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シューマン Op68 子供のためのアルバム Album for the Young-2

ペリのこと 小品のこと

以上、このツィクルスOp68という透明な床のあちこちに落とされたピアノコンチェルトOp54の残照についてのべたが、もうひとつ、主だって聞こえる気がするのは、楽園とペリ(Paradies und die Peri Op50)の名残である。Periの初演の指揮はメンデルスゾーンによってなされた。

http://ml.naxos.jp/album/GC08171 Paradies und die Peri Op50 (オイローパ・コール・アカデミー/南西ドイツ放送響/カンブルラン)

 


たとえば Op68-No21 Non Title にも、Peri の Leitmotiv やその展開仕様が見え隠れするように聞こえる。

Peri の Leitmotiv 自身、Beethoven の Sym4-motiv をどうしても想起させるものの、さらに飛浮感をただよわすRSchらしいたおやかな上下向をそなえた、このオラトリオにしごく似つかわしい線に思われるが、そのskylineの残像とその断続的な反行線(別な言い方をすると Part III: Verstossen! Verschlossen:追放、またしても門前払いだ のねじれとも言えようか)が、No21にも感じられるのである。

もちろん、このNo21 Non Title の終わりは、Peri-Part I Die Peri sah das Mai der Wunde、Part III: Hinab zu jenem Sonnentempel!,Part III: Dem Sang von Ferne lauschend, schwingtなどに現れる(このことはクライスレリアーナ論の最後にも記したし、※最近2016年度のop68とメンデルスゾーンについて、の記事や、ブラームス、ウェーベルンをかませた記事でも触れたが)メンデルスゾーンの存在とその死——1947年を巡る をも彷彿させる作品だと思う。

(そういえば No28 Erinnerung :メンデルスゾーンの想い出 自身も Peri の Motive やその変容 Part III: Verstossen! Verschlossen に通じるといえる)

 

※上記、シューマン(op68,op80 etc...)と、メンデルスゾーンとその死の前後、エリア(Elijah)等との関係についての太字部分について。最近の記事での補記(link http://reicahier.jugem.jp/?eid=49)を読まれたい...。

 

なおこの No21 は同時に、無類に美しい室内楽小品、Op70,73,94 などにも通じていよう。また Op56-2 も彷彿する。

 

また先に Op54 との密接な繋がりについて述べた No26 Non Title も、やはり Peri の Part III: Verstossen! Verschlossen、に通じる。

 

No24(刈入れの歌:Ernteliedchen ―― No20 田舎の歌 と No10 楽しき農夫 にもつながる曲だが)は Peri 最終部(Coda) Part III: Freud', ew'ge Freude, mein Werk ist getan に通じる。これは No33 Weinlesezeit,…:葡萄の季節… にもそのまま当て嵌まると言えよう。

 

No38 Winterszeit1 :冬1 には、愕いたことに同上 Peri のコーダと全く同じ形が登場する。

このことは、Peri の LeitMotiv そのものが Op68-No16 Erster Verlust(最初の悲しみ)と或る「同様の断片」から生じ――ちなみに同曲17小節以降の対位法的展開は、殆ど Peri の開始まもない展開仕様そのものである――、No38 Winterszeit-1:冬1 や、Peri の Verstossen! Verschlossen(またしても門前払いだ)、もしくは Peri's Coda へと 変容-展開していく音の軌道を垣間見せていると思われる…。

 

Peri's Coda は No17 Kleiner Morgenwanderer の、対位法の重厚さと足取りの軽い陽気さを兼ね備えた曲想にも通じており、これはのちにライン(Op. 97 Rheinische)にも通じていくように感じられるが、この曲を短調化し、付点の位置を調整すると、Peri-Op50 と同時にピアノコンチェルト Op54 も再現してくるのが、なんとも思慕をそそられる。

 

また Periと、No35 Mignon:ミニョン に関して、細かい話にはなるが、Op38-Sym1-Springともつなげてひとつ言っておこう…。

 

私にとってNo35 Mignon はこのアルバム曲集の中でとりわけ好きな作品のひとつだが、わけても印象的なのは、展開部(13-14小節)Voice1 ソーレ↑ーードシ♭ラ の哀しみである。イメージのもととなっているであろう平均律第一巻第一番の暗示的旋律線が天上からの促しに対する応答のようにひたすら上昇線を描くのとは反対であり、哀しい ‘妖精’ の描線である…。

この曲について、今あらためて遠い記憶を辿るように思い起こせば、RSch Op38 Sym1 春 nr2 の最終盤に、ソーレ↑ー という、なにか曖昧なさがしものをしているような管楽器によるみじかい問いかけ声(nr2はこうしてまるで放置されたように終わりをつげ、そして――表層的には――そのあとすぐこれの4度下から nr3 を起動させるようにもなっていく)がきこえたのだったが、それと同じ音型が、ミニョンに ソーレ↑ーー(ドシ♭ラ) という形で登場するのに気づいた(ここにはクレッシェンド・ディミニュエンドと sf の指定がある。

同じく印象的なソーレーの準拠は No37 水夫の歌, No36 イタリア水夫の歌などにもみられる)。

そんな断片は、どんな作曲家のどの曲にも転がっている、と一笑に付されそうだがそうだろうか。

私にとってシューマンのここのソ-レの、待ちもうけたような問いかけ、の印象はかなり強烈である…。そして問いかけた後のレドシ♭ラは同時に Peri の leitmotiv自身=ラソファミ…のSkyline にも通じているのである。この、Mignon(ミニョン)の展開部ソーレーードシ(ラ)を、Peri にも見出すならば、ソーレードーシー(ドラーソーファファー)が III Jetzt sank des Abends gold'ner Schein にあり、ソーレードーシー(レ)は III Dem Sang von Ferne lauschend, schwingt にもある(こうした線は移調すると Bach's Art of Fuge 未完最終曲と同じ。Peri については一部音楽の捧げ物との連関が言われることもありこじつけた…)。

どれもおぼつかなげの、かなり似たような雰囲気――問いかけ;待ちもうけたまま〜 ――を醸している。音楽の表情というのはおもしろいものである…。

 

ソ-レ↑の形に準じるものとしては、No36 Italian Sailor's song :イタリア水夫の歌(ここでは上向が半音下で反行ソ-ド♯。一度目はゆっくりと-反抗的で-鋭く突き上げるように、二度目は余韻(自問?)のように、これが繰り返される。ここで半音下をとったことの代償=解決はもちろん、次小節の急き立てられるようなスタカートですぐに果たされる。ド♯-レ…)に登場する。

ただ曲想の素描という面から言えば、2003年度にも書いたかも知れないが No9 Volksliedehen:小さな民謡 の素描が出来るときには No36 Italian Sailor's song:イタリア水夫 も出来るものなのであろう。シューマンの頭の中はこのみじかい一ヶ月足らずの間、さぞ忙しかったろうと推察される。

 

ところでこの「問いかけ型」につなげて言うと、ピアノコンチェルトOp54 の nr2 終盤には、これと逆向きの、極めて印象的な、やはりおぼつかなげの呼び声のたぐい、ファー シ♭↓ が、これまた管楽器による場所に、ある(この契機もまた、十全に閉じられず、nr3 を呼び込むような形に聞こえる)。

nr2( http://ml.naxos.jp/work/138766 RSch-op54 01:07〜01:11ところである )。

この ファー シ♭も、やはり Op68 ツィクルスのあちこち、宙吊り状態をあらわず諸作品に見いだされる。ただし具体的な旋律線としてではなく、声部を越えてむしろ背景に響きつづける仕方――たえずにじむような形――で。(No34 主題や、3つの Non title 26,30,34 ――など、どれもこれといったシニフィエへと着地せず宙に浮いている演習的な作品たち。)

また、準拠する形のものというとたとえば No37 水夫の歌。ここではソ-レ(上向)型と準ファ-シ♭(下向)型がvoiceを越え交代-共有される形によりモノフォニーで同時に描かれている。シューマンの問いかけ元素ともいえる ソ-レ や ファ-シ♭ ――それが時にはフロレスタン的跳梁となり、母性への訴えにもなるかとおもえば暗部から突き上げるような楔を打つスタッカーシモの鋭利さにもなる――及びこれらを契機にするか、2者を同時に組み合わせた多様な展開のインスピレーションは、シューマンという人間像の少なくとも一部へと、通じると思う。

※ついでにいうと、Op54-nr3 ヘミオラのところから数小節に現れるものの基いは、Op68 No34 Thema:主題 のデッサンへも同様に通じる。

 

※Op68-No35 Mignon:ミニョン は、全体的にいえば、Peri Op50 の Part II: Die Peri weint, von ihrer Trane scheintと次のIm Waldesgrun am stillen See、また Part III: Und wie sie niederwarts sich schwingt にただよう背景にシューマンが通した要素の展開に似ている。
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etcetc..

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2017年 追記

RSchumann's Mignon op68 Nº 35 は Beethoven's Mignon op75 Nº 1 に由来する♪

 

このようなことからすると、この曲集(Op68)が、メンデルスゾーンの死を経たのち書かれてもまだかろうじて常軌を逸していない?のは、表題通りまさしく子供のために書かれているのと、(そのことと不可分ともいえようが、あるいはまたメンデルスゾーンへの ‘想い出’ とも重なるのであろうが)幸福な体験や成功体験――(Op38)/Op54/Op50 ――をもたらしたものらと同じ基を、おのずからバックボーンとしているせいもあるのかもしれない…。

 


ところで、Op68 までは、裂割を免れかろうじて保たれていた常軌と造形感は、この後狂気をおびたものに転換される。この1年後のツィクルス、森の情景Op82である。op68 と op82 との間にある差異、おおきな転換点とは、おもに 根音の強調から根音の消去――構造の解体と、「世界」における超過点(健常-狂気の主従関係)の意味の交代であろう。

 

森の情景 Op82 は、第1曲からしてその狂気がはじまる…。小さい頃はじめて同曲集の冒頭に触れた時、この音楽を聞き続けていると自分は発狂する、と思っていたたまれず逃げ出したものだった。けして予言の鳥や
気味の悪い場所をはじめに耳にしたのではなく、この最初の曲(入口!)で、すでにそう感じさせられたのだ…。

森の入口――弱起の曲でないにもかかわらず、あそこにははじめから消失した時間がある(それは聞き手をはじまりの “ その前 ” へと呼び戻す)。その、前以て消去された瞬間とともに、おそらくはそれと同じ故郷から来るであろういぶかしさの聴取をおぼえる。たえずまといつく根音の無さ――底の飛沫化=黙示化。

 

Op68 まで、シューマンは特有の対位法の構築とともに、これと不可分な要素としての根音をロマン派のわりに基底とし、むしろドリブル効果(吃音や反省癖――背後の世界への病的振り返り/解釈症的意味付与=状況理解・強迫神経症的自己把持)などにより強調さえしていた。

ところが Op82 に至って、彼は――ある種皮肉な言い方になるかも知れないが――かれ自身にとって最後の救いの主であったその根音をも、ついに消しにかかるのである…。

 

根音の消却とは、そこはかとない だが あからさまな 深淵への開けとそれへの誘いである。それはけしてたしかめてはいけないと囁きつつたしかめるように誘う。ここに、沈黙が自然となりすました矛盾がある。それゆえに、この冒頭曲は、調性感のたしかさにもかかわらず、空恐ろしく魔的な響きとなる。

 

7曲目の「予言の鳥」の不気味さには、むしろまだしも救いがある。あそこには、形式によって――形式が身代わりとなって?――すでに保持された沈黙の象徴化がある。それは、物語が寓話と化すことによって帯びる確かさにも似ている。また、5曲目の「気味の悪い場所」では、調性の可変性という形で代行される病的形象の儀式的効果によって、当の生まな狂気そのものへの接触から、聞き手はかろうじて救い出される。

 

しかし、このOp82を転換点として、そこはかとない狂気は、あきらかに脱皮をとげ、露呈されはじめた…。

Op82 は、背景的には、Op68 の依拠がバッハの王道であるところの平均律――と私自身はどうしても思ってしまう、バッハ鍵盤音楽の本筋は平均律(基本的に条理世界-自由自律な摂理を主題)とフーガの技法(不条理世界-実存を主題)にあるだろうと――にあったのに比し、むしろパルティータや序曲系がメインとなっている性為もあろう。それが、シューマンの「幻想」との付き合い方に拍車をかけているところがあると思われる。つまり、正像でない世界との関係の結び方に影響を与えている、と…。

 

このとき、こういう事を考えざるをえない。バッハやベートーヴェンの対位法の常軌、その醸出する意味性における悟達の健常さ(彼らは根音を強調する、芸術の形式としても、また後者に於いてはとくに、政治的・状況論的意味に於いても)と、シューマンのそれとの関係。見方を変えると、現実世界と、悟性との関係とはなにか。疵を負った精神が、取り戻しがたいとともに更新されがたい過去や(じつは他者以上によく・つよく・深く『知って』もいるが、それだけになお)正視できにくい現実の歪像(幻想/幻景)を、切実に追うさまが、芸術表現として呈されたときの、世界「という」形のとりかた、“世界の狭歪”である…。

 

Op68の意味、またシューマンと、バッハの音楽の関係…。また、ベートーヴェンとの関係…。

ただひとつ、これを考えるとき、(クライスレリアーナ論でも述べたが)シューマンの音楽とは何かを、あらためて思わざるをえないわけだが、その際シューマンの音楽のもつ、ニュアンスの名付けがたさの帯びる<誠実さ>について、ひとこと触れておきたい。

 

たんに(ドゥルーズ風に言う)“逃走”線――この、状況に対し責任主体を定立することから不断に己を遠ざけるとも解れる、ともすると不誠実な言葉には、私自身はしばしば首肯しかねる――というよりはむしろ潜勢性のゆたかさと深み、いいかえれば<表層的な!>「何ものかであることの拒絶(P.ヴァレリ)」、より深層に潜む真理へと向かう、そしてより普遍的な主体へ<*到達しよう>とする遡行性・坑穿性・憧憬性の能弁さ、それらの奥行き、深刻さと厚み、シニフィアンスとしての純粋度(=名状しがたさ)etc...を考える時、もとより持っていた素質であろう対位法的進行と、自覚的に取り組んだバッハ的半音階進行の音楽性の模倣は、功を奏しているとは、言っていいだろう。(それが同時に彼の狂気を彼自身の人生にいっそう近づけたとも言えるかどうかは別にして…。)

 

*到達せんとして到達『できない』 / 〜し損ねる、というニュアンスの表明と、〜から逃走する / “ 逃走 ” 線を描く――根をはることを避ける、というニュアンスとを、私はやはり区別したい。(また、そうでなければ、他方の彼の執烈な楔の打ち込みの意味を理解することができない…)

その 未到 / 到達すること-が-できない、 のニュアンスの強調のなかには、たとえ、ある種の(確立されるべき)主体としての未熟さがあろうとも、それと、状況における責任主体からの逃避という不誠実さ――状況、その舞台は、ベートーヴェンが全生涯をかけて証したように、そして彼以降の音楽がおのずとそれを問われてしまうように、政治・社会問題であろうと、表現行為であろうと変わりはない…(少なくともシューマン自身はそう感じとっていた)――とを混同するのは、やり切れない。

だからこそ私は、表現力に於いて、強度だけでなく、やはり質――表現行為の際自己承認する(我)の純度、「私=主体」とは言い切れぬ不透明さのただ中で責任を取らされる準-自我の純粋さ――の問題をあげたいのである。この事象への問いなしに、私は同時にシューマンの、バッハやベートーヴェンへの、そしてこの意味に於けるある種の同胞シューベルトへの、敬愛を語ることはできないように思う。

 

ただ、シューマンのその B-A-C-H の学びなどに代表される半音階進行が、バッハと同じ境地や精神性を彼にもたらしたかというと、実際、そうではない。バッハ自身における半音階進行、たとえばB-H間の着脱運動によりじつに効果的に達せられている、**東洋的無の醸成とか、悟境におけるふとした転位(shift)etcetc..という面についていえば、シューマンの場合、そのようなものにはなるわけではない。

 

**…これらについては、同2003年時の(もちろん、当時は少なくとも日本においてはもっぱらバッハのキリスト教的側面がすぐれた研究によって強調されていた。このような世相において、バッハの音楽に仏教的な悟境やら東洋的無やらを感じる、などという突拍子もない感想を述べることに甚だしいプレッシャーを、当時感じてしまった心境を想像して戴けるとありがたい)、自分のwebサイト日記に記してあるので、追々こちらの記事にも、別途記載していきたい。

そればかりか、およそ別のもの――「問いかけ」、「待ちもうけ」たまま(A.ジッド)、永遠に閉じられることのない迷彷的な何か、浮遊する何ものかへとなるのである…。
それはこの曲集に於いても、主題( No34 Thema )なるものと、3つの無題作品( Non-title No 21,26,30 )といった、B-A-C-H の試みにも現れはじめている。

 

芸術表現には、或る種の抽象化は必要とされるし、またそれが個性の現われともなる。なるほど、たとえばベートーヴェンの後期SQなどに典型的にみられるように。

ベートーヴェンの後期SQについていえば、あれらのモティフには、厳粛で絶妙なる抽象化(シニフィアンとしての淡さ;どのシニフィエからも遠く殆ど平等に漂う距離、とも言えるものがある。とはいえあそこにもじつは、某シニフィエの残影、といったものがもちろん、ある。そしてメンデルスゾーンもシューマンも、彼ら自身のSQに於て、その影の正体を理解していた。が、メンデルスゾーンの場合(sq-Op2)、そのシニフィエを如実に装填したまま再度ベートーヴェン晩年のSQを自分流に実践しなおしたのに比し、シューマンの場合(SQ-Op41-1)、その(暗黙に見いだした特定のシニフィエの)影の「消し去り方」をまで後期ベートーヴェンから学びとり、<ロマン派的>にではあれ、ベートーヴェンの意図と精神をできうるかぎり尊重したまま、その抽象化保持の手法を踏襲しているようにも聞こえる。つまり抽象化されてもなにがしかの根は残るのだし、それ(根の影、またその残し方/削ぎ落とし方の帯びるシニフィアン)なしにはダイナミックな運動の展開、状況との関係と超脱の変化etcetc..はもちろんありえない。

 

芸術に於ける抽象性の問題は、音楽のみならず絵画や文学にも通用するものであることは間違いない…。

たとえばノヴァーリスによれば、ゲーテは「類まれな厳密さで抽象化しながら、同時にその抽象に見合う対象を…作り出す」のだと言う。が、そこで芸術家に問われるのは、その抽象化の手法の熟達さと同時にその帯びる意味であるだろう。

特にバッハ以降、音楽が(宗教性とともに、否むしろこれと不可分な仕方で)実存性を帯びはじめ、ベートーヴェンに至っては政治性-折衝性すら濃厚に語りはじめた。ベートーヴェンの音楽とは、冒頭にも述べたが殆どの作品が、ある観点から照射すれば状況論的運動性の音楽でもあるとすら言えるだろう。そうした音楽以降にとって、表現に要求されはじめた重要なことは、すくなくとも急所に於いては具体的状況の素描を露わにし、時にはそこに斬り込むこと、ないし楔を打ち込むことだといえる。別な言い方をすれば、大事なのは、諸々の音楽的主体にとっての原点=実存性、世界に内「属」するその仕方・状況づけられ方を、表明することだろう。

そしてその際、その音楽的主体の原点を、排除するような運動性がもし、創り手によってその表現の中に――無意識にであろうと故意にであろうと――しのび込まされてしまっているとすれば、それは或る意味、敵(死)と通じてしまいかねない。

シューマンのOp82やシューベルトのナポリ6度の多用などに見出せる根の消去・根の転遷(旋転)は、やはり生を肯定する志向性から見るならば、ある意味狂気であり、空恐ろしい…。
「どうにも根を下ろしがたい」という表現のリアリティとしては、こんなに成功した音楽もないのだろうけれど。

表現に於ける遡及的歩行と運動は、急所では根の削ぎ方を余程注意しないと、どのみち敵陣地へみづから招き入れられるようなものだ――言ってみれば、蟻地獄へ落ちる。後ろ向きで…そうして死や、専制的なもの、ファシズムに再び出くわすのは必至となる…。むしろいかに己が敵陣地で闘わず、杭を打ち込むか、連れ去られるのでなく、こちらの土俵(phase)へと舞台を持って行くか、闘争=折衝していく運動のダイナミズムを展開していくことも、弁証法の冒険の、ひとつの醍醐味ではないだろうか。(もし「生」――生き抜くことを、あくまで肯定した場合)

 

いずれにせよ、根の削ぎ方 もしくは逆に 楔の打ち込み方 といったものは、表現行為に於いてしばしば能弁である…。Op82 におけるシューマンの根の消去、そのありようが、シューマン自身とその運命にとって好運なベクトルを帯びているとは思われない…。(そしてもちろんそのことと、好き嫌いは全く別の問題である…。)

 

長い間脱線したが、ともかくもそんな風に Op68 の実践ではまだ無邪気さをも残していた「バッハ的」試みにつきまとう “ こころもとなさ ” は、次第により幻想的で、無気味で?、時に寓話的で、魔性を帯びた何ものかへと、シューマン自身の中で変質していく。そうしてそれ以降は、そうした浮遊性が、かつては “ こころもとなさ ” であったところのものが、ある種異妙な “ うつろさ ” を帯び始める…(そうして次第に地上的存在であることを拒否してゆく…。)

 

http://ml.naxos.jp/work/273753 (7 Clavierstucke in Fughettenform, Op. 126)
うつろさ――
こころもとなさ から 異妙さと無気味さ、そして 晩年のうつろさ への変質。こころもとなさ(Op68 3つの Non titles , Thema) が 根音の消去または薄弱さにまで至り、ときに調性逸脱をもいちぢるしく予期させ(Op82)、狂気を帯び(同Op82-4,7)、 やがてうつろさへ( Op118,126 etc..)、というわけである…。

 

ローベルト・シューマンの場合、たしかにそうしたバッハ的なものの実践は、たとえばベートーヴェンによって晩年に果たされたような無類の音楽的抽象性を粗描することに、徹頭徹尾成功するのでもなく――とはいえ繰り返すが、SQなどにみられるように、当時の若きメンデルスゾーンとの比較でいえば、ベートーヴェン後期からの学びに於いても、その抽象性、特定のシニフィエをまとわぬシニフィアンそのものとしての純度/何ものにもなり切れなさ が、より保持されているとは、理解している――また調性逸脱をひとしきりほのめかしながらも、その***完全な逸脱には、ついぞ至ることもない。
***…(但し、この後に書かれたもうひとつのツィクルス「森の情景」での、ことに「気味の悪い場所」「予言の鳥」の試みは、別格と見るべきだろうが。)
かといって、ロマン派のさなかにおけるバッハの再来として――言ってみれば殆ど健全な?――悟境へとひとを誘う、こともない…。

むしろ何かますます詩性=魔性を帯びたものへとかれ自身を至らせ、次第にしばしば狂気をすら包み隠さぬ何ものかになっていく。

 

シューマンの場合、B-H 着脱運動の、一種の霊的成果ののちに「超越されたもの」が、いったい何と何との境界であったろう?
それは、いかにもバッハ的な悟達の洋の東西の超越でもなく、かといって後期ベートーヴェン的な彼岸と此岸の超越でもなく…ではいったい何と何との境界なのかについて。

op68まではバッハ的技法の古典美によってぎゅっと凍結され最後までかろうじて閉じ込められていた何かが、op82では、ついに“殻を破り”生身が脱皮してしまった。そうして(影/退隠であるべき)それ自身が音楽的主体になってしまった。いわばop68からop82への転換には、重要なものの裂開がある。アラベスク-最後の古典美 から グロテスク-アラベスクへの逸脱、狂気の現出が聞こえるのである。

もちろん、シューマンの狂気ははじめから存在していたのであり、そこここに見え隠れしていたのも事実であるし、逆にどんな狂気の現露の裏にも、作曲家としての健全な、実験的=実践的自我の裏打ちがある、というのも「表現」の成り立ちとして真実ではあるが、やはりそれでも、ああとうとう露出したと思わざるを得ない転換点が、あるように思われる…。

そのことの意味は、音楽的にはたんに調性逸脱の試み、もしくはその示唆に富んだ契機、ですまされるかもしれない――これ自身十分すぎるほどの仕事であり影響力である――が、「この作曲家」本人の精神の内実としてはもっと肉の厚みをともなう重い意味がある。

 

 

-------------以下メモ-----------


http://ml.naxos.jp/work/265158 (6 Fugues on B-A-C-H, Op. 60)まだ模索段階。そのなかでの複声部によるバッハの学びからなにがしかシューマネスクなものの浮上の探究。
☆この最終曲には次作品Op61-Sym2最終楽章コーダに繋がっていくのとほぼ同型のスケッチがある。Op61-Sym2においてはこのバッハ演習(Op60)から生まれたエサンスを、あのなじみ深いベートーヴェン(遙かなる恋人)へと合体させ、それまで危機的な苦悩のうちにも焦憧してやまなかった遠い彼方を、ついに此岸へと到らしめるのである。
☆余談だがこの頃シューマンはペダルピアノのための曲集やスケッチも残している。秀逸なop56,また20代に作曲したピアノ曲の旋律や性癖をふたたび採用したかに聞こえるop58など。

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シューマンにおけるバッハ演習―― B-A-C-H の試み、または対位法

参考】

B-A-C-H? Schumann -7 pieces en forme de fughettes op 126
http://www.youtube.com/watch?v=Lp2SOp1m95I&feature=player_embedded#!
Reine Gianoli (1974)

うつろ Schumann Sonata for the young, Op.118
http://blog.livedoor.jp/bachelor_seal/archives/10336739.html

寂寥 Schumann - 5 Gedichte der Konigin Maria Stuart, Op.135
http://a-babe.plala.jp/~jun-t/Schumann_Op135.htm

http://www.youtube.com/watch?v=hzV24LfcR28&feature=player_embedded

例外的に勇壮、しかし晩鐘的? Schumann - Provencalisches Lied Op.139 Peter Anders , 2. Upload
http://www.youtube.com/watch?v=E_p_5p7FO5I&feature=player_embedded#!

あまりにも清澄、たんなる霊性が醸し出されるのでなく、“肉の厚みをともなったままの清浄さ”が、心身ともに天上へ行ってしまったことをparadoxicalに物語る…。霊性が、“ 身体をまとい続ける!? ” こと、幽体離脱しないこと――これこそは、シューマンと、その影響を受けたフォレとの決定的差異であるともいえる。

Schumann - Four Double Choruses Op. 141
http://blog.livedoor.jp/bachelor_seal/archives/10455489.html

 

ノヴァーリスに、このような言葉がある( from @Novalis_bot on twitter )霊となった人間は―同時に、身体となった霊である。もしそう言ってよければ、このような高次の死は、通常の死とはなんら関わりをもたない―それは、変容と呼ぶことができるようななにものかであるだろう。 『フライベルク自然科学研究』

 

シューマンの晩鐘抄録とは、まさしくそれである…。

 

op141 op147 op148
たしかに上記のような晩年のシューマン作品を聞いていくと、これらに多大な影響を受けたであろうフォレとの連関とともに、相互の違異について考え出してしまう。
フォレの場合、調性の浮遊感とともに霊性のみが現出し、身体性は失われる(消失すべきものとして地に残される、あるいは逆に地に忘れて来てよいものと承認される?)のであるが、シューマンのはたとえ対位法進行はおろか半音階進行中でもちがうのだ…。その音楽は肉の厚みを帯びたままでいるので、“ 身体ごと ” 天上に持って行かれる、もっと言うと、もう天上に行ってしまった心-身が、地上の追憶としての亡骸(もぬけ)にむかってうたい・語りかける…、それは殆ど、透明な熱――それはもう白熱(シューベルトのミサ曲)すら通り越している――を帯びつつ見下ろしながら語りかけている、という感じだ。

 

ミササクラ  Missa Sacra Op.147 1852 清冽なる狂気(パラドクス)
http://blog.livedoor.jp/bachelor_seal/archives/10541356.html

レクイエム Requiem Op.148 1852
http://www.youtube.com/watch?v=kpEAenSKshk&feature=related

(ミニョンのレクイエム&ミサ曲ハ短調(ミササクラ)のカップリングでコルボ指揮のCDが出ています。)

 

こうして聞いてくると、おのずとこうした言葉が口を突く…。

シューマンは生前(1852)に身の浄めを終えていた。橋の上から大河へと身を投げるより前に…

 

 

2012年にFGやtwitterに投稿したものを所々織り込んでいます。また、最後になりましたがシューマン楽曲のLink先の皆様にお礼を申し上げます

 

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シューマン Op68 子供のためのアルバム Album for the Young-1

2003年01月23日 (木)

*(注、文中、前半――引用枠内――は2003年01/23〜02/07のもの。後半は2012年09/09〜10/27のもの。前半のmarker部分だけは12/09/03に付加した。なお註釈や参考は2012記によります)

【参考】
http://ml.naxos.jp/album/ARTS47756-8
SCHUMANN, R: Album fur die Jugend (Album for the Young), Op. 68 (Ammara)

 

2003年01/23――雪の日に亡くなった父親の命日に

 

先日、リヒテルのバッハ平均律を聞くと雪を想像する、というような事を書いた覚えがある…。
ちょうど今――父親の命日――、八ヶ岳にも雪が降っているのだが、ワイセンベルクによるシューマンのユゲントアルバムop68も、私にとって、そういう感覚を覚えさせる作品である。しんしんと降り積もる雪を、ともすると曇りがちの窓越しに見つめながら、ひとつひとつの音に耳と神経を傾ける、というのにもっとも相応しい作品であろう。

勿論、あの有名な「楽しき農夫」やら、「刈入れの歌」、「葡萄の季節!」、「春の歌」、など、ゆたかな四季を感じさせる題名のものもあるし、勿論直接には子供向けに書かれた作品なために、楽しげな風景やら題材を背後にもつ情緒のものも多いのではあるが、曲集全体に流れているのは、あまりに透明度の高い、コラールを基調とする厳選されたエッセンスの結晶であって、それらが醸すものは、明るいものも暗いものも、――ことにワイセンベルクの硬質なタッチによるこのop68へのアプローチと表現にあっては――悉くシューマンの病的知性と神経を通した、むしろ凍りつくような冬のイマージュそのものである…。

ところで、先述した記載にてこの曲集をクライスレリアーナとともに取り上げなければならないと感じていたのは、今思えばシューマンに於るバッハ的なもの、もしくはバッハ〜ベートーヴェン〜シューマンと受け継がれたと思われる、何か透徹し一貫した西洋音楽の神髄について、曲がりなりにも何かしら探り当てられたらよいという意図からだった。

【注】尤も、シューマンに於けるバッハの通底と、ベートーヴェンからの影響の大きさは、――シューベルトとメンデルスゾーンをその際ともにあげなければならないが――もちろんクライスレリアーナに限ったことではないのだから、両作品をつねに同時に論じなければならない必要性もないのだが、シューマンのPiano以外のジャンルの作品――交響曲や歌曲、室内楽、他――をまだ殆ど知らなかった当時のweb日記であったことと、これまたバッハ、ベートーヴェンを想起させる程の主題の発展の有機性、という意味で自分にとって両作品がとりわけ能弁に聞こえていた、などの由として、乞謝されたい。
昨今でこそ、例えばアンドレアス・シュタイアーがバッハへのオマージュという形でシューマンのCDを(その中にはop82やop15,32,126などとともにこのop68から――その中には予想に反してとりわけ聞きたいと念じていた数作品が選曲から洩れてはいたものの――いかにもバッハを彷彿させる数曲が選び出されている)出してくれたり、アンデルジェフスキのシューマンへのアプローチが、バッハ-ベートーヴェン-シューマンへと通底するものをみごとに物語って(しかも彼のベクトルは音楽通史というよりむしろシューマンからベートーヴェン、バッハへと遡行する何ものかを探り当てたかのようである。またそのシューマンの背後にはシマノフスキなどもいたりする)いたり、はたまたシフの演奏会への真摯だけれども鋭い姿勢・プログラムの組み方などがそうした事々を暗示させてくれるなど、バッハ〜(ベートーヴェン)〜シューマンをつなぐ基底に我々が気づかされる機会がかなり多くなってきているけれども、私がこれをHPに記していた2003年当時はどうだったのだろうか…。
ただたんに日本ではシューマンの演奏会もCDも売れない、それどころかシューマンの存在自身がメジャーではなかったために、それに関する研究も日本には紹介されず、シューマンの音楽性の分析、功績などに関する論文も運ばれて来なかったということだったのだろうか…。ヨーロッパなど海外自体でも今日と比較すればバッハからのつながりといった面での研究が不十分だったという側面もあるのだろうか。

 

2003年01月24日 (金)

「ユゲントアルバム」――アルバム・フュル・ユーゲント――は、(私にとって)「子供の情景」よりさらに、コラール風な作品の風格と完成度、旋律線の交錯をはじめとするバッハ的な諸要素と格調の彷彿などに於て、純度の高い作品である。また、個々同士が、形としては各々分岐していながらきわめて有機的つながりを持ち合っているのも拙別記事クライスレリアーナなどと同様である。

はじめの数曲は、ガルッピかモツァルトか、はたまたセブラックか伝承された聖歌か、というほどごく簡素なエッセンスのみの作品であり、初心者の指のための数少ない音と、また極力少ない自然な動きでも宿りうる至純な音楽性と表現の可能性を思慮し、珠玉のエッセンスのみで出来上がっている。と同時に後の曲に受け継がれる主題となっている面もある。
以下では、まず同ツィクルス内での主題の密接性と関係性を追ってみる。
4「コラール」は、文字通り42「装飾されたコラール」へと発展するが、それ以前にも17「朝の散歩をする子供」や22「ロンド」とも兄弟関係になっていくと捉えることもできる。
また9「小さな民謡」もこのコラールを原型とした最初の短調ととらえることもできる(32「シェヘラザーテ」とも通じる)。
また同「コラール」が、やはり簡潔な冒頭の3エッセンスと見える 1「メロディ」・3「ハミング」・5「小曲」などのヴァリエーションを通して、20?「田舎の歌」、またこれを3拍子風(6/8)とすれば「刈り入れの歌」、或るいはまた別のパターン=30「無題」などへも変換されることができる。

4「コラール」を起点に、後々各ヴァリエーションへと繋がる1「メロディ」3「ハミング」5「小曲」の間にはさまれている2「兵士の行進」は、最初の短調6「あわれな孤児」へと、まず展開する。
その6「あわれな孤児」も、いささかベートーヴェン風にアレンジされつつ、後の29「見知らぬ人」に発展する。が、殊に展開部(16小節以降)にみられるようなコラール要素の行進曲風で重厚なアレンジなどは、その経由点として「朝の散歩をする子供」を介する。
――等々というように、あるエッセンスを基に、互いに有機的なつながりを保っていると捉えられる。

9「小さな民謡」は――3小節目からのフレーズが#16「最初の悲しみ」の主題となり、後々28「想い出」などへと通じる。またやはり最初の短調「あわれな孤児」の、よりコラール色のつよい変奏曲ともいえる面があるが、同時にやや哀しみをも帯びた長調作品――18「刈り入れるひとの歌」・20「田舎の歌」――などとも通じよう。より明るい側面としては左手に主旋律を移した「楽しき農夫」につながるが、同旋律は24「刈り入れの歌」となる。
このように色々なエッセンスとなる小曲であるが、ここにはすでに人生の透明な哀しみといったものが、十二分に込められている。

#16「最初の悲しみ」も、28「想い出」、38「冬1」などと変奏曲の関係にある。そして、27「カノン形式の歌」、43「おおみそか」などとほぼ対位的変奏曲の関係にある。
(#おおみそかは 22ロンドのよりコラール的な重厚さを増す形での変奏曲である)

また11「シチリアの踊り」の中には、クライスレリアーナの中でも触れた、シューマンらしい独特の短調と長調との辺境、あのゆらぎの原型が、素朴で伝統的な音楽形式の中にも持ち込まれている。
12「サンタクロースのおじいさん」には、まだまだユーモラスな雰囲気の中にもシューマンらしい翳の投影した虚無の芽を見出すことが出来るし、音楽のモノフォニーからポリフォニーへの移行を伝えている。ポリフォニックな展開部は対位的であり、早くもベートーヴェン風である。

 

2003年01月25日 (土)

13「愛らしい五月よ」になってくると、もうシューマンのあの途方もない憧れが顔を出している。それは時に「幻想曲」を思わせたり「クライスレリアーナ」の第2曲テーマを彷彿させたりする。(※尤も旋律線そのものからすれば、クライスレリアーナ-2は、短調で書かれてはいるが、むしろ27カノン形式の歌と基を一にする。(注:これかさらに40小さなフーガと連動するような形でOp54ピアノコンチェンルトにも通じていくように思われるのだが、それは後述する。)この旋律線が、もとをただせば何処の誰に由来しているかは、拙blogのクライスレリアーナ オマージュと付記を参照されたい。愛らしい五月よ、がクライスレリアーナの2を彷彿させるのは、旋律線自身の同一性よりもむしろその膨張型・蛇行型としてのロマンティシズムのより明るく無垢な再現と、余韻の転移的形勢――サブドミナントへのたよりなげな、なかば問いかけのままの着地、として――の同一性である。この小曲ではその余韻の経過(音)的着地が分散和音の形であらわされている)が、その憧れはあの時のような情熱を伴ってはいなく、むしろあまりにも澄明で透徹した、狂気や死をその凍りついた祈りの向こう、祈りの結晶となった明るみの向こうに、暗示する…そうした憧れである。
音楽的には、シューマネスクな付点や休止符、スタカート、かと思えば細心の神経を払わなければならないスラーが、頻繁に顔を出しめる。21小節目の展開部からは、クライスレリアーナめいた半音階進行と一瞬土台の安定性を喪失しかけたかのような転調が入り込む。装飾音符(短前打音)を除けば、この辺りはバッハを想起させる。
14「小さな練習曲」も、水に映ったような上下の美しい音の並びは簡易な対位法が基となりつつ、バッハ-プレリュド的なスラーの橋が左・右手の音域をまたいで渡される。左右でひとつの旋律を生じつつ上昇と下降、大きなうねりと小さなうねりを繰り返しながら進行する。あえて速く演奏すると解りやすいが、左手は所々通奏低音の役割を果たしており、この旋律のうねりは、意外にベートーヴェン的でもある…。

 

2003年01月26日 (日)

20「田舎の歌」―21「無題」―24「刈り入れの歌」―27「カノン形式の歌」―(30「無題」)―33「葡萄の季節;楽しい季節」―(34「主題」)―(35「ミニョン」―)28「想い出」―40「小さなフーガ」―43「おおみそか」
これらはすべて一つの主題から生じる。

35「ミニョン」の発生には、14「小さな練習曲」が介在する。
30「無題」には、34「主題」、及び37「水夫の歌」が潜在する。(37、これと対位的に36「イタリア水夫の歌」がある。)その「水夫の歌」には23「騎手」が前提にある。
「騎手」はリズムの原初だが、同時にメロディとしては最初の短調である9「小さな民謡」(-16「最初の悲しみ」-25「お芝居の想い出」)から来る短調のベースが、後半のこれら重暗い短調作品に、通底する。この短調ベースは38「冬1」にも通じる。それはことに16「最初の悲しみ」に近い。が同時に38「冬1」は、(13「愛らしい五月よ」〜)15「春の歌」、また28「想い出」・21,30両「無題」..等、物悲しげな長調作品にも近いのである。
41「ノルウェの歌――」も小さなフーガから生じうる。同時に4「コラール」を原基とするようなコラール風4声構造が必要となる。だがこの重厚な4声コラールは、和音以外の形で実は各作品の至る所で使用されている。変形としてたとえば34「主題」などもそうである。
(#だが「主題」は15「春の歌」と或る同一の基底からも生ずる。)

 

2003年01月27日 (月)〜28日 (火)

きのう記した相互関連を、再度別の観点から整理する……

◇律動性(rythme)の基礎と旋律の付与――付点/休止符/スタッカート(スタッカーシモ)のある譜面

2「兵士の行進」
ベートーヴェンのvn.sonate「春」第2楽章の、より簡潔な形である。が、この曲は付点や休止符を除外すれば、かなり賛美歌風の3声部構造を持っている。
この作品は長調であるが、付点や休止符を取ったその素直な状態で短調の旋律を作れば、9「小さな民謡」となる。

尚この曲のrythmeは、後の長/短調の両作品の基礎になっている。

まずほぼそのままの律動的特徴から、29「見知らぬ人」・36「イタリア水夫の歌」・37「水夫の歌」などの短調作品が生まれるのである。
長調作品としては、2〜4小節/6〜8小節の下降形がそのまま31「戦士の歌」の2〜3小節/4〜5小節となっている。また、ロハニの旋律進行をロニニと還元しイ長へ移動すれば17「朝の散歩をする子供」(→♯ハホホ)へと変奏される。

6「あわれな孤児」このrythmeはスタカートをはっきりし加速させれば、やはり29「見知らぬ人」となる。(「見知らぬ人」には8分音符で「ニ」音の前座がある。)
*「見知らぬ人」はいろいろな曲をつなぐ鍵になる発見をさせられることが多い

7「狩人の歌」
ひとつ前の「あわれな孤児」から微弱なスタカートは登場するが、明解なそれとしては、はじめてのスタカートが登場する。このスタカート部、ハヘイハヘハニハイヘト、は後に18「刈り入れる人の歌」ハヘイニハイヘホトニハ、と極めて似た形に動揺のスタカートで展開される。
そしたまた短調としては、ハヘハヘイヘイハイニハイヘ を移調し→ホイホイハイハホハヘホハイとなって8「勇敢な騎手」が蘇生する。
(尚、これに添う左手和音にも同時にスタカートが付され、11「シチリアの踊り」や、23「*騎手」、25「お芝居の想い出」に発展する。
*「騎手」については後に詳しく触れる)

8「勇敢な騎手」
その「勇敢な騎手」であるが、#左と右の主旋律交代が、表立った形でははじめて登場する。

#…単にこうした形式としても10「楽しき農夫」に継がれる。が、この曲を長調化した形――(ちょうど10小節目以降、左に主旋律が移る時点から長調になるが)――ハヘハヘイヘイハイニハイヘ、がハヘ⌒⌒イハ⌒⌒ヘロニヘニハ⌒⌒と変奏された形が10「楽しき農夫」の主旋律でもある。ところで「楽しき農夫」がさらに13「愛らしい五月」へ(さらに15「春の歌」へ)と変奏されるが、「愛らしき五月」(長調)は、短調化されるとほぼそのまま「お芝居の想い出」となる。まったく同じ音型とrythmeで出来ているのである。つまり「勇敢な騎手」からは「楽しき農夫」や「愛らしき五月」に通じるものと、「お芝居の想い出」などスタカートの短調系と両方に通じるものとに分岐するのである。さらにこの作品は拍子を変化させたり8分音符×3のスタカートのうちの1・2拍を同音(もしくはタイ)でつなぐと「田舎の歌」「刈り入れの歌」にも通じるのである

#…8「勇敢な騎手」から、10「…農夫」、この「農夫」を短調化したものが、「第二部:年上の子供達の為に」の冒頭曲、19「小さなロマンス」となる。だがこれが短調化するに於ては、8「勇敢な騎手」が或る意味で土台になり、融合した形になっている。

8「勇敢な騎手」は同時に17「朝の散歩をする子供」にも発展する。左/右手の主旋律交代が行われる意味でも、短調の長調化、という意味でも同様である。
ただ主旋律交代に関しては、「朝の散歩…」に於ての方がより頻繁である。がそれはむしろ左右交代というよりは、3声による対位法が第1主題に対して5度,6度で出現してくるのである。

また長調化という点では、8「勇敢な騎手」(イ短調)のハ音を#にし、そのままイ長調に転じた音型(ホイホイハイハホハヘホハイ→ホイホイ♯ハイ♯ハホ♯ハ♯ヘホハイ)を仮の主題として展開される変奏曲であろう。同様にして8「勇敢な騎手」をイ長調化して出来た仮主題を、さらに展開させた、16「朝の散歩…」の兄弟として、15「春の歌」(→ホ長調)や21「無題」(→ハ長調)、33「葡萄の季節:楽しい季節」(→ホ長調)、34「主題」(→ハ長調)などがあるだろう。というより、これらは「朝の散歩…」の直接の同胞とも言ってよい(どちらがひよこか鶏にわとりかは判らない)。殊にrythmeに関して33「葡萄」・34「主題」は、17「朝の散歩…」と全く同型である。が、ここでは何れもスタカートやスタッカーシモは用いられてはいない。

尚、17「朝の散歩…」の10小節目以降は最終曲43「おおみそか」に継がれる。「朝の散歩…」もまた、色いろな意味で多面的な形で各曲に諸連関を持つ書式も重厚な作品である。

 

2003年01月29日 (水)

13「愛らしい五月よ」…これは、25「お芝居の想い出」と長/短で表裏の関係にある。伴奏部はスラーとスタカートでの和音と対照的だが、主旋律部は同じ主題の変奏曲同士であると見てよいと思われる。
2/4拍子、rythmeはともに2拍目からの惹起で、16分音符×4×2の形式で成り立つ。
曲の雰囲気は正反対であるにもかかわらず、アーティキュレーション――スラー及び、スタカートの運用――もほぼ同型である。

しかし「…五月」のほうはすでに後の15「春の歌」、21/26「無題」、22「ロンド」など物悲しげの、やや短調気配を帯びた長調に、また「お芝居…」のほうは23「騎手」、29「見知らぬ人」や31「戦士の歌(長調作品ではあるが)」、36「イタリア水夫…」など暗鬱もしくは不気味な緊張感を漂わす作品に通じる要素乃至雰囲気をそれぞれに孕んでいる。

23「騎手」…「見知らぬ人」「イタリア水夫の歌」とともに、子供向けにしては不可解な不気味さ、シューマネスクな、いわゆる跳梁的暗鬱を孕む小品である。ここに於る付点と休止符だらけの譜面、多くのスタッカーシモと、この特徴的リズムのまま展開部に出現するホモフォニックな半音階進行、重厚な左和音(octv.でなく間にもう一音入り込む)は、クライスレリアーナの第5曲や特に第8曲の吃吶音を彷彿さす。

述べてきたように、この曲はそもそもは8「勇敢な騎手」のようなモティフから生じてはいるが、その持つ「楽しき農夫」的な側面では勿論無く、「お芝居…」「見知らぬ人」(#31「戦士の歌」)36「イタリア水夫…」、#37「水夫の歌」などの底に通じる。

#31「戦士の歌」は長調作品ではあるが、クライスレリアーナ5曲などにも登場する暗鬱なホモフォニー(「イタリア水夫」「水夫」「冬2」などに現れる)を持ち、けして明るいとは言えないシューマネスクな短調の余韻漂う作品である。更にここに出現するのは対位的で重厚な和声である。(##「水夫の歌」も同様)

 

2003年01月30日 (木)

##37「水夫の歌」……これも31「戦士の歌」と同様、ホモとポリ(対位法による)が交錯する。
開始のフレーズ(1〜9小節)はホモフォニーであり、9小節目からはこれと対照的に、厳格なと言ってよい程の対位法が登場する。その対位法は4〜5声からなり、第1声部と第5声部が対称となっており転回形をとると同時に第2声部が第4声部と転回形をとる。再びホモフォニーへ還って、32小節以降のやや暗鬱な奇怪さはことにクライスレリアーナ第5曲のホモフォニックなあの中間部を想起させる。

39冬2…作品の前半;短調化したグレゴリオ聖歌ともいうような雰囲気の厳粛なホモフォニーでは、直前の「水夫の歌」をひきずり、後半のバッハ風メロディ(左右の声部が3度差などで同型の音列進行をすれば端的にわかる)の、流れるような半音階は、直後の「小さなフーガ」を潜伏させている(が、それは14「小さな練習曲」16「最初の悲しみ」〜27「カノン形式の歌」32「シェヘラザーテ」らの歩みを含んでいる)右手進行(16分音符×8)がほぼ飛躍のない半音階の動きなのに対し、左手進行(8分音符)は4ないし5度ずつ隔たった音へとまたいでゆく。また所どころは1octv.乖離のホモフォニーと8分音符1拍差の転回形とが交錯をなす。
49小節以降(ein wenig langsamer)には非常にコラール的、対位的な声部の交錯がつながれ、印象的でシューマネスクな3連音符のカノン風左右旋律交代が顔を出す。
曲集最終部のこの辺りには、殊にこうしたバッハ的な作品が並ぶ。

 

 

2003年01月31日(金)〜 02月01日 (土)

40「小さなフーガ」…
冒頭の「メロディ」「小曲」「ハミング」などが基になっている。また(短調ではあるが16「小さな悲しみ」)、17「朝の散歩をする子供」、13「愛らしい五月よ」、24「刈り入れの歌」、(短調ではあるが27「カノン形式の歌」)などが清楚に、周到に、その変奏曲としてそれぞれ自存しつつ、収斂されている。
それらすべてがこの曲の背後に隠れた変形モティフであると言える。
パウル・バドゥラ=スコダは、この曲がバッハ平均律第1巻19番fugaに似ていると言っている。が同時に、後期べートーヴェンP.ソナタに非常に近しいフレーズもみえ――典型的には、展開部9小節以降、殊に13〜16小節――、ともすると後期ソナタそのものの、或る断片を聞いているような気にもなってくる。
主題そのものがそうである上に、この曲はVORSPIELとそのFUGE、2つで1組の構成となっており(VORSPIEL自身も、今述べたようにバッハ的、及びベートーヴェン的対位法で出来ているが)、とくにFUGE部分は、まるごと非常に明澄かつ無碍自在な至高性にみちた後期ベートーヴェン的である事を踏まえる時、このごくささやかな作品の中には、バッハと、ベートーヴェン後期ソナタとが、すなわち旧約聖書と新約聖書とが、可能な限り端的な形で凝縮されている、という気がしてくる。それは殆ど凍りつくような至純さである。と同時にシューマンのいわゆるシューマネスクな透徹した幻想性、或いはまた諧謔の暗躍する曲想といったものが、いかにこうした厳格な礎にもとづいた上に築かれた個性であるかということとしても、あらためて首頷させられる気がする。

<VORSPIEL>
6小節〜9小節の左手(第2声部)はすでに開始の右手(第1声部)の厳格な単純フーガである。開始左手1〜2小節の縮小形に近いものが5小節目第1声部・7小節目第1声部に再現する。左(第3声部)3小節目の再現がほぼ8小節目(第2声部)。また同(左手1〜2小節)縮小形はすぐに次3〜4小節に現れるが、構造上その再現である展開部の始まり=9・10小節のそれぞれ後半にも、現れる(9小節から、第1小節―イハニホ=8345と第3小節―ロホハイ=7316の合成で「一」小節が出来上がる仕掛け。)が、展開部そのものの半小節ズレた掛け合いも交錯しつつ進行する。11小節は左右相互が転回形をなす。が、これは同時に左声部は第1小節(=主題開始部)の再現であり、また右声部は第4小節(=同様に11小節)での右第1声部の第2主題開始部の動きの、それぞれ同時並行的な再現である。休止符も音符に変換すればたゆみないフーガが展開している。この*休止符の効果が後半の<FUGE>に律動変化となって現れる。
*休止符の効果……例えば13小節の、冒頭16分休符はニ音(乃至,ヘ音)に置き換えられる。また5拍目休止符はハ音(乃至,ホ音)に置き換えられる。前者の場合は直前の小節の前半音型の繰り返しであり、後者の場合、7小節右第1声部に登場する主題(イハニホ)の変換形(トロホハ)と同型となる。

 

2003年02月02日 (日)

<FUGE>
<VORSPIEL>(2/4)を6/8拍子に変換した3声-3重フーガ。冒頭からrythmeと旋律が無重量・無窮動的であり天上的フーガであって、バッハを想わせる。またスタカートの導入は至極ベートーヴェン後期P.ソナタ風である。
開始後早々3小節目から(23小節よりVORSPIELが始まるので25小節目)、第2声部により掛け合いが始動するとともに、第1声部は応用された転回形に入る(VORSPIELの構造と同様)。
27小節後〜28小節前半に現れる第1,2声部の上下対称な動きは、33〜34小節に、より印象的なものとなって現れる、また39〜42、付点を想定しうる音符に置き換えれば53〜55小節などにも繰り返し現れる。この辺りの展開の仕方は後期ベートーヴェン的である。転調もVORSPIEL時より頻繁である。後半はA ={8部音符×3}とB ={8+16+16+8}、という交互のカノンめいた掛け合いのフーガが、左右声部で交代されつつ、同時に左右声部の上下対称(転回形)がめくるめく展べられる。
64〜小節以降コーダに於る左下降=第3声部は、FUGE 2小節目(=24小節)の音型の転回形である処(26小節を筆頭に現れる)の、拡大形である。この辺りも極めてバッハ的な処理である。

 

2003年02月03日 (月)

41「ノルウェーの歌」…
次42番「装飾されたコーラル」とともに、非常にオルガンに似つかわしい曲である。「…コラール」の方はそのまま通用するが、「ノルウェー」の方も、付点・10小節トリルなどを取り除いてしまえばその世界はすっかり厳粛なコラールである。左右がほぼ転回形をなしているし、9小節目からの左声部は開始の右声部(主旋律)の踏襲である(単純フーガ)。構造上同様に、9小節目からの右声部(主旋律の展開=ニ短→ハ短→イ短調)は、はじめの1小節は開始左声部(octv.)そのものであるし、この展開の際、開始時に主題に付随してきた和音(右内声部――ニハイイ、及びニハイハ)も、転調を果たす中でも出来る限り同右内声部(ニハイト、及びニハヘ #イ)へと尊重されている。

42「装飾されたコラール」…
ピアノで弾くと35「ミニョン」やアルペッジョを取り除いた32「シェヘラザーテ」のように奏でられもするだろうが、この曲想自身は殆どオルガンのための半音階進行であるといってよい。重厚さ、厳粛さの中にロマンチシズムがすでに潜むのである。それは殆ど先験的に、といってもよいほどの霊妙さである。バッハに於てすら同じであった…。最高度に禁欲的で、黙秘的な音楽の中にさえ見出しうるロマンティシズム。‘宗教的’荘厳さ・厳格さの中にさえ潜むロマンティシズム…。そういったものが、有るのである。それは、人びとが目に見えぬものに向かって「どのように(How)」と問うばかりでなく「何故(why)」と問うことを止めぬかぎり、おそらくいつの時代からも、いつの時代にも、付きまとうものである…。
そうして、シューマンのロマンティシズムといったものも、エッセンスとしては同じ根から生じている最も高度に純粋なものであったといえる。勿論そこに特有の精神の足かせや、両義性の辺境地帯のどちらにも属することの出来ぬ魂の鬱屈した憧れ、恋愛感情の吐露etcetc.といった錯綜する要素が入り込むにしても、である。

オルガンで弾かれるべき作品、というのは、この曲集の中でも、実はもっと前からある。
27「カノン形式の歌」辺りからは殆ど総てそうであると言っても可笑しくないか、むしろ相応しい。勿論tempo指定はもっとずっと遅いものに破られるべきであり、また16分以上の細かい音符はまとめて和音として扱われたり、スタカートを捨去されるべきかも知れないが、曲の構造(五線譜を横断する線と垂直の線の構造)として、本来オルガンに照応しそうなものが多い。シューマンがこの27番-短調の後に、この主旋律を上下ひっくり返し長調と化して28「想い出」を置いた時、*殆ど同時に最終曲43「おおみそか」の発露もあったであろう。

 

(※補記 2014-6年度に改めて気づいたこと この珠玉の小曲集は、メンデルスゾーンの存在とその死、またエリアElijahの印象 から出発しているのではないだろうか、と考え始める...。彼の死——冬11月——の翌年、1848年の作であるが。これについての補記的記事 link http://reicahier.jugem.jp/?eid=49

 


*「想い出」と「おおみそか」の間には、「朝の散歩」「刈り入れの歌」「田舎の歌」「ロンド」などが同様に伏在している。勿論「冬2」の殊に展開部(=25小節以降)、40「小さなフーガ」も、同じ根の変奏曲と捉えることができる。
いずれにしても、この二つ:「想い出」と「おおみそか」は、「カノン形式の歌」がきっかけで双子のようにつながれているし、「小さなコラール」も同様に縦横に走る糸のようにこれらをひとつにつないでいる――、これらは、殆ど受難曲中のコラールの伴奏のように、荘厳なオルガンの音となって再現されてよいだろう。そして「カノン形式の歌」以降の、殆どすべての曲がこうした厳粛さ、乃至静謐さを、湛えるものであるといえる…。

 

2003年02月04日 (火)

シューマンの音楽とオルガン

まったく対照的で、無縁のように思われがちかも知れないが…。これまで、シューマンの音楽は元来対位法に基づいて出来ているものが多いし、かなり半音階進行を駆使した音楽でもある、と述べてきているように、ピアノという楽器ならではの、暗躍的・跳梁的なスタカートやスタカーシモ、また脚かせのごとく行く手を阻みつつも、行進を鼓舞するような付点や休止符を除けば、そこに残るものは、厳格な対位法の音楽であるし、あるいは静謐なコラールである…。

オルガンに相応しい音楽である、という内声部のフレーズが主声部と同格なほどに独立自存する、という意味でもあってみれば、合唱および弦楽四重奏曲などにも適応できるであろう、ということである。
昨日、「カノン形式の歌」以降、オルガンに相応するような作品がつづくと綴ったが、27「カノン形式…」、29「見知らぬ人」、30「無題」や34「主題」、38「冬1」なども、オルガンもしくは弦楽四重奏に似つかわしい曲であると思われる。

大学のチャペルにあるオルガンで、一寸悪戯にクライスレリアーナを弾いてみたことがある。勿論tempo指定はかなり遅めにしたし、オルガンには無理のかかるスタカートなどは外して弾いてみたのである…。それはかなりの程度、オルガンに相応しい楽想だった。無論、クライスレリアーナはシューマンの作品の中でもとりわけピアニスティクな曲想の音楽だが、それにしては、第2曲のintermezzo1/2部、piu lento部、第4曲など荘厳であるし、トリルや付点を省いた第3曲はコラールめいていた。第6曲5小節辺りなどは殊にバッハ-ブゾーニのオルガンコラールでもあるかのようだった。

 

2003年02月07日 (金)

ユゲントアルバム――Album fur die JugentのCDは少ない。昔LP時代に、ワイセンベルグの弾いたユゲントアルバムを聞いていたが、CD化されたという話を耳にしない。仕方がないのでユゲントアルバムについて語る際、Edlinaという女流ピアニストのを聞いていたが、丁寧な演奏ではあるけれども「子供のための」という‘家庭的でぬくもりのある’領域などというものをまる切り越え出た神経や特有の両義的精神性の反映としてのあの曲集の側面を、満たしてくれる演奏でない、と思われるため、いつもその点の消化不良の感覚を抱いていた。
ワイセンベルクのは、ひどく<深みのある>演奏、というのではなかったかも知れないが、シューマンの音楽、殊にこの困難多き頃のそれらの持つ、或る種の緊迫感や精神の凍り付くような透明度というものは出ていた。あの演奏はCD化されてよいと思うし、さもなければもっと続々と超一流のピアニストがこの曲集に手を着けて欲しいと願うところである。

 

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2012年 9月9日-10月27日

※以下本文中の譜例や図解はclickで拡大できます(別窓)

 

東日本大震災後、私もつねにリュックに最小限の大事なものと非常用具を入れておくようになったが、そのなかにどうしても入れておきたい楽譜を3冊しのばせてある。おかげでひどく重くなってしまうのだが、これだけはどうしてもということで、バッハのフーガの技法――例外的に必要なもの――と、バッハ平均律第2巻、そしてシューマンのAlbum fur die Jugent(urtext)の3冊なのである。

耳の中でつねに鳴らしておきたい曲たちというのはもちろん、色々と別にあるわけだが、そのうちもっとも大事にしているのは、たとえばリヒテルや、幾つかはデミジェンコの響きによる平均律の第1巻とか、ベートーヴェンとシューマンのあらゆる音楽ということになってくる(他の音楽家たちの曲ももちろん入ってくる)。

まずバッハのことについていえば、ほんとうのところ、原発事故以後の政治不信がきわまった時、一時バッハの世界自体が聞けなくなりかけた。当時、自分の人生においてきわめて稀な期間に突入したと、自分でもいぶかしく思われた。まず以てバッハは、未完となった最後の作品を例外とすれば、ほぼ生涯の全作品において、語り部に徹していた。バッハの音楽には死がある。だからこそまた宇宙の秩序・生命秩序・摂理を、感じることが出来る。死から生へ、生から死への語りを含まない生命論はありえなく、とても正直なー真率なー黙示録であるとうことも、何度となく書いてきた。存在を語ることの報酬が自分自身(実存)に還ってくることを望まず、またとことん還って来ぬ仕組みになってもいるこの世の不条理――その痕跡・これへの実存の詰問として連打の刻印は、短調作品に於いてはことに、はっきり物語られているとは理解している――を知り尽くしながらも、その憤怒を作品の ‘表に起こす’ こともせず、そのぶんひたすら精励勤勉神のみに帰依し、つまりは生と死とがただ淡々と語られているわけだが、であるからこそ当時は、まさにそれ故にバッハを聞く事がむずかしくもなっていた。生と死のバランスの良さ、その認識の正しさこそがやりきれなくなったのである(これがバッハ自身のせいでも責任でもないことは重々承知しているにも拘わらず)…。これまではつねにまさに其と同じ理由から、誰よりもバッハを以てこそ精神の均衡を得ていたのに。繰り返すがバッハが淡々と語る死に、不条理の徴が刻まれていないというのではない。むしろ逆でさえあるが、それだけになおさら、結局はそうした不条理な死に黙々としたがって行くのだということに今は同意できない、と苦々しく思って居たのである。

丸山真男が、「日本の思想」の中でこんなことを言っている――『ここ〔日本のこと〕では、逆説が逆説として作用せず、アンチテーゼがテーゼとして受け取られ愛玩される。たとえば世界は不条理だという命題は、世はままならぬもの、という形で庶民の昔からの常識になっている。』と…。まさしくその、無常観に対する、絶対的首肯と吐気。当時の自分にとって最も受難なのは、自然の秩序に似せた<無常観を誰が蘇生させているか>という問題だった。そしてそれは同時に、こういう問題も提起してくるのだった。でなければバッハが全黙示録を、語り部としてのすべての予告を済ませた後、ベートーヴェンが何故あの全人生に渡る「喜劇」を――臨終の際「諸君 喜劇は終わった」と言ったとされる処のそれ(実際にそう言ったかどうかは別にしろ、あまりにリアリスティックではある)――演じなければならなかったのか。という…。私ががまんならないのは、死・悟り・滅度的場からの発語ではなかった。空智(己を包む促しに応じる自己の相)や実慧(空から世俗へ/空=涅槃に“住まわず”『受肉せる』空相から生死的世界への帰還の位相)から発語することでもない、そうではなく、この世は無常「なものである」<と言う主体>、否、むしろ言わせようとする主体が、装置が、ありつづけること、それが悟りとおなじ顔になりすましている事であった。

が、そんな折りにでも(逆説的に響くかも知れないが)フーガの技法だけはちがっていた。あそこには、バッハにはめずらしく――そしておそらく最初で最後であったと思うが――(神-摂理が主人公ではなく)己というものの出現、バッハ B-A-C-H 自身という存在への、語りがあった。勿論聞く側の私自身の生命力じたいがこのところずっと萎えていたので、それに耳を傾けるためには尋常ならざる気力と体力が要ったが、力を振り絞って聞いた暁には、むしろかけがえのない存在のよりどころとなっていたのである…。

原発事故以降の私にしてみれば、宗教(既存のそれにせよ、“倫理と不可分な相面”においてどうしても希求してしまう超越者にせよ)などというものをもはやまったく喪ったこんにちの実存にとって、その苦悩が、ただひたすら無名の個=実存自身に返されてくる空しさ、罰を受けるべき人間は野放図のまま、その状況を作り出してきた責任主体とは殆ど無関係な弱者や、そんな状況づくりに反対の声さえあげ続けてきた弱者までが制裁を受けるかのような、世の中の矛盾・逼塞、このどうしようもない出口の無さ、それらの虚無感をともに語ってくれる音楽として存りつづけてくれるフーガの技法…。それを「あえて聞くこと、聞かされること」の今の精神的な苦痛と負荷をすら越え、至高の芸術に寄り添ってもらわざるを得ない、そう言う存在であった。どうしても手放せない、それはいまでも変わらない――。

 

これとともに、実はベートーヴェンの存在が、原発以降はバッハと同等かそれ以上に増した。が彼の存在と音楽の意味はどちらかというと楽譜を持ち歩くより、耳の内外を問わず実際の音の運動としてじかに再生されること――たとえばちょうどグルダの弾くベートーヴェンが、楽譜から発生した、などという本末転倒な感じではおよそなく、そうした軌跡の在・不在とは無関係にはじめから自存し、駆動し、中空になまなましい運動を展開していくように聞こえるのに似ている――によるリアルな救いと悦びそのものがはるかに大きい…そういう寄り添いとして私とともにずっとある。(そういうわけで彼の作品は、リュックの中には入っていないが…体の中にずっとある。)

実際、この時代を生き抜くには相当の精神力がいる。状況から逃げずに、自分の幸福を実現するには並大抵でない耐久力と柔軟さが要求されてくる。人生の唐突な遮断もありうる。いつ終わるともしれない人生で明日があることを確信しこれを前提に出来ることを一つ一つ行う…毎日が神経戦である。これだけシビアな時代を生きてようやくなにか、稚拙な私の人生のなかでも、根からの「楽天的」人間の発語と、シビアな人間の、「意志」による窮極的「楽観主義」からの発語の、魂の位相における違いを、身に染みて痛感できるようになって来た。それとともに、ベートーヴェンの音楽の意味がまた1つ私のなかでおのずと大きく転換したのである。

ベートーヴェンの音楽とは、或意味に於いて、徹頭徹尾、いわば状況論的音楽である。だからどうしても等身大の音楽、などといった類のものからもっともかけ離れており、巨大だし、当然、くどくもある。それは敵の土俵で闘わないよう楔を打ち込み呼びかけるもののの入念さでもあるし、襲来する敵の執拗さ-老獪さと、そういうものを相手に運動を展開することのありとあらゆるむずかしさを知り尽くしたものの助言でもある。ベートーヴェンの音楽の場合、すでに澄明感――今あらためて痛く思う。この澄明さは悟性のそれである、と!――ほとばしるその初期から、自分(等身大)以上の何かと――往々にして自分以外の虐げられて人間のぶんまで――つねに格闘していた者の描き込む音楽特有の能動性と受動性があるのだが、その態度は、枯淡きわまる最晩年になっても変わらない。たしかにベートーヴェンは後期SQにおいてさえ――第一線をば退いたかに見えるとしても――隠居していない。悟達はあっても…。だから私自身、これらの音楽を聞きたい時けして耳-心を満たすために聞くのでない。生身の状況論として肉-心で聴く音楽であるし、今はますますそうなっている。

吉田秀和氏が全集のベートーヴェンの項の中で後期SQについて言っている。「この<感謝の歌>はきくものの感動を誘わないではおかないすばらしい音楽である。…それはこの音楽が彼岸性によって、私たちをかつてどんな器楽作品も啓示したことのないような浄らかな省察と祈りの世界にひきこむというだけではない。そこには、いいようのない痛烈な響き、ほとんど痛苦ともいってよいものできくものをつきさすような響きがある。この痛みは、<感謝の歌>が変奏されてでるにつれて、ますます痛切なものになる。」と。御意…。 これは病からの快癒、とされるところの病の痛みももちろんだろうが、魂は彼岸に置いてもなお、それまでの人生に於て、状況がべートーヴェンを突き刺し、これを受けとめ、ときには宙空にめくるめく銀河系のこちらへとめがけ来たりつつある運動から剥ぎ取るようにしてまで、ともに乗り越えていかねばならなかった数々のもの、また逆にベートーヴェンから人々へと状況に於いてあえて指刺したものの痛みの名残の、極限だろうと思う。

 


そうしてまた、もうひとつ、私にとってローベルト・シューマンのAlbum fur die Jugent(ユーゲントアルバム)は、――とりわけ長調作品に於て――バッハ平均律、ことに第2巻を聴く際に自分自身の中にわき起こる至純な天の喜悦をもたらし、ある酷似した…否、おなじ基底から醸成される雰囲気で心を満たし浄化させてくれるものなのであり、人生の長い間にわたり貴重な感動を与えてくれるものとなっている。この感覚は今でも変わらない。シューマンに於けるバッハの影響をしのばせる作品はあまたあるが、これは、精神的に――否 神経的に、稀な清冽さにかかわるアトモスフェールの醸成という意味において、とりわけなのである…。これは最初に綴っておきたい。

シューマン(Robert Alexander Schumann)の存在とは何だろうか…。そもそも己(他記事でも何度も繰り返してきたが、己とは基点即盲点である…)自身が、ほかならぬみづからの根源に遡れないという矛盾の苦悩が、人間存在にとって共通の基底であるのにもまして、時代状況がこんにちのようにあらゆる意味で不条理にみち、ひとの実人生を宙吊りにさらしたまま何ら受け皿のないものとなった現代社会に於ける、シューマンの存在とその音楽の持つ意味とは何だろうか。このひとの音楽のもつある種の病勢について慎重な態度を取る人々はもちろんいる。が私は、バッハの対位法に行き渡る格調や、ベートーヴェンの、いわば状況論的音楽における澄明な悟性の発達と運動展開を考えるとき、同時にまたこれを深く敬愛していたシューマンの、かれなりに誠実に展開していった奇矯さを含む運動の意味性、その切実さと、しばしば正像でない世界との関係の結び方、異他的なるものとの出合いとその組み込みの錯綜、自己同一性の分極と解離…などの病勢、ある種のいびつさが、逼塞する現代社会もたらす(逆説的に響くが)<救い>について、考えずには居られない――すなわち時代・社会・政治が、かろうじて己の足で立とうとしているひとつびとつのの主体を溶解させかねぬほど可塑的に過ぎ、危機にさらしすぎ、いびつであればあるほど、考えずには居られない…。

シューマンの音楽的意味と、その運動のもつ意味性…。誰か指揮者の言葉、シューマン以降という把捉があったが、たしかにその後の仏・露もしくは周縁的(スラブ,ユダヤ的)音楽展開を考えると、歌の意味――その発現/素朴な受肉(シューベルト)から、歌の充溢-錯綜-逸脱への至当な道のり(アラベスク・爛熟)、さらに歌からの幽体離脱=身体性の消失とこれ以降の飛沫化した身体が世界に対して恐らくもう一度問われるべきもの意味を、あらためて考える事が出来る。基点とは盲点であるという装置を音楽化したのはシューマンが最初で最後だった。直前(シューベルト)はその特殊な天才的脳の構造により基点即盲点として回転軸を音楽そのものに盛り込まない事にかろうじて成功した(歌としての完結)。が同時に矛盾する現在という通風孔と運動の二重性を失った(風通しの犠牲)。時-空性の渦の発生と脱中心化即再中心化の二重構造を実現するを以て形式を逸脱する(重複する身体;音楽的奇矯性の纏い)とは贅沢な矛盾である――。

 

が、……そうしたシューマンの全体像についてはまた何れ別の記事にて述べるとして、いまは至純な Album fur die Jugent の世界について、とりあえず綴っていこう。

上術の2003年当時の記事を書いた頃、私はシューマンのピアノ曲以外の他のジャンルを殆ど知らなかった。したがって、この op68 自身のなかでのテーマと展開の有機性や、カノン・フーガ様式など対位法駆使にみる、シューマンにとってのバッハ的なものとの連関と、せいぜい彼の他のピアノ作品とのつながり、潜在的-有機的連関性の持ち方としての類似点、などまでしか視野がとどかなかった。
がシューマンの他ジャンル作品にも徐々に触れる機会がふえた今、それらとの連関にも、少し触れたくなった。ピアノ曲というジャンル以外のシューマンの音楽のすばらしさ、またそこからさらに拡がる世界の奥深さに、開眼させてくれる、直接・間接の契機をくださったSNSなどでのみなさんとの出会いに、心から感謝したい。

つい先日(2012/09/02)、ミュージックバードというPCM放送で、このop68全曲が流れてきた。op68 が取り上げられること自身はもちろん、全曲紹介されるというのは、昨今でもおそらくいまだはなはだ機会の少ないことで、画期的だったのではないだろうか。片山杜秀氏の案内、リュバ・エドリーナ(私の2003年度記で言うEdlina)のピアノによって紹介されていた。
この機会を得たこともあり、これを契機に最近気づいたことを今日からすこしずつ綴ってみようと思う。
勿論普段でも、こんにちではフォルテピアノによるシュタイアーの演奏(抜粋)や、リコ・グルダ、そしてシューマンにたいする格別に精緻な愛情を感じ取れる、伊藤恵さんの演奏(これらは全曲収録)などによっても、折に触れてたのしむことのできる昨今となったことは大変ありがたい。
私の手持ちの録音はどれも、このツィクルスの無類の透明度と純粋さに対する驚嘆にも近い敬愛を読みとれる演奏であるが、とりわけ伊藤恵さんの、シューマンへのこの上ないいつくしみを感じとれるデリケートな演奏は、何度となく愛着をもって聞き返している。
またつい最近になって、この記事を書くために見つけたナクソス・ライブラリーのアレッサンドラ・アマーラ Alessandra Ammaraによる、ぬくもりと硬質さの均衡のとれたタッチからペダリングに至るまで繊細な注意を払われた演奏にも、満足している。(No37,38辺りの短調作品では、テンポがゆったりしすぎて、ここでのシューマンの、本質的に何か異様に張りつめるような空気――と私には、過去に自分で弾いてみても、最近みつけた幾つかの演奏に接したのちにも、どうしても思える――が出ていないのが悔やまれるが…。人生という時空の色々な相と意味とに於いて、楔を打ち込むことの必要性を、シューマンは子供たちにも示す必要があったのだろう、子供のためと銘打たれた同曲集にもかかわらず、彼があえて提示することを憚らなかった(?)、ことに短調作品の、スタッカーシモを指定する打鍵において放出される暗い激鋭と、一見これに相反するかのようにも聞こえる長調作品群の高い緊張感をおびた繊細さ、それらの物語る或る種の病勢を、ためらわず精鋭にまた高潔に、‘あえて’ 表出(がもちろんそれはホロヴィッツとはまた別の仕方で)させていた点などに於いて、如何せん、ワイセンベルクの収録がCDによって再現されることを、やはり切に望みたい…。)

 

ところで、この曲集を聞いてつくづく感じさせられるのは、シューマンがこれを “子供たちのために” 書きためた、というのはなるほどもっともな動機であったろうけれども、音楽ノート――結晶化した素描のアルバムとして、誰よりもかれ自身のために役立ったのではないかということである。知人に確かめていただいたところ、これは以外にも夏の間のほぼ一ヶ月たらずで書き上げられた作品である。
(1848年 8月30日 or 31日から 9月26日 で成立。私的な初演は 1948年 9月24日 の 午前 に 第12,13,23,33,35 ほかが演奏される。クラーラのピアノ。 久保文貴氏調べ)

にもかかわらず、手持ちのCDや、ネット上で数人の演奏を聞いてみても、四季を通じたテーマにわたり書かれたものたちの、すべてがまるで<冬の作品>であるかにきこえる、という印象は、不思議といまも変わらない…。
それはたぶん、何かこれ以上はみ出してはいけないものが、(繰り返すが)‘ 異様に高い緊張感 ’ をまとって、裂開手前、<かろうじて凝結>しているように聞こえるからである。
それらはなるほどみな、小曲としてこぢんまりとした形でまとめられてはいるが、室内楽に、歌曲に、またオルガン曲にもなり得たり、彼の特技である対位法を駆使したオーケストラ作品や――かれ自身がその後まだその気にさえなれば――オラトリオなど大曲へのデッサンとしても、きわめて有効だったに違いないと、感じずにはいられない…。
と同時にかれ自身がそれ以前に作曲しておいた諸作品の、エッセンスへと凍結させた記憶、いわば夏に生まれた氷のアルバムとして、こうして残しておかれることも、有意義であったのではないかという気がする。
そうして、もっと言ってしまえば、かれ自身を越え、後世の作曲家たちへのそこはかとない影響についても、考えさせられたりする…。

私には、この作品が(シューマンの他作品と同様に、また人によってはメンデルスゾーンなどとも織り合わされて、と、とりあえずは言っておこう)ブラームスはもちろんのこと、フォレやドビュッシー、ラヴェル、作曲家であっただけでなくオルガニストでもあったブルックナーや、チャイコフスキー、グリーク、マーラー、そしてセヴラック、ひいてはプーランクなどに、愛好されていたのではないかと思われてならない。

 

プーランク ピアノのための3つのノヴェレッテ
Poulenc - Trois Novelettes pour piano
http://www.youtube.com/watch?v=JuGpuhGuRlc

 

セヴラック
Severac - Ou l'on entend une veille boite a musique
http://www.youtube.com/watch?v=g1SOg6FRzmo&feature=relmfu

*Severacは同曲集(En vacances)の冒頭にて、RSchへの曲を書いている(シューマンへの祈り : Invocation a Schumann)。が、この事を知らなくても、あの無類の可愛らしさにつつまれた…boite a musiqueに、何某かのエッセンスの結晶化を聞きとるだけで、ピンと来る人は多いに違いない…。

 

ブルックナーに関してはもう、このアルバムに限らずとも、交響曲のジャンルを越え、シューマンのピアノ曲にもただならぬ思慕や関心を示していたであろうと思われる(しかもマーラーほどに屈折していない?、より素直な心と享受の仕方で)。それが誰にでもわかるよう最も端的に表層へ現わされた例としては、シューマン初期ピアノ作品、交響的エチュード Sinfonische Etuden Op13 - Etude 11 (Variation 11) - Andante espressivo に出現するソ♯-レ♯-ド♯-シ-ラ♯-ソ♯が、そのままブルックナーのSym4 WAB 104 Romantic ロマンティック のモティフ(ミ♭-シ♭-ラ♭-ソ-ファ-ミ♭)に、題名のとおり継承されていく――そしてそれはさらに若きマーラーの唯一の室内楽作品 Piano Quartet; A moll (ド-ソ-ファ-ミ-レ-ド)へと…。
とはいえこの背景ひとつをとってみても、その背後にはもっと複雑な事情が交錯しているのであり、シューマン-(ブラームス)-ブルックナー-マーラーの間をつなぐ単線としての問題ではなく、これ以前の作曲家を含むであろう、そうしてより複数の登場人物をまたぐであろう音楽の歴史、ないしその周囲の潜勢的要素が絡んで生じた旋律の交差点として、いくらか錯綜した事情を含んでいるといえようが…。
とまれ、この曲集に関しても、オルガンやコラール、ミサ的要素に通じるものがあまたあり、直接または間接に、ブルックナーの関心を惹いたものがあちこちにあったように思う。

さてまた逆に、シューマン自身の、この作品への作曲動機と結晶化のあり方についてはどうかといえば、バッハやベートーヴェン、そしてぬくもりのある――ただしこの「熱」に関しては、同曲集以降におけるシューマン自身の展開を考えても、白熱から次第に聖化された無熱に至ると言わざるをえない。このことは後述したい――宗教性をたたえる旋律の歌唱性においてはシューベルトと、のみならず、やはりメンデルスゾーンの、SQや宗教音楽など諸作品、そしてむろん、ことに無言歌集の存在なしには(少なくともこういう形では)ありえなかったのだろう。

 

今あらためて、このツィクルスをふり返る時点において、主に気づかされるのは、この中にピアノ協奏曲( Piano Conzerto Op54 )のエッセンス、及び楽園とペリ( Das Paradies und die Peri, Op50 )などへの追憶と残像が、あっさりと過ぎ去っていく時間とはもうひとつ別の意識の層において――つまり過去となることが躊躇われつねに反芻されつづける『現在』の記憶(?!)として――随所に見いだされるということだ。それにはもちろん、クラーラへの思いと、‘ 今は亡き ’ (1847'11月死去)メンデルスゾーンへの邂逅――まるでめまぐるしい四季の変化にみちたこの Op68 ツィクルス(1848作)<全体>が冬に聞こえるのはその性為なのだろうか…――の意味もあろう。その他室内楽の小品などを含めれば、色々と彷彿されいづるものがあろう…。

先ほど、近ごろシュタイアー( Andreas Staier )が、フォルテピアノでこの曲集から主なものを抜粋しバッハにつよく関連する他の重要な作品とともにCD化してくれたことに触れたが、これは大変貴重なことだ…。

であるがゆえになおさらのこと、ひと言だけ漏涙をゆるしてもらえば、短調作品として書き残された No27 カノン形式の歌(Kanonisches Liedchen)――それは冒頭主題1voiceの逆行形(もしくは3小節目)の或る変容として、次作品(No28 Erinnerrung)メンデルスゾーンとの想い出と、もちろん重ね合わされる――を、収録してくれた彼には、もうひとつ、「小さなフーガ」(Op68-No40 Kleine Fuge)を、Robert Schumann Hommage a Bach と銘打つのにおそらくより貴重なエフェクトとなりうるためにも、ぜひ収録してほしかったと思う。
なぜならこれ(No40 Kleine Fuge)は、平均律第2巻17番フーガ(Das wohltemperierte Clavier, 2 teil No17-fuge As-Dur ! BWV 886)の、いかにもシューマネスクな継承だからである。ただバッハのトーンより半音上げて展開している。

(↓譜例) BWV 886 -WTK- vol2 - no17, RSch - op68 - no40 Kleine Fuge


このことは私自身にとって、Rheinische(Sym3 Op97)の冒頭から出現するMotiveが同平均律2巻7番フーガ(Das wohltemperierte Clavier, 2 teil No7-fuge Es Dur BWV876)のシューマネスクな継承でありロマン派ならではの豊穣な変容への契機となりえた――これに至っては、シューマンは移調さえしていない…!――ことと、ほとんど同じくらいおおきな喜びなのだ。
しかもこの「小さなフーガ」(Op68-No40 Kleine Fuge)は、まずその最初の2音の上向跳躍とその暗示的背景に関して言えば、おそらく同BWV876 No7 fugeに拠っているのではないだろうか。(ラ→ミ、ミ→ラ…。そして断続的に――或るもう一つのものとは別の断片として――ド♯ファ♯ミ、のRSch=Bachのmotive。…そして、これらの進行する譜面の背後でにじむように鳴り響きつづけていたのがようやく顕れる、Rheinische-motive終結のレ♯ミ…=左手部。シューマニアーナの幻想的予感としては冒頭からすでにうっすら鳴り始めると言いたいが少なくとも4小節目に入った時点で鳴ってしまうのは明らかだろうと思う)

…こうしたことは、音楽に於いて、しばしば洋の東西、時代や様式を越えてあるように思われる。鳴らされる鳴らされないにかかわらず聞き手の中でつねにすでに鳴りつづける音の存在。たとえばマショー(Guillaume de Machaut)など中世の音楽に生じつづける通底的な音の聴取。あるいはアルヴォ・ペルト(Arvo Part)の「Cantus in memoriam Benjamin Britten」に於いて、もしもああした厳選されたタイミングで鳴らされることがなかったとしても(否一切消されたにしても)聞き手の側でおのずとそれが蘇生し連打されつづけることに、おそらく成功していたにちがいない鐘の音にも、似ている。私にとって、シューマン Op68-No40 KleineFugeというタブローのうえに、BWV876 No7 fugeを代表とする幾つかの平均律のmotiveを入れ子状にしながら、Rheinische-motiveが現働しつつあるとき、すでに同motive終結のレ♯ミがすでににじむように鳴っている、というのは、こうした作用ともある意味よく似た、音楽のなかにしばしば生じる、根源的・必然的な何ものかである…。


シューマンはじっさい、この小さなフーガの覚え書きの2年後、憧れの BWV876-fuge 継承の、念願を果たす…。――と私には感じられてならない、これをシューマンは愛しつづけていたに違いないと――(ただし Rheinische-nr1 にては、motive第2音をoctv下げるという捻技を以て)

もしも、シューマンの中で、Bach平均律2巻7番と17番のFugeが、霊的にちかしい天上的響きとこれらのフェーズに特有の或る典雅なセンスをおびて私の中でのそれと同じように鳴っていたとしたら、重なり合うようなイメージで鳴っていたとしたら!――と心躍るのだが…。

また、ここ Op68-No40 での左手(Voice3,4)のみの動きをみると、平均律第1巻 No4 Fuge BWV849 (7-11小節 Voice1)のにじみが同時にちらつく。( このことは同集 No27 Kanonisches Liedchen にも通じる。ただここ= No40 Kleine Fuga では、No27 Kanon…への投影と較べれば、より陽気にではあるが。)そうしてこの霊玄的旋律(BWV849系)に関して言えばのちに独立・分岐して、Rheinische-「nr4」motive へと至るのだ。ただし Bach-BWV849 Fuge のもともと帯びる幽玄さばかりではなく、Beethoven Sym3 Eroica-nr2 葬送 のあの悲壮さをも、どことなく加味しながら…。(同系の旋律は、シューマン自身の前年=1847作 Pトリオ Op63 開始 にもちらりと予告されているのだが)こうしたほの暗い半音階上下進行の仕様の霊玄さは Faure(Op48-2 Offertorium )などに受け継がれていくと、もちろんいえるのだろう。

(↓譜例)RSch op68-40 Kleine Fuge → BWV876 → RSch op97 Rheinische

(↓譜例)BWV849,BWV876, RSch op68 no 27 Kanonische → no 40 Kleine Fuge

(↓譜例)BWV849(wtk1_4)-BWV876,886(wtk2_7 & 2_17) - RSch op97 Rheinische 図解

 

ところで再び話は戻り RSch-Op68 No40 Kleine Fuge 自身についてだけれど、この冒頭音(アウフタクト)と、2小節の1,3,4番目の音を抜いてあとのすべてを繋ぎ、(ここまでで ミド♯ファ♯↑シドレ ――注)シューマンと同じ A-dur イ長調 に移行して言っている)3小節の3,4番目の音を抜いた音を繋ぐと(ここで ミ↑ミ↓ラシド…)、No17-fuga BWV 886、あの天上的な旋律線が形成される。

☆☆こんなふうに言葉で綴ると理屈っぽくて、ほとんど恣意的にすら感じられてしまうかもしれないのだがこれはもう、まるでそう打ち明けられているかのようにそこはかとなく感じとれるというより、仕様がない…。――これがシューマンのバッハに対する深い敬愛でなくていったい何だろう?
おそらく…それはこういうことらしい。たとえば平均律第2巻17番フーガ(Das wohltemperierte Clavier, 2 teil No17-fuge As-Dur BWV 886)の最初の三音の“跳躍”は、まさにそのただなかで、その直後の、全音階でまったく飛躍-省略されることなく、踏刻――ともに上昇階段のみが、バッハでは二回・シューマンでは三回にわたり(※その逆は省略される)――されてゆく4つの音の階段を、はからずも想起させる。この2つの面は、別々に存在するのでなく、むしろひとつの事象=表裏一体、である。言葉をかえると、顕現する現在と潜隠する現在との相違である。
バッハが無数の音の連なりから、ひとつの跳躍する現在を、選び取るその瞬間に、その 徴/超過 が代表{的現在}として顕現しつつ、その超過の余韻として呼び込まれる、裏に連なる軌跡を持続的に想起(=上昇階段)させ、かわりに他の連なりは 痕跡/潜{伏する現}在 化し、他へのもしくは未来への実現可能性へと入れ子状に退く(下降階段)が、それはもちろんこれ切り「完く忘却」されてしまうわけではない…。

http://www.youtube.com/watch?v=f2D_QVJ0RK4 BWV 886 prel/fuge

 

シューマンも同じ体験をしてはいないだろうか。

(↓譜例)BWV876,886,RSch op68-no40 図解:KleineFuga-no40&BACH-WTK

↑(シューマンの中で、平均律クラヴィアが入れ子状に鳴っている気がしてならない潜在意識を自分なりに探ってみる…※音価は無効にしてください)

(※どうもシューマンに於いてはバッハの対位法の、非同期に 順次起動していく 或る 1voice を抽出し、別の作品と交錯させたり、シューマン自身の中で別の対位法を組むきっかけとなることが、まま有るような気がしてならない。このことは、バッハとその対位法に限らず、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンらの諸旋律への態度にも通じるかも知れない。)

 

ましてや、基となる(?)バッハ自身が、No17 fuge BWV 886と、No7 fuge BWV876とを、多くの可能態のうちの1として、頭の中でひとつの連関性のもとに入れ子状に組合わせて考えていたとすればなおさらである…(もっというと、BWV 888、まさしく「A-dur」のprel&fuge ――モチーフの冒頭というよりはその後半――も、入れ子となってシューマンの Kleine Fuge ――その冒頭よりはそれ以後の展開(?)――に間接的影響を与えていないだろうか?? またひょっとすると後述する No13 Mai,lieber Mai のmotive背景――これも冒頭よりはそれ以後――にも、より濃く?)

さらに No17 fuge BWV 886 - No7 fuge BWV876 関係についていえば、ベートーヴェン後期Pソナタ Op110(1楽章、とくに4楽章)が重なる。ここでのベートーヴェンの場合、加えてNo23 fuge BWV 892も同居しているように聞こえるが。

(No40 Kleine Fugeにおける)シューマンの耳にはどうだったろうか。そこはかとなく重なっても聞こえるのだが…。

 

またこの No17-fuga BWV 886 は、同番prelともちろん連関性がある。またその連関は、シューマンの Op68 No40 Kleine Fuge にも投影している。
そしてこの投影は、前出のカノン-No27 Kanonisches Liedchen にも当て嵌まる…!
Op68-No40とNo27とは、すこし離れて置かれているが、色々な意味に於いて切り離せないように思われる。

Kleine Fuge ――じっさいシューマン自身におけるこの小品も、天使の喜悦にみちたお喋りの零れ落ち転戯してできた氷菓子のようである。
この無辜の喜悦とおなじ基いは、逆に短調でもっとゆったりとした哀しい上下向線をたどる「カノン形式の歌」(No27 Kanonisches Liedchen)の、陽化された転回形として、先術した「愛らしい五月よ」(No13 Mai,lieber Mai)にも、より地に足をつけた形で、降りている。

この Mai,lieber Mai(No13)と、Kleine Fuge(No40)との直接的な関係でいえば、音の順序の組み替えで成り立つともいえるだろう――ちなみにこれ(No13)と同じ調性にあたる平均律2巻は No9-fuge BWV878 であり、この調べ=Eも、より地上に近づく感はあるがやはり天上的で清冽な至福さをかもす…。実際バッハの同調性 BWV878 Fuge の、飛躍することなくひたすら主音〜属音の周縁を纏巡るmotiveとその展開(=ミ/ファ♯/ラ/ソ♯/ファ♯/ミ→ミ/ファ♯/ラ/ソ♯/ファ♯/ファ)は、No13 Mai,lieber Mai の冒頭左手部にその全く同じ要素の投影として生かされている(=ミ/ソ♯/ラ/ソ♯/ファ/ファ♯ これは2小節目-に登場する左手部の開始であるが、ちなみに Kleine Fuge の左手部3小節目=開始の次和音と同型)。

 

(↓譜例) BWV878 Bach WTK vol2-no9=Edur - RSch op68-no13=Edur / op68-no40

このアルバムの冒頭「音楽の座右銘」にて、シューマンは子どもらに、平均律を日々の糧とするように、と書いている。

 

この(No13 Mai,lieber Mai)の基をなしている歌うようなメロディライン自身は、短調にすれば「お芝居の想い出」(No25 Nachlange aus dem Theater) に容易に変転する。No16,28,26 などは直接性はないがおそらく作曲家の機転しだいではそれに準じるのだろう。こと2小節目に関しては楽しき農夫 (No10 Frohlicher Landmann)の、4小節目-左手の組み替えともとれる。etcetc..

 

ところでNo40 Kleine Fuge 小さいフーガに話を戻すと、この天使のような小品にこっそり顔を出すのは、バッハ風の天上的典雅さだけではなく、同時にきわめてシューマネスクな戯れでもあるところが、私にはいっそう味わい深い…。

というのも、先ほどとは別の選択、つまり2小節目に注目し、その頭の音だけ取り去り、組みかえを1音ずつ後ろにずらし、適宜所どころの音譜を半音移し3小節目の頭音までたどると、ほぼOp54(Piano Conzerto)第2楽章が顔を出す。

 

http://ml.naxos.jp/work/108008
SCHUMANN, R: Piano Concerto Op54 (ギーゼキング/ベーム/シュターツカペレドレスデン) Nr2 冒頭 00:00-00:06 / (04:19-04:23)

*ド♯レミファ♯・シド♯レミ…(Op68-No40)→ ラシ♭ドレ・ソラシ♭ド (Op54)/(あるいはド♯レミファ・シ♭シド♯レ)(Op54)。

 

(↓譜例) RSch op54-nr2 - op68-no40

ラシ♭ドレ・ソラシ♭ド――その後のラソファに当たる部分は、音価の等しい処には見あたらないが、同3小節後半の上昇をかりに下降させておこう…。と次が現れる。ファーレシソラソ・ソ↑ーミド…(上記naxos Op54 Nr 2 - 00:07-00:12)。これは、同フーガ(No40 Kleine Fuge)にではない、No30(Non Title:無題)に――これも直接的なものではないが、そのたゆたうような心情、着地点をさがしたいが降りるに降りられぬ、といった感じのぼんやりとした旋律の名残が――見いだされる。
ピアノコンチェルト Op54 に現れる左手分散和音が、右手の旋律線自身に登場してはいるが、なんとなく暗示的である…。
がここは、聞きようによってはOp54-2楽章から3楽章へ移るさいのド♯-シラ・ド♯-シラ、あの淡くただようクララへの連呼ともとれる?…。

 

補記 Op68では、全体に、タイトルのないものやあいまいなものに於て、つまり No34(Thema)と 3つの題名のない作品(No21,26,30)――どれも B-A-C-H の演習であるが――に、共通している、浮遊感 / 着地点のないもどかしさ は、ピアコン第2楽章の雰囲気にみな、なにがしか通じていくものがある。

こうした表情は、No22 Rundgesang にも見いだされる。この作品の5〜6小節の3度飛びに下降するとおもえばoctv跳ねあがってはまた繰り返す音の描線に、それを彷彿させられる。
(もっともこの作品 Rundgesangは、Op54 Piano Conterto 主題ドシラの連呼の部分の投影にも感じられるし、2小節目の後半の3音を手前に持ってきて移調すると、Op54第1楽章冒頭ドシラ-ラシド-ミレド-、もう一度同じものを踏めば(ド)シ-シ♭ラ-ラ↑というのに近づくとか、同じ3小節目後半から5小節目頭までの線をミレド-ドシシ♭-ラ-ラ↑、とoctv上に飛ぶ音まで垣間見るような気もする。

また先の最後5小節頭の前打音付octv上昇音を手前に持ってきて――ミファミレ♯-ミ-のtrは無視し――3小節目後半の先と同じ旋律に戻ればソ-ファ-ミレ-ドシ(ラ)…など、柔らかい上下向からoctv跳ねあがる情熱のベクトルはほのかに聞こえてくるなど。まぁなににせよ、彷彿とさせるものまで語ろうとすれば、枚挙にいとまはなくなるだろうが…。?)
さて、その次からの暗い情熱のうごめく短調部分――Op54のことを言っている――は、この Op68 ツィクルスの短調に於てはとくに<どれ>とも見あたらない気がするが、それでいてどれにも見出せるような気もする。それは同集のほとんどすべての短調作品の背後とか、基底にうごめく、何か共通の地下に通ずるエッセンスであろう。またメンデルスゾーンの無言歌集の諸曲から来る何ものかでもあろう。
シューマンに於ける短調は、長-短調の境域を彷徨するようなものでなければ逆に、しばしばアタッカーやスタッカーシモなど穿鋭な打鍵――シューマンの短調におけるアタッカーには、無意識の通風坑からふいに劈くように、自我へと上昇してくる超絶的な覚(リアライズ)がある。もしくはそこからさらに覚の覚(リアライズから一歩さがった、状況に対する意味付与。とはいえ、これが本来のバッハ的-東洋無的な悟境の位相ではけしてなく、また悟性の澄明さという強靱な健常性の担保されたベートーヴェン的運動体のままでもなく、“ 狭歪された世界 ” という病勢をまとった位相で行われる、というのがまさしくシューマンらしさなのであるが)を異常な鋭さで呼び醒まそうとする、常軌を逸した穿坑音が、或いはまた、アラベスクやクライスレリアーナに代表されるような、或る種執拗な吃撥音(ずれ)がある。これらはしばしば之を以てまさに狂気を表意するとともにその狂気から自己自身を救出してもいるように思われる――の似つかわしい、暗い情熱の迸るものとなり、そうした曲調は、子供のためのこのツィクルスのあちこちにも散りばめられている(No23 騎手 No36 イタリア水夫の歌など)。が、どちらかと言えばその暗さにもまだ救いのある領域のものも有り、あえてその代表格をこの “ 子供のため ” と銘打たれた曲集の中に求めれば、やはり救済と明るみを見い出しえたかわりに、代償としての苦悩をも呈する、といった意味に於て、Op54に近い雰囲気の萌芽ををたたえた、No19小さなロマンスや ということになるだろうか。

 

話が飛んでしまった…。Op54の「2楽章」を思い起こす、というところに話を戻すと――ファーレシソラソ・ソ↑ーミド…――これらは No30 または No22 をなんとなく想起すると言った――、そのあとのドド♯レシ♭-ラドシ♭ソ(-レ・ミ・ファ)(上記ナクソス Op54 Nr2- 00:12-00:17)、ここには殆どぴったりのがあるのだ…。前半だけのはNo26( Non Title 無題 )の冒頭に浮遊している――ここではドド♯レラ↓ドシ♭ラソ(ファ-ミレ…)になっているが――。後半ラドシ♭ソ-レ・ミ・ファ、だけの部分、はもうひとつある。また小さなフーガ Kleine Fuge に戻ると、5小節目(最後の音譜は除く)の暗示性はそれである。とりあえずこれが帰着点となる。


(↓譜例) RSch op_68-no40 &-no26 - op54-nr2

ばらばらの場所に、残り火のようにして、Op54の記憶の断片が無造作に置かれている。無辜の結晶のような子供のためのアルバムは、やはりクララの灯火なしにはありえない。

小さなフーガ(Op68 No40)については、そのより小刻みにした変容を Op56-第1曲 にも聞く。(もちろん、Op68 No1 Melodie ――この想像力の直接的エサンスは、メンデルスゾーン無言歌集の第2曲目を想起させられる――と No3 Humming、No5 Stuckchen といった三つ子のような3作が、やはり基になっているのではないだろうか。)と同時にこれらの遠い背景には平均律第1巻-prel-1、また2巻のprel-1を、殆ど不可分に考えないわけにはいかない。また森の情景Op82-5曲目なども予告させられる。

 

カノン形式の歌(No27 Kanonisches Liedehen)について、少し触れておきたい。もう一度言うが A.Staier がこの曲をバッハへのオマージュ(Schumann Hommage a Bach)を顕すひとつとして扱ってくれていることに感謝したい。
短調のこの曲のMotiveは、半音階進行を取り去り音階を移せばそのまま終曲(No43 Silverterlied:おおみそか)へと化身する――もちろん、No43 おおみそか のほうが対位法の駆使の仕方もまるで荘厳ミサ曲のなかのひとつのように重厚であり、かつ全音階支配のため、厳粛に聖化される。ア・カペラで唱われてもオルガンで奏でられても美しいはずだ――。
が No27 カノン形式…のほうは半音階が混入しているぶん、たゆたうように哀しげであり、やり場のないシニフィアンとしての情熱の余韻すら、感じさせる。
対位法駆使による完成度の高い作品にしてはやり切れない/わり切れない(aliquant)この歌は、よく耳を澄ますとやはりOp54の仄ぐらい情熱のうごめきに似る。一部、小節ごと組みかえると――つまり1(2)〜7小節までのうち、3小節目と4小節目の順を入れかえる――Op54のアンニュイな部分

(↓譜例 ソ♯ラシ-レドシラ-ラ・ソ♯, http://ml.naxos.jp/work/108008 op54-nr1 11:16-)の音の軌道とそのリフレインに、ほぼ乗るといってよい。(Op16 Kreisleriana にも少し似るが…。)

 

またこの部分とは別に、13〜14小節の逆転によれば、坑穿的な打鍵の似つかわしいラ-ソファ-ミレ-ドシ-ラ http://ml.naxos.jp/work/108008(op54-nr1 11:55-)も浮上する…。

 

 →次記事へつづく

 

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バッハ、フーガの技法3

2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2004年12月22日

昨日想ったことを、一度全部清算して考えてみる。

Cp3を考える時――Cp3と未完Fとの関係を考える時――、やはり同時にCp4・Cp5・Cp6(a)・Cp7(a)迄を、とりあえずまとめて、常に考慮に入れて考えなければならない(全く切り離し個別に、というのはやはり無理である)。 その上での、未完Fへと関連づけられる特徴・配置・収斂への役割、etc..の意味を記していかなければならない。 が同時にそれは、「Cp3はこうであり、Cp5はこうである」と言った時、Cp3の中には、Cp5で語った要素(未完F-主題1・2・3・4の何れかの要素)が「ない」ということを表すのでもなく、またCp5ならCp5の或る要素(ACD)に就て重点的に語ったからといって他の要素(B)がない、という訳でもない。 それどころか全ては<予め不可分>であるということ、不可分であるどころか、ふとした付点処理やフーガの拡大縮小、中間音の介在・不介在の手加減ひとつで、或る要素が他の要素に変わりうる(役割を代替しうる)という事を、寧ろCp3・Cp4・Cp5・Cp6(a)・Cp7(a)を「通して」聞けば聞くほど確信する…。

バッハはそのことを実験(実践)しているか、未完Fに向かって着々と備えていたのである。 未完F(Cp14)の4つの各主題は、どれも同じ要素から成り立っている、と言わざるを得ない... それは勿論、最も単純に言えばA1なのであるが(Cp1冒頭・主題)、 A1(∀1)-A3(∀3)、その変奏――(拡大縮小、中間音(含:半音階)介入、付点処理、etc...) この一連の作業を含んだおおきなテーマが、4つ全ての主題の親になっている。

このように、もともと不可分であることを前提にした上で、

・Cp3は主に(未完Fの4主題のうち)まず*第3主題(B-A-C-H)の生起を重点に置いた。 (*…Cp4がA1の真の転回形であるのに比し、Cp3では調的転回形のため) むろん昨日までに述べた諸要素をも曲中に含む

・Cp4では第2主題の基礎的な運動性の確立を重点に置いた。(A1もしくは未完F-の来たるべきA1=第4主題の変形した運動との絡みで。だが半音階性も潜在的に顧慮され、曲想のわりに未完F-第3主題を引きずっている)

・Cp5では、Cp4に比し、中間音介在によってより未完F-第1主題の顕在化が示されつつ、そのA3・3∀系列に於て未完F-第2主題の運動性の展開がなされる。(同時にこれによる運動性の付随的条件により、未完F-第3主題の動きもある。勿論、A3∀3が基調になっちているので、A1は目に見えぬ形でたえず基底にある)

・Cp6では、未だCp5冒頭では後出であった未完F第1主題(前半=∀3)が冒頭に出現する。これは全く未完F(Cp14)の冒頭の類型と重なる。 ここで成立している関係は、 (前に出る∀3の系列と、後出するA3系列の関係) 未完F-第1主題及び来たるべき第4主題(A1)と、第2主題との連携のようにも聞こえるし、第3主題(B-A-C-H)の前-半音階調段階の音型との連携のようにも聞こえる。 A3・∀3は、未完F-第1主題の基礎でもあるが、同時に第3主題の全音階調的基礎のようにも聞こえる。そしてここから生じる(orこれが触発する)運動はつねに第2主題の運動を呼ぶ。

 

2004年12月23日

・Cp7でも、Cp5冒頭では後出であった未完F第1主題(前半=∀3)が冒頭に出現するパターンはCp6に同じである。 したがって、未完F(Cp14)の冒頭の類型と重なる。 が、ここで成立している関係は、低音部で始めに登場するA3の系列(未完F第1主題前哨)に比し、Cp6とは逆に、追って第1・2声部に登場する∀3の系列のほうが、*拡大形になっている点である。

*実際には前出するA3系列のほうが、通常(これまでのCp1から展開されていた主題A1→A3・∀3の形状)の縮小形になっている、というべきであるが、もしこのCp7が、未完Fの4声のうちの来たるべき第4(A1)・第2・第1主題の遁走仕様への有力なデッサンであると見る場合には、第1に対する第4主題(A1の再来)の歩幅を、実践したとも思われたため、このような言い方をした。

バッハは、未完Fにて、来たるべき第4主題の歩幅をどう取るつもりであったろうか。 Cp6ではこの両者(A3と∀3)の関係は逆である。第1声部(∀3系列)のほうが縮小されている。 だが、Cp7に於てもう一つ顕著に思われるのは、第1声部と第2声部による、同じ∀3系列の1小節違いの遁走である。

Cp6に於て、曲想全体が、未完F-第1主題及び来たるべき第4主題(A1)と、第2主題との連携のようにも聞こえるし、第3主題(B-A-C-H)の前-半音階調段階の音型との連携、その実践のように聞こえたこと、また A3・∀3が、未完F-第1主題の基礎でもあるが、同時に第3主題の全音階調的基礎のようにも聞こえ、そしてここから生じる(orこれが触発する)運動はつねに第2主題の運動を呼ぶ、と言うように聞こえたのに較べると、 Cp7の曲想の主題は、全声部を通じ、ともかくもあの邁進する第2主題のより濃厚で劇的な展開の仕様の追求といった感を受ける。

未完F第1主題の前哨(但・縮小形)であるはずの出だしも、その旋律自身の展開から、第2主題の運動仕様を滾々と生み出し、また1・2声部の遁走のやりとりも、来たるべき第4主題の準備という以上にむしろ、中高音部での第2主題の展開、という風に思われ、大まかに言って1・2声部と3・4声部での互いの第2主題の交換的展開をエネルギッシュに織りなしているという風である。 無論、その音の渦中、不思議にその最も根底を、巨大なるA1――来たるべき第4主題といってもいい――が流れている、という風に聞こえる。

 

2004年12月24日

Cp8では、Cp3〜7というA1→∀3・A3の系列が織りなす展開の一群のうち、Cp4〜7までの間遠のいていた、未完F第3主題(B-A-C-H)へと、再び重点が置き直された場所である。 Cp3では主に(未完Fの4主題のうち)まず*第3主題(B-A-C-H)の生起が重点に置かれた。 (A1の「調的」転回形というCp3の半音階的特性を利用しつつ)が、それはA1を基点としていた。 その後のCp4〜7を経たここCp8に於ては、同じB-A-C-Hを彷彿させる手段とはいっても、3つの主題を交錯させる形で、その中に典型的な∀3の付点解除・休止符付着形(∀4とする*)を以て、 *∀4…ラレミγファソラγ (γ…4分休符) これとの絡み合わせによる半音階的世界を展開させる。

∀4(第94小節〜)との交錯的運動によって半音階系の世界を現出させる要素となる残りの2主題(これら2者の方が∀4より遁走としては前出する)とは、冒頭(第1)主題と第2主題(第39小節〜)である。 これら2つの主題は、一体何ものであるか。 これらの生起する由来は何処にあるか...

Cp8第1主題 レ_ドファシ♭シラレソ〜_ファソラソラ_レ(〜…トリル)

これは思うにA3をB-A-C-H系進行に融合させた変奏であろう。 だから、始めのレ_を先に行かせると、あとの旋律は∀4(つまり∀3の付点解除・休止符付着形)と同時進行させた場合、まったくぴったり来る。実際バッハはそうしている。(183小節等)

Cp8第2主題 もうひとつの主題は、先日私が「落下の主題」と指摘したものであるが、これはあの推進力に充ちた未完F-第2主題を、同じく基礎題材にしてはいるだろうが、手法としては寧ろ逆手にとった形であろう。よって、不断に前進し上昇していく気分よりは、ここに第3主題B-A-C-H的系譜を融合させることで、逆に下降的・落下的な雰囲気を醸す変奏となっている。 Cp3で未完F-第2主題を変奏する場合、つまり∀1が変奏の基礎になっていた際は、B-A-C-H系譜の旋律をまぶされて多分にマタイ的になっても、かろうじて前進していた(死の丘へと沈黙の中を進んで行った)が、こちらCp8では、同じ未完F-第2主題!を変奏するのに、このCp8自身の第1主題を基礎にしているという風に思われ、ゴルゴタから紙片が落下するかのようである。いずれにしてもCp8では、∀4との交錯的進行をはたすどちらの主題も、B-A-C-Hの洗礼を受けているようにみえる。

 

2004年12月25日

Cp9 ふたたび未完F-第2主題の推進力と疾駆――とはいえ未完Fの第二主題は往々にして疾駆というより疾風のようにも聞こえるのだが――の彷彿する楽章だが、Cp6・7、ことにCp7を通ってきた耳には、A1*の展開術として理に適った実に自然な変奏スタイルである。それでいて未完Fに向けて着々たる第2主題の疾駆への準備が整っていく。

*…展開術でもあり併走術でもある(35〜44小節/45〜53小節etc.)  尚、一小節半ずらす、などすれば未完F-第1主題(A3+∀3系譜)とも併走しうる。 これを以てA1(=来たるべき未完F-第4主題)の変奏スタイルであるばかりでなく、未完F-第1主題の変奏スタイル、ということが、できるだろうか。 冒頭主題は、これまでの冒頭主題の5度飛びをしのぐ、ちょうど1octvの飛躍だが、1octvの飛躍(上昇乃至下降)は、前述のCp7**でもよく聞くと登場し、もう無意識にも耳慣れていた。

**…Cp7に於る1octvの飛躍箇所 -上昇- 32小節(第1声部)・33小節(第三声部)・38(第4声部)・51小節(第2声部) -下降- 44小節(第4声部)・47(第4声部/途中付点介在、旋律切断)・51小節(第4声部/途中付点介在、旋律切断) 等々 2004年12月26〜27日 日付が前後するが、今度Cp10・11を記すに当たって、その前提に必要なより具体的な掘り下げを、Cp8(前々日:24日分)とCp9(前日:25日分)とに追記しておかなくてはならない。

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Cp8(04.12.24)

>これら2つの主題は、一体何ものであるか。これらの生起する由来は何処にあるか...

Cp8第1主題 レ_ドファシ♭シラレソ*〜_ファソラソラ_レ (*〜…トリル)  これは思うにA3をB-A-C-H系進行に融合させた変奏であろう。

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追記1 これについて。 まずこの主題を、Bと呼ぶ。 この主題(B)の転回形§が、Cp11の第2主題となって登場する。 (同時に§は、転回前=Bと、Cp10-第1主題=E、との融合としても位置づけられると思われる)

ところで 何故、「A3をB-A-C-H系進行に融合させた」と云えるかに就て、詳述する。 ここではB-A-C-Hの、組み替えが行われている→C-H-B-A 冒頭第1〜5小節 (レ_)ド-(ファ)シ-♭シ-ラ(レ)(ソ)

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>だから、始めのレ_を先に行かせると、あとの旋律は∀4(※つまり∀3の付点解除・休止符付着形)と同時進行させた場合、まったくぴったり来る。実際バッハはそうしている。(183小節等)

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これに就て。 追記1-2 ※∀3の付点解除・休止符付着形=∀4 γラ_レ_ミ_ γファ_ソ_ラ_ γ♭シ_ラ_ソγ_ γ[ファミ]ファ_ソ_...

これ、∀4の転回形が、Cp11-第1主題として今後登場する→A4

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Cp8第2主題

>もうひとつの主題は、先日私が「落下の主題」 と指摘したものであるが、これはあの推進力に充ちた未完F-第2主題を、同じく基礎題材にしてはいるだろうが、手法としては寧ろ逆手にとった形であろう。よって、不断に前進し上昇していく気分よりは、ここに第3主題B-A-C-H的系譜を融合させることで、逆に下降的・落下的な雰囲気を醸す変奏となっている

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これに就て。 追記2 この主題を、Cと呼ぶ。 この主題(C)の転回形が、Cp11-第3主題として登場する→⊃(徐ろに上昇する系譜) ところで、ここ(Cp8-第2主題:落下の主題=C)で何故第3主題B-A-C-H的系譜が融合している、と考えるかに就て。 ここでも、B-A-C-Hの組み替えが行われている。H-C-A-B 準備段階――この主題と初登場:第39〜41小節 H-C-A-Bへの3度下での組み替え (♭シ_⌒♭シ #ソラララ) #ファソソソミファファファ(#ドレ) ここでは落下主題(第2声部)そのものはまだ準備段階だが、同時に進行する第1声部が、先程述べたBの主題のがわが、上、冒頭第1〜5小節と同旋律にて組み替えC-H-B-Aを行っている。

(レ_)ド-(ファ)シ-♭シ-ラ(レ)(ソ) 本丸――第43〜45小節 H-C-A-Bへの組み替え (♭ミ_⌒♭ミ #ドレレレ)シドドドラ♭シシシ(ラソ#ファソ) この他、第180〜183小節などにもこのような組み替えが見られる(第1・2声部) C-H-B-A..CB..B..A-A (#ドレ)ドシ ♭シ(ラ)ド[シ(ラ)]シシ(#ソ-ラ-ラ

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Cp9 ↓レ↑#レ_- #ドシラソファミレ #ドレミファレミ #ファソ #ファソラ ♭シソラ ♭シ ♭シラ

この第1主題について。 これをDとすると、Dの1度下の反行形が次Cp10の第1主題(=E)後半に登場する。 それと同時に、ここでも重要なのは、 やはりここCp9-第1主題=Dでも、B-A-C-Hの組み替えが行われている。 冒頭第1〜5小節 (#C)-H-A…ABA..BBA (↓レ↑レ#_-)#ドシラ(ソファミレ #ドレミファレミ #ファソ #ファソ)ラ ♭シ(ソ)ラ ♭シ ♭シラ

※音楽の性質上、A〜C(ABHC)間で着脱を行うと、必然的に上のようにE〜G間にも同時に着脱の連鎖反応が生じる。

★尚、ここで連鎖的に着脱反応を起こしているE〜G間は、実際未完Fに於てもBACH主題(第193小節〜)との5度差同旋律がすぐに登場している(一小節半遅れ:195小節〜) 第8〜10小節 H-A-A-H-C (↓ラ↑ラ_ #ソ #ファミレド)シラ (#ソ)ラシドラシド ↓↓(HからBへ) 第14〜15小節 B-A-C-B-C-B-A (ドファミレミレド)♭シラ(レ)ド ♭シド ♭シラ (#ソ)

このようにA〜C(A→B→H→C)の音域にて頻繁に半音の着脱(B⇔H)をしておくことでBACHへの布石になっていると思われる。

 

2004年12月28日

Cp10 これは所謂4声部二重フーガ、10度の二重対位と言われる所である。 第1主題も第2主題もそれぞれ二重フーガをなし、――第1主題の響きは(10度という事は3度でもあり)殆どホモフォニックに近い――、第2主題のフーガはその1つの声部に第1主題を取り込む。 第1主題(冒頭より出)、のパターンをEと呼ぶことにする。 ところで何故何処からこの旋律が現出してきたのか。おそらくこれもやはり例のA3・∀3を基いにした変形であろうが、より近い存在としては、Cp8に登場した主題∀4(とそこから容易に想像されるA4。A4は未登場であるが翌Cp11にじき現れる)を、同じCp8のB主題(A3・∀3のB-A-C-H変容)と融合させたものであろうと思われる。 同じく、じき現れるCp11、Bの転回系§は、B以上にこのEを彷彿させる…。

このE――ホモフォニックな二重フーガ――をなすうちのうちの一方(第1小節〜)、 γ#ドレ↓ラ γファミ↑ラ レミファソラ ♭シド⌒ド#シラソファ... (γ…休止符) このフレーズパターンが、何度と無くポジションを高低し繰り返されながら、10度(3度)の二重フーガを織りなすに至る。 上のこのフレーズが、まず冒頭(第1〜4小節:第2声部)に出現し、 追ってまもなく第3〜7小節第3声部に出現 γ♭ファソ↓レ γ♭シラ↑レ ソラ ♭シドレ ♭ミファ⌒ファ♭ミレド♭シ... するが、ここまでのフレーズでは、(この中からA-B-H-Cの要素だけを抽出してみると) (Hよりも)Bが支配的である。 A...A...ABC⌒CBA... ....BA...BC...CBA が追ってまもなくその転回形が出現、(第7〜10小節:第4声部)、また被さるように同-転回形出現(第8〜11小節:第1声部)。 γファミ↑ラ γ#ドレ↓ラ ミレドシラソ#ファ⌒#ファソラシド... γドシ↑ミ γ#ソラ↓ミ ラソファミレドシ⌒シ #ドレミファ... こちらではHが支配的になる。 ...A...ACHA...AHC CH...A.A...CH⌒H...

また第13小節から、変則Eが現れる。 (何故変則かというと、パターン通りなら本来、γ#ファソ↓レ γ♭シラ↑レ、となるところを、バッハが遁走の都合上 γ#ソラミ γ♭シラレ、としているからである) γ#ソラ↓ミ γ♭シラ↑レ ソラシ #ドレ ♭ミファ⌒ファ ♭ミレド ♭シ.. ここではワンフレーズの中での支配がB→H,H→Bへと交代させられている。 ...BA...AH...CB (Eに当てはまらない、同時進行の他声部でも同様にH→B→H→Bとめまぐるしい交代がある。)

次に23〜29小節には、3つの声部に渡り∀3(乃至変則∀3)が出現するが、ここでもB⇔Hの盛んな交代がなされる。(※併行する他声部でも同様) A...ABA...(※...A...HA.AHC...AB..A.A) AHA... AHC... AHC

 

2004年12月29日

Cp10のつづき その後、第37〜38小節でA1’のような音型が現れ(第1声部)、その後、Cp11以降に続くカノン群をすでに予感させる様な旋律が続き(39〜42)、 それから再びE主題の登場、B支配がはじまる(第44〜47小節:第3声部) γ#ファソ ↓レ γ♭シラ ↑レ ソラ♭シドレ♭ミファ⌒ファ♭ミレド♭シ... ...BA...ABC......CB (他声部も同様、B支配) 次の変則E到来では、逆にH支配(第52〜55小節:第2声部) γ#*レファ ↓ド γラソ ↑ド ファソラシドレミ⌒ミレドシラ...

*…変則でなければレはミになるところ ...CA.C..AHC.....CHA (他声部も同様、H支配) その後Cp9第1主題=Dの、E(後半)的変形を思わせるような旋律が各声部で相次いで遁走し、のちにEが再来する時、(第75小節:第4声部) 最初に出てきたE(第1主題)-その1の3度下のポジションで展開される=E-その2。 ここではもう第2主題=∀3との併走が同時に行われる。(E-その2と∀3との、10度二重対位)

この後の、E(第1主題)は、必ずその1とその2、両者によるホモフォニックな形をとって、3回登場(85,103,115小節〜、うち85,103は変則)するが、第2主題との10度(3度・6度)の二重対位という組み合わせで行われる。(E-その1&E-その2と、∀3との、10度二重対位) そして∀3の二股は、 ラ_レ_ミファ_ソラ_ ♭シ_ラ_ソファ⌒ファミファソ.. ド_ファ_ソラ_♭シド_ レ_ド_♭シラ⌒ラソラ♭シ.. 10度二重対位の完璧な形は75〜と115〜小節のものである (前・後者ともにE-その2と2つの∀3の対位。)

このうちまず、75〜小節のEは、B支配。 γラ ♭シファ γレドファ ♭シドレミファソラ⌒ラソファミレ... AB...C...BC.....A⌒A... この際同時に併走する第2主題としての∀3の2旋律も、 ド_ファ_ソラ_♭シド_ レ_ド_♭シラ⌒ラソラ♭シド C...ABC.CBA.ABC ラ_レ_ミファ_ソラ_ シ_ラ_ソファ⌒ファミファソラ A.....ABA....A という具合に同じくB支配である。

次の85小節〜も、一部変則的なので補ってEと∀3の二重フーガとして考え、同じくB支配。 103小節〜も同様、115小節〜も同様。 ということで、75小節以降完璧な10度二重対位が現れてからはB支配が最後まで続く。

 

2004年12月30日

Cp11 3つの主題(∀4の転回形=A4・Bの転回形=§・Cの転回形=⊃)による4声部三重フーガ。 まずCp11-第1主題、A4に関しては、前に∀3の転回形としてA3が登場していたことと、前もってのA4の登場によって、推察が容易であり、すでに聞きなれたかの感がある。A3の付点を除去し、始めに休止符を添えたパターンである。 ところで、 先日Cp10での主題Eに際して、

>E 何故何処からこの旋律が現出してきたのか …例のA3・∀3を基いにした変形であろうが、より近い存在としては、Cp8-主題∀4(と >そこから容易に想像されるA4+A4 >(A4は翌Cp11にじき現れる)を、同じCp8-B主題(A3・∀3のB-A-C-H変容)と融合させたものであろう... 同じく、じき現れるCp11、Bの転回系§はB以上にこのEを彷彿させる。

と記したが、 ∀3やA3、乃至∀3+A3がこれまでの殆どの主題・変形主題の基いとなっていたのと同様、∀4・A4、また、∀4+A4が、Cp10やCp11、ひいては未完F(第1主題や第3主題B-A-C-H)に直接間接、役割を果たしているか或る種の融合を与えているであろう事は間違いない。

B(§)の確立に∀3+A3が、ここからB-A-C-H変容への基いを与えているのと同じように、Cp10-Eの確立には、∀4+A4が、∀4+A4からB-A-C-H変容へと至る基いを与えている。 殊にEをなす音律の中でも、冒頭のものの3度下(=6度上)の再現、 γラ♭シ↓ファ γレド↑ファ ♭シドレミファソラ⌒ラソファミレ.. のほうは、そのポジションのままCp11-§の成立に結びつく。 これはたんに、§がB(Cp8-B)の転回形であるばかりでなく、§がBとEとの融合点でもあることを示しているといえる。と同時に§が、EをさらにB-A-C-H変容(乃至は半音階変容)させたものでもあることが理解できる。

またCp11-第2主題に関しては、 Cp8に於るBでは レ_ド ↑ファシ ♭シラ ↑レソ... ..C..HBA...  という仕方でB-A-C-Hの組み替えがなされていた。(∀3+A3をB-A-C-H変容させていた。) Cp11に於る§では、 ラ_♭シ↓ファド #ドレ↓ラミ... ..AB...C..A. ということになり、Hはない。 (がこのB→§への転回は、Hが転回軸になっていることになる。) またもし、これの上下向を無くし、 ラ_♭シ シド #ドレ #レミ... とすると ABHC....となり、何れにしてもA〜Cのポジションをめぐってのフレーズ作りであることがわかる。

また第3主題――所謂、落下の主題(C)の転回形:徐行的上昇の主題――であるが、これは非常に未完FのB-A-C-H(第3主題)へ向けて示唆的である。 この主題(⊃)の開始は第89小節からであるが、 ♭ミ⌒(♭ミ)レファファファ #ミソソソ #ファ... その直後、90小節には ♭シ⌒(♭シ)ラドドドシレレレ #ド... B⌒(B)-A-C{CC}-H... が登場する。(→未完F-第3主題への布石) このパターンは、以前Cp9の冒頭に於て 第1〜5小節 (#C)-H-A…ABA..BBA (↓レ↑レ#_-)#ドシラ(ソファミレ #ドレミファレミ #ファソ #ファソ)ラ ♭シ(ソ)ラ ♭シ ♭シラ というように音楽的性質上、A〜C(ABHC)間で着脱を行うと、必然的に上のようにE〜G間にも同時に着脱の連鎖反応が生じたり、 実際ここで連鎖的に着脱反応を起こしているE〜G間は、この未完Fに於てもBACH主題(第193小節〜)との5度差同旋律がすぐに登場している(一小節半遅れ:195小節〜) と指摘したのとまったく同様であり、BACHへの予告である。

 

2005年01月07日

フーガの技法、再開。 これから触れる群は所謂カノングループと、鏡状フーガグループであるが、これらに関し、自分自身のフーガの技法分析の中で触れるべきかどうか、《全く》逡巡する面が無かったとは云い切れない。 というのは、これらの2グループが、――たんなる知的パロディであるとか、トヴェイが仄めかしたとされるように「カノンの芸術」とでも言うべき別のシリーズの為の予備的スケッチであった、といった意見などもあり、未だ確定的な結論が下せていない、とされる音楽解釈史的現状の中、あえて(私自身の判断としては)、――これらが「フーガの技法」の構成要素であることは100%明らかであると考うにしても、同時にまたこれらが、一種「挿入」章的・機知-遊戯的ニュアンスを帯びた部分であることも、おそらく確かであろうことから、ここまで既述してきたコントラプンクトゥスらとの比較に於て、これらの群の存在がこれまでと全き「同質性」を有つ、と肯首できない側面がある、ということも、やはり出来るからである。

だが、例えば優れた文学の大作にも挿入章があり、また幾らかは演戯的部分という面も存在する、存在して一向に構わぬどころか、寧ろその作品全体とその存在感に、或る種のふくらみをさえ与えるように、徹頭徹尾「構造的」音楽、といえる物の中に、そのようなニュアンスの部分が含まれることに対しても、またそうした部分に自分自身、逐一触れていく事に関しても、躊躇することはあるまいというありきたりの結論から、これらのせっかくの美しく、汲み尽くしがたい部分にも、触れておくことにした。

ただここにはまた、これまでの部分とは違い、曲順や、確定稿・未確定稿の是非論などの問題も同時に介在してくることから、これらの部分に触れることが、正直厄介な側面も無きにしもあらずである。 が私としては、カノングループ・鏡状フーガグループに於ては、楽譜の確定・未確定稿の問題に関してまではともかく、曲順に関しては、構造的-多元的思考の音楽として当然の由来から、バッハ自身でさえ決めかねていた形跡のあるこの問題に関し(こうした或意味での同時性・多角性・多発性もまた、弁証法的思考と発展法則の表証なのである)、かならずしもはっきりとひとつだけに順序立てて配置される必要性もないだろうと思えるし、その時々の演奏の趣向や作品に対するスタンス・解釈上の相対的視角(=アプローチ)の問題etc...から、ある程度自在な配置可能性、解釈の余地を保っておいて結構なのではないかとの感を抱いている。

この感覚はこの作品に触れて間もない頃、まだ自分なりに深入りする以前から抱いていた、漠然とした印象からも変わることはない。 幸い、これを書くにあたり、私の最も日常よく耳にしている2つのディスク――ミュンヒンガー指揮SCO演奏(LondonSP-1965録音版)とヴァルヒャのオルガン演奏(Archiv-1956録音版)では、ともにグレーザーの解釈・曲順指定に依っていることもあり、この曲順*に従って、これから触れていくことになると思う。

*曲順を、一応敢えて結論づけしなければならぬとしたら、グレーザーの考えがおそらく最も妥当なのであろう。 私としては、例えば中高声部⇔低音声部へと行われる、作品間の自然な橋渡しといった側面や、Cp11で現れた主題(§)がカノングループのA8の背後に通底して聞こえてならない点などから、他にも可能性がありそうな気もする。 (ただ主題の関連性が、必ずしも直ちに曲順に(「=として」)、反映されないことも考えられるであろう事は当然であって、「フーガの技法」とはまさに、そういう複雑で多面的事情を抱えた音楽であることが、つねに考慮されなければならない。) これは触れられれば後に触れる。

何れにせよ、これらカノンと鏡状フーガグループの存在が、フーガの技法の立派な構成要素であることは間違いないだろう。 それは、何か別の作品かシリーズの為の草稿であるにしてはあまりにも共通した、否、全く以て通底している主題の展開(Aや∀のスタイル)と、そこから派生変奏されて来たこれまでのB(§)やC(⊃)のスタイルとの連関性からしても確かなことである。 ただ、これらカノンとフーガグループを「ここ」に挿入する場合、このグループの終わりからいよいよ未完Fへと収斂する際にもう一つ何か、前哨となる練られたステップが必要だったような気がする、というのも、――それはつまり、これらの前、殊にCp11で、未完Fへと移行するために形成された主題たち、せっかくの迫真的な流れであったあの「§」や「⊃」が、ひしひしと物語っていた壮絶なものを、これらの群挿入章の後、再び決定的に活かす為の、そしてこれまでの蓄積をより未完Fへと直接的に繋げる為の、何らかの要素であると思われる――もうひとつ正直な感覚である。 がだからといってその保留の感覚が、これらのグループの音楽たちを、「フーガの技法」に属する確定的要素として存在出来なくさせる要因となることなどありえない。

 

2005年01月09日

この前の記事で、カノン・フーガグループに関しては、それ以前の群に比し曲順にこだわる必要性もないのではないか、と記し、実際曲想からも音楽的,思考-発想の性質からも、確かにそう云えるとも思うのだが、ただ実際にバッハがひとつの曲集として実際この「フーガの技法」を――もし未完Fをも仕上げる所まで彼が生きられた場合に、であるが――彼自身の手で最終的に「仕上げる」際には、曲順に関してやはり一応は、こだわらざるを得なくなっただろうなと推測する時、Cp11の終了から、未完Fのはざまにこの群を置くのに、実際どのようにしたら最も自然に――と私は考える――組み立てることが出来るであろうか。 これはなかなか興味深いことである。 自然に聞こえる、ということは、諸作品自身と作品(諸々の主題)間の関係に於る様々な要素と側面を統合し、よりよい選択をする、ということであろうが、その結果ごく「耳触りのよい」仕上がり、になるという事は、じつはその背後の様々な要因を巧く処理しているということでもあるに違いない。 あの曲の次にこの曲が現れることの自然さ、それは、たとえ曲群が区切れまた次群に移行する際にであっても、かなりの程度要求されはしないだろうか。 そう考える時、私としては――少なくとも今の段階ではどうしても――レ(=D,主音)が主役として長く響く(殊に低音部にて印象的)Cp11のA4・§・⊃の絡みが織りなすあの劇的な収斂作用の後、すぐさま主題∀5の「ラ(A音)」が来る、というのは――つまりBWV15番(グレーザーによれば12番目=Canon alla Ottavia)が来る、というのは、――何か毎度ディスクが切り替わる度、若干の違和感を感じてしまう。

では、何が来ればしっくりするというのか... 私にとっては、やはり主題A8の登場がすんなりと受け容れやすい。 つまりBWV14番(グレーザーで15番目;Canon per Augmentation in contrario motu)である…。 何故ならA8は、Cp11の§や⊃とのそのまま遁走も可能な程に同じ動機が通底し、同時にみづからが主題の出だしから半音階進行色が濃厚(開始ではミの♭脱着が頻繁)で、この後延々と続く旋律が連動的にA-B-H-C間の動き、殊にシの♭脱着(B⇔Hの行き来)が頻繁となる性質である=未完F-第3主題の前哨。 実際高音部のVn,低音部のCv、これら掛け合う諸旋律、ともになめらかにBとHを行き交う。 と同時にこのA8自身、A4と∀4――Cp11にはA4主題そのものばかりでなく、転回形、∀4も登場する(第76〜80小節)ために、このBWV14のスタイル自身*にも似つかわしい。

*第5小節目〜のvc(チェロパート,A8の転回形兼時価2倍)の動きは、∀4(∀3の、といってもよいが)のvariationである。 ということで、非常によく繋がるのである。 だがもしそれゆえに、カノングループの先頭がBWV14(主題A8)より始まる、となるとすると、この曲の終了仕方の後、耳にしっくりくるものはA6(BWV17;グレーザーで13番目)であり、次には∀7(BWV16;グレーザーで14番目,フルート&ヴィオラ)が待ち遠しい。 ここでこれらの楽器のすべらかな音色による頻繁な半音階着脱+音の跳躍で過ごす3つや6つに連なる8分と16分の連音符を聞き慣れた後、∀5(グレーザーがカノンの最初=12番目とするBWV15)の「16分音符×3」の連音符進行を聞く、ということになる訳**である。そして鏡状フーガのBWV13;グレーザーで16番目のA9・∀9に移行、ということになる。 これも、案外しっくりくるパターンではないだろうか。

**…ただ本当はこのフルートのカデンツァで、またA8に戻りたくなる感覚もあるが...グレーザーやフスマンは、事実そうしている。 否ほんとうは∀5を飛ばして∀7の最後(フルートのカデンツァ)からそのまま鏡状フーガA9・∀9へと移行したい程である。 つまりそうすると∀5の存在位置がなくなってしまうということになる... Cp11の後、A8を耳に出来ず、∀5(開始はラ=A音)をいきなり耳にする違和感と、∀7のカデンツァ後、(∀8へ至れず)∀5へと渡る違和感と、どちらがより大きいであろうか。

 

2005年01月10日

>Cp11の後、A8を耳に出来ず、∀5(開始はラ=A音) をいきなり耳にする違和感と、∀7のカデンツァ後、(∀8へ至れず)∀5へと渡る違和感とどちらがより大きいであろうか。

であるならばいっその事、 A8(BWV14;グレーザー15番目)→A6(BWV17;グ13番目)→の後、 ∀7(BWV16;グ14番目)へ行かずに先に∀5(BWV15;グレーザーがカノンの最初=12番目とするもの)に行ってしまい、(カノングループの)最後に∀7へ移行する方が自然である。(曲の終わり方、次曲の始まり方を考えても。) そしてどのみち∀7→A8へと移行する自然な道が(私の考う方法を採る場合)すでに閉ざされてしまっているなら、∀5→∀7という順を巡り、∀7のなめらかなシンコペーションからそのまま鏡状Fグループの最初(∀9・A9)へと移行してしまうほうがはるかに自然で耳障りもよい。

とまれ、ここでこの問題を云々していても仕方がない。 次回からグレーザーの曲順にしたがい、BWV15(∀5)から分析に入る。

 

2005年01月11日

もうひとつ、グレーザーとフスマンとでは意見の異なった場所、つまりカノングループと鏡状フーガグループの順序の問題に就てだけ触れたい。 フスマンは、鏡状Fグループを、カノングループより先に置くのである。 中の曲順に関しては、二人の意見は変わらない。 これをどう考えたらよいか。 つまり未完Fの到来を直前に、カノンGの最後BWV14(G15;A8)を置くか――フスマン、鏡状Fの最後BWV12(a4;A1・∀1)を置くかということである。

どちらの最終曲も、ともに未完Fの前哨線的意味合いをおそらく他曲以上に多分に含む曲だといえる。 結論を云ってしまえば、私の感覚だとおそらくグレーザーのするように、カノングループを先に置き、鏡状FのBWV12で締めくくる――未完Fに渡される――、とするほうが(BWVの終わり方を噛みしめて思う時...)より強力であり荘厳だろうと思われる。 勿論、二人がともにカノングループの終わりに配置しているA8主題のBWV14も、カノン群の中で最も主題A系列の展開とともに未完F-第3主題の準備も着々な半音階脱着性の最も頻繁なスタイル――私自身にとっても、未完Fに近いCp11(§・⊃)の要素にグループの中で最も重なると思われる――となっており、カノンの中で最も意味深長で神妙な音楽であることはたしかであるが、鏡状Fの最終曲(曲順に関して私も全く同意したい)と比した場合、やはり後者を採りたい。 厳粛なコラール風の、この鏡状F-BWV12(A1・∀1)には、暗に全ての未完F主題への前兆――(控えめではあるが)B⇔Hの交換はもとより、第1,第2、そして勿論来たるべき第4(A1)主題――が、存るのである。

 

2005年01月12日

カノングループ BVW15;グレーザー12番;主題∀5を巡って Canon alla Ottavia それにしてもバッハが「フーガの技法」を貫く調性を、このポジシオン(ニ短調)に据えたこと自体、如何にBとHの交換作用を曲想の前提に置いていたかを物語る。 この点に於てみても、未完F第3主題を発想の前提にバッハがこのフーガを書いたということ、その意図を、真っ向から否定するレオンハルト等の人々の意見が、私には理解し難い。ニ短調とは、そもそもBとHの交換を音楽上余儀なくされ、或いは円滑自在に進めるための調性である。 このグループの存在は今以て謎であるとされる、カノン群。たしかに精神によってというばかりでなく多分に機知に富んだ発想からも、創作されている感はある。しかしそう云われるこのグループの筆頭とされる当BWV15でさえ、多分にB⇔Hをめぐる半音着脱、BからHへ、HからBへの精妙な交換作用が意図され、未完Fのうち最も象徴的なかの第3主題への準備がそこはかとなく施されている。

B-Hを巡る半音階の着脱は、以下の通りである。 第1声部の動きを主眼にして記すと、 まず第1〜8小節前半まではB支配であるが、8小節のH音から9小節まではH支配へ交換される。10小節〜11小節にはBへ戻る。 15〜18前半ではまたHが浮上したと思うと、18後半〜24にはすぐさまBが主役に躍り出る。25から再び30の最後尾にBが出現するまでは、またHが主役となっている。30最後尾のB音から39小節のHまでは、交代劇である。39からはしばらくの間明るいH支配が続く(〜62前半迄。) 62小節の中間にBが出現してからは、73までその支配となる。74の後尾にHが出現するが、まだBを主体とする旋律が80迄つづく。 Finale、とされるパッセージ(81〜最後迄)では、ほぼ2〜4小節毎に交代劇となり、最後はBの支配で終わる。 最終盤、殊に101〜102小節。この終わり間近の旋律はBしか登場しないが、その半音階メサージュは多分に未完F――第1主題(レラソファソラレ)の変容とともに――第3主題の半音階進行特有の精妙さを、意識させる。 ♭シ ♭ミレ ♯ドレミラ

またこの曲には、これ以外の未完Fに於る他の主題の予兆も、感じられる。 主題∀5は、ジーグ風リズムではあるが∀1が基いとなっている。(若しくは∀3と言ってもよいだろう。) 他曲と同様当然つねにA1が基底に流れているといえるが、この曲独自にはその遁走を通しての変奏スタイル、例えば第5〜6小節の第1声部のパッセージなどは(このスタイルは、全く同旋律を4小節遅れで追う第2声部のそれを含め、何度か繰り返される。9〜10小節,変形パターンとして20〜22,29〜31小節等々) 或る種未完F第1主題の変形ともとれる。 (※視点を変えると、当パッセージ・未完F第1主題ともに、∀1(∀3,+A1・A3)の変奏であると云えるだろう。) そしてまた、この曲の全体、すなわちカノン形式を用いたここでのA1主題の展開仕様そのものが、未完F第2主題を目指している(リズムこそは9/16だが、音列そのものに見い出せる意図として。)

 

2005年01月13日

カノンBWV17 グレーザー13番 Canon alla Duodecima in Contrapuncto alla Quinta

未完F第3主題というのは、特有の雰囲気を持っている。 通常主題、とされる最初の3〜4小節部分のみの中にも集約的に充分示される通り、B支配(古旋律のような、レミファソラ ♭シドレ)のtoneから、近代の短調旋律であるH支配(レミファソラシ ♯ドレ)へとまさに上昇しようとする現場のような主題である。その部分ばかりでなしに、未完Fの中で繰られる主題の流れ、あの<全容>を考えても、旋律の動きはたえずHへの上昇と加えて更なる上昇(ホ短調への転調示唆)と逡巡、暗い逆戻り、また繰り返される上昇志向と後退、というように非常に悶々とした、かつ激烈な仕様である。 B-H運動に関わっているのは、何も第3主題のみではない。冒頭から出現する第1主題も、第2主題も、そもそも未完F全体で鳴らされる旋律の全てが、ニ短調という場、この位相にしてこそ可能な妙を駆使しながら、それぞれに壮絶なtoneでこの精巧なB-H劇を物語っていくといっても過言でない。だから第3主題が登場する迄には、その<精妙なる可変性>への凄絶なる準備が、すでに十二分に整っている、といった風である。

さてカノンであるが、動きの細密な6連音符には始まる、二重対位法によるこの12度カノンは、例えば未完Fの全体的な印象としての精神性などと較べれば、やはりバッハらしく暗く知的であるが、凄絶さというよりは寧ろ見透かすような機知に富んでおり、透徹して視界が明るい。 だがここにて8小節差で織られていく双つの見事な旋律には、巧妙なBからH、HからBへと繰り返される問答の糸が、やはり貫通している。 未完Fより暗鬱とした感がないのは、短調〜別の短調への転調の合間をつなぐ、長調(めいたもの)の介在時間が長いからということもあろう。

これは未完F(殊に第3主題に典型的)にもある現象だが、音楽的には古調めいたニ短調(レミファソラ ♭シドレ)から近代的なニ短調(レミファソラシ #ドレ)に移調するには、その前提または間に長調(めいたtone)を介在させなければならない。 未完F第3主題では、――頭の中で、その旋律に添う和音の移行を思い描けば分かり易いが――あのB-A-C-H… ♭シ-ラ-ド-(natural)シ-#ド-レ-#ド-シ-#ド-#レ-ミ-シ-ミ-レ-ド#ド-レ...:第193〜201小節)という一連の短調旋律を分析すると、 まずB支配の古調めいたニ短調旋律(♭シ-ラ-ド;この時([ハ長調前提]→ヘ長調の和音が添う)⇒次にH支配の近代的短調旋律(シ-#ド-レ;ト長調→ニ短調添)⇒#ドシ #ド (イ長調添)⇒#レ_ミシミレ(ホ長調添)⇒ド(イ短調添)_⇒#ド(イ長調添)⇒レ(ニ短調添)、この後紆余曲折して束の間ハ長調に安んじ、すぐにまた同旋律を繰り返す、というふうに、暗にめまぐるしい長調乃至短調に添われた転調を内包している。

もっと単純化して言えば、(前提:ハ長調)-へ長調-ト長調-ニ短調-イ長調-ホ長調-イ短調-イ長調-ニ短調...(ハ長調)、という具合である。 これと似た兆候が、――もっと長調の占める息は長いが――このカノンBWV17にも見られるのである。 最も頻繁な転調(めいたもの)を示すのは第25〜34小節辺りで、ハ長調-(イ短調)-ニ短調-(イ長調)-ハ長調-古調ニ短調-(イ短調)-近代ニ短調、という形である。これは未完Fを殊に彷彿させる。 これ以外にも、B⇔H間の交代が、様々な転調を喚起している。B→Hの交代がニ短調からイ短調への転調のきっかけを与えたり(5小節)、H自身がイ短調からイ長調への移行を内包したり(18小節)、HからBの交代がイ長調からヘ長調への移行を呼び覚ましたり(19小節)再び今度はBからHへの交代でヘ長調からハ長調へと転調(23〜24小節)している(この後イ短調へ)。

このカノンの主題は基本主題A1を装飾し変形した形になっているが、Cp10-E主題などとの併走も可能な主題のように思える。また直接の併走は出来ないが、未完F第2主題(途中までは併走可能である)を生み出すか、変容させつつ生み出す可能性を抱いていると思われる。未完F第2主題をそれぞれに想起させる要素があるのは、他のカノン群の曲たちもおそらく同様である。

 

2005年01月14日

カノンBWV16 グレーザー14番 Canon alla Decima in Contorapuncto alla Terza

基本主題の転回形∀1のシンコペーションである主題∀7。 細かく複雑な書き方をすることも出来るだろうが困難なので、この曲の特徴をごく単純化した表現で記すと、ニ短調という調性の曲とはいえ、内実としては主にへ長調系(へ長調志向,若しくは内在・前提の)古-ニ短調とハ長調系(ハ長調志向,若しくは内在・前提の)近代-ニ短調)と、また時にはイ長調系(イ長調志向,内在の)近代-ニ短調の交代劇、ということになる。主に、である。

もう少し細かく言えば、ホ長調やハ短調、ニ短調(ニ長調?)、イ短調、変ロ長調、変二長調などのニュアンスも含まれる部分があると云えるかも知れない。が大ざっぱに言って全体的色調として明る目のこのカノンは、そのニ短調という位相の中で実はへ長調・ハ長調、時にはイ長調とも言うべきtoneを伏在させつつその志向性を巧妙に交代し、展開していく楽章だと云える。

それは勿論のことながら、めくるめくB⇔Hの交代劇が及ぼす作用としてそうなるのであって、その因果関係からBを含む調(ヘ長調)とHを含む調(ハ長調・イ長調)が暗示的に背後にうごめくのである。 中でも興味深いのは、B支配とH支配が同一小節の中に見事に混在している、例えば第20〜21小節などの場所である。 高音部(ソプラノ)はその少し前からずっとB支配のtoneを保ちつづけているが(=ヘ長調志向的二短調)、低音部(バス)はこの時――20小節後半〜――H支配に変わり(=イ長調志向的ニ短調)、得も言われぬ巧妙な遁走を成立させている。この小節はBとHの支配両義性を帯びることにより古調と近代調の二重性を帯びている。31〜32小節など同様。

尚、第40小節から、ソプラノとバスの役割は交換され、冒頭からここまで10度のカノンを保っていたものが、以後は二重対位法により7度カノン(octv-C)へと転じている。 当カノンも他と同様、全容としてそうであろうが、殊に7小節後尾〜8小節のバスの動き、11小節後尾〜12小節のソプラノの動き(これらの転回形が15〜16,19〜20にあるが)、28〜32小節ソプラノの運動線などは、(octv飛びで幾らか極端化したうごきであるが)未完F第2主題の一種の前哨であると思われる。 勿論全体としてはひとつの旋律乃至小節内でのBとHの共存乃至両義性を確立することに主眼があり、未完F第3主題の存在を前提にしていると思われる。

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バッハ、フーガの技法2

2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2004年03月19日

一ヶ月振りになってしまったが、次回からCp1からの楽曲分析に入りたい。

その前に一度バッハの他の主要作品と比した時の「フーガの技法という作品」に就て、この時点で形成された感慨を記しておきたい。 一体ここで表現されているものとは何なのだろうか。 先ほど自分の部屋を離れ、或る用事で兄の部屋を訪れた時、フーガの技法と「類似した音列」が偶然耳に入ってきた。 たしかに同じ類型に属されるであろう音型である。ドアノブに手を掛けたまま耳を澄ますと、それは聞き慣れたはずの平均律第1巻8番fugaであった。 平均律第1巻それ自体、2巻と較べれは「フーガの技法」の世界とはやや離れたロマンチシズムの有る音楽性のものが多いかも知れないが、4,8,12,24番というのはかなり実存性が濃厚な作品であり、その精神世界も諦観や虚無に通じるシビアさも伺える。 がやはり、8番にはまだ或るロマンチシズムともいえる境地が残っているであろう。あそこには、所謂「祈り」がある。

フーガの技法には、「祈り」はないのだろうか。 厳密な意味に於る祈りは、全くないとは云えないのだろうが、両者にはやはり、宗教性の意味、その位相が異なるという印象を受ける。 元来平均律に於てさえ、その「祈り」とは所謂キリスト教的な意味の祈りというよりは、その境域を脱皮してしまった<実存>の祈り――‘他の存在者’を介在させない、じかに<己自身の魂>の祈り――がある。がそれは言い換えれば余計な要素(介在的観念)を取り除いた、純一に・高度に普遍的な意味に於る「宗教的」次元としての祈りであるとも云える。 だがフーガの技法に見出されるのは、――祈りがある、と言うにしても――もうすでに「祈り」に含意されるであろうロマンチシズム(向き合いつつ包摂される存在者≒神、というものを前提にした主観や観念)の片鱗すら殆ど皆無であって、実存者の思弁と思惟が殆ど剥き出しになっている、という印象を強く受ける。

バッハの作品に限らず、或る音型乃至或る音型の連鎖というのは、そのままその作品および作者の「精神」を現わしている、といえる。そういうことになってしまうのである(音楽表現、というものは、おそらく。)

するとフーガの技法にあっては、そこでバッハが対峙していたものとは神(と言われるもの)でもなくいわゆる宗教「性」でさえなく、敢えて言うなら宗教的もしくは哲学史的に見、また思想的に言っても、本当にぎりぎりの‘宗教性’に属する境位の膜をすら脱皮してしまうかにみえる魂の位相に於ける(祈り)=括弧付きの祈り、であるということが出来るのかも知れない。じつにシビアな実存者としての己が露わとなった世界である。

 

2004年03月20日

>本当にぎりぎりの‘宗教性’に属する境位の膜をすら脱皮してしまうかに みえる魂の位相

とは何か...

所謂「祈り」をなくした次元の実存にも残りうる最後の宗教性、というものがあるとしたら、それは何か。

全てを説明され尽くしたあとに残る一文、 では何故‘このように’在る(有る)のか、という応えのない問いかけであろう。それとともに、とにかく‘このように’在るものにただ即するのみ、という実存の軌跡であろう。 それは言い換えればまた、バッハ自身が達成しえたもの、それ自身のもつ神秘である。 何故かは知らぬが ‘このように在る’ ものに、即し・是を形象化(成就)し得たその特異なる営為、その人為の神秘である。

 

2004年03月25日

平均律第1巻8番Fugueと The Art of Fugueとが、

>同じ類型に属されるであろう音型 であると思われるにも拘わらず 8番にはまだ或るロマンチシズム ・祈りともいえる境地が残っているであろう。のに、フーガの技法には、(殆ど)「祈り」は ない

のだとすると、それは何故か。

>両者はやはり、その持つ宗教性の意味、その位相が異なるという印象を受ける

ということに、何故なるのだろうか。

是に就て、先日まだ省みていなかった。 ところで「フーガの技法」の殊にどの部分が、平均律(1巻)8番と同類型に聞こえる音列と感じられたのか... それはおそらく両者の主題(基)そのものの組成にあるだろう 改めて思い直してみたところ、 最も端的にはこのようなことが思い当たる

・平均律8番…(変ホ短調)ミ♭-シ♭--ド♭シ♭ラ♭ソ♭ラ♭シ♭-ミ♭-ラ♭--ソ♭ファ

・フーガの技法…(ニ短調)レ-ラ-ファ-レ-ド-レミファ-ソファミ [or ・フーガの技法-終曲第1主題…(二短調) レ-ラ--ソファ---ソ---ラ---レ--]

このうち、♭が6つの平均律8番のほうを仮に半音下げて同じ「二短調」にして考えると、こうなる。

・平均律8番…(変ホ短調)レ-ラ--シ♭ラソファソラ-レ-ソ--ファミ ・フーガの技法…(ニ短調)レ-ラ-ファ-レ-ド#-レミファ-ソファミ

[or ・フーガの技法-終曲第1主題…(二短調) レ-ラ--ソファ---ソ---ラ---レ--]

こう見るとやはり同じ親から出現する変奏曲同士のような関係であることはわかる。 ではそのフレーズ処理の主な違いは何か。 一言で言って、双方ともに巧みな対位法に基づいた楽曲ではあるが、前者はメロディク、すなわちメロディ性がより前面に出た音列によりロマンティックなアップダウンが目立つ。そしてその醸し出されるメロディの息の長さが優先される分、対位法の展開が先へ先へと持ち越される形になっている。 だが後者フーガの技法では、メロディクに旋律を生かすことよりも、対位法の駆使が何より優先されている。きわめて厳しい音の持続性と和声の緊張感の高さが際だつ処理がなされていく。したがって、前者ではまだ名残のみられる第2声部の出だしのもつ付随性(主題=第1声部に対する従属性・伴奏性)が、後者に於てはより(主題=第一声部に対し)対等・等価に近づく。

これにより、いわゆる「雰囲気」と呼べるような空気感――主観性の膜――の醸成は削がれ、代わって弾力性・躍動感(こちらは主に冒頭主題)か もしくは、凄絶さ・絶望感(こちらは主に終曲第1主題)が、何れにせよ、現実にじかに即した実存のシビアさのようなものが主題そのものに内在しはじめ、声部同士の関係にも重々しい気分と厳格さが否応なしに具わってくるように思われる。

 

2004年09月14日

再度、再開に際して フーガの技法にかんする研究など、すでに多くの優秀な専門的知識を有たれる方々のなさっていることであろう。 そういう思いが、時折浮上しては、ふとこの探求を私自身にこれ以上続けさせぬよう働きかけてきたかも知れぬ。 だが物事は必ずしもそういうものではないだろう。 これまでの私の筆記を読み流していると、やはりこのよな文句が多々登場する。

「…の主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは…に出てくる基本主題の変形の転回形…といえる形の応用である。それは、元はといえば△△主題の転回形…からおそらく生じているだろう...」

「何故、この二つは呼応するのか。 また何故、××の主題は、《出現しうる》のだろうか」

「このように、別の主題のエサンスの代表同士も、勿論基底が同じな為、互いに緊密に繋がっているのではある。 (これらが半音階性脱着がそのまま主題化し…主題の《巧みな伏線》になることは非常に示唆的である。) バッハは未完フーガに於る対位法駆使の中で、この種の半音階性の脱着を、《水面の波のように可変的に繰り返し》ながら、いよいよ主題そのもののkey音を用いて第1主題→第3主題(=B-A-C-H主題)への移行に寄与させるのである」

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専門的な学科や先生に付いて研究している訳ではないので、私自身まだ参考にする書物といえば2〜3のCDに添付されていた詳しい解説書くらいなものだが、そうしたものを読んでいる際にも、最も立ち止まる点は、 「まずは基本主題と《関係のない》第1主題が展開されゆき、…ついで○○が絡み合うようになる」とか 「この主題は暫く優位を占めているが、《やがてあまり知られていない2つの主題が加わ》って...」といった書法である。 それらの言葉は、まるで『或る主題Cは、AとB両者の対話進行や解決を図るためにバッハによって唐突に挿入された、これまでのものとは“無関係”の主題、』という印象を受ける。

尤もこうした書法は、素人へのフーガの技法の構造解説書としては充分なのかも知れぬ。が、私の場合どうしても立ち止まる。 哲学でもよく、「対立するふたつのものの対話と対決を解決に導くためには、これらと《まったく無関係な第三者の秩序》が必要とされる、そうした者の登場が、稲妻のように解決への道を開く」といった物言いがなされるように思う。

しかし、無関係な第三者的秩序、といわれるものは、そもそも何故登場し得、また本当に無関係、なのであろうか。無関係なものが、(解決のために)突如として!現れる、ということがありうるのだろうか。 物事が進展し某かの解決がはかられる時、そこには底深い次元での緊密な「秩序としてのつながり」が隠されていない、などということがあり得るだろうか…。

私には、ひとの思考・行動が、はたまた自然界のうごめきが、何故「そのように」成立するのか、そこには何が働いているのか、どう作用しているのか、等に就ての執拗な興味がある。 「Cを着眼しろ、そうするとこうなるからZという結論になる」 と言われる時、「何故Cに着眼するのか、何故Cは、登場してくるのか・しうるのか、また登場するべしと“発想”するのか」「(登場すべきは)Dではなくて何故Cなのか」「Cはそもそもどこからどのようにしてやってくるのか」「Cの登場はこのA×B問題の進展・解決と、どこでどう深く繋がるのか、何故それを見抜く(直観する)ことが出来るのか」 端的に言って、物事の必然性に就ての執拗な探求心がある。

それは私自身の思考が飛躍に付いてゆけないからと云えなくもないが、じつは丹念にひもとくと、飛躍の中に目を見張るほどに緊密な摂理と、物事の連関性を裏付けている、その巧みな働き――要素間の磁力的相互作用と、それらの主体の対話・発展をより緊密に成就せしむる磁場そのものの形成もしくは出現、等々――を見出すことが多いからである。

バッハの魅力もそこにある。 殊にフーガの技法ほど、徹底した合理的摂理に裏付けられた自発性の音楽はない。 同時にそれは、徹底的に“自然な自発性”が生んだ秩序をこれほど合理的構造が貫通している作品はない、ということでもある。 作品をつらぬく、このように傑出した濃密な「熟達さ」こそが、たんに神学と音楽、のみならず、科学と音楽、そして科学と神学という一見これ以上ない程相反する、と云われる者同士を結びつける驚愕を生むのだ。

 

2004年09月16日

Cp.1に就て すこし長いブランクがあったが、その間も折に触れてナガラでずっと聞き続けていた。 無意識にも深く入ってきていた所為か、Cp.1――この冒頭第1曲を聞いてすぐ、最終曲(未完フーガ)が彷彿される。聞いていて、そのまま並行するようにありありとあの未完Fが思い浮かぶのである。 そしてまた随所に、これがあの最終章の各声部フレーズの生まれる端緒になっているであろう所のフレーズというのを、既に冒頭フーガのあちこちに、見出す。 あの未完となった最終フーガの4主題のうち、推測される第4主題とされるものは、いかにもこの冒頭、Cp1の第1主題(A)自身であるから、それ以外の各主題に就て順に触れてゆくことにしたい。

まず未完F第2主題(114小節〜)の由来、前哨的片鱗に就てであるが、 この主題の開始、ファソファミレ#ド(レ)、を彷彿させるものが多々ある。わけても直接的なものは、この一連の動きからであろう。(この前哨となっているものは、伏線的効果(=Cp1、第2声部冒頭旋律自身といえる)や転回形めいたものを含め、他にもあるとして)

まずこれである。

Cp1第3声部が登場してから3小節目、つまり11小節目に現れる第2声部、ソ⌒ソファミレド、続いて(目立ちにくいが)14〜15小節目の(ミ)レ♯ドレファミレ♯ド。 (続いて準-前哨線としての)29〜30小節の第3声部の動き、シミ⌒(ミ)ラレ⌒(レ)レ♯ドシ♯ドレミ⌒(ミ)⌒ミレ♯ド、があり)、 これを引き継ぐ最低音部(第4声部)によるファ⌒ファミレドレドシ。 そして32小節の第1声部ド♭シラ♭シラソ♯ファ こうした伏線達に、弾力が付けられ、折々に16分音符での駆け込みも加われば、未完フーガ第2主題を形勢していくことになるのは必然的である。

またCp1の第1主題(主旋律)自身から伏線を見出しうるのは、まさしく57〜58小節、ミ⌒(ミ)ドレミファレソ⌒(ソ)ミラソファミレド...の部分、また67〜69、ラレファミソファミレ⌒(レ)ファミファレミ⌒(ミ)レドシドラソ♯ファソシ♯ド、であるといえる。

次は、Cp1に見出す、未完F第2主題の由来。

 

2004年10月13日

先日Cp1に見出す最終楽章(未完フーガ)での第2主題の予兆(前哨的片鱗)に就て記し、次回は同第3主題に就て記すとしたが、これらを語る際、実は何とも曰く言い難いやっかいな事情があった。 というのも、こうして鑑みるにつくづく、未完フーガの全主題(1・2・3・4)が、このフーガの技法の冒頭主題そのもの=Cp1冒頭自身に既出しており――つまり未完フーガの全構造そのものが元素としてCp1の冒頭に顔を出し――言い換えればCp1の初めの4小節(より正確且つ充全には初めの8小節)が、未完フーガの各主題で「出来ている」とさえ云っていい程の精妙な、イレコ的事情*が、このフーガの技法にはもともとあるからである。

*…私の場合、Cp1第1〜2小節(つまりCp1-第1主題かつ未完フーガの来たるべき第4主題)は、未完フーガ第1主題と同じ親の子。 Cp1第3小節は未完フーガの来たるべき第4主題(=Cp1第1主題)自身の一部であるとともに大いに未完フーガ第3主題(B-A-C-Hの主題)の伏線である――これは更に8小節まで1括りと考えれば7〜8小節目(第2声部の動き)により明確に存在する――と考える。

また未完フーガ第2主題は、Cp1第4小節の後尾が伏線となり、これは更に8小節まで1括りと考えれば6小節目(第2声部の動き)により明確に存在する、そしてその後の運動によってより推進力を得、未完フーガ第2主題の迫力それ自身へと近づく――、と考える。

しかも、未完フーガの各「主題の由来」と成り立ち」とは、同時に「未完フーガそれ自身の構造(運動)」、ひいてはフーガの技法全体を織りなす構造と運動の成り立ちにも重なり合う訳で、こうした点を顧慮した記をしようとなれば、実に表現も説明も狂おしいほどやっかいにならざるを得ないのである。

何れにせよバッハの音楽、殊にフーガの技法は、そうしたえも云われぬ重層性と交錯性を帯びる有機体、生きた音楽というより他ないが、なおかつ思い切って分節化してゆかなければならない... したがって次に書く未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の由来を記す際には、所々で、親でもありつつ、且つ対等な運動をなす4主題のひとつとしても在る第1主題とのイレコ構造や、すでに触れたばかりの同第2主題との緊密なつながりにも触れながら、という形になるかも知れない。

 

2004年12月12日

>こうして鑑みるにつくづく、未完フーガの全主題(1・2・3・4)が、このフーガの技法の冒頭主題そのもの=Cp1冒頭自身に既出しており... 初めの8小節が、未完フーガの各主題で 「出来ている」とさえ云っていい程の精妙 なイレコ的事情*...

と先に記した。

そもそも主題同士の関係がそうなっているのが面白い。 というのも最終曲(未完F)第2主題――勿論冒頭から伏線的に登場しているが、とりわけCp9(,a4,alla Duodecima)によってその個性を明確に浮上させられ、未完F第2主題に直結しているパターンであるが、この旋律系――は、同第4主題(冒頭Cp1曲-第1声部、すなわちThe Art of Fugueとしての初発の旋律、Aに同じ)と、もともとぴったりと同時進行しうる(伴奏風旋律としての)素地を持っている。

また未完F第3主題(B-A-C-H)も、第4主題(=Cp1曲-第1声部=A)と同時進行しうると同時にこの拡大Fugueとして2小節遅れで進行するに相応しい素地も備えている。という風に、もともと共鳴する素地同士の精妙な組合せである。 未完F第1主題のみが、強いて言えば、未完Fでの第2・3・4(=A1)主題との遁走のための導入としての役割を果たしているといえる(A1と第3主題=B-A-C-Hとの両面を有し、のちに各々分立・併走する、含みのある旋律として。)

が、それでいて4声の大Fugueの一声部としての機能も無論果たす、(最後に展開されるであったろう、予想図に叶う)という具合である。

と同時に、第2主題と第3主題同士も、一見大分個性の違いが見られる主題同士だが、実は同じ発現点を有しており、両旋律の源泉は同じであったと考えられもする。

それを示すものとして まず早々に、冒頭曲(Cp.1番)第6〜8小節の第2声部には興味深いものがある。

↑ラー↓ラシドラファー⌒(ファ) シミー⌒(ミ)ファミレミーファ#ーソ

この、↑ラー↓ラシドラファー は、未完F第2主題の伏線であるが、その後の シミー⌒(ミ)ファミレミーファ#ーソ の半音階処理風ラインは、明らかに第2主題(B-A-C-H)の前兆である。もしこの前兆づくりを意識することなく、第2主題的旋律を押し進めていれば、 ↑ラー↓ラシドラファー⌒(ファ) シミレドシラソ#ラソファミレ... (実際この種のラインのまま進行している箇所は他にはあるように記憶する) などとなるはずである。

がバッハに、他ならぬ曲集の「冒頭」で、B-A-C-Hの予告する必要があったと言うことである。

 

2004年12月13日

>未完F第1主題のみが、強いて言えば、未完Fでの第2・3・4(=A1)主題との遁走のための導入としての役割を果たしているといえる(A1と第3主題=B-A-C-Hとの両面を有し、のちに各々分立・併走する、含みのある旋律として。)

と記したが、これでは大きな点を欠いている。

つまり、未完F第1主題とは、

>第4主題=A1(=Cp1冒頭部)と第3主題=B-A-C-Hとの両面を有し ているばかりでなく、 同時にあの重厚で推進力に充ちた第2主題をも「生み出し」「互いを推し進めて」いくものともなっているからである。

もちろん第2主題を誘発し、生み出すと共に添行しやすい相性のよい系譜として<これとの併走遁走(例えば1小節半のズレによる)も、可能である。 第1主題は――当然のことながら――全てとの併走が可能である。 これは他の全ての主題からも云えるが殊に未完Fに於ては第1主題が他の全主題の現出を巧みに促している…。(導入部とされるのは至当)

未完Fの第1主題は、同第2主題をも「生み出し」「互いを推し進めて」いくもの... とはどういうことか。 これは「フーガの技法」冒頭(Cp1)の書法からすでにその片鱗が見られる。

 

2004年12月14日

一昨日記した、Cp1冒頭部(6〜8小節) ラシドラファ⌒(ファ)シミ⌒(ミ)ファミレミ―ファ#―ソ

であるが、 この断続的な、幅のある上昇=ラファ⌒(ファ)シミ⌒(ミ) の進行パターンに注目したい。

これはCp1全体に渡ってあり、重々しい主題を邁進させる力の原理となっている。 最初は静かな上昇パターンとして、Cp1テーマ旋律(=未完F第4主題;A,)や半音階進行風旋律(第3主題予兆)に添行しているが、遁走の中で繰り返すうち次第に推進力を増し、 9〜11小節 ↑レ↓レ↑レ⌒(レ)ド#ーレラド⌒(ド) ラシ♭⌒(シ♭)ミラ 12〜14小節 (ラ)ドーシド⌒(ド)↓レ↑ド⌒(ド) ラシ⌒(シ)ソ#ラ 曲に弾力を与え、加速度的に未完F第2主題にも通じる最初の原理(ソファミレド♭・レドレファミレド、等のパターン:11小節,15小節)を喚起する。

これらの音の飛躍を含む押し上げるような旋律パターンは、高音部での進行と同時に、中〜低音部などへも引き継がれると、 (20〜30小節などが顕著。各声部にて交換的に行われる) 上記の未完F第2主題に繋がる旋律をも加速度的に次々と促していく、という構造が見える。 これは未完Fの構造そのものである。

未完Fは、まさに導入部(第1主題)のレ_ラ_がすべての跳躍的弾力性を象徴しており、この系譜を継いだ各旋律を通し、プレスト第2主題の出現と併行を喚起するとともに一見対比的にたゆたうようなB-A-C-H(第3主題)の出現という展開を惹起させる。(がよく見るとB-A-C-Hの前兆系譜は未完F曲の全般に渡り第1主題の弾力的系譜に添行していたのである、)という恰好である。 こういう訳で結局の所、未完Fの導入部たる第1主題の系譜は、フーガの技法の冒頭(Cp1)から顔を出している、ということになる。

 

2004年12月15日

>未完Fは、まさに導入部(第1主題)の レ_ラ_がすべての跳躍的弾力性を象徴しており、この系譜を継いだ各旋律を通し、プレスト第2主題の出現と併行を喚起する とともに一見対比的にたゆたうような B-A-C-H(第3主題)の出現という展開を惹起させる

としたが、ここで「レ_ラ_」が未完F第4主題(=Cp1第1主題=いわゆるA1)と、この未完F第1主題とに共通なことに再度触れなければならない。

この両者のレ_ラ_の違いは何か。 未完F-4(=Cp1-1=A1) レ_ラ_ファ_レ_ド#_レミファ_-ソファミ 未完F-1 レ_ラ_-ソファ__ソ__ラ__レ 同じ開始でものちのニュアンスの連れ込みに相違があるのにまず注意する。

上はどちらかというと、のちに続くフレーズは半音階的ニュアンスの濃い浮遊的旋律使いを誘発する。これが、A1であると同時にのちに未完F第3主題(B-A-C-H)をも引き出していく傾向。 が下は、実際の楽譜にも見られるように飛躍のある押し上げ的旋律で弾力を鼓舞するニュアンスの旋律使いが続いていくようになる。 その証に、これを受け継いで展開していくフレーズは以下のような群となっている。

未完F 6〜9小節 …レ_ファ⌒(ファ)↓シ↑ミ_↓ラ↑レ↑ラソファ↓レ↑シラ...

12〜15小節 …レ#ドレラ#シ⌒(#シ)↓ソ↑ド⌒(ド)↓ラ↑レド...

13小節(最低音部) …↓レ__-↑レミ 17〜20小節 ファ↓ド↑ファ⌒(ファ)↓レ↑ソ⌒(ソ)↓ミ↑ラソ...

こうしたパターンが諸声部に交代で受け継がれていく。 (この音型を頭に入れると、これよりダイナミズムとしては柔弱だが、その分半音階性への移行可能性をたたえた系譜として、昨日触れたCp1冒頭、以下の小節が浮上する。

9〜11小節 ↑レ↓レ↑レ⌒(レ)ド#ーレラド⌒(ド) ラシ♭⌒(シ♭)ミラ

12〜14小節 (ラ)ドーシド⌒(ド)↓レ↑ド⌒(ド) ラシ⌒(シ)ソ#ラ

これらの冒頭の系譜は、このことからも弾力の系譜――Cp1:A1→((Cp9:D))→未完F第2主題)と浮遊の系譜(Cp1:A1→未完F第3主題B-A-C-H)、両者をたたえている

何れにせよ、未完F-1(Cp14:第1主題)の この弾力が、未完F第1主題それ自身とともに同第2主題のアグレッシブさを触発し、遁走の仕様の中でグイグイと引き出していく傾向。――この未完F-1型は、同第2主題の直接の先駆けとなるCp9-第1主題=D*の跳躍的octv上昇にも、未完F-2(=Cp1-A1)型の側の傾向と共に、絡んでいる。

*…D(↓レ↑レ_-ド#シラソファミレド#レミファ...) この両者の性質が相まって生まれるのが、そもそもフーガの技法冒頭Cp1曲想であり、より弾力的・重厚荘厳な曲想の帰結としては、終曲未完F(Cp14)である。

ところで、他方の浮遊旋律――半音階志向=B-A-C-H型を考えてみると、 B-A-C-Hの音順のままではじぐざぐの蛇行型浮遊に感じられるが、 音順を替えるとこのように並ぶ。

(A-B-H-C) ラ-♭シ-シ-ド

若しくはこれを逆にしたもの(C-H-B-A) ド-シ-♭シ-ラ

この微弱な、考えられる限り最も飛躍のない進行パターンも、この曲集の中にちりばめられている。

これも含めて考えると、B-A-C-Hの予備軍乃至空気は曲集の中にあふれている。これについてはいつかまた触れる。

 

2004年12月16日

こうして見てきた後、Cp1を大まかに振り返ると、絶筆後想定される未完F第4主題でもあるCp1第1主題=A1を、冒頭の主旋律としながら、遁走形式を通じ次第に被せられていく第2声部,第3声部、第4声部の諸添行旋律が、思えばちょうど未完F-第1主題(導入及びエンタテイメントの役割)に直かに通じるものを備えていくよう計られており、その際、これまで分析したような飛躍的な音の押し上げ(時にCp9-Dへも繋がるoctv押上や6度押上を含)を伴う弾力系譜と、半音階な曖昧(浮遊系譜)とを巧みに融合しながら、時にダイナミック、時に微細にたゆたう陰翳を交互にたたえた可変的副旋律として、Cp1(冒頭主題)-A1に付き添いこれを進展させつつ、同時にそれ自身未完F-第2主題と第3主題、両者に相当する両系譜への伏線へと、最終的にみづからを形勢して行っているのがわかる。

Cp1に頻繁に登場する量系譜の融合的旋律とその遁走群は、既出した 6〜9小節 9〜11小節 12〜14,15小節 13小節-最低音部 17〜20小節-第1・第3声部 17〜20小節-第4声部 以外には、以下の如くである。

20〜22小節-第1・第3声部 20〜22小節-第4声部 23小節-第4声部 25小節-第4声部 26〜28小節-諸声部(上下行弾力系) 29〜30小節-第2声部 (29〜31小節-第3・4声部=未完F第2主題へ至る系譜) (31〜34小節-第1・2・3声部=同上) 35〜41小節-諸声部 42〜43小節-諸声部・未完Fの複合体(原基) 44〜47小節-2・3・4声部(上下行弾力系と幾らか柔弱系) 50〜53小節-諸声部(融合的押上) (57〜59小節-第1声部=未完F第2主題へ至る系譜) (59〜62小節-第1声部=未完F第3主題へ至る系譜) 63〜66小節第1・第3声部=推進力の形成(未完F第1主題のモチヴェーション) 67〜最終小節-諸声部・未完Fの複合体(原基) という具合に読める気がする。

いずれにせよ、微弱な、乃至弾力的な旋律の押し上げ――とこれに伴う下降=対位法、転回系としての)は、未完Fの導入(第1主題)のありかたと支配力(第2主題・第3主題の喚起・生起と併走交錯、登場するとされる第4主題との相応、etc――を全て決定づけているように思われる。

 

2004年12月17日

Cp2に就て記す前に、未完の最終楽章を、また何度も聞いてみる。 そして、それぞれに付点が特徴的なCp2,Cp6,Cp7に就て...、それぞれの特徴と質的差異、さらにそれらの構造上の繋がりに就て――当然未完Fを念頭に置きながら――、曲の断片からの閃や想像などを組み立てて、改めて少しずつ形成される思いを馳せていた。

曲集と変奏の始まったばかりである段階のCp2は、仮想の最終構造(つまり未完F)から見た場合、主にA1(Cp1の冒頭主題であるとともに未完Fで予想される第4主題)と、第2主題、第1主題(未完F冒頭出)との掛け合いのための、前哨になっている、と思われる――第3主題(B-A-C-H)は、ここでは未だあまりその片鱗が現れない(皆無ではない)。――

殊に、まずは曲の推進力として重要な、第2主題の生起をより明確化させたステップであるように思われる。(勿論、ステップといっても曲そのものの出来合いとして巧みに自立していることは間違いないが。この曲想は、荘厳さの中に、ある性急さが存り、まるでみづから審判を仰ぎに挑んでいくような様相である)

特徴的な、初めての付点の登場。 つっかけて行くような付点は、どっしりと重厚な曲の全体的な進行の中に或る種の挑戦を見出させ、ぐいぐいと前進するようなアグレッシブな感覚をもたらしている。 アグレッシブ――これは、ちょうど未完Fの中で第2主題がその主な役割を演じているのと同じであるが(但し、未完F第2主題には付点はない)、そもそもその<第2主題的要素>が何処から出現可能であるのか、をよく明かしている部分とも云える。 それは付点の効果により、Cp1より如実に明るみに出されているといってよい。

レ_ラ_ファ_レ_ド#_レ_ミ_ファ__ソファミ..の冒頭主題のうち、 最後のファ__ソファミに付点を掛け、後はそのままこのパターンを継承することでみづからは未完F第2主題の特徴の基をやや強調的・弾力的に作り上げ(つまり第2主題はA1自身から生じている!)、他の声部にA1の旋律を交互に絡めさせることでA1と第2主題との遁走をも形成・成立可能にしている。

と同時に、A1〜付点効果A2の分岐点とは、これが第2主題生成可能性の地点であると共に、のちのA3 A3(レ_ラ_ソファ_ミレ_)の登場を予告する。 そしてA3+∀3(レ_ラ_ソファ_ミレ_ + ラ_レ_ミファ_ソラ_)というのは、未完F第1主題(レ_ラ_ソファ_ソラ...レ)の基点である。

こういう訳で、Cp2の中には主に、未完Fでいう第1(A3+∀3の予兆)・第2・第4(A1)との遁走が成り立っている。 この後、第2の推進力をより顕著に存在させるCp6を通して、より明確化した第1(A3+∀3)と第2・第4(A1)との遁走を経、再度Cp7を通して、今度はより、残りの第3主題(B-A-C-H)への前哨を所々に散りばめながら、あの未完Fの死への疾駆、はもとより、その前の緊迫した曲の膨張、またその後の不安な明るみ(不安定な諦観)等々に当る部分の暗示を早くも造りあげていく。と言う風に見える。 この後、それぞれに相当する部分を詳述していくつもりである...

 

2004年12月18日

Cp2に関して記すに当たって、昨日は主に2つの点を指摘した。

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・第2主題の生起を、(Cp1)よりも明確化させたステップ (主題A1の最後尾に付点処理を施し(=A2)、この付点パターンを以後貫徹することと同時に、同パターン(A2)での他声部との遁走により未完F第2主題の特徴の基をやや強調的・弾力的に作り上げていく。=第2主題はA1自身の変奏(A2)とその遁走の仕組から生じている。同時にCp2曲全体としては、A1と第2主題との遁走の成立可能性をすでに証しはじめている。)

・同時に、A1〜付点効果A2の分岐点とは、これが第2主題生成可能性の地点であると共に、のちのA3(∀3)の登場をも予告する。 (A3=レ_ラ_ソファ_ミレ_) (∀3=ラ_レ_ミファ_ソラ_) ※合わせて未完F第1主題(レ_ラ_ソファ_ソラ...レ)

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このうちまず前者だが、 A1の付点変奏=A2とその遁走が何故、未完F第2主題の前兆となるのかについて。 雰囲気としては掴める人が多いと想うが、説明するのがむずかしい。 だが 未完F(114〜小節) 1)ファソファミレ#ド 2)レラレミファミレファ・ミラミファソ[ファミ]ファソ(8分音符系列:[ ]内=16分音符) 3)ラソファソラ__ソ#ファソラ#シ__ 4)ラソファミレミソファミレドシラシレ...

……

Cp2-A2(4〜小節) 1)ファソファミ・レミレド・ドレドシ 敢えて付点を外した記し方をすると ここまでは直線的進行で波がない (6小節) 2)シラシドレミファレ ここで幾らか上下の波が生じる (未完F-レラレミファミレファ、に近い型) (21〜22小節) 2)#ドレファミレソ#ラシドレファ__[ミレ]#ドレ 全体が8分音符+16分音符進行の中、[ミレ]のまとまりは32分音符、こうしたフレーズは、未完F-2)のミラミファソ[ファミ]ファソ、の類型 そして、11小節移行、フレージングに、未完F-3)に近いレガト(息の長さ)が生じる。 これは異声部間とのやりとりを、ひとつのフレーズとして解釈する場合にも、また同一声部内でのフレージングにも、存在。

例(11小節) 3)ラシドレ_ (11〜13小節) 3)↓ミ↓レ_↑レミ_ファソ_#シラ_ソファ_ソファ_ミレ_ミファ_ソラ_

*この↓ミ↓レ、から↑レの上昇だけは、これまでの付点の巡行性からは異例で、躍動的上下行をする未完F2)の類に近い。ここと並行して (12小節) #ドレミファ_ (15〜17小節-第3/4声部) ミファソラ_........#ソラシ#ドレ_ ..........ラシドレミ_ (19〜20小節)

..................

ラ#ファソラシ_ラ_#ソ ファレミファソ_...ドドラシドレ#ドレ_ミ_ (23〜24) #ドミファソラ_

.............

ラシ#ドレ_ド_ (27小節) ソミラソファ__ (28小節) ミファソラ__ etcetc 多数

未完F-4)パターンに近いフレーズの登場。 (8小節) 4)↓ラ↑ラ#ソラレソ__ファミレ#ド (29〜30小節) 4)#ソシラソファミレソ 明日は、付点変奏(A2)=A3+∀3(→未完F第1主題へ)、について。

 

2004年12月19日

今日は後者、

・A1〜付点効果A2の分岐点とは、のちのA3(∀3)の登場をも予告する… (A3=レ_ラ_ソファ_ミレ_) (∀3=ラ_レ_ミファ_ソラ_)

※合わせて未完F第1主題(レ_ラ_ソファ_ソラ...レ) について。であるが、

何故 A1旋律尾の付点処理が、A3・∀3の登場に契機を与えるのか。 付点が付いても、A1のフレーズとしての音型は変わらない。 レ_ラ_ファ_レ_#ド_レ_ミ_ファ__ソファミ が レ_ラ_ファ_レ_#ド_レ_ミ_ファ__γソファ_γミ(γ…16分付点のかわり) となっただけである。 しかし間もなくこの付点パターンを独立的な仕様として無限に繰り返す他声部(交代制)の出現と、両者(4声部)の遁走を行う内に、多声部間のやりとりがひとつの声部のフレージングとして耳に入るようになり、次第に レ_ラ_ファ_レ_のレガトの間に中間音が介入する仕組みが、おのずと耳の中に蘇生されてくるのである。 何よりまずリズムとしてこの用意が出来る。 またフレーズとしては、間接的に主にこうした箇所に於いて飛躍的に前提が敷かれるような気がする。

(22〜23小節) #ドレγファミγレ#ソγラシγドレγファ__γ[ミレ]ドγレ (31〜33小節) ミγファミγレレγミレγ#ドレ .....................ラシγ#ドレγミファγレミ..................♭シラγソファγミレγ#ドレ

(34〜36小節) ラ#ソラレ_ソ__γファミレミ_ラ_ ........................ドシラソ_ラ_ ...........................ソ⌒(ソ)ファミγレミ

(37〜37小節) ソ#ミ__レドγシドγレミ__γファミγレラ

こうした、中間に音の飛躍のない、細かい動きのフレーズである。 こうした過程を経て ラ〈シドレ〉ミ_ド_ラ_#ソ_ラ_シ_ド... ラ_ミ_〈レ〉ド_〈シ〉ラ_#ソ... などの介入の布石がなされる。 こうして主題A1へ挿入される中間音受け入れの準備(A1→A3・∀3)が出来てくる

Cp2には、まだあの、曲を不可思議な天上的不安と終末美へと超脱・膨張させていくような、未完F第3主題の暗示性は殆ど登場しない(皆無ではないと思われるが)分、悠長な流れの中にもひたひたと向かっていく終末と審判への調べは無いが、そのぶん意志的・雄壮でもある。それは未だ未完F第3主題(B-A-C-H:半音階調)を含意しない段階での、曲の地上的特徴だろう。がここで、たしかにフーガの技法のほぼ全般に渡って要求される、推進力(未完F第2主題)の要素が確立されたのである...

 

2004年12月20日

Cp3、フーガの技法第三曲目であるが、すでに終末的気分の暗示にみち、未完フーガの有つ雰囲気を、曲全体に彷彿させている。 Cp2にて、主に未完F-第2主題の契機が作られ、同-第1主題の大前提(A3+∀3の惹起)がなされていたが、ここCp3は、残り第3主題(B-A-C-H)の成立気分に満ち溢れ、主題である∀1(ラ_レ_ファ_ラ_♭シ_ラ_ソ_ファ__ミファソ)の登場もさることながら、その前口上である冒頭フレーズ∀'1(レ_ラ_ド_ミ_ファ_ミ_レ_#ド__ラシ#ド...とそれ以降の半音階調のながれ)そのものが、B-A-C-Hを彷彿させており、そのゆらゆらと続く半音階調が、次に登場する∀1(主題)に併走し、そのまま付帯状況のように付きまとっていく為、未完Fの成立条件を巧みに含意している。

 

2004年12月21日

またここで新しく登場する主題は先に述べた∀1であるが、半音階進行(細かな中間音介入)に引きずられる曲の進行と共に、Cp2で伏線の作られていたA3・∀3のスタイルが、実際に顔を出しはじめる。(殊に後半) 24〜26,55〜56,58〜59,63(半音階変奏)小節 よって、ここCp3に於て、B-A-C-H(未完F-第3主題)の前兆とともに、未完F冒頭(第1主題)の具体像が暗黙に展開され始める。(より積極的にはCp5にて) (※A3・∀3自身が「主題」として展開されはじめるのは、Cp5からである)

次に詳しい分析。

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(未確定項) ここは非常に語りづらい箇所である。 Cp3と未完F(Cp14)との間には、雰囲気の酷似している点が随所にあるのに、ここがこう、という的確な掴み所がないという気がする。 だが、曲の主題を始終取り巻いているもの、付きまとうものは、少なくとも現時点からもすでに、同じ親から生じる何かだと確信の出来る気がする。 Cp3を通してますます強まる印象は、未完Fに於る、幽玄なB-A-C-H(第3主題)と、勇ましい第2主題とが、ともに同じ起点――最も原基的スタイルとしては、∀1(とそこから派生する付随,併走旋律、としての変奏)――から生じているだろうということである。 そして、この両者を強く結びつけるものは、両者の主題同士、というよりはむしろ、両者の付随旋律の在り様――これの、主題との関係の仕方、また変化・遁走の仕様――といってよいかも知れぬ。

未完F自身、あの4つの主題の現出に至る迄に、さまざまの<伏線>を用意しており、付随旋律・併走旋律とその展開を有している。その間に、それらが或る時はB-A-C-Hの前哨をはったり、推進力ゆたかな第2主題を喚起したり、冒頭第1主題の、或る種の膨張系(一部半音階上昇など)によりB-A-C-Hへの再編を予告したり、という形で弁証法的に進んでいくのである。 どの楽章でもそうであるが、Cp3もそうした伏線やら予兆が多々あり、そのことが未完Fの存在(仕様)を身近に暗示させたり或る種のパラレルな関係を垣間見せる。 未完Fに於る幾つもの(各登場主題への)伏線のうち、13〜20小節(第3声部)の一連の動きや23〜30小節、46〜50小節の1・2声部の半音階的動き、また32・33小節に典型的なラ[シ#ド]レ__レ[ミレ]#ド__、等の動きは、そもそもCp3に酷似しないだろうか。 また未完Fに度々訪れているマタイ的な処理――52〜55、162〜167小節等――と、Cp3の全体的低音処理〔典型的には10〜12小節。だが全体にわたってマタイ的(弦楽)処理と思われる〕、旋律的に膨張を引き起こす72〜73、79〜84、等々の、B-A-C-Hへの変化彷彿の仕様、等々...

また未完F-219〜220小節の処理はCp3-26〜28小節(trを含む)をひとつの原型として示唆させる。etc...

このように未完Fの旋律処理は何か常にCp3(乃至Cp5=∀1→∀3・A3)の要素とその付帯旋律仕様を多分に含んでいると思われる。

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バッハ、フーガの技法1

2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2003年11月20日 (木)

ついつい、「ながら」でフーガの技法を――オルガン、ハープシコード、弦楽合奏、ピアノと――聞いていた。 それ自身に就て深く聞き込むというのでなく、バッハの他の音楽に就て考えながら、他の音楽家に就て考えながら、演奏家に就て考えながら...そして漠然と、音楽や絵画に就て考えながら、生きていくこと・日常の苛々しい事ども、遅々として進まぬ些末な事どもに就て、考えながらetcetc...。

だがそろそろバッハを考えるに於てこれ以上相応しいもののないであろう、フーガの技法に就て色々と自分なりに探っていかなくてはならないと思っている。 そこで、ついぞ断片的・主題別に摘み読みはするものの未だ真剣に読むことのなかったフーガの技法に就てのCDに添付されたややこしそうな解説書に、目を通してみる。

読んでいるうち、曲を聞きながら自然と形成されていた印象からして、思いもよらぬ記なども、目にする。 ざっと通し読みをしての印象であるが、ミュンヒンガー/シュトットガルト室内管弦楽団のCDに添付されている解説書――高橋昭氏――は、ごく平明で非常にまともであり、納得のゆくものである。

他方G.レオンハルトの「フーガの技法」の解説書は、あまりに意表をつく。 レオンハルトの「フーガの技法」演奏は、彼の他のバッハ作品の時よりずっと装飾が無く、演奏としても演奏する精神としても真率で素晴らしい。私の手持ちの中でも、グールドのピアノによるもの及びミュンヒンガー指揮管弦楽のと同等かそれ以上に、最もお気に入りの、おそらくこれ以上ないほど上質で完璧な演奏、最上級の意味で所謂「過不足ない」演奏である。が、彼が彼自身の解釈により「フーガの技法」の演奏をコントラプンクトゥス18番a・b(これは通常の19番a・bと思われる)で終わらせてしまっていること、また実際そこまでなのである*という彼自身の自信にみちた見解――このCDの解説は彼自身の筆による――には、予め同意できかねるものがある。 何故なら、最後の未完のフーガは、未完といえども最初(第1番)の主題と直結しており、また当然のことながら、彼が此処までが「フーガの技法」と主張する中に含んでいるコントラプンクトゥス第8番や10番、11番にもそれは直結しているからである。 直結しているばかりではなく、寧ろ未完のフーガ(その第1・2・3主題のどれもが)が予めあの「はじまり」(「技法」冒頭の第1主題、所謂“基本主題”と言われるもの)とともに在る、からである。

否…ともに、というよりは寧ろ、未完フーガの1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分である――半音階性が強すぎるため――、がしかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題)を呼び起こすのであると言っていいほどである。 (だからむしろ私自身の正直な印象からすると未完のフーガ――B-A-C-Hの主題(第3主題)と、同時にこれが必要とする同(未完のフーガ)第1主題――は、初発性(謂わば、ネガと粗描のような初発性)であり、同時に大成でもあるはずである。#)

これだけ有機的に濃密に体系として予めつながっている最終曲をフーガの技法の一部として、集大成として、認めず組み込まないのは、ひどく訝しいことである... *未完フーガは原作品の一部でなく、作品の最後に組み込まれたことは作曲者死後の出版上の手違いによるものであり、何か別の曲(3つの新しい作品と言われるもの?)の構想の一部であったとしている。 「フーガの技法」をめぐるこうした問題はレオンハルトにはじまったことではなく、「帰属問題」として昔からあったらしい。(このような問題が、「音楽家」たちの耳の間で歴史的に発生してしまうこと自体――この作品が絶筆であるためにさまざまな研究上の波紋が生じやすいとはいえ――私には信じられない問題である。)

 

2003年11月21日 (金)

「フーガの技法」の楽譜――Peters版Nr.8586b――がもうやって来た。 下手をすると1ヶ月くらい待たされるかと思っていたのに、いささか早すぎる到着... もう少し猶予が欲しかった気もするが、あまり待たされすぎるのよりましである。

楽譜を見ての印象。あまりに有機的で合理的。生物のように、ごく断片的な小節も、他のどこかしらと緊密に繋がっており、隙のない絶対的構築物へと発展されていくという、生々しい予感。 CDを聞きながら追っていると、オルガンも弦楽合奏も、それらの演奏の息づかいが、楽譜を通したバッハ自身の頭脳の呼吸のように、濃密に伝わってくるようで圧倒される。

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昨日の#部に補足 (だからむしろ私自身の正直な印象からすると未完のフーガ――B-A-C-Hの主題(第3主題)と、同時にこれが必要とする同(未完のフーガ)第1主題――は、初発性(謂わば、ネガと粗描のような初発性)であり、同時に大成でもあるはずである。#) これに補筆。 また同第2主題はというと、「技法」冒頭の第1主題ののちの展開――コントラプンクトゥス9番の新主題(開始に単独走する)や、コントラプンクトゥス2番の付点とタイの施された低音部(3小節以降)に象徴的な変奏スタイル、また11番第3主題(8番第2副主題の転回形)とも、じつに緊密な音楽的、乃至運動上の繋がりがあるのである もっとも平明妥当と思われるシュトットガルトChamber orche.添付の解説にも、例えば、コントラプンクトゥス9番開始に単独走する「新主題」に関して、何処から生じるものであるかの説明がないが、こうした、あたかも唐突に出現してきたかのような――or実際そう思われて来た――新主題などにも見られる、有機的な潜伏要素が、これからも、「技法」の各所にバッハによって散りばめられているのが、自分なりに発見(発聞?)できるかもしれない。

 

2003年11月25日 (火)

20日・21日の文章に、補筆を施した

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つづき... 未完フーガ第1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分であるが――半音階性が強すぎるため――、しかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題,所謂“基本主題”)を呼び起こすのであると言っていいほどである。

これに就て 「技法」冒頭第1主題(基本主題)=コントラプンクトゥス第1番の開始:ニ-イ-ヘ-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ と、 未完フーガ第1主題=ニ-イ-ト-ヘ-ト-イ-ニ の差異。 勿論、この間には、当然のようにコントラプンクトゥス5番や6番(反行フーガ)に代表される基本主題の変形、 ニ-イ-ト-ヘ-ホ-ニ という介在者があるので、 こういう書き方をしておくと、 基本主題アルファ=ニ-イ-(ト)-ヘ- (ホ)-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ と 未完フーガ第1主題=ニ-イ-ト-ヘ- ト-イ-ニ の違いは、主に後半部分にある。

前者は基本主題だけあってメロディクで明晰、それ自身に躍動性も存するが、後者は反対に虚しく、茫漠としており、殊に後半の全音符4連の長大な徐行は、他の声部の律動性や躍動的な喚起力を、おのずと要求する。 (この第1主題の茫漠たる長大さは、同じ親から生ずるものの、あの明快な冒頭の基本主題より、はるかに第3主題との関連が濃厚であり、論理的にも緊密な連鎖のある旋律となっている)

実際、この後半ト-イ-ロ-ニの部分にはまず遁走として第3声部の弾力ある旋律が重なるのである――6〜10小節。この進行のダイナミズムは当然同第2主題の予兆であるとともにコントラプンクトゥス8番、11番の各主題とその変形とも連関する――。 また、この後半ト-イ-ロ-ニの部分は、第2声部の動き――17小節以降――をも喚び起こさす。これも基本主題を彷彿させるとともに14a2声の反行カノン(基本主題の変形)も惹起しうる旋律である。 コントラプンクトゥス3番は、最初でもっとも顕著な未完フーガ第3主題の序曲である。それは未完フーガ第3主題の極めて可変的な半音階性を早々に暗示しうる、まだ「明瞭な位相」に於るデッサンであるだろう。

したがって、未完フーガの第2主題はコントラプンクトゥス2番に早くも頭をもたげ(21日に記した)、第3主題は3番にすでに潜在することになる。 余談だがコントラプンクトゥス3番には、未完フーガ第3主題の登場ばかりが見られるのではない。 コントラプンクトゥス3番第3声部の11小節目の動きと、より顕著なのには同第4声部(最低音部)の動き*に、すでに未完フーガ第2主題もが、同時に伏在しはじめて来ている――まだ途切れ途切れではあるが――、といってもまず間違いはなかろう。 *…殊に19〜25小節と、29最後尾〜35小節にその特徴(未完フーガ第2主題の暗示)は顕著である。 またそれらの中間の、trを織り交ぜた26・27・28小節は、未完フーガ第2「主題そのもの」というよりはその遁走部(未完フーガ121〜127小節が代表的)の変奏スタイルといえる。

 

2003年11月26日 (水)

※便宜上、今後「コントラプンクトゥス」をCp.と略す

K.ミュンヒンガーは、通常至極ゆっくりと演奏されることの多いCp.4番を、かなり急速なテンポで演奏している。しかもリズミカルな諸声部同士の掛け合いをややアタッカー気味にくっきりと際だたせている。 このプレストがかったテンポ選択は、まことに示唆的であって、Cp.4番と、最終(未完)フーガ第2主題の濃密な関係を理解させる。 つまり基本主題(Cp.1番)の真の転回形と、未完フーガ第2主題との関係を、である。 ところでこのCp.4番の主題が基本主題の「真の」転回形、と言われるのは、これに対し、その前のCp.3番にまず現れる主題が、基本主題の「調的な」転回形、であるからである。

つまりCp.3番にまず現れる転回形は、調的に転回された基本主題である。 興味深いことに、後半のほんのわずかの差異ではあるが、こちら(調的転回形)は、ファジーな半音階性が顕著で、未完フーガの第2主題をと言うよりは寧ろ第3主題を、彷彿させる。 そしてCp.4番では、3番に較べた躍動感と音階の明瞭さに於て第2主題の本源的な出処が、(まずは付点などの跳躍感を伴いつつCp.2番に於て早々に登場していたものが)いよいよ端的な形で此処にあるのを、確認できるのである。 もっともCp.3番の中でさえ後半には未完フーガ第2主題の前兆(ミュンヒンガーの指揮するテンポでのCp.4番のようなもの)の出現を、特に最低音部の動きに於て、必然的にさせる要素がある。――30小節以降。

であるからここでは謂わば、未完フーガ第2主題のエネルギッシュと躍動感を以て未完フーガ第3主題の半音階的可塑性を描き出す、という恰好がとられているかのようである。―― このように、別の主題のエサンスの代表同士も、勿論基底が同じな為、互いに緊密に繋がっているのではある。 Cp.4番は、オルガンや鍵盤楽器、弦楽合奏など楽器の選定に拘わらずじっくりゆっくり演奏されても非常にうつくしい部分であるが、曲の構造理解という事を考える時、ミュンヒンガーのこの指揮、テンポ選択は非常に賢明のように思われる。

蛇足だがミュンヒンガー/シュトットガルトchamberorche.の音は幾分かup気味である。 (現今)通常とされる「ニ短調」のtoneよりややうわずった調律である。だがこれはCD作成上の問題だろうか まぁいいや

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きのうのつづき... 未完フーガ第1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分であるが――半音階性が強すぎるため――、しかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題,所謂“基本主題”)を呼び起こすのであると言っていいほどである。 昨日までに未だ触れられていない、上文の この部分 ・同時に両者の『関係のありかた』が必然的に第1番の主題(所謂“基本主題”)を呼び起こす、 という点に就て。

未完フーガの第1主題と第3主題はいかなる関係の元にあり、また何故それが基本主題を喚び起こすか。

 

2003年11月28日 (金)

・同時に両者の『関係のありかた』が必然的に第1番の主題(所謂“基本主題”)を呼び起こす、 という点に就て。

だがここに第2主題も含めて語られなければならないだろう。 つまりこういうことである。未完フーガの第1主題・第2主題・第3主題はいかなる関係の元にあり、また何故それが基本主題を喚び起こすか。

未完フーガの第1主題――ニ-イ-ヘ-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ-ニ は、基本主題の調的な転回と、基本主題の真の転回形の両義性を含んでいる。 他方同第2主題は真の転回形の系列である*――その原型としてCp.4番のようなものは(未完フーガへのより必然的収斂の為には)前提として存在させられていなければならない。実際、言葉少なではあるが、とくに低音部(4声部)には顕著に、19〜22,67〜72小節、73〜76,81〜82小節(これは全声部に渡る)、87〜90小節、などに未完フーガ第2主題の原基的旋律とその運動性は周到に潜在させられている――。

*同時に基本主題そのもの(転回前)ともそのまま呼応する (丁度Cp.9番が基本主題と同時並行で奏じることができるのと同じ原理である) 。第2主題は旋律構造上便利で自在な幅がある。 未完フーガ第3主題は、調的転回の系列に属する。 これらの融合は、その遁走的旋律展開と運動性から、基本主題の転回形あるいは基本主題を喚起する。

 

2003年11月29日 (土)

旋律の帯びる性格とその由来に就ては昨日のようなことだが さらに詳述しなければならない。

運動体としての相互関係 未完第2主題と基本主題との関係。 第2主題は、そのまま基本主題と並行して奏することができるほどハーモニーとしてじかに相和する。 (または基本主題と基本主題の転回形と、未完フーガ第2主題を同時に奏でることも可能であるような関係である。) 第2主題は、(実際未完フーガ147〜152小節、156〜162、183〜188etcにあるように*)1小節遅れ(休符を含み)の第1主題と相和する。

*但し167〜174小節では2小節遅れていることにより、茫漠たる不協和にも近いほどの半音階性を醸し、巧みに第3主題(B-A-C-H)の誘導を計っている [ここでの2小節遅れの第1主題は、殆ど第3主題(の予言)、2→3への変換作業と見なすことが出来るのでないか] 第2主題と第1主題のこうした関係からも、第1主題もまた、基本主題と、1小節(休符を含み)遅れの呼応が可能である 第3主題(B-A-C-H)は、201小節の第1主題対第2主題’(ダッシュ)との絡みから、また上記の*印(例外補筆)から、基本主題とは2小節遅れ(休符を含み)の遁走が可能であり調和的となるような関係性が、あると思われる。

 

2003年11月30日 (日)

昨日の続き *但し167〜174小節では2小節遅れていることにより、茫漠たる不協和にも近いほどの半音階性を醸し、巧みに第3主題(B-A-C-H)の誘導を計っている [ここでの2小節遅れの第1主題は、殆ど第3主題(の予言)、2→3への変換作業と見なすことが出来るのでないか]

何故そう感じるのだろうか。この感覚が一層強くなる箇所がさらに続く。

この後いよいよクライマックスの茫漠たる暗鬱さに拍車がかかるのだが、こうした効果的遁走によるズレは、180小節以降も同様であるが、この第1主題の登場では、この際第1主題は、それ自身も4度上がっているばかりではなく――レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ⇒ソ-レ-ド-「シ」-ド-レ-ソ――、後半のkeypointの音(「シ」)――が半音階上昇し、調的にも変化を遂げている。 それはますますもって第3主題に近づく印象的なステップである。 バッハに特徴的な「半音階性の着脱」を繰り返す旋律パターンは、この未完フーガの始まりから第1→第3主題移行のための伏線の蓄積として割合頻繁に登場するが#、この、主題が丸ごと出現するシーンでのkey音の半音階上昇は、アトモスフェール転換点として尚更劇的に印象づけられる。

これは、以下のような関係を持つともいえるだろう。 第1主題 レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ(原型) ソ-レ-ド-シ♭-ド-レ-ソ(原型移調4度) シ♭-レ-ド-シ♭-ド-レ-ソ(原型’ダッシュ) シ♭レ-ド-シ(ナチュラル)ド-レ-ソ(原型’ダッシュの調的変化) シ♭-ラ-ド-シ(ナチュラル)-ド-レ-(ソ)(原型”ダブルダッシュの調的変化)

こうして、遁走の絡み合いと不協和的響きのトリックを伴いつつ第1主題と第3主題は丸切り無関係に近いというよりはむしろかなり近づいていくのである #…34〜35小節、49〜50,55〜56小節、etcetc...。 (これらが半音階性着脱がそのまま主題化しているB-A-C-H主題の巧みな伏線になることは非常に示唆的である。)

バッハは未完フーガに於る対位法駆使の中で、この種の半音階性の着脱を、水面の波のように可変的に繰り返しながら、いよいよ主題そのもののkey音を用いて第1主題→第3主題(=B-A-C-H主題)への移行に寄与させるのである。 こうして、第3主題の単独の登場(114小節〜)までに響きと運動の緊張感を高めている。 ちなみに、上記の第1主題のkey音による半音階性の着脱のみならず、同主題丸ごとで、このようなパターンの変奏も、開始早々から絶えず行っている レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ→レ-ラ-ラ-ソ-ラ-シ-レ (ソ-レ-ド-シ-ド-レ-ソ→ソ-レ-レ-ド-レ-ミ-ラ)

 

2004年01月13日 (火)

思いがけない用事で途絶したまま随分と時間が経ってしまった。

以前、多くはミュンヒンガーの弦楽合奏を、また時にヴァルヒャのオルガンを耳にしながら追っていたスコアの所々に見られる走り書きも、自分が書いたものであるにも拘わらず、今となっては意味がわからなくなってしまった。 何故こんな所に文字が走らせてあるのか、何と何をどんなポジションから連関させていたのか、どんな直感や思考に基づいていたのか、意味不明である(笑)

それで、あまり全体、乃至在るべき終局から部分(各コントラプンクトゥスやカノン)を聞き取るのではなく、とりあえず最初から一曲ずつ感じること、また気づいたことを、演奏への感想とともに記すことにする。 そうしているうちに耳もまた馴れてくることであろうし、全容をもう一度再考できていくと思う。

が、 それにしても、フーガの技法の場合、一応の目途を立てておかねばならない。一曲一曲を綴るには、互いの連関が濃厚でありすぎるだけにかえって虚しい。 また毎日、一曲について記す為に、考えの外に置いておくには行かぬ全体というものにも幾らか配慮するべきとはいえ、毎度毎度ただ漫然と聞き流して行くには、その全体はあまりに長すぎるし、巨大でありすぎる。

そこで、Cp11番迄で、前半を一応区切ることにする。 バッハの発想、思考がここでひと区切り付くように思われるし、何より聞いている方の意識としてここで区切りを強いられる気がするからである。 また、このCp11は前半(?)の差し当たりの集大成というべき壮大さを帯びていると言っていい。 これ自身、未完の終曲に直結しうる大きな要素が多分にある。またCp1〜11までの連綿とした世界は、それ以降(Cp12〜未完f)の世界がどちらかというと自存性?のつよい一曲一曲の統合体、ともいうべき世界なのであるのに比べ、その連関性・一貫性がずっと揺るぎがたく思われる。

フスマン、ダヴィッド、グレーザー等、曲順に関しては幾つかの有力な人々による解釈の余地がある中で、ミュンヒンガーもバルヒャも、グレーザーの解釈に依っているようであった。それは私の手持ちのスコアとは曲順が違う。(スコアを追いながらという形ではまだCDの前半しか聞いていなかった。)

バルヒャのCDに添付されて解説書を読んだところ、これは出版原譜の曲順と、バッハの意図していた真の(と思われる)曲順との差異からならしい。 ということで、諸々の問題――バッハ当人によるいきさつやその後の解釈――から、やはり後半?の曲順はバッハ自身に於ても!、また「フーガの技法」研究者による全容の把握の仕方に於ても、幾つかの解釈の余地があるのである。

 

2004年01月14日 (水)

眼と頭が痛くでてモニタを凝視していられないので箇条書きのみ。 Cp8…未完フーガ第3主題/未完フーガ第2主題 との要素(?) 落下のテーマ(注:私の付けた呼称…113〜117/117〜126小節など。ちなみにこれはCp11の117〜最終小節へと発展する)と、 これとよく呼応する

・レードファシシ♭ラレ(ラソラソラソファソ=tr)ファソラソラーレ(Cp8冒頭) 

・ラーシ♭ファドド#レラミーファミレミレーラ(Cp11 a4 27小節-、上の転回系とみられる)

これらの半音階的絡みが、もたらす意味、 B-A-C-Hへの伏線。

 

これについて

上記(Cp8冒頭)は C-H-B-A すなわち ()C()HBA()()の運動。

下記(Cp11 a4 27-30小節)は A-B-C-A【A-H-C-A】 すなわち ※AB()C()()A()【AHCA】…の運動。B-Hの交換運動もしくは着脱運動。

注)※第二声部、【】内のみは第一声部

 

下線部、B-A-C-Hへの伏線の意味は、ここCp11-a4に於けるこの後の展開で、90-91小節でついに、B-B-A-C-C-C-Hがついに(未完フーガ第三主題 B-A-C-H に前以て)露出するのである、という意味。まず第二声部にて、またこの後の小節でも繰り返される=93-94小節、第一声部。前哨線は、直前の89-90小節第三声部より。

この部分は、上述のように音列としては未完フーガ第三主題へかかると同時に、リズム・推進的運動体としては未完フーガ第二主題を予告させていると言えると思う。

(自分での発見、20110916、記載20110215)

 

2004年01月17日 (土)

一曲ごとへの記述に入る前に、補筆。 Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就て。

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形) Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ #…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形 ##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

こう見ても、如何にCp.8と11とが、予め緊密な織物として連携させられているかがわかるのだが、 驚くべきは、そうした経緯を以て到達して来たここCp.11に於て、織り糸とされるこれらの主題(1・2・3)が、どれも最終フーガ(未完)への意味深長な前触れとなっている点である。

第1主題…未完フーガの第1主題(レラソファソラレ)と第4主題(来るべき冒頭主題レラファレ…) どちらの主題にとっても緊密な変奏曲的関係にある(中和剤、またはどちらへの発展性をも帯びる巧妙なる予備軍)

第2主題…落下の主題及びその転回形、どちらにも旋律上繋がりやすい、もしくは遁走上、きわめて自発的な交代性を持つ音列でありつつ、 未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の予兆的性質を帯びる(この転回前――すなわちCp.8での第1主題時――はそのサワリが未完フーガ第3主題BACHと共通であり、同様の半音階性を有つ。と同時に、遁走性としては――2度上げられていることもあり――かえって転回前よりも未完フーガ第3主題BACHと呼応性を持ち、仮に同時に奏されてもよく共鳴する)

第3主題…(C=落下主題が)転回されたことにより直かに未完フーガ第3主題BACHの音列そのものを喚起する。

未完フーガ第3主題とは、このCp.11の第2/第3主題の奇妙な融合であると言ってよい。

蛇足であるが ここ(Cp11)、及びCp8では登場していない、未完フーガ第2主題はといえば、両者の間に置かれたCp.9に於て十全に扱われているのである。

 

2004年02月01日 (日)

※補記 Cp.6の遁走に於ける全体的変奏スタイルのtheme性が、――短い音符・付点リズムにより独特の(フランス形)を帯びてはいるが、その為に有効的に――未完フーガ第2主題に、非常に密接に関わる、ということ。 3小節後半〜4小節のミファソラファミレドの上昇〜下降型、 18小節第1&2声部の旋律を予兆として 殊に26〜28小節(縮小形として)、また54小節〜(縮小形として)の第3声部の動き (59〜61〜)62〜68小節辺りの3・4声部の動きは非常に如実な、あの未完フーガ第2主題の暗示となっている。 あの第2主題は、第1第3、また来るべき第4主題との接着剤のために唐突に現れたのでも何でもなく、主要主題の遁走の進展と必然性によって着々と事前から頭をもたげていたものであるといえる。

 

2004年02月02日 (月)

※補記 そして、昨日Cp.6で述べたことは、そもそもCp.2でもすでに、当てはまることである(未完フーガ第2主題への前哨線)。 (他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。 周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして)

Cp.2で、未完フーガ第2主題へと向けて、どういう点が予告的であるのかといえば、 ここでもCp.6と同様、付点リズムが特徴的ではある――この付点の躍動感・推進力(近代自我的・ベートーヴェン的音楽性)を、バッハは当然あのCp.9へと、最も的確な形で至らせている。そしてこれが未完フーガ第2主題へと及ぶと同時に、第2主題と、来るべき第4主題(冒頭主題でもある)の自発的遁走を十分に得心させる形を生み出す親と、せしめていく訳であるが、こうした旋律の躍動性にとって有効な付点を効果的に用いてバッハは、(未完フーガ第2主題にとっての)key旋律の基を幾つか作り上げる。

・第4〜5小節(ファ--ソファミレミレド-レドシ-) →未完f第2主題:ファソファミレ#ドの下地

・第6小節(ラシドレミファレミファミレドシラ#ソ)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...=(4度下)ラミラシドシラドシミシドレドシドレミ...に同じ、の下地 また高音部(第1声部の)

・第64〜65小節(♭シラソファミレド#レ「レミファソ」--「ファミファラ」)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...

・第76〜78小節(♭シラソ-ラソファ-ソファミ-ファミレ-シ#ド#ミラ)」)→未完f第2主題:ファソファミレド#〜ラソファソラ--ソファソラシ--の下地。

 

2004年02月03日 (火) 〜 02月04日 (水)

(他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。 周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして) ------ これに就て。 いつかもざっと書いたことだが、次Cp4が「真」の転回形で有るのに対し、こちらは「調的」転回形である。 調的転回形の後にまたCp.4(真)が、ここに置かれ補強されることで、なるほどCp.9への自然必然性が高まり、また未完フーガ第2主題と、あるべき第4主題(冒頭主題再現)との絡みを意図しやすくさせている。 *未完フーガ第2主題との差異は、前進力と躍動性にみちた未完f2との絡みを演じる未完f第4主題が、転回以前(原型)なままであるのに対し、Cp4の方は転回形との絡みである点である。

さて今日のテーマの方に戻るが、 調的転回形であるCp.3であるが、何故これが未完フーガの半音階性際だつ第3主題と、上下動緩やかで荘厳なな第1主題を喚起させる、と直観されるのだろうか。 いつかも触れたように、最初の「調的」転回、つまり 第4小節――#ド--ラシ#ド(レ)(;本来ド--シドレ(ミ)で有る所)――の処理を契機に、 第5〜6小節――ド-シ♭シラ#ソラシド#ド、 13小節――レミ#ファソファミレ#ドレ、 など、ド(=C)・シ(=B)など同じ音の#乃至♭の脱着を開始している点である。 (これは勿論、未完フーガ第2主題でも頻繁に脱着される所の音である) もうひとつ、未完フーガ第1主題をも彷彿させると感じるのは、何故か。

ところで元々、未完f第1主題とは、来るべき第4主題(冒頭主題再来)の変奏曲であるにすぎない。 だが何を目的とした――どこを志向した――変奏なのか。冒頭主題(第4)のほうが、躍動的な同第2主題との競演にマッチした個性であるのに対し、これの拡大的変形である第1主題の個性は、その中間――第2主題とも半音階性濃厚な第3主題とも呼応する、という性質を帯びている。

ところでCp.3に於る第1〜4声部の諸旋律の動きは巧妙にファジーで、お互いの可塑性を尊重しながら未完フーガ第1〜4主題のどれもに成り代わりうる、乃至暗示するに十分な運動を、連携プレーの中でゆったりと役割交換しつつ展開していくように思われる。

 

2004年02月19日 (木)

01/17記 …Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就てのさわり

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形) Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ #…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形 ##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

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この、#と##に就て。

Cp8は前半の集大成ともいうべきCp11が四声三重フーガであるのに対し、三声三重フーガで構成されている。非常に物理学的秩序を感じさせる楽章である。 最初に登場する半音階秩序の不可思議な主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、一見無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは*Cp5(4声反行フーガ)冒頭で出てくる基本主題の変形の転回形――これを4度あげたもの*――といえる形の応用である。もっと言えば、その付点をとり去ったものを、原型としたものの応用・変奏なのであって、その証拠に実際、ここCp8自身に於て91小節から、この付点を取り去った形のものが、第1拍目にシンコペーションを伴って登場する(91小節〜。)これが基本主題のCp3,4的転回)の再現である。

じつに論理的なつながりがあると私には思える。(それだけに、同時に演奏してもおそらくよく共鳴する)

*…それは、元はといえばCp3・4の基本主題の転回形――調的・及び真の――からおそらく生じているだろう... しかも、このCp8の最初に登場するこの主題は、何とも不可思議で効果的な半音階性を付与されていることによって、当然未完フーガ第2主題を暗示させてもいる。 この半音階性の濃い主題は、ミュンヒンガーCD添付解説では、第一副主題とされている。ところでこの半音階的主題は、39小節以降に現れる、私の言う落下の主題と、非常に呼応する。(ミュンヒンガーCDの添付解説では第2副主題とされている) 何故、この二つは呼応するのか。 また何故、落下の主題は、出現しうるのだろうか。 落下の主題は――ちょうど紙を、高い建物から落としたような線を描いて聞こえるので仮にそう名付けたが、面白いことにバッハの対位法の工夫により、他声部、主に低音部の援助によって、この主題は、まるで紙を投げ落とした窓から落ちていくものを見るようにも、逆に建物の下から落ちてくるものを見上げるようにも聞こえる――そもそも何処から生じたものなのか。これも、けして唐突に現れたものではないと私には思われる。 一番近しいところでは、この発想のもとになっているのはCp5(4声反行フーガ)の基本主題変形(同冒頭)及びその転回形(4小節〜)が、基礎であると思われる。この適度の躍動感は、落下主題の小刻みなリズムに移行しやすく、呼応もしやすい。 そしてまた、これらは先ほど述べた基本主題のCp3,4的転回の再現とも、呼応する(148小節以降) すると、このCp8を構成している3つの主題は、――副主題とされる、無関係で便宜的な挿入と思われるものも含め――みな同じ親(A及びその転回形∀の系列)から生じているにすぎないことがありありと浮かび上がって来るのである。

 

2004年02月20日 (金)

フーガの技法を毎日毎日聴くのは、実のところ平均律を聴くより余程厳しいものがある。平均律の時は――記すことは少しは大変であったけれど――毎日が楽しかった。しかしフーガの技法にとことん付き合うのはまだシンドい面がある。 音楽それ自身の巨大な重みと、一瞬たりとも気を抜けぬ精巧度の問題だけでもなかろう。あの長大かつ凄絶な世界観、あの精神世界である。 それとバッハ自身の音楽性が、たとえば平均律第一巻などと較べて二巻の世界がそうである以上に、いよいよ人生の終局フーガの技法にあっては、純-音楽的な自発性というよりはむしろ合理的・物理学的・思弁的自発性(生命秩序といってもいい)ともいうべきものが、彼の音楽の本質を担っており、そのおそるべき科学的有機性が「すなわち音楽的」自発性となっている、という桁外れたたくましさと厳しさに貫通されているために、それと長い時間対峙しているのは、さすがにしんどいのである。 しかし勇気もわく。バッハの音楽は、つねに生み出せ、構築せよ・構築せよと言っている(もし近年の、構築性という言葉に対する世界的アレルギー現象を考慮して言いかえれば、変容(的構築性)と言ってもよいが)。結局は何らかの構築「的作業」をすること以外に、ひとが救われないことを証明している。 逆説的に響くかもしれないが、或意味で、半音階性の極意とも言えるバッハの音楽性ほど、懐疑性を露わにしたとも云うべき表現もこの世に他に無いほどだが、それは言い換えればこういうことにほかならない。 懐疑するにしろ、徹底的に構築せよ。構築し、解体し、再編し再構築する、そうしてただひだすら構築する以外には、懐疑すら成り立たないのだ、そう言うかのようなメサージュに充ちている。懐疑もまた、じつは徹底的構築作業をまぬかれないのである。 そうやって不可知論にも、安易な相対主義にもうち勝つように、バッハの音楽は、フーガの技法は、言っている。 どんな哲学者よりも社会学者よりも、宗教家よりも真正な、弁証法的摂理――「真に」弁証法的思考と「生産的に対話的」なる精神とは何かを、彼自身の音楽を以て全身全霊、体現してくれているのだ。

ほんとうに貴重な宝物をのこしてくれたのである。

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明日から第一曲目からの分析に入りたい。

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ロベルト・シューマン-1(オマージュと付記、クライスレリアーナ)

2002〜3年にHPに記載したものを転載;冒頭のみ、2010.04.23にTwitterに記載したものを転載(一部補記、2010.08.16/08.20)
(吉田秀和氏)(シューマンの音楽)ショパンなどと比べればその和声はごたごたと錯綜していて、整理されていないようなところ...

この錯綜は、彼の魂そのものに由来しているとともに、――これと不可分であるが――理路整然としたバッハ音楽の構造と本質を引きずったかれの音楽そのものの構造から来ていることを思うとき、バッハとは何であるか、また彼自身に於てベートーヴェンを経由した(※彼の場合、それと同時にシューベルトも経由してはいるが)バッハ音楽とは何であるかといぶかしむ。それは (「未だ」) 整理されて「いない」、というニュアンスを越える。

(※…Twitterのツイートでは削除した覚えがあるが、元のHPの記載(2002/12/20)のまま、削らずに載せておく。付記10/09/29)

音楽美的な位相では「整理されて」いないかもしれぬが、思考や魂の質においては逆である。見えている人間の表現のほうが、見えていない人間の整理された表現より、これをふたたび整理するのに要する分、はるかに圧倒的な時間と精神的負担を要するのである。

錯綜とは、知的で論理的であることと相反するのではなく、知的で論理的で、良心的で反省的であるからこそ見えてくる世界、見えてしまっている世界、またそうした思考や精神の位相に付帯する状況であり状態であることを、つよく思う。

理知的で批判精神にみちてあることと、幻想的で飛翔的で錯綜する、ということがひとつの魂であること、またありうること。そのどちらかがBachの合理主義を必要とした、と考えるのも――理知性の側がBach的重厚さと理路整然さを求めた、と語るのも、錯綜する魂がその調停のためにこれを欲した、と語るのも、無理がある。 なぜならそれは‘ひとつの’魂であり、従ってBach的なものともひとつだからである。

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経験とは時間である。時間なしに経験できるのは神のみだ。つまり私たちは身体であるということであるが、そうした身体的存在にとって、世界という経験が現勢と潜勢の区別の、また現在に於ける過去と未来の区分のもとより付きにくく、その輪郭も曖昧ものなのであってみれば――すなわちそれ(まったき明証性も可視性もあらかじめ保証されていないということ)こそが主体と世界との間の現実なのであってみれば――、シューマンがメロディラインをけして露骨に描かずに交錯する旋律と旋律を跨いだある暗示性のもとに訝しげに辿らせたのはある意味で内面のリアリズムとさえいえるし、また彼の丹念にまたある意味執拗に追う時間が、<錯綜>するのは――つまり<錯綜>を、謂わば 継起的→転倒的(=遡行的)→再-継起的、時間の再編作業というなら――それはごく至当と言えるのだ。

シューマンの音楽、とりわけクライスレリアーナは、現前するとは何か、をよく物語る。音楽にゆきわたる、この<ずれ>。音列の錯綜(時には対位法の痕跡をそのまま残したような複雑な分散和音)ももちろんだが、このリズムのずれは、全き対象として自分自身を、他者を把捉できない存在、すなわち身体的存在特有の、時間感覚であり、匿名世界の中から主体(自己・他者)が――その意味とともに露わになるまでの延着作用であるとともに、その延着を待機しつづけ同時にこの暗示性の秩序に参与し働きかけていった、また働きかけられていたはずの、われわれという時間的存在の性質である。(付記:2010,08,16)

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クライスレリアーナのすべてがずれの芸術ではあるが、ことに最終8(Vivace a Scherzando)。この音楽に映しだされた、見事なまでの現前というものの暗喩性。そしてその運動のさなかにあって、このたどたどしく淡く錯綜する右手は「これまでのすべての」主題であったかにみえる出現しつつある意味であろう。が、その描き方はいわば<素描>――それはフロレスタンの跳梁として暗躍的旋律とリズムによって現される。がそれは<背景にうごめく>、出来事を先取りする素描である――にすぎない。にもかかわらず、このppによる素描のがわが、遅れつつ到来するもの、すなわち出来事としての受肉作用のがわ(左手)より、シューマンにとって「現在」の照準であるかのようだ。それでいて、ずれる左手の同音連打(=出来事の到来、またそのリアライズ;「覚」化)は、素描より“微妙な”遅れをとる楔打鍵を以てあまりに深く尖鋭的に現されることにより、意味の<重心>はこちらにかかるかのようでもある…(反省/把持)。この旋律はだから、たんに錯綜的であるばかりでなく、二重性を帯びる。

ところで、その出来事とは無論、偶有性としてのそれではない。物語のフィナーレにふさわしく、必然的なそれなのだ。まさしく到来、また意味の受肉である。なぜなら主体、及び*<ほぼ>同じように立ち会う他者の主体が、それまでたえずその到来を望み/半ば状況へと返し、編み込んできたことだから。つまりここにはそれまでの暗示性の秩序と、主体同士の<向き>の問題がある。つまりその主体(登場人物)たちはそれまで十分に待機的であったのだ。ずれの芸術とは、――それが時間的芸術であればある程――向きの問題と不可分だ。つまり、8にて到来する打鍵の出来事とは“真実としての”出来事(受肉)である。だからこの<到来>は、或る(遡及の)刻印を帯びているのでなければならないし、実際この音楽の場合、その刻印こそが――ホロヴィッツの演奏などを代表格とする――あの穿坑的な、延着する打鍵なのである…。

*<ほぼ>……(この主体に対する他者の主体による)侵犯可能性の部分。また不可能性=出会いそこない、の部分を担保する。つまり自己と他者の主体の間には、生きた呼吸=互いの自律性のための隙間があるはずである。これは(己自身の根源的疎外=)ずれの問題とも不可分であろう。

ところでこの音楽は勿論、ハッピーエンドとして理解していいのだろう。というのもこの8に於ては、この音楽全体の本質とは相容れないはずの――つまり自己は、他者はおろか自己自身とも完全には一致・同期しえない(※ナルシシズムの表現=形式としてなら別だが 10/09/29)という、言い換えれば予め他者の可能性を含まされることによって時空を閉じられないという、存在論的本質の問題がある。我々存在には、同一性と、同期性synchronizationの保証というものがあらかじめ奪われているはずであり、またじっさい人間シューマンの抱える根源的違和感・精神的危機の問題も、もとよりここから出発しているはずだからである(※と同時にこのことの、大きな要因になっているかも知れない現実的問題と、それの精神にもたらす亀裂に、この若い時点でのシューマンが十二分に「自覚」的であったかどうかは解らないが)――、死の飛沫すら漂う(何故「死」の飛沫と感じるのかは、後になって論理的にも理解できた。これ後述)ほの暗さの中にも幸福そうなほほえみを浮かべる、あのたゆたうユニゾンが登場する(27〜49小節)。これは、背景となった文学的には色々なモチーフと展開があろうが、その更に背後にただよう音楽上の意味性としては、勿論シューマン自身とクララの合一(理想郷)と見てよいであろう(その理想郷に死の飛沫がただよい跋扈するとは、いかにも彼のあまりに秀でた潜在意識のなせるわざであるともいえるし、皮肉なことにシューマン自身の人生の縮図とさえ思われるが)。勿論、このユニゾンに<最低限の>非-同期性(アルペジオ)を与えることをシューマンは忘れていない。このもっとも高度に純粋なロマンティシズムの処理には、祈りをささげたい。(付記:2010,08,20/12,21)

 

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2003年01月14日 (火)

シューマンの半音階性の強い音楽は、ひとつの和音のなかに主和音と属和音の同時的共鳴(ペダル使用で混濁しないよう、しかし前の残響を消さないよううまく余韻として融合させ、響かせる必要がある)がある。また、先に少し触れたようにいつ転調するとも解らぬ危うげな進行にみちており、事実調性記号の表記としてまで表わされなくとも、実際には密かに幾度も転調らしきをとげている、或いは転調が伏在している箇所、というのが多い。これと全く同じ現象はバッハの平均律の中でも遭遇したりする…。

尤も半音階法というのはおよそそのような性質を有しやすいのであって、その性質の色濃いシューマン以前の音楽と音楽家は、それだからこそ後世前衛音楽にも影響を与えたのだろうし、それらの音楽と直かに通じるのであろう。 ブラームスも晩年の間奏曲ではかなり半音階を多様していたし――もっともブラームスの間奏曲の多くはシューマンの音列を鏡状に映した、人生の返歌のようなものではないだろうか――、ベートーヴェンでは、後期弦楽四重奏などでは、分けても14番に於て全体にその色が著しくつよく、また13番大フーガなども無調音楽に無限に近い。バッハの音楽もまた、特に後期の大作に於てその性質は強まる。マタイ受難曲でも、例えばコーラス1&2によりかけ合いで叫ばれるLass ihn kreuzigenの短いフレーズの中や、69番アルト-レシタティヴォを導入するエヴァンゲリスト(テノール68)のたった3小節分の朗詠――die mit ihm ge kreutiget wurden――、この中に意表をつくような潜伏的転調が見事に織り込まれている。勿論つづくオリエンタルなアルト-レシタティヴォ(Gorgotha)そのものの変幻性も、眼を見張るものがある。

平均律クラヴィーアでは殊に第一巻の著名な短調作品、4番,8番などが端的で、つねに可変性にみちているのが解りやすいかも知れない。 例えば8番などでは、典型的には60小節〜marcatoに入っていく箇所、また64〜70小節への次のmarcato部分であろう。 曲想としては純古典的で理解しやすい5番フーガなどでさえ、調性をわかりやすくするための伴奏和音を自分で添え木のように細かく付けて追ってみると、実に微細に調性が動く、ないし動く「兆し」を孕む和音を挿入しつつ精妙な陰影をつけることに成功しているのがわかる。こうした例な一部にすぎないが…。 バッハとシューマンというのはこうした調性と(バッハの曲のフレーズと和声を<和音>に変換して鑑みた場合)和音の変幻性という点でも、互いに音楽的特性としてのひびきの要素が非常に近しいと想える。

さてクライスレリアーナであるが、対位法的性質とともに、このような和声と和音の構造もできるだけ気付いたことを記して行かなくてはならない、、、(i〜i)
(グランドソナタなどにも同様のことが当てはまると理解して戴くものとして)

 

2003年01月15日 (水)

<クライスレリアーナ>

複雑で立体的な構成上、また音楽的質等の点で非常にバッハ的であると同時に、(中期)ベートーヴェン色もかなり強い作品であるようにあらためて思う。

※昨日記した、転調のあまりに頻繁な部分は、シューマンの半音階法の必然的特徴であるから、およその転調のしくみを自分なりに解析し、◇に記した。
尚、注)も自分の思う所を記してみた。

  1. 第1曲:A(ニ短調)-B(変ロ長調)-A(ニ短調)
  2. 第2曲:A(変ロ長調)-B(ヘ長調-間奏曲1)-A(変ロ長調)-C(ト短調-間奏曲2)-A(変ロ長調)

    ◇C…ト短調-間奏曲2:ト短調-ニ短調-嬰ヘ長調(=変ト長調?笑)-変ロ長調*piu lento という変化。
    注)尚この*piu lentoが後、(4)・6・8番主題となる。(……と思う(笑))
    このように楽章の挿入部分や途中の展開部分が後の楽章の主題への伏線になることが多いようである。弁証法的である(デリダなどがこの言葉を以て捉える「ヘーゲル的」それではなく、<より細心で周到な>「弁証法」的)。

  3. 第3曲:A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)

    注)B=変ロ長調は、旋律の進行、付点リズムともに第8曲のテーマに通じる、一種の前口上風変奏曲となっている…と思われる

  4. 第4曲:A(変ロ長調)-B(ト短調)-A(変ロ長調)
  5. 第5曲:A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)
  6. 第6曲:A(変ロ長調)-B(ハ短調*)-A(変ロ長調)-C(変ロ長調支配)-A(変ロ長調)

    ◇C:変ロ長調支配…変ロ長調〜ハ長調〜変イ長調*un poco piu mosso/謝肉祭フィナレ?調

  7. 第7曲:A(ハ短調)-B(ト短調)-A(ハ短調)-C(ヘ短調支配)-B(ハ短調=移調)-A'(ハ短調+変ロ長調poco meno mosso部)

    ◇C:ヘ短調支配…ヘ短調〜ト短調〜ハ短調*non legato部
    とりわけベートーヴェン的パッショナートのつよい楽章と思われる(殊にnon legato部分)
    注)A'…poco meno mosso部:2番主題,*3番B,4番主題,5番B,6番主題らの緩徐長調部分と或る種の関係性を保つ→*3番Bが‘ト短調化’した形での8番開始(A)へと導入する

  8. 第8曲:A(ト短調)-B(変ホ長調支配)-A(ト短調)-C(ニ短調支配)-A(ハ短調-ト短調)

    ◇B:変ホ長調支配…変ホ長調〜(ニ長調;-ト長調〜イ長調)〜変ホ長調〜変ロ長調〜ト長調 →A(ハ短調A〜ト短調A)へ。
    ◇C:ニ短調支配…ニ短調〜ハ短調(ハ長調含)〜ト短調〜イ短調〜ホ短調〜イ短調〜ト短調 →A(ハ短調A〜ト短調A)へ。


    注)尚、第8曲に特徴的である絶妙なシンコペによる付点リズムであるが、恋愛感情告白の曲にしては知的(省察的・批判的)で、不気味なほどの雰囲気を醸す。これは調性的には、つねに転調に於る両義性を持ち合わせた、いわば鍵となる音であることを発見したように思う。この簡潔に選ばれたる音を故意に残し、次の調へとめくるめくトリック的転回を果たしている。

    注2)また、C部は、ベートーヴェン交響曲第5番「運命」のまさにピアノ変奏曲版という感じで付点を除けば不思議なほど一致する。(後述する<霊-愛>が「運命」によって遮断される、という訳であろう…。12/06/28)これはシューマンの、殆ど無自覚から出たものか、充分に自覚的な発想か、その意図は私には計りかねる…(笑)

クライスレリアーナ第8曲部分。ベートーヴェン交響曲第5番「運命」と似ている箇所
参考1:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ、第8変奏、74〜75小節

参考2:→譜例、ベートーヴェン交響曲第5番冒頭部(別窓リンク)

 

2003年01月16日 (木)〜2003年01月17日 (金)

<クライスレリアーナ>続

第1曲

A-B-A

A…2/4拍子:1小節当り<16分の3連音符×4>でつながっているが、各3連音符の真ん中がつねに最も低い音である。もしこれらの各最低音のみを選び独立させて、1つの声部として繋げ、残りの2つの16分音符を別の声部として繋いで行くと、

a:イロハホ-イロニヘ-♯ロ ♯ハホト-♭ニ♭ホイハ… b:ホトヘイト ♭ロイハ… c:イニホヘト ♯トイ… =(左伴奏部)

以上の3声部による、どれもバッハ的でうつくしい古典的な諸旋律のからみが出来上がる。 b(内声部)とc(通奏低音?)だけで作られる音楽はベートーヴェン風に近いが、aが多分に半音階進行的――といっても勿論シューマンらしく飛翔的ではあるが――なため、シューマン独特に聞こえる。

B…これもリズム上Aを引き継いでおり、 旋律的には第2曲A(主題)B(間奏曲)、第3曲B、第4曲A、第6曲A、第7曲A'peco mono mosso部、第8曲Aなどに、はやくも暗示的に通じる。また リズム的には第2曲C(間奏曲)、第3曲A、第5曲A、第7曲A、第8B曲などへの伏線になっていると思われる。

 

第2曲

A-B-A-C-A

A…この主題は、かれ自身の交響曲第2番4楽章の終盤(到達点)と同じ原体を思わせる(とくに5:50周辺)。それはつまり、前田昭雄氏など複数の研究者が交響曲2番(幻想曲ハ長調op17でも同様)に於てこの由来を指摘するように、ベートーヴェン「遙かなる恋人に寄せて」を彷彿させるということである(11/01/14)。→###(但、最後尾に付記。ベートーヴェン「幽霊」op70-1他について 12/06/27)

と同時に(後述するが)殊に8との濃密な関係が、見いだせる。(シューベルト「死と乙女」。シューマン自身の交響曲第1番「春」にも反映)→####(同じく、但、最後尾に付記。ベートーヴェン「幽霊」op70-1他について 12/06/27)

そしてこのパッセージのしめくくりは、弱起1拍目に当たる印象的なsfp指定の繰り返し和音。ペダル記号が随所に記されており、殊にこの和音部分には精妙さが要求される。これらの和音は前旋律の残響として巧みに漂わせる主和音(♭ロニヘ)と新たに響かせる下属和音(イハ(♭ホ)ヘ)との共鳴により、不協和音ぎりぎりの両義的余韻を醸し出さなくてはならない。 この冒頭5小節のフレーズ自身は必ずしも半音階法ではないが、これに近い幻想的効果を要求される。次の8小節目冒頭和音ハ♯ニ_(ニ) ♭ロハ、9小節目冒頭ヘロ ♯トハ、これらはとりわけ不思議な余韻を持つ。11〜14小節にもこうした不思議な和音は低音の装飾音符とともに重厚に打たれる。古典音楽でいえばこれらの冒頭鳴らされる低い装飾音符は通奏低音の役割であり、これに対し高音部も♭ロ音で続けざまに鳴らされる。主旋律は右と左の一部同士で交錯する内声部であり、これのみを抽出してもバッハ的雰囲気である。 18小節後半からはまた、通奏低音付きで非常にコラール的な、上昇/下降同時進行の対位法3度差並行との下降と、これらに対し転回形をとる上昇声部(右手最上旋律)が用いられる。このフレージングのまとめとなる22小節ritard.部の和声はまたバッハ的交錯をみせる3声部で絶妙である。

B…intermezzo1:準_対位法的
左手低声部のバッハ的動きと右手内声部がうつくしい交錯をなしカノン風な単純フーガのようでほぼ対位法の関係になる

C…intermezzo2:対位法的
平均律第1巻1番prel.を短調化したような動きの内声部を主旋律に、右上声部と左低声部(octv.和音)が ♭ホニハ/イト ♯ヘと、5度差のフーガがカノン形式的にズラしつつとられている。尚この左低音部はoctv.で行われるため、その重厚さは進行するフレーズ自体とともにベートーヴェン的である。 5小節目の後半から、転回形(2度ではなく3度ずつ跳躍する転回形)に準じるカノン式となる。 10小節目からは濃厚な半音階法旋律となり、平均律prel.的内声部も半音階的、右上声部と、転回形である左低声部のフレーズ進行も半音ずつ上昇乃至下降する。が、平均律prel的内声部の動きの効果のため、フレーズ全体としては上下蛇行しつつ上昇・下向する形となっている。

piu lento部…この存在自身が4番A(主題,ことに2小節後半〜4小節)、6番A(主題)の幻想性に対する潜勢要因となっている。

きわめて半音階法濃厚。6度差の単純フーガ(並行)とこれの転回形の交錯する3重フーガ。 9小節目最後部からは左の上下2声部がイ音を軸に水に映した絶妙な転回形で交錯し、そのうちの上声部は右内声部(主旋律)と半6度の並行。 その後Aのテーマが左右10度差で織りなされ、転調してふたたび6度差で織りなされるが、このふとした夢幻的転調は、基本的にはイホ ♭ニ、の1和音だけで瞬時に!なされてしまっている。(変ト長調→変ロ長調)

 

第3曲

A-B-A

Aは、ややベートーヴェン的フレーズである。 が、ベートーヴェンであれば、3連音符の中間音を、むしろ3連音符から毎度はみ出す次8分音符(スタカート付)の方へ持っていくだろう。その方が音は連続的であり、より古典的、正統的である。だがシューマンは殆ど意表をつく音列のほうを選ぶ。この奇妙な配置の性癖が、旋律の上でもシューマンのリズムの有つ<跳梁性>を、活かし,高めている。

ここは、直接的には 第1曲A=ヘ短調 がト短調に転移した形の変奏曲であろうが、弁証法的思考の必然性からいえば、第2曲のIntermezzo1&2を経由していなければ発生してこない楽想のながれである。これもまた、(ともすると挿入部が不意打ちのように介在するのはシューマンならではの奇矯的展開であるにせよ、音楽的分析がたんにそこに留まるだけでは不十分であるばかりか非本質的であるとさえいわねばならない)このクライスレリアナが非常に立体的、螺旋的で有機的な――すなわち(ヘーゲル的意味ではなく逆に)<ベートーヴェン的意味における弁証法的>な――構造のゆえんである…。

3連音符の中間音が、左通奏低音(octv.和音)と並行し通奏的であるが、これを除去した声部をフレージングすると、非常にバッハ的な音列となる。或いはまた、3連音符の第3音をも第2音(=中間音)とともに取り外しても面白い。この場合のほうがベートーヴェン的なものに近い…。

他方Bは、第2曲テーマ(A)をひきずりつつ、既述したようにすでに第8曲テーマ(A)への潜勢的条件をもそなえている。これも弁証法的進行のひとつである。 シューマンの長調(部分)は、長調とはいっても、殆どの場合ひどく短調的気分に浸っている。この点でもバッハに通じるものがあるが、いつでも短調を内包しており、この面でもつねに自己自身が両義性の境域にいる。まともに長調と言い切れそうなのは、第2曲テーマくらいなものであろう。このB冒頭=変ロ長調も、本質的にハ短調への気配を潜ませており、実際、早々に左手第2和音(♭イハ)がこのからくりを端的にものがたっている。尚この和音がoctv.=♭イ♭イでないのは、――#普通ならば選ぶと思うが――、おそらくこれ自身生きた内声部(4声のうち2番目に低い声部)として働いているからであり、上の方の♭イ音を線で採ったこの旋律が4小節から、内声部であるまま交錯的に主旋律となって追従するハニホヘトイロハニホ…の上昇――冒頭テーマ旋律と5度差の単純フーガ――とひとつの旋律になって繋がるからであると思われる…。。それは非常にコラール的である。 尚戻ったAの最後部、piu mosso部は、非常にベートーヴェン(熱情)的である…。この部分も、右手3連音符の中間音を除いた主旋律は、左低音部と対位的(転回形)であり、他方この右中間音のみ独立させると出来る内声部が、左手3連音符の第1音を独立させたものと対位的である(ハンマーは同じ音を打つが、タイミングが1/2小節カノン風にずらされる。=両手は交差する)

 

2003年01月17日 (金)

第4曲

A-B-A

Aは、全体的にはひときわバッハ平均律的な半音階法の精妙さが伏しているが、2度目のA、曲のしめくくりの3和音は非常にベートーヴェン的で重厚な和音である。(A主題全体としては,否Bも含め4全容か?、がシューベルトのD960を想わせなくもない。すべての音を和音にしてみると似たものがあるのではないであろうか。付記10/10/03)

B=piu mosso部は中〜後期ベートーヴェン的である。が、バッハ平均律風でもある。

※こうした古典のコラール的要素を詩情溢れる分散和音風にもつれさせる力量がシューマンならではである。ちなみにシューマン自身としてはこのB Piu mosso部は音型的には同じように夢幻的憂いを帯びたフモレスケを(こちらは長調であるが)去来させるものがある。(※付記10/10/03)
譜例クライスレリアーナNr4-001(Kreisleriana-Nr4 Piu mosso)
参考:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ-4 Piu mosso
譜例フモレスケ冒頭(Humoreske)
参考:↑譜例、シューマン・フモレスケ冒頭

 

Aの諸声部関係はコラール風であり、同時にベートーヴェン中期(悲愴・テンペストの主に緩序楽章)風である。 気分的には第2曲テーマをひきずっている。 2小節目トリル(32分=トヘホヘ-ト)また3小節終トリル(32分=ハロイロ-ハ)は、微細な刻印ではあるが、ここで4曲自身のB―piu mosso は勿論、第5曲の冒頭躍動的16分音符を非常に想起しやすくなるのは驚きである。また第6曲テーマ(A)殊に5小節目、7小節〜の上下向する32分音符、第7曲、殊にC―non regato部―、などを予兆する。と同時に、過ぎた 第1曲のB部分(直接的にはここから発生して来ているかも知れない)、また第2曲テーマ(A)とくに最後部32分音符、などの余韻をひきずっており、発展しつつも反省的である…。これらのトリルが、左手の下降を伴いつつ、旋律としてまとまると(6小節目=トロ ♭イ トロイ)、いよいよクライスレリアナ本体として受肉し、第1曲A展開部(11小節以降,冒頭反復記号以下)の想起、と同時に第6曲と、第8曲の気分に迄見事に通じてくる。

Bの省察的主題は一応長調であるだろうが、やはりまた短調の色彩が濃い。当然第2曲全体(長調的側面としてはAテーマの他、短調的側面ではIntermezzo部分も含)にわたる 反芻であるけれども、同時に第1曲B、平坦化した音列的には、第3曲とも対位的(転回形)であるかも知れない。

 

2003年01月18日 (土)

第5曲

A-B-A

A(ト短調)-B(変ロ長調)-A(ト短調)

既術したように、先の第4曲2小節目及3小節終の32分トリルが促す曲想として、第5曲が開始する。 この右旋律は、第1曲Bの左手の動きとも通じるし、同旋律を、16分音符,8分音符,休止符などのリズムを無視して、同じく第1曲の、冒頭主旋律;3連音符×4の函数に入れると、或る種の変奏曲としても意識されるだろう。 5小節目からは非常に対位的であって、フレーズ全体としてはニハロイトヘホニハ;トヘホニハロという2声部の掛け合い(4分音符ひとつ分のズレを保つフーガ)のように聞こえるが、octv.奏法をとっており4声部で成立っている。この際、右-下声部と左-下声部は、シューマンらしいリズムの役割を果たしつつも、この下降旋律(右-上旋律と左-上旋律の掛け合い)の各発起と終始に<つなぎ>の役割を果たしている。つまり、右はニ…ハ/ヘ…ホ/イ…ト,左は ♯ヘト/イロ/ ♯ハニ,という具合。

ところでこの下降旋律自身は、第2曲主題7〜8小節(ヘホニハ_ハロイトヘ)に呼応するし、これを含めた4声部のoctv.規模の交錯としても構造的に準ずるものがある。シューマンらしさのひとつであろう。 同時にここでも左の不気味な跳躍は、第6曲B=unpocomosso部と第8曲の気分を、すでに漂わす。

√2(15小節)からは、第1曲テーマを激烈でなく緩く弾いた時のような雰囲気を引き連れつつ、第2曲テーマAの展開部(10小節目〜,特に左低音部による主旋律の動き)の変容をも、いわば遂げたものであり、第3曲B=menomosso部をより半音階風に変奏したものであるともいえる。これが、先の第4曲主題Aとも連じるのである。こうして、ここ第5曲で、後の第6曲主題A、さらに8曲A,B,C(殊にB)を取り持つ中間地帯のようなものになりつつある。 この辺りも非常に変幻自在に転調の施されていく箇所であって(変ロ長調〜ヘ長調〜変ロ長調〜変イ長調)、この多義性にはうなるものがある。一度目の変ロ長と次の変ロ長とは全く志向性の異なるものであり――<ロ ♯ヘトロ>→<ロ ♭ヘ ♭トロ>、その証拠に転調先がへ長から変イ長に、替わるのである。こうした音階の奥義を短いフレーズで端的に示している。

ここでは、旋律自身もそうであるが、左和音の曖昧さが、これまた多義的な際だったうつくしさを醸している――keyになる和音:ハホ→ヘ ♯ハイ→ニ ♭ロヘ→♭イホハ――。それもoctv.を越す幅広い分散和音であるが、もともとピアニストという弾き手の物理的構造から生じた音楽というよりは、コラール的な4〜5声部の広域和声で対位的に生じた音楽であるので仕方がない。(笑)

ところでこのめまぐるしい転調の、一連のフレーズを終わらせる、何気ない左内声部の♭トのたった1音がまた印象的であって、こうした鍵となる1音というのは、見つけ出すのがあながち容易でないはずである。鋭い知性であり、音感である。

こうした点でも、シューマンの音楽とは無駄に、或いは未整理に能弁なのではなく、端的な表現は表現で、心得ているのであり、その他の和音の不自然なほどの重厚さ・リズムの錯綜は、むしろ対位法などその古典的傾向、すなわち交錯した構造上の問題から由来しているのであることがわかる。

Bの a tempo部は、バッハ平均律第2巻18番fugaと同根である。だがここでは故意に、これまでの錯綜したタッチとは異なり、左右同旋律を奏でており単声風である。このシンプルさは、グランドソナタのクララの主題も彷彿する。 このホモフォニック効果が後の情感の上昇性(64〜68小節〜)に働きかけている。その後、自問的となる(69〜72小節)が、ふたたび向上し、展開部の頂点を迎える。この辺りは非常にベートーヴェン的である。頂点のff(88小節〜)以後、比較的安定したっぷりした90小節以降、明るいうねりのような右手8分音符による進行は、事実上前2音(octv.差)だけで前進していくが、後2音はシューマン独特の半音階的反芻性にみちる。左手進行の半音階法とともに、この前進に幻想的余韻と厚みを与えている。 だが和声の構造上は、右前1音目はどちらかというと左手和音のがわに近く、右-上声部と左-下声部とがともに半音階法で呼応している。

 

2003年01月19日 (日)

第6曲

A-B-A-C-A

A(変ロ長調)-B(ハ短調*)-A(変ロ長調)-C(変ロ長調支配)-A(変ロ長調)

第6曲は全体に、とみに半音階法の特色顕著な楽章である。平均律風(第1巻5番prelや特に第2巻20番fugaとは、曲想はともかく音列的には同根である)

Aは、暗い雰囲気は保たれているものの一応長調であり、基底には第2曲と、また直接的には第4曲Aから変換されているが、第5曲のリズム・気分、また特に√2部(15小節〜)が、もし先になければ生じてこないものであろう。緩徐楽章の置かれる順序として先に4曲テーマ、後に6曲テーマ、となるのは至当である。

同じように、B(ハ短調)への導入部5小節目と、Bに入ってからAに還帰した15〜18小節に、ホモフォニーないしホモフォニックな音列があるのも、5曲(先述したB部)を経由した所以である。

ちなみにこのB部(ritardando〜)は、バッハの宗教音楽をも想わせる重厚なコラール風4声編成であるが、7小節目以降<4分音符+32分音符×5>+<4分音符+32分音符×5>は、第2曲から変奏的に生じている短調であるとともに第7曲A(テーマ)の暗示である。

Bの終息11〜12小節目のやや沈滞した瞑想的気分は、第2曲の名残である。 それを契機にもたらされる13小節以降は、左低音部に主旋律を移した形で再びAに帰るわけだが、同じく第2曲の主題フレーズの長調風余韻の蘇りとともに、リズム的には第5曲Bが非常に潜在的に生きており、このAの主題が、いかに融合的変奏曲となっているのかがわかる。

C(6のUn poco piu mosso以降の部分)は、典型的にシューマネスクな音型。端的には、謝肉祭フィナーレ(「フィリスティンたちを打つダヴィド同盟」)(※ここでは、Michel Dalbertoの演奏で、1:55秒〜を参照)であるが、付点や休止符が躍動的に働くダヴィド同盟のテーマも、ここでは寧ろ省察的人間特有のひきずるような足取り、憂愁を帯びた、或る種の感情の<もつれ>をあらわす音楽として出現していて、グランドソナタ-クララ・ヴィークの主題からのアトモスフェールを想起させる。

構造的には左低音部が通奏低音の役割を果たし、主旋律(ダヴィッド同盟風)は右高音部が担ってはいるが、この特有の愁いを帯びた雰囲気そのものは、付点と休止符を活かした左/右の内声部のモチヴェションに負っており、両者の関係は、ほぼ対位的(単純形、及び後半は転回形)である。

 

2003年01月20日 (月)

第7曲

A-B-A-C-A

A(ハ短調)-B(ト短調)-A(ハ短調)-C(ヘ短調支配)-B(ハ短調=移調)-A'(ハ短調+変ロ長調poco meno mosso部)
◇C:ヘ短調支配…ヘ短調〜ト短調〜ハ短調*non legato部

どの部分も、中期ベートーヴェン性のつよい楽章。(殊にnon legato部分)

A冒頭部分は悲愴3楽章(Beethoven Op13 Pathetique Sonata 3rd)に、non legato部は熱情3楽章(Beethoven Op57 Appassionata Sonata 3rd)など。(付記10/10/01)

Aは第1曲Aの変奏曲である。(※厳密にはここでも第8曲に最も端的に現れるソドレミ♭ファソド…(下部枠内注を参照)、Aの原体短調の変奏曲というべきであるが、同時にベートーヴェン悲愴のソドレミ♭ファレミ♭ドが被っている。付記10/10/01)

第2曲intermezzo2部も起因する。また同曲次のpiu lento内声部主旋律(ハニ #ニホヘホロホ #ハニロ #ハニ #ニホイトヘトホヘニ)も、ここの主題構成に影響を与えているだろう。そうした意味で有機的立体的に統合されている、といえるが、より直接には、左右旋律とも第3曲が構造的にもっとも近い。が、第5曲の付点と休止符を抜いた16分音符による繋がり×3、というリズムの延長、また旋律的に5〜6小節(同型が10小節までつづくが)を、タイをもう1つの音符と捉えた場合のvariationと捉え、結合させたものと言えなくもない。

Bは第1曲A後半(11小節〜、殊に14・15小節の右最高声部ニト→ハヘ→ロホ→イニと下降する部分が、7曲B15小節〜ロホ→イニ→トハと下降するのと呼応)と、同第1曲B(左右旋律がひとつに繋がっている特徴)、またこれらのことを含めつつ直接的には第5曲Aに起因する。

Cは第1曲Bを短調化したもので、ハ短調から転調を伴いつつ、4度差のフーガ(ト短調)、また転調して単純フーガ(ハ短調)となる。その後再び左手主題と4度差となり(ト短調)、以後めまぐるしく転調を(ト短調→ハ短調と)繰り返す。

A'poco meno mosso部は、最高声部と最低声部のうごきのコントラストが非常にシューマネスクなフレーズであるとともに、コラール的な要素が濃い。 先述したように、2番主題(ラ(orファ)-シ♭-レ-ミ♭-ソ-シ=長調が原体),*3番B,4番主題,5番B,6番主題らの緩徐長調部分と或る種の関係性を保っており、これ自身は変ロ長調の開始であるが、変ホ長調に変位し、♭ホト ♭ロで終始しておくことで、これが変ホ長からト短調(ト ♭ロニ)への変位の鍵を保つことで、すでに第8曲が潜在的に始動しつつある→*3番Bが‘ト短調化’した形での8番開始(A)への導入が準備される。

 

2003年01月21日 (火)

第8曲

A-B-A-C-A

A(ト短調)-B(変ホ長調支配)-A(ト短調)-C(ニ短調支配)-A(ハ短調-ト短調)

A☆について。左手進行は、第1曲A、第3曲A、第5曲Aなどに近い。右進行と含めて言えば、第1曲A後半(11小節〜)を反映すると見られ、これとかなり対位的な関係にある(主に転回形に近い)変奏曲とも想える、第1曲B、第2曲Aの一部分(10〜15小節)、同第2曲B、第3曲B、第4曲A・B、第5曲、第6曲C-un poco mosso部、第7曲全体、etcetc.と殆ど全体にかかわり通底するものが潜む。

☆…このト短調主題ファ♭(orレ)-ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ソ…をニ短調にすると、ラ-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-(ラ)-レとなり、より無意識相での強靭な反復強迫に見舞われ続けるシューベルトの死と乙女第5楽章と同様になる。この付記は前田昭雄氏著「フランツ・シューベルト」(春秋社)による提示「ソドレミファソド(ソ)」から、主に死と乙女第5楽章を最も端的と想起した為、記載。10/09/29
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そういう意味から言うと、クライスレリアーナ全体を貫くのは、つまりAの原体とは(ファ♭またはレ)-ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ソ【短調】、(ラまたはファ-)シ♭-ド-(レ)-(ミ♭)-ファ-ソ(-シ♭)[その逆(シ♭-)ソ-ファ-ミ(♭)-レ-ド-シ♭-ラも出現する]【長調】――この場合、そのもとになったベートーヴェンの「遙かなる恋人へ」を彷彿とさせる、幻想曲ハ長調op17コーダや、より近いのは交響曲2番4楽章の終盤の変容(ハ調で書くと、ラシドソファソファミ-「ラシドミファ(ソ)(ミ)」)を彷彿とさせることにもなる(※これについては、前述を含みつつもじつはのちにベートーヴェン幽霊を基にしたものであることが判明するがそれは後述。 ###および####について、の記。120627)――といったものかも知れない。したがってその原体を長調の方から最も端的に見い出す場合2番から、となるし、短調の方から端的に見い出す場合8番から、ということになるだろう。
ところでこの原体の始まりの音を、ファ♭(短調)/ラ(長調)と、次音に近く解すべきか、レ(短調)/ファ♭(長調)と遠く解すべきかは、正直よくわからない。2番・5番・6番・8番では全体としては二股を掛けられているが、2番Intermezzo2・3番冒頭・5番冒頭・7番全体などでは遠く解され(これらはいずれも4度乃至5度を一足飛びに翔るフロレスタン的跳躍の鍵となる)、2番Intermezzo1やPiu Lento部、3番Meno mosso部、5番展開部(15小節から)などは、バッハ的幽玄さをもたらす半音階進行か常に転調予感を孕むファジーな展開仕様のため(オイゼビウス?)、近く解される。シューマン自身(和音または部位により)二股を掛けているように感じられるが、やはりもとは直接?「死と乙女」と同じ原体(★sym1「春」同様)を――適宜ベートーヴェン中期やバッハ的半音階進行を織り交ぜながらも――土台にしていると考えられるのかも知れない。10/09/29  また「遙かなる恋人」の方(★★sym2同様。但、より厳密には「幽霊」というべき 120627)を原体に近づけて考えれば、その逆になる。11/01/14
★…この8のAと同じワンフレーズは交響曲第1番(春/spring)Op38第4楽章(0:48〜1:05秒)にも登場する(下、譜例)
★★…交響曲第2番4楽章の終盤(到達点)同(承前。2の説明部分、交響曲第2番Op61第4楽章、ここでは5:50秒辺り)
(ハ調に直して)ソドレミファソドソミレファミレド。 そのせいか同「冒頭」(0:00秒〜)はクライスレリアーナ2-A(原体:長調)を想わせなくもない(笑)。(付記10/10/04)

死と乙女第5楽章冒頭
参考:↑譜例、シューベルト・死と乙女第5楽章冒頭(ピアノ版から)
クライスレリアーナ8冒頭譜例
参考:↑譜例、シューマン・クライスレリアーナ8冒頭(A部分)
交響曲第1番(春/spring)Op38第4楽章におけるクライスレリアーナ8-A部分同様のフレーズも参照(前述)

 

一体この8は(2との濃密な関係=原体の長-短調的関係であることを考え合わせると)、クライスレリアーナ全体の原基であるとともに、「死の予感」(死と乙女)と「霊的愛の成就への希求」(遙かなる恋人に寄せて&不滅の恋人&幽霊op70-1)が一体となった音楽といえるとは…。

 

さてシューマン自身は[ die basse durchaus leicht und frei ]と記しており、「謝肉祭」にでも出てきそうな役柄たちと通じる軽妙な気持ちを込めたのかも知れないが、実際に聞こえてくる音の世界は神秘的なほど暗く省察的で、ときに無機的ですらあり、遊戯風に跳躍するリズムには、冷めたものさえ感じられる。 微細な付点と休止符にみちあふれ、その付点の効果はバッハ マタイ41番tenore-Ariaや66番Bass-Ariaでの、ヴィオラ・ダ・ガンバ,ソロによる導入部すら彷彿させる程、ぎくしゃくとした何か黙秘的なものがある。音列的にも、一見跳撥するようでありながら半音階法を酷使しており非常に近しいものがある。

Bは左octv.和音(アルペジオ付きユニゾン)の声部が主旋律であって(シューマンとクララの勝利のランデブーと理解出来る)、右の舞踊的、跳梁的リズム(フロレスタン?)がこれを背景的・素描的にたゆたいつつ装飾する。基本的に変ホ長調支配。冒頭の変ホ長調からト長調〜イ長調へと変わる、と書いたがその前提として、一瞬のハ長調と、あらかじめニ長調及び変ホ長調(再)が、予言的支配をしており、ふたたび変ホ長調へと戻る。→変ロ長調〜ト長調。 この辺りはじつにバッハ顔負けの程一時もじっとしていない転調ぶりである。→A(ハ短調A〜ト短調A)へ。

Cも、基本的にはニ短調支配でベートーヴェン的な激烈さを伴う。よく聞けばベートーヴェン交響曲第5番「運命」の変奏曲という感も抱く。付点を除けば不思議なほど一致するのである。(既出。上記譜例1)ややグランドソナタ風でもある。

始めのニ短調〜ハ短調(ハ長調と交互に、と捉えられる)。この後、極めて微細に転調、ト短調〜イ短調〜ホ短調〜イ短調〜ト短調とめまぐるしい。→A(ハ短調A〜ト短調A)へ。

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このAへの帰還の際、(一見)意表をつくズレを伴う――というのは、右手進行の暗示的動態(反復強迫)とは旋律上ほぼ無関係に(がじつは呼び込まれる形で)、しかもやや延着して、打ち込まれるのである――断片的羅列としての左手和音の穿坑的打鍵が、怜悧な歓びの覚醒として進行する。これは最上部で記したように待機したものたちへの出来事の到来(真実としての受肉)とそのリアライズとしての<楔>(存在論的にも、こちらの方が右手の予告的素描のうごめきより当然遅れをとるのである)といえるが、少し言い方を変えれば歴史の打鍵(振り返りの打鍵・時間=意味の再生としての打鍵)ともいえよう。だから意表をつくとはいえ、それはまったき偶有性ではなく、成就=必然性としての出来事である…。

先述したように、これら絶妙なシンコペによる付点リズムによって鳴らされる左打鍵の音は、厳選されたものであって、調性的につねに転調に於る両義性を持ち合わせたいわば鍵となる音である。この簡潔に選ばれたる音を故意に残し、次の調へとめくるめくトリック的転回を果たしている。(第8曲について。一部改、2010,08,20)

 

上記、###と####について(12/06/27)

タータタ、タータタ、これはベートーヴェンsym7第2楽章で繰りかえされる律動――ダクテュルスdactylusというらしい(久保文貴様より 12/09/05)――の影響を引きずって、クライスレリアーナの終曲8番にもタ、タータ(タ)、タータ(タ)というもう少しシューマンらしい吃りのようにぎくしゃくとしたリズムが不気味に(というのもsym7-2楽章のリズムのみならずある種の暗鬱さも同時に投影されているのと、死と乙女の付点との合体の故であろう。ベト7-2楽章の投影ついてはのちに触れる)刻まれる。この暗躍的跳梁律動をも伴いつつベト7自身のバックグラウンドが、この終曲8番には貫通している。(この躍動感と背景の正体は第2楽章のみならずベト7の他楽章も伏在しているといえよう。)

バックグラウンドの暗示でもっとも顕著なのは2楽章と思われる。それに、シューベルトの「死と乙女」が、シューマンの潜在意識の中で混じっているのである。なおかつ、たんにこれらの結合とだけ言って片づけられるよりニュアンスは深く、同時に「幽霊(op70-1)-不滅の恋人(ベト7sym op92)-遙かなる恋人(op98)」【※これらはベートーヴェン自身にも通底するしシューマンの中でもしばしば癒着・連動する。私はこれを霊-愛の旋律と呼びたい】由来が頻出する。記事最下部に記した、naxosの「幽霊op70-1」リンクでいう、2:12-2:47辺りの旋律(ファーミレドレミファソラシ♭ドレ…シ♭ドレミ♭ファソファソファミ♭レド/ファソラシ♭ドレドレドシ♭ラソ…の動きは、クライスレリアーナ第2曲の霊ともなっており、つまり最終曲8に於る右手旋律の、二股のうちのひとつ=波動のゆるいオイゼビウス側(ファ♭-ソラシ(ド)レミ…=「幽霊」主題)=上述した跳躍性のない半音階性を帯びた側、に投影しているといえる。)

ベト7(op92)は、ベートーヴェンが傑作の森(曰くロマンロラン)の実り豊かな中期の時期を経て、深刻な苦境に陥るもこれを克服する頃の作であり、不滅の恋人の旋律といえる。事実この時期、双子のようなもうひとつの旋律であるところの、シューマンの好んだ遙かなる恋人に寄す(op98)も作られている。繰り返すがふたつはしばしば変奏至芸の下で互に誘発連動するし、幽霊とも癒着する。

ベト7op92の2楽章を長調化すると、幽霊op70-1/遙かなる恋人op98の最終曲――シューマンの好んだ有名な旋律、たとえば幻想曲やsym2・ピアノトリオ2(全体がベートーヴェンの幽霊op70-1と遙かなる…op98のメタモルフォーゼとして出来上がっている。同時にこのトリオは、幽霊-不滅の恋人(「第九」へも繫がる)-遙かなる恋人間のメタモルフォーゼの往来をより自覚的に導入――グレイトの発見と自身の交響曲作曲以降、シューマン自身にとってより意識に上りやすくなったのであろう――したうえでの、ピアノ曲グランドソナタ(/幻想曲)/クライスレリアーナ合成型焼き直し作品と私は捉えている。これについては別記事でも述べたい)・弦楽四重奏曲第1番 Op41-1 4楽章(ピアノトリオOp80と同じ、自覚的導入による変容の和合旋律が、楽章全体にラズモフスキー色で震刻される律動とLvB晩年SQのOctv裂開旋律風の交代劇の間に登場。これも最下部【付録】スコア参照。ちなみにこの第3楽章はLvB晩年SQ各モティフの複合的薫りを継承した渋い弦の語法と空気感に導かれる「第九」-3楽章のモチーフでできあがってもいる *…これについて小文字で下記に注。)・弦楽四重奏第2番(2楽章の冒頭直後に天使の主題―後述―が登場することでも有名であろうこのSQも、4楽章にはLvB-op98のおなじみの部分がそのまま露出するが、これまたLvB後期SQの薫りで彩る作品全容のなかにLvB-op98のメタモルフォーゼを巧みに展開させる形で仕上がっていると思われる)・op88(2楽章はLvB-幽霊op70-1による開始と不滅の恋人モチーフop92による応答、加えて3楽章では遙かなる恋人op98モチーフとがシューマンの中で合成されたもっとも典型的な作品といえよう)etcetc...らにも登場する、なじみ深い旋律群――に似てくる。

下線部について…

シューマンSQ1番(Op41-1)-3楽章冒頭は、LvB-SQ15番最終楽章の速いパッセージ、エリーゼ由来旋律(ファードミレシ/ミーシレドラ=これは、――より厳密にはエリーゼと、sym5を貫くエクリチュールとの融合と言うべきだろうか――最も直接的にはSQ15番-最終楽章から生ずるといえるが、第九3楽章主題とも同じ基である。ちなみに同シューマンOp41-1に於ては第1楽章でもこのエリーゼ由来転回形のメタモルフォーゼが二度登場する)後の、チェロのうなるようなかけあがりと酷似した形で始まるが、このかけあがりはトレースであろう。それからすぐ最初の3音が第九の3楽章を彷彿とさせる旋律にうつるが、これ=第九の3楽章主題は、LvBにとってもエリーゼ(ファードミレシ)と同根のメタモルフォーゼであるとともにSQ同15番3楽章テーマの(準-)転回形とその転回形(元に戻る)でもある、ということができる。もともと第九とLvB後期SQはエクリチュールが密接に通じており、当然シューマンもこれを理解していたと思われる。ただそこに同時にLvB13番-5楽章のほの明るい慈愛の諦観がシューマンの頭の中で混じっているようにも聞こえるのである…。いずれにせよクライスレリアーナからは外れるので、これについては別記事で記したい。

 

逆に言うと幽霊/遙かなる…を短調化すればベト7の2楽章に近づくのであるが、それと同じ基(エクリチュール)がクライスレリアーナの8に、否、全体に、流れているのである。8に関してはシューベルトの死と乙女(レソラシ♭ドレソレ。フロレスタン的跳梁の側)と合体しつつ、LvB op70-1旋律=op92律動 由来(☆ファ♯ソラシ♭ドレミ♭…、ここは、8の旋律内に織り込まれているもうひとつの線、すなわち「オイゼビウス的半音階性の強い側面の旋律」=同クライスレリアーナ上第2番的原体にも近づいていくもの)が交錯しつつ、ずらされつつ、跳びたゆたう。ここは、(2と8の原体が)「二股を掛けられている」、と上述したところのものである。

注)☆これ=シューマンに於る幽霊由来旋律―スコアとともに後述―はベートーヴェン自身に於ても勿論、幽霊op70-1に登場しつつも、遙かなる恋人op98(=同じ調で言うとファーファソラ♭ーミ♭ミーレ♭ード)、不滅の恋人=sym7-2 op92(同じ調でいうとファ♯ーファ♯ソ♯ラ♭ーラ♭ー、ミーミファ♯ソーソー)、第九(ファソラ♭ラ♭-レミ♭ファファ-シドレレ-ファソラ♭…/ファ♯ファ♯ソラ{ラソファ♯ミレ}レミファ♯…)にまで通じていくもの。ちなみに――第九ということはすなわち――これはシューベルトのグレイト=ドレミラシドにまでも受け継がれる。(ドレミラシドはベートーヴェン幽霊自身にもソーラ♭シ♭シ♭ーレーミ♭ー(ファ)…を筆頭にそのメタモルフォーゼが頻出する。これらはみな密に変容上繫がっており、シューマンに於てしばしば融合・誘発されやすいのもけして偶然ではないのである)ちなみにこの準-転回形はミレドファミレ(天使の主題)となる。

ここで言いたいのは、シューマンが表層的にベートーヴェンの旋律のうちお気に入りのものを手当たり次第に借用したというよりはもっと潜勢的なレベルにまで及んで、すなわちベートーヴェン自身に通底していた<エクリチュールにまで遡行>し、随伴して、この<旋律の歴史ごと>自分の音楽/体験として受肉=再-主体化している、という点である。この受肉は、逆説的な言い方だが、皮相にベートーヴェンを扱っていない事の現れであり、その受肉の遡行と審級が深いほどベートーヴェンへのただならぬ尊敬と愛が見てとれることにもなろう。シューマンがそうした作業を、このクライスレリアーナを書いた当時、無意識または潜在意識下のみで行ったか、或程度自覚化もしていたかどうかは微妙と思われる程に、その再現性が錯綜し暗示的である点が、いかにもシューマンらしくも思うのである。

 

参照)

http://ml.naxos.jp/work/1580 (ベートーヴェン幽霊 op70-1)

http://ml.naxos.jp/work/1669 (ベートーヴェン7sym op92)

http://ml.naxos.jp/work/410719 (ベートーヴェン 遙かなる恋人 op98)

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http://ml.naxos.jp/album/arts47526-2 (シューマン,ピアノトリオ第2番 op80他)

http://ml.naxos.jp/album/8.570151 (シューマン,弦楽四重奏曲集 op41-1,2,3)

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http://ml.naxos.jp/album/mc106 (シューマン,クライスレリアーナ Kreisleriana op16)

【付録】

Beethovenベートーヴェン「Geister(幽霊)」Op70-1に見るRSchumannシューマン「Kreisleriana」op16第2曲の原体と第8曲における上記二股旋律の片方(Eusebiusオイゼビウス型)

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Beethoven「Geister(幽霊)」Op70-1に見るSchumann Kreisleriana op16第2曲の原体と第8曲における上記二股旋律の片方――Eusebius型(ゆるやかな上下向)

cf)※florestan型=Der Tod und das Mädchen D531「死と乙女」(スコア上既出)

 

 

Beethovenベートーヴェンop70-1「Geister(幽霊)Trio」冒頭のスコア

※↑クリックして拡大してください(2倍)//別窓表示

 

☆上記楽譜内で、RSch op80 1楽章と、op41-1 4楽章(最終結部)、つまりレミファファラ(レー) への、Beethovenの幽霊(レミファファ♭ソラ…)を筆頭の基としたこれらのテーマの結合について書いてあるが、このシューマンの好んだレミファファラ(レ)…は、上記のみならず、Op68子供のためのアルバム21番(無題)etwas langsamer部などにも登場する。これらのフレーズは同時にシューベルトの「楽に寄す」 D547のモティフ(終結部――レミファファーラ(ラ)ド――)ともかさなるといえ、RSchの中で由来を一にすると言ってもいいのだろう。この歌曲に最も近い形では、「楽園とペリ」(「遠い歌声に耳を傾けながら」/「あの太陽の寺院へ降りていこう」ソプラノ部分の最終部)にも登場する。(付記120824/120906)

 

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2004年の木曽音楽祭のこと、シューマン弦楽四重奏曲Op47

2004年2月にHPにアップロードしたものを転載

2004'02/18

ここ数日は真夜中でも春一番が吹き荒れて、家中の窓ガラスがガタガタ踊っている... 眼の調子はまだよくなかったが、兄も母も出かけてしまったので、昨昼留守番にNHK中部の「クラシック倶楽部」を見ていた。木曽音楽祭である。木曽福島の、総檜のお寺だったか神社だったかでひらかれた。 私が見た時、ちょうど日本人ばかり4人の編成で、ナント、シューマンの室内楽を!やっていたのである。かなりレベルの高い演奏なのに驚き、薄目を開けながら第四楽章までじっと聞き入っていた。 自宅のTVで聴いた限りでは、バランス上、ヴィオラの音量をもう少しあげてほしかった気がするが、全体にテンポ、リズムアクセント、弾力、4人の呼吸と「溜め」、緊張感など、あのシューマンのP四重奏曲に相応しい演奏だった。 さすがに第三楽章は、日本人らしい衒い?からか――シューマンのロマンチシズムを、“ いわゆるロマンテイックなもの、として気恥ずかしく ”感知するのであろうか――やや素っ気ないほどのアップテンポで処理しており、あのシューマンの魂にしてようやく訪れえた、稀な平安の情緒を、あっさり駆け抜けていった感があるが、全体としてかなりレベルの高いすばらしい演奏であった。とくに第四楽章の弾力と緊張感、意気投合には感動した。 野島稔氏のPianoの澄明な音色、また音の粒だちは、すばらしかった。きわめてシューマン的フレージングでのリズム感なども、早いパッセージではなかなか出しにくいと思うが、たっぷりとしておりみごとだった。日本人であのような深み・厚みのある澄んだタッチと、実在性ある音の拡がりを同時に持つのはむずかしいと思われるが、努力の人である... 極東の小さなホールに、日本人のみによるあのように生き生きしたシューマンの音楽が、鳴り響いていたひとときがあったのだ。
今年度の木曽音楽祭 http://www.town-kiso.com/music/000607.html
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バッハ平均律クラヴィーアとリヒテル

中学時代にはじめてBachの平均律を知った。それはリヒテルだった。

その世界は、その時期の私には名付けようもないものだった。忽ちのうちにその神妙かつ幽玄なる世界に、心は占拠された。当時の音楽評論家たちが言うような、単なる「ロマンチック」な世界であり、演奏であるなどとは、あの頃ですら到底思えなかった。

まもなく死というものに直面する時期が到来した。(父親のであったが)

私の平均律に対するのめり込みは、いよいよ通常のものでは無くなった。ここには、心の慰安・平安を求めえた…。

だが当初、第2巻の方に顕著な一種地に足をつけたような意味性・世界観というのは、主に第1巻の方で顕著であった瞑想性、短調に於ては無常感、超脱しつつ沈潜し、沈潜するかと思えば柔らかに喚起させられるかのようなえもいわれぬ魂の語りともいうべき世界に較べ、まだまだ解り難いものだった。ただ2巻の多くには、1巻にはなかった独特の‘開け’のようなものを感じさせる、という予感のようなものだけはあった…。長調と短調の間に生じる差異―己を取り巻きつつ己を促し、したがって己の希う処のものが、現前するかにみえつつも永遠に訪れない事のもたらす、明るみと無明性との間のギャップ―、というものが、比較的2巻には少なく、言ってみれば“why”・“否”ではなく、そうあらしめられている己の在りようへの“然り”と、“主体であること”(統合作用を受肉しこれを運動化する当体であること)への意識―これは晩年フーガの技法に於て、祈りの介在余地もない程により確かで生まなものとなるのだが、いずれにしてもバッハの場合、この主体・神の働きかけを映現する当体というものが、己ひとりのみならず複数のvoiceに拠っている―、そしてただそうした在りように即するのみといった心身脱落の開示性のようなもの(それこそは、或る種の悟りでもあろう)が基底にあることも、実に曖昧にではあるが、体感的には理解できた。

第1・2巻を通して、その物語っている世界、意味性とは何かについて――その浮上と沈潜、平安、緊迫する拮抗と調和。暗示性とあかるみ、激烈さと沈静、諦念、かと思えば天上的浄福と歓喜踊躍の無窮動性。かと思えばまた一音一音打ち付けるような楔の連打、非連続の連続と、或る種の不条理の感覚、求心力と遠心力のバランス、“空”じられたかの人間の、坦々たる日常性への還帰、etcetc...それもこれも含め総じて感じられる、バッハ特有の、世界“という”広大無辺なる無関心と運動性の持続。無慈悲と表裏一体の慈愛。――そうしたものらの‘物-語り’を、動機づけるものが、いったい「何」であるのかを、思春期を通し、思えばずっと探し続けていた…。

大学時代、聖歌隊入隊とそこでのカントールによる適確な指導、また最初に練習したのが「マタイ受難曲」であったという偶然が、曲がりなりにも、バッハの世界の何たるかを知る、の解明に、ますます心強いヒントを与えてくれた気がする。

芸術表現の世界で、広い意味における宗教“性”に出会い、また知った。また、学問の上でキリスト教と、またのちに禅を垣間見る。仏-基の邂逅、接点、などというメジャーではなかったが確実な学問的動向も素人なりに探る中、その宗教哲学に於ける主体と超越の関係、また超越と内在、即非と往還関係への学問的探究(禅的世界)などを知り、―またそこでの自己と他者とのえもいわれぬ諸契機にみちた関係を知り―その感動に触れたとき、音楽という運動体、ことにバッハ音楽のイマージュが、これと合致した。

そうした自分自身の歩みをみちびいてくれていたのが、父を亡くした時から支えてくれたリヒテルの平均律だったということを、理解した。

 

半音階的音楽とは、文学的形而上学的に云い替えるなら、いわば反省的音楽である…。反省的とは何か。省察的、という面をも多分に含むが、模索的であり、ひょっとすると懐疑的ですらあり、同時に他者・社会・世界への批判的まなざしであると言えるだろう。

バッハの宗教性とは、すでにこのことの予告的裏返しであり、裏返しとしての、一種 *黙秘権の行使のようなものであった。ベートーヴェンの精神性とは、この批判的な姿勢を基に真理に見合わぬ様相を呈するあらゆる世の中のありようと対決すべく、バッハのまなざしよりもっと個の座にじかに降り、大地に足を付けた自己として直接状況と関わり、これを真正直に地で行くところのものであった。それが為に晩年の、殊にピアノソナタと弦楽4重奏作品は精神の破綻すれすれなまでの緊張の持続と至高な諦念にみち、断片的であるが或る種バッハ的運動性やまなざしに近づいた。だが、それとともにバルトーク,ウェーベルンらのような12音音階〜無調へと進む現代音楽に直結する道を十二分に示しもした…。

*黙秘権の行使は、謂わば特権的である。特権的…そうであるためには、内実としては構造的・構築的、また語っていく形態としては動態―これは不可避である―であっても、語る姿勢としては静止的(滅度的場“からの”発語)にならざるをえない。ただその際、バッハはけして己が神に成り代わって、否なりすまして、発語していない。それどころか表現者としての己自身が神の働きかけの具現体であるがゆえに、その己の生み出した運動体の全てを神の働きの具現体として神に捧げている。それはそうと、バッハは、(彼自身の実人生ではともかく)少なくとも表現の位相つまり“音楽上”のスタンスとして、情況に関わりその中に積極的に身を投じる(=受動性を引き受ける)―ベートーヴェンの音楽のように―ということは、おそらくしていない。 彼は、人類の問題を<解決>しようとしなかった。が、あらかじめ総てを“知っていた”。(バッハの音楽は黙秘権の行使であると思うのは、そのためである。)

バッハの驚異は、自然=必然性の合一と精神性の無辺な深さにある。構造性と生命性と精神性とがひとつになっているところにある。構造性とは、対位法の厳格さ緊密さ精緻さ多様さであり、そうした数理学的とすら言える必然性の構築物が、音楽という<偶然=必然>的なものとして合一的に存在しうることの不可思議を伴って存する。生命性とは、絶え間ない生成の現場でのみ立ち会える、有機体の自律運動性であり、まれな無窮動性であり、旋律の自存性としてのうごめきとともに緊密な連鎖を帯びる共同体としてのうごめきである。

精神性とは(広義に於る)宗教性であるといってもよいが、端的に長調の悠久性天上性であるかと思えばまた短調の底無しの深遠さである、と言えるが、主に短調に於て区別して言えば、第一巻ではおおむね主に瞑想性であり、―殊にリヒテルのピアノ演奏によって空間へと刻々放たれる余韻によれば―虚無であり空であり無であり、禅的に言う空智である。また第2巻に多く見られるのは―こちらは演奏者や楽器による印象の差異が生じにくく思われるが―精神的開示性、日常と天上が不一不二となった禅的に言う実慧の境地。地に足のついた空、でありその空じられた当体=無的主体の生活圏への還帰である。……相当する観念としては、である。

要約的に言ってしまえばこういうことになる。

  • 第1巻(おおむね)…空智 ―――世俗→空へ(至「悟」・己を包む促しに応じる自己の相)
  • 第2巻(おおむね)…実慧 ―――空→世俗へ(空=涅槃に“住まわず”。『受肉せる』空相(=自己)の生死的世界への帰還。開け

尚デリダなどで言われる、非現前性・非対象性・非同期性といったじつに的を得た言葉を借りて言えば、1巻は前の二つに主体の比重がかかり、2巻に於いては非同期性(より高度な、運動体としてのフーガの構造の透徹・生命世界の再現)に、より重心が置かれた発語であるといえよう。1巻と2巻の境地は丸きり切断されているのでなく、主体と超越という、同じ構造に於かれても、表現主体の発語する相面・座の置き方で表現内容とニュアンスも変化するものとみる。無論、第2巻にも1巻の多くの作品が書かれたのと同じ年代の作品なども所々に置かれている――以後何度となく手を加えられたものもあるらしいが――わけであるから、おおむねそう言える、という事である。

リヒテルの平均律は、総じてこうしたバッハの宗教性を見事に現成させていると言えるだろう。ただ、2巻の演奏スタイルには、1巻に於いて支配的な*非現前性と非対象性に居る自己のスタンスが尾を引き、**涅槃に“住する”かの如くと言えなくもないし、それが2巻の多くの作品に特有の滅度的主体の《開示性》を損なっている面があるとも言いうる。

*…これに関しては2000年に発売されたリヒテル平均律ライブ録音(録音1973年インスブルック)にて、2巻の多くの作品に於る、演奏スタンスの大幅な変更が見られる。このライブではリヒテルは最初のCD(LD)録音時のように稀有な世界を提示し得た1巻の沈潜的なスタンスをそのまま2巻に於いても延長する、といった姿勢(謂わば真摯で生真面目な固定観念といっていいかも知れぬ)をほぼ脱し、2巻特有の開示的・明示的、時には坑穿的ですらある世界をそのまま生かす吹っ切れた演奏をしていると言える。
**…尤も、涅槃に住するかの如くと言ってもそれは仏教で言う大我などの、‘尊大で罪のある自我の在りよう’ではなく――というのも此処にはなりすましは無い(付け加えるならばこれが尊大で危険なもの、真の意味で罪なものとなるのは、この「状態」以上に、むしろこの座からの発語がイデオロギー装置と同化して-もしくはさせられて-個が普遍と※《故意に同一化》させられたまま政治化・社会化される場合である)――ただたんに非現前性・非対象性の世界に於ける或る不透明さ、そこにて実存がおのずと包まれる暗示性の膜の中でその響きと祈り・瞑想性を反芻する、涅槃の余韻を噛みしめるというだけのものに思われる。
だからそれが畢竟ロマンティシズムではないかといえばそうかも知れぬが、ではそのロマンティシズムをそもそもバッハの音楽自身が持っていなかったのかといえば、1巻では2巻に比して実際多くの曲が(演奏者・楽器の違いを問わず)その様相を呈していた――バッハという実存に於いてまだ天・地が作用的「一」を遂げ切っていない、したがって即する、というよりは寧ろ希いとか促しとか祈りとかいったものの余地が介入しやすいのである――し、そもそも祈りとか救いといったアトモスフェールや概念さえ、それ自身そうした高度なロマンティシズムの醸成を伴うとも、言えるのである。
したがってもし、リヒテルの位相は、或る種のロマンティシズムに在る、という述定にはあえて甘んじるとしてもなお、彼の平均律録音の公開当時からしばらくの間この演奏に対して浴びせられていた安易な意味での「ロマンティック」のフェーズとは、およそ違うと断っておきたい。またロマンティシズムと呼ぶにせよ、それはかの冷戦下において、父親がソ連当局によりスパイ容疑で銃殺される、であればこそ自分の中のドイツを堅持しようとする、などリヒテルという個人の中に影を落とす全体と個との間に生じる相克の問題、埋めがたい不条理中の不条理を、この身を以て体験した(#モンサンジョン著「リヒテル」)リヒテル自身の実人生を察してみれば、その個がせめてそうした「ロマンティシズム」に、また願わくば或る種のトランス状態の持続に、救いと浄化を見いだそう,として何が悪いのであろうか?とも、さし当たっては言っておきたい。
※個が普遍と《故意に同一化》…個と普遍のまったき同一はありえない。もしそうありうるならそもそも宗教性自体が無くなるのである。何故なら宗教性の発生とは個が普遍と絶対に“同化できない不条理”の発生と、ひとつの構造だからである。

ついでに言っておけば、そうした不断に醸成されかねない高度な意味でのロマンティシズムをすらその生起手前で拒否し、つまりそういう広義な意味での宗教‘性’をも排したうえで、バッハ音楽の運動体を担う有機性・律動性・無窮動性・また個々の音の実存性を存分に引き出し、持続せる緊張としての遊戯を実現したのがグールドの平均律である。そしてもし尚、あえて発する、そこに“究極の宗教性”はもはや無いのか、という問いには、存るともいえるし、無いともいえる。もし存るというならば、つまりその宗教性は、生命科学や宇宙物理学などがそれ自身持っている宗教性のフェーズと、酷似しているとも言えよう。


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バッハ平均律の長調に於いてはその境位の多くは典雅であるか清冽であかるく、天と地の「一」性を、またゆらぎよりもたしかさを、またものの輪郭を覚えやすくもある。が短調に於いては事象の輪郭が曖昧で、もののあはれ・うつろい・無常を感じやすい。世の中に実在していると思えるものは偶の現象であり、ほんとうのところ“実”とは形象となって現れてこないものの方にあるのでないかという考えが一部の哲学や仏教などにはあるようだが、劇的感情や高揚する精神などを直かに表現せず音楽のエッセンスとその有機的動態をそのまま結晶化させたに近いバッハの短調作品には、たしかに空性やうつろいを通した無常感の滲出するものが多い。音の消失しやすさ(生滅、すなわち生-死的存在表現の相応しさ)とその霊妙な余韻効果を生かしたピアノ演奏に拠ればなおさらであるとすると、この点に於いて傑出しており殆ど前人未踏の境地を達成しているのがスヴャトスラフ・リヒテルの平均律、ことに第1巻であることは間違いない。

もし、短調作品に於いてもなお、明確なものの輪郭を表せしめんとなれば、たとえ今のこの形姿は仮有にすぎぬかもしれずとも何某かの秩序をここにこうして受肉せる具現体たちの姿々をそこに成就-再現させること、そうして刻々明滅する生命秩序の“構築性と動態それ自身を描き切る”、ということになる。平均律第2巻に於ける短調の多くは事実そのようにして存る。同じ短調であっても第1巻より総じて第2巻の短調のほうに、ものの輪郭の明快で、非-暗示的なものの多いのは、ケーテン時代以降、フーガという形式をより充実した有機的運動の構築物に仕立てるとともに(このこととも不可分であるが)バッハ自身のスタンスが、sacrifice謂わば天に呼び出され応じに行く(空智)というよりは、もはや diligent service 地上に居たまま天との「一」を果たしている自己の“相面”(全てではない)、及び語り部としての位相(実慧)、謂わば「然り」であることによる精励勤勉(運動性によって可能な限りの、絶対他者即絶対自者の相面)を、‘ 前面に押し出している ’ためであろう。

勿論、人間が相対者である以上、矛盾面(天地が即「一」と成り切らない側面)は必ず残る。普遍と個の間にはかならずや虚無があんぐりと孔腔(くち)を開けている。そうした或る種の疑義すらそこはかとなく漂うかの不条理感、また1巻にはなかった或る種の告発的激しさとなって―バッハ自身が意図しようとしまいと―短調の音楽表現として現れ出ているし、またおそらくは半ば意識的にも、―あくまで形式的秩序を完璧に保ちながらも―バッハは或る種の楔を打ち込んでいるとみえる(それらの同音連打や、16分音符の間断なき叩打は、のちにピアノという楽器が登場・進化するにつれ、アタッカーや深めの打鍵による坑穿的なスタカートなどとして表現されることによって、より強靱で先鋭的な意味を帯びるに至る、といえるだろう)。

音の並びそのものに、そうしたより直截な実存性を感じるのは、たとえばcis-moll BWV 873fuga(4番)、d-moll BWV 875fuga(6番)、e-moll BWV 879fuga(10番)―これらは後のベートーヴェンやシューマンのスタンスにもかなり直かに繋がる―、f-moll BWV 881fuga(12番)、g-moll BWV 885のfuga(16番)、a-moll BWV 889fuga(20番)―このふたつは実存的位相にとってはじつに示唆的な音列を含む作品で、16番fuga冒頭の3音、20番fuga冒頭の4音は、これとパラレルなままヘンデルメサイア第2部受苦「打たれし主の瘕に我ら・・・1741」の重々しいコーラス部分にも現れるし、後にはモーツァルトのレクイエム・キリエなどにも現れる―など。

これらの短調fugaは、1巻の頃に比しより確実なる短調の成立を見る時期を迎えたことも相まって、短三和音での終止、前古典派への移行時期としてのソナタ形式導入と云った表現形式上の兆候以上の変化を、おそらくバッハ音楽に与えており、それが晩年フーガの技法のより深遠な実存的曲調となって姿を現すことは今更言うを待たない。

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