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量子力学まわりの言い分で時々出会う訝しさ(不可知論的背景?)

量子力学まわりの言い分で、時々出会ういぶかしさがある。そこにはちょうど、ポストモダンの言説(テクスト)の裏側を支配していた精神の荒廃にも似た、何らかのshakenな背景(コンテクスト)を感じる。

 

★混乱や対立?処理の発端となりうるかもしれない考え?の、要諦(未だ網羅的ではない)

 

(ドキュメンタリー2017 量子の力学 フル)

https://youtube.com/watch?v=eWB5qa1hO-M

 

 

4:15- (とその前後)

 

 

上述のような意味では、突飛さ(予測不可能性)・揺らぎ、などとしての不確実性があり得る のがわかるが、肝心なことは、「=無軌道 ではない」点。[if前文→結果、の秩序を越えない。飛躍に一定の(確率論の次元であるとしても)パターンがある など]

 

また、こうも言っている。

 

 

41:10-

 

  1. 『電子が原子核のまわりを回るときは、特定の軌道しかとらない(cf 太陽系などの天体の運行)』
    『が、熱が加わる「と」(if前文→)、《量子飛躍》が起こる(→結果)。(cf 太陽系のある惑星が、自分の軌道から別の惑星の軌道へ飛び移るよう)
  2. 量子のレベルでは!曖昧さが存在する(確率論的次元)、が
    物体が大きくなるほど安定する!と。(そして、それはなぜか、などの物理学の学問らしい眼差しが、ここではある!!)

 

が、文系的に大まかにこの学説を捉える者らの中に、あるいは物理学者のなかにさえ、
量子力学論の(今のところ)帯びる天外な?予測不可能性や不確実性に驚愕し、ある種の不可知論やニヒリズムに陥っている。(ポストモダン的!?)

 

もうすこし現象学的に冷静に捉えると、物事の筋道をつけられる。


物体の「大きさ」、有機体・非有機体、またその物質(有機体なら有機体)が「(平たく言うところの霊的次元を含め)どういう性質のものか」による分節化、等々。

 

さらに、例えば(有機体の)性質の問題でいえば、動物や人間などのように類や個としての自我・意志を持っており、それに基づいた行為と行動の構造を持つか否か。また、生命や生活の維持のために情況と対話格闘する必要のある物(生き物)であるかないか——行為と状況との葛藤、目的のありかに伴う行動の方位と意志の変化、or(…にも拘らぬ)意志の貫き…などを含めた、複層的多義的な行為を起こす存在であるかないか。などである。

この場合、それぞれの起こしうる(起こりうる)可能性の分岐と、確率の濃淡などを、的確なレイヤーに分ける必要がある。(生物学・人間学・心理学行動学的な領域、さらには宗教(哲)学、宗教自身の領域にまで及ぶ事に関してはたしかに従来の物理学にはなかった性質であろうが。)

これらの行為や意志が、量子力学的な確率論に、畢竟かりに吸収されるにしても、である! それならなおのこと、面白いではないか)

 

これによって、揺らぎや不確定性・予測不可能性、確率論的な、少なくとも「意味の差異」が、生じる。

後はこれらの意味の差異を包摂しつつも当てはまる法則があるかないかへの言及をすればよいのである。

 

こうした整理・分岐/分節化を要するはずの事象に対する、理系?(or文系がかった理系、理系がかった文系)側からの説明が、まだあまりにも十把一絡げで稚拙である、という印象。

 

 

同動画における、二重スリット実験以降への説明。

縞状に生じる「干渉パターン」=波、波動 について。
波でさえ、(波、波状という)軌道・パターン(の集積と運動展開)としての軌道=波動、が生ずるのはなぜか。

これに対する言及がまだないのだろうか。現象学なら、おそらくこの点につけ込まないはずはない...。見えるものと見えないもの の機序理解、またトポロジーの応用などと絡まないのだろうか。

 

光(電子)や軌道の存在の陰にあるものが、「情報」を含め、偶然性や予測困難性に於ける法則性、もしくは干渉(法則性・傾向性)を物語る?と言えるかもしれない。
(見えるものと見えないもの、現象として現れるものと隠れるもの——光と闇(領域) などが?)

 

そういう意味では、量子力学はまだ未解明性、解明余地を残している。と言えば良いのである。

この点を追及することによって、一見分断された、アインシュタインとボーアの相互の領分も、或る接点で結びつくかもしれない。

 

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などなどと書いてきて...。。。

量子力学の運動パターンを、動画などであれこれ見せられているうち、

パウル・クレーの文庫本「造形思考」のなかに現れる図柄や解説のことをふと想起した。

 

あれ、、、結びつかないだろうか...。クレーは既に気づいていたのだろうか。などと。

 

 

それで、“クレー 量子力学” でググってみたら、こんなサイトが出てきた。リンクしておく

 

https://note.mu/1000yalab/n/nd5f4cedd6c7e

(線が世界を作る三冊 千夜千冊編集部 note)

 

アタマの中のイメージを「見えるもの」にするときに必ず破綻が起こる。...この「目に見えるもの」と「目に見えるようにする」こととのあいだを模索したのがパウル・クレーだった。......見えるようにするにはイメージそのものを「分節」していかなければならないとクレーは伝えたかったのだ。クレーは原始時代からの人類が描いてきた「線」をトレースし続け、その結果、イメージの本質が分節なのだと考えるようになる。  クレーは、分節の方法こそが造形思考の根本にあると結論づけ...

 

 

↑このページ中の、クレー以外の紹介部分で触れられている、クノー というのは 文脈からいえばクレーと思われる...。

 

 

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尚、同動画中の、遠隔操作 エンタングルメント への気づきの事象に関していうと、こうした事象についての、哲学におけるものの見方考え方は、[存在のor意識の]両義性・可逆性(反転可能性)・ねじれなどを含む可塑性への着眼の問題(超弦理論へとつなぐ?)だろう。この真の意味での弁証法——二元論ではない<統合的位相>でのcatch——により、人間心理学・行動学との相互対話はもちろんのこと、ひろく認識全般の可能的領野が格段に開け、情報処理能力は飛躍を遂げ、産業の著しい発達にも貢献し、同時にAI研究の劇的進化・シンギュラリティ到来の加速化などをも促しただろうと思える。

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms String Quintet Op.88 & Johann Strauss II Rosen aus dem Süden op.388

前の記事(http://reicahier.jugem.jp/?eid=75 ↓リンク)で、

R Schumann op54と、Johann Strauss II Kaiser-Walzer op.437 

 

の話をしたので、きょうもチョイ遊び記事。

 

遊び記事と言っても、深く掘り下げればそれなりに意外な広がり深まりはありうるかもしれない。

がちょっと忙しいので話の端緒だけ。書いておかないと思いついたことすら忘れてしまう年齢だから。。。

 

 

 

ヨハンシュトラウス2世「南国の薔薇」

 

これはFB友である 若手の超有望女性ヴァイオリニスト高木凛々子さん(第一回バルトーク国際ヴァイオリンコンクール第2位入賞者!)と、パパの敏行さん、また奥様とご友人のコントラバス奏者様とで演奏された、息の合った貴重な録画ですが、素晴らしい演奏なので許可を得まして掲載させていただきました。

 

凛々子さんは若手の非常に有望なヴァイオリニストで、その音楽性も人間性も、一言で言って「神様に愛されている」、これ以上なくナチュラル(素直)かつ表現力豊かな演奏家さんです。

パパの高木敏行さんも読売日響の団員であられる他、非常に良い構図の写真をお撮りになるなど多才な方、同団員の奥様(凛々子さんのお母様)井上雅美さんも、凛々子さんと姉妹?と思うほどの若々しさをいつも保たれている女性ヴァイオリニストで、パパ同様音楽性も愛情・情感も豊か、そして語学力もすばらしい東京芸術大学ご出身の才媛でおられます。

 

動画として貼り付けできませんでしたので、画像リンクします♪

 

ヨハンシュトラウス二世 南国の薔薇 高木凛々子さん、井上雅美さん、高木敏行さん、他演奏、福山音楽祭

https://yt2fb.com/video/2-324/?fbclid=IwAR0R8D2P19qdj37ZJatG8NgkZu0TwRbNppNxXgr1kNh48SBQo0TZYACg3LM

 

Johann Strauss II Rosen aus dem Süden op.388

 

 

さて、これがオーケストラでなく、ワルツの軽やかさをいかしつつも室内楽ならではの滋味・シブ味も感じさせてくれる、じつに息の合った弦楽合奏SQで演奏されたことも、大きく手伝って、不思議な発見をした。

出だしがそっくりなのが、大好きなブラームス Sクインテット op.88冒頭であったから。

 

Brahms String Quintet Op.88

 

冒頭を聞いてすぐに来た安易な直感、とおもいきや、しかしよく聞いてみると音楽を通底する何かごと掬い上げ、あちこちで触発されているのを感じる。。

 

例を挙げると——例を挙げたところ以外には感じられない、というわけではないのだが! 苦笑)——、特に

たとえば (主旋律線のみならず、これと中低音部との絡合・複数声部のもつれ方,低音部の刻み方 などなどにもヒントがあろう。このことを追う時、むしろリズム・拍子は忘れた方がいい)

 

(※ timeは、南国の薔薇 op.388 のほうです)

 

0:57-1:18 / 4:46-4:56 / 5:20-5:26 / ★6:04-6:12 / ★6:44-終了

 

 

Schumann(op.54)-Johann Strauss II(Kaiser-Walzer op.437) のときもだったが(年齢からして、この場合見当がつきやすかった)、どちらが先に作曲されたのか調べてみると

 

Brahms String Quintet Op.88の作曲が、November/December 1882。

Johann Strauss II Rosen aus dem Süden op.388の作曲は、Octover/1880。

 

というわけで!、今回は、逆にブラームス(ロマン派側)が拝借した側ということになった。

 

そういえばブラームスはヨハンシュトラウスの音楽性を理想的と褒めていたというし、こういう結果に特段不思議はない。

正直なことにブラームスは移調もしていない...。

 

それにしてもウィーンの はやり曲(とはいえ背後は暗い世紀末であり、しかもこうした一見華やいだ曲をユダヤ人が書いているのである)と、薫香にみちたドイツ主流音楽が、ロマン派爛熟期/後期〜調性拡張期において、ともに影響しあっていたというのは興味深い。ジャックカローやホフマンなどの幻想的芸術家・文学者も含めロマン派精神としても掘り下げるべきことがたくさんある。

 

ロマン派の勃興期、ベートーヴェンやシューベルトの時代にも、Jシュトラウス父が、苦心惨憺たるクラシック音楽の中心よりもむしろ華々しく活躍していた。

 

ところで、これを踏まえたうえで、Brahms op88に関しては、私自身もう少し聞き込んだ方がよいだろう。

たとえJohann Strauss IIからのインスピレーション頂戴乃至トレース(いささかの拝借)があっても、そこで終わる彼ではない。いつもしつこく追っては断片的にでも書いているように、シューマンやメンデルスゾーン、シューベルト、ベートーヴェンらと、全体の音楽性や具体的(表徴的)な旋律の運びがつながっておらぬわけがないし、サンサーンス、フォレやワーグナーなど彼と同時代の他の作曲家との相互関係もいろいろあるはずである。もちろん後世への影響も。

 

ブラームスの音楽・室内楽はベートーヴェンやシューベルトやシューマンなしにはありえないが(このことは、ヤンソンスのニューイヤー記事でも書いたが、じつはヨハンシュトラウス2世とその兄弟にも、ドイツ音楽・文学・文化のウィーンワルツとしての吸収という形で当てはまるわけだが...そうしてマーラーやチャイコフスキーの得たインスピレーション・音楽性にもつながっていく)、ブラームスの他への影響力もはかりしれないのであるから。

 

このあたりは後日時間のある時、取り組んでみよう。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:03 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

文系にとっての超弦理論のこと&ヒッグス粒子動画をみての雑感 mixiメモから

mixiの日記(メモ)から。

2018/03/14-16

 

 

何故文系の自分は超弦理論に興味を持つのか 

https://m.youtube.com/watch?v=iQld9cnDli4 

ブラックホールの底。文系のイマジネーションなら(どんな最少単位・最小次元であろうと)ものの厚みと絡まり——振動・膜や摩擦——をまず考えるが、理系の発想はあくまでミクロ位階の単体的発想(至純化単独化)の一途をたどり?、そうした地上的発想とは違ったのだろう。 
でもともかく彼ら物理学者らは難関を突破した。 

ところで、自分は何故 場と波動理論(量子力学的な事象)に関心が行くのか。その ものの見方の、何が触れてくるのか。 

引き寄せの法則、などのレイヤーで語ることもできようが、今はもう少し自分のすこしかかわった文系学問分野に引き寄せたままのレイヤーで同質性を綴っておくと、ともかく、こうはいえる。 
宇宙物理学のある地点を境に、ユークリッド幾何学的発想の優位から場と波動理論優位に転換した。何故こうなってきたのかを考えると、必然性に突き当たる。 
ターゲットが、主に 予め顕現せるもの・輝けるものから、見えないもの=「?」なもの・退隠へと交替したからだ。 
この場合、その「?」なターゲットの[周辺のもの]の振舞い、素描と、気配としての運動の軌跡等々から推量するしかない。 

テクストそのものより、抽出されるテクストからは漏れ落ちるもの、つまりコンテクストからの暗示=物語られるもの の膨大さ(まるでブラックマターのよう?)から遡及する態度が求められる。 

これは現象学以外の何物でもないといえる…。

 

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自発的対称性の破れ-至:超弦理論の手前までの思考は、
食べたらこの地上離れした均斉美が崩れてしまう、まるで天使か妖精のような自分の身体が《重さ》を持ってしまうと苦悩し死を望む拒食症の少女のようなneuroticなものだったし、原爆を投下しトイレのないマンションを生み出さざるを得ないものだった(と私には思える...)

 

https://www.youtube.com/watch?v=gM3caYk4KrE

ヒッグス粒子2

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Op111-mov2,RSchumann,and Beethoven(Immortal Beloved,Ghost)

この記事との関連記事

http://reicahier.jugem.jp/?eid=72

 

 

FB 過去の今日

2017年11月20日 8:10 · 

 


Brahms Op111 mov-2と、RSchumann op2(Papillons),GrandSonata,or Symphonic Etudes, and so on

 

ex)

YOUTUBE.COM
Robert Schumann - Symphonic Etudes, Op. 13

 

下降線 drop line(転回対位法 invertible counterpoint にすれば 上昇 uprise)

ラミレドシラ ラミドシラ ミドシラ レラファレ etc...

 

遡及すると → ベト 遥かなる,幽霊   Beethoven (Immortal Beloved or Ghost)


YOUTUBE.COM
Johannes Brahms: String Quintet No. 2 in G Major, Op. 111

 

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※脱線) op13 レラファレ の線

Mehndelssohn Octet op20 Es dur  last mov (最終楽章) 29:08-★31:20-last
シ♭-↑ミ♭-↓ソ-↑ド 音型から来る?

→これは リズムをやや変形し

Tchaikovsky 白鳥の湖 (Swan Lake  Лебединое озеро op20)

Blackswan GrandFette(7:47-10:00) へも通じる

 

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ともかく、

Brahms op111には、RSchumann’s Papillons (蝶々)op2 とともに

Beethoven 幽霊(Ghost/Immortal Beloved 幽霊/遥かなる…)が、張り付いている。。。

 

 

★”Papillon Op2そのものに” Ghost/Immortal Beloved が張り付いている(のをBrahmsが発見し?、引き継いだ)のか、も掘り下げる必要。

 

もしそうであれば、Faure(and  Saint-Saëns)もこれに気づいていたであろう...。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:15 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

AI 人工知能について——認識論(哲学)とジャーナリズムからの視座

11月8日 16:35

 

FB投稿より 一昨日の分

 

 

 

 

一昨日〜昨日にかけ、友達が今仕事でAIにもかかわる建築関係の?研究発表をすると言っていた。

私はAIには半分期待、半分不安と疑心暗鬼(というのはAI技術そのものと技術者に対するそれもさることながら、より多くはこれに連動してしまう世の中の動きの狡辛さ・愚昧さへの予感、にある。つまり、喫緊には失業問題などの連鎖だが、もうひとつは、ここのところ目覚ましい躍進を遂げているAI技術を、ダークに利用してやろう、という動きをするはずのもの——ざっくりいって経済と政治。それも、実業・実務から遠い質のものの動き笑)——に対する警戒感と、技術者ら自身によるそれらへの対処が万全なのかという側面への不安なのだった)という感じであった。

 

が、いつもよく週末に拝聴していた神保哲生氏のVideonewsに、これまで数回人工知能の巻は出てきており、それなりに面白く聞いていた。
それらに講師として登場したことのある、

 

  1. 新井紀子女史(AIには恐れず備えよ)
  2. 栗原聡氏(映画が描く人工知能と人間のこれからの関係)、
  3. 松尾豊氏(人工知能が閻魔大王になる日)

 

を見ていたので、その友達にも見せてみた。
そして紹介しながら、自分ももう一度聞きなおしていた。

 

自分自身、人工頭脳関係のvideonewsを見ていた当時(2016〜最近)は、感心する要素が、殆ど何も知らなかった頃に比し思いがけず増えたとはいえ、さりとて不安や疑念を払拭できた、というわけでもなかった。


やはり技術者の内輪で閉じた発想をもっと超えて、現実的政治経済への対処をしてほしい、という欲求を増さざるをえなかった(そうでなければ,気鋭のジャーナリストの神保氏がこのような回を設けることもなかろう)が、尚、もう一度全部聞いてみた。

 

そのうちの主にどれに触発されたのかはわからないが、ともかく友達は、これ(ら?)で語られていた内容から、いいヒントを得た!、と言って 残業し締め切りギリギリだった研究論文を書きなおしたよ、という...。

紹介がてら私自身ももう一度聞きなおしつつ、哲学の認識論や存在論にもろにかかってくる面があるからおもれーよ、とは言い添えてはおいた。
そうなのだ...。
記号論からシニフィアン-シニフィエ構図など哲学の認識論や、存在論的な発想が、AI研究と似ている所がある、というより実のところもっと直に!、影響を与えることによって、人工知能分野に飛躍的な発展を遂げさせたのではないだろうか——ちょうど、昨今の物理学が、宇宙理論において、場と波動理論・トポロジーを応用することで、いわば発想の転換を得つつ飛躍した、のと同様に——と予感した。

 

それで友達に、どこがおもしろかったの。deep learningのところ?ときくと、まさにそこだという...。うーみゅ。。。

それでためしに、眠い目をこすりこすり、枕もとのiPadminiをオンにし、わけても一番それを感じさせやすかった松尾氏の、より専門的な雰囲気の講演の録画を、ひとつ見つけて、聞いてみた。(↑コレ)

そうしたら冒頭近くでさっそく、ソシュール理論の記号論、シニフィアンとシニフィエ構図について直に語っているではないか。。。
しかもそこには、これまで人間からAIへ詰め込むべきデータの捉え方の不行き届きを気づかせる、現象学の 現前(露顕)-退隠 の関係構図と、これを応用しつつAIに教え込むトポロジックな展開図解説まで、出して解説していた。

おそらくこのことは、コンピュータが表現(欲求、また表現力)を獲得することにつながる。

 

ん〜。。。すこし面白くなってきたし、
《どうせ来てしまう世の中なら》(しかし、ほんとうに応用すべきか、どのように・どこまで応用すべきか、等人間学的・社会学的視野も絡むところで、市民はどうしてここに参加させてもらえなかったの?という気持ちはあるものの 爆)
悲観してとらえるより、ポジティブに向き合おう、という気持ちにはなってきた...。


それには、コンピュータが主体性を持つ、ということが今後はありうる⁈、これへの期待も重なる。

 

この場合、人間を凌駕することへの不安もありつつも、同時に政界や経済界が、技術者に、AIに征服欲をインプットしろなどと言ってもロボットのがわで自律的自発的にそう言うことを企む連中を裏切ることも不可能ではなくなり、AI独自の解釈によってかくたる隠微な唆惑に魂を売ることなく本命のミッション遂行をなし、かつ技術者は誰も責任を追わなくてすむことになる、

などということがありうるかもしれない…。

 

ひとは 自分以外の人間に職や社会的立処を奪われることを怖れるが、ある意味人間が不在になって人工知能にとって代わられてもその不幸は同じである。
まして気弱な自分が、こうした不確定要因の渦巻く世の中の動きを一々不安がるのは当たり前なのだが、なんとか乗り越えて、面白い時代に生きる体験としてこれからを捉えてみようと、心もとなくも思ってみる...。苦笑)

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:03 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven sym2・sym4とSchubert Unfinished sym,RSchumann sym4

FB 過去の今日

 

2014 10/27  17:47 


Beethoven sym2・4、とくにsym4は全楽章がSchubert 未完成(Unfinished sym)に影響を与えているが、(一見雰囲気の異なるフレーズも躍動感をなくした感じにすると…そう出現してくる)それをRSchumannが追っており、sym4においてLvB,FSchbともに受け継いだ形で具現させている。

Rsch sym4-4楽章 と未完成

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ハンナ・アーレント 芸術/哲学と思考(物象化問題)についての雑記

2014 1/26 のFB投稿より

 

(保存済み投稿)

 

RT @hannaharendtbot 芸術作品も偉大な哲学体系も、厳密にいえば、純粋に思考の産物と呼ぶことはできない(略)というのは芸術家や著述する哲学者が中断して、その作品の物化のために変形しなければならないのは、まさにこの思考過程だからである。(『人間の条件』23)

 

 

上記(ハンナアレント ツイッターbot)より 考えたこと。 雑記

 

 

創作のシステムはつねにそれからの逸脱とともにあるが逸脱を閉ざす事を以って物化(暫時終了)される 。

わたしという人間がおのずと世界から超出している、或いは取り残されてしまっているその不本意な距離を、法則が外から予告し測ってはならない。世界のなかでわたしは、収めつつある出逢った世界という経験を閉じる糸と、そこから逸れる糸との間にいなければ、ものが逃げる。——法則がわたしの背中を押して、その臨界線を閉ざすほうに加担してはならない。——
(だが、いつかは終止符が打たれなければならない。)

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

音楽上の調性問題が抱えるもう一つの(音楽というジャンルを超えた)意味

FB 過去の今日  

 

2015年度 10/20 (6日前の、「3年前の今日」の投稿だったが、上京したり家族の入退院で遅くなる)

 

 

数年前にも気づいていて書いたが、最近ますます、音楽上で調性を拡大することの意味と問題点が、存在論・状況論・人間論と全く不可分だ(「別々の問題」などではまったくない)ということを思い知って来た。

 

問題の端緒をあたえたのは(バッハ的半音階志向は通底的として)後期ベートーヴェン(ことに大フーガを筆頭とするsq)だと思うが、以降調性をあえて拡張しないまま音楽・表現の可能性を追求する姿勢を固持する作曲家が、しばしば野暮ったい・あかぬけない・不器用にうつるがために、調性そのものを拡げることで、もしくは無調化することで一挙に解決した,orスキームを造り上げた作曲家以降、たしかに表現は洗練されスマートになったが、あるいは一見斬新になったが、最も重大な問題を振り落とした。

 

ものの厚みを超え、幽体離脱して身体論的な自由を獲得したあげく、もっとも人びとの苦悩する状況論的・また存在論的問題をこそ、すり抜けてしまったのだ。

(※今何調に居るのか、何処を足掛かりにすれば和声上解決する=降りられるのか、またdominant sub-dominant etc...一連のものの意味するものら とは、哲学的にはおそらく 自分の居場所 とその解釈学的・情況論的意味であり、より平明に言うと 己という主体、また己を含む主体たちの、現在(迄)の 処遇の証=徴であり、それが同時に志向するこれからへの予感である)

 

状況論的・また存在論的問題を 軽々とすり抜けてしまった、ということの意味するのは、

人間的問題と、音楽(発展史・延命史)的問題が、分離するようになってしまった、ということでもある。

 

これらを分離させることなく、modalな音楽性( methodology of church music + Celtic code)を、J-P Rameauらによる和声学Traité de l'harmonieの確立以降、再び音楽上に”あえて取り込みなおす”には

それを「どのような意味性(の再現)として」捉えつつ=<どのような人間的姿勢でこの行為に臨む>ことが、求められるのか、そしてどのような音楽性を、古典と現在と未来の融合の形として発展させていくのか、という極めて人間学的=宗教学的(人間と、人間を超えつつ内在するものとの対話)問題が、<再び>問われ、降りかかっていたのである。

 

すこしひねった観点から見ると

逆説的な言い方になるかもしれないが、(想像の問題はともかく、実存的には)幽体離脱できないーーー状況づけられている、ということこそは、人間の尊厳なのである。

 

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ここからは2018年の今日 の書き足し。

 

 

私には(私が、きっとこうだったろうと推測するそれ、ではあるが)

Saint-Saënsの苦悩——彼自身はもちろんFaureとその音楽、またその「質 Quority」の行方※を、

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※この典型と思われる R PrizemanのLibera用作品 Vespera

(Saint-Saëns→Faure 's route + modal=Chant,Celtic,or Gaelic code)

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どのように見守るべきか、を含め——、そしてBachの出現からこの問題をまずもって明るみに出してきた「Beethoven's latter termthe 〜Schumann・Chopin・Mendelssohn」以降の、あの時代に生きていた、Saint-Saënsら多くの作曲家らの<混乱Conflict>が、このように理解できる気がする。

 

この問題はWagnerやRichard G Straussのような音楽ばかり、(特に日本ではそういう傾向にある気がするが)今日でも演奏し続けていることが、世の中にどのような作用を及ぼしがちであるのか、という問題にも通じるだろうし、クラシックの現代音楽が、どのようにかじ取りをすべきだったかの問題にも通じると思っている。

 

私がいま ソプラノユニット(英国少年合唱団)「リベラ(soprano unit "LIBERA")」とその<路線>——彼らのPeaceful sound,Sound of prayer——とは何か?に注目するのも、ひとつにはこの理由がある。

Robert Prizemanには、明確なこの問題への意志と企図があるように思う。

 

 

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補足・関連資料

 

FB 11月14日 18:50

 

 

《modal & Chromatic scale》

 

https://www.youtube.com/watch?v=hQUAA4S10z8
Libera - Vespera (celtic ——  Chant-style ←Enya?)

https://youtube.com/watch?v=FZmRwsuyG-c
Libera - Wexford Carol

https://www.youtube.com/watch?v=8UQK-UcRezE
Beatles - Strawberry fields...

https://www.youtube.com/watch?v=hM87UcySV-A
Kate Bush - Wuthering Heights

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The Girl From Ipanema (Bossa Nova)

 

イベリア半島(ポルトガル)に、昔ケルト人が居たみたいだ(ブラジルに渡る前)。。。リズムはもちろんラテンなのだけど、ガリアっぽい、ケルトっぽいモーダルさがそのまま旋律には気だるく残っている。

 

これも。サンホセ…。

 

 

極論すると民族音楽ってわりあいビートの違いだけ?かという。。

 

旋法(イオニア,リディア,フリギアetcetc..)=ガリアとかケルト音楽、ではないけれども、ガリア・ケルト人ら被征服人の持っていた音楽性・個々の伝承音楽らは、グレゴリオ聖歌など古来のチャントが、ただの誦経に近かったものが徐々に効果的な抑揚をつけるのにかなり貢献したような気がする。

 

ルネサンスに至るまでのチャントの経緯を聞いていると、キリスト教圏の音楽性の確立とは、いかにかれらの音楽がもともとキリスト教らしさを持って居たかというよりはむしろ、覇権と征服とともに他教・他民族らしさのテイスティな部分をキリスト教会としていかに利用しつつ、逆に泥くささ——いわば呪咀的要素?のほう——はいかに消していくか の工夫の歴史だったというふうにきこえる。

 

そして人間の主体性の確立とともに、旋法そのものも和声法の確立という方向性とともに一度は消失して行ったという感じではある。そして削りすぎたのかもしれない部分(「超越 即 内在」性が、情況から分離できない受動的主体性と同様主体から分離できにくいと悟った側面、そうした割り切れない部分・主体と感じられる個の身体と精神が、じつは自分の足で立ち切れない部分)が、ことに「アフター ベートーヴェン」から自覚的に意味の再生を迫りつつ還帰してきた。——主体と超越との関係。内在(=超越)性と主体-理性悟性とのより自覚的な対話。これを音楽表現上でもどう扱うかが、それぞれの作曲家の課題・個性や倫理観責任感などの処理としてポジティヴィティの表現と同時に足枷になっている。これが現在までの音楽師ではないだろうか。

 

この点に関し、俯瞰してみていると、(凡その言い方になってしまうが) classical music のまる切り中心部よりはむしろ「際」または外部での方がこの問題の真摯かつ大胆な乗り越えに成功しているようにきこえる。

 

LiberaのRobert Prizeman が あえて<現代>においてクラシック音楽の「やや外(周縁)」から、Peaceful(with love and prayer)な、過剰さを求めぬ『良い加減の』幽体離脱性 とともに模索している音楽性、その Typical side というのも、主なひとつにはそうした側面ではないかという気がしているのだが...。

 

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| Rei八ヶ岳高原2 | 12:20 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

カフカ「城」について 再再読

FB 「過去の今日」より

2016年10月25日 付

 

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4,5年まえに読んだ時、もっとも印象に残ったてはいたが、blog記事にする際にはテーマから逸れるため、置いておいた数頁。


気になり続けていたが、そこにかかれていた「意味」をまだ探っていなかった。

今読むと機が熟している気がした(?)

 

程なくその箇所は見つかったけれども、空白時間も長く、しばらく意味をのみ込めずにいた...。


入念に前後の場面をあたるうち、およその構造は、つかめてくる。

 

到達不能——届きそうで届かない...——という世界真理をめぐる未完の長編だが、ここまではほぼ、他所者=異邦者=『招かれたはずの/招かれざる』闖入者、として生きた主人公Kの意味が、少し変わる。

それは何だろうなと思っているうち、しだいに 闖入者→奇襲者 になりかわる時間が、つづられ始めているのに気づく。

 

闖入者にとって、異邦人であることを余儀なくされつづける、無辺の外部性——傍らを離れることなく何処までも付き沿われるのを感じ、あきらかに〈このもの〉を巡っているのだということを知っていながら、それ自身へはけして近づくことの出来ぬ、という あまりに馴染みぶかい——存在真理。

 

それがたしかに、城を巡る一貫したメサージュにほかならなく、じっさいこの終わりなき語全体に、Kの迂遠な非-到達としての異邦者・闖入者たる奇異性と、延々たるはぐらかしの刑の描出テーマ、超越的なものへむかうその隙間への、執拗な投企と挫折の連続体が綴られ、主人公の城への受け容れられなさと力関係を物語りつづけてはいるのだが、
ここへきて——
”ふとした隙”に(そう、はからずも闖入者が奇襲者となるとき、とは、*よりによって放心したとき!、*しかもあの「薬酒」の暗示にみちた場を経由し!...)*あっけない早道が、否むしろ裏口が、用意されていた..。
(※とはいえこの近道が 或るもの「それ自身」へと到達するかというとそうでもなく、せいぜいその *亜象/代理 に触れ合うか否か、という焦慮にみちた様態で!)

この二重拘束——あまりに人間的——な真理が、圧倒的な驚愕と、*待機→自由(=絶望でもある)、そして”*微かによぎる障害感”(この要素を付け加えるのを忘れない、カフカの用意周到さと表現力が圧巻)、*決断-決断不能との相克、etc…にふちどられつつ、きわめて表徴的に物語られていた。


全編中程。

(*...の部分はみな、人間くさいと同時にあまりにも哲学的-存在論的でもあるといえる...。)

 

 

【補足】
面白いことに、また ちょうど<ここの部分>こそは、官僚主義についての滔々たる描写ともとれる全編のにおいのなかで、単なるそれにとどまらず、その官僚主義なるものとは畢竟 恣意性にも癒着せざるをえない——独裁(専制)政治とも繋がるのだ——というかの告発性、カフカにしては抗議に満ちた意味深長な暗示にも満ちている点だった。

というわけで
これまで、滑稽なほど忍耐強い迂遠さのほうにしか興味が届かなかったが、この懶惰な【裏道】にかんする作者自身の洞察の鋭さと、その奇襲性の描出(状況論的切迫感)とは、この作家をマニエリスム文学に属させるにはあまりに諫言的かつ凄絶なものがあった。

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:44 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Liberaまわりと村松崇継氏について。続編

FBの 村松崇継 氏サイトから、ユニバーサルスタジオジャパンに関する 以下のような記事が下りてきた。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの大人気クリスマス・ライブショー「天使のくれた奇跡 〜The Voice of an Angel〜」がいよいよグランドフィナーレを迎えます! 今年も村松崇継が書き下ろした、LIBERA「天使のくれた奇跡」がショーを盛り上げます🎄♫ https://youtu.be/PgkcpuP6AC4

 

今年は、先日の記事にも書いた通り、9月に村松崇継氏のコンサートにも足を運ぶことができたし、 一昨日はリベラの東京公演(新宿文化センター)を聞きに行ったばかりでもあるので、 このさい、ちょっとまとめ。

 

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今年は村松さんのビルボード東京でのコンサートにも、村松さんの曲のいくつかを教会音楽チックにアレンジしたものも手がけているロバートプライズマン(Robert Prizeman)率いる少年合唱団リベラの、新宿でのコンサートにも行きました。 村松さんのコンサートではもう少しリベラ周りの曲目があるのかと思いきや、メロディメーカーとしての才能もさることながら、その他のアグレシヴで精確な、変拍子もある複雑系リズム感満載の多重多層性に満ちた音楽など意外な側面をかなり堪能出来、思いがけない収穫をえました。 が、リベラ路線である 「天使のくれた奇跡(ANGEL)」は、リベラのおとといのコンサートで、聞くことができました♪ リベラは、(チャント-ルネサンス-バッハ-ベートーヴェン主に後期の調性拡張-シューマン・ショパン・メンデルスゾーン etc…の音楽展開から主に発すると思うのですがそこは略するとして、この路線を見つめた)サン=サーンス〜フォレ的↓調性の路線※

 

※この典型と思われる R PrizemanのLibera用作品 Vespera

(Saint-Saëns→Faure 's route + modal=Chant,Celtic,or Gaelic code)

 

 

 

が、やがてBeatlesをも生むことになる英国のmodalかつ斬新な複雑系polyphonyへと移行発展していく音楽文化が形成されていく際に醸成されるゆたかな音楽の質を、クラシカルクロスオーヴァー(classical crossover music)という新しいジャンルに持ち上げた、大変面白い聖性と遊び心豊かなスカイラインを生き生きと渡っているとおもいます。 その路線----村松さんの清らかでポピュラーな!世界と、オルガニストでもある、リベラを率いる音楽監督ロバートプライズマンの荘厳で自由自律的な素描線と「気づき心」の、棄民多き現代社会における⁉︎peacefulな融合----は、いつも不思議で面白いです。 これからも、1聴衆であるとともに、曲作りとその変容多様性を見守るファン、という面からも注目し続けていこうとおもっています。

 

この投稿の関連記事 http://reicahier.jugem.jp/?eid=93

 

 

------------------------------------ 以上 

 

FB投稿より。

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:42 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

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