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「対話」(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ/河出書房新社)を読んで

2010年9月〜11月にTwitterで呟いたことを織り交ぜつつ記したもの。

 

  1. 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(宮澤賢治:農民芸術概論綱要)
  2. 内なるそして外なる平和への願い(Bitte und innern und aussern Frieden)(ベートーヴェン)
  3. 自分のやっていることが最善で、それ以外のすべては無だということを、惨めな思いをしているたくさんの人たちに思い込ませようとする偏狭さを、ぼくは心の底から憎む。ひとつの美によって人間は一生の間感動を受けるということは正しい。だがこの感動の照り返しはすべての他の人々をも明るく照らすはずだ。(シューベルト)
  4. 作動配列とは共-機能作用(co-fonctionnement)であり、「共感」であり、共生である。(ドゥルーズ「対話」p85)

ジル・ドゥルーズの「対話」を読んだ(クレール・パルネとの共著/河出書房新社)。これを読んで、私が共鳴しつつも振り返っておきたいポイントは主に二つだったように思う(両者は同じ事柄で通底するが)。それは主に、

  1. ドゥルーズ=ガタリによる解釈および解釈症批判・シニフィアン批判と、
  2. 同じく彼らによる弁証法,構築(的),自発性etc..といった言葉の強烈な回避願望?

    (とはいえそれらは、それらの言葉が示す内容そのものに関してではなく、むしろ「言葉使い」・その倒錯した「既成-観念」に対するアレルギーのように映る。何故なら<実質的・内容的には>彼らの思想はこれらの言葉が “本来” 指し示していたはずの思考方向や内容をたんに受容するどころかむしろこれへこれへと私たちを積極的に促しているのだから)

とに、分けられる。

■以下、しばしばドゥルーズをD、ドゥルーズ=ガタリをD=Gと略。

 

<< 第1点:「解釈」批判(権威化形骸化した精神分析を代表的に例示)と「解釈症」(フランス的知性)批判 >>

 

解釈することと解釈症の、生きた表現(彼らの言葉では欲望-逃走=生成)に及ぼす弊害――これはじつは、解釈「することそれ自身」へよりも、解釈の「方法」、向かい方の間違い、或いはまた「解釈」をするwissen(知)の射程範囲が狭すぎることetc..の問題に関して指摘されるほうが望ましいと私は捉えるが――の問題は幾つかの重要な点で繋がっていると思われる。非常に精鋭な指摘がある。まず、Dの挙げる「解釈」の弊害の要旨は何かを、自分なりに記してみると、このようになるのではないか。

解釈しようとする知の陥穽の問題は、以下の視点に分けられるものの、つまりは同じ一つの問題の、側面の違いに過ぎない。あえて記すと、

  1. ひとつには、「精神から」生身の「人間への」理解がいつも、状況から離れてしまうことにおおきく由来するだろう。つまり、条件法としての、人間の或るありのままの姿から離れてしまうことに由来するだろう。(この時、この ありのまま、の言葉の意味は、状況から<抽出された>純粋事実としてのありのままではなく、ただたんにこれ以外ではない現実、もしくはこれ以外にはありえなさ・ここから以外には出発することの出来なさとしてのありのまま、であることに注意しよう。つまりそれは、たとえば*シューベルトの言う「ある<べき>ままにではなく、そうであるままに受けとらなければならない」ところのもの、Dの言う「此性」である。)と同時に、これは同じ事柄の裏表だが、(予め限定された)シニフィエから出発し、予め想定されたシニフィアン(!?)にそって事実(!?)へと逆行する点である。この際、逆行は、生の解決・救済を意味せず、逆に当嵌・封じ込めを意味する。

    *シューベルトはこう言っている。「精神は、支配者であるべき性質のものだ。人間は、あるべきままにではなく、そうであるままに受けとらなければならない。」すなわち真に人間的-生成的なものとは、まず<べき/であるはず>のほうから<である>に向けられる=あてはめられる、ことに抗議するのだ。

  2. もうひとつは、解釈の志向性が、自己-状況すなわち外/間(〜とともに;通常自我には不可視な側面ないし暗示的運動を多く含む)へと向かわず、自己自身(自己同一性:一対一対応)の固定的・静的-線的解釈もしくは結果論的解釈へと向かうことである。これこそが、典型的な解釈症(Dの言う、ナルシシズム的審判、過剰に批判的すぎる知性云々)そのものの問題となると思われる。これは解釈症の問題としてDの言葉を適宜引用しつつ感想を述べたい。

……………………

この問題は、ひと言で言って精神=知の性癖にある。精神がとかく、(現働化しつつある生成の動態に対し)1)静的な自己同一化を志向しがちであり、同時に2)「完全可視化=明証化を志向し、かつ結果論的」に捉えがちであることとも重なる。このうち特に、「静的・自己同一化」性向は、疑似シニフィアン-疑似シニフィエの<一対一対応>(上記)と解釈症(下記)に、また「完全可視化性向・結果論的性向」は、解釈症の批判精神の過剰さにも、シニフィエからシニフィアンへの<逆行>(上記)にも、濃密に繋がるであろう。とはいえどれも不可分の問題ではある。

実例を見てみよう。Dが挙げつつ批判している、不本意な知の作業の代表例として、精神分析における「解釈」が言表の形成を妨げる仕方。

p128 (精神分析家たちが)不定的な者の背後に、隠された限定的なもの、所有詞、人称代名詞が存在するよう望んで憚らない(表象をひとつだけに限定しようとする)。(またフロイト自身も)状況をまったく考慮に入れない。…切片をひとつに抽出…その契機をひとつ抽出するだけで十分…欲望の集合を壊し、※1現働状態にある生成を壊し、それらに代えて過度に表象的な関係のアナロジーを置く…いかなる(患者の)現実的-欲望もすでに消失してしまっている。それに代置されるのが、ひとつのコードであり、言表の象徴的な超コード化…

これが患者を無視し、虚構の主体を造る=解釈、のだという。

注)※1…がじつは “ これ ” こそが本来の意味のシニフィアン(線的に遡られない生身の-状況づけられた或る生成=志向的体験)というところのものである?! したがってD=Gが一貫して精鋭に批判するところのシニフィアンとは、既成の体系的知(〜であるはず・〜であるべき)から逆行的に生の現実(〜にある・〜である)へと挿入される形骸化したシニフィアンのことであるようだ。こうした権威化した疑似シニフィアンはしばしば代表的-抽出的シニフィエ(これまた形骸化された表象的なもの=表象代理、生から抽出され遊離したwissenの型と言ってもよいが)から意図的-限定(固定)的に、また線的に、逆行される知性の “ 向き ” にかんする典型的で重大な陥穽のひとつと、されなければならない問題だとたしかに思う。

逆行的…精神・思考の陥りやすい、人間性に対して非本来的な向き、と私自身は捉える。(cf:シューベルトの言葉)

そして、精神分析が言表の形成を妨げる仕方を、実例(ハンス坊や)を挙げつつ語っている。(多少、省略・意訳)

p128 幼少期のブロック、ハンスの馬への生成のブロック、ひとつの生成を印づけることとしての不定法、逃走線、あるいは脱領土化の運動、をまったく考慮に入れない。…現働状態にある生成を壊し、それらに代えて過度に想像的な類似(馬-僕のパパ)や過度に表象的な関係のアナロジー(後脚で蹴る=セックスをする)を置く

シニフィアンス(意味形成性)が解釈に取って代わり、シニフィアンがシニフィエに取って代わり、分析者の沈黙がその人の註釈に取って代わった…硬直化

フロイトの体系自身が孕む問題――すなわちあまりに「性」化された体系の傾向性の問題と、そればかりでなく、そもそも患者自身が状況から引き離され、抽出された情報の断片を以て(例えば男根なら男根と)或るひとつに「表象代理」<化>されることの持つ危険の、ふたつ――に触れなければならないだろう。

そのうちひとつ目については、私たちが性的な存在でもある以上、物事にはたしかに「性」性というものの反映するのはたしかだとは思うが、その帯びる傾向があまりに性に偏ったものである、ということ自身の持つ問題にみえる。(郵便的の記事でも少し触れた。)がここでは深入りしない。

もうひとつは、――今回非常に惹かれた点だが―― 表象代理化とその体系が私たちへと向かってくる思考回路・思考の方向の問題である。これは社会的・政治的な意味でも多局面に当て嵌まる問題だが、精神分析を土台にしたまま述べると、すなわち知の体系なり地図が作り上げられると、その一端出来あがった思考から、生身の人間へと降りて来て当て嵌められる、という仕方にある。一度定型化・権威化したその表象代理と思考とが、生身の人間へと持ち運ばれ・填め込まれた結果、人それぞれが、“ まったく ” 違った仕方、もしくは隣人のケースとは “ 絶妙に-しかし-決定的に ” 異なった仕方で、各々に自律的な問題を抱えている、その個々が<状況づけられた>処遇を、まったく無視されるのであっては、まさしくその「状況づけられ方」に於いて何らかの異常を発している患者への理解は、たしかに到底成り立たない。

(権威化された)解釈が陥りやすい方法の誤謬(解釈症の問題にも共通する)とは、まずいきなりシニフィエを限定し(生から抽出されたwissen;「最初の」解釈投与)、そこから線型的に状況へと(その際の状況!?も、じつは形骸化させられ結果論的で異様に明証化された視野に拘束されてしまっているのだが)逆行するという思考パターンの問題である。Dの言うとおり、それは健全な実験精神に逆らうし、生のリアリティ・現働化しつつある生成を決定的な仕方で破壊する。

そもそも患者(苦しみ)が救われるとは、十分な<対話>もなしに、用意されていた解釈(wissenとしての体系的成果の一部;既成シニフィエ)を当て嵌められることではなく、その個々の<状況ごと理解>され、患者ががんじがらめにされていたその<状況ごと-且つそこに属していた自分の分身とともに-炙り出される>ことに他ならず、人間の救済とは、その<隠れていた問題が、「患者自身の生の内的同意とともに、患者の縛り付けられていた状況ごと」露わになる=条件法が-形姿と-なって-現れる>ことに他ならない、と思われるからである。
生まの経験:生成(含、自己回復)にとって、シニフィエとは「自分のいない外に」予め出来上がっているもの=あてがわれるもの ではけしてない。(外/間;志向的体験なしに「自分の中のみに」予め出来上がっているものでもないが。)

言い換えると、私たちを救出する側のシニフィアンが予めそれ自身の内容を出来るだけ持たず(鏡のようでありつつ透明に近く)、私たちの生と生成が属させられ-形勢されつつあるシニフィアンへと「オーバーラップ」することにより救い出される、ということになるだろう。このオーバーラップが、部分的であるよりは、より全的で患者の向きに沿い重なり合う度合いが大きいほど、すぐれた救済(平等に漂う注意:デリダ)であるとも、言えるのかも知れない。(!ただ、この点に関しては、wissenの投入を排している間、救い手-分析者の側にはシニフィアンの現成が無い=シニフィアンそれ自体が存在しない=つまり、広い意味での「理解-解釈(相対性);志向的体験」そのものが “ 介在しない ” 、のではないということに 個人的には、あくまでも注意したい。*救う側は救う側で或る内容を秘めたシニフィアンを帯びることは人間である以上避けられないからである。これはフロイト自身も言っているはずである。)このスタンスは相対「主義」や不可知論ではなく、ニヒリズムでもなく、むしろその逆である。にも拘わらず、可能な限り平等に漂うためには、外のシニフィアン、場合によっては実験的ポジシオンの交換さえも可能な逆のシニフィアンも、持続的に内包しうる程のダイナミズムを、分析者のシニフィアンがおそらく有つのでなければならない)。

*…「存在論的、郵便的(東浩紀、著)」p284-5:分析者と被分析者とのあいだにはつねに「転移」が生じる。したがって必然的に、「分析治療の見通しに影響を与え、また抵抗という仕方で治療を困難にする諸契機においては、分析者の固有性もまたある場所を占め」ることとなる。つまり分析者の人格が被分析者の症状に影響し、またそこから影響されるという循環…第二に分析者は、被分析者のエスにもまた踏み込まねば…被分析者のエス(当時の術語では無意識)が、分析者が自分自身のエスを対話に介入させることではじめて操作可能となるということを幾度も強調…「いかなる精神分析医も、自分自身のコンプレックスや内的抵抗が許容するかぎりでのみ分析を進める」ことが出来る

 

それと精神の性向として同時に大きな問題は、自己同一性へのつよい志向と思われる。言い換えれば一対一対応の性向。「状況づけられた」自己の問題から、あるいは「状況づけられた」不可視の部分自己-他者、自己-社会の問題から遊離した自己自身を、精神というものは見出しがちである。精神つまり「〜であるべき・〜であるはず・〜でなければならない」をモットーとするものは、つい<それを>鏡に映し出し、またその思う通りに解釈しようとするのである。これは人間の生まな在りように逆行する。解釈の更新とは、生成の当体がマイノリティであることを自動的に余儀なくさせられる無名主体(へ)の<変様(容)=Metamorphose>である。が解釈の更新がエクリチュールの非人称性へと解放されず、自己同一性の側、すなわち(表現の扱い手そのものがもっとも誤解しやすい)自己自身へと、向かい空転する、このからくり。本来むかうはずであった自己-状況すなわち 外/間 の視座、すなわち「〜とともに」の地平。これはそれ自身、暗示的運動性にみち、日常的自我(同一性・明証的一対一対応を好む)には不可視な側面があるだけに、エクリチュールという非人称性へと投げ出されるはずの生成/表現の当体にとってもやはりその生成のあり方が日常的性向もしくはエゴイズム・ナルシシズムの性向に近づくほど自己同一性の側に還帰しやすく、ともすれば踏み外しやすい領域となりうる。

Dはこう言っている。

p14 魅力が生に非人称的な、個人に優越する力能を与えるのと同時に、文体はエクリチュールに外部の、書かれるものを逸脱した目的を与える。
p79 実を言えば、書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。それはひとえに生が個人的な何かではないからである。あるいは、エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである、と言ったほうがよいかもしれない。

 

それ自身が本来、「個人的な何かではない」処のものであったはずの生成。あるいは、「エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである」がゆえに、非人称性を帯びているはずの生成。が、生成の当体がたまたま<この>身体に、この身体に於ける精神に物理的に(日常的自我の自覚の上だけでも)閉ざされるかに見える以上、生成はつい、その翻りと旋回を以てはからずも己自身に還帰し己自身を充填しようとする(ただ、これは知の問題、知だけの問題なのだろうか。この志向は、理知性・精神だけが帯びやすいのでなく、欲望=wollen=無意識も同様であり<うる>ことを証明した哲学者はいないのだろうか。解釈-知を奪ったあとの生成-欲望それ自身に、この同じからくりが生じ得ないのかどうか。もしそうだとすると、私たちは結局生成・生そのものの根源を、何処に置いたらよいのか。この辺りはDの言説に沿って後述することになると思う)。それはともかく、たしかに私たちは世界の意味とその(準-)全体を、<己のうちに>実現しようとしてしまいがちであり、その非人称性を実現しえた他ならぬこの代弁者を見よ、ということが目的化し自己権威化してしまう認識の罠、といったものがあり得る。

 

こうしたことを踏まえた上でなお、「状況づけられた」生命、「状況における」人間(その分身としての自己や他己、勿論、潜在領野に飛沫化している分身をも含む)を、状況ごと理解すること・条件法ごと理解すること(むしろ「どんな!」条件法に即しているのか、そのものを理解しようとすること)を以て、社会という共同体・共感体・ネットワークへと返すべく解釈するかぎりにおいて、また生から遊離しない知-解釈であるかぎりにおいて、<解釈する知の働きそのものを否定>すべきではない、というのが私の意見ではあるが…。

Dの思想は、ニーチェの影響が深いとされる、ニーチェは、「事実は存在しないのであり、ただ解釈が存在するだけだ」と言う。がそれはむしろ当然の事柄である。実際、あるのはただ私たちによる世界への解釈、世界という解釈である。が、それで何を言いたいのか…。それ(結局普遍ではない)を指摘することが、だから解釈など無効である、ということになるのだろうか。また、解釈し、知り尽くし、世界を一端整理しようとする行為は、人間の弱さとニヒリズムから生ずる、というニーチェの人間「解釈」を受け容れるにしても、それを以て状況を、世界の成り立ちや有りようを、出来るかぎりよく知ろうとすること・また「整理することそのものに」罪がある、ということになるのだろうか。というよりは、一度整理されたものが利用される仕方のほう、つまり整理した本人によって世界の排他的代弁者となる形に陥ることと、それを無批判に踏襲したまま人々が使用し権威化する態度、また生まの人生・人間・歴史への<適用の仕方>のほうに、罪があるのではないのだろうか。それともう一つ問題なのは、(近代的)知が、世界について語るものが解釈にすぎぬとしてかりに知=解釈を無効とするか、もしくは禁じる場合、では残された知以外の領域(知と完全に綺麗に分離される知以外の領域なるものが存在しうるかどうかも疑問だが?、仮にあるとして)によって表現される処のものならば、一切の解釈(性)を帯びないのか、ということも問題として残る。つまり知的解釈を排した 生成/表現(Dが言う処の、理解しようとせず、現状を把握=解釈 することもない生成)が、その非人称性の有り様が、世界への「解釈性」を一切帯びないでいられるのかという問題。それも一種の(ひとつの生成という)解釈ではないのか、という問題である。私見では、生成/表現に於ても(或る生成による世界という)解釈となるのだし、またその生成/表現には、何らかの形で知的なものが介在・反映せざるを得ない(厳密には知と生成は精緻に絡み合い切り離せないし、絡み合うことを禁じることも出来ない――ローベルト・シューマンもしくはベートーヴェン)、という事になると思う。また、それでよい(=生成に何らかの責任を持とうとする以上、自然である)のだとも思うが。

それはともかく、一端この著書に戻るとして、実際読んでいて興味深かったことは、以下のような点である。さらに具体的に見ていきたい。

D=Gが、精神分析を、ひとつの端的な舞台とし、指摘していた問題提起により、いずれも彼らの時代の精神分析の実態が、もっとも反『弁証法』的な――この反『弁証法』的の意味は、D=G、またデリダなどがしばしば用いるヘーゲル弁証法(線形的・逆行的で結果論的に整理され全可視化・明証化されたそれ)やマルクス唯物弁証法(<最終的には>下部構造が上部構造を規定する、としてその体系を<閉じた>ことにじつに端的に現れている)のような形骸化・イデオロギー化した弁証法、疑似弁証法の方を指している――思考と同様の誤謬をおかしていたことを知る。と同時に、同著書においてD(D=G)の促している方向とは、おおむね、本来的意味での、永遠に開かれた(=態度として開かれ、個別の生成のケースとしては一端閉じられるがまた再開される)、逆行しない、生まの弁証法(これは後述することになる)的思考と方法に、重なる方向であるといえるだろう。ほんらい人間が行う「解釈」というものは何か、それがドゥルーズやデリダらの鋭く指摘しているような反-弁証法的思考でありつづけては本末転倒である、と思われるだけに、私としても拙なる感想を付しておきたい部分となった。

Dは説く。

p64 解釈なしに、状況を理解することなく愛することができるようになれ。
p78 あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。

と。

が、他方では表現=生成について、こう言っている。

p それはひとつの作動配列アジャンスマン、言表行為の作動配列なのである。ひとつの文体とは、自分自身の言語(自国語)において吃るようになることである。…そのように吃ることの必然性がなければならない…自らの発話(パロール)において吃るのではなく、言語活動(ランガージュ)それ自身で吃るのである。自分自身のラング(言語)において外国人のようであること。逃走線を描くこと。

このように、表現=生成する自己の中の異邦人を、そして吃りを、Dは評価する。ところでそもそも吃りとは何であろうか。思うに、吃りこそは解釈――状況-自己(の分身)関係の振り返りをかねた意味の――見知らぬもの=他所を、此処に招き込む、またはその反対に此処をさらなる他所・他の位相へと渡す――ずらしであり、メタモルフォーゼである。解釈は、ニーチェ=ドゥルーズ的にいえば、「弱さ(世界を知ろうとする近代的知の欲望の起源は弱さ・ニヒリズムである、というのが彼らのスタンス)」であると言えるのだろうが、じつはそれとともに「誠実さ」としての現れである、と捉えたい。こういうとDとDを「よく知る人々」は笑うのかもしれないが、自己の中の異邦人・吃りは、(パロールに於いてもランガージュに於いても)「解釈」志向の<誠実さという側面>としての現れであろう(シューマン=ホロヴィッツ。VORT-DAはその起源なのか?或いは最も端的なあらわれなのか…)。そして吃りはなによりも、好むと好まざるとに拘わらずこの世に生まれて来、そうであればこそ否応なしに他者のただなかに生かされてある以上、そうした「非連続」の連続の運動を余儀なくされる他者との接近戦・ゲリラ戦(**P88/江川隆男氏解説部分 p236 哲学とは「折衝・交渉;pourparler」であるとのくだり、 Dの言葉。)のただ中で、少しでもよく生きようとするための<状況-自己>理解の余地を顕すもの(生成の軌道の描く<非連続の連続>における「非連続」の正体・意味の発現現場)以外の何ものでもないからだ。

**… 哲学は、私たち各人のうちでの他の諸権力に対する折衝であり、自己自身のうちにすでに浸入している諸権力との戦いなき戦争、ゲリラ戦である。この意味において哲学は一つの接近戦である。哲学は、諸権力を構成せず、諸権力と混同されないが、しかし自己自身のうちで諸権力との真の接近戦をなすものである。それは、到達不可能なほど遠くの、それら諸権力の中枢や源泉に、もっとも破壊力のある非物体的な武器を仕掛ける意志をもった接近戦である。

 

「p11 理解すべき何ものもなければ、解釈すべき何ものもない」、とD=Gは言うが、吃りこそは謂わば、状況理解の反映だろう。保留――別の生成への余地と方向性をたえず予覚しつつ、準-外を孕みつつ、見えないものを現働化しようとすること。「非連続」の連続つまり吃り(時間軸の空間化?)とは、解釈の余地、ひとつ外での「此性」の、すなわち潜勢的なものの現勢化の “ 把持しなおし ”である。

 

ところで、では精神分析ののぞましい姿、患者の治療(すこやかな生成の現働化)とは、どうあればよいのだろうか。生成の邪魔をしない鉄則として、Dはこう言っている。

p126 ひとつの主体を表象しないこと。というのも、言表行為の主体は存在しないからである。そうではなく、ひとつの作動配列をプログラムすること。言表を超コード化しないこと。その反対に、言表がシニフィアンと称される布置の暴政の下で揺れ動かないようにすること。

和語にも――Dは、時に東洋を引き合いに出す――このような言い方がある「己を無にする(空しうする)」。西洋がともすると主体・主体と言いがちの処を、「構えず、虚心坦懐」「予断なし」に向き合う。そこでは世界は所謂対象ですらなくなる。書物を読解するのにも、(平たい言い方をあえてすれば)主観を交えずにその著書の文脈の流れだけをできるかぎり追っていくと、文脈とともに著者の負っていた状況すなわち「条件法ごと」見えてくる地点が現れる。そこで現働化してくるものが、その「生成者自身のシニフィアンでもある」という仕方で現れてくる(シニフィエなきシニフィアン、シニフィアンス)。つまりここで著者が何の地平を「前提に」しておりそこに於て何に抵抗し、何を守ろうとしているのかごと、理解できたりもする。もとい、理解するとは本来、また実際、そのようでなければならない。

が実は、それは必ずしも容易ではない。ことに、読み手の個人的事情が絡みやすい場合がそれだ。読み手自身の資質や、当座自分の抱えつつ押殺している問題に、その内容が偶然近かったり触れたりする場合には、ことさら顕著にその問題が立ち現れる。どうしても読み手の側の神経や志向性が敏感に反応するがゆえ、これを抑えるのは相当の熟達さが必要であって、十分な訓練を受けた大家ですら、時にはその案件に手慣れていること・他よりはるかに熟知している(近くにいる)ことを以てしてかえって陥りやすい罠さえ――その、「予断のなさ」を保証するものが不在であるだけに――ありうるといえる。まして素人に於てをや、ということなのではあろう?、今回実は私が心配している問題のひとつも、実際この障りに突き当たっているのかも知れない。というのは、D=G自身の言う、「理解すべきもの・解釈すべきものなど何もない(p11)」、という或る種の不自由さを帯びてみえるシニフィアンをどう相対化するかが問題となってしまう。すなわち生成を遂行する際、また生成を追う際に、解釈の余地が生じうる地点、つまり諸々に自律的な生成の遂行を余儀なくさせている処の、世の中に通底している <からくり=マジョリティの姿> が見えてくる地点と、さらにはそのからくりをこの際大いに利用しようといつも手ぐすね引いて待機している人々の目論見の、見えてくる地点。その怖ろしさゆえ、動態においても或る程度俯瞰的な視座から、脱主体的生成をなしつつある当体銘々の責任に於いてその実験的解析の地平を失わないようにしたいという思い、逆に言うと諸生成の経験がタコツボに終わらないようにという注意を、尊重したいのだが、「解釈するな・現状を把握することなく」生成せよ、と言われてはそれが禁じられてしまう。

勿論、D=Gが解釈するな、実験せよ、というにはそれに足る十分な理由と正しさがある。彼らは体系化(閉じられた-「樹」系)を回避する。その体系的知が陥りがちの性癖も、逆行などの形で先述した。ただだから、ツリー化をば差し控えるとしても、また実際それが彼らの言うように今度は地図化;プログラム化された場合でも、その記録装置の<<適用者ないし敷衍者>>として振る舞う「代理」を何らかの仕方で通す方途が無くならない以上、また派閥化などを含めそのように方向づけるシステム自身が無くならない以上は、元の木阿弥という危険性がある。つまり上述したこの思考の向きと質の問題が克服されぬかぎりは、いくら語りの座標軸を歴史→地理へと移行したり、表象を樹→草、体系→プログラムへと代えて行くにしろ、また論理的な言語から暗号的言語へと移行するにしろ、畢竟いたちごっこと言葉狩りになってしまうだろう。

だから言ったのだ、解釈するなと。と言われるかも知れない。が、すると今度は、結局それ自身を私たち人間社会が乗り越えるのは、はたして解釈する「な」に拠ってなのだろうか、という根本的問いが生じる。むしろ、より健全な解釈を求めよう・よりすこやかな解釈の「生かし方」を求めよう、とし「解釈は施しつつも、この生に於ては、誰にも取って代わられぬ生成者たれ、共感体のなかでの生成者たれ」と言われるのが、望ましいのではないかと思えてならない。というのは、こういうことだ…。何を最も重要な問題として考えるのか。知の功罪を問うて、知識人自身が知(伝達可能な手段を用いる知)を否定し放棄した時、我が意を得たりと喜ぶ人々がいないだろうか(彼らこそはそもそも、私たちの最大の敵ではなかったのだろうか)。そのことに拠って蒙る損失は、計り知れないのではないだろうか。また過去に我々はそれに似た過ちを侵してこなかっただろうか。システム(逆行する知-思考のシステム)に支配される不合理からも、システムを操るマジョリティ=権力装置の魔の手からも、私たちマイノリティの生成が逃れるためには、不可視な状況をあえて把握する権利を捨てないことが、むしろ重要なのではないだろうか。各々において責任ある「解釈をしよう」とすることを<以て成功する>だろう、とまではかりに、言い切れぬにしても、せめて(もっと広く深い意味での)知を働かせること=状況を理解し解釈を試みること、それなくして、システムを操る権力装置にいい所取りをされるのだけは、かろうじて回避できるようにしたい、ということだ。これもまた、後述する。とにかく「狭い知性」による反弁証法的なシステムの運行の行き詰まりにより、知が知を放棄し、それを以て<代弁装置-権力装置に好都合に利用され>、私たちの社会を支配されないこと。少なくともそんな無念な仕方で、意図的に抽出されたシニフィエ(代理象徴者)が、この現実の政治-社会に於て個々の生成者の生へと逆行してこないこと。それを希うのみということだ。

たとえば先の精神分析の場合で言えば、自分でもよく見えていなかった、「状況づけられ方」を知らされること、己を状況づけているもの、己自身にもまだ見えていない処のものが、それに束縛されていた自分の<分身/処遇>ごと見えてくる(=到来)ようになること。それを援助してくれるのが、そもそも精神治療のはずであるのに、これを無視した形でただたんに機械的にシニフィエを「挿填」されないことが、患者にとっては大事だと言ったが、ましてやそのシニフィエ=表象代理が、社会のイデオロギー装置に取って代わられたとしたら?…そう思うだけで、ぞっとする。私たちの「知」とは、本来そのような不幸に我々が陥らないよう、危険を回避できるためのものでは無かったのだろうか。少なくともそのことに貢献できなくて、よいのだろうか…。また生成自身も、そのような状況理解と無関係でばかりいられるのか。もし「知」では貢献できないし、これまでも出来なかったというなら、それは知(解釈)そのものが罰され破棄されるべきなのではなく、知の有りよう・射程範囲の狭さ・解釈の「仕方、向き」の問題ではなかったのか、という問いが、やはりつよく残る。いわば生まな人間の経験自身が一つの表象代理に取って代わられぬようにすること が、とまれ、重要になってくる。

さて、たしかにDの列挙するこの、解釈の陥りがちな性癖と弊害。形骸化し逆行する弁証法;非本来的知。これを回避するためにこそ、私たちは結局 「外/間」 「〜と共にある」の地平を述べなくてはならなくなる。が実のところ、この形勢と地平こそは、本来的意味の「解釈」の地平ではないのだろうか。Dが評価する処!の「吃り」=『と、と、と』。もしくは 現勢状態のさなかにある時間軸の空間化、という名の “省み” 。そういう交錯を織り込んだ、我々の生という、時間の流れ。たとえばローベルト・シューマンの音楽――Dはシューマニアーナであったらしいが――etc..それらはまさに「理解-解釈」たるもののすぐれた具現体では、ないのだろうか。

 

さて、もうひとつ、Dがフランスの知識人に端的に見られる としている、解釈症の問題について触れたい。これはじつは上記と重なる面も大いに有るが、Dの把握によると、解釈症は、生成/表現において最も大事な実験精神を縮減させる、という。大いに肯け、卓見が随所に見られる。

これを私としては、こう捉えたい。先にも触れてきたように精神が、現働化しつつある生成に関し、つい統一性・完全可視化(まったき明証化)を志向しがちであること、また(同じことだが)結果論的-逆行的に物事を見、批判しがちであること。これはじつは、解釈症の問題にもつながる。批判精神の強すぎること(スタティック・整理癖、全可視化スタンス)が生きる上での愛を欠き、実験しつつ前進する精神を失うこと。とともにこれは、精神の(自己)同一性志向、一対一対応志向、ナルシシズムの問題等にも繋がる。精神がそうした性向を帯びるのに対し、逆に生成とは、あくまでも動態であり、つねに暗示的・不可視的状況下にあり、位相が錯綜し、つねに実験せざるを得ないこと。このギャップに、人間の生・生成が晒され引き裂かれる、という危険が事実ある。

フランス人の知的すぎる解釈症について、Dはこう述べる。示唆に富み非常に興味深かった。該当箇所以下。

p76 ローレンスは、フランスの文学全体を貫いているように彼にみえるもの、すなわち「不潔で小さな秘密」への偏執を告発していた。登場人物と著者はつねに小さな秘密をもっており、この秘密が解釈することへの偏執に滋養を与えるというのである。…「シニフィアン」なるものが発明されて以来、物事はうまくいかなくなった。言語を解釈する代わりに、言語が私たちを解釈し始め、そして自分自身を解釈しはじめたのである。意味形成性(シニフィアンス)と解釈症(解釈せずにはいられない性質)は大地における二つの病気であり、専制君主と司祭のカップルである。
p78 あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。

p79 逃走するとは、現実を生産し、生を創造し、武器を見つけることである。一般に、生が個人的な何かに縮減され、作品が自らの目的をそれ自身のうちに見出すとみなされるのは、同じ間違った運動においてである。…フランス文学は宣言、イデオロギー、エクリチュールの理論に満ち溢れており、また同時に、人と人との争い、調整の調整、神経症的な心遣い、ナルシシズム的な審判に満ち溢れている。…フランス文学はしばしば神経症の最も恥知らずな讃辞である。…それは下劣だ。それはつねに世間の最善なる意図に収まっている。生が矮小化されればされるほど、作品は偉大なものにみえるようになっていくわけだ。こうして作品を貫く生の力能を見ようとする大胆さが失われる。何もかもが前もって押し潰されてしまっているのだ。作品が提起する究極目的としてのおおきなシニフィアンを賦活し、生が想定する便法としての想像的な小さなシニフィエや幻想を賦活するのは、去勢におけるのと同じルサンチマンであり、同じ嗜好である。ローレンスはフランス文学を、治癒し難いほどに知性的であり、観念論的かつ理想主義的であり、本質的に批判的であり、生の創造者であるよりもむしろ生の批判者であると言って非難していた。文学におけるフランスのナショナリズム、それは判断し判断されることへの凄まじい偏執がこの文学を貫いているということだ。フランスの作家と彼らの登場人物の中にはあまりにもヒステリックな人が多い。憎み、愛されたいと望むのだが、愛し、賞賛する能力をまったく欠いている。実を言えば、書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。それはひとえに生が個人的な何かではないからである。あるいは、エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである、と言ったほうがよいかもしれない。

解釈の更新とは、生成の当体がマイノリティであることを自動的に余儀なくさせられる無名主体の変容でありながら、同時に、これを隙あらば中断させ封殺しようとするマジョリティ(繰り返すが表現者の純粋な欲望を自動的に-余儀なくマイノリティにさせる処のマジョリティというのが、つねにすでに存在しているのであって、この政治性こそが最も問題である)が形成される仕組み・不思議と決まって素描される描線の罠と、想定しうるあらゆるパターン(つねにその民族国家と時代に相応しい新しい形姿を纏いやって来る)を検知し解明し、これに挑みこの危険を乗り越えようとする「開かれた知」的試みでもある、としよう。が、解釈の更新がエクリチュールの非人称性へと解放されず、表現/生成の当体の自己同一性の側、すなわち(表現の扱い手そのものがもっとも誤解しやすい)自己自身へと向かうとき、解釈症は起こりうる。解釈症とはいいかえれば、生のリアリティ(他者の存在する場、炸裂可能性=意味の出現可能性)を閉ざした場に他ならない。未来にむけての時間が閉ざされており流れの凝結している状態であって、この問題はナルシシズム・エゴイズムとも濃密に絡み合うし、表現の場合にはヒロイズムとも絡みうる。またエゴイズムの場合殊に、私見では、生成の質とも不可分ともなるのであろう(D自身は強度=質、としているが)。

ただ、ではだからといってこのからくりの克服のためには、一切解釈するな(知の破棄)、というのが正しいのであろうか、というのがまたしても問題になってくる。かえって注視されない自己への異常な憧れ、観察しようとする自我への憎しみと強烈な解放願望から、その精神は萎縮し空転するか錯乱してしまうだろう。だいいちそれでは逆に「この人を見よ」的なエゴイズム・ナルシシズム・ヒロイズムの固執からも自律的になれない、という皮肉な精神のからくりをすら感じる。観察しようとする自我への憎しみ・放棄願望は、じつは代理者願望的なエゴイズム・ナルシシズムの魔的固執ともおそらく不可分であるし、後述する自己破壊の問題とも通じるであろう。


ともかく、観察され解釈されることそのものから逃亡しようとするその姿も、精神による身体の支配と同様に、まったく自然でない。私たちのありのままの姿とは、むしろ、自己を生々しく不透明だったあの状況へ、生成へのリアリティへと返されることでかえって自然と得られるのだ。気づきの自我の介入を禁じれば禁じるほど、気づきから注視へ、注視から監視へ、批判へ、懲罰へと滋養(!?)される自我のそのからくり。そうした偏執から解放されるには、つまり無心(たんなるわれわれという準-事実)に近づけるには、――馬鹿馬鹿しい言い方をするようだが――不可視性にみちた生の状況へ、生まの “ 状況のリアリティ ” へと一端返されることである(遡行)。がしかもそれは、ただたんに「もとへと返す」のではない。未来がどうなるか解らないなりに、今は前の状況と自己の関係をひとつ外から(自己をも他己をも或る種の分身として)俯瞰ないし観照しうるのだから、その視座から、状況のありようを責任を持って解釈しつつ進もう、というべきではないのだろうか。解釈することの一つの大きな問題は、解釈「していること」自身より、「状況をでなく自己自身を」解釈していることが問題なのであり、自己が自己自身によって状況(自己-他己)との関係から<抽出>され、シニフィアン-シニフィエの空転状態とされていること、つまり生まに「状況づけられていない事」そのものが問題である。解釈が、「状況への」判断となっていないことのほうが、問題である。前術の問題とも重なるが、解釈自身を放棄すると、生成のマイノリティが状況(多くの場合マジョリティ・権力・イデオロギー装置・ファシズムへの陥穽等の危険を孕む)との関わりからどう自由に振る舞いうるのか、これをどう克服しうるのか、を、その生成/表現 に於て責任をもって選択しえなくなることは、一層問題である。また、その克服の仕方を、どう他者に伝えれば、それを社会システムとして(たとえ問題によってはその来るべき時代の到来そのものは、まだまだ先であろうにしても)共有しやすくなるのかを伝える権能さえも、これにより放棄することになりはしないだろうか。

解釈が、本来向かうはずの、動態である自己-状況(自己-他己の間・外)にではなく、スタティックに既成の自己自身へと向かうとき、解釈は解釈症になる、ということ。これを確認した上で、かえって不安になるのがこのような点である。つまり精神にそわない身体的存在を、精神が支配者として抑圧し、抹殺さえするのが私達に危険をもたらすと同様に、今度は精神(意志的精神)が精神(理知)に異様な懲罰をくわえ、これを放棄しようとすること。(スピノザの姿勢はこれとも異なるはずである。ニーチェはどうだったのだろうか?全ての知は解釈にすぎぬ、という処から、知=禁 解釈=禁 という仕方で、彼ははたして解釈を「禁じた」のだろうか?これを抹殺することはじつはむずかしいが…。逆らうこと・憎悪するを以てして解放されるかにみえるが、鳥もちにかかるだけである)これを志向してしまってはいないだろうか。これ、つまり解釈すること=鏡に映し出そうとする自我の働きそのものをいたづらに禁じ抹殺することも、同様に我々を過度に傷つける。何某かの危険から(繰り返すがここにはじつは根拠がある)我々を守るべく注視する自我、振り返る自我を、あまりに敵視することが、今度は人を無監視状態への憧憬という慟哭、つまり狂気へと、誘ってしまう。日常的実践の問題としては座禅を組むことで乗り越えようとする人もいるだろうが、表現の場などでこれを貫通させることは容易でないし、専制やファシズムを含む権力装置(それは、表現者の外からも、内からも!やって来る)へと吸収される危険の問題からしても、表現においてそうした一切の危険を回避しつつ、同時に監視ないし意味付与する自我に一切侵されないというのは事実上不可能と言える。だから問題はあくまでも、意味付与ないし観照のあり方と向かい方である。それがスタティックな自己同一性に基づいているのでなく、既成の表象代理(べき)から生-生成(である=となる)へと一方的に挿入されるのでもなく、状況自身と、それを形勢しつつある力・作用の全容へと向かいつつ同時にそれ自身を外化する態度を保つものであれば、少なくとも不健全ではないのである。

むしろ表現/生成者は、このような点に気をつけるべきかも知れない。今はマイノリティであるところの或る表現が、社会-大衆化によってマジョリティとなったあかつきにも、危険をはらまない質のものであるかどうか。その出自が、既成の秩序やイデオロギー・「薄汚い」権威道徳への復讐心から、あわよくば他の生をも奪還しようとする力能に動機づけられた生きる意志ではないように…。気になるのはいつもこの点である。

 

ところで自己解釈はナルシシズムの問題を喚起させる。

ナルシシズムとは何かを、たとえばシューベルトには、よく考えさせられる…。鏡。ただひたひたと容赦ない対面と直視が彼にはある(その縁から変幻自在な水鏡へと移るにせよ)。だがそこから出てきた言葉は「私は美しい」でも「この人を見よ」でもなく、美しいのは授かった才能と信念から生まれる音楽。ありのままの人間の姿とその純浄な変容とがあるだけだ。だから彼の彼の鏡像とは、ユニゾンの場合でさえナルシシズムというよりはむしろ、分析者と被分析者の間の転移であるかのようだ。かれの音楽には無意識から洩れてエクリチュールの影を媒介し殆ど他者と見まがうほどの相貌を帯びて再来した分身による、その膜の外もしくは準-外からの、振り返りざまの意味付与(シューマンのような)はあまり、登場しないといってよい。無意識から自我、超自我への距離が短く強靱で密度が濃く、息苦しいほどに漏洩が少なく?、むしろ無意識の膜に観照する理知性が張り付いており、力能の均斉がとれ凝縮されている。そのため、変容の発生のためのリズムに、さして大胆なバネ=跳躍力も登場の必要がないほどである。彼の音楽にはモーツァルトとはまた違った意味で「3度」のもたらす自発性の効果がおおきいが、水鏡を帯びるにしたがい、その輪郭はたちどころに曖昧になり、魔的もしくは霊的吸引力をおびる。時には凄絶でさえある反復強迫にみちたその音楽は、あまりに生の直接性・根源に位置したままでいるために、隠喩の手垢すらついていない。

それはともかく、話を元に戻せば、生成におけるそうした<傾注・理解のスタイル>は、意味付与型か、観照型かなど、人の資質による相異の問題もあるのでともかくとすれば、おそらくひとついえることは、「この生成に於るナルシシズムのからくりの克服」そのものを、むしろ表現に盛り込むことにより、これを共有し、ともによりよき生成へと参与しようと…。そういう生成もありうると。そしてより健全な――自滅しない・破綻しない――生成へと向かおうと。

 

D自身、マジョリティというものをこう把握している。以下、引用。

p25(ハイデガー問題のくだり)思考が人々に向かって、<私のことを真剣に考えなくていい、というのは私があなたたちに代わって思考し、私があなたたちに見合ったものを、諸々の規範と規則を、ひとつのイメージを与えるからです。あなたたちは、「それは私に関係ない、重要なことではない、哲学者たちや彼らの純粋な理論に関係することだ」と言えば言うほど、そうした規則や起案に従うようになっていくのです>と言うとき、それが思考の権力機構の効果であるということにまったくならないわけではない。 哲学史は哲学において、そして思考においてさえも、つねに権力のエージェントであった。

こう言われる時、それはただしい。だが哲学史(偏狭な知の範囲)だけでなく、もっとやっかいなのは、社会体制・政治権力こそが好んでそう言う(「私たちが代弁者だ。任せなさい」と言う)こと、つまり我々ひとりひとりに考えさせない、ということである。自分自身の目で見、肌で感じ、足で歩いて行こう――それは何も理解し解釈しない、まして現状を把握しない、のではなく(実のところ、人間にとってこれほど「不」自由な、不安に満ちた状況はない)、むしろ逆に自分自身で考えよう――とする人々、もしくは自分ひとりで考えざるを得ないほど追放された人々、いずれにせよ(その判断がほんとうに正しいか間違っているか、あるいは後で振り返って正しかったか間違っていたかはともかく)理解・解釈・判断<する>ことによって「かろうじて生きて行ける」人々、「精一杯意志的で・自由であろうとする」人々である。彼らが身を挺して避けたいのは、「真剣に考えなくていい、というのは私があなたたちに<代わって>思考し、イメージを与えてやるのだから」という人たちと装置の罠であるにちがいない。

 

状況ごとの生(人間)理解、とは、逆に「マジョリティ理解」とも不可分であろう。むしろマイノリティである生が、本来如何にあるべきかをよく知るにも、マジョリティとはいかなるものかをよく知ることが必要だが、それはどちらかというと、こういう理由からだ。権力装置にとって、哲学者らが率先して「だからいっそ解釈するな・知を働かせるな」と言ってくれるその言い分ほど、大衆操作するにおいて好都合なものはない、ということ。この立場に立って、哲学と哲学史を考え直してみることがおそらく急務である。

マイノリティの生成にあたり知が悪い影響を及ぼし「うる」ことを以て、精鋭に知そのものを否定すること(不可知論でも相対主義でもアナーキズムでも何でもよいけれども)は、はからずも 権力装置を肥やしよろこばせることに、何より貢献する。この点を見落とすとき、昨今の哲学および哲学史の意義は本末転倒になるだろう。

知を利用する権力装置は、不断に相貌を変えてやってくる。私たちはよく「歴史を語り継げ、<あの>戦争を忘れるな」、というけれども、権力装置は、二度と昔と同じ姿、同じ仕方では現れない。つねに新しく、親しみやすい形姿を纏いやって来る。つまりマジョリティ(権力+それに乗じる大衆)がつねに、いかなる仕方でマイノリティの生成の生命線(Dの表現では、折衝的=政治的であろうとすること)を奪おうと企み、手ぐすね引いているか、どんな仕方で自律的生の封殺へとアプローチしてくると考えられるか、そこには或る共通した老獪にして執拗なる装置が隠されているだろうが、これを<統合的に>探究しえないか、という、新しい解釈への希望を、やはり諦めるわけにはいかない。勿論それは、文献(至上主義)としてのではなく、人間理解(学)としての解釈(学)への。と同時にそれは、この自己自身も、いかにして自由なマイノリティから疲弊したマジョリティへの変貌を遂げてしまいかねぬかへの探究とも重なるけれども。

 

じっさいD自身、解釈・解釈症を禁じつつも、生成(=逃走)の過程に於いて、こうも言う。

ファシズムから逃走しつつ、私たちは逃走線の上でファシストの凝結を再び見出す。すべてから逃走しつつ、どうしたら…私たちの権力形成を…パパ-ママを再構成しないでいられるのか。逃走線が…純然たる自己破壊の運動と混同されないようにするためには、どうしたらよいのか。

と。

その危機をファシズムと、または自己破壊と、察知し、理解し、この危険からみづからの生成の軌道を死守しなければならなくなる…。いわば、「私(主体)」と言う権能を奪われているその領域で責任を取らされるようなものである。が――にもかかわらず――(状況-自己/他者-自己への)「理解-解釈」の正しい位置、理性のもとよりの役割と持ち場はここにあるはずなのである…。理性にそんな働きなど出来るか、と問われるかもしれないが、たとえ理性がこの場を去ったところで、我々の生がこれらへと陥る危険性そのものも無くなりはしない(Dのいう、「ファシズムから逃走しつつ、私たちは逃走線の上でファシストの凝結を再び見出す。すべてから逃走しつつ、どうしたら…私たちの権力形成を…しないでいられるのか。」の問いそれ自身、理性を罰したところで無くなりはしない。というのは、私たちが物事をみずから理解し判断しないようになることを望む者達が居る、そのからくりが無くならないからだ)。むしろ理性が立ち会っていなければ、喚笛(ホイッスル)すら鳴らせない…。とはいうが、畢竟理性が警告したところで、マジョリティの巨大さと狡猾さには勝てまい、われわれは実際いつも敗北してきたではないか。キリスト教的欺瞞;神の代理者、ファシズム、ホロコースト、スターリニズムetcetc..、と言われるかもしれないが、だからこそ私たちは、これらの経験を個人的な経験、或る民族固有の経験・或る国家固有の経験に、タコツボに、終わらせてはいけないのではないだろうか。むしろ共有のために、諸々の表現を自由に確保すると同時にそれら表現の集積と伝達の地平、さらなる実験的解析の地平を、提示しておく必要があると言えないのだろうか。

おそらくこのことは、Dに手厳しく(自己?)批判されるところの、フランス文学・哲学ないしフランス国民が、何故こうも「*治癒し難いほどに知性的(ローレンス)」に成らざるを得なかったか、を語っているともいえるだろう。彼らが何故これほどにまで批判精神に富み、解釈症にまで陥ったか、その敵は何だったのか。フランス人が、他国民に比しより優れていた敏感さと視座。理知を、神経過敏なほど発達させなければならなかった背景。すなわち反帝国主義、反イデオロギー、反ファシズム。反覇権主義(反-他国領土侵犯、反フロンティア精神? 但、ナポレオンを除く)…総じて封殺的状況に対する感覚の鋭さ。彼らの敵はだから、本来生成者をおのずとマイノリティにせしめるところの、多様な意味に於るマジョリティであり、権力装置・代弁装置ではあった。知的批判精神が、実際おそらくもっとも向かおうとしていたはずのもの、また実際向かうべきであったのは、マジョリティ-権力装置の、誕生の地平及びそれへの分析なのだろう。

 

さて、解釈症に陥るに足るだけのそうした危険にみちた背景についてはともかく、健全な生成/表現、というものそれ自体を考える場合、Dの言うように、実験精神について、考えないわけにはいかない。解釈症を発する背景と、解釈症の罪・表現に及ぼす阻害と損失は、あくまでも分けて考えなければならない。

たしかに生成が健全でダイナミックに行われるためには、実験精神の旺盛であることが必須である。というより、それ以外に前進のしようがない。解釈症を併発している心においては、生き延びるための基本的な自己肯定すら欠いており、実験精神の大胆さが損なわれるだろうことは想像に難くない。表現者と解釈者、両刀使いにならなければならない、などと同一次元に於て言うのもたしかに非常な困難と精神的危険が伴う。

Dの捉える、よく生きるとは、たくましい生成とはどういう事か。哲学に於いては経験主義、文学に於いてはフランス文学と対照的な英米文学の例などを挙げつつ、Dはこう言いたいように思われる。自我の(徒らな)発達は、生に対し批判的な態度(愛の欠如)に陥り、生の力能・生産性・実験精神を欠き、生を矮小化し、<大胆さ>を縮減させがちである。「幻想なしに、(自己)解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。」と言う言葉の正しさが、たしかにある。それはたとえば、ともするとあまりに批判的精神の卓抜なために生成的力能と神経の萎縮しがちなシューマンの音楽にも言えることで、この批判精神・解釈能力の発達した人間が、同時に生成者として要求されるある種の<大胆さ>を表現当体に呼び戻すためには、想像を絶する負担がかかりがちな所があるに違いない。
本書の文体からも、みずからがフランス人の潔癖症と異常なほどの繊細さを併せ持つとさえ思われるDの口から発されるこの言葉は、むしろ大胆にも良心的というべきだろう。この意味を汲み取るとき、彼を繊細さという武器を放擲し開き直ったアナーキストだとか、みづからの潔癖さゆえに自暴自棄な不可知論者だなどと片づけるわけには毛頭行くまい。

実験的であることを強くDは推奨する。たしかに、無意識に任せて(そこでは自我意識がいちいち介入せず)実験的に色々吐き出させるのはいいことなのだろう、また結局それしかないだろう。とりあえず無意識を基本的に肯定し跋扈させておくこと。ただこれが地理的か歴史的かは、その人間の無意識・潜在意識の質に任せれば良く、どちらかにイデオロギー化しなくともよいのではと思うが。おのずと、一度その無意識による軌道=時空の軸を、意識が、反省ないし観照という形で「空間化」を行うこととなるだろう(それが、D=Gの行った地図・プログラムの作成に当たるように思われる?だから彼らは「解釈」(学)が本来やるはずであった位相の仕事を、実践していることになる)。

がひとつだけ気になることは、実験精神によって遂行されるその生成/表現の、質の尺度である。D自身は、質を「強度」でのみ表す。が、私にとっては、その生成の質の根源を問わなくてよいのかという疑問が残る。いかなる根底から発された生成であるのか。愛と、生きる意志=力というけれども、それは他者をも生かす・共生する意志(Dのいう「と」・「とともに」)で表現されているのか、それとも自己のみを愛し生かす(願わくば他は黙らせるor封殺する意志「おれが非人称という名で代わりに語っているのだからお前たちは語らなくてよい」)で表現されているのか。そして(繰り返すが)その生成に関し理知が、状況理解-解釈が、ほんとうに介在しなくてもよいのか。ともすると己から生成される軌道そのものが外や間を失ってマジョリティへの生成を含みつつあるのではないか、といった事を意識=理性がチェックしなくてもよいのか…。己の無意識-潜在意識の描く生成が、他己の自律性と自発性を同時に尊重し、外・間に開かれているような質のものかをチェックしなくてもよいのか。むしろここ(生の最も深く根源的領域)で、あえてD的に言い換えれば表現の強度の「質」が、生の根源の名に於ても、同時に(同じ次元から!)道徳の名に於ても、問われるのは仕方がないのではないだろうか。専制権力から真の意味で自由な生成を守ることのためには、諸々の生成自身を外のマジョリティとの折衝からも、同時に此処から生み出す生成の内なるマジョリティ(超越性もしくは非人称性という名のもとでの自己唯一絶対化、という罠)との折衝からも、おそらくそれは問われなければならない。そういう「非連続」の連続的な意味で、意識すなわち「と-ともにある」を肯定する自己(セルフ)=本来的理性からの意味付与ないし観照を受けることすらも、否定する(解釈するな・現状を把握することなく愛せ)というのは、やはり自然でない。この代弁主義の鳥もちを乗り越えないかぎり、執拗なるファシズムが再び形成される危険を遠ざけることは出来ないのではないだろうか…。生成当体の責任に於ても、社会全体の責任に於ても。


 

<< 第2点:構築性・自発性否定から肯定への箇所。文脈は次第にこれの肯定へ向かっていくのである >>

 

この点に関しては、非常に重要だと捉えてはいるが、簡便に記したい。

本書パルネとの対談の冒頭では、Dは 生成とは最も知覚しえないもの…「歴史ではない」、生成に於ける表現(文体)とは生の様態(生活様式)と同じように、「構築ではない」というのだけれども(p10)、他方では、否 読み進むに従い、「 諸々の形態の展開と諸々の主体の形成とに同時に関わる平面[*これは<組織体>と命名可能な平面である…Rei注]は、(お望みとあらば)構造的<かつ>発生的 であり 構成主義的 である、とする(p150)。また私たちの生=欲望を形勢する内在平面について(これを<自然>平面とも呼ぶことができるが)、ここでは自然-人為という区別なく…むしろ自然こそ(内在平面のすべての)人為を用いて構築されなければならない当のものである」、とさえ言い切るに至る(p152)。これは非常に意味深く、興味深いことである。


(所々、重要なDの論理について、※を施し、これらについての私の感想・意見は [※…] で記した。)

引用分を整理する。はじめのうち、Dの表現はこのようである。

p10 文体は生の様態(生活様式)と同じように構築ではない。文体において、生成とは語でも、文章でも、リズムでも、文彩でもない。生において、生成とは歴史でも、原理でも、結果でもない。

 

そして次第に、このように移っていく。

p140 欲望はひとつの主体の内部にあるのでも、また対象をめざすのでもない。欲望が厳密に内在するのは、自らが前もって存在しない平面であり、構築しなければならず、微粒子が放出され、流れが結合し合う平面である。欲望が存在するのは、そのような領野の拡張が、そのような流れの増殖が、そのような微粒子の放出が存在する限りに於いてである。ひとつの主体を想定するどころか、欲望は、誰かが<私>と言う能力を剥奪されている地点でしか獲得され得ない。

p141 <あなたがそれを構築することに成功しなければ、あなたがそれをつくる術を知っていなければ、あなたは欲望することはない>、と。同時に次のことを言わなければならないだろう、すなわち、<存立平面はそれだけでつくられるが、しかしそれを見る術を知りなさい。そしてあなたは存立平面をつくらなければならない、それをつくる術を知らなければならない、※自ら全責任を負って、正しい方向を取らなければならない

[※このとき、「解釈すべきなにものもない・現状を把握することなく…」というのとおのずから矛盾する。「不完全」「未整理」でもいいから、暗示性・不透明性に取り巻かれながらも一度準-空間化されること・(他者性を抱えながら、他者性に取り巻かれながら)或程度の見通しを持つこと、動態のさなかで外への可能性を保有しつつ俯瞰・観照することなしには、成しつつある生成に責任を負った方向の選択は出来ない]

p143 二つの平面を、平面の二つのタイプを区別しなければならないだろう。
○一方…<組織体>と命名可能な平面(=超越平面?、法則の平面)
諸々の形態の展開と諸々の主体の形成とに同時に関わる平面。(お望みとあらば)構造的<かつ>発生的。いずれにせよ、相補的な次元、もうひとつ余分な隠された次元を、意のままにすることができる。というのは、それがそれ自身のために与えられるのではなく、つねにそれが組織するものから出発して結論され、推論され、帰納されねばならないから。例、音楽において、作曲の原理がそれによって与えられるものとの直接に知覚・聴取可能な関係の中で与えられるのではないのと同じ。したがって<自然>の、or<無意識>の深奥に埋めて隠すことによって、最大限の内在が貸し与えられるときでさえ、この平面は超越平面であり、人間or神の精神の中にある一種の意図である。このような平面は、それが諸々の形式・ジャンル・モチーフを組織し展開する限りで、そして諸々の主体・人物・性格・感情を割り当て進化させる限りで(=つまり諸々の形式を調和させ諸々の主体を教育する限りで)、<法則>の平面である。

[※上記が真の意味での弁証法的展開でなくして何であろうか。。勿論、この運動は同時にここに生のリアリティを感じる当体;Dの言う「此性」なしには生成なされえないが]


○他方…<此性>を知る平面(=存立平面、内在平面?)
上記(前述の一方の平面)の事にまったく従事しない別の平面。運動と静止・速さと遅さの関係、(相対的に)形成されていない諸要素の間の関係、流れによって運ばれる分子・微粒子の間の関係しか知らない平面であり、また諸々の主体を知らず、むしろ諸々の「此性」と呼ばれるものを知っている。実際、あらゆる個体化はひとつの主体or事物の様態にも生起しない。一時間(一日・一季節・一気候・一年or数年・気温の一度・一強度・※相互に構成し合う諸々の強度)は形成された事物や形成された主体の個体性とは混同されない完璧な個体性をもっている

[※これが、弁証法的展開を動機づける、また動機づけられる、諸要素の自存性・自律性でなくて何だろう]

 

p150 あらゆる作動配列は欲望を可能にする平面を構築することによって、欲望を表現し、欲望をつくるのであり、また欲望を可能にすることによって、欲望を実現するのである。欲望は特権的な人たちだけのものではない。それはまた、一度なされた革命の成功のためだけのものでもない。欲望は、それ自身において内在的な革命のプロセスである。欲望は構成主義的であって、自発性信奉主義的ではまったくない。

p150 グループであれ個人であれ、各々が自らの生と企てを誘う内在平面を構築するのだ。これが唯一の重要なことである…
欲望の唯一の※自発性とはそんなものだ。すなわち、抑圧され、搾取され、屈従させられ、隷従させられたくないということ

[※それだけで十分なのだ、自発性信奉主義でなくとも…!だってこれが自発性そのものなのだから。自発性とは、生成者が人間である以上、すなわち意識であるにしろ生(欲望の当体)であるにしろ、物自体を掴むことは出来ず、まして物自体になることもできぬ<相対者>である以上、どうしても構築的なものであり、構成(主義)的にならざるをえない。それで十分なのである…。]

Dの言うとおり、生(欲望)は、権力保持者・特権的な人間だけのものではなく人間すべてのものであるから、誰にも代弁されることなく全ての人間において個別になされ、そのおのおの自律した歴史を繰り返されなければならない。と同時にそういうひとつの同じ構造において、通底させられている;閉じられることのない理解可能性。ドゥルーズ=スピノザの言う、「外」と「間」という関係の成り立ち。

p152 子供においてさえ、諸々の作動配列からなる諸々の政治しかない。あらゆるものは政治的である。プログラム(ダイアグラムや平面)しかなく、記憶や幻想さえもない。生成とブロック(幼少期・女性・動物性への。生成への現働的ブロック)しかない。…相互に交叉・結合・妨害し合う様々な線によって、内在平面の上でしかじかの作動配列を構成する様々な線によってつくられる…その内在平面は、当の平面を合成するそれらの作動配列に先立って、その平面を描くそれらの抽象線に先立って存在するのではない。私たちはつねに、その平面の内在性を示すために、それを<自然>平面と呼ぶことができるが、自然-人為という区別がここで関与している訳ではまったくない。その一方が他方に比し自然的である、といった幾つかのレヴェルを共存させる欲望が存するというわけではない。自然こそ内在平面のすべての人為を用いて構築されなければならない当のものである。

p155 欲望-快楽-欠如の間のこうした既成の同盟を断ち切るために、私たちは多くの曖昧さをもった、突飛な人為性を通過せざるを得ないのだ。…欲望の作動配列の日付を書き込むこと、それは歴史をつくることではない。それは歴史に表現と内容の座標軸を、諸々の生成という不定法・冠詞・此性を、与えることである(※あるいは、歴史をつくるとは、そうしたことなのか)。

[※ →然り]

 

つまり、Dが、自然-自発性の有効的に働こうとする観念を避けようとして、自然と人為とがいかに区別し難いかを語るほど、つまり自然がいかに人為的であるかを語るほど、われわれを動かす力がわれわれの歩みとともに<構築的>であること(構築されなければならないものであるか)を語っているのが興味深い。(p149〜150前後,ことにp152)

この問題を、こうも言い換えることが出来るだろう。

理性的なもの<とされているもの>の陥穽指摘と理性全否定とを区別しなければならない。旧来でいう、二元論的な思考法、物自体を見出し得たと錯覚する等の性癖を持つ知と、より統覚的で広義な意味での理知性(以てこれを自発性、真の意味での弁証法、Dの言うところの「構造的・発生的」「構築されなければならないもの」であり「構成主義的である処の欲望 p150」と捉え直したい)とを区別しなければならない。

これはデリダに関しても当てはまる気がするが、知的なもの・解釈(学)から、すなわち世界や意味を知ろうとすることから距離を取ろうとすることと、弁証法から、または構築的で自発的なもの・歴史(時間的なもの)の勢成・シニフィアン(orという言葉)から<距離を取ろうとするのは何故か>、をやはり考えさせられざるを得ない。彼らが捉えているのは殆ど意図的にといっていい程、形骸化したほうの知・我々の現実の知より非常に矮小化された知の形態であって、本来的知のほうでない。近代知性批判はいいしその弊害を考えるともっともな話でもあるのだが、マイノリティの側に要求する知の質に神経質になるあまり、つねにすでにあるマジョリティ、権力装置+大衆のカップルの狡猾さ、知を放棄した者を立ちどころに餌食にする社会的存在と、彼らの本能に対する警戒を怠らないで欲しい、繰り返すが敵をきちんと見定めて欲しいというのが正直なところである。そうでさえあれば、本来の意味に於ける弁証法的思考、構築的で自発的なもの・歴史(時間的なもの)の勢成をなおざりにはできないはずであり、他の思想潮流との同盟関係・協力関係の強化へと、そのスタンスも移行するはずである。知の質に対する精鋭さが、言葉狩り・結果論的に出来上がった観念・言葉遣い・知のカラクリに対する過剰反応に陥り、以て結局、事の優先順位と条件法を忘れた思考の陥穽?にはまることになるのを、まずもって避けた方がいいのでは?という動機から、この感想を書いた。

 

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生の根源:無・空・滅と、理知性(の介在余地)を巡って。その際の自我の位置づけ

メモ。http://bit.ly/dxqcL9
(参考文献。偶然見つけた非常に有意義な上記Blog記事をきっかけに、以下、二・三日つらつら考えたことです。どうもありがとうございました)

これは、シューベルト――郵便的/事事無碍に限りなく近い表現のスタンス――とシューマン――本来的意味における(と私は捉えている)解釈学的/理事無碍に限りなく近い表現のスタンス――の関係と距離について考え続けているためでもある。

 

上記Blogから引用

[西谷啓治の『宗教と無』はジャン・ポール・サルトルの『存在と無』批判であったという。西谷/ブライソンによれば、サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果しているという。西谷/ブライソンがここで持ち出すのがいわずもがな「空」であり、「無」であり、そして「場」の論理である。「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定としてある。西谷の二重否定はもともとヘーゲルからきているが、禅的な「非ず非ず」の論理とも言える。=以上、引用]

 

こういった事を巡ってのつらつら。

 

まず[サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果]、この点は解る気がする。

たとえば西田幾多郎は後期以前では、(現象学が意識を対象化して見る主体を自我に置くのに対し)知の主体は自我をどこまでも主体方向に超えてゆくと捉え、「於いてある場所」の窮極は超越的述語面(見る私を超えてこれを包むもので「私」はその働きをセルフのうちに映す)という形だったようだが――もちろん後期は自<覚>の成り立つ地平=場の構造として把捉――、現象学(この場合フッサル?)と同様、サルトルも知=意識対象化の主体をセルフにくるまれない直かな自我の地平に置いている、ということへの批判と捉えてよいのかと思うし、たしかにそれだと主体を強化するにすぎなくなる、そうなりやすいと、実際思う。

 

ただ、以下の点、[「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定…]に関して、こうした西谷/ブライソンによる理解仕様には、疑問が残る。禅的な立場からはやはりつねにそう捉えるだろうが、いつもそれ「しか」ありえない・ゆるされないのだろうか?(とくに空じられた後、覚の後。すなわち 覚の覚 における問題)

場の論理だと直接的生に還帰した主体は空じられ(=あえて仏教用語でいえば事事無碍)、リアライズされる際、極(いわば「脱中心化」の極限)となるゆえ、知 とくに反省 は生じないのだろうが、人間はそこ(直接的生の体験、また体験をした極)から、この超-個矛盾的同一の、把捉とある種の伝達願望を半ば織り交ぜた表現を発する際(=理事無碍へ。)、その体験したリアライズ=覚→覚の覚について、理知でその出来事とその事-事の関係性とを捉えるにあたり、極としてのセルフ、その中にくるまれる舵取り役としての自我という構造のもとに在るまま表現しうる(成功することがある)ので、その場合には、その関係性を踏み外さなければ主体を強化してしまうということはない、という把捉が成り立ちうるのではないのだろうか? (認知が複雑になる為主体がかさばることはあっても、それは所謂<自我が強まる>という*罪の意味とは少し別の観点から扱いうる地平および浄化的魂の性質がありうるという問題である。)

 

と、その際、そのまっとうな!?自我、本来的位置づけに還帰しえた自我にしてみても、リアライズの出来事を理知で感知=把捉し、「語る」際、やはり〈象徴形式としての〉遠近法、他者との距離把捉を使う必要の生じる局面があるのではないか? つねに<これ=象徴としての遠近法、を使っているか否か>という観点のみを以て、その自我を、またその自己-自我があつかう理知を、(空滅の不十全として、無碍の働きと「力」の場としての不徹底として、またありうべからざる主体の状態として)ただちに罰するべき、なのだろうか?それとも(もしそうだとすると)理知を以て表現すること自体を一切無効としなければならないのだろうか――表現のスタイルとしても?――とすると、表現として唯一認められるべきは、or成立可能なのは、やはり隠喩的方法しかないと、、、? (またしても 郵便的、の時と同じ結論になってしまうのか?)

 

すると上( http://bit.ly/dxqcL9 )文献上部でいわれている「審級」(意味作用の可動的モザイク、動的テッセラであるところのネットワーク=文化的構築物=了解可能性)を組み入れた表現のうち、その伝達・啓蒙性により重きを置いた分野や性質のもの――教育・(一部の)芸術・哲学――などの問題は一体どうなるのか。。

 

つまり私が思っているのは、(ブライソン/西谷的思考によって)サルトルが不十分だと言われなければならないのは、「〈象徴形式としての〉遠近法」を<用いていること>、に由るのではなく、その用いる<当体>、自我の在りようの問題、つまり極としてのセルフに包まれた舵取り役の自我でなく、極化/脱中心化し切れていないままの自我であること、セルフによって包摂されていない自我の(残っている)ままであること、そのものに由ってでなければならないのではないだろうか?、ということである。

 

自我が本来の在るべき座に戻っているという<条件付き>で、無→リアライズされた「後の」働き方としての理と知を、その質によってはもう一度復権させる必要を考えている(多分そのような時代がじき到来するはずと思う。ポストモダニズム以降、カントやデカルト、ライプニッツの捉え直しなどなされる流れもあるらしい今日であるだけに、己が寡聞なだけでひょっとするともう到来しているのかも知れないが)私としては――いつもこの点がネックになってしまうのだが――メタファの価値の尊重とともに、**(存在論的限定条件付きの)自己-自我に於ける理知の評価しなおし・捉え直しという面も、きちんと考える必要のある観点であることが世の中でもっと主張されるべきであり、そういう時期に来ていると思っている。

 

マーカー部分、*および**について

 

ちなみに、このことにも関わるであろうTwitterでの茂木健一郎さんのツイート(2010/09/16)を二つ程紹介列挙しておきたい。

 

  1. 無記(11)諦念と慈愛を絵に描いたような老父の中に、冷たい刃のような気持ちが隠れている。人間というものは、複雑で、重層的である。見えるものが全てではない。しかし一方で、すべてを外に顕す必要もない。
  2. 無記(12)フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。小津安二郎はそのことをわかっていた。

 

私はこうした位相に関する理知性の作用はまさにシューマン的 理事無碍(もしくはベートーヴェン的といってもいい。音楽的に言えば内声部の充実・思考の錯綜-重層化ないし、時に省略)の非凡さにも関係する事柄だと思っている。つまりここにまさしく<人格>-自我の問題、(無意識→潜在意識→意識への)「審級」のクオリティの問題が関わると思っているのである。

キリスト教においてイエスは、「右手にしていることを左手に教えるな」(自意識の問題・意識の直接性と純粋度の問題)と説いている。たしかに非常に鋭く、また尊いリアリティを突いている(この考えはおそらく禅にも通じる)。実際、この直接性と匿名性の世界にのみ現出可能な、まぎれもない価値を持つ表現というものがたしかにある。また右手のしていることを左手に教えることによって傲慢=主体の強化につながり、またこれにより同時に失うものもたしかにある。

そのことを、見込んだ上であえて言うのだが、それは多角-多元的な問題のうちの核心的な一面ではあるが――宗教にはしばしばこのうち「傲慢・不純・失うもの」をばかり、ともすると強調しすぎるきらいがある――その他の側面、つまりこの窮極の深い位相に於いてすら、ともすると関わってきてしまうことのある他者連関。この問題にも一考を要すべきではないだろうか。つまりここで人格・精神の尊厳として表出すべきリアリティとすべきでないリアリティを峻別しようとする、理知性の作用の問題である。その最も浄化された形は、直接性と匿名性、すなわち融通無碍を殆ど浸蝕しない(かにみえる)性質のものとなるであろう。日常的な会話等ではその理知による瞬時の判断が、芸術表現のレベルでは熟達した判断が、それぞれ要求されるということになると思われる(その表現者の資質と感性との協力関係により、殆ど無意識レベルのままなされるか(事事無碍)、潜在意識や意識レベルでなされるか(理事無碍)の違いはあれ)。

 

そうした、直接的生の「覚」と表現とに伴う理知性の「質」について、もっと宗教も、出来ればもう少し、教育や芸術、哲学などと共に(無粋だとはいわずに…)考え対話してほしいと、思っている。

というのも、<直接性>の生命力に根ざしている場合、そのアクロバティクな凄絶さに他者を巻き込む、もしくは悪酔いさせる種類の生のリアリティ表出が――つまり共生感覚を ともすると欠いたままの表現・自己表出が――あり得ないわけではないからである。(虚無・ニヒリズム・エゴイズムを克服し切れていない直接性の場合。この際、そこへの理知性の介在なり存在を全否定すると、その生のリアリティを共生可能性の方向へと修正し難い面が生じてくる)

尤も、ニヒリズムや絶望の表現に関しては、むしろその吐露、社会への告発そのものこそを表現目的・問題提起とする場合は別であり、それ自身の質が高ければ「表現の力量」「スタイル」として<全面的に認められるべき>であるし、その営為により自己救済されるべきでもあるが、そのアトモスフェールが人間社会の「倫理」と「時代的気分」をも担う――ニィチェがあまりに強力に支配したように――べきであるかどうかは、慎重に考えなければならないと思う昨今である。

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存在論的、郵便的について-2(音楽論を兼ねる)

このBlog記事総てがその予定ですが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

「存在論的、郵便的」(東浩紀氏:著)を読んでいて時折ふと想い出す子供の頃よくやったゲームがある。

伝言ゲームだ。その例。

(アリスから。L・キャロル/訳:脇明子)「玉座の前には、鎖につながれたジャックが、両側を兵隊にはさまれて立っていました。王さまのそばには白うさぎがいましたが、その片手にはトランペット、もう一方の手には羊皮紙の巻物がにぎられていました。」

かりにこのような伝言を題目とすると、出題者からこの文章を耳に囁かれ、参加者の最初の人間から順繰りに囁きづたいでアンカーまで、まったく一言も間違い無しに送り届けられると正解、というゲームだ。この題目に、少しでも主観を交えて、「ジャック」を「ジョーカー」と伝えたり、「白うさぎ」を「三月うさぎ」としたり、「もう一方の手には…ええっと、何の巻物だっけ。」などと言い淀んだりしてはいけないのである。とにかく囁かれた通りに間違い無く伝え切ること。これを想い出す。

このゲームに於いては意識=自我をいわば空じて、判断や解釈・批判・選択なしに、もっといえば理解すら介在無しで、語り継ぐことだけが尊重されなければならない。つまり「(存在論的、郵便的p317)あらゆる意識的注意を排したその純粋な聴取状態」を持続させなければならないわけで、フロイトの言う『平等に漂う注意』(※精神分析治療中の医師が留意すること、専ら患者の話を聞くことすなわち精神分析医の無意識が自分に語られる患者の無意識の派生物から患者の諸々の思いつきを決定している無意識を再構成すること、をなすための処方箋、としての)を持続しなければならない。これを要求されることに於いて、郵便的方法・態度と伝言ゲームとは酷似していると思われるのだ。

さてここで重要なのは、どの伝達者(ゲーム参加者)の意識によっても「シニフィアンとして同定されず、直接に他方のエクリチュールと呼応しあう可能性(p318)」があるとされる点である。すなわち無意識同士の直接の連繋(転移)、もしくはエクリチュールそのもののじかな分有・交換、「中継可能性(同p319)=郵便空間の開け」ということである。各伝達者の固有のシニフィアン(たとえばアリスを知っていれば、白ウサギより三月ウサギのほうが印象的であるとか、裁判というものを知っていれば、玉座でなく被告席ではないのか?等といった意識の潜勢)が何らか働くはずであるが、それを無効化し、伝達内容に流れ込まないように留意するわけである。もしかりに、出題される伝言内容がある程度、またはかなりの程度、パフォーマティヴな、意味ありげの挑発的内容であっても、私たち伝達者はそれがコンスタティヴかパフォーマティヴかの判断手前なまま、伝言していかなければならない、という訳だ。

しかし同書では同時に、フロイトの仕事に関し、これのみすなわち郵便的処理・無意識の配達(運び)のみではなく、それ以上のことも行ったことを述べている、すなわち症例を「学問的な出版の対象」にする場合には、「補助手段すなわち媒介を必要とした」、とも言っているのだ。つまり「無意識的なものを意識=知(wissen)の統御下に置くことを試み(p317)」たと。

何故こんな事を気にとめるかというと、「存在論的、郵便的」を読んでここにて力説されていることを少しずつ理解するにつれ、ますますわからなくなる点があるからである。それはつまり、
理解・解釈をすることなく手つかずのまま運ぶ、ことの「社会的」応用、また他との連携である。われわれは現実の存在として殆どつねに「状況づけられて」いる――たとえば選挙でよりよい共同体形成をしてくれそうな政党に投票しなければならないが、その際こころの中で思い描く通りの政党が現実には存在していない。がよりましだと判断される党に一票投じなければならない、その際どんな点を最優先に考えまたどんな点を危険視しておくべきかの判断をどうするか、など。或いは、ある女性から結婚を迫られているが結婚より優先すべき仕事や経済状態の問題などがあり出来ない、どう説得したらこれまで育んできた愛情にもて納得してもらえると考えるかとか。或いはまた自分はナチにより特権的に自由を許されている楽団員であるが、他の楽団員に積極的な勧誘を押しすすめたり密告などを行っているナチ党員でもある楽団員と、どのように接していくことが、奏でる音楽に恥じない人間的行為となりうるか自問する、等々etcetc..――が、こうした場合、それぞれ“郵便的”な態度で臨むことによって、社会的存在として、ときに政治的存在として、この自己が自己に対し他者に対し社会に対し世界に対し、(との間で、でもよいが)「具体的にどうする」ことができるのか。どういう態度を現実的にはとることになるのか。がよくわからない点だ。郵便的、は「状況づけられた」存在としてある私たちにどう振る舞えるようにしてくれるのか。

状況づけられている、とは何か。まったき自由、まったき主体性、まったき手つかずにして混じり気ない行為、などが立場上予め奪われている、ということである。覆しがたい社会的地位・共同体の中で与えられる選択肢が限られている、先行きの政局・社会的経済的動きが読みがたい、等から、まったき○○に触れることが許されていない・視界が100%明かされていない、ということである。その条件のなかから精一杯の態度と行為を示さなければならない、というとき、郵便的の持つ「判断・決断・批判・理解(自我の作用:世界の再構成)の介在なしに行為するということが可能なのだろうか。臨床医フロイトでさえ、上述のように、それまでの積み重ねを再構成する(=学的対象にする)場合には、補助手段すなわち媒介を必要とした、つまり無意識的なものを意識=知(wissen)の統御下に置くこと、を要した訳である。するとやはり、エクリチュールそのものに直に出会い、エクリチュールの他者性とじかに交換することを積み重ねても、それらの貴重な経験を状況づけられた我の社会的行為・人生への意味ある行為へと再編し参与して行く際には、自我のより適確な判断を要求せざるを得ないのである。であれば郵便的態度は、その注意深さにより自身の純粋度・厳密度を脅かしから逸らすよう努力させられながらも、これまたより洗練された解釈学的施行(決行)を待たなければならない、そしてよりよい連携プレーを希求されざるを得ないということになりはしないだろうか。するとよりよい連携とは何か、ということになり、そのための軸・座標を提示されなければならない。その際、郵便的態度は、状況づけられている意識=自我の、実り多い判断の為に、まさしく状況づけられた生活・人生の一刻一刻に於いてどう担保・応用されるべきであり、逆にまた意識=自我による理解・解釈は、どう郵便的に蓄積された財産を再編することが求められるのだろうか。

まず郵便的態度の日常への応用であるが、日常が状況づけられているとはいえ、状況づけられている条件を、われわれが予め意識の上で押殺しているのであってはならない。むしろこれを――われわれは逐一精神分析を受けるわけにも行かないので、自分自身の分身を精神分析家に置き換えるか、身の回りの他者に謂わばこの役割を委ねるかを以て、予めわれわれを押殺しているものを――越える。そのためにも、一体今自分(達)は“何によって状況づけられているのかを、社会・共同体を「(露わにされない仕組みごと)理解」することで知り”、――仮に想像的次元のみででも――自分の立場を相対化;準-外在化しておくべきである。このことによって今の自分を状況づけてしまっているものは何か、その正体、できるかぎりでの全容とそのシステムを、把握しなおすべきである。私たちはむしろ見えないものによってこそ条件づけられ・状況づけられている、ということが、郵便的態度によって学ぶべき点なのであってみればこそ、その(あったかもしれない)みえないものをみえるようにするのがわれわれにとってより求められる哲学性であるである。

次に、では解釈学もしくは現象学自身によって、この郵便的態度(の意図するもの)を学習・吸収することができないかの問題が残る(このことに成功した場合、解釈学もしくは現象学そのものの本来的質を向上させることにつながるのかも知れない)。この本(デリダ-東氏)によると、現象学や解釈学的多義性は、郵便的とは相いれない立場であるとして、もしくは過去の不本意な思考的態度であり乗り越えられるべき対象として、理論づけられているように読める(幾つかデリダによって、散種との差異を以てダメだしされている所の例を以下に挙げる)。

――デリダが散種についてこだわっていること――

 

  1. 散種の観念は実体化できない(p22、ハーバーマスのいうデリダ批判に存する誤解、ユダヤ神秘主義へのなぞらえと、実体化した把握への反論)
  2. 散種は決して記号の強固な(コンテクストを超えた)同一性を保証するものではなく、その同一性を脅かす契機としてのみ機能する(p22)
  3. (記号の多義性は、その「背後」あるいは「深層」が与えるとイメージすることができるが、)散種は、任意のコンテクストからの切断可能性=引用可能性から与えられる。したがってそれは定義上、記号を含む背後や深層によっては保証されない。(散種の効果は、)ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動することにより、つねに事後的に見いだされる(というふうに知られる)。エクリチュールの単数性こそが記号に宿る散種的複数性に対し論理的に先行している(ので、まず最初に散種の舞台があり、ついでそれが転倒されて記号の単数性が生じたという線形的な/物象化論的な順序を考えることはできない)。(p23-24)
  4. 構造主義的意識またはコンテクストをはじめにすえる多義性の思考では、まず最初にコンテクストあるいは「構造」があり、それがひとつの記号(エクリチュール)の多義性を重層的に規定している。つまりこの思考のもとでは必然的に、多義性の探究は時間的な遡行、かつてあった豊かさ(過去)への回帰としてイメージされる。そのイメージはさらに裏返され、多義性が完全に明らかになるある未来の時点が、それがいくら遠かろうとも理念的に想定されることになる。過去-現在-未来は多義性の思考においては一直線に配置され(※そればかりではなくもっと柔軟で可変的で錯綜した多義性の思考もあるはずだとは思うが、非常に高度にダイナミックな思考力を要求されることではある←Rei注)、さらに過去と未来は繋がれて円環をなす[=デリダが捉える弁証法*拠:ヘーゲル]が、散種の思考の時間性はこれとは別で、散種ははじめにあったものではなく、エクリチュールから事後的に見いだされたもの(である)。それはエクリチュールが移動したあとには遡行的に発見されるが、エクリチュールの移動の前には何ものでもない。(p24-25)

 

さてところで、たとえば(p19)「何の違いがある?What's the difference?」の解釈。これをとって考えてみよう。

素朴な質問文(コンスタティヴ)としての理解。もしくは意味の違いを見いだすことを促している(パフォーマティヴ1)、という理解か、逆に見いだすべきでない(禁止・抑圧、パフォーマティヴ2)と理解するかは、郵便的態度によって、エクリチュールにただひとつの乱暴なシニフィアンを挿入しない、を教訓とし、出来るだけ多くの意味を潜在的に担保させたまま非介入でいる(全ての意味理解への態度保留でいる)か、もしくは逆にあらゆる解釈を施し(可能な全てのシニフィアンを挿入してみることで全ての意味理解を試みるが過去→現在の曖昧さと現在→未来への猶予はとっておく。みずからも他者も代表的にどれかには属さ(せ)ないで猶予している。このふたつの態度、両方が可能である。この地平はイデオロギーの問題を越えた所に設置することが出来るはずである。

ただ、デリダ自身は散種の多義性化を嫌っている。言い換えれば、ある地点で解釈学的多義性と「合流」させられることを極力回避し、あくまで距離をとっている。(p26=従来あった多義性の抑圧でなくむしろ多義性の捏造;散種の多義性化のほうが問題であるとしている点)。

ただ、私としては郵便的態度が解釈学的多義性と連携することで――厳密には多義性(パロールの多様性)が散種;二重所属性(エクリチュールの多様性)の地点を記憶しておくこと・少なくとも再編可能性を認めることで――人間にとってよりよい実現に役立つこと、畢竟不透明な存在、状況づけられた存在でありふたたび状況に帰らざるをえない存在であるわれわれが、そのなかで精一杯より自由な選択を得るために「考えること」への哲学の貢献度をあげ、より上質にすることに貢献することのほうが、散種そのものの保障を以てして他の遡行を回避し知の再編への連携を阻むこと(あくまで他の潮流の方法との性質の違いを担保すること)よりはるかに重要と捉えたい。

実際、デリダの批判するこの部分、「(p26、H=G.ガダマーらへの批判)問題にすべきは、(多様性の抑圧以上に)もともとなかった多様性が事後的にあったかのように見なされてしまう現象=散種の多義性化〜形而上学的転倒は多様性を抑圧するのでなく、捏造する。〜その時彼らが出会っているのは、実は自らの鏡像、彼ら自身がテクストに投射した予期に過ぎない〜そこで出会うことになるのはつねに他者ではなく自分自身(予期)である」とある点だが、これに関しては、ヘーゲルの閉じられる弁証法などとは違い、(一様でひとつの解釈に決めつけられずに、またすべてが予め可視化・明証化されていた――たとえばあの当時のファシズムはいかにもファシズムの顔をしてやってきたかのような結果論的倒錯を含む――というにも等しい物象化的-逆行的認識にならずに、常にあの生まで不可視的な時間経過への再想像を担保しながらも、なおかつ危険や誤謬への陥穽を避けうる、最善を尽くす認識論的再編を以て開かれてさえあれば[※つまりだからこれには細心の注意が必要である])かならずしも罪ばかりある認識・一掃されるべき思想潮流とは思われない。

われわれ人間の認識――状況に帰るにあたり、潜在する多様なシニフィアンの解釈学的受肉作用を通して最終的には意識=自我に返さざるを得ない――が出会っているのは、デリダが言うように確かに「実は自らの鏡像、彼ら自身がテクストに投射した予期に過ぎない」(解釈学的循環としてデリダが解釈学を敬遠する論拠;対H=G・ガダマーp26)、のではあっても、それは一端はありうることとして享受し、その上で鏡像と他者リアリティとをたえず分岐更新させ、(未来に向かって=時間に即して)開かれた再編をする作業を強いることとする。この再編の成功可能性を予め否認しておくことは、結局その(自らの方法論の)厳密度・純粋度を保つために(人生や社会にとって)役立つ[=理解され解釈され人生へと再編される]ものに還元されないままでいることのほうを選びこれを欲している立場のように読める。

したがって、哲学にそこまでの宙に浮いた純粋度をばかり求めない(哲学のエクリチュールにおけるシニフィアンの抵触無さ・また認識様態に於ける転倒無さ、つまり哲学=態度による、哲学=態度のための、哲学=態度のままの宙づりをあえて第一義的に求めない)私にとっては、デリダのこだわる「散種と多義性の差別化」の問題に関しては、解釈学が自己の解釈をよりエクリチュールのじかな交換の地平に、非-選民的(これは同時にエゴイスティクでない、ということでもある)な方向性に、近づけるためになるのならよいが、逆に(よりよき)解釈学への応用を、散種そのものの処女性を担保するために、阻む、という意味であってみれば、残念であると、さしあたっては判断しておきたい。それはいわば、多様な人物や楽団により幾世紀にもわたって演奏されれば名曲として多くの人間に理解されそれぞれの人生の視点から共感されうるであろう楽曲が、演奏されない[=そのつど一定のシニフィアンによって方向付けされない]、その価値が社会に還元されないようなものである(ナチに逆利用される可能性も予め無いが、ひとびとに感動を与え、演奏の歴史を重ねるたび、ねがわくばそのメッセージの「より深い感動」へと昇華されていく、こともない)、と理解するから。(もちろん、これはけしてナチに利用されるべき音楽ではない、といった共理解・音楽家の真意への深い理解を得るべくよい演奏を重ねることが必要だが。またそういうメッセージにあふれた音楽をこそ奏でることが求められるが。)

否!郵便的とは、演奏されないことではけしてない。「占有もなく転倒もない演奏をされる」ということである、と反論されるかもしれない(伝言ゲームのように、理解されないままor(極力)感情移入されないまま、ひたすら演奏される演奏)。と今度は、こういう問いが生じる。

人間は、あるものには関心を向けず、あるものには向ける、という志向性を帯びている(状況づけられている)。精神分析でさえ、(治療のために有効な)何かには着目する――患者自身か、分析家かはよく知らないが――訳である。すると、私たちが通常世界の中にあまたある言葉や行為、また作品のうちのあるものには関心を寄せないのに、別のある言葉や行為、作品には関心が向く(自発性の秩序の根拠)、というのは何が決定していることなのか。そのシニフィアンの正体とはなにか。自発性の秩序の根拠には、ある幽かな調和が――予定調和とはあえて言わないまでも――前提となるはずである。そしてこれらの関係は阿吽の呼吸であり壊れやすいが、自発性の秩序のさなかにその前提となる輪郭の曖昧な調和を、つまり正体を、確認することは全く不可能ではない。し、確認してもその意味の純粋性と効果は変わらない、(認識論的「転倒」が起こりうる可変的位相に身を置いて振り返るのであるからその時点において質は変わるが)といったことがあり得る、というのが私見である

もし、シニフィアンの正体,といったものさえ無いのだと言うとなると、意味が有るのか無いのかもわからない、どう関係するのかしないのかもわからない無数のエクリチュール、否エクリチュールにすらならぬコンテクストの断片だらけの世界が、ただわれわれの周りに漂っている、といった具合になってしまう。――(エクリチュールの、コンテクストからの)引用(=切断)可能性、とデリダ自身もいうが、どこかから○○を引用しようとする意識の志向性、引用を志向するものとしてのシニフィアンを、理解しようとせぬまま行為をなすことのすでに手前で、郵便的でない態度、意識の志向性によって脅かされている状態、に染まっていないとは言えぬ事にならないのだろうか(郵便的態度「=」自我的思考の陥穽に填らない、という保障的図式にはならぬこと、これはある意味でデリダ自身が積極的に認めてもけしておかしくはない点だと私には思えるが)。また、そうだとすると、そうした手つかずさ;理解せぬまま書くこと(=シューベルト的――これは共感・同感しない、という意味とはおよそ違う。むしろその懐の深さを以てこそ可能な、フロイト-デリダ云うところの「平等に漂う注意」である)と、[限定されない]意味を(〖理解〗)しながら書くこと(=シューマン的*)との間に、それほどの担保されるべき決定的<価値>の(繰り返すが認識論的<質>の、ではない)乖離があるのだろうか(※その際、もっとも力点を置きたいのは、「精神分析の臨床という舞台」以外から判断されるべき視点・世界はまる切りないのか、理念はその舞台にだけ存するのか。という点だ)

*…シューマンというひとの音楽は、意識と無意識の間、潜在意識の高度に発達したひとの音楽であると言っていい。彼の内声部の錯綜はここにひとつの鍵がある。彼にとっての意味の経験とともに、その経験が二重化される――リアリティと、準リアリティ――そこを語っているし、その場から語っているのだ。
ところでその際、準リアリティ(潜在的リアリティ)とは何故生じるのだろうか。それはひとつには、“ 想像と現実というものは、それ自身、もとより境界がじつに曖昧 ”なものであり、また時間的にも倒錯的(継起的→転倒的→再-継起的)・可変的である為で、したがってその処理が錯綜する為である(暗示性を生き生きと担保した解釈の多義性余地)。シューマンとは夢想のひととばかり思われる節があるが(たしかにそういう面もあるが。ただしその想像力というものの質が問題である。彼の場合それは往々にして誠実さであった)、同時にリアリティの尊重・他者(性)の尊重意識の強い性質でもあった。他者=自分と対峙する側面をもつもの=完全に同化しえないもの=「差異」のリアリティを尊重し、これを外部に保持する意識、独善的解釈を回避しようとする意識の強い人間でもあったように思う(=彼の批評精神)。ところが感受性=共感力と想像力の豊かさ(同化への憧憬;飛翔と焦燥)、またそれらの振り幅のすごさが、(或面ではそれを助けもするが、同時に)それを阻害する要素ともなり、想像(思いやり・誠実からの、また知性からの想像)世界と、ほんとうの現実(!?)の境界で格闘し錯綜することになる。そのうち、他者性の息吹――曖昧さを含めた素朴で時間経過的な息吹(=意味世界)――そのものを喪失し、窒息・停滞させ、破綻しがちになる、という、非常に精神的労苦の多い作業を伴う魂の質なのである。これはシューマン論であるが、したがって哲学的な意味と位相に還元すれば、「真に良心的な」解釈学的作業とは、たしかに他者(他文化;差異と同一性の交錯)への想像力をゆたかにしそれを誠実に行おうとする程危険も伴う作業であると、たしかにいえる。その遂行のためには延々たる猶予性に耐久する合理的精神の完遂が必要とされる。この点で、解釈学は、最先端で良質の現象学研究に裏付けられるとよいのではないかと思う

それとまた、上記以上に大きい問題として、後者(己のシニフィアンを「理解」しつつ世界に臨む態度)のがわは**全面的に誤謬であり、意識のありようとして存在する意味がまったく無いものであって、逆にともすると前者が陥るかも知れぬ危険を補完するという効能も、まる切りありえないのだろうか?

**…この認識の前提には、(認識論的)「転倒」<がために>、解釈学的誤謬が犯されるのだ、というデリダの認識がある。が、(認識論的転倒自体は事実、起こるとして)、ほんとうに<それ=転倒が>、解釈学的<誤謬の根拠>なのだろうか、原因はむしろ<他所に>なかったのかということは問われなければならないだろう。
したがってこの場合の他所とは、解釈学的態度にとっても郵便的態度にとってももっとその枠の外、ということがありうるのかまでを考える、ということである。

また認識論的「転倒」と(解釈学的)誤謬の因果関係を認める場合、今のところの私見では、これを問題にするとすれば純粋に認識論の位相それ自身の問題というよりむしろ、上記のシューマンについての枠内でも述べたように、誠実な批判精神による、パラドキシカルな認識論上の他者性(他者の現実性)についての病と、(左と同じことでもあるが)時間性の錯綜の病と化しうる点にある、と思う。とはいえ、それだからといって(その内包する危険性ゆえに)解釈学的認識論・方法論は<一掃されるべき>なのだろうか。それは成功すれば他者性の自覚化;意識=自我の成長;人格の形成という啓蒙作用の、じつに大きなものである。この成功の鍵は、ひとえに保証のない不安に耐え、また、未来とはほんらい(自己自身の努力によって)埋まらない虚穴であること・つねに(状況・歴史・時間の可変性に伴い)裏切られうること、これをむしろ当然の前提とさえし、焦燥感のない、あくなき探究、を持することだ。じっくりと、時間をかける勤勉を以て自・他文化の息づかいを担保――たんに自・他文化を引き離すのでなく――するということ。(バッハ的合理性。しかもそれはベートーヴェン的な意味で状況に対する明敏さ・受動性の引受けと能動的再編というタフな様態を帯びるかも知れない)

この問題に関して思いつくのは、ひとつには芸術の分野であるが、少なくとも芸術作品や芸術家に於いては両者のパターンがあるようにみえるし、芸術の中で分けても暗示性の強い音楽の分野でさえ、その混在の妙こそが、むしろ絶妙なその共犯関係こそが、すばらしい作品も多い。逆に絵画など対象性のつよい分野でも、無意識への働きかけ・暗示性にすぐれた作品などもあり、もともと「表現」という座標においては、両者の線引きがじつに困難である場合が多い。(むしろ両者の臨界を侵犯するものこそが表現行為であると言えるかも知れない。対象性のつよい表現媒体か、隠喩性の強い表現媒体か、という問題もあるが、同時にその特質の乗り越えという不可思議な様相もまたある。)この分野では、その芸術作品・芸術家の質によっては意識世界が無意識世界を補っていることで生じる価値も多いし、無意識世界の純度は、意識化によってその純度を下げられる、ということは生じない、という事象がありうるし、それこそが芸術家の腕=良心の見せ所である。

もうひとつ、たとえば「教育」という座標においては、丸暗記型の詰め込み式でない質のよいそれの実践のためには後者;(己が無意識に即している立場や法則への)「自覚化」(意識世界への再編)の作業を促す立場が尊重されざるを得ないとも考える。もちろん、無意識の世界をもっと尊重すべき面も教育の中にはあり、たとえばIQなどの測定も、もっと無意識世界にも光を当てたほうがよいのでは、と思う立場に私個人としては居るが。したがってこの分野でも両方の手腕が必要なのであることを痛感する。がいずれにしても両者の連携プレーが必須な分野であると考える。

 

さて他方、現象学についても少し考えると、(p46、フッサールのくだり)現象学が、みずからに宿っているその民族中心主義を、いわゆる文化相対主義――地上のあらゆる文化を平等に差異化・相対化しているようにみえて、実はこの中にヨーロッパという「民族中心主義そのものの乗り越え」を、入れていなかった。それにより、歴史至上主義(ヨーロッパの歴史の特権化)に陥った。別な観点から言えば、実際には存るヨーロッパの中のみえない他者(他文化)への視線を欠いていた(つまりは言い換えれば、他民族の文化の中のみえないヨーロッパ的なもの[への志向性]をも同時に無視した!これはこの場合のフッサールだけではなくレヴィ=ストロース構造主義にも当てはまると私は考えるが)――によってはけして乗り越えられなかった、という問題をとってみても、郵便的態度を吸収することで、みずからの学によって乗り越えることも可能であると見る。

デリダは、「(p27、多少意訳)解釈学者・研究者たちは、実際にはあるエクリチュール=表層だけを分有している。しかしその背後に何らかの多義性を見出そうとしたとき(転倒)、彼らは解釈学的循環を通じ、そのエクリチュールの意味=深層を共有する共同体へと組織されることになるだろう。『そして他者は消える。』」と断定するが、消さない態度―共同体が閉じられない態度―というのが解釈学や現象学に於いてもありうるのではないだろうか(繰り返すが非常に高度なダイナミズムを伴う懐の深い思考が要求される)。逆に言うと先述したように郵便的態度のがわにも(「つねにすでに」その地平が意識=自我のシニフィアンによってたえず脅かされているとみる限り、或いはまた条件法的位相の挿入をもし過てば、また郵便的態度が理想の前提にしている分野を狭く捉えすぎれば)閉じられる態度がありえない、という保障もない。

解釈学や現象学が、(郵便的態度から学び)よりよいものとなるためには「予期(自分自身・他者)」を多元化・可変化する努力、ひとつ選んだことにより逆に失われていくもの・(今形勢しつつあるものから)洩れていく別のものたち=すでにその手前にあったであろう他の分身たち、を追うことを忘れず・そのもといに還ることをあきらめず、できるかぎり(既成概念や、今追い・今属しているシニフィアンから=状況から、)空じられることに応じ、同時にたえず(未来に向かって)開かれているべきである、と教訓を得られると理解できる。

郵便的態度から学ぶべきは、たとえば「何の違いがある?(What's the difference?)」で、かりに実際にはパフォーマティヴなコンテクストであろうと、むしろコンスタティヴに読むことを以て乗り越える、(ユーモア;相手のパフォーマティヴの勢力を逆手にとる形で、天然ボケもしくは疑似天然ボケの態度で状況の乗り越えを果たす)ことなどが可能である。つまり[事実・実態、また相手の意図など真相はどうであろうと]あえてコンスタティヴ・パフォーマティヴかは理解保留とする空相の次元にまで遡ることである。パフォーマティヴな潜勢に対しパフォーマティヴに応酬する、という必要はないわけであるから。*これは、ある意味でロベルト・シューマン的な意味に於ける(狂気にも通じうる危うさと繊細さを伴う)フモール理解ともなるであろう。かれのたえず転調可能性を孕んだ音楽とフモールは、ひとつの粗暴な、もしく安易なシニフィアンに彼のエクリチュールを限定させない事によってこそ生ずる。この多義性へと開かれた態度の有効さは、健全なる非常な忍耐力をともなって現象学や解釈学にも応用されるべきである。(*付記20110901)

つまり総じて郵便的とは、何かに相対する思想的潮流だというよりは、むしろひとつの空じられた態度なのであって、――そもそも現象学も、もとはといえばそうした態度のはずであるが――その態度不履行・遡行可能性の不十全が起こした結果が諸々あると。このこと(エポケーを完全に成就しえなかった教訓)は、では郵便的学「派」が、その「(社会的・政治的位相での)実践において」郵便的態度(運び)を不十分にしか行いえないこともありうるのを、示唆しているとはいえないのだろうか。

あるいはまたこうも言っておこう。この点の厳密度を何より優先するあまりの、別なものへの陥穽、たとえば無意識至上主義(この思想・思想的態度がより大衆化した次元において引き起こされ易いと危惧される点の一つ)=無意識の世界の純粋度を意識の介入や転倒によって阻害されることのないよう、との注意が、結局われわれの無意識世界を解放したまま生きる――たとえばその原初たる性欲を全面的に解放するとか、まま解放した表現を(より優越的に)文化として推奨する:お墨付きを与える――という流れを誘発していく、など。そのことのほうにより注意を向けるべきとも、捉えたい(状況論的位相)。

郵便的か解釈学的態度か現象学的態度か、ということへのこだわりよりもっと尊重されるべき事。それは、より開かれた共同体利益へと思想が還元されること、非-選民的=脱エゴイスティクな基軸(orその方向へと向かうこと)を、思想間で共有しようとし、この姿勢を確認することの重要性、そのものではなかろうか。

意識とは違う「無意識独特のシステム」を、理解し、意味の世界にわかるように組み替えるのは、意識である(意識化)。その意識化・自覚化・相対化(外へ出ること)によってひとはある意味で救済されていく。これは上記のようにフロイト自身がやってきたことでもあるのであって(=編纂)、彼は意味の保留・運びだけをして来た訳ではない。繰り返すが患者に対する臨床適応はそうだったとしても、その問題を理解しようとしてやはり意味とそれを取り巻くシステムへと遡行し、研究成果としてきたのである。臨床の再編・解釈が要求されたのである。解釈学、また現象学は、どう郵便的に蓄積されうる財産を実人生へと再編することが求められるのか、その基軸を示すことが同時に言及・要求されてくる。

無意識と意識(自覚的自我)のより良質な的を得た(実りある)連携プレーが人間としても時代の要請としても求められる。無意識の示唆する処をどうよりよく・行方不明の少ない実りあるものに再編=意味理解しうるか。その再編の基軸を、“思想潮流を超えて”問い、確立していくことの重要性を哲学者・思想家たちには求めたい。 無意識の語る処を意識へ返す、とき、エゴイスティックな再編(意味理解)から、次第に人格的再編へと進化する、という事実がある。=成長。この点、再度言うが教育の役割もやはり大きく、深く絡むであろう。「条件法的位相(p57)をどう挿入するか」、かつてあったかも知れない、また新しい・来るべき出来事のために。まさしくそのことが、思想潮流を超えて問われているのではないか。

より開かれた共同体のため、よりエゴイスティクでなく / 非-選民的、であらん というスタンスへの合意であってほしい。昨今の政治状況と同じく、この理念から超潮派で取り組んで欲しいものだ。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:22 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

存在論的、郵便的について(雑感・メモ書き)

考えたことの列挙。

郵便的。「性」性(欲動という言葉遣いに象徴されるように)への力点があまりにつよい―フロイトから学ぶ所がたしかに大きい故―が、より人格的フェーズでの表現を「も」要すると考える点(これはラカンにもいえるのだが)。そうでないと、とくに女性の性が、何か常にこびつつ怯えているのっぺらぼうな、あるいは一様な顔をもつものとして身振り手振りする存在にしかならない、というか自動的にさせられる。その域を出ない(出させてもらえない)、ような印象を受ける。欲動を情動的志向性のみでなく人格的志向性としても捉え直す必要を感じる(この思想が大衆化すればするほど、与えうる影響のことも考える)、別な言い方をすればファルスが禁止をうける、去勢されるのは、なぜそうされねばならないかをもっと学的-倫理的な位相で掘り下げてもらいたい。という点と、

偉大な哲学者はちょっと大きな郵便局、といわれる点について。哲学者は受け取った手紙を読まない(手紙を開けること、声化することひいては理解=聞くことをしない)で、その「思考」は断片化されたエクリチュールの群れを読むことが出来ないままに結合させ配達する諸機会の群れとして、言葉に宿る反復強迫(幽霊)に呼びかけられ成立する、という所で、たとえ言葉に宿る反復強迫に呼びかけられたそのシニフィアンのみによって(哲学者の行為が)動かされるとしても、その動かされる行為のなかに哲学者の自我が絡む(反響反映する)ことは全くあり得ないのか、がわからない点(多分それは結合・配達に選択-採用されなかったものたちが帯びる志向性の問題に、より絡むと思われる)と、他方それを思想として展開する際にも、その語りとして何かをなぞらえとして例示していく作業が必須だが、その際の選択・提示という作業に、ある種の責任が伴わないのか――別な言い方をすればなぞらえとして何を取り上げ何を取り上げないかの選択権(介在)の問題ともいえる――、また集められ方全体の「帯びる」志向性。集められたもの・選択されたものひとつびとつについては非常に適確だ、――たしかにそれはそうだと思う――といえるとしても。という問いがどうしても私自身に残る点から、この思想をそのままでは自分のバックボーンにできないかもしれない、注意深くしていくべきという結論が出そうだと言うこと。だがたくさんの暗示に満ちたメッセージがあった。(まだ、さらに時間がある時に丁寧に読み進め、場合によっては読み直してもいこう)

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もうひとつ。クラインの壺(否定神学の思考系)について。クラインの壺の底は、いつも大抵平らに記されている。がたしかに平らな側面を縫合作用(の一部)として持つが、じつはもう少し球体を帯びたものと理解されてもいいかもしれない。そして(これはもっと重要なことだが、)振幅運動にさらされている。何故といえばその底は他者性を含んだある働きかけ(汝なすべし)としての息を(穴・欠如を通して、縫合作用の準-外から)吹き込まれている(このため、閉じ<られ>ない)ゆえ、――さらにはその超越的働きかけのもといが実際の「社会」からの直接の要請となって二重に自己に働きかけるため、――振動するからだ。この、穴(欠損)への超越の息からの吹き込まれ、を語らないと、あの管のようなものの旋回のダイナミズム、つまり何故上昇し回り込むのかを、十分に語ることが出来ない。

ところでその蜘蛛の巣のように世界を編み、欠損――これは、生殖(性)的意味合いとともに、(それだけでなく!)、より知的で人格的なニュアンスと位相を欲する「基点=盲点」としての能動態である欠損、ここにも脳と、欠けた世界を再構成し対象化しようとする視覚的知的領野が、より充溢した意味合いとして含まれる――ゆえに、必然的に他者を欲しこれによって欠如を補う(存在論的にまた倫理的に、それが正しいか、また可能かどうかどうか別にして、補「おうとする」)。その欠如を補なわんとする形で編まれる編み物――それは通底するもの・横断するものとしてのデリダのいうエクリチュールやシニフィアンを、含むかも知れない。また、ある種の律法(汝なすべし、を、超越的働きかけとしてばかりではなく他者性・社会性として吸収し要請する律法)を、含む――を、編む底。社会・世界認識として球体をすら帯びるかも知れない底。その、縫合作用によって形作られる振幅運動する底は、もしかすると?横滑り(ズレ)を起こしうる(これはまだ判断保留だが。もしくはあらかじめ起こしている、また絶えず起こさせられ続ける、とも言うべきか)。そしてそのズレにともなう形でまたあの管の上昇旋回のダイナミズムを汝なすべしとして起こし自我に要求・ないし(超越的自己として自己=自我に)喚起することを繰り返す。??その際、管の旋回のダイナミズムは、主体=自我の待機する「裏側-外側」をまわり、下降して(超越からの促しとして)主体=自我を喚起する、という仕方である。その上昇旋回→下降の汝なすべしは、待機する主体=自我を覚(リアライズ)し、ときに(その中の日常的自我の部分を)滅する。がしかしこの主体=自我は、その降りてくる・もしくは後ろから促す超越的働きかけに、つねに「応じ」受け容れ、我欲すの主体能動性に転じる、というばかりでなく、拒否したり、判断留保し放置する場合がある。これは、(ひとつには?)ラカンのいう出会い損ない、と理解してもよいかも知れない(東氏の本によればハイデガー・フロイトも起らなかった出会い、というのを言っており、それとも理解できるかもしれない)。

何故拒否・保留しうるかというと、ひとつには、その主体=自我の「在りよう」によって、要請(すなわち不可能なもの)が(潜在意識的にはともかく)主体=自我に十分に聞こえない場合がある――粗暴またはアナーキー、アクロバティクな状態にいる際、何らかの形で確信的拒絶状態にいることがありうる、或いは状況に呑まれているか、総じて空じられにくい状態でいる時を含め――のと、もうひとつはその待機する主体=自我が、その超越的要請を、純一に超越的・人格的な作用(応えるべき促し-作用)か、意図的なイデオロギー装置からの要請(拒否すべき促し-作用)かを判断しようとしたりするからだと思われる(この熟達さには非常な修練を要するように思われる。が主体=自我(これがデカルトのコギトかどうかはまだ明確な判断を避けたいが最近の思想の言説を耳に挟むところでは可能性はあるようだ)は、己と他者・社会との関係からたえずこの訓練を要求されるしされるべきである)。或いはまた、この(汝〜すべしの)要請・働きかけを受けても、これを処理すべきエクリチュールの位相を自我が踏み外し、我田引水で誤った解釈(縫合・編み込み)を施すためとも言えるかも知れない。(これがデリダのいう行方不明に該当するかどうかわからないが)、いずれにしてもそのような幾つかの理由で、出会い損ないが生じうる。(それが自我に内在し沈殿するか、あるいは底の欠損を通じて外へ放擲されるか、もし底の横滑り(ズレ)がありうるならそこから洩れると理解すべきかどうかは、未だ判断を保留)。

ところで、この待機する主体=自我への要請が、ハイデガーのいうとされる現存在(特異点)、日常の自我からより能動的主体となって(我欲す→フォネーとして)転換される際、この現存在は、「ハイデガーによれば二重構造を帯びているとされていたのに、ラカン派によってはこの二義性が完全に排除された」、と東氏の註釈にあるが、もしラカン派がこの二義性を破棄したとすれば(ラカンらしいといえるのかも知れないが)非常に残念なことだ。この二義性は確実だと思われる。二つの様態を事実帯びるから。「性(生殖)である欠損」としてと、打算的あるいは知的(ことによれば)人格的!、な当体として機能もしうるあの「盲点=基点」として。ともに違ったニュアンスとフェーズで、それぞれ他者性を要求する(※相互に逆側の様態を「帯びる」、という面も当然含めるが。おそらく実体としてはそうなるのだろう)。

もし、この否定神学系列の思考を私が自分の表現・イマジネーションのバックボーンとして(けしてこのような、哲学的な表現・言葉遣いの位相のままではなく)形成する場合には、否定神学のこの誤っているだろう側面を、捉え直す必要がある。

もうひとつ、修正しなければならない点。つまり東氏が指摘しているラカン派・否定神学が「思考不可能なものを単数化」してしまう、という点。これは、「単数」化――この処理は、ラカン自身かジジェクかといったことはわからないが――ではなく、「一構造」化=共通の存在仕様化、すべきである。そこにて<複数の>「思考不可能なもの」が生ずるととらえるべきと私的には考える。

さいごに、そもそも存在論的-郵便的を読んだのも、時代の先端思想・先端的潮流「だからそれに則さなければならない」と考えて、というわけではなく、むしろ自分の表現素材に時代の潮流からある意味で根本的修正を迫られる点があるか、もしくは馬鹿にされ一笑に付されるか、という必要性からしていた読書であることと、自分としては表現のフェーズを思弁ではなくイマジネーションの展開世界にやはり置きたいため、基礎的素養のない哲学的な表現位相でのやりとりは正直を言って避けたい、ということから、この思考の次元では直接ひととのやりとりはせず、私の勝手なつぶやきとして処理していただけるよう(笑)お願い致します。

最後になるが、非常に多面的示唆にみちた、綿密なすぐれた本だったゆえに自分にも何とか読み進められたことと、TWITTERでお世話になった方々に感謝の意を表したい。

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補記(twitterから転記、2010/07/05)

無意識と意識(自覚的自我)のより良質な的を得た(脱線の少ない;実りある)連携プレーが人間としても時代の要請としても求められる。無意識の示唆する処をどうよりエゴイスティクでなく再編しうるか。その方法論として有効な思想(or態度)という意味づけ。解釈学と否定関係にあるのは疑問の余地。

解釈学は、自分たちが一度決めた解釈だけでなく、後どんなに色々な解釈の余地があるか。それをできるかぎり洗いざらい探求・提示して、社会にとってより有益(非-選民的)な解釈を公開・選択することが求められるのかも。解釈を施さず手つかずのままにする方法とは別の仕方での探求。両方アリでは

無意識の語る処を意識へ返す、とき、エゴイスティックな再編(意味理解)から、次第に人格的再編へと進化する、という事実がある。=成長。この点、教育の役割もやはり大きい。

社会にとってより有益(非-選民的)、自己本位(エゴイスティック)でないetcetc...これらの意味するところとはいったいなんなのか。。共同体理念の具現と自己の確立の両立(内なる平和と外なる平和)

共同体(民族・宗教・国家・階級)エゴも、個人のエゴも、無意識の意識化の失敗(行方不明)に関しては同じ構造。

| Rei八ヶ岳高原2 | 04:28 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

無題

2010/4/01にtwitterでつぶやいたもの

表現の自発性と表現の形態としての音楽

色即是空・空即是色の動態、というのがある。私たち生きているもの(相対者)は絶対無を―働き、という面からすれば神と言い換えることができるというのが、現今の洋の東西を越えた宗教哲学的知見でもあるようだ―を、或る種“知る”ことが出来るのはどうしても、この動態(言ってみるなら弁証法)に拠ってしかあり得ない。だから、あの訝しい自発性の秩序―デリダ的に言うなら非現前・非対象・非同期―の謂わば体現である処の音楽という表現形態は、ひときわ能弁なのである。

(余談だが非同期性、についていえばバッハはフーガという音楽形式での実現以外に登場人物構成に於ける非同期性すら、マタイ受難曲に於て仮構的に提示していた(コラールとコーラスとしての後世の人間)

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:46 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

無題

2003年HPに記載したものを一部抜粋し2010/3/22Twitterで呟いたもの

未完結性のさなかで超越を受肉する(M.メルロー=ポンティ)―イデオロギー・装置を媒介にした超越の受肉には欺瞞性がつきまとう。何故なら予め他に奪われあずけてしまった超越性を、私たちはかならずまた他の人間に於て奪還しようとするだろう。

 

己を滅した(滅することを余儀なくされた)主体というものが、――己を滅しえた真理の具現体として振る舞い、――そのあげく、別の主体にたいしていかなる行為に走り、その自由と権利とを拘束するものとかは…。

| Rei八ヶ岳高原2 | 09:09 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

雑感・書評―その1 知の教科書「フロイト=ラカン」新宮一成・立木康介編(講談社選書メチエ330)

下記は、2006年6月にHPに記したブックレビューを転載したものです。
※点枠線内…書籍要約部/マーカー部分…感想挿入部/縦傍線部分…引用部)

精神分析関係の著書を読んでいる人々は、すでにラカン自身の「エクリ」・「セミネール」を読んでいるであろうから、こうした入門書に就いて今更詳細に述べるのは殆ど無効なことなのかも知れないが、この本の企画構成として、多岐に渡る学問分野の角度から精神分析の姿勢の一貫性と通底力が物語られるのは非常に立体的で面白かったし、また能弁であるがために考えさせられる所が色々あったので、少なくとも私自身の為に要約しておくに値すると思われた。

一貫してラカンからフロイトへと遡りつつ、そこに通底する人間の捉え方と、そのえぐりだす人間本質・構造への洞察の深さ・射程応用範囲の広さを示すのが本書の内容であるが、色々な面で得心したり思い当たることが多いのには愕く。

総じて「言葉」や「認識」と、“人間自身”との間の本質的な相克・ズレの問題(疎外)を基底に据えた精神分析の論調が面白い。またラカンによる非常に自覚的な「シニフィアンの遡及作用(事後性)」―通常の、ソシュール的シニフィアン‐シニフィエ図式の、逆転も含め―の概念付けも興味深い。(P68〜71)

個別のテーマで見ても、仏教的思惟と深層心理、ヘーゲル的(疑似!?-)弁証法とフロイト-ラカン的思考との関係、マルクスに一貫していたフェティシズム考に於ける貨幣の捉え方を中心とした精神分析学から社会・経済科学への射程延長、芸術創造/鑑賞者と精神分析の視点=メディア論、歴史修正主義(というパラノイア)に対する精神分析的アプローチと視座、人間論・生命論としてある「円環(球体・穴のない完結)神話」に対する、ラカンからのNO、すなわち裂け目の提示(永遠に完結不可能でありつつ永遠に目指す、という視点)等々...。

デカルトのコギト・エルゴ・スム、その透明性の中からけして消え去らない不透明性などについて考えながら、これを読み直していたばかりだったので尚更かも知れないが、フロイト−ラカンの精神分析に通底する主立った視点は、非常に共感を覚える。それは総じて言うなら、弁証法をけして閉じない(本質的に開かれたままであるとする;円環からはみ出るものが必ずあるとする)、一貫したスタンスである。

言い換えれば構造を(既成の、無時間軸的な)構造のまま自己完結的に閉じないスタンス、でありその構造を外部から始動させつつ同時に己を無的中心地点として内在化しつつこれを成立させてもいる何ものかを見いだすスタンスであるともいえる。

人生上の意味からも、自覚化ないし権威化され得たシニフィアンを語るよりむしろ自覚化・権威化できなかったシニフィアンを捉えよう、光が当てられず代表的な座から洩れ落ちる側のシニフィアンを捉えようとし、そこに於てこそ、懊悩する人間の実存を描き、結果何らかの救済を提起しもする、そうした精神分析学そのものの態度・志向性が、好感を抱きやすく興味深いのである。

また場合によっては直接に哲学的な視座(自覚的次元)にある私以上にむしろ、より奥にある私、つまり芸術から感動を得る主体・形而上学童話の創作などをする私(無意識的次元/イマージネーションを何処からともなく得る次元に居る私)―の、共感を呼ぶ点も多かった。

そのもつ、イメージ喚起力とは、また非常な熟考に満ち共感をそそられた部分とは、以下のような部分である。殊に印象的であった各箇所を、私なりに要約するとともに(点線枠内)、所々に所見・解釈を入れた(マーカー部分)。尚、傍線部は書籍からの引用部分。

○「出会いそこない」と「言うことの不可能(できなさ)」(p25〜27)

「現実」と精神分析に於て言われる時、それは通常意味される純粋経験自身よりむしろ、現に「・・できなくなっている」という私たちの状態である。いわばその不可能性「〜できなさ」と「〜しそこない」を続けているという私たちの事実の方に目を向けられる。その際、カントのように私たちの外側に「現実」があるのかとうかというような心配はもはやしなくてよいのであって、我々の心に「〜しそこない」の傷跡が残されており、それが身体の「傷」と同じ仕方で、私たちが生きているかぎり私たちを苦しめる、というレアリテそのもの、それが人生の限界、諦念とともにあかるみを定めている、ということが重要であるとされる。カントのいう「物自体」、ヘーゲルの「絶対知」、そうしてフロイトの、夢の中に置き去りにされる「出会いそこない」への語りを考える時、ラカンによればフロイトの出現は思想史上の必然であったと見える。つまり

(以下、引用p26) カントの「物自体」が認識論によって私たちと「物(現実)」との出会いのなさを認めた説であり、逆にヘーゲルの「絶対知」が理性と「現実」との自己意識における一致を直観したものだとすれば、フロイトはヘーゲルに途中まで添いながら、そこから決定的に別れ、自己意識と主体とが「出会いそこない」という関係にあるという必然を、切羽詰まった人間理性の法則として提出し

た、という事である。 ――第一部ラカンからフロイトへ遡ること――真の現実としての、言語との出会い

※尚、mixiのラカンコミュでのやりとりによれば、ラカンとフロイトの「物」概念の内容は、異なるとされているようである。

○「ラメラ(@ラカン)」-「リビード(@フロイト)」(p108〜111)

心は「もとあったところ」を目指すがゆえに、フロイトにとって丸い生物はリビードの象徴であった(「円かなる一体」としての生の欲動 /「無機物」としての死の欲動)。ラカンは、リビードを「ラメラ」で表す。つまり

(以下、引用p109) 生物の組織の中にときどき現れる構造で、薄い膜状のものが、何層かに重なってときには丸まっている状態…卵焼きをくるんだサランラップのようなもの…ベターハーフをみつけて自分に貼り合わせて「円くなろう」としている性的人間の姿…リビードは自己増殖しているラメラのことであり、つまりそれが愛する人間である。

人間は、じつのところ穴があることで生きているが、ラメラとともに穴のない混沌、すなわち

(以下、引用p110) リビード、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう純粋な生の本能

に還ることを志向してしまう。これのイマージュとしてこんなものを考えるとよい、

(以下、引用p110) 風船ガムを上手に膨らまして、膨らましつつ自分がその内部に入っていくというイメージ*この一文を読んだときの私の愕き、自分自身の創作童話「シャボン玉の閉じられない輪」を想起せざるを得ない!…成功すれば、自分の口という孔が、世界の内と外、同時に繋がる場所となる。

性的エネルギーの志向とは、このような完全無欠つまり「円かなるもの」である。精神分析による洞察では、「人間は全体的ではありえない」が、「そうした方向に向かう動きを無くしてしまうということもまたできない」。全体すなわち一つの円環(不可能)を志向する永遠に必然的な動きを捉えなければならない。

(以下、引用p110) 不可能は、それを諦めるためでなく、それを目指すために人間に与えられた論理的カテゴリー

である、とする。――第二部フロイト=ラカンのキーワード�「ラメラ」-「リビード」

*私自身としては、この構造をフロイトのように「性」に限定しない。それは童話「シャボン玉の閉じられない輪」でも設定していたような「主体と超越の関係」―含:聖霊の概念―においてもそうであるとする。そうした諸々の側面を総じて、生のエネルギーそのものが、完結不可能な円かなるものを永遠に志向する、と捉えたい。が、性に関してもこの構造が当てはまる、ということに関し、おそらく異論はない。

また、先のラメラ-リビード論(完結不能性)に少し重なるが、精神分析に於けるメディア論も非常に興味深い。

○メディア論とフロイト=ラカン(p140〜151)

フロイト以降の精神分析では人の心の仕組みをいくつかの構成要素(無意識、意識、前意識、あるいはエス、自我、超自我など)に分けて理解する。この構成要素が、実際どこに属するかを考えると、見かけ上の個人の中にあるようにみえても、そこにはすでに外(他者or物)が介在していると捉えることもできる。この矛盾同一が、つまり各「個」の中にメディアが入り込む余地なのである、とする。これはまさしく人間がそれ自体として閉じた存在ではありえない、常に何かに向かって開かれた存在である、ということを意味する。メディアとは(その意味のひとつには)つまり霊媒師であって、人間とは、何か己を超えた超越的なものと否が応でもかかわらざるをえない生き物なのであり、メディアとはまさしくそのかかわりを取り持つものとしての媒介なのである、と考えられる。

(註:ここでいうメディアとは、主に三つの意味があり、ネットワーク網の形成・媒介するもの・記録保存するもの、である。以下、各の要約)

  • ネットワーク

    ラカンのいう「人間は言語に寄生されている」の通り、言葉や感情が人間の内面から発して外に向かって表現されるのではなく、言葉のほうが勝手に降ってきて、取り憑き、その人間を動かす。人間は言葉の乗り物、媒介―パロールの媒体(support)―にすぎない、人間は言語という超越的なネットワーク(大文字の他者の語らい)の回路の一部分でしかない。意識はその効果、あるいはフィードバックにすぎない、というものであり、人間は始めから異物とかかわることでしか自分を一つの閉じたまとまりとすることができない動物になったのであり、それゆえメディアを通じた外在化、内在化が容易になった、とする。

  • 媒介

    人は…(中略)…鏡に投影されたもの(鏡像)を曇りなくくまなく見ることが出来る―アルチュセールを経由したラカンの受容説―、のではなく、実際にはラカンによれば人間が見出す己の鏡像には、どこか不可視な一点、あるいは染みのようなものがあるとする。精神分析的メディア論では、「巻き込まれた」存在として主体を捉える点に特徴があり、私たち人間存在は、完全なる客体としてメディアの外に立ってメディアを通じて外の世界を見るのでもなく、その世界に客観的に存在する自分を見るのでもない、何かが見えるところに立った、そのこと自体ですでに私たちはメディアの作り出した世界の中に、見ている対象と“同一平面上で巻き込まれて”いる―いわば我々の立ち位置がすなわち盲点であるような仕方で?!―、とする。

  • 記録するもの

    これに関しては、内容と前提がより複雑な為、今回は省く。

*全体として、永遠に不可視な視点、もしくは彼岸にある謎めいた超越的視点というものに、主体は侵されながら生きざるを得ないという把握を精神分析が持っているということは、注目すべきであると思われる。こうした欠損点そのものが主体をして世界を認識可能にしている原基点・超越点であるといった視点は、メルロー=ポンティなどの身体論的現象学の視点にも、また現代の宗教哲学論(仏・基両教)にも近いものがあるのではないか。

また純粋に私自身の自覚的な意識層―歴史哲学的・社会-経済哲学的位相―に於てはこのような点が興味深い。

○歴史修正主義(Revisionism/Revisionnisme)とフロイト=ラカン(p152〜165)

昨今、独ナチによるホロコーストや、日本による南京大虐殺、従軍慰安婦問題などに対する、規模と質の過少評価(被害者側よりはるかに小さく見積もる主張、もしくは存在しなかったという主張)が横行している。フロイト=ラカン精神分析の座からは、この問題を単に実証主義的・擬-実証主義的な同一次元上の応酬に「とどまらず」―というのはそれが不必要という立場でなく、それは必要(不可避)であったと同時にそれだけでは不十分、という恰好に、否応なく実証主義的議論のがわが(メディアに於るヘゲモニー闘争によって)立たされてしまったのである、とみなす立場ということになる―、そもそもナチズム・ファシズムそのものが台頭したのと共通する地点に立ち戻って分析することができる、と同時にこのもつ危険性を再認する。つまり歴史修正主義(反復運動)の問題点とは、そのふりだし、つまりその発想の元となったナチズム・ファシズム台頭自身の根拠、これと全く同じ原因にもとづくのである、と意味づけられる。と同時にこの自家撞着が歴史の上で繰り返される、これ自身を食い止められないことの危険性と、これに対する実証主義的批判の限界(この手段だけで応酬することの不利・不十分さ)が指摘される。

そもそも大量虐殺への道がどのようにして切り拓かれたのかといえば、ユダヤ人迫害の口実としてナチスが利用した、(一見選民思想的でありつつ裏返せば)被害妄想的な「デマゴギー」がまずもってあり、ホロコーストはまさにこのパラノイア的妄想を確信的動力として行われたが、歴史修正主義もまずもってこうした―彼らによれば「無かった出来事」の発生位置―すなわちデマゴギーの発生過程に、反復的に舞い戻り(これによって逆説的に、大量虐殺がいかに切り拓かれていったかを如実に物語る恰好となる)、その上で大量虐殺など無かったという、「仮説」という体裁をとりながらも実は疑う余地無い「真実?!」に事実上無条件に立脚し、それがあたかも有った“かのように”みなが多数協力し偽証や証拠捏造・改竄・誇張記述などを緻密に計画実行して巨大な権力と化してこちらを責め立てる「陰謀が存在する」という確信を持ち、これを無際限に増幅させるという仕方のパラノイア的妄想回路に入っていく、という構図になる。

歴史修正主義の論理の二重欺瞞装置は、表面上は実証主義的体裁を備え、「大量虐殺はなかった」というのは仮説とし、これを検証するという姿をとる。 が実際の検証対象は、この仮説でなく、これまでの相手側(大量虐殺があった、とする実証主義的)証言や証拠であり、しかも仮説であるはずの大量虐殺はなかった、というのを絶対無条件の前提としてここから、相手側の従来の証拠証言は基本的に捏造改竄の手が加えられているという論法で一貫し、これらの証拠証言の中に矛盾・人為工作の痕跡を見い出すことに努力が費やされる(仮にこれらの証拠証言にこれといった瑕疵が見い出されなければ、それだけ巧妙に陰謀が作られている、という解釈をとる)、というからくりである。つまり、彼ら自身の仮説、「大量虐殺はなかった」の方には、予め何の反証の要求も及ばせず(疑いを差し挟む余地のない真実という資格を与え)、一方的な力関係のもとに置いてある、ということである。これほどに一貫して彼らの言う仮説、すなわち絶対無条件の前提である大量虐殺はなかった、の論理を押し進めるほどに、これを相矛盾する多くの証言や歴史的証拠が出現するが、それらが出現するほどに今度は、それらの「偽証」や「証拠捏造」が、それだけ巨大な権力とその協力者のもとに緻密な計画とともに存在し、歴史的陰謀を捏造した、という結論になってゆき、この「陰謀存在説」への確信が無際限に増幅させられていく、というパラノイア的回路が形成されていく。

だがこのような自家撞着の主義主張を一笑に付していられないのは、こうした主義主張の反復運動が現実的にはややもすると食い止められず、メディアという舞台を巻き込むと、現に実証主義的批判の限界を指示してくるからに他ならない。

戦争のレアリテが時とともに希薄化し、歴史の証言者が次第に減じていくにつれ、こうした主張はある種の開き直りを伴いつつあちこちで蒸し返され大衆的な広がりを見せる。 マスメディアを舞台とする時、歴史修正主義の擬-実証主義的論法は、その論法に従来の実証主義的論理が否応なく「巻き込まれる」作用を持っているとともに、実証主義的議論に不可避的に不利な質的変化をさえもたらす。

概観して以下の点である。

  • マスメディアを介すると、大衆のポジシオンは両者の資料・原資料にともに接近する手段を持たなくさせられ、(デカルト的コギトの立場にみづから立って自覚的理性的認識主体として原資料に接し真偽を見分けようとする一部の者以外の、多くの人間は)どっちもどっち風な憶見上の事柄として処理させられがちとなる、とその際、実証主義的論証がレトリックの一種と還元されがちなこと、客観的認識それ自体よりも、それとして権威づけられた、流通する「知(の受け売り)」のほうに論争のヘゲモニーが持って行かれ、そのためのパフォーマンスに勝る方が勝ちとなりやすいこと
  • 自然科学的研究対象と異なり歴史的資料文献は他者の言葉・認識を「介在」していること/これが(科学に比して)歴史の研究者を知の受け売りをする大衆と似た立場に置きがちなこと―歴史を対象とする実証主義の内在的構造的問題―、しかもこれを擬-実証主義者のがわに検証そのもののずさんさであるかのようにあげつらわれ易いこと(歴史修正主義はここで自分たちの疑似-論法自身を棚に上げているにもかかわらず、議論を相対的な次元に、実証主義の側の資料証言を相対的な地位に、大衆の面前でおとしめただけでその目的は事実上十分達成されたこと)/SF的操作・フィクションなどと現実とが渾然一体化し、その差異が希薄になりがちな時代背景自身も、歴史修正主義のがわに有利に働きやすいこと
  • 大量虐殺の存在を政治的に利用する側に対しても、実証主義の側が十分批判的な距離を保つことができなければ、歴史修正主義批判も教科書的権力臭を帯びることとなる一方で、検証可能な資料のみで疑問の余地無しの堅塁を築こうとする実証主義的な努力が不可避的に大衆を同様に能動的検証可能な座から除外することになればこの権力臭も実証主義自身が内在的に持っていたものということになるのに対し、歴史修正主義の側は、一方では実証主義的厳密性を盾に自分たちに都合の悪い証言を退けつつ、他方では歴史を捏造する巨大な権力という敵を外部に立て、擬似的共同性を構築して大衆を己の側に囲い込む、という二重戦略に出ること。etcetc...

以上の点で歴史修正主義のほうがポイントをかせぎ易いことになる。

総じてメディアを引き込んだこうした構図の中では大衆はいわば証言者にも認識主体にもなる条件を与えられず、両者の論争の蚊帳の外に置かれがちとなるのが構造的な問題であって、歴史修正主義の予想外の広がりという結果を与えてしまった。 こうした反省から80年代後半から問題を新たな地平に置きなおすことが急務となり精神分析やその影響を受けた哲学的思想と議論が参照されるようになる。

他方、こうした視点を提示する精神分析自身の方を省みると、フロイトの議論の立て方には一見歴史修正主義ともみまがう或程度共通する特徴が認められる。フロイトの論理の立て方も、或る反証不可能な仮説(無意識というものの設定)に準拠しある種独断的仕様で説明づけていく。この点では両者ともに客観的現実の彼岸にほんとうの現実を追い求めるという姿勢が見受けられる。

だがフロイトの探求の方向性は、歴史修正主義のそれとは正反対であって、歴史修正主義では攻撃者を外的世界に立てる*代表的シニフィアン以外の他者性シニフィアンを拝外することでみずからを閉じるが、フロイトは主体の幻想―語り得ぬもの、だがそれは遡及的に、過去が主体の中に規定的作用を現在に及ぼしつづけると言う仕方で形成されてきた物語を解き明かす―の「中に」他者を探す*みずからのみずからによる物語を自己完結させずそこから漏れるもの―代表的シニフィアンから取り落とされたシニフィアン―の模索とともに主体を外に開く。

歴史修正主義の論法では被害者が存在しないならば犯罪自体が存在しない、ということになるが、フロイトの試みによれば(加害者が意図的に目指したところの)被害者の得も言われぬ体験の黙秘でさえ、その症状から身体に記された痕跡・伝言を、犯罪の在り方を告げるものとして解読しうるのである。強制収容所では人は人であることと同時に語る主体である資格をも剥奪されたが、精神分析に於いては、―それが苦しい試練であろうとも―(語りえぬものをあえて)語る主体としての資格を保障されているのである。

○貨幣論とフロイト=ラカン(p166〜177)

これまでの論点からも各々既出して来ているが、どうやら我々が生きていく際、その本質にかかわるような、特権的な媒体・構造というものがあるらしい。あたかもその媒介なしには我々は生きて行かれないかのようである。

何故そもそもそのような不可避な構造というものが*ひいては構造がその構造として成り立ちつつ運動することを促している或る働き・外からの動機付け、のようなものが?あるのであろうか―みずからが外*構造への働きかけ・吹息であるままに内構造そのもの、しかもその構造の中心としてのゼロ、空でもあるような仕方で―、そしてまた、そのような視点から視るとき、貨幣というものの持つ意味は、いかなるものとして説明しうるのか。

精神分析的視点によると貨幣というものはそれ自身空虚な中心であって中身を持たない、が故にその持つ形式を全ての中心とし得、ものの価値を周縁に連関づけているものである。言い換えると精神分析ではマルクス自身もこだわっていたフェティシズム(フロイト)という観点、と同時にファルス(ラカン)という観点から貨幣を論ずる事が出来る。

モース−レヴィ=ストロースで周知の贈与論―贈与・交換体系―すなわち贈与[交換原理のもとい、被-贈与側に負債感を生じる時間軸の発生=ラカンのいう想像界]、及び交換[*負債感持続効果としての時間軸をすでに省略・相殺しえた等価交換世界ラカンのいう=象徴界]の構造を基礎に、それよりさらに遡り、上記で言われる贈与[*交換・交易がもう予め織り込まれている不純-無償性贈与であるため、むしろ贈与「交換」と言われるべきである贈与、いわば究極の因果的前提が、人間社会に於いて時間軸の発生とともに始動・受肉された次元というべきかも知れない]以前のもうひとつ奥の位相、すなわち“純粋”贈与[*いわば、構造の外・究極、の動機付け、無償贈与=ラカンのいう現実界]の概念を提示したのがデリダであるが、これら交換・贈与・純粋贈与の3位相化は、ラカンのもの―前掲したように、象徴界・想像界・現実界―と全く共通、同一である。デリダ−ラカンの考えによって究極の位置に指摘される、象徴界である円環の外部たるこの現実界(純粋贈与)は、事実上人間にとっては不可能な世界、いわば生きとし生ける者に自然の恵みを与えた創造者・全能者しかなしえない次元の贈与であるといえる。これが象徴界における論理的欠如でありつつその因果的前提でもある処のものである。

こうした体系を、貨幣自身と関連させて精神分析的に言えば、貨幣とは、象徴界の内部にあって現実界を指示するシニフィアン、ということになる。システム「内の一項」でありつつシステム「外部を指示」する、ゼロ象徴である。それをラカンにしたがっていえば、ファルス―全能なる〈力〉それ自体を指示するもの―,ということになる。さらに言えばその力は、具体的な「もの」―*有の世界の各相対者?としては「実在しない」が、実在するかのように有の世界に矛盾的に還元されて、その力の存在を―あたかも有の世界と同一次元にあるかのようなレトリックで―「指示」される、ということになる。

ところでこうした趣旨をすでに述べていた経済学者がマルクスであったと言われる。一貫してフェティッシュでありファルスである貨幣は、マルクスによって疎外概念を携えながら、商品→貨幣→資本としての自立化というその過程を見事に描き出されているという。*ラカンもデリダもマルキストであったという所以の大きな一要因が、ここに見いだせるとも言えよう。

*振り返れば一時期―21世紀突入前夜―、天皇制ゼロ記号などという論調が日本に於いて流行っていた。それは今にして思えば受け入れがたい議論であったが―何故なら、ラカンが貨幣に対して与えるような意味でのゼロ象徴として、天皇制があるのではけしてないからである。すなわち「ない」という事態を目に見える(有る)シニフィアンによって指示するという矛盾によって成り立つ記号である、というよりは、天皇制とはじつに(或る特定のイデオロギー装置にとって必要とされたがゆえに)予め「存る」という事態を、それがあたかも無いものであるかのように、別の「有る」シニフィアンによって指示・変換していただけだったからである―、それは別として貨幣論に於けるこのような論理射程に関しては、まだまだ理解が及ばない点もあるかも知れないが、今のところ私としては専ら納得と共感こそすれこれといった異論はない。

追記:個人的には「現」天皇と皇后、その人格・人間性(が帯びうる聖性)・また歴史観に敬意を抱いている。それと制度としての天皇制とは別に考えなければならないというもどかしさがこの問題にはある。
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