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Liberaまわりと村松崇継氏について。続編

FBの 村松崇継 氏サイトから、ユニバーサルスタジオジャパンに関する 以下のような記事が下りてきた。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの大人気クリスマス・ライブショー「天使のくれた奇跡 〜The Voice of an Angel〜」がいよいよグランドフィナーレを迎えます! 今年も村松崇継が書き下ろした、LIBERA「天使のくれた奇跡」がショーを盛り上げます🎄♫ https://youtu.be/PgkcpuP6AC4

 

今年は、先日の記事にも書いた通り、9月に村松崇継氏のコンサートにも足を運ぶことができたし、 一昨日はリベラの東京公演(新宿文化センター)を聞きに行ったばかりでもあるので、 このさい、ちょっとまとめ。

 

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今年は村松さんのビルボード東京でのコンサートにも、村松さんの曲のいくつかを教会音楽チックにアレンジしたものも手がけているロバートプライズマン率いる少年合唱団リベラの、新宿でのコンサートにも行きました。 村松さんのコンサートではもう少しリベラ周りの曲目があるのかと思いきや、メロディメーカーとしての才能もさることながら、その他のアグレシヴで精確な、変拍子もある複雑系リズム感満載の多重多層性に満ちた音楽など意外な側面をかなり堪能出来、思いがけない収穫をえました。 が、リベラ路線である 「天使のくれた奇跡(ANGEL)」は、リベラのおとといのコンサートで、聞くことができました♪ リベラは、(チャント-ルネサンス-バッハ-ベートーヴェン主に後期の調性拡張-シューマン・ショパン・メンデルスゾーン etc…の音楽展開から主に発すると思うのですがそこは略するとして、この路線を見つめた)サン=サーンス〜フォレ的調性の路線が、やがてビートルズをも生むことになる英国のモーダルかつ斬新な複雑系ポリフォニーへと移行発展していく音楽文化が形成されていく際に醸成されるゆたかな音楽の質を、クラシカルクロスオーヴァーという新しいジャンルに持ち上げた、大変面白い聖性と遊び心豊かなスカイラインを生き生きと渡っているとおもいます。 その路線----村松さんの清らかでポピュラーな!世界と、オルガニストでもある、リベラを率いる音楽監督ロバートプライズマンの荘厳で自由自律的な素描線と「気づき心」の、棄民多き現代社会における⁉︎peacefulな融合----は、いつも不思議で面白いです。 これからも、1聴衆であるとともに、曲作りとその変容多様性を見守るファン、という面からも注目し続けていこうとおもっています。

 

------------------------------------ 以上 

 

FB投稿より。

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錯綜・破綻手前の表現(expression of complication)——R Schumann & F Chopin

FB 過去の今日

 

2015年10月17日 12:40 ·

 

 

ソコロフとラローチャでフモレスクをきいた。そこで考えたこと、またソコロフについて考えていたことがあり調べたら当たっていた点とそこから更に思いついたことはツイッターに記。


それにしてもショパンとシューマンの天才性のちがいを見込んで、なおシューマンの天才を私自身感じるにつけても、ショパンのことを「諸君脱帽したまえ、天才だ」と紹介した、——ともするとその異形さ、狂気にのみ焦点が当てられがちな——シューマンの、心と価値観、思考の広さ,多様性への開け を感じる。

こういう面はかの丸山真男にも通じなかった点みたいだ。(彼はショパンのみを認めている)

 

 

これらは典型的な、シューマンの思考の質について参考となるよい例ではないか

https://www.youtube.com/watch?v=wcS32WnEFiI
https://www.youtube.com/watch?v=L4wDzdGO09Q

 

※Saint-Saënsは、このことについてもしかしたらすごく良く考えていたかも知れない

 

Horowitz- Chopin Piano Sonata No. 2 Op.35 (4/4)- Finale: Presto


 

 

 

Martha Argerich Schumann's Piano Sonata No. 2 in G minor Op. 22, IV…

1

 

表現における、錯乱と錯綜との区別。それらの問題を各々、己の価値体系と歴史の吸収力、また表現力とで果たし、

以て尚、音楽上で片づけられる問題と片付かない問題の両方を抱えつづけたものたちの苦悩と、その時々の解決法。

解決に見いだされる、自発性の秩序感の相違。

 

 

以下は Op22(Psonata nr2)にも通じる、情況と自己という表現——「錯綜」という表情における同作曲家独自の一つの理解ともいえようが

ノヴェレッテンにおけるシューマンの、調性拡張〜崩壊問題にもまさしく絡んでいくであろう、時代の曲がり角を迎えていた様式感への問題意識。

 

8:06-8:54↓ (繰り返される、ひとつの錯綜状態にかんする様式感。これを簡単に異形とか狂気の問題として片づけられるのか...)

 

https://www.youtube.com/watch?v=xJh65eZQCeU

 

 

ZACHARIAS plays SCHUMANN Novelette No 8 Op.21/8 (1992)

 

※これも余談だが、Saint-Saënsはこの曲を案外聞き込んでいたのではないか...。。

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 18:10 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ロベルト・シューマン(R Schumann),エリック・ロメール(E Rohmer)の流儀と現象学(Phenomenology)

これ——現象学的態度——はまさしくシューマンの精神であり、ロメールの精神であり、

彼らの芸術性であり表現態度であって、流儀である。

 

 

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FB 過去の今日 2016 10/16

 

 

RT @merleaupotybot

目に見える物としての全ての個体は、次元としてもまた機能する。それらは存在の裂開の結果として与えられているからである。結局、<見えるもの>の特性は、厳密な意味では<見えない>裏面、つまりそれがある種の不在として現前させる裏面を持っていることだ、ということを意味する。『眼と精神』

 

 

RT @merleaupotybot

受肉せる主観としての私は他人にさらされており――別の観点からは、他人が私自身にさらされているように――、そして私は、私の前で話している他人に自分を「同一化」するのだ。『世界の散文』

 

 

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明日のぶんの記事

 

FB 過去の今日 2016 10/16

 

(シューベルトの後期ピアノソナタ
─ 歌曲を通じての一考察 ─

三好 優美子)

 

http://www.piano.or.jp/report/04ess/ronbunreport/2000/04/01_8989.html

 

面白いとは思う
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社会に適応できず、自然界にも安らぎはない。神を拒否し、優しく包み込んでくれると思っていた死にまで見放され、気が狂うことすらできない。安息を得られないままさまよい続けるのが、『冬の旅』の「さすらう」主人公なのである。
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といった一文なんかも、痛くわかるし 見事だと思うし♬

だけれど
こういう、楽典にも即しつつしっかり語っていそうな分析のなかで
思わず著者の管見が出てしまっている所、たとえば
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「苦難を乗り越えて歓喜へ」と、力強く闘ったベートーヴェンとは少し違い、シューベルトは、「すべてを受け入れる」という方向に向かったのではないだろうか。すべてをあるがままに受容することは、闘うことよりも更に心の強さが要求されよう。否定しないで、苦しいことも事実として受け止める。」
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にくると、めげるというかしょげる...

ベートーヴェンに対する偏見は、批評空間での浅田彰の音楽評論(ヘーゲル=擬制弁証法=べートーヴェン!みたいな捉え方)や
雑誌「思想」での、音楽もの特集(シューベルト特集でも見た)でもよく散見されるけれど——で、シューベルト好きに、多いと思うんだよネ^^*——
ベートーヴェンを「このレベルで!?」批判してしまえることが、結局はシューベルト自身への冒涜にもなっちゃうことに気づかないんだろうか...。

「すべてを受け容れ」なければ——零れるもの、落ちるもの、漏れるものらに、全霊を以て傾注ができるものでなければ——苦悩を突き抜けて歓喜に至ろうなどとは思えないこと、内なる平和と外なる平和が合致する世界の「成就を希え」ないことを、
ベートーヴェン自身ほどじゃなくてもいいから、知ってほしい。
(シューベルト賛歌=ベートーヴェン否定 っていう構図はそろそろいいかげんにしてくれないかな〜)

こんな言葉をスッと書けちゃうって
<創造行為(その創造行為は音楽じゃなくても何でもいいけど)の現場>に立ったことがないことを露呈してしまうのではないのかな

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:03 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Josephine for Beethoven(PS Nr23 op57 Appasionata,op31,SQ Nr14,Nr15,op129,op31,op90 etc...)

FB 過去の今日 2016/09/23 から。

 

アパッショナータ(op57 Appasionata)にもElise's themaの投影が濃厚にある…

 

参照画像(スコア)挿入 (別窓で590×2860pxに拡大できます)

Beethoven-SQ-Nr15

Appasionata+Elise(アパッショナータ+エリーゼ) が、——動機上、冒頭からして全体に濃厚であるが、ことに——後期SQ-Nr15番の<例のところ↓>である。

 

ラー・ミ↓ド↑ララーソ♯ ラーシドレミミミ ミーミソーファミレ ドーミレレ 〜 ファーードミレシ、ミーーシレドラ)

(↑曲全体、とくに添付画像のスコア全体にわたるが、濃厚なのは上記の部分、添付スコア 47小節〜Elise部分の手前 allegro appassionata 部分迄)

 

※しかしこの前段にも同じものは反映されており、そこには appasionata-elise の副次動機ー原動機のみならず a Thereseの暗示も 予兆として含まれる(予兆、というのはのちの 報せ“舞い込み”=添付スコア、グリーンマーカー部分 に反映)と思うため、スコアに含めた。

 

(〜 last mov.=5mov)

 

動画A(with score ※小端末以外では反映されない可能性)

↑34:58-35:47

 

または こちら動画Bでいうと

35:00-35:44

 

(そしてこの next scene として、テレーゼ——A Therese Nr24 op78——が

Toeplitz テプリッツ滞在中のベートーヴェンにジョゼフィーネの妊娠報告を舞い込ませる、あの情景に移るわけだが(添付画像スコア、グリーンマーカー部分)

= 動画A 35:48- / 動画B 35:45- )

 

1octv越しの同音連打も、通常の同音連打も含めて、両者が融合しつつ後期SQに反映している箇所

 

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2018/09/23

 

今日また改めてここを聞きなおすと、後期SQすべてがジョゼフィーネに満ちている——否、ベートーヴェンの殆どの作品が直接間接、この人物、および彼女への愛と情熱を示唆する——といえど、ことにop131,132は晩年らしい趣での枯淡な暗示力が凄絶である。すべてが、原動機であるジョゼフィーネを物語る、と言い切っていい。

が、op131でもop132でも特に最終楽章(last mov.)は、Josephineの暗示云々というよりはむしろ直截的表現(ほぼ原動機の現露)である。それも、——Tempestをはじめ、どの音楽もElise(添付画像スコア、ピンクマーカー部分)を付帯しつつ彼女を表現したといえるのだが、後期ではことに——Apassionata!が(原動機であるElise!をまといつつ)副-原動機となり切っている。(Apassionata=Elise)

このような仕方で、彼女の像を淡々と、なおかつきっぱりと物語り通している。シニフィアンがシニフィエを必要とせず露出した、とでもいう感じ。

 

 

 

 

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FB 過去の今日(昨日分) 2015/9/22 18:15 から。

 

このLvB op31と昨日のop90 両者に通じているのはやはりJosephineジョゼフィーネだ。

 

op31はTempest!!と狩り、という曲と3つで組らしい。op31-1,2,3。K...さんが言ってくれて気づいたが、似ていると言ったlost penny op129を名付けたのはDiabelliディアベッリだったらしいが(勿論これはlost pepi=lost Josephineのもじり。ちなみにディアベッリ変奏曲 Diabelli variationsはop120)、表面的に言われているよりDiabelli はBeethovenと深い仲であったか、少なくとも事情通(knowledgeable person/well-informed person !?)だったのではないだろうか

 

補足

http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/2004/nodaira04.pdf

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven sym2,3,7,8と告別など

2014年8月24日 20:03 

 


sym3(orエロイカ変奏曲),7,8にはラミ↑ミ↓ラの凱旋があり、

sym2(時期はテンペスト頃),告別にはドシラli-be-wohlがある
しかしこれらの二つは無関係ではないという直観


sym7-4楽章にドーーシラ(ドシラ)がある


テンペストは。ラードミラ(1楽章) ド♯ーレミ(2) とラファミレ(3)

 

どう、より得心のゆく整合性をつけていくか...。やはり幽霊op70がかかわるとよいのか。。。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

サンサーンス 交響曲第3番のこと メンデルスゾーン、エルガー、Liberaまわり

 

FB投稿から 8時間前

 

IPadminiを片手に、↑これに聴き入りながら玄関のお花に水をやって来たはいいが、帰りにいろいろ干物を持って上がろうとして玄関ドアに思い切りお尻を突かれて入って来た。

 

それはいいけどこれを聞くとベートーヴェン、シューマン、そしてメンデルスゾーン!(エルガーのエニグマ-nimrodを考える時もメンデルスゾーンに顕著に該当する和声進行は重要だ http://reicahier.jugem.jp/?eid=68 )、ブラームス、エルガー以降の英国、スラブや北欧作曲家、チャイコフスキーやマーラーのことを考えちゃうのはもちろんだけど、シューベルトの第10交響曲のことも何だか思う。。なんだろう。。

(※こう書くと安易にブルックナーに結び付けられるのはいやだなあ...そうじゃない)

 

シューベルトとこの曲との関係だと、未完成交響曲における Dies Irae(Gregorian Chant)のなぞらえの受継について語られるだろうが、私がシューベルトの「第十」交響曲を想念するのは、未完成symが「第十」のある意味での再挑戦(といっても 焼き直し以上の意味を何らか持つもの)、として感じられ、サンサーンスがその意志を受けついているようにも感じられる、のかもしれない...。


シューベルト 第十 は、サンサーンスがsym3を書く(1850頃)までにもう手に入ってor 知っていてもおかしくはないかな。

 

この前の記事(http://reicahier.jugem.jp/?eid=84)で クロスオーヴァークラシカルのソプラノ少年合唱ユニット Libera について書いたときも、

彼らの歌う曲の影響の中で、フォーレのみならず師匠のサン=サーンスの存在は大きかった(RPrizemanがオルガニストだったことも大きいだろう)し、実際このフィナーレを模した曲もあるので、昼間聞いていたのだが。

 

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付記(TWより 180810)

 

サンサーンス。シューベルトから直接彼に向かう線。シューマンを間に介して向かう線(フォーレの伏線)。両方にメンデルスゾーンの和声進行がからむ形の場合(→エルガー)。メンデルスゾーンからじかに彼に行く線。

シューマンから直に彼に行きこれまたフォーレを呼び込む線。総じてエルガー、チャイコのこれらへ向ける視線。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 03:07 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

高橋悠治の言葉

高橋悠治氏(作曲家、ピアノ奏者)インタヴュー の記事について

 

 

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO32785590Z00C18A7000000

 

新譜『余韻と手移り』について
「余韻は音が消えた後の残像みたいな感じ。この音は、と言っているときにはもうその音は消えている。音は記憶でしかない」
「(現代の)ピアノ音楽からはちょっと外れた曲を入れようと考えた。あまり演奏してこなかった曲を探してレコーディングをしているわけだ」

 

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さいきん、フォーレやバッハなどの作曲家の、意味延長可能性あまたある作品以外には

あまり他者のきちんとした楽譜を読むことなく、modalな感覚で音を移動させる実験というか遊びをしている。

 

たとえば、童謡 赤とんぼ を、A 機能和声(functional harmony)からと、B 旋法的和声(modal)の両面からアプローチして、和声進行のつくられ具合を比較体感してみるとか。

 

このさい、実際に(いまごろ笑)やってみてひしひし体感するのは、AB両者は完全に分離した機序も何もかも別々のもの、というわけではなく、どこかで背中合わせになっているというか折り物の「輪」のような癒着した部分を持つけれど、それでも結果として相当ちがった雰囲気と和声の組み合わせが形成される。

 

バッハ+スカルラッティ風な、自分で作れる音楽を仮にやっていて、その線からシューマン的な線〜フォーレ的な線、さらにもっと現代音楽的に多彩に滲む線、などをパラレルに想定しつつなぞってみるとか。

 

きのうは、ごくなんとなくだが、modal-jazz路線かもしれない(形勢?)線を半音階進行でこまかく追っていた。

すると意外にシューマンの音楽がこれに近く存り、バッハ+スカルラッティ路線と、フォーレ的幽体離脱線との関係性を独特に形作って感じられたりしていた。(サンサーンスが現今と未来の音楽について当時から思慮していたものに通じるのかなあ)

 

そんな体感をしながら、これを読むと実に面白かった。。。

 

 

ここで高橋氏のいわれる、『手移り』は、

ちょうどバッハを十分に吸収したロマン派からふたたびmodalな調性に変わる時代の音楽でも重要になって来るし(響の余韻を十分透徹させようとすると生理的にそうしたくなって来る)、フォーレなどにはすでに、グレゴリアンチャント〜ルネサンス期の再現性とともに現代音楽の予兆がふんだんに刻まれている...。modalなので当然東洋的なもの——邦楽(能や長唄、民謡)やモンゴル系など——とも重ね合わさり、ジャンルと時空を超えた世界の螺旋運動が見えるようだなあと思ったら、やはり氏がこの点について言及されていたのか。。

 

カフカに訴えているのもおもしろかった。

カフカにおいては、作品の出来不出来への評価にとって、「閉じ形-完成形(であるかないか)」はそれはほど決定的な力を持たない。

おもしろいのは彼における同じ実存的主題の変容性・変容可能性(開き)であり、それに応じてニュアンスの少しずつ変わる諌言性(想像力のまとう表徴の主題、意味付与の交替感覚とともに同質感覚)だとおもう。

 

 

「バッハの音楽は出来上がっている作品ではあるが、それを演奏していく過程で未完成になっていくような可能性を示せるのではないか。発展していくというよりは崩れていくようなパターンがある。崩れていくと別の形になっていく。だけど別の形になる寸前で、未完成のままで止まってい」る、という点では、

バッハ自身によるフーガの技法の、カノン群とその配置問題などに、すでにそれがあると思う。

どういう曲順で置くべきか、そしてその群を、この作品の中に挿入れるとして、どこに入れるべきか、などなどが分かっていない。

 

まずもってフーガの技法全体に、すでにそういう空気感があるのだが...。
 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/高橋悠治

 

をよむと、

高橋氏の、たとえばシューマンへの評価(これ自体はかなり重なる)が若い頃のピアノ曲に集中しておりその後の室内楽や交響曲には射程されない点などからしても、

シューマン→ドビュッシー→サティというふうに彼の関心評価が進んでいったベクトルが、現代音楽の役割終了感につながっているのかもしれないと思うなどする。もしもシューマン(+メンデルスゾーン)→サンサーンス-フォーレ-エルガーとその後のイギリス、などと、生身の生命体の担保可能性をたたえる形で進んでいくならば、クラシック音楽自身にとってもうすこし窮屈でない、もしくは分析主義的でない?、生きた心地のする進展になっていたかもしれないと。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Liberaのこと classical cross-over のこと

シューマン——6 Etudes after Paganini, Op. 10——聞きながらクロスオーヴァーのこと書くのも変(*)だけれども?笑)、

最近、UKのソプラノユニット Libera に嵌っている。

 

*... 否 そもそも論からするとけして変じゃない。。。あらためて♪

※シューマンが直接歌われるか、ということとはとりあえず関係なしに。ある意味、シューマンを多くの意味で発掘の起点としたフォーレが鑰もしくは(ドビュッシーやサティ以上に大きな)分岐点に、なっている[※ワーグナーとは言わない所が、私らしい...。今のところWikiなどでも、フォーレはワーグナーからいろいろ学んだとあるが、まずそれ以前に調性への問題意識のとっかかりからしてもシューマンであろう。それは早晩明らかになるように思う。ワーグナーは、もし自分が調性拡張の起点であると自負するなら、シューマンが精神病院に行く前から自称すべきであったろう。それと、シューマンが辿った地点からフォーレ的幽体離脱の転換へと至るダイナミズムに絡む、諸問題がある(**)。]ことが改めて把握され、それが脈々たるイギリスの ジャンルを超えた Choir 乃至 多声部音楽の伝統と合流し相まって育くまれていれば十分なのである——ドイツ→フランス(ガリア・ケルト)→イギリス精神(エルガー以降+北欧→アメリカへと通じる調性逸脱)へとつながっていく、例の脈(***)——。

 

**...おそらくベートーヴェンからしっかりと始まった、世界における“自律”的主体性(カント・デカルト等近代観念論とその様式・意匠における弁証法)の確立の必/当然性と、こんにちの弁証法(現象学的真理)の狭間にどうしても一度は横たわった問題であり、それは倫理性を含む。

参照:サン=サーンスの諸言葉(ツイッターのBOTでも手繰れる(★)。かれの悩みは思慮深い。ここには、弟子のフォーレに比しサン=サーンスは保守的であった、などといって解消できない何か様式(美)観=主体性確立問題に、合通ずる、人間的良心(個の自律性及び公共空間の確立とその律法化問題?)と表現倫理の問題がある。ワーグナーの問題も然りである。)

 

***...RSchumann→Brahms・SaintSaens・Faure→Elger(と彼以降のイギリス)+Grieg等北欧、のこの線。その手前に、スラブなど民族派に行く流れがあるのだが)

 

★...

●ああ、明晰さよ。人々はこの明晰さを少しは愛してきた、これは確かだ。明晰さ。これは様式の純粋性だ。

●今日、すべての事柄のしりぬぐいをさせられなければならなく、またすべての事柄の弁明をしなければいけないのは、象徴主義だ。もしあなたが象徴主義者であるとするなら、心おきなく無意味で、耐えがたい程に退屈であるがいい。そんなことは大した問題ではない。

●人々は、昨日の不協和音は今日の協和音だという。確かに、人々はすべてのことに慣れることができる。しかし悪い習慣もあるのだ・・・

●私が死んだら、人びとは20年間私を忘れるだろう。いやもっとかも知れない。私の作品は自力で身を守らなければならないだろう。私は自分の書いたものに自信を持っている。それらの価値を発見する新しい世代がそのうち生まれてくるだろう・・・

●はっきりと世俗的な音楽と区別されるような本来の意味での宗教芸術はない。あるのは良い音楽と悪い音楽であって、それ以外は流行や慣習の問題にすぎない。

——by C_SaintSaens

関係記事 http://reicahier.jugem.jp/?eid=88

 

 

 

 

LiberaとClassical Crossoverに話を戻そう。

 

わたし自身、聖歌隊出身であり、もともとクラッシックのジャンルのなかで人間の声のジャンルではオペラやオペレッタ(これでもか系?^^*)の方に行くよりChoir——聖歌や宗教音楽等、人間臭さの濃くない質の=自我肥大や出世欲などに汚されたくない質の 笑)音楽の方——に行きたがる性分であったので、

クラシカル・クロスオーヴァーの側で、相応の宗教性をもおのずから担保する形で《一定程度》その技術と表現レベルがアップしたなら、ある種のしがらみと形骸にしがみついたままのクラシックの世界よりむしろその『外』の側が、人間と時代との真理といったものを健気に獲得することも、必然といえば必然...と思えるのだ。

 

ところがLiberaの場合、その質においても、一定程度なんていうものじゃなかった。

歌としての技能・技術もさることながら、表現力・純粋度と完成度——自発性(みずからとおのずからの一致)の完遂力。それはまさしくこの時代において至った、本来的宗教性の発露なのである!——といった点においても、完璧というべきだろう。

 


 

■↑deep peace の元歌は、John Rutter!のGaelic Blessing(https://www.youtube.com/watch?v=7d5ZuOVO3f4

 

 

それと、時代が時代、ということが、それこそcrossoverしちゃってる。

 

 

音楽史の点からも“究極の局面”に突入した——クラシック自らの側からもそれ(思い切っていってしまえば、一部の人々の真摯な努力や良心を除き、自らのジャンルの 終焉もしくは自滅)を呼び込んだ、と私は思う...し、クラシックの外のジャンルが成してきた運動展開自身の必/当然性もある——と同時に、<人間社会>という面からも、ざっくり言って「祈り」の時代に否応なく至らしめられた訳だ。

 

 

祈り、というのは、Liberaの子たちがレパートリーとしている多くの曲にも当てはまるのだが、大まかに言えるところの「棄民」排出の多い昨今、『人間』への希いと、それを超越した(しかし『人間』味を失わない)位相にいるであろうものへのひたむきな訴求——寄り添いと見守りと平安への切なる願い、「愛」の希求——が「祈り」として現されていること。人-神の両者が合一化もしくは中間地帯化している領域、そこにこそ住む何かに、彼らから発される至純な言葉も旋律も、向けられていること。ここに、すべてが端的に明かされている。

そう。一言で言ってLiberaの発想と運営には、明確な哲学があり、人間と社会への深い洞察があるのである。

 

 

生身の人間だけに訴えても、おそらくけして成就されはしない(不安や懼れや悪に、所詮打ち勝ちはしない)願いであろうが、かといってまるきり人間の相貌を失った超越的なるものに向かっては、このような純粋さと切実さとが告白されもしないだろうような、魂の領域。。。つまり愛の希求=祈りでしかないようなもの。それを、現代人が抱かされている。そのような時代に至ったということ。

 

 

ところで、バッハパッヘルベルタリス(Canon)サン=サーンスカッチーニシューベルトベートーヴェン(Immortal Beloved)ドヴォルザークシベリウス、といったクラシックジャンル(Liberaが彼らの曲の魅力を最大限に発揮した形で聖歌風に昇華させている)はもとより、日本の上質なポップクラシカルの作曲家・演奏家も、Liberaに曲を提供したり共演したりしている。

 

村松嵩継(Takatsugu Muramatsu)氏である。

私は9月に彼のコンサート(作曲家・ミュージシャンとしてのみならず、シンガーソングライターとしてもデビューされたとか)にも、行く予定である。

 

 

映画「誰も守ってくれない」の主題歌(You were there 冒頭に紹介)や、彼方の光(Far Away)、など自らの曲を提供することで Liberaを日本でも有名にした音楽家 といえるが、

 

 

私の一番好きな曲 We are the Lost(それこそグレゴリアンチャント由来の旋法を生かしたフォーレのレクイエム的コード進行の究極版といえようもの)にも かれは一枚絡んでいる。

 

 

(※ We are the Lost についてのlicenseについて記されたページ——この曲が何人かの作品の集合体ということ——を見ると、LiberaのMusic DirecterでKey ManであるRobert Prizemanの他Dvoark,Sibelius,Holstなどクラシック作曲家とともに、彼 Takatsugu Muramatsu が名を連ねている...。)

 

私はこの曲の譜をもたないが、自宅の小さなオルガンでちょっとこの和声進行の秘義をひそかに手繰っている...。

とてもよく出来ていて驚くばかりである...。

 

 

Liberaの運営に、自由さとともに着実さと画期性を感じるのは、イギリスの伝統でもあろうが、変声期を過ぎた隊員にもそのまま学校に在籍することを許可している点もある。Beatlesでは Paul McCartney,John Lennon,プログレのYesメンバーであるJon AndersonやChris Squireも聖歌隊員であった。その時期にGregorian ChantsからThomas Tallis,William ByrdなどRenaissance期のPolyphonicな音楽を叩き込まれており、作曲に生かした。Kate BushやNorah Jonesもそうだ。リズムや変拍子などに気を奪われやすいが、音列を平易化すれば旋法であるかそれを生かした曲想である。彼女らも、ピアノ、ヴァイオリンなど楽器を習っているが、やはり聖歌隊員としても在籍している。

 

凡その民間伝承音楽がそうなのかもしれないが、bossa nova などもリズムを除外すればもとは旋法チック(Modal)である...。西洋音楽とはもとよりそういうものなのかもしれない。

 

征服されたガリア人やケルト人の元来もつ音楽性が、お経めいたChantの平易さに、よりはげしくメロディックなゆらぎと表情を与えてきたのかもしれない。

そんなこんなで、人材育成の点からしても、系統だった旋法系の多声部学習とその透徹は必須条件なのであろう。

 

Liberaは AVE MARIA をシューベルトのもの、カッチーニのもの、カッチーニのを編曲しつつ新しく創作したもの(by Robert Prizeman?)、いくつか録音しているが、これ↓はそのRobert Prizemanの作曲らしい。

 

 

 

かなりの名曲、名演だと思う!Liberaの少年たちにはもちろんだが、村松氏の作品への眼の付け方や

こうしたAve Mariaの創作仕方ひとつとってもそうであるが、他にも諸古典、FaureやSaint-Saënsの各曲への注目・変容仕方(アプローチ)など、****

やはり個人的にはR Prizemanという人への興味がつきない。

 

****...

Lux Aeterna という曲にはFaure's Requiemのin Paradismから引用乃至インスピレーションを付与されそこから構成されている旋律がある

 

O Sanctissima (Songs of Praise)  には、Saint-Saëns  Le carnaval des animaux「動物の謝肉祭」水族館<Aquarium>の影が支配的に伏在するとか(ソプラノソロの背景になっているコーラスの在りようでわかるのだが、グラスハーモ二カの奏でる最後の旋律でもその描線が暗示されている)。

 

など。

 

 

 

 

最後に。Schubertのもの。これを聞くまで、生きていてよかったと思う演奏。。

この少年のひたむきで的確な表現力には頭が下がる思いだった...。(F Schubert's AVE MARIA)

 

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:42 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シューマンのSQ41-1とPトリオop80(RSchumann sq op41-1とPtrio op80)

FB 過去の今日 から

 

2012年7月6日 23:01 · 

 


シューマン sq op41-1とPtrio op80
http://ml.naxos.jp/album/8.553836 trio2 (op80-2)

http://ml.naxos.jp/album/chan10692(sq op41-1-4) 4:41-5:04(ラーミーファードー)が、

 

trio2 (op80-2)3:46-4:37(ラファレファミドラドファレシレドラファラ)と同一なため=前者が後者旋律のbg=ベト後期風になっている、ソーラーシーシーレーーソ(ファ)の結び=解決が同一になる

 

このことを、ベートーヴェンの幽霊や後期sqとの関係から証せるのか?

 

☆ラーミーファードー
って、マーラー巨人 じゃん!!

だったらなおさらすべき。(180706)

 

 

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2012年7月6日 22:54 · 
http://ml.naxos.jp/album/8.553836 trio2 (op80-2)
http://ml.naxos.jp/album/chan10692(sq op41-1-4)4:41-5:04が、trio2 (op80-2)3:46-4:37と同一なため、ソーラーシーシーレーーソ(ファ)の結び解決が同一になる

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:59 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

幽霊・巨人とヤコブベーメ

20170619 FB 過去の今日 より(数日前の過去記事)

 

 

ヤコブベーメ 幽霊 シューマン でぐぐる。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/主題と変奏_(シューマン)

 

 

またベートーヴェン、でググるとどうなるか

 

 

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参考資料

 

http://ex36man.blog.fc2.com/blog-entry-47.html

巨人の誤解 ヤコブベーメ

 

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ジャンパウルの巨人、マーラーの巨人は、ヤコブベーメのそれなのか。

 

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関連記事

 

ウェーベルン 自分の記事(ウェーベルンの気づき について)

http://reicahier.jugem.jp/?eid=50

 

 

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