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去年の今日の記 アンダンテファヴォリと 遥かなる恋人に寄す Beethoven

FB 「過去の今日」より。(52週間前)

2017年3月29日 22:33 ·

 

 

アンダンテファヴォリ(1803-4)と 遥かなる恋人に寄す

 

Beethoven - Andante Favori in F, WoO 57 Ludwig van Beethoven (1770-1827) Andante Favori in F, WoO 57 Alfred Brendel, piano 

 

テレーゼの旋律は?

エロイカ冒頭と同じだ。

sym4冒頭とも。ファヴォリは。遥かなるも。エリーゼも。第五も六も。じゃ七も八もか。九もだ!

 

 

 

 

Beethoven An die ferne Geliebte Op.98

 

シューマンが好んだ例の旋律(↑遥かなる…ラシドソ)の直後が、アンダンテファヴォリと同一(ドレドシ- シ♭ドシ♭ラ-↑ファミミーレドシ♭ソファ)。

 

だがそれで終わらせるんでは片手落ちで、幻想曲op17冒頭(ララソファーミミーレ〜↑ドラファシドレドシ)やop22pソナタ、op21ノヴェレッテン冒頭(ラソファミレーミレドレミド・ミレ、ファ ♭ミレドシドド♯レ)、op80トリオなどは、アンダンテファヴォリの変形であって、シューマンの中ではやはり結びついていた可能性は大きい。

 

フレーズの順序が逆転しているだけで。

 

ファヴォリは、op31・32にも。

 

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とか、思い出したようにほざいている。。なんか笑えた♪

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Quintet op111,RSchumann Rheinische,op2&Beethoven op132

ブラームス クインテット op111

op111 mov2

41:55-

 

 

これは シューマン ライン(Rheinische op97)の開始、とくに

 

↑0:08-15 フレーズからのインスピレーションである。と、散歩してるとき感じた。


——しかもシューマンが意識してかせずにか移調もせぬまま踏襲していたのかもしれないBach平均律2巻の es dur 7番 Fuga(BWV876。このことは以前の記事に記述)のmotive造形をブラームスもそのまま尊重し継承する形で。——

 

でもこうして聞くとブラームス、Rheinische(ライン)の想起はそのまえの楽章、つまりそもそもmov1冒頭からだ...。
SQuintet op111冒頭とは、シューマン-ジャンパウル、であるところの若々しきシューマン「蝶々 Papillon op2」を、晩年の馥郁たる情感に溢れるブラームスが回想することに始まる曲※だ…。(これも前記事に既述)

 

※...20180417 補記)というよりはそもそも Rheinische 's motivが、同作曲家自身のop2 Papillon に、由来しているのである!、といってよい。

シューマン自身が若き自己を回想しこれに動機づけられている。そのことにブラームスも当然ながら気づいた、もしくは(音楽上においても)合致した、ということなのだろう...。

 

 

いったいシューマンが、若い頃旅し、じつに素敵なところだった...しかし溺れる夢を見たといい、その予感通り自分と知り合った翌年に身を投げたライン川…を!このように万感溢れる浄らかな心境でこころに響かせるまでに、どれほどの辛苦を味わってきたのかブラームス。

 

おまけに、今偶然この演奏で気づいたことには、↑45:24- 46:06 (Brahms SQuintet op111)にて、

 

 

 

Beethoven後期SQ op131 ——この音楽はことに生々しく、姉テレーゼ( op78, À Thérèse )がエリーゼ=ジョセフィーネの懐妊を誤って舞い込んだ手紙のように告げ知らせてきた、あのときの鮮烈な印象を、ベートーヴェンが何度となくこころに蘇らせることに殆ど終始しているような曲だ。もちろん核心は最終章、殆ど終結部にあるのだが、その他の箇所も殆ど...、否、この作品のすべてがその核心のメタモルフォーゼンとしての内省で出来あがっているといっても過言でない作品である。むろんその悟達と枯淡の格調はたぐい稀な高位を保っているけれども...——その、冒頭0:00-0:40...。


このことを晩年の同ブラームス作品に於いても思い切り喚起させるように、この楽団は奏でている…。

 

なるほどそういう風に聞いてみれば、たしかにシューマンとベートーヴェンの旋律がごく自然と、ここ晩年のブラームスにおいて融合している!... むしろ諸人の魂が混然としてさえいる。

 

幾重にも伝え重なる芸術家のいちずな思い…。

 

それにしても、シューマンが蝶々を書いたのは、まさかライン川を旅し溺れる夢を見た、と友人に手紙にしたためたその頃、なのだったっけ??? あとでしらべてみる...。

 

 

ああ。そうだ!ほんとうだ。Op111の語り明かす通り。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蝶々_(シューマン)

 

Papillon 19-21歳!の作品。ライン川で溺れる夢を見た、とシューマンが誰かに手紙を書いたのは、21歳だったと思う。

ブラームス!!! 心が透けて見えるようだ...。

 

すごいな。。そんな風にひとの溢れる心情やめくるめく追憶・秘めやかな感情の余韻までもが、全て音楽の中に語られ密々と守護されるなんて! 芸術万歳。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven: String Quintet "Storm" Op.29 また、Camille Saint-Saëns op. 33のこと

今日のFB「過去の今日」から

 


FB 2017年3月26日 16:37 · 


https://m.youtube.com/watch?v=8pgC6CX9oBA

 

最初、シューベルトトーンで始まり、マーラーも興味を持ちそうな聞き分けがつかないシューベルト性(=歌性・詩性)を帯びた時間を経たのち、

13:00-くらいから、シューマンの匂いがしてくる。


シューマンがop41-1,2,3を書く時、またop44,47の楽想でも、この曲にあちこち足跡を残したようにきこえる。

ということは、メンデルスゾーンをも当たるべきなのではないか。。シューマンがメンデルスゾーンを通さないということはあまり考えにくい...。

 

最終楽章?はメンデルスゾーンオクテット。。。

冒頭はブラームス5,6重奏的でありシューベルト的

https://m.youtube.com/watch?v=pY_gbooPwoc

 

Mendelssohn - Octet in Es groot: Vilde Frang, Julian Rachlin,Rick Stotijn e.a.


ベートーヴェン初期のこの曲の影響力、布衍性は大きい composed in 1801
https://m.youtube.com/watch?v=5BWOHlEyHcs
 

 

Brahms - Sextet No. 1 & 2 - Members of Berlin Philharmonic Octet

 

https://m.youtube.com/watch?v=G55MDE2eaFE
 

Schubert - String Quintet D.956 - Budapest / Heifetz 1941

シューベルト最晩年。d944のあと

 

 

※stormもまた、エリーゼ

 

 

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昨日の、FB「過去の今日」から

 

FB 2015年 3月26日

 

 

Camille Saint-Saëns(カミーユ・サン=サーンス)の 受け継いだもの

 

https://m.youtube.com/watch?v=MC8LjoIaS4g&feature=youtu.be

LvB sym3

https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=sru18UyAweA

 

Camille Saint-Saëns - Cellokoncert nr. 1, a-mol, op. 33 - Sol Gabetta - DR Symfoniorkestret

 

 

この中間的媒介としてあるのはなにか。

 

サンサーンスにとり、シューマンはまさしく中心にあるために?とりあえず除外するとして、

メンデルスゾーン。ブラームス。そして フォレ。

 

或る人間にとって当事者性のある人びと――この問題を突きつけた存在と、これを真摯に引き継がせた中心人物――はあえて除外するとして、その周縁を考えていくと、その人(この場合サン=サーンス)の苦悩がかえって浮かび上がるようで面白い

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven 告別(Das Lebewohl)と恋人(eternal Lover)とカッコウ(Cuckoo)

FB 2018 2月26日 17:39 (2014-5位から考えつづけていたこと)

 

 

ド-レ-ドー-シ-♯ラ-シ-♯ラー-ソ (ミレレードシラファミ)


遥かなる op98 1816年 の、ここ(0:34-48)のパロディが、

pianosonataカッコウCOCKOO op79 1809年 3楽章の冒頭

 


である

 

(※ただパロディorなぞらえ?が先に作られるはずがないので、カッコウは同時期の何かのパロディではないのか、それは告別?)

 

とともに

あの 終結点 後期三大PS の1曲目op109


の冒頭 0:47-52 への序章である...。

 

 

告別の3楽章は、似てしまったというより《意識的に》皇帝に似せられてある。

この作品が、誰に宛てた手紙なのか直感できるようにされている。

またぜんたいに、とくに2楽章はカッコウと同じトーンで作られている。

どちらかというと告別が先に作られてさえいそうである。

 

告別の2楽章ソ♯ファラ×2は、同3楽章のミドシファ×2となって現れる。

(しかも皇帝の変容に引っ掛けて。常に表裏で。)

だが同時に告別の2楽章は、カッコウの2楽章と双子の誕生のようでもある。。。

3楽章はどうか…。

軽快でおどけたカッコウの3楽章(ラド[ド↓ソ]-ファラ[ラ↓ミ]-レファ[ファ↓ド]-ソ-ラ)こそは、

op109となって(op98ドレドシ シドシーラ、や、ラーラシドーソ を含みつつ)化けるのであるが。

 

ジョセフィネ生前に宛てた最後のメサージュとなる。

 

告別の3楽章、もしくは1楽章⁉︎の方は?

1楽章の冒頭が、ドレドシ ♭シドシラ ↑ファミミーレド…となるようにも聞こえる。。。

 

カモフラージュ——パロディ、なぞらえ。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

恋人の守護霊としてのベートーヴェンとシューマン


シューマン 精霊の主題による変奏曲、というシフのリサイタル スペースディーバより 20120203
2012年2月3日 22:54 FB


シフのリサイタル
シューマンの「主題と変奏」(精霊の主題による…ミレドファミレとその変型)が、ピアノソナタ第一番、幻想曲(ラ(ラ)ソファミレ ということはグランドソナタ レ(レ)ドシラソ クララ主題)も、子供の情景も、みんな貫いていること
蝶々 にはじまり
ピアノソナタ第一番、子供の情景、幻想曲(初稿-第三楽章)主題と変奏変ホ長調 森の情景、幻想曲(最終稿-第三楽章)というプログラム
同じ主題が、だんだん自己崩壊のほうにシフトしていく感じが出てる…

 

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2018年2月3日 18:20 FB

 

↑と言って居る。

これだけ読むと、ミレドファミレがなぜ、ラソファミレなどの下降とじかに同根なのか、とも一瞬思われるが、

このインスピレーション・イマジネーションの出所は、(なんども繰り返すが)ひとえにベートーヴェンの幽霊(——恋人[のキマイラ]の守護霊。ハ調に直すとミファソ(ソ)シドレ〈※第九でもある〉と、すぐに連動するに至るシドレ(レ)ソファミ=ラシド(ド)ソファミ=「遥かなる恋人テーマ 」(このことはまた、同幽霊ドシラソファミレドシラソ… octv上向無視 の転がり——皇帝にもこうした別ver[皇帝の場合は4でなく3音列ずつ]が典型的に登場する——が音楽的展開・変容上おのずと至る「遥かなる恋人テーマ 」ラシドソファミの上下向である、と言い換えることもできる(これはベートーヴェン&シューマンの多用するラシドファソラレミファ(まるでスカルラッティのよう)...、またラシドドミラの飛躍op80等とも繋がる)---この生々しさがいつも彼らの胸に鳴っていた---これがベートーヴェン本人にもシューマンにも同根であったからである。


もっと言うとシューマン以前にシューベルト(グレイト。ドレミラシド ただシューベルトに関しては恋人と結び付けていたわけではないだろう)ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナー、★エルガー など彼ら以降の音楽家にも。

(★エルガー...私の考えでは彼は旋法風にもしくはベートーヴェン後期SQ風に、[(Geister-Code より)ナカ1音取り外す]。が、じつはこれは[晩年のシューマンがかった?笑]エルガーの創意に始まったことではなく、ベートーヴェン自身が第九mov3・後期SQ以外にも、Bagatelles op126-3で、エルガーnimrodそっくりに既にやっていた。...※下記↓)

 

■Bagatelles op126-3    ※cf)Elger ”Nimrod”

 

 

 


なお下降の愛らしさは、アンダンテファヴォリ(何度も繰り返すがベートーヴェン)に代表的な形。他多数。幻想op77のように「激烈な」下降もあるが...。

 

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蛇足 20180308

ところでこうして op126 bagatelles をきいていると、「告別」が否応なしに再生される——それはほぼ全体にちりばめられているが、特徴的なものは第1曲目にすぐに登場しもする——。もちろん皇帝も想起されるが、それ(=そうした回想)も告別に含まれていることから、ようするに《それ》を巡っているのである!ベートーヴェンはまこと、たったひとりにしか己の内奥からの感情を発露・吐露していないし、追悼(op111)後は、たった一人のことしか回想していない(娘を除いては。また、魂の恋人にも係る、娘の未来を託すことになる人物以外には...。秘匿の二重性を余儀なくされた、あの切り離せない政治状況とともに...!)
 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Elger(Enigma Nimrod)-RSchumann(op133/WoO 23)-Beethoven

Elger(Nimrod)-RSchumann(op133/WoO 23)-Beethoven Geister trio/Sym9 mov3 etc...

12月19日 17:15 · 

シューマンの暁の歌op133を合唱でやっているのがないかなと思ったがなかった。それがあればエルガーのnimrodとの親和性が、説明つきやすいのに

Schumann: Gesänge der Frühe, Op.133 (Uchida, Schiff)

Schumann’s Gesänge der Frühe (Songs of Dawn) are the last…

YOUTUBE.COM

 


 

シューマンの暁の歌と、vn concerto WoO 23 天使(霊)の主題のところ、

 

ベトの第九3楽章が(も)彷彿する。

Beethoven - Symphony No. 9 - Mov. 3

Pastoral Visit to the Archdiocese of Milan and 7th World Meeting of Families (June 1-3, 2012) Visita Pastorale…

 

※ここにも エルガー エニグマ↑nimrodが。

 

第九の3楽章って、遥かなる…とかエリーゼとも関係したっけかな。他、いろいろAndantefavoriや色々なピアノソナタ...

その日によってくるくる変わる

 

2015年12月20日 17:41 には、FBに書いている

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そういえば今朝やっていた第九の、指揮者のルネレイボヴィッツ(だと思った。ちがうかな)の演奏が変わっていて(あれこのひと作曲にむしろ興味があって、第九を第九らしく演奏することより色々な曲との連関性を重視しているのじゃないかなと思わせるスタイル)、第三楽章を聞いていたときあれこれはピアノソナタの、たしか2楽章構成のもののフィナーレ部分と同じだなとおもったところがあった。今調べたら第27番,Op.90第2楽章のフィナーレだな〜♪ ベートーヴェンらしくなく?執拗さがなくてあっさり終わるあの箇所

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 第2楽章,Op.90

 

 https://m.youtube.com/watch?v=iu-bfeZOY1w

 

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そして今日は、彷彿するこれ。

Sviatoslav Richter:Beethoven Sonata Pathetique 2nd mov.

 


Pathetic mov2は、直接には幽霊geister trio(第九mov3にも、グレイトのドレミラシド…のように転がり現れる)とつながっていて、そこからRsch Vnc mov2へつながる、という方がわかる。また第九mov3にも? pathetic mov2の悲しい展開部がエリーゼにつながるともいえる

 

 

patheticは、1798-9とあるが、9年だろう。???

ジョゼフィネと出会ってすぐに書かれたろう。この曲は彼女自身である。


 

 

テレーゼ(ベートーヴェンは、秘儀敢行のため、<ジョセフィーネを常にテレーゼと付帯させつつ>表現せざるをえなかった)は、この2楽章のひねりともいえるし、エリーゼでもあるのだ

 


ちょっとおもしろいblog↓

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/12/17/エルガー「エニグマ変奏曲」の謎/

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎 | Sonar Members Club No.1 | since September 2012

 

てか第九の3楽章は、シューマンvnコンチェルト自体がそうなんだよなー。

2楽章

https://m.youtube.com/watch?v=YLod6Ra6f08

Full length - Schumann: Violin Concerto / Frank Peter Zimmermann

 

これが第九の3楽章と通じる。これはElger nimrodとも。https://m.youtube.com/watch?v=R_CP82XN510

 


Beethoven Bagatelles op126-3。この曲もきわめてnimrodに近い(くわしくは次の記事69番の付記にて)。

つまりベートーヴェン自身が、Geister-Code から ナカ1音取り外す、という枯淡で旋法的な新境地の術策を、施していた。第九mov3・後期SQ以外にも、Bagatelles op126-3で! エルガーは、nimrodにおけるこの秘技の敢行者であると私は思う。

 

おまけ。

2015年ごろまでははっきり書かれていなかったが、今では永遠なる恋人はやっぱりジョゼフィネのほうにしぼられていた。

つくづく思うに、べートーヴェンは、1803年以降(否1798?-9年以降)ほんとうに一途に、たった一人の女性にしか己の熱情と思いを語っていない...。涙)

 

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/不滅の恋人

| Rei八ヶ岳高原2 | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フォルムの問題。形式感(観)とは何か

主題と変奏にかんする形式(感)について

 

 

Twitter  Novaris_botより

 

地上的な身体の形象は、内に潜む霊[精神]の表現体や器官としてはあきらかに不十分であるが、この不十分さの知覚こそが、固定化を排して前進する思考そのものなのだ。この思考が、あらゆる真の思考の基盤になり、知性の進化を促すきっかけとなる。 『花粉』

 

複数の人物から成り立っている人物はみな、二乗された人物―もしくは創造的精神[Genius]―である。この観点からすると、ギリシア的創造的精神というものがあったのであって、ギリシア人というものがいたのではないと言ってもいいのではないか。 『断章』

 

 

2012年 FBより転記

 

例 シューマンとブラームス

 

ある作曲家の作品は、主題とのつながりが希薄、等という判断根拠は何か。

その際の判断根拠は、音楽の、その時代時代における形式・構築感に対する理念や感覚、判断力となっている既成観念の呪縛をこえているのか、あるいは(深層)心理学的・哲学的なつながりやら、それらの今後の人間精神に対する探究・洞察の方法の多義的な発展の仕方を考慮したのを、まえもって上回るだけの恒久的な意味を本来的にもつのか。

 

ましてこのことが、言語・弁術における「論理的思考」とはちがい、こと音楽的な{暗黙的}構築性(の価値判断、またはこれを越えることへの価値判断)について拡げて把捉しなおされるとき、その飛躍する想像力の多角的・交錯的な可能性や、芸術が人間心理に与える充溢度を考えた場合、どう考え評価するべき事柄になっていく、と捉えられるのか

(たとえばブラームスとシューマンとの間で、「変奏に関して…異なる考えをもつようになった」…「主題とのつながりが希薄な自由変奏を避けるか避けないか、という相違が生まれた(意訳)」とされる点)

 

主題とのつながり、というのを考えている視野(聴野)の既成範囲、主題の背景となっているエクリチュールへの射程深度の問題も――しばしばこの(既成)範囲と構築性を超えた時、ただちに「破綻」といわれるのだろうけれども――生起してくる気がする。

 

むしろ{暗黙のエクリチュールに沿って}主題が別の主題につながっていくのを理解することによって、逆に迂遠に獲得されて来る、より大きな主題(の流れ)への驚愕、主題aと思われたものが異?主題bとの同一位相内(厳密には転位を含むことになろうが)交錯をあえて汲まれることでより大きな主題Aへと発展する、という芸術表現ならではの感動もあると思うが

 

(※補記 2018/02/04)ということになると、そもそも2主題間の関係の希薄、ましてや別主題であるとの知的判断の射程そのものが、深層心理を含めた世界——創作者の内的必然性——からみればじつは浅慮であった、ということにすらなりかねない事態も、しばしば起こりうる...。

 

★ひとつの身体によって通常得られる変奏(変容)の範囲とその帯びる構築的形式というものを、どの身体もが拘束されるべきなのだろうか。(その意味でzero地点の身体=表現の発現体としての身体は予めひとつであるべきなのか?)

 

 

ツイッターでのまとめ 2012/06/07

 

 

(※※補記 2018/02/04)

こたえは、シニフィアン-シニフィエ関係に於る「シニフィアン優位」性、及び「シニフィアンの自律性」問題等の観点からしても、こんにちの現象学〜精神分析学の諸成果により殆ど明らかであろう。こうした問題意識と事績が芸術の世界に於るフォルム(の価値)観に投影するのも、時間の問題であるように思われる

 

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Beethoven LeonoleとRSch op22,op23,op54 etc...

FB より転記 2015年12月18日

 

このBeethoven Leonole 動画記事の、コメント部分に書いてあったことをblogに転記する

 

 

●英語のwikiで、Schumann op54 pianoconcerto(1841,45)主題が、Beethoven Leonole ouverture(Fidilio)と関係がある、とかかれており、

※wikiにはDavidsbundlermarsch等との連関も指摘されており、例によってこの件も気づいたらあれもこれも切りがなくなりそう

 

その通りだが、まったくただたんに直線的に結ばれているわけではなく、

そこにop22 Pianosonata Nr2 が、噛んでいる。(他にも絡んでいるだろうが少なくともこれは確か)

 

 

(この Pianosonata Nr2 自身も op54 と関連がある。)

 

op22-mov1 prestoで下降の部分など、Leonore ouverture——終盤ちかくの盛り上がり——なしにはありえないだろう。

 

(なおこのprestoの終了後に現れるholizontalな幻想性は、op23 Nachtstock 夜曲にもほぼまったくおなじ音型で流れていく。)

 

無論、大前提としてこの RSch Op22 は、Beethovenの Elise Thema(op61 1806年 → op132 etc... = WoO59 Bagatelle)- Symphony No.5/6(運命/田園 1805-6年) ThemaをSchumannが自己流に展開させている曲調なので、Leonole= Elise(同一人物)であること、を意識していただろう。

 

※ひいては An die ferne Geliebt 遥かなる恋人——これもじつはRSch Op22に反映!何故ならBeethoven sym5,6がElise Themaの変位・変容 Metamorphoseで出来ており(※※e.g. Schicksals-Idea , Pastralにおけるwind-rhysm or "Sturm" etc...)、であり、これがlove——恋人(女性)と人間愛につながることをSchumannが知っているからであるが——までも、同一人物!?とSchumannが理解していたか、別の人間の可能性も考えていたかはわからないが...。

 

※※同時にこれらのBeethoven's inspirationsは、Haendel Messiah にも通じる!のだが...。

 

RSch op22の制作は、1833-38(1833-35、とされている記述もある)と幅があるが、この期間にFidilioを聞いていたと推測される

 

2015年12月18日 15:55 · 編集済み

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リヒテルのBach平均律 雑記断片——空智と実惠

たいていの鍵盤奏者は、その個性が第二巻の普遍性に吸収されるかのように、第一巻においてより二巻においての演奏のほうが(脱人称性を包摂した人称性の地平で)成功するのだが、リヒテルに関してはその逆に思われる。

 

第一巻の成功があまりに超越的であるため(空智)、二巻においてもなお冥想性をひきずり、その悟達がふたたび地上に降りてくる(実惠)という二巻に「ほぼ」通底した特有の世界観に還帰しきれていない惜しい側面が残る演奏があった。

 

本人もそれは反省点だったようで、私がこうしてほしいと思った通りに、翌年ライブでは幾つかの曲の演奏解釈を(悟りを通ってきた実存・地に足をつけた生命体として)やりなおしてくれていた。

 

いずれにしても奇跡的で歴史的な演奏。

 

リヒテルが二度目のライブで果たしたことは別な言い方をするとこういうことだ。

 

一巻においては、『神は、みずからを隠すことなしには、創造することができなかった。そうでないと、ただ神だけしかいないことになる。だから、聖性もまた、ある程度は、意識に対してすらも、隠されていなければならない。そして、この世においても、隠されていなければならない。(Weil-bot)』 

自己救済を希求しつつの、この世界の透徹。

 

だが二巻(この世)の多くの作品においては、上記のような顕現-退隠作用は別の位相——すなわち宗教的実存、実惠——から、

すでに殆ど全開されている(作用的一)

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-2

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その2

 

 

ジャン・パウル(Jean Paul)

 

じつはジャン・パウルを未読であるが、であるがゆえにまず今の時点で音楽のみですでに出来上がっている想像を規定する。

 

Beethoven,RSchumann,Brahms,Mahler... etc..

 

●シューマン 蝶々- ブラームス 弦楽五重奏曲-2

 RSchumann Papillons op2  Brahms SQ no2 op111

 前の記事投稿(http://reicahier.jugem.jp/?eid=61)時点で掴んでいだ両者に通底する蝶々(精霊・自由なる霊/超脱さ)のイマージュ。ジャン・パウル(想定)。

 

次に、発展的に——

●RSchumann op2 - Brahms SQ no2 op111 - Mahler TitanにおけるBeethoven

※Beethoven's Eroica - Kreutzer Sonata - Geister trio 的なもの と、RSchumann (犠牲者となった下地) etcetc...

 

 

ユーモア、アイロニー、自己相対化としての道化と分裂気質、(幽)霊、仮装(憑依?)、「なんちゃって」

 

謝肉祭(ジャック・カロー  ホフマン)

 

 

巨人-英雄(主題 含葬送) について。

 

マーラー 巨人 Titan に於ける 英雄 Eroica の changeover of Symbolism 意味転換/象徴性転換

 

英雄 Eroica (ミー ↑ソ ミー↓シ ミソ↑シ ↓ミー ※♭省略)…➡巨人 Titan (レーレレ〜ファレー ↓ラ、レーレレ ↑ラ ↓レ )といった Conversion of symbol 象徴の転換。

 

※但、Mahlerによるこの転換・変移には不思議とクロイツェル(Kreutzer Sonata)的なものが連動(connected)されている!

曲想「全体」を覆う「構成」上の inherit & metamorphose として。

※また、少なくともBrahms op111 に於いては Geister−RSchumannを結びつける遥かなる/精霊の旋律が、同居しているのを聞く。

 Papillon op2 にも、Mahler Titan にも、また元の Beethoven(Eroica,Kreutzer)自身にもGeisterがあるかどうか、これから検証。

 

シューマンとベートーヴェンに於ける 蝶々・(幽/精)霊 的なもの-----舞い、戯れ、無重量性、受肉と離脱。

キマイラ(サテュロス=半人半獣 「ジャンパウル風の山羊の足」 Mゲックp37) 天性魔性。

————ジャック・カロー。ホフマン

 

↓ ジャンパウル的なものの変遷。

癲癇と統合失調と自己疎外。

 

●第1次産業革命時代のジャンパウル————ベト 英雄3楽章的。せっかちな悲壮さとご大層さ。暗黒と凄絶への予見的戯けとしてのホルン→シューマン ロマンチシズム(未到)としてのホルン

 

●第2次産業革命時代のジャンパウル————マーラー 巨人第1,第4楽章的。緩慢な諦観に縁どられた、ご大層さ。後の祭り的喪失感の戯れ的ホルン 喪。死と葬送。

 

なぜ葬送するのか、なにを葬送するのか、の考察… 産業革命下に到来するものとその変遷

 

ナポレオンからナチズム

調性問題(機能和声と調性の拡張崩壊)と 自我。

主体権限と権力。

未到の告白と内面化 シューマン →(未到の「逃亡・逃避」化=)未到未決イデオロギー化 シューマン以降。

 

権力=主体権限の倒錯・自我肥大(ワーグナー問題)→自己疎外(マーラー)

 

☆機能和声…デカルトが「考えるためには、存在しなければならない」ということを思い起こさせるとき、彼は明確化しているのであって、基礎づけを行っているのではない。それは、思考を自ら存在せしめる運動の明確化なのである。『メルローポンティ 心身の合一』

 

すなわち、主体の確立。感受思考判断の出発点としての己の覚醒(レアライズ Realize)。

※これが、機能和声の確立期でもあること!!!(と、私は感ずる♪)

 

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フモール Humor の実質的内容

 

ジャン・パウル的なもののの歴史的な受継ぎが、第一次産業革命時代(ベートーヴェン ロマン主義の勃興期)と、その中間(シューマン〜ブラームス ロマン主義の絶頂期 イデアール=レアールの合致期,or少なくとも二重構造期)と、第二次産業革命時代(マーラー ロマン主義の厭世主義的退嬰期)とではそれぞれ違っていると思う

 

 

ベートーヴェンとジャン・パウルの関係は、シューマンやマーラーのように、影響を受けたというよりむしろ

同時代人としての共通項(のちのシューマンによって鋭く具現)をすでに有するし、己の実体験であり実人生でもあった。

 

サテュロス キメラ(キマイラ)に象徴される異形

 

 

添付

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2011年(何月何日だったか、あとでFBノートを調べる) FBより転記

 

チンドン屋,(軍)楽隊,行列,仰々しさ,礼式/死,葬送 ベートーヴェン(シューベルト・シューマン)→マーラー 遷移する世界観と人間観

楽隊、太鼓、鐘、素っ頓狂なクラリネットの音などが、メルヒェン・死のイメージにつながる(直観的に、潜在意識的に)のはなぜか

 

大道芸人とか‥ 。

 

何らかシニシズムや厭世観、哀愁とかさなり、行進や彷徨とかさなり死に通じる。

 

儀・礼式、鳴り物入り、仰々しさ(物々しさ、馬鹿丁寧さ)、芝居がかった、仮装・化粧、パロディ(享楽/死)とか‥

 

戯け、滑稽/死

 

素っ頓狂=「突」拍子(「突」-日常)/死 真面目(大時代性・畏怖)→さすらい→狂気→悲=喜劇(含 諦念・自己卑下=陳腐化;シニスム)/死 「凸(突)」拍子 の瞬間に 実のなさ ( 虚 仮 喪  盲 唖 聾 戯 儀=祝祭 ) が現出する

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

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