――を発しながら弾かれた。それはお世辞にも内向的、に弾かれてはいなかった。

しかも交響曲第5番の開始(変ロ長調)は、シューベルトの音楽の中でも特別内向性の際だつ音楽とも云えないどころか、寧ろシューベルト自身としてはかなり陽気なtoneで書かれたもののはずである。たとえばピアノソナタop960とか、より端的に内向性を呈する音楽が他にもあったはずであるが、グールドはこの交響曲を、思い付いて弾くのである...

が、聞けばその陽気さ、おおらかさこそは、"内向的人間の"それであるのが、パラドキシカルにわかるのである。

突然ピアノを止めて振り返ると言う。
「もし、一歳半の子供をさらってきて、人っ気の全くない、音楽のない、森の中の隠れ家で育てたとしよう。 そしてその子に、ウェーベルンでもシェーンベルクでもいいがとにかく透徹した12音音階の音楽ばかりを厳選して聞かせるようにする。その子が6〜7歳くらいになった時、彼自身の中にこういう童謡風の音楽が醸し出されるかも知れない。
(purely,と言いつつ ラーラーラー、と唄う)
そしてやがては、こういうふうな旋律が、生まれてくると思う?」
こう言って、「チャーチャーチャー、チャーチャーチャー、チャッ!チャチャ・チャッ!チャ...」不自然にかつ一定の調子で音の跳ぶ旋律を歌ってみせ、
「そうは思わないよ!」とグールド。

「それはわからない。彼自身の個性的な音楽が生まれてくるのじゃないかな?」と知人。

「ところで、きみは作曲を続けているのか」知人が訪ねる。「新しい音楽を生みだす努力を」

「それに関しては悲観的だな」とぼやくグールド。
「今日、調性音楽はすでに役割を終えているんだ。…おおかたの意見はそういうことに、なっている。 だが、ぼくが書こうとする音楽は、今から50〜70年位前のスタイルなんだ。」
そして無調音楽を書くための必然性を自分は感じることが出来ない、というようなことを、彼は呟く。

すぐれた前衛音楽演奏家から、意外な言葉を聞いたという顔をする知人。

「正直を言って行き詰まっている。すでにある形式を使ってはいけないのかな」とグールドが訊く。

もう過ぎ去った、役割を終えたとされる、しかし自分にとっては(※少なくとも今のこの自分にとって)自然-必然的であるスタイルで、音楽を書いてはいけないんだろうか?と彼は問うのである。

※註釈を付けておくと、グールド自身は、十代の頃そうだったように、人生の後半にはふたたびシェーンベルクやウェーベルンの十二音音階に自己自身の表現の座標を見い出している。実際人生の後半には彼自身の作曲のスタイルもそうなっている。無論バッハを積極的に自分のものとして継承していることともつながるが(グレン・グールド「永遠のピアニズム」から。付記2010.07.14)

 

2003年11月11日 (火)

表現行為とは何か、芸術のもたらす意味とは何か。 芸術にとって必然性とは何か。

大方はバッハの構築的合理的でありつつ同時に宗教的で神秘的な音楽に就て、或いはロベルト・シューマンに就て述べつつ、私はこれに関し幾たびかこの日記(HP)にも記してきたが、あらためてこのことを問う時、 芸術の本質は、結局の所

  1. 自然-必然性の成就(自発性と必然性の一致)
  2. 必然性と合理性の一致

    (この合理性とは所謂合理主義的、という意味でなく自然・生命・宇宙の秩序と律動に即した・orそれらを反映した、世界のことだと思ってよい。もしくは自己と他者―世界―の可能な限りの合致とも云える)

  3. 最も高度に純粋な自発性の貫通
  4. 内的必然性の貫通(或る種の普遍性=個性の形象化)

(畢竟、同じことの言い換えにすぎぬ、述べる位相の差異に過ぎぬことかも知れぬが、箇条書きにすれば。)

これら以外のどういうものであるだろうか?(非常に長いスパンで鑑みて、[他者にとっても]意味のある表現=芸術とは。)

という所に、結局考えが至ってしまうのだ。

絵画を含めた前衛芸術、また前衛音楽に触れる時、中には心打たれるものもあるが、だいたいに於て正直な所、その不自然さと同時に耳が慣れてくるに連れ次の音が容易に想起されてしまうあの一定の調子のことを思う。と同時にこれらの音符の連鎖を覚えたり譜面を忠実に追ったりする演奏家の根気強さへの限りない敬意が生じる。

彼ら前衛音楽家たちは、ちょうど当時既に優れた前衛音楽演奏家であったグールドに対し例の知人が問うたように、「新しい音楽、これから役割を担うであろう音楽を、生み出すこと」に心血を注いだ。

もし、それが彼ら自身のかぎりなくpureで自然必然的な作用,或る種のどうしようも無さから生み出された場合、その作品は画期的であると同時におのずから心打たれる音楽となるであろう。

が、新しい音楽、新しい形式の音楽を生み出すために、彼らは某かを「抑え込んで」はいないのだろうか。多くの前衛音楽に共通する、或る種の〜不自然さ〜のなかに、それまでの旋律やハーモニーをわざわざ封殺し封印する用意周到な構築作業、ないし心的作用を感じ取る――***全ての転調可能性や不協和音の解放、対位法駆使の極地化という事自身と、十二音音階への移行とは、おそらくかならずしも「=(equal)」ではないと思われる、たとえばベートーヴェンの大フーガとその後継路線への予測可能性を考えても(***…11.01.04)――。

意表をつく音楽。罠に掛からない音楽。不断に何にも・何処にも当てはまらないよう、己自身に緊張を強い、聞き手をもこの世界に連行する音楽。これらを貫くものを新しい?法則性と捉えるべきなのか、諷刺(軽侮・諧謔)を帯びた<回避性>の強調と捉えるべきなのか…。

それは、かつての、いかに自然発生的であろうともすでに使い古されてしまった旋律、ないし和声といったものを厳密に超脱するために、つまり自然-必然性へと填り込まぬために、<偶有性>というものにすっかり身を任せているかのような形、もしくは<偶有性>の連鎖にこそ至高の意味を見い出しえたかのような形をとりながら、じつは或るどうしようもなく狭く堅苦しい形式、Pattern(形骸)へと、みづから填まり込まざるをえなくなった、そういう種類の営為、恣意的作業の積み重ねではないのだろうか。

何ものかへと当てはまらないようにする努力。

まったく純一に発生した「結果」、何にも当てはまっていない音楽、というよりはむしろ、既存のXへと当てはまらぬよう努力した結果、まさしく「全く自然に聞こえない」音楽、「全く自然発生的に生成しなかった」音楽となることに、成功した音楽。

そこにこそ、この形式へと否応なしに駆られるに十分な苦渋を伴う理由を、どうしようもなさを、見出しうると言うべきなのか...

(※ただ、大戦やホロコーストを経て、一切の言葉を喪失した精神世界を現出させざるを得なかった表現であると同時に、音楽「という土俵を借りた実験・方法論」としても聞こえがちな作品の多いシェーンベルクやベルク、ウェーベルン――とはいえ、本当のところ自発性にとっての問題の本質は、彼ら自身のセリエのパターンそれ自身以上に、むしろその音楽性産出時の切実ささえ欠いた同スタイル踏襲者たち;亜流による続々たる類型産出とその態度のほうであると思われるが――に比し、ヒンデミットやバルトークの作品などは、その徹底した計算にもかかわらずあるパターンへの陥没をも同時に免れ得た尊厳的な何ものか(後期ロマン派以降という逼塞した時代状況にも拘わらずこの辺の不自然さを感じさせぬ、或る至純さ、知性により総監されつくしてもなお変わらぬ生成における自発性)、単純に言って「音楽」を――騒音性の強いとされる曲に於てすら――私にとっては見出しやすく、バッハ(〜ベートーヴェン後期)からよりナチュラルに繋がるセリー音楽へと近づけることに成功していると思われるのだが。ちなみにグールドにもヒンデミットのピアノ曲録音があるし、再評価されるべきとする論文もあるらしい。付記:2010.07.15/2011.01.06)

 

2003年11月12日 (水)

多くの前衛音楽が一様に帯びる刻印...

◇それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽に顕著なもの(端的に表現されているもの)

  1. 偶有性;必然性を阻害・遮断する存在としての偶有性
  2. 必然性を阻害・遮断する偶有性の作用を免れ得ない実存の、或る種の苦悩

    (打ちひしがれた○○,より好意的に言えば?be in progress unwillingly――不本意なる受動性 の映現)

◇それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽に欠如するもの

  1. 自発性;「自然」-必然性;自由

必然性とは、これを遂行する実存,もしくは表現者にとって、一見「=」不自由さ、のようであるが、成功した表現(すなわち芸術作品)に於ては、むしろ逆である(=自由の「獲得」)

芸術作品にとって、必然性とは「自由」である。必然性の獲得とは、自由の獲得である。それは還元すれば、個に内在する生命秩序(自発性)と合理性としての生命秩序の<可能な限りの>合一である――存在の理想郷――

この合一の充溢は 表現のリアリティであり、信憑性であり、作品の奥行きと深みである

だが多くの前衛音楽の中にある、多分に途絶的で唐突な跳躍や、‘内発’的に生成的というよりはむしろ人為的-外的要請と動機にもとづく数理学的秩序、それらが端的に表現乃至反映させているところのものは、がんじがらめさであると思われる...

それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽が最も喪ったものは、云うまでもなく 自由な呼吸、もしくは呼吸する意志である。

 

2003年11月13日 (木)

多くの前衛音楽に顕著なもの

  1. 偶有性;必然性を阻害・遮断する存在としての偶有性
  2. 必然性を阻害・遮断する偶有性の作用を免れ得ない実存の、或る種の苦悩

こうした印象がもし、間違いでなければ、こういうことが出来るだろう。

前衛芸術作品の表現するところのものは、実際、それである。それを表現するものが前衛音楽なのであり、それが存在意義であると。

ところで、不思議なことに、音楽の演奏の際には過去の音楽を今尚尊び、奏でられることが当然とされている割には、作曲の際には、――いみじくもグールドが40年以上前に悩んでいたように――昨今ですらなお、いわゆる<前衛的>とされるスタイルで創作することのできる者が選ばれるという傾向があるように思う。表現の「伝達」者にはその選ぶべき時代が限定されないが、表現の「創作」者には、担うべき(とする)時代とスタイルを、現今を代表するものと限定する、という傾向――この点に、この問題が示唆するものがよく見い出されるような気がする。

だが創作の位相に於ても、当座の時代と形式の枠にとらわれない自由さと視野の拡がりが、保って置かれるべきではないだろうか。新しい表現形式(とされるもの)が確立・発展、ないし踏襲される前に、私たちが充分に過去の表現たちからその神髄を「吸収しつくした」かどうか、そのうえでそれを乗り越える形式として、本当にこの新しい表現形式とされるものが生まれた、のかどうかわからない、ということがつねに保留され問われつづけなければならないし、またこの新しい形式とされるものが流行している同時代に、これとはもっと違う形で未来の形式の確立を志向し(かけ)ているものが、それと判られずに生まれているかも知れない。ひょっとするとそちらの方こそが、過去の遺産から吸収すべきものをより地道に吸収し、もっと別な形で蘇生発展させうる力を持っている、という可能性も、つねに配慮されなければならないだろうと、思われるからである。

絵画でもよく思うのだが、或るひとつのスタイルが天才的人間によって獲得されると、猫も杓子もこぞってそのスタイルのもとに集まり、またそのスタイルを踏襲できることが何より求められる(すなわち才能のある者と見なされる)。後世から見て或るひとくくりに出来る「時代」――長い時間――を通り過ぎないと、その中で、そうした時流とは別の志向性を保ちその個性を孤独に追求しようとする才能の持ち主たちも居たことが、評価されることなく過ぎていくのではないだろうか。その時流に当てはまらない逸材が、評価の枠の外へ追いやられ日の目を見ぬまま時が過ぎ、後世の私たちにも知られずに放擲されている、などというじつに勿体ない例というのが、どれくらいあるものだろうか。

これは前衛芸術の時代に限らず、遙か昔からあったことではないか、と云われればそうであろう。一人の天才によって或るスタイルが獲得された時、これを確立させるのに彼ひとりでは十分でないことがしばしばである、複数の個性を通してそのスタイルが形造られて行きうるというのもわかる。しかし、つねに別の可能性への猶予 は、また過去?のものへの敬意とその再来可能性への猶予 は 保持されておくべきである。

もうひとつ、私が殊に現今の時代――前衛芸術の時代とそれ以降の展開――をいぶかり、この形式が時代を支配してしまうことにこだわるのは、こういった点と不可分に、以下のような事情が孕まれているからである。

前衛芸術は、それ自身、本質的に創造的行為(必然性志向)を否定するイデオロギーを伴いがちのものではあると思うが、前衛芸術の発展した形のうち、一部のものは自覚的に「芸術」を破壊する――人間の創造行為そのものを唾棄すべきものとして扱うに至っている(謂わば、逆ギレのようなものであるが)――し、全体的に見ても、前衛芸術とはやはり人間の素朴でピュアな能動性・創造性に対する諦観を抱き(それ自身はよいが)、これに対し――云ってみれば(表現者としても)自覚的に、背中を向ける傾向から生まれるもの、この傾向に少なくとも暗黙的同意をした所から生まれるスタイルであると思われるだけに、人間存在とその自発性にもとづく創造行為に対してもおのずと(悲観的、はもちろん)否定的、犬儒的にならざるをえない志向性を持つものであると思われる。

そうしたものの形勢と時流によって押し流されてしまった、他の志向性をもつものたちのことを思えば尚更に無念であるし、またいつまでもこのアイロニカルな姿勢を脱することなく非(反)-構築的に生きつづけること、構築的スタンスに冷や水を浴びせ、質の悪いものではテロリズムのようにたんなる破壊主義に終始する、だけでいいのか、ことに「表現者」たちは自問すべきであると思うからである。

人間存在とは、脱(絶?)-構築性が(慎重に、或いは時として突如)余儀なくされる、ものであるということは理解出来る。また、現今とは、不幸にも 外即内、情況対自己、情況対実存etc..に於るそうした否定性を、苦いほど自覚・経験させられざるをえなくなった時代であるというのもわかる。また、これらの問題自身が表現されなければならなさ(主題化の必要性)、も理解出来る(私としては、真に弁証法的な運動こそは、そうした脱(絶)-構築性を必ず内に含む、構築性――或いはこの言葉にまだアレルギーがあるなら変容的構築性と云おうか――を帯びると理解したいが。というのはつまり、この意味での最終的な構築性を、私たちは免れない存在/相対者である、という意味に於いて 付記110206)。問題はそのことの、表現のありよう・質・向きであろう。

であれば尚更芸術によって、表現行為によってこそそれが克服されるよう願い、働きかけられるべきであろうし、本来 芸術;すべての表現行為の意義と精髄とは、「生きること」、この ‘ 被-能動性としての受難の能動性 ’ を、肯きつつ<生きる>ためのもの、これをポジティブにするためのもの、であったはずである。(勇気づけ動機づける=生きられる、ようにするためのものであったはずである。)あるいはまた、こうした能動性を持って生きることが、いかに難しいものか、ということ、生きる苦しみと厳粛な悲しみを、存在の奥深い所で共鳴させられることによって、ようやく癒され再生させられる、そういうもののはずである。また、元来おのずとそうした本質と力を「帯びた」もののはずであると思っている(****ベートーヴェン自身の後期――生成の境域が全的にではないがかなり個我へと移行する――と、ベートーヴェンの後の、シューベルトやシューマンの仕事とその質。 ****…バッハに於いては神と人間の関係が、ベートーヴェンに於いては通常、人間存在・人間社会・世界が、そのまま表現の磁場(したがって目的論的・類的)であった。シューベルト以降は、それが自己(偶発的存在としての実存)の磁場になる。がゆえに、バッハ或いはベートーヴェン的生成秩序の生きた弁証法のダイナミズムが、語る位相の転移とともに、奇矯的変容や異他的転回を伴うそれへと変わるのは、必当然的である。が、にもかかわらず彼らはその生成の質の担保について細心かつ最善の注意を払った、謂わば過去からの<人間的な>歴史に対して敬意を払ったのであり、その意味でもベートーヴェンの遺産を、類的よりはむしろ、より個的-実存的なフェーズに移して、ではあるが、誠実に受け継いだと私には思われる。ベートーヴェンの弁証法的世界は、自らこそが弁証法である、と名乗った(=以てイデオロギー化した)そのことにより非弁証法的;反弁証法的世界になりさがるような質と法則性の元にない。実はこのことを他ならぬシューベルトやシューマンがだれよりも理解していたはずなのであり、この点を見誤ると、その分だけ、結局はいずれより高い評価を得るに至るであろうシューベルトやシューマン自身の音楽の意味性や畏怖と苦悩の質についても見損なう(一定期間、必要以上に迂回する)ことになりもするし、当然解釈が表面的になるのでないかとも懸念される…付記110102)。

もし現代が、一切の表現行為を成立させられぬほどの不幸な時代――私としては、もっとよく考えればまだ余地があるはずという気もするが――であるなら、表現者がそれに同意するなら、それはそれとして、であらばいっそのこと表現者は表現行為(成り立たないもの)を、(*****中途半端な介入すらせず、環境科学的、環境生理学的分析などでなく他ならぬ「芸術/生成・表現」という分野に於いては *****…付記110102)寧ろ辞めるべきである。これ以上表現することは、芸術自身の可能性にとって或る種自殺行為になり、行き場を無くするものであるということを自覚しなければならない、ということになる。ましてやその憤懣のはけぐちを芸術そのものへの破壊行為になど求めぬようにすべきであろう。己のすることは、Art;「表現行為」であるどころか、たんなる自我の発散にすぎぬことを自認するべきであるとも云える。

そうして、一切の表現行為はもはや成立させられぬ、とは諦め切れぬ者たち、何らかの能動的で生産的な対話と構築作業を再生する意思とその形式を模索しうる人々に、次の時代、新しい表現の時代をゆだねるべきなのではないだろうか...

 

2003年11月14日 (金)

昨日の一文について

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一人の天才によって或るスタイルが獲得された時、これを確立させるのに彼ひとりでは十分でないことがしばしばである、複数の個性を通してそのスタイルが形造られて行きうるというのもわかる

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そのスタイル(ものの見方・考え方・表し方)が、一時代を代表し制覇するに足るものである場合には、というべきかも知れぬ。

だがそのスタイルが、一天才の一個性;興味深いある一つの視座、として存在すれば充分である、という場合もあり得る

が、これまでにはしばしば、後者のような存在が時代そのものを支配しすぎていた、という場合があったかも知れない

絵画に置きかえて云えば 例えばキュビズムのような場合、あのような異次元同居の発想と一定の認識論的面白み、空間と時間の処理や存在に対する視線の興味深さ、等々といったものは、ピカソとブラックが居れば充分という感じがする。そうした発想は、ある種未だ舌足らずであったセザンヌの表現――彼はいわゆる「絵画的美」の側面に於いて<巧い>画家であった訳ではない。絵画に於て複数の視点を以て見る者のまなざしを宙吊り的に交換する絶妙さを保持しつづけながらも同時に一つの平面におさまっている、ということを実現するに於ても、その絵画技術そのものの巧みさに於て卓越していた訳ではおそらくない――を経て必然的に生じたともいえようが、この洗練の或る方向性を決定的に確立(!?)した、たとえばピカソの、天才的な形や面を捉える力、描線の過不足なさ、空間に於る明-彩度の絶妙な取得、グラデーションの選定と空間への配置の的確さ、またブラックの、抜群の画面構成力、錯綜する傾斜と間隔の妙、渋い補色関係、セザンヌ的メサージュ伝達の端的さ、等々...らの能弁さを思えば、(☆非-現象学的には)彼らによってすでに語り尽くされた感もあるというのが正直な所感である。(☆…現象学的にはしかし、十全な表現でなかったどころか、かえって著しく漏洩させたものがある――それらを別の方途で丹念にすくい取ったのがたとえばクレーであるといえようが――とするならばなおのこと、そのキュビズム的方法を、ただ単に続々と踏襲するものが現れたところで、「この問題」が解決される訳でもない 11.01.06)

マルクやシャガールの一部の作品がキュビズムを取り込むのは殆ど無意味な面も多く、彼らは彼らで、それぞれの生きとし生けるものへの無償の愛情だとか奇特な夢幻性を追求しつつけるだけでその存在価値は充分だったように思われて仕方ない。 またこうした発想(キュビズム、また脱-具象)の延長が、案の定、ダダのような安易な※芸術否定性、たんなる※※イデオロギーへと移行していくのを見るのは、また或る種の自滅性(自殺性)へと向かって行くのは――至当といえば至当なことながら――残念なことである。

※…彼らの絵画のmessage性を思うとき、それらは単に表現の題材(宗教的テーマとそれにこじつけた裸婦像への偏り云々)、という観点から過去の芸術を否定している、というにとどまらない。何らかの意味で<創造行為そのものの否定>を含む

※※…政治的に反体制的であることはよい。が反体制的、が同時に芸術否定、創造行為否定とも癒着しやすいことには疑問を覚える。過去の芸術には、その題材、テーマの範囲や因習云々の問題を越えておのづから達成された所の、安易に一掃されざるべき創造性と自発性・合理性の追求、その次元の高さがあるからである。

 

2003年11月15日 (土)

一昨日の一文に就て

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前衛芸術とはやはり人間の素朴でピュアな能動性・創造性に対する諦観を抱き(それ自身はよいが)、これに対し――云ってみれば(表現者としても)自覚的に、背中を向ける傾向から生まれるもの、この傾向に少なくとも暗黙的同意をした所から生まれるスタイルであると思われるだけに、

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何故か。

  1. 人生とは偶有性を免れぬものである
  2. 芸術とは必然性を貫徹しようとする自己とそれを阻止する力との葛藤が、おのずと表現映現されるものである
こういわれる時、それらは正しい。

いかに前衛音楽以前の精神性すぐれた音楽、必然性の濃厚な音楽――それは謂わば摂理そのものの如き合理性の貫徹に見える音楽・或いは不屈の意思の貫徹に見える音楽――であろうと、それらにも偶然性の影が宿らざるをえなかったし、これを引き受ける自己の存在が現れてもいるのである。

だから前衛音楽の方法、また表現するものが、それ以前の音楽に比し安易であるとか、創造性を減退させたものであると言うことは出来ない...

だろうか?

それはバッハの音楽をどう捉えるか、またべートーヴェンの音楽をどう捉えるかという問題にも、なる。またベートーヴェン以降の(個の実人生という表現領野にかなり的を絞った、ロマン派の)音楽家たちの仕事(の質)をどう捉えるかという問題にもなる。

それを通じ、彼らの音楽的自然=合理性(不条理;異和感の表現を含む)と、前衛音楽の合理性の差異、が語られなければならないだろうし、つまり彼らの音楽的必然から逆説的ににじみ出る不条理性と、前衛音楽の不条理性との差異が語られなければならないだろう。

このことはつまり、バッハとベートーヴェン以降から前衛音楽以前、に生きていた音楽家が、これらの巨人の出現と圧倒的功績以後、如何に生きにくかったであろうとも、何とか音楽自身の尊厳、またこれを通して自己の尊厳を守ったと言ってあげられるか、の問題とも、なってくる。そしてこれを語ることを通じ、彼ら無調音楽への足がかりを与えた、また無調への過渡期を生きた音楽家たちの音楽に見い出しうる曖昧性・両義性の狭間に於る実存の真率な生きざまと、前衛音楽に於る可塑性のなかに自覚的に居ずまいを変えた実存(無秩序、或いは不条理を表記する形式の中に形骸化された存在)との差異、などが語られなければならない。

 

2003年11月18日 (火) (蛇足)

絵画に於て

脱-現実、ことに脱-具象の試みが、しばしば 「反」-具象、 の意味性を 帯びる/or癒着し易いという志向性…。(殊に、運動として展開される時)
また、その精神構造。

ところで、――これはデ・スティル、シュプレマティズムなどの方法論にもつながるのかも知れないが――

絵画に於て、具象――これは、つまり処遇の記述(己を状況づけているものの書き込み;状況づけられ方の痕跡記述)である(11.01.02)――を捨て去ることは、もともと抽象芸術・時間性芸術であった音楽が元来内包している所の暗示性を生かした表現行為としての抽象性とは、おのずから、「=(equal)」の意味を持たないように思われる。

絵画が具象を完全に捨て去ること( ‘ 芸術 ’ として ※※※これが成り立つ、のだとして)は、音楽がそうであるのと同様に自発的、でありうるだろうか

そうでないとすれば、それはもともと具象の空間から出発したもの、視覚芸術として出発した表現のもつ、条件と宿命のようなものがどの程度左右しうるかの問題

また、自発的におこなわれていった、というよりは寧ろ運動として・主義として、実験的,解体的に行われる場合に帯びがちな挑発性と恣意性(一部、存在への嘲笑性)の問題

完全な抽象主義、には、真摯な運動に於ても――私自身の好き嫌いを越えて――或る種の観念主義への陥穽を見い出す...。

それは考え続けなければならないだろう

※※※…

  1. 形態、色彩、空間、運動、質量の、具象からの独立可能性
  2.  
  3. 上記の、表現としての意味性(乃至、可能性)と 芸術としての意味性の間に生ずる差異

 

2003年11月19日 (水)

昨日の一文に加筆

※※※…
  1. 形態、色彩、空間、運動、質量の、具象からの独立可能性
  2.  
  3. 上記の、表現としての意味性(乃至、可能性)と 芸術としての意味性の間に生ずる差異

これに加え、

  1. 具象そのものがもつ尊厳

表現の方法やレベルによってそれが最大限に発揮された時の、尊厳の大きさ。「状況づけられている、ということ自身が語りうる存在としての意味性」(11.01.06。シェーンベルクら無調派に比しヒンデミットの音楽により顕著に温存されていると感じるのはこうした点かも知れない…)

これらはたんに古びた様式とか因習の問題に還元しえないものを包含するだろう

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14日の一文に就て

彼らによってすでに語り尽くされた感もあるというのが正直な所感である。

これに就て。
ピカソからは、どちらかというと、ここからさらに運動性を強調した未来派、ダダイスム、また立体派(彫刻界)などに派生-延長し易かったであろう

ブラックからはモンドリアンやマレーェヴィチらの運動へと通じていく要素がより強かったであろう

何れにせよキュビズムに代表される脱写実,脱具象の発想は(フォーヴから形而上絵画、幾何学抽象様式などの幅を持ちながら)全く以てこの時代を制覇したのであるが、これと同時期になお具象にもとづく表現者、芸術家が出現しつづけ、才能があれば認められつづける、という土壌、自由な空気があるべきであったし、そのようなキャパシティが時代に無いという不安、過去のものとされつつある様式で自己にとって意味のある表現をし自己実現しようという自由と自発性にプレッシャーをかけ、危機感を与えるような風潮――音楽界に於て或時点(27歳当時)のグールドがそれを感じていたように――が、やはりあるべきではないと思われる。

その問題は、当時もさることながら、現今に於ても相変わらず当てはまる所があるだろう

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前述のこれらの一文に就て
  1. 芸術否定性
  2. 他意性――挑発性・恣意性(一部、存在への嘲笑性)の問題
etc.etc.
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暗黙的なものの生去

世界でもっともなじみ深かったはずの( )=沈黙せるもの こそが、途方もない迂遠さをまといつつ突如襲来する この 余所ものであること。その根源的絡繰りが ときに、ひとを狂わせもする。けれどもその此=差、肯即禁、永遠の合一しえなさなくしては、多くの哲学も芸術もまた、何も語り始めはしなかったろう。

経験から言えるたしかなことは、携えたまま世界であろうとする意識は、(自己自身はおろか)他者によって罰される。おそらくその居心地の悪さを、他者にあずけてしまうからだ。したがって参与とは同時に消去-喪失なのだ。ありのままとはそういう出来事である。
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粗忽長屋(古今亭志ん生の落語)

2004年12月11日にHPに記載したものを、志ん生の台詞回しなどをじっさいに近い形になおし、一部変更付加して掲載。

 

死体とは<他者>の物なのだ。————サルトル『家の馬鹿息子』

 

 

不眠症、中途覚醒で夜中目覚める癖のある私には、志ん生の落語が手放せない。もちろん昼間も時おりリラクゼーションの為に聞いている。名人落語でポンポンポンと切れもよくテンポも速い落語も楽しいが、私の場合それでは余計に神経が冴えてしまうので、やはり志ん生の、のほほんと幾らかいい加減な語り口調が、無性に癒される。なにより人情の機微が細かく、滑稽な中にも昔の人の微笑ましさがにじみ出ていて愉しい。 また「まくら」も含め、落語の噺の空間自体が、現代生活の、時間がありさえすれば仕事・仕事、空き時間にも勉強、といった余裕の無さとはおよそうらはらに、「ついでに生きてる」ような人間をも社会が受け容れ、ほのぼのと支えてやっているような空気も背後に流れているのだが、それが志ん生自身の放埒で滑舌のわるい、天然無垢なしゃべりとひとつになると、もうなんとも身体の底から癒される。

 

CDで聞いているのだが、彼ひとりの声の展開だけで、まるで古い映画かナマの人間同士のやりとりでも見ているように情景が思い浮かぶのがいい。

夫婦ならではな、丁々発止の会話が何とも云えぬ「火焔太鼓」に「替り目」、滑稽な中にも太鼓持ちの哀愁が漂う「鰻の幇間」、一人で何役もこなす「五人廻し」「三枚起請」「文違い」、晩年の志ん生の名盤「らくだ」、等々お気に入りの噺はたくさんあるが、それはまた別の機会に記すとして、今日は噺のテーマそのものが一寸風変わりで可笑しいなぁと思うひとつに就て、記したい。

 

「粗忽長屋」。或る長屋のそそっかしい仲間のひとりが浅草にお参りの帰り、人混みに合う。大通りにむらがる野次馬連中のなかを割ってはいり、野タレ死んでいる見知らぬ誰かの死体の所までたどり着くと、<行き倒れ>なる言葉もろくろく知らぬその登場人物は、死体を自分の相棒のだと思い込み、長屋まで慌てて戻って、引き取りに「本人を」連れて戻ってくる、という馬鹿げた噺である。

「死骸の本人を知っている。相棒に朝会った時は風邪をひいていたが、浅草に出かけたんだ。それが最後になっちまった」と説くと、とりまきの一人に「それはお前さん違う。お前さんは、今朝、相棒にあったんだろう?このひと(死体)は夕べっからここにあるんだ」と言われても「あの慌てものめ。ここで夕べ倒れて、死んだのを忘れて(長屋へ)帰ってきた」んだなどと呆れ返ってみせ、「死体の本人を連れてくる」と、取り囲んでいる人々に向かって言う。「この人の言ってるこたぁ訳がわからねえ」と言いかえされる程、尚更ムキになって自分の正しさを証してみせようという気になる。そして長屋へ帰ると相棒を説得しにかかる。 相棒も相棒で、「自分の死体くれえ、てめえで始末しなくてどうする」という理屈に、「あそりゃそうだ!」と思い立ち、半ば首を傾げながらも結局人混みにまで連れられやって来て、死骸をしょいこむという噺である。

 

最初から最後まで失笑もののストーリーだが、聞いている内に、死というものの中の「在・不在」、自分(とされるもの)を見ている{自分}に気づきにくいという自己認識、自己-他者感覚の一寸した落とし穴、そうしたものがどことなく禅問答を聞いているような気もするし、やや現代哲学版と化したデカルトのコギトなどもふと思い浮かんだりして何か愉快なのである。

 

この、噺の端々に出てくる(死の)本人、当人という言葉には、何やら無性に惹きつけられて仕方がない。大学ノートの最終章にも記したのだが、私の大学時代の聖歌隊の親友が亡くなった時、亡くなるって何?と、葬儀中に何度も自問したのを覚えている。彼女自身のお葬式なのに、私たちと、ここに居る方々は皆、彼女のために集まっているのに、その主人公自身は、式の間ぢゅう(そしてそれ以後もなのだが)けして姿を現さないというあの何とも云えぬ、はぐらかされたような不在の感覚に、嗚咽する自分の声を聞きながらもずっと、憑かれていた。
死とは、死者とは、死を捉えるとは、何なのだろうか。群衆であふれかえる中、棺に直面させられていても、身近な者なだけに納得が行かないと、死とその本人とを一つに結びつけられぬまま、長い間が過ごされてしまうのである。

 

だがこの噺は、いわばその逆を突いており、見知らぬ人間の死体を、相棒「の」だ、と思い込む。それは相棒『だ』、と言うよりもむしろ相棒『の死体』だと思い込む、といった風である。こんなストーリーだ。以下、できるだけ志ん生の台詞回しを忠実に生かした形で紹介しつつ、つらつら思うことを綴ってみたい。

 

(放送1956年3/3、NHKラジオ? しゃべり出し【エエ、おなじみ様ばかりでございまして、落語のほうは…】CD/日本音楽教育センターOCD 43006)

 

「そこに立ってる人!何があんの中に?」(押し合いへし合い立ってる人びとにも解らない)
「前に出なきゃね。」(人の股をくぐって先頭に出る。)
「おまえさん、なんでここへ入って来たの?」(問われ、見せ物かと思うが、説明をうけ、何とか<行き倒れ>があると解る)
「おまえさん行き倒れ知らないの?…おまえさんの前に、あ、あるだろうよ!」
「前に?ああ、よく寝てますね」
「寝てんじゃないの。死んでんの」(人がどかない中、むりに死人の顔を見たがり、覗いてみる)
「ずいぶん汚いねぁどぅも…おや。ちょっと待っておくんなはいよ、どっかで見たような野郎ですから」
「おお見たんならいいね。え、手がかりンなっていい。よく見ておくれ」
「よく見ます。あ。そうだ、そうだ!おぅっ。どしたどした、やぃっ。起きろ!」
「起きやしないよ。死んでんだから」
「てめぇ、、ねぇ兄弟分ですよ。ね、お前と俺ぁ生まれるときには別々だけども、死ぬときには別々だと…そういうことを言い合った仲ですよ。その兄弟分がこんなんなっちゃって、見てられませんあたしぁ。なさけねぇことになった-ことんなったなおめえは。え、どうもよわっちゃったなぁー。えぇ…今しょうがありませんから、このぉ…倒れてるやつをーですねぇ、ここへ連れて来ますからぁ。ひとつぅ、そいでぇ、当人に死骸を渡してやっつくださいな」
「……その人の、親類の人かい?」
「親類の人じゃねぇんだぇ。本人を、此処ぃ連れて来てやるから!えぇ。もぅ…変なんだよ。あぁもぅこの野郎はそそっかしい野郎で。ケツが痒いって人のケツ痒いたりする野郎なんだから。だから、今朝ね、コイツが変な顔してぃやがるから、てめぇどうしたんだ?え?ったら、風邪らしいってぇーから、風邪は気をつけないといけねえぞ。風邪てぇやつはひどくなってくると大風邪ンなっちゃうから。大風邪です。大風邪で倒れたんですよ…倒れてる野郎なんですから」
「それぁ、、お前さんちがう!」
「どしてちがうんで?」
「この人ぁ夕べ倒れたんだから…お前さんは、その、兄弟分てのに今朝、会ったんだろ?んじゃしょうがないじゃねぇか、この人は夕べ此処ぃ来て倒れたんだから」
「それぁ夕べ、浅草ぇ行ってくるぜって、威勢よく、ぅー之がこの世の、別れとなるとは、ゆめつゆ知らずに出かけたんですょこいつは。でぇ、帰りにトーンと倒れやがったんだ。倒れておいてですね、コン畜生そそっかしいから、倒れたのを忘れてかいって来ちゃった…ね。だから実に弱るんですよこの野郎には。ちょいと、本人連れて来ますから」
「おいおいおい、、おい!」…

――こうして、あわてて引き留める声をあとに、群衆を離れ、帰り道――


「やぁぁどうも驚いたこれや。俺が通りかかったからいいが、大変なことになっちゃったなぁどうも。しょうがねぇなぁ……(家でくつろいでいる相棒を見て)あんなことして煙草吸ってぃやがって…あぁいう野郎なんだからねぇ…おぅっ!おうっ!!」
「なんだぇぃ?――へへへ。また、そそっかしいー事ぉすると、承知しねぇぞ」
「何言ってやんでぇ、てめえがそそっかしいんでぇ」
「下駄履いて上がって来やがって。そそっかしいのはやめろ!」
「てめぇは。そんなそそっかしさと、…そそっかしさが違うんだ!…今おれが言うことを聞いてみろ、てめぇなんぞぁ。もぅ、ワァーーーッと、泣くことんなるから。え?人というものは覚悟が肝心だよ。いいか?明日あると思う心のカッパの屁ってこった…」
「どしたの?」
「どしたってもぅ、おらぁねぇ…(と言って顛末を話し出す)大勢人が立ってやんのよぉ…艱難辛苦いかばかりかって…前のほうに出てった、(ほぅ。)するってぇとおめえ、…行き倒れだ」
「へぇーー!…(行き倒れの意味を説明される)」
「死んじゃってやんのそいつがよぉ」
「へぇーーぇ!?で、そいつをてめぇ、眺めていたのか?」
「居たよぉー…こうやって見てたら、きたねぇツラしてたんだけども、、『面影』てぇものはしょうがないもんだ。見てるうちに…あぁ!こいつぁ、、兄弟分だぁーっ!…おめぇだ」
「へ?……おれが?」
「うん。おめぇなんだょ」
「…ほぉぉ。倒れてた?」
「倒れてた。どうだ?驚いたろ?」
「どして倒れた?」
「あーどして倒れたか知らねぇ。これぁ俺の、兄弟分だぁーって、おらそう言ってやったらね、向こうじゃホントにしやがんねぇ。そんなこと、あなた嘘でしょぅと、いうような顔してやがったから、よし!…そぃじゃ今本人連れてきてやろうって」
「…本人て?誰。だれの本人だ?」
「おめぇをよ。な?…むこうのやつもね、<本人>て言葉を聞きやがってね、もう、何にも口が効けなくなりやがった」
「ほぅ!」
「…こっちの潔白をよく向こうに解らせてやんねぇと…ざまぁ見やがれてぇんだ今本人連れて来て赤っ恥かかしてやるからって。おれぁ飛んできたんだから…おめぇこれから行って、これぁ私の死骸ですよって。おめぇが、言わなきゃダメだよ?」
「これがアタシの死骸ですよって、俺が向こう行って、い、言うのかぃ?」
「そう」
「じゃ俺がぁー…死んでるぅー…死んでるようだな?」
「死んでるようだじゃない、てめぇ死んでんだよ!」
「…だって死んでるっておめぇ何じゃねえか、ん〜俺死んでるぅような心持ちンなってねぇじゃねえか」
「死んでるような心持ちって、てめぇ知ってるかよ?…死んでることなんてものはな、もぅ死んじゃってぇーたってぇも解るもんじゃねぇんだぞほんとに。てめぇが今朝寒気がするって言ってた時に、もぅてめぇは、死んでたんだ。どうだ?」
「はぁーー!んじゃぁー…そういう、おらぁ事ンなって倒れてたのか…。おめぇ、…見たんだな?」
「見たんだよ。…俺が其処を通りかかったからいいけども、通りかからなきゃてめぇは、、今頃何処へなに、行ってるかわかんねぇぞほんとに。どっか流されちゃうからもう……てめぇの死体、てめぇで始末しなきゃ、しょうがねぇじゃねーか!」
「…あー、それぁそうだい!」


だから俺と一緒に来い、と相棒を現場まで連れ出す。<行き倒れの当人を連れて来た>と言って、ちょいとちょいとと人混みをかき分けかき分け、行き倒れの傍に着く。


「本人連れてきたんだから。ね?で、本人に死骸渡してやっつくださいな」
「――あにさん?(さっきも話しをしたひとりが訊く)」
「あにさんじゃない本人だよ。ここに居ますよ!…ここに居ますよ見てごらんなさい本人だから」…(略)…
「へへぇ、こんちわ!」
「お前さんは何なの?」
「…あたし。あたしが、倒れたんです。えぇ倒れたのを、我を忘れて、家ぃかいって来た。そいで今、兄弟分にお前があすこに倒れてるぞって言われた時の、あたしの驚きというもなぁ、もぅ、悲しかったでしたよ。だけどもしょうがないですよ。そうなっちゃったもなぁ。へぇ。せめて死骸だけでも受けとってかなゃぁ、あっしぁ、すいませんからね、へ…自分の死骸に対して、申し訳がない。どうか死骸を渡してくださいよ?死骸は。…ね?あなたぁ、渡さないてのかい?渡さなきゃぁあたしゃぁ出るとこへ出て取るよ。自分のものぉ自分が取るの、何がわるい?なぁおい?」
「そうだともー。おめえのって、かまわねぇから、はやく、出てけ」
「出てくとも!じょうだん言っちゃいけねぇや…んとに、なぁ。おうっ!(と言って死骸を担ぎ始める)さぁ!さぁ俺と一緒に行くんだ。おいっしょ、俺と。きたねぇツラしやがってコン畜生。俺がなぁ、俺がだよ、ンー、俺が…俺がそいってぇ、これが俺なんだね。これぁ俺だね?」
「おまいだよ!」
「俺だね。。はぁ俺だ!」

 

それから相棒は、この死体を抱きあげながら、さいごにこう言う。

「死んでるのは俺だ、死んでるのは俺だ。死んでるのは俺だけれども、死んでいる俺を、抱いてる俺は、…何処のだれだろうなぁー?」

この失笑もののきめ台詞で、噺は締められる。

 

粗忽者――。かれは死体(客体=物;res)と、“ 死んだ ” 本人とを同一視しつつ、奇妙に区別してもいる。その区別の仕方が、何とも<分別知>の滑稽味を帯びていて、やや理屈ぽくいうなら認識論とその陥穽、という点からも味わい深い。こんな分かり易い話だから、慌て者の勘違いだといって済まされるが、もう少し高尚な次元では、わりと我々の多くが――教授や学者たち、私自身だって――この種のわなに填っていることがあるやなしや。

おっとりしたこれまた天然ぼけの相棒のほうも、あまり執拗に説得されるのと、死体の顔がじっさい自分に似て居ることから、これは自分(の死体)だと思い込もうと努力する。噺を聞いている間、また眺めている間は、そう思い込めるのだが、実際重い死体を引きずり負うと、その重みを感じている自分の身体に沿った、出自のほうを意識せざるを得ないのである。

昨今、コギトは意識とともにこの身体で実感する我に戻る。此処というものはおそらくそうした発見である。

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闖入者、そして注視ということ――覗き見る/視線のすべり/見渡し-見られ-取り込まれる

2003年のHPに掲載したものとTwitterで2010年5月〜6月につぶやいたことのまとめ

一体これは或る種のメディア論ということにもなるのだろうか。フェルメール、カフカ(城)、ヴェラスケス(ラス・メニーナス)の作品を巡っての考察

 

  1. 風船ガムを上手に膨らまして、膨らましつつ自分がその内部に入っていく…成功すれば、自分の口という孔が、世界の内と外同時に繋がる場所となる (ラカン 訳/新宮一成)
  2. 不条理とは、身体を途方もなく超えていくものが、ほかでもないその身体に住まう魂なのだということである(カミュ 訳/粟津則夫)
  3. 内部にいることを止めずに、自分を外部から眺める世界(サルトル 訳/粟津則夫)

 

小さい頃三面鏡のはるか遠くまで覗いた記憶がある。たくさんの自分を見たいのではなく、三面鏡を可能な限り閉じた状態に近づけた時、最も遠くに映る自分の像が、自分があらかじめ喪っている<自分自身>に、一番近づくのではないかと思われたからだ。{この}私を直視している単純に真正面の鏡像は、左右があべこべで私と似ていない(と教えられる)。が、隣りの像やせいぜいその隣りの像はといえば、{この}私自身を直視していない。その隣りもまぁ似たようなものだ。三面鏡の世界では、殆ど全ての像が、私?の像はみなてんでんばらばらな方角を向いている。ただ狭めた時、遠くにある像ほど、「ほぼ」私のほうを見ていると取れなくもない。(勿論、限りなくほぼであって、まったき一致をとげてはいないが)。{こちら}を直視する私の像は、他人ならばいとも容易に目にしているものだ。それなのにこの本人には延々と隠されつづけている。それで昨日も今日もついのぞき込むのだが、やっぱりどうしても出会われないのだった…。

そうして、時にはこうも思うのだ。もし一番遠くに、私自身と一致する像を見いだすことが出来たとしよう。だがそれは、このあらかじめ喪っている私をいまさらどう穴埋めしてくれるのだろうか、と。それがもしこの鏡のどこかに見い出せたとしても、そしてもし何らかの方法でこの自分の面前にある鏡の像と取り替えられたにしても、結局はせいぜい<差し向かい>――対象的存在でしかない。その像はけして、喪っていた・そしていまもこうして喪いつづけている{この}私と-なって-穴埋めされることはないのだ、とも…。

そうした解決不可能さと、にもかかわらず「覗こうとする執拗な」いぶかしさとが、カフカの「城」やヴェラスケスの「ラス・メニーナス」に没入するとき、何故だか今でもふつと去来する。

自分自身とは、自分であって自分でない。(ほぼ)自分であるままに自分とは最も遠い存在でもある。永遠に何かから追放されており、そのためたえず分極し、そしてまたできそこないの媒介でもある。

他者が私を見ることはごく容易である。その他者が、この私には見えない私のことをどれほどよく知っているか。それは私より知っているともいえるし知らないともいえる。誰にとっても、この同じ構造は当てはまるが、この構造自身と諸状況による理解・解釈の多義性、行方不明の多元性は枚挙にいとまがない。幼心に感じる、何か逸らされたようないぶかしさといったものも、こうした暗示的経験を積み上げられて生じるものなのだろう。

だが小さい頃というのは他方、普段はたいていそんな事を忘れてはしゃいでも居るものだ。けれどもその経験の何らかの刻印が漂っている以上、厳密な意味で無邪気さというのは無いにひとしい。じっさい思春期ともなれば、それはせいぜい初々しさといったところだ。(ただ時々、奇蹟的なひとに出会うが。)

はにかみなどという言葉が当て嵌まるような年頃も過ぎつつある頃には、反芻しはじめたものだ…。初々しさにはにじんだようなしみがある。あるいは水の中に絵の具を一滴落としたような余韻があると。

しみとは全てを知ろうとするこの私自身(が見えない)という盲点だろう。

そのにごりさえ許せないなら、――無罪(not-guilty)であるためには――知ろうとしないしかない。

すると今度は責任の問題がつきまとう。

責任を問われる、ということは、私自身にある私自身の殆どあずかり知らぬ点(or運動)を、私自身の持ち物?であるからといって私自身のがわに帰着せられる、というあの矛盾だ。(しかしだからといって他者の側に着せてよいものでも、さらさらない)(2010 6/16 twitter)

つまり自分が閉じておらず、はぐらかされている限り、不意に立ち現れてくるもの、探しているのはこれかと自分に問うてくるもの、お前に見えていないのはこれだよと<不意に示唆してくるもの>を、また時には全くの異者を、どうしても呼び込まなければならない。そこには(希望や歓びがあると同時に)たえず不安やおののきが付きまとうのである。

だがそうした希望と不安への待機、要請・促しへの応答・拒絶などと云った宿命的作用連関は他人にとってもいえることで、同じ存在構造である以上、この自分が、他者にとって他者の閉じられない輪の隙間から不意打ちをくらわす存在、すなわち闖入者にもなりうることも意味している。

 

芸術作品に於ける他者性、注視、不意打ち、もしくは「闖入者」について考えてみる。

 

【注視1――覗き見る(闖入者としての己を隠滅したまま)//フェルメール】

 

室内画というジャンルを知らなかった大学時代、フェルメールの作品を小冊子をひもといて知って、ひどく愕いたのを思い出す。当時の私の驚愕は、数少ない風景画とされるデルフト以上に、室内画を描くフェルメールのまなざしそのものに行ってしまった。 ちょうど哲学科の講義でデカルトのコギトを、「(実験的)他者性の排除」として学んでいたのとも重なり、この画家のどの作品も一様に帯びている「静謐さ」は、当時の私にとって新鮮な感動だった。―――彼は成功している。彼自身の気配の隠蔽に。

当時私はカメラ・オブスキュラの知識がなかったが、画家がこれを使用していたとすると、この装置をモデルに知らせなかったことも、この視線気化の奏功する一因であったかも知れない。

フェルメール絵画の静謐。この静謐さは、たしかに構図の精緻さ、計画性自身のもたらす所も大きい。だがそれのみならず、まず場面設定そのものが大きな鍵を握っていることがしばしばだ。

ひとつの大きな特徴として、 フェルメールの室内画のモデルとなった女性たちは、――画家のほうを振り返っている幾つかの作品を除けば――多くの場合、他者に「見られて」いることを意識してはいない(ドガの、背中を向けた裸婦などの作品などにも言えるが)。自意識を働かせていないという点がやはりなにより描き手にとって大事であったにちがいない。静謐さの条件とは至純さであり、ときに集中力であり、また無防備さ――或る種の大胆さの中に潜む、前提としての「他者不介入の意識」――なのである。

  1. 青衣の女
  2. 真珠の首飾りの女
  3. 紳士とワインを飲む女
  4. 婦人と召使

画面を見ている私たちは、画家の選んだ題材となった生まな状況に、時を越えて<立ち会わされる>!……この偶有性こそが室内画の命なのであった。図らずも私たち鑑賞者は、彼女らの秘事、また密約を、――或る時はカーテン越しに、或る時は見えない空気と化して――意図せぬままに侵犯してしまうのである。さらに驚くことには、どの画面にも、私たち鑑賞者の視線と同様、画家フェルメールの視線の影もまた、どこにもない。

一部、ワインを飲まされている娘や、絵画中の画家にモデルとしてポーズをとっている娘にみられる、一定の自意識といったものはあるが、それもあくまで登場人物同士の関係でのみ生じる対象への意識、もしくは初々しい或る種の(想像上の)性的交換作用であって、これを真に描いている正体としてのフェルメール――それは同時に、私たち鑑賞者という第三者の介入余地可能性でもあるが――に対するそれではない。

画家(フェルメール)の立つところ、また凝視する視線の影は、画家自身の細心の気配りと、おそらくは巧妙な装置のもとに、全くと言っていいほど<隠滅されて>いる。

こうしてみごとに密閉された「場」への、私たち鑑賞者の目線の‘不意の侵犯’。 この驚きと或る種の不誠実?への戸惑いが、画家フェルメールの写実性巧みな筆致を通し、或種の逆説性として奏功する。

さてつぎに、さきにフェルメール絵画の静謐さには、構図の精緻さ、計画性そのもののもたらす所が大きい、と書いたことに再度触れる。それは私たち鑑賞者の目線がその侵犯性に罪悪感を起こすことなく、透明なまま、微細なディテールの永遠に「停止した時間」へと同化することを許す、まさにそういった作品もある、その顧みのためである。そこには構図の密約性から、視線がおのずと一点に凝集される巧みな技術が関与している。

  1. ミルクメイド
  2. レースを編む女

ミルクメイドの人物は、パンに似せた石像のようにまるでテーブル上の静物とまったく同じ物質感で立っており、人体というには躯の芯に天から垂直に降りてるような、あまりに完璧な堅固の軸が貫通する。この人物は静物たちと、そして部屋(壁や窓や卓)とまったくひとつにつながっている。

その腕の角度、壺の傾き・角度、また傾げた首の角度などから、興味はやはり左側のテーブルの上の静物群に集中される。そして沈黙の中のおしゃべりがはじまり、その卓上では沈黙とざわめき、動と静(停)、流れと永遠が矛盾するものでなくなる。魔法が成り立つための照準が、合っている。

人物の身体の向き、片側の壁にばかり寄り沿った ものの配置などの見た目とは違い、見れば見るほどその内密さの中に複数のシンメトリックな伏線を用意しているのがわかる、奥深い絵である。

静物への視線の収斂と時間停止効果のため、窓の角度、壁に平行に置かれていない卓と、ねずみとりとされる木箱の角度、また女性の顔(鼻筋)の傾きと壁に映る影(バスケットの角度の示唆も含むが、フェルメールに於ては壁の影線の暗示する功績も大きいであろう)等々の複数に交差する暗示線の対称性は――時に分度器状のもの・三角形(相似)なども含まれ、また奥行きの集約的極端さも含まれる――じつに見事である。それらの向きの集まりが、人物に物同様の実在感と堅固さを与えつつも、この画の主題が、人物よりその手元から下、むしろテーブルの上の静謐であることを、われわれに示唆するには十分だ。

 

※構図参照(自作ミルクメイド用図解)リンク-リンク先の画像にマウスで触れると図解が出ます

 

レースを編む女。この作品を流れる、親密で持続的な時間。室内の時計の音すら聞こえるか聞こえぬかくらいの静寂と慰安にみちた専心。張り詰めた空気が同時に安らぎを帯びるという不思議な息吹が命の作品である。

この作品もやはり、女性の指から延長される分度器状のベクトルの放射と収斂、またミルクメイド同様三角形の相似が自足的な時間を放出する。またこれは、そのようにすべてを放出するこの交点を取り巻く、幾つかの傾きを持った平行線・垂直線がその収斂の純一さへと静かに参与する作品でもある。

糸と、女性の8本の指の向き、この示唆によって女性の両手の間にある点描で描かれた糸の一点(=X点。下、裁縫箱の線が導線となり女性の肩から巻き毛へと繋がる)へと全てが収斂する一方、これに平行して上述の暗示線と平行な机の脚線(これとほぼ垂直に交わる机の傾き!これが、もちろんX点を結ぶ横軸(=小指の傾きにて暗示)とパラレルである。女性の顔の傾きと平行な手前の紅白糸の向きの暗示、鼻筋と平行な右側のテーブルクロスの線、女性の腕のラインと平行な手前のテーブルクロスの傾斜線。指に収斂する放射線の一部とそれぞれ平行な、女性の左右の襟のライン…など、その均整のとれた構図の妙は枚挙にいとまがないほどだ。

 

※構図参照(自作レース編みの女用図解)リンク-リンク先の画像にマウスで触れると図解が出ます

 

ある時は画面の向こうの「内面」が瞬く間に凝縮する永遠となり、またある時はミルクポットから瓶へ、さらにはパン籠へと視線をつなぐあの微細なディテールの永遠に「停止した時間」となって、その静謐さは結晶化する。静物をめぐる、無数の点描や、その焦点より手前にあるものたちの帯びる輪郭のぼやけた線描とともに。(それらはのちの印象派以降の手法をすでに内在する)

いずれにせよ我々の視線が突入する、その閉じた空間=「場」の密閉性、また隠蔽性とは、フェルメールの場合、しばしば緻密に計算された構図とも、切っても切り離せないのであり、その妙を知ったとき、この驚きはまた殆ど得心となるのであるが、とまれ、フェルメールとは、われわれ鑑賞者という闖入者に、あくまでその気配を隠蔽したままその空間に参与できるという、この画家自身と同等の極秘の特権を与えてくれた、おそらく絵画至上最初の画家であろう。

 

【注視2――闖入者の視線のすべり//カフカ(「城」)】

 

測量士K…他所者としてとしての(村からすれば)野心的な闖入者。またつねに敗者として存在しつづける。

「城」の中にはこんな記述がある。

Kは城を眺めていると、安らかにそこにすわり、ただぼんやりと前方を見ているだれかを、自分が観察しているような気がよくしてくるのだった。この男(※城の擬人化)はもの思いにふけって、そのためにすべてのものから孤立していたりするのではなく、自由で平然としており、自分ひとりしかいないし、だれも自分を見てはいないのだ、といった様子をしている。ところがやはりこの男は、自分がKに見られていることに、気がつかないではいられない。だがそれはこの男の落ち着きをわずかたりともそこなうことがないのだ。そして事実――それがことの原因なのか、それとも結果なのかわからなかったが――観察しているこちらの視線は、つかまりどころを得られずにすべり落ちていってしまう。

――そんな存在のようにみえるのだと。

つまりここでは、他所者(闖入者)のほうが一方的に無力である。そもそも存在論的に、あちらとこちら(彼岸と此岸)を厳密に分けることは出来ないが――なぜならそれは互いを回り込むからであろう――あえてそう呼ぶとすれば、あちらがこちらに対して何の影響も及ぼすことが出来ない。内部は勿論外から「見られる」余地を残している存在な点に関していえば不完全で、その世界は閉じられてはいない。にもかかわらず外からの志向性に対し、内なる世界は不動なままだ――カフカ自身の言い方を借りれば、一瞥をよこすくらい――。むしろその超自然性ゆえに外(闖入者)のがわが面くらい、視線のすべりを起こしてしまう。外部に影響を与えることも互いに影響することもない。とそれは、闖入者のがわにしてみれば、受容のための空隙が、何処かにきっとあるはずにもかかわらず、永遠に中に入れてはもらえぬ、自分は他所ものなまま受け容れられずに、永遠の巡礼を余儀なくされるということになる。

任命を受けつつも、半ば確信犯的闖入者自身に絡みつく、無辺の外部。傍らを離れることなく何処までも付き沿われるのを感じ、あきらかに〈このもの〉を巡っているのだということを知っていながら、それ自身へはけして近づくことの出来ぬ、あまりに馴染みぶかい存在、異邦人であることを余儀なくされつづける。

この終わりなき物語全体が、Kの迂遠な非-到達としての異邦者・闖入者としての奇異性と、延々たるはぐらかしの刑を描出テーマとしており、超越的なものへむかっての、その隙間への執拗な投企と挫折の連続体が物語られているのであるが、上述の一文によって城への受け容れられなさと力関係を、如実に典型的に、物語っている。

これを逆に言えばおおきな主体、つまり本来欠損としての招き入れへの徴を帯びるはずの「城」のがわのほうは、その他者侵犯を悠然と拒み続け、また拒み続けても己自身を何ら失効しない、殆ど無時間性に近い特権を帯びる存在として描かれている、ということでもある(Kの絶望的に長大なる時間性とは逆に)。

不条理な受動性、また不可逆性。城は、無表情に、殆ど事務的な様相すら帯び乍ら、或いは精妙に目に見えぬ形をとりながら、じつは厳然たる支配秩序として個々の精神領域に浸透することによりその思考や感情をたくみに操りその権能を行使し、かくてこの不正を着々と制度化(心情的には圧迫しつつ気化)する。それでいながら実は特権的地位の行使を、城の何らかの役職に就く人間らは、下層(村の住人)に対して行っていく。(ところがこの位階構造に於て奇妙なことには、この村の秩序の上層部は上層部で――つまり「城」の何らかの役職に就く者たちなのであるが――、そのさらに上層より降り来る命令について、自分たちはもっぱら迂遠な手続きを以てこれを通告するのみ、秩序の媒介者伝達者にすぎぬとの、非-主体・被-権能者としての、きわめて不透明な自己認識を抱いている。)そうした気の遠くなるような矛盾を含め、カフカはすぐれて暗示的に描いてみせているし、主人公Kの空虚、底深い不安と怒り、また自己の存在根拠へのあくなき関心、正義感から来る挑発心と滑稽なほど忍耐強い挑戦への動機といったものは、そのおおきな主体の抱える堂々たる矛盾の途方もなさゆえにこそ一層かきたてられるものとも言えそうだ。

 

【注視3――見渡し-見られ-取り込まれる//ヴェラスケス】

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

さて、次にヴェラスケス作:ラス・メニーナスであるが、この場合、幾つかの闖入者に出会うことができる。画面の中の闖入者は勿論だが、鑑賞者という闖入者を含めて!である。(フェルメールが、闖入者としてのわれわれ鑑賞者を絵画空間の中へと巧みに招き入れつつもその存在の気配を画中の登場人物たちに隠しておいてくれたのとは対象的である。)

  1. 闖入者その1:喚起体:傍観者としての彼岸の紳士
  2. 闖入者その2:鑑賞者自身(1と連動して)
  3. 闖入者その3:喚起体:鏡に映る国王夫妻
  4. 闖入者その4:鑑賞者自身(3と連動して)

ヴェラスケスは、おおざっぱに言って遠くの画面中央をほぼ2分割している。そして双方に意味の位相のやや異なる闖入者を、配置している。

ひとつは分割された向かって右側の、空間一つぶん奥に配置された実物であるところの傍観者である、やや素描に近い紳士像(ホセと言われるらしい)。階段をのぼりかけてふと足を止めたという風情で、かれはまったく無謀備かつ殆ど不躾に、傍観者として彼岸にいながらにして自分もこの絵画の中の構成人物の中に絡め取られているのも知らぬまま絵画空間に参加している恰好なのだが、その無防備さに於いて、たしかにこの空間の中では傑出している。その存在の在りようが他者の視線の影響を受けぬという点では(彼岸にあることのつよさ)。

しかし他方彼には彼岸にあることの弱さもつきまとう。というのは彼岸であるがゆえに、その内側の絵画空間自身に関しては、彼は何ら影響を及ぼすことが出来ない。内側の人物たちは、メイドもマルガリタ王女も、ヴェラスケスも(但し、<この画>を描いたヴェラスケスではなく、絵画空間の<中に>登場しているヴェラスケス=分身のほうだが)、みな彼に気づくことがないため、絵画空間の中へと永遠に招待されなく、(絵画空間の中での意味役割としては)けして呼び込まれない――謂わば政治的にいえば、批判と中立を訴えようとも状況そのものを変えることのない万年野党のような立場ではある。

そうした点に於ても彼の立場の意味は、我々鑑賞者とほぼ同一である(螺旋のひと回りぶん、違うが)。けれども、そう言う彼も、否、そのことを以てして、私たち鑑賞者との間に、或る種の交換作用を果たしうる重要な位置にいる(勿論それがもとより、重要な画面を2分割してまで彼を登場させたヴェラスケスの意図なのだけれども)。つまり彼=紳士はこの、自分を含まない内側の絵画空間の、互いに外にいるということ(ポジシオンの示唆)を以て、むしろ私たち鑑賞者と間で、不意の闖入者としての、また他所者としての<立場>の共有、そして交換をするのだ。

もうひとつ彼に関して注目すべき点は、彼の視線とその意味するところである。紳士の視線の先には、画中のヴェラスケスが対面している巨大なカンバスがあって、やや斜めを向いて置かれている。つまり紳士は自分の手前の絵画空間(orそのうちの誰か)をというよりは、カンバスの中身、そこに描かれているものを、じかに気にしている徴としての唯一の存在である。彼の気にしている、それとは何でありどういう世界なのか。それはともかく、彼の単純な視線(身体の向き)、について考えてみる。

この彼岸の紳士の視線が単純=端的、というのは、他の登場人物たちのように、ちょうど私たち鑑賞者の「方角」を(鑑賞者を、とは言って置かぬことにする)何とはなしに気づかう視線――もっと言えば画面中央マルガリタ王女の周りを取り巻く侍女達を典型とする、<虚勢された相貌たち>の一様に帯びる、遠慮がちにかしづくような、ヴェールを纏うような不透明さで目配りする・乃至は(Xを)視野に入れている、といった一群の視線――のニュアンスとは、真逆な意味を呈している、ということを意味する。素描に近い、云ってみれば暗号に過ぎぬともいわんばかりの筆致で描かれた彼は、気配りなく、ひたすら画中の<カンバスを>注視する。

この強さは、ひとつには絵画空間に於けるこの紳士の立場の問題がある。つまり描かれたもののなかでは、彼は唯一かろうじて不可視的存在である――かろうじて、というのは、唯一この画の<モデルとなった人物>の立ち位置からは彼は不可視ではないからである。が、ポーズをとりつづけるそのモデルは、それ=闖入と注視 を禁じる自由も、そう身振りで示す自由も奪われている――。ついでに言うと、(※ディテール画をみれば解るが)、逆にこの紳士以外のすべての登場人物(此岸)には、彼ほど、カンバスそのものに関心を寄せているものも、見入っているものもいない。むしろ微妙な目配りもしくは気配りを以て、*X=鑑賞者の立ち位置とその身分への関心を、保持しつづけているという素振りである。

*…これは勿論、画中のヴェラスケスに於ても或る程度当て嵌まる。勿論画家であるがゆえ、この立ち位置に立つ人物をその身分の差を超えた画家としての視線で観ている、という他の人物たちとは唯一違った特権的表情も見事に含まれているようだが。そうではあるにしてもこの、画中のヴェラスケスの注視線は、カンバスと、このモデルの立ち位置に居る人物との両方を微妙に跨いでいるのがわかる。画家としては当たり前な仕草なのではあるが。※この辺りのニュアンスについてもディテール画を参照)

彼岸の紳士の単純-端的な視線、これは、ちょうど画中のヴェラスケス前の大カンバスに突き当たり、カンバスの角度を経由してこちら側(鑑賞者の立ち位置)に屈折してくる。謂わば、くの字に曲がるベクトルである。このことこそが、これを逆に辿る、カンバスに描かれた世界はどんなものなのか、についての私たちの興味をそそるのだ。

さて、分割された画面の中にある闖入者のもうひとつだが、われわれの視線は、これまた殆ど素描に近く示されている遠景の二人の人物にたどりつく。これはフェリペ2世とその妻、国王夫妻像である。それは一見、奥の壁面に掛けられている額縁に入った他の数々の絵画たちと同じ、額縁の中の絵画のように見えるのだが、よく見ると不自然に曇った光の反射の様子から、それが絵画でなく鏡であることをやや遅着的に知らされる、という具合)つまりあれは**国王夫妻が映し出されている<鏡像>である。

**…主にこの点に関してはフコー自身と、蓮見重彦氏によるフコーの著名な紹介本(「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」。これが、志向的侵犯を巡る現象学についての紹介でなく、構造主義者フコーとしての紹介であることが幾分か不思議な感も与えるが。がとにかくこれはフコーの、非常に優れた考察視点と言説であることに間違いない。)によってラス・メニーナスの鑑賞仕方として既に詳しく述べられているし、私自身は知識不足であるがその他すでに優れた有名な解説があるはずと思うのでおおかたは省くが。

すると私たち鑑賞者は、この映し出されている鏡像のもとは何処にあるかを顧みざるをえない。とまさしく、それはわれわれ鑑賞者の立ち位置に他ならないが、その途端、この絵画空間にとって(無条件に)不可視的存在であったはずのわれわれ鑑賞者は、いきなり国王夫妻という形姿を纏わされる、受肉させられるのである。われわれが不用意にも、この絵画の前に立ち、また<立ち会って>しまった、その時間の経過を含めて。つまりここでは、私たち鑑賞者という匿名の闖入者は、今度は(状況に対する)<立場>の交換ではなく、<身体>の交換という仕方で、状況に出会わされることになる=姿をとる、ということ。

したがって私たちは、このラス・メニーナスという絵画空間に於いては、――立場の交換作用と身体の交換作用とを分けて考えれば、――じつに少なくとも4つの闖入者に、出会われることになる。

結局のところ、この絵画空間において、もっとも自由を勝ち取っているのは誰あろう、画家ヴェラスケス自身ということになりはしないだろうか。彼の意味とは、或る面で彼岸にいる紳士や、鑑賞者である部外者な我々よりも、勝利者的である。なぜなら紳士もわれわれ鑑賞者も、謂わば彼岸に居ることにより、この絵画空間(状況)に何ら影響を与えることはできない。むしろ絡め取られる側に回ってしまう。視野に入っていなかったはずの外部空間に居る効果的人物を描き入れたり、この絵画より何世紀か後になって生まれここに出会われた私たちの存在さえ巻き込みながら<見事に絡め取っている>のは、画家ヴェラスケスなのである。その意図は彼自身であり続けながら同時に彼を超えていく。

つまりこの絵画空間のただ中に、自己自身を分身として置きながら、否、置いたまま、専ら描くという行為を以て――つまり幾つかの鏡(性)という媒介を取り込みつつ、また人や視線、ものの向きといった喚起体を巧みに利用しつつ――登場人物たちの身分や、われわれ部外者たちの立場と視座をも巻き込みながら、その状況全体を超え出ている。まさしく「世界のただ中にあり続けながら、その世界を超え出る」のである。

被-構成者でありつつその己を以て構成する。被-構成者である己を以て、その己自身とともにすべてを描くこと。構成者相互にとっての、鏡の問題。これが、全ての人間の意識に透徹されること。内にありつつ外にあるために、メタファとしての鏡を持ち、用いること、これがわれわれひとりひとりにつねに保障されること。蛇足だがこれらは、芸術や哲学上の問題のみならず、今日においては政治や社会全体のMEDIA=媒介とそのありようの問題、われわれ個々の鏡の持ち方の問題としても大きくなっていると言えるだろう。媒介(としての可能性と自律性)を個々が持つ、そのことによりメディアとして働くような気がするのだが、現今ではしばしばマス...と名乗るそれによって、今日、私たちひとり々のそれが働かんとする傾向性と自律性を奪われていないだろうか。するとイデオロギーが隠され見えなくなってしまうであろうことを懸念する。

この記事のつづきへ(追記分)

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