マーク・ロスコと自滅の去就
以前マーク・ロスコの絵を見た時、このやり方はずるいと思ったが、その意味が自分にも――抽象表現主義の手法「だから」という簡便な偏見と*少し違う処から来ているような気もした――まだよく解らなかったので放っておいた。けれども最近シューベルトのあの “ 親密な ” 死への手なづけ方を学ぶうち(この種の親密さは、その絶対的な孤独と全然矛盾しない)何となく感じ始めたものがある。
そういえば少し前に何とかいう作家がロスコの絵を見ると自殺したくなる、と言ったとかいう文章を見た気がするが、その作家はおそらく良心的か、そうでなければロスコとは<別の>死を企てるだけの勇気もしくはそれに足る動機があるのかも知れない。
私にはロスコの絵は自殺というより自滅に近いと思えるが、それではその自滅に同乗できるかといえば、そうもいかない。あそこには予め孤高のLet it be――「これは私の自滅であってあなたのではない」――があるが、その意味の由来の多くは彼がシューベルトのようにナルシシズムと死への恐怖を同時に昇華して行った(昇華のプロセスを私たちと共有した)のとは違って、ナルシシズムの所在、もしくは何らかの無条件な自己肯定とか過剰な自己否定とかの問題を、前以て棚上げしたことにあるだろう。とちょうどそのぶんだけ不可解な恐怖が、あの入念な禁欲的安息と絶妙な色彩の交換作用のさなかにあって恐怖だけが、濾過されぬままタブローの背面を漂うことになる。したがってあれらの絵の前に立たされたものは、<同乗>出来ずにその自滅を手をこまねいて見ているか、目を・身体を背ける(見なかったことにする/関心がない)かの選択を迫られる。それなのに――意味を了った場合――その、死が親密にならない、誰でもあり誰でもないものにならないまま猶予されていた分の、謂わば放置された自滅の恐怖もしくは深さを<こちらが>(引き込まれ追放されつつ)引き受けなければならなくなるのだ。
Favourite:Mark Rothko,Orange and Yellow 1956
(こうした世界はたとえば東洋的滅却;生の極限としての空滅、というよりはやはり自-滅=死、へと至るだろう、作品の全てではないにせよ)
フェルメールとヴェラスケスにおける外界示唆(窓・鏡)
フェルメールとヴェラスケスに於る比較(前記事との関連から)――鑑賞者と 鏡・窓(乃至 額縁)の関係
(このような比較もあろうかと思い、図として記しておくことにした)
窓や、額縁、鏡、などといった存在が、フェルメール作品にもヴェラスケス作品にも示唆的な役割を持つものとして登場する。それらは単独で配置される場合もあるし、並んで配置、もしくはほぼ同一次元に配置、される場合もある。
フェルメールの場合は、主に単独で登場し、配置されるのは「窓」である。ヴェラスケスの場合、単独で登場・配置されるものとして他者性への開けを喚起させるものは「鏡」であり(「ラス・メニーナス」及び「鏡の前のヴィーナス」の場合)、また扉である(ラス・メニーナス)。
この際、ヴェラスケスの鏡とフェルメールの鏡(窓)に、次のようなことが云える。
フェルメールはいつも、
窓―――モデル
\鑑賞者/
という構図で、窓or鏡に<モデルを>そのまま直面させる。窓・鏡(他者性)はあくまでもモデルにとっての、またモデルの居る空間にとっての他者性である。(絵画中の別の登場人物はともかく)われわれ鑑賞者は、つねにじかにこの間に割って入ることはなく、それ故に徹頭徹尾 影の存在、絵画空間に対しては傍観者として、姿を隠したままに立ち会わされる。
他方ヴェラスケスの場合は、「ヴィーナス」の場合(また、以下で触れるが「ラス・メニーナス」の場合も)
鏡
|(モデル)
鑑賞者
<鑑賞者に>、いきなり鏡を直面させ、モデルはその脇の媒介者や一種の喚起体=我々(鑑賞者の身体)の化身、または立場の代理のようなものであるところが、面白いし、ヴェラスケスらしい。
ここに、もうひとつの道具が配置される場合も同様である。
フェルメールの場合もヴェラスケスの場合も、「鏡」と「窓」(または「扉」など<もうひとつの世界>を示唆する道具)は、ほぼ‘並んで’置かれることにより、その効果と役割とを発揮することがあった。
フェルメールの場合、「鏡や額縁」がつねに“モデルに対して”正面か・ほぼ正面であるのに対し、ヴェラスケスの場合、これらはむしろ直接私たち“鑑賞者に対して”正面、乃至ほぼ正面であるところが興味深い。
ヴェラスケスでは「ラス・メニーナス」中、 「鏡」と「扉」(「扉」…それは半ば開けられた、もうひとつの世界としての存在として配置)とは、並んで置かれていた。
他方、フェルメールの一部の作品中にある、「窓」と「鏡」(※さらに、額縁の絵・地図など,ここには図像学などの解析余地がある、付記10/09/30)は時折、並んでいる。もしくは、ほぼ同一次元(もっとも奥まった層)に配置される。
または
図2
ヴェラスケスでは、(ラス・メニーナス)
図3
となるのである。
たしかにこの比較は、彼らの“主題”とその際の道具の扱いと配置、役割の持たせ方…etcetc.、それゆえ至当に帯びる構図性といったものを、それぞれ端的に示唆しているように思われる。
注1) ことにフェルメールの場合、窓・(半ば)開いた窓、などが、殆ど鏡と同じような効果をすでに持つ面が多くあると思われる。
- 1)閉じた窓:全き自己同一性=鏡1
- 2)他者にむかって幾分か開きかけた窓≒鏡2(地図などが最も奥手の層にあったりする)
というような具合…
注2) 尚、ヴェラスケスの場合、「ヴィナス」に於る「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである。
「ヴィナス」に於るトリックは、本来画家の立つべき視座を、画家自身の気配を空無化したまま鑑賞者にあけわたした格好で、画家のかわりに特権的闖入者である私たちが、絶対不可侵領域でにいるはずのモデルに見られる、というものであるが、ラス・メニーナスに於る「見られる者の交換」が4重構造になっている、――つまり扉を開け放って傍観する紳士、鏡に投影された国王夫妻(ともに、あちら側-彼岸とこちら側-此岸の交換)、また本来ここに立つべき画家自身、身体のない国王夫妻、また鑑賞者(絵によって存在を暴かれ視線としては絵画空間の中を侵入しうるも、身体として永遠に参与できぬ自由で不自由な鑑賞者)、の間で――のと較べれば、画家と鑑賞者との間で生じる、まだ単純で原初的なものである。
また鏡に写っているのが、「ヴィーナス」ではモデルであるヴィーナス自身(此岸と彼岸の中間地帯――純粋「絵画空間」に在る者)に過ぎぬのに対し、「ラス・メニーナス」では国王夫妻(画内に受肉しないモデル;鏡像として示唆されるモデル;此岸であり彼岸)、という重層トリックであるという面からの比較でも、「ヴィーナス」に於るそれはまだまだ素朴な現象学である。
が、ヴィーナスの「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである、この効果は、モデルと画家の位置づけ上当然のことながら、見方を変えればそのままおそらくちょうど「ラス・メニーナス」に於て、画家ヴェラスケスの姿と、私たち鑑賞者の間に立っていた“カンヴァスの背中”の役割と同様であって、画中のモデル乃至登場人物たちが<視線>をぶつける対象であるとともに、そこで「くの字」に曲がった彼らの視線を、私たち鑑賞者の視線と交換させる為の喚起体である。 (2003'04/05:附記/2004'03/06一部施:訂正)
2003年03月31日 (月)
ディエゴ・ヴェラスケスの画を丹念に見て行くのは、ラス・メニナスがきっかけとなったつい昨日からのことで、まだよく解らないし、正直 生まも見たことがない(来日したスペイン王宮絵画展を見ておくべきだった)。
しかし、こうして時を追って彼の画を見ていくと、時間の流れとともに彼の芸術の多面性を、垣間見ることが出来る…。
カラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する、ことに静物に於る写実主義にはじまり、1630〜40年代の比較的動性ゆたかな画風。筆致にはある種の省略法のようなもの見受けられる。
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- Three Musicians, Gemaldegalerie, Berlin(年代不詳?)
カラッチ(豆を食べる男)→ドメニキーノなどとともにボローニャ派の特色ももつが、その中にあるカラヴァッジョ的。
以下は皆ヴェラスケス自身の画。 - An Old Woman Cooking Eggs, approx. 1618
多分にカラヴァッジョ的。。。
下の画に較べ、カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率もまだ働きはじめない…。奥行きを出すのに効果的な上からの角度を保持。
※(カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率…カラヴァッジョの徹底したリアリズムの中で唯一置き去りにされているものがあるとすれば画面の奥行であろう。これが満たされるには詩性を帯びる画風を待たなければならない。たとえば17Cオランダ絵画 cf)カメラ・オブスキュラの登場。シャルダンに関しては故意であろう。) - Christ in the House of Martha & Mary(年代不詳?たぶん10年代後半ではないだろうか)
オランダのアールスト的な徹底的写実主義が、物の描き方に見出されるが、それに比し人物のほうは、幾らか実在感を省略されている感があるのはおもしろい。静物に較べた時の人物描写のこの実在感のなさは、写実主義の未成熟というよりは寧ろ近代主義の先駈けだろう…。
ここにはカラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する静物に於る写実主義と、同時にシャルダンと近代絵画に共通の、奥行(z軸)の圧殺も見出される気がする。 が、右手の断片はすでに17Cオランダ絵画同様の素描的省略法(シャルダンにも見られる)が。 - Joseph's Bloody Coat Brought to Jacob, 1630
プッサン→‘カラヴァッジョ周辺画家’的 人物描写とその動性…。色彩はバロック(プサン〜リュベンス)/新古典主義アングル・ダヴィッド -
The Adoration of the Magi, 1619
カラヴァッジョ的、でも微かにティエポロ的なものの予感が(?)。。 - The Needlewoman, 1640
ここには、フェルメール的<没入>――他者非介入が見出される。 - The Coronation of the Virgin, 1641-44
ここにはムリーリョが。(動性、また色彩)
cf1)ドラクロワ
cf2)↑リュベンス?×ヨルダーンス;同時代バロック - A Woman as a Sibyl, 1644-48
ここにはロココの予兆。 - The Feast of Bacchus (Los Borrachos), 1628-29
- Don Sebastian de Morra, 1645
庶民を描く。リアリズムと省略法の同居。こうした庶民的粗野さ・伏在する動性は、17c初期オランダ絵画ハルス、フランスのル・ナンの人物画が彷彿する。またはヴェラスケスよりやや後のボルフ(17Cオランダ)へ?こうした省略はロココへ通じるのではないだろうか。 - Juan de Pareja, 1650, oil on canvas
ここには、はやくも写実主義の或る種の頂点がある。何故ならこれ以降(ヴェラスケス自身を含め)、写実主義は新古典主義的形式主義を帯びはじめるからだ。他方、ロココやオランダ絵画は、すでに印象派にも通じる主観(主義)的動性を帯びてくる。がこの絵には、未だ静性→動性の可変的両義性、瞬間の抽出におけるごく自然で適切なバランスがある。 - そして昨日のラス・メニナスの中の、幾人かの人物や、同年のこうした王女の絵
The Infanta Margarita, 1656
には、ダヴィッドを典型とする奇妙な新古典主義的「停止性」が、すでに伏在する。
もっともこの宮廷風な凝結感は王女のドレスなど当時の形式的な文化から生じるのであろう。逆に庶民を描く際は生き生きと動的である。宮廷の人物には、動きの瞬間・時間の断片がひとつの空間に奇妙に持続させられるかの強制力をともなった停止を強調する。 - The Medici Gardens in Rome, 1650
これなどに見受けられる或る種の省略法(<ものの厚みのリアリティを確保した>詩的省略法)は、グァルディなど18世紀ヴェネチア派を想わせる!(或いは英自然主義ボニントンの海岸の絵)。カナレットのような写実主義にはこの点=厚みが欠けていた――ことに壁面、大地の描き方――。
が同時に樹木などの幾分かよどんだような暗い省略法には、すでにテオドア・ルッソーのようなバルビゾン派〜英・仏ロマン派の予兆が混在してみえる…(そしてそれらは印象派に通じるだろう)。
セガンティーニと分割描法
セガンティーニの細密な自然描写法、分割描法は、点描というよりは線描である。比較すると興味深いが、スーラやシニャックの点描画法が描き出したものは、「光」景であり、つまり光のトーンそのものであった気がする。 たとえばその舞台が公園や水辺など戸外であれば、その描かれた対象および主題は、人物でもなく風景ですらなくむしろ「戸外の光」そのものであり、分けても紫外線(をはじめとする光線)を、――見せるために風景という媒介を通し――描出したのだとでもいえる程である。 またホールやアトリエなど室内の光景であれば、主役はこれまた人物たちというよりは、彼らを照らし出す照明であるとともに陰影である。
何れにしろ彼らの手法に於ては、風景そのもの、殊に人物たちは、光の背後に後退し薄められた形で存在し、どれもとってつけたように――まるで立像か殆ど物体さながらに――配置されている。それは謂わば照らすものとその作り出す影とを抽出するために置かれている、といった恰好である。けして彼ら自身がモデルでもなく主題でもない。当然ながら、光を語るための手段なのである。人物たちはどれも、自然な所作を停止し、その挙動の前後は、ちょうど残響をそぎ落とされたホールでの楽器の音のように、きれいさっぱりはぶかれている。しなう腕や、服の袖のしわまでもが、時間と所作の流れの経過を物語るよりは、むしろ文様のようにその場と時に滞っている。 また雲の行方や木漏れ日が刻々織りなしていたであろう翳の揺らぎさえ、その余韻をものがたる事を差し止められている。こうした非連続性――時間と動勢とを犠牲にすること――により、任意に切り取られたほんの「一刻」が有した光の真実を、彼らの或る種科学的な眼は、カンバスにしっかりと保持させたのだ。
けれどもこの払った犠牲、自然の連続性、というものを、光の描出の真実と両立させる方法はなかったのだろうか、と思う時、それ以前の印象派の手法のほうに、やはり惹かれてしまうのをどう仕様もなかった。
だがセガンティーニの線描によって描き出されたものは、光と同時にそれを受け浴びて「生きている」地上のものたち、屹立する山々、流れる雲、また輝く水を飲み、山羊や牛を牽いて生きるひとびと自身でもあるのだ。 彼は描き出すべき二つの主題、光という生の「媒介者」とこれを享受し生きる者たち、「受肉者」とを、しっかりと同居させた。
人を圧倒するほどの広大な風景、創造行為以前に、もうそれ自身いやというほどの《光》に充たされ完結的に存在する山岳風景というものを、多くの画家はあえてカンバスに描き出してこなかった。主に室内から再出発した近代絵画の歴史自身もまた、そのように進行して来なかった。広大無辺な風景は、それ自体完成されており、強烈な光を受けつつもみづから放ってなによりも充実し、圧倒的にそこに存在している。 この強烈さは、写真として切り取ることは或る意味容易でも、これと差し向かい、丹念に描き上げていくのに適当な対象では、おそらくなかっただろう。
だがセガンティーニはこの孤独な作業を地道に遂げていた。 線描によると、点描とは違い、「自然」と「生命」は、光という“媒体”に負けることなくカンバスの中にそれ自身の姿を立たせやすい というのは、面白い。 スイスアルプスの地を覆う草たち、それらは、文字通り、輝く「線」で埋めて行かれるべきであろうというのは考え易い。それはたしかに、点で埋められるより一層自然なことだろう。光は、点としてよりむしろこれを受けて浴びる草みづからの姿を以て物体としての細密な線を、実際私たちに印象づける。 けれどもセガンティーニは、屹立する遠景の山脈の描出にも、この線描という手法を延長させた。それにより、緑草に覆われた山面は必然的にナチュラルな風貌をかもす。 が、露出する岩肌のがわにも、線はじつは或る種象徴的に、存在している。肉眼というよりは、それはむしろ望遠レンズ、あるいは顕微鏡のトリックを部分的に絡めたような効果といっていいかも知れない。
岩肌のみならず彼は面を以て反射するもの――雪や青空――にも分割描法をあてはめる。がそれはたしかに奏功している。 じっと相対していると目の前が暗くなりそうなほどの、あのスイス山岳の強烈な紫外線は、細密な線として描かれても尚――否、線として描かれるからこそ(?)――そのデリケートでたくましく圧倒的なまばゆさを刻み、またこれをみづからの身体に刻ませ、浴びる地上のものたちを生かす。 ここでは光も《存在》であり、光を享受するものたちも同等に、“背後の時間のながれとともに”、存在している。
表現=知覚性の反映、絵画における聴覚
モーリス・ユトリロの無重量感
建築物における〈厚みのなさ〉といったのものは、写実主義にもあるし、形而上絵画にもある。写実主義においてはそんなことはありえないように一見思われそうだが、かなり透徹した写実主義、その極地にも現れる。
カナレットなどはその典型で、写実性そのものに於ては頂点にあるひとりだと言ってよいのだろうが、重力感といたものはかなり削がれている。そういう性質が、かたやターナーのような茫洋さへ、かたやボニントンなどの印象派に“通じる”人びとへと受け継がれていったようにみえる。
*私の手にある小さな美術書では、ボニントンはカンスタブルやドラクロワの路線を継ぐとしてあるが、むしろカナレットからくる要素も大きいように見える。色彩などは、(ドラクロワ→)カンスタブルからのちのテオドア・ルソーに通じるような所があるが。
ボニントンに於ては、建物の厚みのなさは、ターナーの宙に浮いたような茫洋とはまた少し違った、特有の精妙さの中で継承されていったように見える。
他方、写実主義と逆に、印象派はみな厚みを帯びないかといえば、意外にそうでもない。モネの教会も、シスレーの教会も、輪郭のさほどはっきりしないスタイルのなかで、ものの厚みと質感を光と影を通して間接的に時間の経過と共に具現している。
さてユトリロの建物の厚みのなさは独特である……。筆致としてはかならずしも薄弱でなく、輪郭線を強く出し、入念に「黒」を入れてものの境界線をはっきりと打ち出しているのだが、その建物の存在自身はというと、まるで舞台の建て具のように、厚みを帯びていないのだ。
あるいは右半分がすっぱりと切り落とされたような哀愁をたたえた教会があったりする。
パリの急坂の路地の果て、遠くにみえる長い階段も、徐々にのぼっていく辛さを演出しているというよりは、むしろ垂直に立った塀にひとが何人かへばりついている―しかも、宙に浮いた格好で!―とでも言うようだ。
こういう厚みのなさ、奥行きと重量感のなさとは何であろうか。 かれの実存は孤独の宙に浮いたようだ。しかしそのような非現実性のなかにこそ、かれの虚脱感にも近い哀愁がただようのである。
無重量感とは、つよい輪郭線によっても、黒を多く使う明快なコントラストによっても克服される事なくにじみ出うるのだというのを、かれの絵から知らされる。
絵画空間(時・空軸の交換など)
形而上絵画〜未来派にかけては、絵画空間といういわば“生まの”時間軸を欠いた次元の中で、その非運動性/静止性というものを存分に発揮させようとする傾向と、その逆を行くもの、つまり時間軸の空間化をあらゆる手段で試みる傾向のものとがある気がする。
前者は典型的にはモランディのようなもの、その他(ミロの一部やカルラ等)多くの形而上絵画作品、またマグリットのようなシュルレアリスムも一部分、そうした〈要素〉を含むであろう。(それのみでないが)
後者はたとえばボッチョーニなどの生々しげな手法によるなだれるような絵画に典型的に見出される。ボッチョーニでは、ラファエロ辺りから既に見いだせる古来からの手法の延長のように、複数の人を用いて継承される挙動の連続性=時間軸の空間化・軸の交換処理 をほどこすなり、同じく(運動する複数の)影で、それを暗示する、という方法をとる。
他方、知的なもの?の介在を示唆する一群によく当てはまる前者―*キュビズムのやったことも或意味そういう訳だし、モンドリアンの具象性排除も或る種そうした意味をおのずと含んでくるだろう。当然それはデュシャンらのダダイスムやデ・シュティルにも通じている―に関しては、そもそもそれらを惹起させたセザンヌの試み自体、その目的を持っていた。
*…これに就いては、「否。キュビスムとは断続的“運動”性そのものだ」と言えるかもしれないが、時間軸の空間化ないし空間軸の時間化とは変幻するものの同一「次元」への閉じこめを意味するのであって、おなじものの多様相を二次元へと封じ込めることによって見事に生きた運動体の統合的―諧謔的でもある―静止性を実現するともいえるのである…
が、二次元世界という空間軸で時間軸の示唆を行うには、色値変化か、動作所作――運動という非連続の連続――の帯びる指向性によってそれらを擬似的に暗示させるしかないのであって、そういう意味ではこうした傾向というのは必然といえば必然なのでもある…。
ただ形而上学絵画という、既得観念の陥穽・錯覚を逆利用したかのような一連の絵画が、どちらかといえば静止的な様相をおびるというのはおもしろい。―彼ら自身、或る種の観念至上主義に居る という場合も、あり得る―
こうした時代のなかで、ユトリロのもつ静止性というのは、―見ようによってはたしかに、彼の筆致の上/下向・奥行きのなさが及ぼす独特の非現実感覚が、一種トリック絵に見えなくもないような、少し特異な感も与える。しかしここに通底してある「厚みのなさ」!は――かれの孤独と不可分である。