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リヒテルのBach平均律 雑記断片——空智と実惠

たいていの鍵盤奏者は、その個性が第二巻の普遍性に吸収されるかのように、第一巻においてより二巻においての演奏のほうが(脱人称性を包摂した人称性の地平で)成功するのだが、リヒテルに関してはその逆に思われる。

 

第一巻の成功があまりに超越的であるため(空智)、二巻においてもなお冥想性をひきずり、その悟達がふたたび地上に降りてくる(実惠)という二巻に「ほぼ」通底した特有の世界観に還帰しきれていない惜しい側面が残る演奏があった。

 

本人もそれは反省点だったようで、私がこうしてほしいと思った通りに、翌年ライブでは幾つかの曲の演奏解釈を(悟りを通ってきた実存・地に足をつけた生命体として)やりなおしてくれていた。

 

いずれにしても奇跡的で歴史的な演奏。

 

リヒテルが二度目のライブで果たしたことは別な言い方をするとこういうことだ。

 

一巻においては、『神は、みずからを隠すことなしには、創造することができなかった。そうでないと、ただ神だけしかいないことになる。だから、聖性もまた、ある程度は、意識に対してすらも、隠されていなければならない。そして、この世においても、隠されていなければならない。(Weil-bot)』 

自己救済を希求しつつの、この世界の透徹。

 

だが二巻(この世)の多くの作品においては、上記のような顕現-退隠作用は別の位相——すなわち宗教的実存、実惠——から、

すでに殆ど全開されている(作用的一)

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RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-2

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その2

 

 

ジャン・パウル(Jean Paul)

 

じつはジャン・パウルを未読であるが、であるがゆえにまず今の時点で音楽のみですでに出来上がっている想像を規定する。

 

Beethoven,RSchumann,Brahms,Mahler... etc..

 

●シューマン 蝶々- ブラームス 弦楽五重奏曲-2

 RSchumann Papillons op2  Brahms SQ no2 op111

 前の記事投稿(http://reicahier.jugem.jp/?eid=61)時点で掴んでいだ両者に通底する蝶々(精霊・自由なる霊/超脱さ)のイマージュ。ジャン・パウル(想定)。

 

次に、発展的に——

●RSchumann op2 - Brahms SQ no2 op111 - Mahler TitanにおけるBeethoven

※Beethoven's Eroica - Kreutzer Sonata - Geister trio 的なもの と、RSchumann (犠牲者となった下地) etcetc...

 

 

ユーモア、アイロニー、自己相対化としての道化と分裂気質、(幽)霊、仮装(憑依?)、「なんちゃって」

 

謝肉祭(ジャック・カロー  ホフマン)

 

 

巨人-英雄(主題 含葬送) について。

 

マーラー 巨人 Titan に於ける 英雄 Eroica の changeover of Symbolism 意味転換/象徴性転換

 

英雄 Eroica (ミー ↑ソ ミー↓シ ミソ↑シ ↓ミー ※♭省略)…➡巨人 Titan (レーレレ〜ファレー ↓ラ、レーレレ ↑ラ ↓レ )といった Conversion of symbol 象徴の転換。

 

※但、Mahlerによるこの転換・変移には不思議とクロイツェル(Kreutzer Sonata)的なものが連動(connected)されている!

曲想「全体」を覆う「構成」上の inherit & metamorphose として。

※また、少なくともBrahms op111 に於いては Geister−RSchumannを結びつける遥かなる/精霊の旋律が、同居しているのを聞く。

 Papillon op2 にも、Mahler Titan にも、また元の Beethoven(Eroica,Kreutzer)自身にもGeisterがあるかどうか、これから検証。

 

シューマンとベートーヴェンに於ける 蝶々・(幽/精)霊 的なもの-----舞い、戯れ、無重量性、受肉と離脱。

キマイラ(サテュロス=半人半獣 「ジャンパウル風の山羊の足」 Mゲックp37) 天性魔性。

————ジャック・カロー。ホフマン

 

↓ ジャンパウル的なものの変遷。

癲癇と統合失調と自己疎外。

 

●第1次産業革命時代のジャンパウル————ベト 英雄3楽章的。せっかちな悲壮さとご大層さ。暗黒と凄絶への予見的戯けとしてのホルン→シューマン ロマンチシズム(未到)としてのホルン

 

●第2次産業革命時代のジャンパウル————マーラー 巨人第1,第4楽章的。緩慢な諦観に縁どられた、ご大層さ。後の祭り的喪失感の戯れ的ホルン 喪。死と葬送。

 

なぜ葬送するのか、なにを葬送するのか、の考察… 産業革命下に到来するものとその変遷

 

ナポレオンからナチズム

調性問題(機能和声と調性の拡張崩壊)と 自我。

主体権限と権力。

未到の告白と内面化 シューマン →(未到の「逃亡・逃避」化=)未到未決イデオロギー化 シューマン以降。

 

権力=主体権限の倒錯・自我肥大(ワーグナー問題)→自己疎外(マーラー)

 

☆機能和声…デカルトが「考えるためには、存在しなければならない」ということを思い起こさせるとき、彼は明確化しているのであって、基礎づけを行っているのではない。それは、思考を自ら存在せしめる運動の明確化なのである。『メルローポンティ 心身の合一』

 

すなわち、主体の確立。感受思考判断の出発点としての己の覚醒(レアライズ Realize)。

※これが、機能和声の確立期でもあること!!!(と、私は感ずる♪)

 

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フモール Humor の実質的内容

 

ジャン・パウル的なもののの歴史的な受継ぎが、第一次産業革命時代(ベートーヴェン ロマン主義の勃興期)と、その中間(シューマン〜ブラームス ロマン主義の絶頂期 イデアール=レアールの合致期,or少なくとも二重構造期)と、第二次産業革命時代(マーラー ロマン主義の厭世主義的退嬰期)とではそれぞれ違っていると思う

 

 

ベートーヴェンとジャン・パウルの関係は、シューマンやマーラーのように、影響を受けたというよりむしろ

同時代人としての共通項(のちのシューマンによって鋭く具現)をすでに有するし、己の実体験であり実人生でもあった。

 

サテュロス キメラ(キマイラ)に象徴される異形

 

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RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-1

2017 11/5日前後のTWから

 

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その1

 

 

 

謝肉祭 道化 ————「幻想的絵画」(Phantasiebilder)

 

ジャック・カロー(Jaques Callot)的なものが、聴いてる間ぢゅう飛蚊症のように飛ぶよなあ…

 

M Jansons's New Year Concert(ヨハンシュトラウスをやりながらつねにマーラーとそれへの歴史、その周辺等々を感じさせる)でもそうだったが…

 

Jean Paulだなあー。 しかし分裂気質だなあ。。。Chopinだったら絶対こうはやらない、という所だらけ。

 

 

さっき昔の自分の「くせ」にちょっと似た女流ピアニストのop16 Kreisleriana!を聞いていたら、ある部分が謝肉祭コーダなのに気づいた。今頃!

 

自分で弾いていた時代にはこんなことさえ気づかなかった。 そして次の章はグランドソナタに通じているのだ。

こんな単純なことも気づかず全く別の問題にのめり込んで弾いていた...

 

今は、Kreisleriana op16とNovelletten op21の近さも痛感する。

 

だいたいがクライスレリアーナが8章(と、連動した2章)から遡行的、逆算的に(それが意志的-自覚的なものか潜在意識-無意識的なものかの判定は、シューマン自身にもまして他者にも十分に出来はしないのではないだろうか)できている。

そのことも、弾くことからだいぶ離れてから痛感した。

 

ノヴェレッテは穿孔性(verticalな志向性)よりhorizontalな側面をより濃厚に演奏しうる謝肉祭、ダヴィド同盟系の全体に陽気な曲調と思われるが、それだけでなかった訳だ。

フモレスケ以降の典型的なものの内包もある。

 

そしてノヴェレッテの7,8章となると超有名なあのショパンノクターン的な世界にユーモアというより諧謔自嘲を兼ねた世界に至るが、これは別の角度から言ってみれば「英雄(エロイカ)」-「クロイツェルソナタ」的なもの、のR Schumannらしい消化だ。

 

ここには Scriabin's sound pattern スクリャービン音型の予兆もあり、すなわち Erioca-Kreutzer Sonata 的な何者かが引きずられた第二次産業革命的退嬰世界(Mahler Titan)に至る訳だ。

 

Robert Schumann - Faschingsschwank aus Wien - Composer: Robert Schumann (8 June 1810 -- 29 July 1856) -… YOUTUBE.COM

 

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補記

2017 11/23日前後のFBから

 

ウィーンの謝肉祭の道化 Faschingsschwank aus Wien Op26

 

やっぱりこれを聞いてもシューマンは孤独で、たった一人の錯綜する世界を構築しようとしている。誰にも到達でき(て)ない。
この時期からすでに「暁の歌 Gesänge der Frühe」op133 が内包されている。

 

シューマンの人間観・内面観・身体観の自己矛盾に由来するどうしようもなさ。狂おしさ。

この未到、こそが究極のロマンティシズムでなくして何か。「わが憧れと苦悩」

存在論的な、絶対的未解決性である。イデオロギーなしの。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:41 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Chopin Cello Sonata Op65にみる、Beethovenに対するロマン派の興味と謎解き

 

これを数年前に聞いた時、おお、っと思ったのは、

この曲が恰も「ベートーヴェンの主題によるチェロソナタ」といった感じの曲想に聞こえると同時に、

ショパンもまた、メンデルスゾーンやシューマンと同様、ベートーヴェンの残した一連の謎解き問題に関心があったにちがいない、ということだ。

 

このショパンにしてはめずらしい室内楽の冒頭は、あきらかに PianoSonata Therese(=Tempest Mov2)の開始を前提としている。

 

そして、いかにもロマン派的な様相をまといつつとはいえ、展開の仕方から、頭にあったのは(結び付けたかったのは)、

このTherese-themaからElise-themaへの移行——テレーゼ主題とエリーゼ主題との結びつき(後期SQでわかる——String Quartet in A minor, Op.132 No.15-mov5。

 ↓28:41-29:33-30:51) ——である。

 

 

 

 

実際、Chopinは、自身のCello Sonata Op65で同2主題間結びつけの実験をしているのがわかる。

 

 

また、 幽霊 Geister Op71・遥かなる恋人に寄す Op97(シドレファ♯ソラ、シドレラソファ♯)・もし知っていれば Andante Favori(幽霊、遥かなると一致する下降線、FavoriとPastral田園との関係)、等々であろう。

 

また短調になるところだと、 ラソファミレ Tempest Mov1

 

音列3つずつだと、告別(Lebewohl)・Elise dosila。ドシラ,ファミレ,ミレド,レドシなど。

 

また、Tempest Mov3 (ラ)ファミレ・(ラ)ファミレ や、Tempest Mov1 ラソファミレ などなど...。

 

此処から推察されるのは、じっさい色々である。

 

バガテル「エリーゼのために」(Bagatelle No. 25 in A minor WoO 59 Für Elise) は、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンが活躍していた時代には、発表されていなかったという記事だか論文を見たことがあった気がするが、それは別段構わない。

 

いろいろな作曲家にとって、後期作品とそれ以前のベートーヴェン作品を聞けばおのずとエリーゼの主題は関連付けられるだろうからである。

 

となれば、ベートーヴェン以降の作曲家、各々の心中に、エリーゼ的な音楽がエッセンスとして代わりに(謎解きのピースのきわめて重要なひとつとして)おのずと蘇生されてもおかしくはないからである。

 

それほど、バガテルエリーゼが未公開の場合でもエリーゼの暗示となる作品は、あちこちにある。(第九の主題と同じで。)

 

もっともわかりやすいのは、op61-aなどであろうが。

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:43 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Op. 111(SQ No. 2)と FSch d821 と RSchumann Op121そしてOp2

FBから転記

 

FB 

2017 9月12日

 

わりとどうでもいい件…だけど一応。。

 

Brahms Op111

Johannes Brahms - String Quintet No. 2 in G major Brandis Quartett

 

久々、聞いてて気になった、

18:24-39

 

このフレーズ(『想い』のこだま)。。。

 

 

とろい頭でしばーらく考えてて、このこだまがやって来たのは、意外とアルペッジョソナタ

(FSch d821)だった。

 

15:13-29

 

だけどなんかまだあるよなあ(もしかするともっと身近なのが?)

…と思ってまたかんがえていると、 次に降りて来たのが、、(/ _ ; )

 

(RSch op121)

0:11-22

 

あんまりどうでもよくなくなってきた?。。。 だからして!…もっとあるかもネ。

というか、事をもっと広く長いスパンで、奥行き深く、じっくり把握しなければならないかもしれない。

 

 

これを一身に引き受けるクララ...。よろこびと悩みが重く、贅沢で参るなあ

 

 

 

 

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FB 

2017 9月13日

 

 

ところで、ひきつづき

 

Brahms op111

 

 

昨日言っていた事案

(於:FB 2017 09/12 『想い』のこだま。Brahms op111 - FSch d821 - RSch op121 の件 )

 

は、部分的な問題に終始しえず、ともするとコトが拡大してきそうなのでいまはともかく、

 

もう一つ気になること——

 

このブラームスの、極めて円熟した浄らかな晩年のを聞いている間ぢゅう、

RSchのop2---若くたどたどしい、まだいかにも習作めいた作品---がなにやら仕切りと裏で鳴って仕方がない気がして来ると同時に、

 

 

そういう説明不能な…人に根拠を示すことなどむずかしい 至極あやふやなものほどつい掴もうとしてしまう自分の感受性を、——他方で持て余しつつ——じつは密かに気に入ってもいる…。

 

ブラームスの人生への想いを引きずらせる 苦悩するシューマンと、 ブラームスの瞼の裡に棲む、若き微笑ましいシューマン。

 

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説明不能 ↑ そうじゃない。。。*:`( ゚д゚*)!?

 

op2の、一番初めに、答えはある!!

 

ブラームスからの応えは、彼の作品(Op111)の中の、これまたあちこちに 反響していた...。

無論、Op111冒頭のチェロの低音部旋律が、そのままシューマン(蝶々)への、ブラームスの応え としての主題、及びその発展(変容)形——踏襲するVnによる旋律への変容形(1:58-2:25)。上昇してゆかず、※octvズレになるが)など——だともいえるのだろうが。

 

※注)より素直に、上昇する旋律は後になってやってくる...。

 

 

...応え、としてもっとも直截なのはここ。2:25-2:46

 

もしくは、次の 2:47-3:01(-3:06)

 

————どうだい?精いっぱい やって来たといってくれるかい。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

グールドによる語り ベートーヴェンの一部から思うこと(G.Gould and Beethoven)

FBより。2017 8/24 記。

 

 

FBの「過去の今日(2016 8/24 付)」で出てきた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=ztt1Z_90aag

 

Glenn Gould Discusses Beethoven's Piano Sonata No 30 (Op 109)

Glenn Gould in conversation with Humphrey…

 

(FBの過去記事で2016年度に出てきた動画の同じ「もと」がyoutube上でわからない なのでこれを代わりに添付。日本語訳がついていないが)

 

Ludwig van Beethoven 2016年8月24日 · Glenn Gould on Beethoven Sonatas.

 

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思ったこと(去年の今日)

 

ここでグールドが冒頭で言っているコラールchoralとは、カッコウCuckoo No25と同じものだ。

そしてカッコウは何かの曲のparodyなのだから。。。

何だったろうか...。数年前に感じたことなので忘れた。

告別Les Adioux? ミ・ド・シ・↑ファ-ミドシファ?———ここはカッコウ・告別(Cuckoo-Les Adioux)系の中間体。

※テレーゼ、カッコウ、告別(Therese,Cuckoo,Les Adioux)は 1セット(in a set) だ———これらは英雄(Eroica)系にもandante favoriにもかかる やはりこれもジョセフィネ(Josephine)-アントーニェ(Antonie)の重なる時期

 

[※英雄・告別——Eroica-Les Adioux——系で たしか朝、andante favori のことを考える必要がある、と思った...同じような旋律が...というのはここかな

ラソソファミレ...ラソー,ファミー,レドー,ラソー,ファミー,レドーとか。かなあ(下降)。

あと告別 Les Adioux mov3の最後 下に添付動画 Pollini 15:08-15:29 の雰囲気かも。]

 

 

参照1

告別

 

https://www.youtube.com/watch?v=9TXQSz_4AMY&list=RD9TXQSz_4AMY#t=8

 

Beethoven - Piano Sonata No. 26 "Les Adieux" (Pollini)

 

 

そしてカッコウ(Cuckoo No25)でもあるこのop109根音のchoralラドファラレファソラ(Gouldも紹介) はラ-↑ミ-↓ミ-↑ラ(英雄 Eroica sym3-Josephine 同時にsym7,8-Antonie)でもある

 

だからまたキメラ (Χίμαιρα, Chimaira)になってしまうのだ

 

 

 

参照2

テレーゼ

 

 

Glenn Gould - Beethoven - Piano Sonata No. 24

 

ThereseはLes Adiouxの予告的 実際は後でもおかしくないが(ベートーヴェンは策士だから)

実際にはAntonieとの恋愛が始まった(カッコウ Cuckoo PS No25 の)あと、テレーゼと告別(Therese,Les Adioux)を書いた気がする

 

それにしてもまるで解剖するかのような弾き方をするグールド。ピアニストというより作曲家としての関心だ...。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

幽霊[Geister]の変身(の変身の変身の変身...)

(大局的に書きたいことの本の断片に過ぎないがメモしておくと...)

 


Beethoven String Quartet No. 13 in B-flat Major, Op. 130 (Grosse Fuge) - American String Quartet

 

あらためてきいてみるに、これは、op70(-1)…のtransfiguration,transformation...というかSecond? Comingかも♪ 

 

すると、Χίμαιρα???

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フランチェスコ・グァルディ 身体としての風景——奥行きと厚み

メルロ゠ポンティbot‏ 


「セザンヌは生涯奥行を追求し続けた」とジャコメッティが言っているしドローネーは「奥行は新しい霊感だ」と言う。ルネサンスの様々な「解決」の後四世紀、デカルト以後三世紀になるが、奥行は常に新しい。そしてそれは人々が「一生に一度」ではなく、一生涯求め続けることを要求する。『眼と精神』

 

何故、奥行は常に新しく、一生涯求め続けることを要求されるのか...。

それは、奥行きが私の身体であり、私という意識と身体だからに他ならない。

 

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アトモスフェールの蘇生とは、

主体がそれとどう関わり巻き込まれたのかの告白や

半ば無意志的な状況論的身体性という形姿での

ロマンティシズムの暴露を、伴わわずにはいられない...

 

場所としての風景が<身体>である——

 

 

グァルディ。


風景画に "詩性” が誕生したといわれる所為。

 

 

※ 詩情がある という理解、とは何か (暗示性とは何か)

 

師(カナレット)との差異——風景を身体から切り離さない。むしろ身体自身を彷彿させるポテンシャリティの示唆と

鑑賞者との間でのこれの共有を果たす——厚みと奥行き としての 《身体性の歯痒い覚醒》をタブローの上に成就する

 

https://artoftheworld.jp/hermitage-museum/515/

 

http://free-artworks.gatag.net/tag/廃墟-古跡

 

 

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詩性の秘鑰をにぎる「厚み」について記したので、追記しておこう...

 

今年の春開催され、人気を呼んでいたミュシャ展。

この呼びかけがSNSでも盛んにおこなわれていた。ツイッターではこのような感想(主催者側?)のツイートが...

 

@mucha2017 は想像を超越してました。
ミュシャが今生きていたら、世界一のAdobe Illustrator使いになっていたに違いない!と思ったのでした。人呼んで、レイヤーの魔術師。

 

近代の獲得した実性(虚構性にたいする実構性?)と 機能性 ——ものの厚みについて。

 

私もオリエンタリズムの洗礼以降(シャヴァンヌ〜ラファエル前派以降)は発想がレイヤー(「平面的に」重層的・再-古典的・レリーフ的)世界であるなあというのは数年前から思っていた。そしてレイヤーとは、あえていうなら 聖性である。
ただその聖性は、ルネッサンス以前の彫像的レイヤーからクロードロランorプッサン的な構成的(構造的構築的——実構的)レイヤーに至る迄より 技法が精緻になっていると同時に、「質が落ちている」(退嬰)。

 

イラストレーションや漫画の技法に近づく のだけれど...。

 

やはりものの厚みの描写の不足、厚みにたいする迫真性の(半ば意図的な)衰萎に起因する。

 

他方で ボケみ(スフマート?)の工夫とスキルは非常に高度かつ凝ったものになっていると思えるが...

がそれもまた、ものの厚みを減衰させる方向に、意図的に寄与させられている気もする。

 

こうした傾向はもちろん、オリエンタリズムの勃興——シャセリオー(→シャヴァンヌ)の系譜 からだろう

 

※ということは、近代人権思想と立憲主義、の精神というのは、実構 なんだな。。。

音楽でいう機能和声 そして厚みを持った

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

プログレ ブリティッシュロックとその他、イタリアンロックなどとその底

一片の小説、詩、絵画、音曲はそれぞれ個体である。つまり表現と表現される物とを区別することが許されない存在、従って直にそれに接することによってしかその意味に近づくことができない存在であり、それらの存する時間的・空間的場所を離れずにその意義を投射する存在なのである。

『知覚の現象学』 (メルロ=ポンティbot @merleaupontybot)

 

1)人のありようのみならず、すべての表現行為は、「状況づけられて」いる、と、自分がずっと言いたかったことのすべてかな。
状況づけられている、ということこそが、(制約性でもあると)同時に 尊厳 でもある、という..。

 

 

2)主体と状況。
たとえば、ある科学者なりある芸術家なりが、自分は政治的人間でない、と宣言しつつ、自分の研究や発言、また作品を、その時の政治状況と無関係に?作り上げたり発表しても、無関係だ「というスタンス・態度で研究し作った」という政治性を帯びてしまう、というカラクリに無頓着であれば、そのような研究や作品となってしまう、ということ。
(このことは、その研究や作品の中で、直接政治的なことに触れ政治の問題として語るかどうかとは関係がない)

 

 

 

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エルガー以降のイギリス系音楽系譜。

 

これがYESを筆頭とするプログレッシブロック( Progressive Rock )の昇華性の高い、調性拡張後の聖歌的『ハモリ』(ポリフォニーや対位法の利用法 これをなしたのは主に影の力?クリス・スクワイヤと、より東洋寄りなジョン・アンダーソンだと思う。ハウは、もうすこしダウランド等の系譜を通っているから。合流しうるとは思うが)と通底するように聞こえる。

 

オルガンを彷彿させるエレキやキーボードなど楽器の声になっていても、同じ。

 

ブリティッシュの音楽家系譜————NAXOSなんかの収録を参考にすると、 具体的には エルガー ディーリアス アイアランド バックス ヴォーンウィリアムス ホルスト バターワース などという把握が妥当のかな。

半年くらい前に気づいたのだが、一番最近ではジョン・ラターという人がいる(この人も同系譜だと言っていいと思うのだけど)、まだ現役でやっている。もしかするとラターは、一応はクラシックなはずだけれどもかなりジャンル横断的に思える。

2013年に亡くなっているジョン・タヴナーなども入れるべき?(すこしバタ臭い、ビザンツ-東欧的匂いも醸す現代——前衛音楽崩壊後——作曲家)

 

(ブルックナーの聖歌などもそうだが、結局このイギリスへ行った[再-]遡及点はシューマン-ブラームスということに私的にはなるのだが。シューべルトもじつは対位法をやっていたが。いずれにしてもヴァーグナーがいてもいなくても、すでに調性拡張の芽は、バッハはもちろん、試みとしてはハイドンがあったし、ベートーヴェンの特に後期には十分音楽として、あったのだから。況やサティ、ドビュッシーにおいてをや つまり彼ら(ヴァーグナー/ドビュッシー)を通過しなくとも、また表立った 起点 としなくとも、調性の逸脱、拡張、崩壊は成された)

 

 

 

イギリスにはクリスチャンロック っていうジャンルがあるんだそう!(知るのが遅すぎる というかプログレ自体を知ったのがかなり最近なのだけれど)

 

 

ところで、この中にあるディーリアス-グリーグという路線の存在。これによりたぶん、 イギリスと北欧がつながっていく。

 

このことはロックの分野にもおそらくそのままつながっている。

 

ブリティッシュのみに進まずに、イタリア系プログレにも興味が引っ掛かっている人びとの意見と感性も面白い。

これもまた、クラッシックの方の系譜を垣間見ても納得ができるから。

 

前にあげた記事で色々触れたので詳細は省くが ざっくりとクラシックからいうと

グレゴリアンチャント(教会旋法)が長々といろいろありつつフランドルなど絡みながらドイツ→イギリスに音楽の系譜が移行するのだけど、その前にヴェネチア(イタリア→ルネサンス)経由しているというのがかなり要諦で——その後イギリスで初期ルネサンスが、後期はイギリス——Wマンディ等——・イタリア(・フランドル)同時!に、高度かつ洗練されたポリフォニーが成就している。それでトレチェント、クワトロチェントをきくと(まあじつはその手前、ヤコボ・デ・ボローニャなどにも)、ルネサンス→モンテヴェルディへ至る鍵が意外とある気がする訳だが、こういう経緯と系譜は、プログレにも反映してるように聞こえる。

 

なにしろルネッサンスが開花したのがざっくりいえばイタリア(フランドルから降りるが、開花のきっかけを多く北〜中部に持つ)なので当たり前なのだが、この時期ヴィクトリアなどのようにスパニッシュなのにフランスの古いシャンソンの原型を象ったような人もいるのだから、いろいろと異化しつつも底の方では グレゴリアンチャントの誕生と展開、そして讃美歌、伝承歌、舞踊などの存在とともに音楽系譜はつながっている。

 

もちろんもっとスパンを広げれば、ケルト民族とその移動などを通じて 世界は東西さえもが、まえもって越境的である。

 

 

またドイツのプログレについては、友人からドイツは他の地域に比べてあまりぱっとしない、とも聞いていたが

その(プログレらしさからすれば?)パッとしない(のかもしれない) ドイツのプログレ、というのはクラシックがドイツで著しすぎる隆盛を見たから、というのもあると思うけれど、ヴァーグナーの存在が調性の拡張で大きいからも無論あるだろう(※もっと言うとバッハ〜ベートーヴェン〜ヴァーグナー〜無調等々と展開して行く調性問題と、同時に哲学的・政治的問題、そしてそれと不可分な芸術の存在の問題、等々が重すぎたのかもしれない)。

[※...この点について、最下部に追記]


まえからFBなどで言っていたように 私は、ヴァーグナーを経由しなくても、ましてドビュッシーを踏まなくても、(ルネサンス以降ジェズアルドのような実験的な音楽が出現しえたこと、そしてバッハが到来し、ベートーヴェンの特に後期の顕著な調性拡張・旋法使用等の試みがあり、シューマン-ブラームスにおいては——ウェーベルンなども注目していたように——すでに十全すぎるほどのその発展継承性を見出し得、フォレもまた、ヴァーグナーの存在なしに(も)自身の音楽性を獲得しえた。音楽のもたらす影響力・効果、という点ではヴァーグナーが大いに参考になったろうが、それ以外のフォレ自身の幽体離脱的音楽性の確立そのものは、調性問題を含め!シューマン(→ブラームス)による先代(〜同時代)の音楽性の発展形という置き土産ですでに十分であり、ヴァーグナーの存在の有無とほぼ関係がない。

よって)調性はどのみち拡張され崩壊した、という意見の方なのだけれど。
ヴァーグナーは世渡り上手。

 

私はこのことを、スクリャービン(→マーラー)的な音楽性を含めて、言っている。バッハ、ベートーヴェンは前提として、シューベルト→ショパンとシューマン(→ブラームス)とフォレがあれば、スクリャービン(的な個性及び音楽)もまた出現しえた。その片鱗は、ニイチェの存在(音楽作品)が明かしている。

 


それと昨日だか一昨日、これを見つけた

http://kakereco.com/magazine/?p=9794

 

これに行き当たったのは ジョン・アンダーソンの音楽性からきこえる東洋志向が(シッダールタ や ビートルズ以来のヨガとヨガ思想の影響などのこともあるが)、ノヴァーリスともなんか繋がっているのかなあと思って、ダメモトで検索したら、直接アンダーソンがノヴァーリスを読んでいたとかファンだったっていう記事はなかったけど、上記を見つけたという訳。。。

読んでいるとなかなか面白そう。

 

 

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追記。

昨日これを書いた後に、ドイツでプログレが生真面目なまま?停滞した点について、ヴァーグナー一つを引き合いに出した形で通り過ぎたが、至極大事な点を落としていたのに気づき(入り込むと、例の巨大な問題——私自身の長い問題——となるので回避した感もある)、どの範囲で止めておこうかそれとなく考えた。

そこへ、友達の反応で、シュトックハウゼンなどがプログレの代わりにクラシック界で突破口をやってしまった感があるのがジャーマンロック停滞の原因ではないかとの指摘があった。

たとえばあの辺りは、タモリの番組でもシュトックハウゼンと数名扱っていたりしていた(クラシックファンからは面白可笑しく取り上げやがって、といった反発も出る分野かも知れない)が、私は正直あの番組「姿勢」に賛成であった。

 

ずっと前の記事にも音楽・美術にかかわらず触れたが、とくにジョンケージあたりからシュトックハウゼンなどのああした破壊的ともいえる試みでクラシック音楽がおおむね自壊(自滅)したと思っていて——私自身は、あまり彼らに対し寛大でない。過去の(けして「等身大」などではない)遺産に対し攻撃的乃至退嬰的な表現と表現者。こうした産物や傾向に対する 物わかりのよさ を拒否するタイプである——自己崩壊音楽と心の中でも呼んでいる。

で、プログレに興味が行ったのも、だったらそちらのほうがむしろ音楽の尊厳を担保することに成功し尊敬できると思ったのである。

 

調性の拡張〜崩壊期間にかけては、作曲家や作品にもよるが、クラシックという分野にそのまましがみついた人々や作品より得てしてプログレの方が表現として成功しているとも思える。

 

調性問題の移行と、プログレの(変拍子など多用するリズム等を含めた)表現形式、「斬新さ」の意味性——attitude——が合っていると思う。

 

もし(ドイツの)プログレがシュトックハウゼンみたいな試みをしたら、私としてはプログレにも失望してしまったと思う。

彼らはそれはしなかった、できないと思ったので、ドイツ外域のプログレよりある意味(生)真面目なまま停滞したのでは、とも思える。

 

がもともとの原因は、私自身はさらにもっと前に遡る、と思っており、それを書き足したい。

 

この記事の中でも、タラレバ的にヴァーグナーを——事実存在していたにも拘らず無き者のように扱っているのも、言いたいことと関係がある。 まあ実際には存在した人だし、居たからにはそれなりの影響力を事実与えたので、無視などできないのだが、それにしてもヴァーグナーに関しては周りの捉え方が過剰かもしくは好意的に迎えすぎ洗脳されすぎたと正直思う。

(こうした点は、哲学・政治、色々な問題が不可分に、表現と表現者の質の判定・価値づけとして関わってきてしまうところなのと、通常のクラシックファンにはとても言いにくいことがたくさんである 笑)が、ヴァーグナー以降えてして構成的にも表現のありようとしても、冗長な音楽が肯定されてきた。(同じ尺度でいえば、やれ構築性に問題があるだの構成的才能に欠けるだのといった、シューベルトやシューマンに対し、まま厳しく当て嵌められた尺度は、調性逸脱-無調-崩壊を辿った人々には当て嵌められずにいるが、それでいいのか?という問題も不問に付されたまま。)そしてその構成上の「冗長さ」が退嬰性と絡みやすい(思うに、これは至当な問題である)のは、類的な音楽(個と同時に人間性全般の尊厳について真摯に向き合っている質のもの)というより、個人的な栄誉や野心、逃避願望等々といった自我(といってもselfというべきものとエゴというべきものがあるが、まま後者に陥りやすいもの)の充足・発散が表現され、作品となっている、と判断される。この質の低落が、調性拡張-崩壊を辿る時期のクラシック音楽のattitudeや質(にも拘わらず彼らはクラシックという旧来のジャンルにしがみついているのである!)より、ここから脱したプログレのほうが、まま、意識が高いと感じざるを得ない所でもある。

 

他者の問題を放棄した自己の延長へと終始しがちな音楽と、調性崩壊問題とのつながり——一言でいうのは難しいが、あえて言うと、(何らか和声上の)「解決」をみようとしない姿勢、むしろいかに解決せず放置・延長するかという、*,**表現における(逆説的)形式主義——内的必然からでなく戦術至上主義、手法の自己目的化——謂わば未到未決イデオロギーに走った結果であるといえるのではないかと思う。別な観点からいえば音楽美至上主義ともいえようが、犠牲にしたものは人間性であったりHonestyであったりするだろう。よってそれはほとんど必ず、社会的位相においては倫理的な退廃だの権力不感症(不耐性)、といった問題にも通じてしまう。

 

*...機能和声上の解決放置、を表現上始めたのはシューマンによるところが大きいが、彼の場合は、その象った形式が内的必然に合致していた、これに徹したといえるのではないだろうか。未解決型和声は、これが登場する場合、自分の魂にとりこの問題(憧憬なり苦悩なり)が未決のままであることの赤裸々な表現に過ぎなかったのである。言ってみればそこが、表現の力量における決定的な差異なのではないかと思っているし、そうした点にこそ芸術の「質」の問題が横たわっているであろう。

 

**...形式のイデオロギー化という点では、ずいぶん前にグールドの題目でだったか、十二音技法についても触れたことがある。

例えばこんな言い方がよくあると思われるが、「十二音技法は理詰めだったために大衆に理解されなかった」それで、別な作曲家らが試みたのには(たとえばヒンデミットとかコルンゴルトというところになろうか)、「受けが良いように上手に調整した」云々。

しかし、この捉え方に終始しないほうがよいだろう。それと引き換えに寧ろ後者の彼らが音楽に「息」を吹き替えさせたのならそれがなぜか、ということを考えたほうがいいだろう。理詰め?だったことそれ自身より、理詰めのありよう(裏を返せば自発性とは何か、自律運動性とその機能(発揮・回復)可能性の裏付けや土台とは何か、その相関関係とはいかなるメカニズムに基づくかetcetc...)についてもう少しよく考えたほうが良いと思う。

[付記。尤も、秘密の多い社会に生きることを強いられる場合、芸術表現がある種の窒息的形態—— 一見無秩序に見えるパターナリズム?——に陥らざるを得ないという面を、私自身、昔ほど理解できない訳でもないのだが。死んだ呼吸を生きなければならないのである。]

 

ヴァーグナーに聞きとれる野心の拡張、逆にリヒャルトシュトラウスに聞きとれてしまうある種の逃避願望、(これらの一見真逆な問題はけして偏倚的ではなくむしろ交錯的な問題でもあると思うが)といったものの、調性拡張-崩壊問題としての現れ方...。

こうした、ドイツはもちろんだろうが、西洋全体を覆った問題に、クラシック界はもう少し取り組んだ方がよいのではないか?

 

 

典型的にはナチズムを台頭/到来させたこと。ひいてはこれに対する長い敗北感(台頭させてしまったことに対し、どう反省・再生したら良いのかわからない)が、芸術界・哲学界、色々な分野の文化人にとって重荷となりすぎ、遣り切れなくなっていった。

こうした精神的に自暴自棄な姿勢が、哲学的にはポストモダンのように犬儒的もしくはニヒリスティックな形で現れるし、音楽表現、絵画表現にも退嬰的 乃至 破壊的に現れていると私は思う。

 

しかしその際言っておきたいのは、ナチズムが、ベートーヴェンを利用したのは「誤解」に基づいているが、ヴァーグナーを利用したのははたして全き誤解なのか、こうした点にもきちんと射程してほしいものである。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven an die ferne Geliebte & R Schumann op39-12,op14,op17,op68 etc...

Spotifyでたまたま出てきたのが

 

to the distant beloved Louis Lortie Piano

to the distant beloved Louis Lortie Piano

 

この中のLiederkreis, op. 39-12だったが

 

ああー グランドソナタop14(=op17 などあまた、なのですが これの場合 op14に、自分にとっては親和性。実際 終結部では最も一致。メタモルフォーゼにより色々と射程が広がるが)と同じ 下降旋律が〜♡

 

もちろんBeethoven由来の二人の暗号(だと自分ではいろいろ聞いてきて、アレ『ら』(※キマイラだからひとつともいえる)がコレと思ってる 世間的にもすでにきっとそう)のところ♪

 

あらためて、おめでとうございます♡ ^^♪

 

シューマンの おや 何やら聞き覚えが... というのはいつも、懐かしい♡

 

えもいわれぬ程遠くから ”襲来” するノスタルジーとともに、なじみ深いものが 何とも新鮮に 再帰する♪

 

※...前の記事でも触れているから省略 笑)

 

 

 

お。今 Liszt の an die ferne Geliebte S469 を聞いているが、(編曲されずとも元 = Beethoven の曲自身のある部分に通じるもの op98 etc..)として、 Op68(R Schumann)も、色々想起されてきた。

 

やはりOp68は家庭的な音楽なだけある...。

ミニョン Mignon は、確かにアレ( A favori WoO 57 = An die ferne Geliebte op98 = An Die Geliebte WoO 140 = Mignon op75-1 1809 = Elise = Ghost Op.70 = Therese & Josephine etc..Chimera Χίμαιρα)だけど、新しい恋人アントーニェに対してのみの語りというには、やや悲しい、、、やっぱりあれ(Josephineの娘 Minona—anonim) は、これのもじりでもある、か。。

この曲(Beethoven's Mignon)が、どこか告別に似(告別 Liebewohl はこの曲の直後に書かれる 1809-10)、同時に A Therese Psonata No24 にも似ていることを思えば、あながちハズレでもないかも...。

 

そう。Schumannの Mignonミニョン(op68)もさることながら、Beethoven自身のあれこれに通じるも、ことにテレーゼ Therese (Opus 78 À Thérèse No24————それも、Andante favoriをも髄しつつ?) をやはり想い起こすことからも、後々関係する Minona (anonim)の 名は、Mignonにも当(宛)てているのかな...。

| Rei八ヶ岳高原2 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

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