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バッハ、フーガの技法3
2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2004年12月22日

昨日想ったことを、一度全部清算して考えてみる。

Cp3を考える時――Cp3と未完Fとの関係を考える時――、やはり同時にCp4・Cp5・Cp6(a)・Cp7(a)迄を、とりあえずまとめて、常に考慮に入れて考えなければならない(全く切り離し個別に、というのはやはり無理である)。 その上での、未完Fへと関連づけられる特徴・配置・収斂への役割、etc..の意味を記していかなければならない。 が同時にそれは、「Cp3はこうであり、Cp5はこうである」と言った時、Cp3の中には、Cp5で語った要素(未完F-主題1・2・3・4の何れかの要素)が「ない」ということを表すのでもなく、またCp5ならCp5の或る要素(ACD)に就て重点的に語ったからといって他の要素(B)がない、という訳でもない。 それどころか全ては<予め不可分>であるということ、不可分であるどころか、ふとした付点処理やフーガの拡大縮小、中間音の介在・不介在の手加減ひとつで、或る要素が他の要素に変わりうる(役割を代替しうる)という事を、寧ろCp3・Cp4・Cp5・Cp6(a)・Cp7(a)を「通して」聞けば聞くほど確信する…。

バッハはそのことを実験(実践)しているか、未完Fに向かって着々と備えていたのである。 未完F(Cp14)の4つの各主題は、どれも同じ要素から成り立っている、と言わざるを得ない... それは勿論、最も単純に言えばA1なのであるが(Cp1冒頭・主題)、 A1(∀1)-A3(∀3)、その変奏――(拡大縮小、中間音(含:半音階)介入、付点処理、etc...) この一連の作業を含んだおおきなテーマが、4つ全ての主題の親になっている。

このように、もともと不可分であることを前提にした上で、

・Cp3は主に(未完Fの4主題のうち)まず*第3主題(B-A-C-H)の生起を重点に置いた。 (*…Cp4がA1の真の転回形であるのに比し、Cp3では調的転回形のため) むろん昨日までに述べた諸要素をも曲中に含む

・Cp4では第2主題の基礎的な運動性の確立を重点に置いた。(A1もしくは未完F-の来たるべきA1=第4主題の変形した運動との絡みで。だが半音階性も潜在的に顧慮され、曲想のわりに未完F-第3主題を引きずっている)

・Cp5では、Cp4に比し、中間音介在によってより未完F-第1主題の顕在化が示されつつ、そのA3・3∀系列に於て未完F-第2主題の運動性の展開がなされる。(同時にこれによる運動性の付随的条件により、未完F-第3主題の動きもある。勿論、A3∀3が基調になっちているので、A1は目に見えぬ形でたえず基底にある)

・Cp6では、未だCp5冒頭では後出であった未完F第1主題(前半=∀3)が冒頭に出現する。これは全く未完F(Cp14)の冒頭の類型と重なる。 ここで成立している関係は、 (前に出る∀3の系列と、後出するA3系列の関係) 未完F-第1主題及び来たるべき第4主題(A1)と、第2主題との連携のようにも聞こえるし、第3主題(B-A-C-H)の前-半音階調段階の音型との連携のようにも聞こえる。 A3・∀3は、未完F-第1主題の基礎でもあるが、同時に第3主題の全音階調的基礎のようにも聞こえる。そしてここから生じる(orこれが触発する)運動はつねに第2主題の運動を呼ぶ。

 

2004年12月23日

・Cp7でも、Cp5冒頭では後出であった未完F第1主題(前半=∀3)が冒頭に出現するパターンはCp6に同じである。 したがって、未完F(Cp14)の冒頭の類型と重なる。 が、ここで成立している関係は、低音部で始めに登場するA3の系列(未完F第1主題前哨)に比し、Cp6とは逆に、追って第1・2声部に登場する∀3の系列のほうが、*拡大形になっている点である。

*実際には前出するA3系列のほうが、通常(これまでのCp1から展開されていた主題A1→A3・∀3の形状)の縮小形になっている、というべきであるが、もしこのCp7が、未完Fの4声のうちの来たるべき第4(A1)・第2・第1主題の遁走仕様への有力なデッサンであると見る場合には、第1に対する第4主題(A1の再来)の歩幅を、実践したとも思われたため、このような言い方をした。

バッハは、未完Fにて、来たるべき第4主題の歩幅をどう取るつもりであったろうか。 Cp6ではこの両者(A3と∀3)の関係は逆である。第1声部(∀3系列)のほうが縮小されている。 だが、Cp7に於てもう一つ顕著に思われるのは、第1声部と第2声部による、同じ∀3系列の1小節違いの遁走である。

Cp6に於て、曲想全体が、未完F-第1主題及び来たるべき第4主題(A1)と、第2主題との連携のようにも聞こえるし、第3主題(B-A-C-H)の前-半音階調段階の音型との連携、その実践のように聞こえたこと、また A3・∀3が、未完F-第1主題の基礎でもあるが、同時に第3主題の全音階調的基礎のようにも聞こえ、そしてここから生じる(orこれが触発する)運動はつねに第2主題の運動を呼ぶ、と言うように聞こえたのに較べると、 Cp7の曲想の主題は、全声部を通じ、ともかくもあの邁進する第2主題のより濃厚で劇的な展開の仕様の追求といった感を受ける。

未完F第1主題の前哨(但・縮小形)であるはずの出だしも、その旋律自身の展開から、第2主題の運動仕様を滾々と生み出し、また1・2声部の遁走のやりとりも、来たるべき第4主題の準備という以上にむしろ、中高音部での第2主題の展開、という風に思われ、大まかに言って1・2声部と3・4声部での互いの第2主題の交換的展開をエネルギッシュに織りなしているという風である。 無論、その音の渦中、不思議にその最も根底を、巨大なるA1――来たるべき第4主題といってもいい――が流れている、という風に聞こえる。

 

2004年12月24日

Cp8では、Cp3〜7というA1→∀3・A3の系列が織りなす展開の一群のうち、Cp4〜7までの間遠のいていた、未完F第3主題(B-A-C-H)へと、再び重点が置き直された場所である。 Cp3では主に(未完Fの4主題のうち)まず*第3主題(B-A-C-H)の生起が重点に置かれた。 (A1の「調的」転回形というCp3の半音階的特性を利用しつつ)が、それはA1を基点としていた。 その後のCp4〜7を経たここCp8に於ては、同じB-A-C-Hを彷彿させる手段とはいっても、3つの主題を交錯させる形で、その中に典型的な∀3の付点解除・休止符付着形(∀4とする*)を以て、 *∀4…ラレミγファソラγ (γ…4分休符) これとの絡み合わせによる半音階的世界を展開させる。

∀4(第94小節〜)との交錯的運動によって半音階系の世界を現出させる要素となる残りの2主題(これら2者の方が∀4より遁走としては前出する)とは、冒頭(第1)主題と第2主題(第39小節〜)である。 これら2つの主題は、一体何ものであるか。 これらの生起する由来は何処にあるか...

Cp8第1主題 レ_ドファシ♭シラレソ〜_ファソラソラ_レ(〜…トリル)

これは思うにA3をB-A-C-H系進行に融合させた変奏であろう。 だから、始めのレ_を先に行かせると、あとの旋律は∀4(つまり∀3の付点解除・休止符付着形)と同時進行させた場合、まったくぴったり来る。実際バッハはそうしている。(183小節等)

Cp8第2主題 もうひとつの主題は、先日私が「落下の主題」と指摘したものであるが、これはあの推進力に充ちた未完F-第2主題を、同じく基礎題材にしてはいるだろうが、手法としては寧ろ逆手にとった形であろう。よって、不断に前進し上昇していく気分よりは、ここに第3主題B-A-C-H的系譜を融合させることで、逆に下降的・落下的な雰囲気を醸す変奏となっている。 Cp3で未完F-第2主題を変奏する場合、つまり∀1が変奏の基礎になっていた際は、B-A-C-H系譜の旋律をまぶされて多分にマタイ的になっても、かろうじて前進していた(死の丘へと沈黙の中を進んで行った)が、こちらCp8では、同じ未完F-第2主題!を変奏するのに、このCp8自身の第1主題を基礎にしているという風に思われ、ゴルゴタから紙片が落下するかのようである。いずれにしてもCp8では、∀4との交錯的進行をはたすどちらの主題も、B-A-C-Hの洗礼を受けているようにみえる。

 

2004年12月25日

Cp9 ふたたび未完F-第2主題の推進力と疾駆――とはいえ未完Fの第二主題は往々にして疾駆というより疾風のようにも聞こえるのだが――の彷彿する楽章だが、Cp6・7、ことにCp7を通ってきた耳には、A1*の展開術として理に適った実に自然な変奏スタイルである。それでいて未完Fに向けて着々たる第2主題の疾駆への準備が整っていく。

*…展開術でもあり併走術でもある(35〜44小節/45〜53小節etc.)  尚、一小節半ずらす、などすれば未完F-第1主題(A3+∀3系譜)とも併走しうる。 これを以てA1(=来たるべき未完F-第4主題)の変奏スタイルであるばかりでなく、未完F-第1主題の変奏スタイル、ということが、できるだろうか。 冒頭主題は、これまでの冒頭主題の5度飛びをしのぐ、ちょうど1octvの飛躍だが、1octvの飛躍(上昇乃至下降)は、前述のCp7**でもよく聞くと登場し、もう無意識にも耳慣れていた。

**…Cp7に於る1octvの飛躍箇所 -上昇- 32小節(第1声部)・33小節(第三声部)・38(第4声部)・51小節(第2声部) -下降- 44小節(第4声部)・47(第4声部/途中付点介在、旋律切断)・51小節(第4声部/途中付点介在、旋律切断) 等々 2004年12月26〜27日 日付が前後するが、今度Cp10・11を記すに当たって、その前提に必要なより具体的な掘り下げを、Cp8(前々日:24日分)とCp9(前日:25日分)とに追記しておかなくてはならない。

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Cp8(04.12.24)

>これら2つの主題は、一体何ものであるか。これらの生起する由来は何処にあるか...

Cp8第1主題 レ_ドファシ♭シラレソ*〜_ファソラソラ_レ (*〜…トリル)  これは思うにA3をB-A-C-H系進行に融合させた変奏であろう。

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追記1 これについて。 まずこの主題を、Bと呼ぶ。 この主題(B)の転回形§が、Cp11の第2主題となって登場する。 (同時に§は、転回前=Bと、Cp10-第1主題=E、との融合としても位置づけられると思われる)

ところで 何故、「A3をB-A-C-H系進行に融合させた」と云えるかに就て、詳述する。 ここではB-A-C-Hの、組み替えが行われている→C-H-B-A 冒頭第1〜5小節 (レ_)ド-(ファ)シ-♭シ-ラ(レ)(ソ)

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>だから、始めのレ_を先に行かせると、あとの旋律は∀4(※つまり∀3の付点解除・休止符付着形)と同時進行させた場合、まったくぴったり来る。実際バッハはそうしている。(183小節等)

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これに就て。 追記1-2 ※∀3の付点解除・休止符付着形=∀4 γラ_レ_ミ_ γファ_ソ_ラ_ γ♭シ_ラ_ソγ_ γ[ファミ]ファ_ソ_...

これ、∀4の転回形が、Cp11-第1主題として今後登場する→A4

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Cp8第2主題

>もうひとつの主題は、先日私が「落下の主題」 と指摘したものであるが、これはあの推進力に充ちた未完F-第2主題を、同じく基礎題材にしてはいるだろうが、手法としては寧ろ逆手にとった形であろう。よって、不断に前進し上昇していく気分よりは、ここに第3主題B-A-C-H的系譜を融合させることで、逆に下降的・落下的な雰囲気を醸す変奏となっている

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これに就て。 追記2 この主題を、Cと呼ぶ。 この主題(C)の転回形が、Cp11-第3主題として登場する→⊃(徐ろに上昇する系譜) ところで、ここ(Cp8-第2主題:落下の主題=C)で何故第3主題B-A-C-H的系譜が融合している、と考えるかに就て。 ここでも、B-A-C-Hの組み替えが行われている。H-C-A-B 準備段階――この主題と初登場:第39〜41小節 H-C-A-Bへの3度下での組み替え (♭シ_⌒♭シ #ソラララ) #ファソソソミファファファ(#ドレ) ここでは落下主題(第2声部)そのものはまだ準備段階だが、同時に進行する第1声部が、先程述べたBの主題のがわが、上、冒頭第1〜5小節と同旋律にて組み替えC-H-B-Aを行っている。

(レ_)ド-(ファ)シ-♭シ-ラ(レ)(ソ) 本丸――第43〜45小節 H-C-A-Bへの組み替え (♭ミ_⌒♭ミ #ドレレレ)シドドドラ♭シシシ(ラソ#ファソ) この他、第180〜183小節などにもこのような組み替えが見られる(第1・2声部) C-H-B-A..CB..B..A-A (#ドレ)ドシ ♭シ(ラ)ド[シ(ラ)]シシ(#ソ-ラ-ラ

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Cp9 ↓レ↑#レ_- #ドシラソファミレ #ドレミファレミ #ファソ #ファソラ ♭シソラ ♭シ ♭シラ

この第1主題について。 これをDとすると、Dの1度下の反行形が次Cp10の第1主題(=E)後半に登場する。 それと同時に、ここでも重要なのは、 やはりここCp9-第1主題=Dでも、B-A-C-Hの組み替えが行われている。 冒頭第1〜5小節 (#C)-H-A…ABA..BBA (↓レ↑レ#_-)#ドシラ(ソファミレ #ドレミファレミ #ファソ #ファソ)ラ ♭シ(ソ)ラ ♭シ ♭シラ

※音楽の性質上、A〜C(ABHC)間で着脱を行うと、必然的に上のようにE〜G間にも同時に着脱の連鎖反応が生じる。

★尚、ここで連鎖的に着脱反応を起こしているE〜G間は、実際未完Fに於てもBACH主題(第193小節〜)との5度差同旋律がすぐに登場している(一小節半遅れ:195小節〜) 第8〜10小節 H-A-A-H-C (↓ラ↑ラ_ #ソ #ファミレド)シラ (#ソ)ラシドラシド ↓↓(HからBへ) 第14〜15小節 B-A-C-B-C-B-A (ドファミレミレド)♭シラ(レ)ド ♭シド ♭シラ (#ソ)

このようにA〜C(A→B→H→C)の音域にて頻繁に半音の着脱(B⇔H)をしておくことでBACHへの布石になっていると思われる。

 

2004年12月28日

Cp10 これは所謂4声部二重フーガ、10度の二重対位と言われる所である。 第1主題も第2主題もそれぞれ二重フーガをなし、――第1主題の響きは(10度という事は3度でもあり)殆どホモフォニックに近い――、第2主題のフーガはその1つの声部に第1主題を取り込む。 第1主題(冒頭より出)、のパターンをEと呼ぶことにする。 ところで何故何処からこの旋律が現出してきたのか。おそらくこれもやはり例のA3・∀3を基いにした変形であろうが、より近い存在としては、Cp8に登場した主題∀4(とそこから容易に想像されるA4。A4は未登場であるが翌Cp11にじき現れる)を、同じCp8のB主題(A3・∀3のB-A-C-H変容)と融合させたものであろうと思われる。 同じく、じき現れるCp11、Bの転回系§は、B以上にこのEを彷彿させる…。

このE――ホモフォニックな二重フーガ――をなすうちのうちの一方(第1小節〜)、 γ#ドレ↓ラ γファミ↑ラ レミファソラ ♭シド⌒ド#シラソファ... (γ…休止符) このフレーズパターンが、何度と無くポジションを高低し繰り返されながら、10度(3度)の二重フーガを織りなすに至る。 上のこのフレーズが、まず冒頭(第1〜4小節:第2声部)に出現し、 追ってまもなく第3〜7小節第3声部に出現 γ♭ファソ↓レ γ♭シラ↑レ ソラ ♭シドレ ♭ミファ⌒ファ♭ミレド♭シ... するが、ここまでのフレーズでは、(この中からA-B-H-Cの要素だけを抽出してみると) (Hよりも)Bが支配的である。 A...A...ABC⌒CBA... ....BA...BC...CBA が追ってまもなくその転回形が出現、(第7〜10小節:第4声部)、また被さるように同-転回形出現(第8〜11小節:第1声部)。 γファミ↑ラ γ#ドレ↓ラ ミレドシラソ#ファ⌒#ファソラシド... γドシ↑ミ γ#ソラ↓ミ ラソファミレドシ⌒シ #ドレミファ... こちらではHが支配的になる。 ...A...ACHA...AHC CH...A.A...CH⌒H...

また第13小節から、変則Eが現れる。 (何故変則かというと、パターン通りなら本来、γ#ファソ↓レ γ♭シラ↑レ、となるところを、バッハが遁走の都合上 γ#ソラミ γ♭シラレ、としているからである) γ#ソラ↓ミ γ♭シラ↑レ ソラシ #ドレ ♭ミファ⌒ファ ♭ミレド ♭シ.. ここではワンフレーズの中での支配がB→H,H→Bへと交代させられている。 ...BA...AH...CB (Eに当てはまらない、同時進行の他声部でも同様にH→B→H→Bとめまぐるしい交代がある。)

次に23〜29小節には、3つの声部に渡り∀3(乃至変則∀3)が出現するが、ここでもB⇔Hの盛んな交代がなされる。(※併行する他声部でも同様) A...ABA...(※...A...HA.AHC...AB..A.A) AHA... AHC... AHC

 

2004年12月29日

Cp10のつづき その後、第37〜38小節でA1’のような音型が現れ(第1声部)、その後、Cp11以降に続くカノン群をすでに予感させる様な旋律が続き(39〜42)、 それから再びE主題の登場、B支配がはじまる(第44〜47小節:第3声部) γ#ファソ ↓レ γ♭シラ ↑レ ソラ♭シドレ♭ミファ⌒ファ♭ミレド♭シ... ...BA...ABC......CB (他声部も同様、B支配) 次の変則E到来では、逆にH支配(第52〜55小節:第2声部) γ#*レファ ↓ド γラソ ↑ド ファソラシドレミ⌒ミレドシラ...

*…変則でなければレはミになるところ ...CA.C..AHC.....CHA (他声部も同様、H支配) その後Cp9第1主題=Dの、E(後半)的変形を思わせるような旋律が各声部で相次いで遁走し、のちにEが再来する時、(第75小節:第4声部) 最初に出てきたE(第1主題)-その1の3度下のポジションで展開される=E-その2。 ここではもう第2主題=∀3との併走が同時に行われる。(E-その2と∀3との、10度二重対位)

この後の、E(第1主題)は、必ずその1とその2、両者によるホモフォニックな形をとって、3回登場(85,103,115小節〜、うち85,103は変則)するが、第2主題との10度(3度・6度)の二重対位という組み合わせで行われる。(E-その1&E-その2と、∀3との、10度二重対位) そして∀3の二股は、 ラ_レ_ミファ_ソラ_ ♭シ_ラ_ソファ⌒ファミファソ.. ド_ファ_ソラ_♭シド_ レ_ド_♭シラ⌒ラソラ♭シ.. 10度二重対位の完璧な形は75〜と115〜小節のものである (前・後者ともにE-その2と2つの∀3の対位。)

このうちまず、75〜小節のEは、B支配。 γラ ♭シファ γレドファ ♭シドレミファソラ⌒ラソファミレ... AB...C...BC.....A⌒A... この際同時に併走する第2主題としての∀3の2旋律も、 ド_ファ_ソラ_♭シド_ レ_ド_♭シラ⌒ラソラ♭シド C...ABC.CBA.ABC ラ_レ_ミファ_ソラ_ シ_ラ_ソファ⌒ファミファソラ A.....ABA....A という具合に同じくB支配である。

次の85小節〜も、一部変則的なので補ってEと∀3の二重フーガとして考え、同じくB支配。 103小節〜も同様、115小節〜も同様。 ということで、75小節以降完璧な10度二重対位が現れてからはB支配が最後まで続く。

 

2004年12月30日

Cp11 3つの主題(∀4の転回形=A4・Bの転回形=§・Cの転回形=⊃)による4声部三重フーガ。 まずCp11-第1主題、A4に関しては、前に∀3の転回形としてA3が登場していたことと、前もってのA4の登場によって、推察が容易であり、すでに聞きなれたかの感がある。A3の付点を除去し、始めに休止符を添えたパターンである。 ところで、 先日Cp10での主題Eに際して、

>E 何故何処からこの旋律が現出してきたのか …例のA3・∀3を基いにした変形であろうが、より近い存在としては、Cp8-主題∀4(と >そこから容易に想像されるA4+A4 >(A4は翌Cp11にじき現れる)を、同じCp8-B主題(A3・∀3のB-A-C-H変容)と融合させたものであろう... 同じく、じき現れるCp11、Bの転回系§はB以上にこのEを彷彿させる。

と記したが、 ∀3やA3、乃至∀3+A3がこれまでの殆どの主題・変形主題の基いとなっていたのと同様、∀4・A4、また、∀4+A4が、Cp10やCp11、ひいては未完F(第1主題や第3主題B-A-C-H)に直接間接、役割を果たしているか或る種の融合を与えているであろう事は間違いない。

B(§)の確立に∀3+A3が、ここからB-A-C-H変容への基いを与えているのと同じように、Cp10-Eの確立には、∀4+A4が、∀4+A4からB-A-C-H変容へと至る基いを与えている。 殊にEをなす音律の中でも、冒頭のものの3度下(=6度上)の再現、 γラ♭シ↓ファ γレド↑ファ ♭シドレミファソラ⌒ラソファミレ.. のほうは、そのポジションのままCp11-§の成立に結びつく。 これはたんに、§がB(Cp8-B)の転回形であるばかりでなく、§がBとEとの融合点でもあることを示しているといえる。と同時に§が、EをさらにB-A-C-H変容(乃至は半音階変容)させたものでもあることが理解できる。

またCp11-第2主題に関しては、 Cp8に於るBでは レ_ド ↑ファシ ♭シラ ↑レソ... ..C..HBA...  という仕方でB-A-C-Hの組み替えがなされていた。(∀3+A3をB-A-C-H変容させていた。) Cp11に於る§では、 ラ_♭シ↓ファド #ドレ↓ラミ... ..AB...C..A. ということになり、Hはない。 (がこのB→§への転回は、Hが転回軸になっていることになる。) またもし、これの上下向を無くし、 ラ_♭シ シド #ドレ #レミ... とすると ABHC....となり、何れにしてもA〜Cのポジションをめぐってのフレーズ作りであることがわかる。

また第3主題――所謂、落下の主題(C)の転回形:徐行的上昇の主題――であるが、これは非常に未完FのB-A-C-H(第3主題)へ向けて示唆的である。 この主題(⊃)の開始は第89小節からであるが、 ♭ミ⌒(♭ミ)レファファファ #ミソソソ #ファ... その直後、90小節には ♭シ⌒(♭シ)ラドドドシレレレ #ド... B⌒(B)-A-C{CC}-H... が登場する。(→未完F-第3主題への布石) このパターンは、以前Cp9の冒頭に於て 第1〜5小節 (#C)-H-A…ABA..BBA (↓レ↑レ#_-)#ドシラ(ソファミレ #ドレミファレミ #ファソ #ファソ)ラ ♭シ(ソ)ラ ♭シ ♭シラ というように音楽的性質上、A〜C(ABHC)間で着脱を行うと、必然的に上のようにE〜G間にも同時に着脱の連鎖反応が生じたり、 実際ここで連鎖的に着脱反応を起こしているE〜G間は、この未完Fに於てもBACH主題(第193小節〜)との5度差同旋律がすぐに登場している(一小節半遅れ:195小節〜) と指摘したのとまったく同様であり、BACHへの予告である。

 

2005年01月07日

フーガの技法、再開。 これから触れる群は所謂カノングループと、鏡状フーガグループであるが、これらに関し、自分自身のフーガの技法分析の中で触れるべきかどうか、《全く》逡巡する面が無かったとは云い切れない。 というのは、これらの2グループが、――たんなる知的パロディであるとか、トヴェイが仄めかしたとされるように「カノンの芸術」とでも言うべき別のシリーズの為の予備的スケッチであった、といった意見などもあり、未だ確定的な結論が下せていない、とされる音楽解釈史的現状の中、あえて(私自身の判断としては)、――これらが「フーガの技法」の構成要素であることは100%明らかであると考うにしても、同時にまたこれらが、一種「挿入」章的・機知-遊戯的ニュアンスを帯びた部分であることも、おそらく確かであろうことから、ここまで既述してきたコントラプンクトゥスらとの比較に於て、これらの群の存在がこれまでと全き「同質性」を有つ、と肯首できない側面がある、ということも、やはり出来るからである。

だが、例えば優れた文学の大作にも挿入章があり、また幾らかは演戯的部分という面も存在する、存在して一向に構わぬどころか、寧ろその作品全体とその存在感に、或る種のふくらみをさえ与えるように、徹頭徹尾「構造的」音楽、といえる物の中に、そのようなニュアンスの部分が含まれることに対しても、またそうした部分に自分自身、逐一触れていく事に関しても、躊躇することはあるまいというありきたりの結論から、これらのせっかくの美しく、汲み尽くしがたい部分にも、触れておくことにした。

ただここにはまた、これまでの部分とは違い、曲順や、確定稿・未確定稿の是非論などの問題も同時に介在してくることから、これらの部分に触れることが、正直厄介な側面も無きにしもあらずである。 が私としては、カノングループ・鏡状フーガグループに於ては、楽譜の確定・未確定稿の問題に関してまではともかく、曲順に関しては、構造的-多元的思考の音楽として当然の由来から、バッハ自身でさえ決めかねていた形跡のあるこの問題に関し(こうした或意味での同時性・多角性・多発性もまた、弁証法的思考と発展法則の表証なのである)、かならずしもはっきりとひとつだけに順序立てて配置される必要性もないだろうと思えるし、その時々の演奏の趣向や作品に対するスタンス・解釈上の相対的視角(=アプローチ)の問題etc...から、ある程度自在な配置可能性、解釈の余地を保っておいて結構なのではないかとの感を抱いている。

この感覚はこの作品に触れて間もない頃、まだ自分なりに深入りする以前から抱いていた、漠然とした印象からも変わることはない。 幸い、これを書くにあたり、私の最も日常よく耳にしている2つのディスク――ミュンヒンガー指揮SCO演奏(LondonSP-1965録音版)とヴァルヒャのオルガン演奏(Archiv-1956録音版)では、ともにグレーザーの解釈・曲順指定に依っていることもあり、この曲順*に従って、これから触れていくことになると思う。

*曲順を、一応敢えて結論づけしなければならぬとしたら、グレーザーの考えがおそらく最も妥当なのであろう。 私としては、例えば中高声部⇔低音声部へと行われる、作品間の自然な橋渡しといった側面や、Cp11で現れた主題(§)がカノングループのA8の背後に通底して聞こえてならない点などから、他にも可能性がありそうな気もする。 (ただ主題の関連性が、必ずしも直ちに曲順に(「=として」)、反映されないことも考えられるであろう事は当然であって、「フーガの技法」とはまさに、そういう複雑で多面的事情を抱えた音楽であることが、つねに考慮されなければならない。) これは触れられれば後に触れる。

何れにせよ、これらカノンと鏡状フーガグループの存在が、フーガの技法の立派な構成要素であることは間違いないだろう。 それは、何か別の作品かシリーズの為の草稿であるにしてはあまりにも共通した、否、全く以て通底している主題の展開(Aや∀のスタイル)と、そこから派生変奏されて来たこれまでのB(§)やC(⊃)のスタイルとの連関性からしても確かなことである。 ただ、これらカノンとフーガグループを「ここ」に挿入する場合、このグループの終わりからいよいよ未完Fへと収斂する際にもう一つ何か、前哨となる練られたステップが必要だったような気がする、というのも、――それはつまり、これらの前、殊にCp11で、未完Fへと移行するために形成された主題たち、せっかくの迫真的な流れであったあの「§」や「⊃」が、ひしひしと物語っていた壮絶なものを、これらの群挿入章の後、再び決定的に活かす為の、そしてこれまでの蓄積をより未完Fへと直接的に繋げる為の、何らかの要素であると思われる――もうひとつ正直な感覚である。 がだからといってその保留の感覚が、これらのグループの音楽たちを、「フーガの技法」に属する確定的要素として存在出来なくさせる要因となることなどありえない。

 

2005年01月09日

この前の記事で、カノン・フーガグループに関しては、それ以前の群に比し曲順にこだわる必要性もないのではないか、と記し、実際曲想からも音楽的,思考-発想の性質からも、確かにそう云えるとも思うのだが、ただ実際にバッハがひとつの曲集として実際この「フーガの技法」を――もし未完Fをも仕上げる所まで彼が生きられた場合に、であるが――彼自身の手で最終的に「仕上げる」際には、曲順に関してやはり一応は、こだわらざるを得なくなっただろうなと推測する時、Cp11の終了から、未完Fのはざまにこの群を置くのに、実際どのようにしたら最も自然に――と私は考える――組み立てることが出来るであろうか。 これはなかなか興味深いことである。 自然に聞こえる、ということは、諸作品自身と作品(諸々の主題)間の関係に於る様々な要素と側面を統合し、よりよい選択をする、ということであろうが、その結果ごく「耳触りのよい」仕上がり、になるという事は、じつはその背後の様々な要因を巧く処理しているということでもあるに違いない。 あの曲の次にこの曲が現れることの自然さ、それは、たとえ曲群が区切れまた次群に移行する際にであっても、かなりの程度要求されはしないだろうか。 そう考える時、私としては――少なくとも今の段階ではどうしても――レ(=D,主音)が主役として長く響く(殊に低音部にて印象的)Cp11のA4・§・⊃の絡みが織りなすあの劇的な収斂作用の後、すぐさま主題∀5の「ラ(A音)」が来る、というのは――つまりBWV15番(グレーザーによれば12番目=Canon alla Ottavia)が来る、というのは、――何か毎度ディスクが切り替わる度、若干の違和感を感じてしまう。

では、何が来ればしっくりするというのか... 私にとっては、やはり主題A8の登場がすんなりと受け容れやすい。 つまりBWV14番(グレーザーで15番目;Canon per Augmentation in contrario motu)である…。 何故ならA8は、Cp11の§や⊃とのそのまま遁走も可能な程に同じ動機が通底し、同時にみづからが主題の出だしから半音階進行色が濃厚(開始ではミの♭脱着が頻繁)で、この後延々と続く旋律が連動的にA-B-H-C間の動き、殊にシの♭脱着(B⇔Hの行き来)が頻繁となる性質である=未完F-第3主題の前哨。 実際高音部のVn,低音部のCv、これら掛け合う諸旋律、ともになめらかにBとHを行き交う。 と同時にこのA8自身、A4と∀4――Cp11にはA4主題そのものばかりでなく、転回形、∀4も登場する(第76〜80小節)ために、このBWV14のスタイル自身*にも似つかわしい。

*第5小節目〜のvc(チェロパート,A8の転回形兼時価2倍)の動きは、∀4(∀3の、といってもよいが)のvariationである。 ということで、非常によく繋がるのである。 だがもしそれゆえに、カノングループの先頭がBWV14(主題A8)より始まる、となるとすると、この曲の終了仕方の後、耳にしっくりくるものはA6(BWV17;グレーザーで13番目)であり、次には∀7(BWV16;グレーザーで14番目,フルート&ヴィオラ)が待ち遠しい。 ここでこれらの楽器のすべらかな音色による頻繁な半音階着脱+音の跳躍で過ごす3つや6つに連なる8分と16分の連音符を聞き慣れた後、∀5(グレーザーがカノンの最初=12番目とするBWV15)の「16分音符×3」の連音符進行を聞く、ということになる訳**である。そして鏡状フーガのBWV13;グレーザーで16番目のA9・∀9に移行、ということになる。 これも、案外しっくりくるパターンではないだろうか。

**…ただ本当はこのフルートのカデンツァで、またA8に戻りたくなる感覚もあるが...グレーザーやフスマンは、事実そうしている。 否ほんとうは∀5を飛ばして∀7の最後(フルートのカデンツァ)からそのまま鏡状フーガA9・∀9へと移行したい程である。 つまりそうすると∀5の存在位置がなくなってしまうということになる... Cp11の後、A8を耳に出来ず、∀5(開始はラ=A音)をいきなり耳にする違和感と、∀7のカデンツァ後、(∀8へ至れず)∀5へと渡る違和感と、どちらがより大きいであろうか。

 

2005年01月10日

>Cp11の後、A8を耳に出来ず、∀5(開始はラ=A音) をいきなり耳にする違和感と、∀7のカデンツァ後、(∀8へ至れず)∀5へと渡る違和感とどちらがより大きいであろうか。

であるならばいっその事、 A8(BWV14;グレーザー15番目)→A6(BWV17;グ13番目)→の後、 ∀7(BWV16;グ14番目)へ行かずに先に∀5(BWV15;グレーザーがカノンの最初=12番目とするもの)に行ってしまい、(カノングループの)最後に∀7へ移行する方が自然である。(曲の終わり方、次曲の始まり方を考えても。) そしてどのみち∀7→A8へと移行する自然な道が(私の考う方法を採る場合)すでに閉ざされてしまっているなら、∀5→∀7という順を巡り、∀7のなめらかなシンコペーションからそのまま鏡状Fグループの最初(∀9・A9)へと移行してしまうほうがはるかに自然で耳障りもよい。

とまれ、ここでこの問題を云々していても仕方がない。 次回からグレーザーの曲順にしたがい、BWV15(∀5)から分析に入る。

 

2005年01月11日

もうひとつ、グレーザーとフスマンとでは意見の異なった場所、つまりカノングループと鏡状フーガグループの順序の問題に就てだけ触れたい。 フスマンは、鏡状Fグループを、カノングループより先に置くのである。 中の曲順に関しては、二人の意見は変わらない。 これをどう考えたらよいか。 つまり未完Fの到来を直前に、カノンGの最後BWV14(G15;A8)を置くか――フスマン、鏡状Fの最後BWV12(a4;A1・∀1)を置くかということである。

どちらの最終曲も、ともに未完Fの前哨線的意味合いをおそらく他曲以上に多分に含む曲だといえる。 結論を云ってしまえば、私の感覚だとおそらくグレーザーのするように、カノングループを先に置き、鏡状FのBWV12で締めくくる――未完Fに渡される――、とするほうが(BWVの終わり方を噛みしめて思う時...)より強力であり荘厳だろうと思われる。 勿論、二人がともにカノングループの終わりに配置しているA8主題のBWV14も、カノン群の中で最も主題A系列の展開とともに未完F-第3主題の準備も着々な半音階脱着性の最も頻繁なスタイル――私自身にとっても、未完Fに近いCp11(§・⊃)の要素にグループの中で最も重なると思われる――となっており、カノンの中で最も意味深長で神妙な音楽であることはたしかであるが、鏡状Fの最終曲(曲順に関して私も全く同意したい)と比した場合、やはり後者を採りたい。 厳粛なコラール風の、この鏡状F-BWV12(A1・∀1)には、暗に全ての未完F主題への前兆――(控えめではあるが)B⇔Hの交換はもとより、第1,第2、そして勿論来たるべき第4(A1)主題――が、存るのである。

 

2005年01月12日

カノングループ BVW15;グレーザー12番;主題∀5を巡って Canon alla Ottavia それにしてもバッハが「フーガの技法」を貫く調性を、このポジシオン(ニ短調)に据えたこと自体、如何にBとHの交換作用を曲想の前提に置いていたかを物語る。 この点に於てみても、未完F第3主題を発想の前提にバッハがこのフーガを書いたということ、その意図を、真っ向から否定するレオンハルト等の人々の意見が、私には理解し難い。ニ短調とは、そもそもBとHの交換を音楽上余儀なくされ、或いは円滑自在に進めるための調性である。 このグループの存在は今以て謎であるとされる、カノン群。たしかに精神によってというばかりでなく多分に機知に富んだ発想からも、創作されている感はある。しかしそう云われるこのグループの筆頭とされる当BWV15でさえ、多分にB⇔Hをめぐる半音着脱、BからHへ、HからBへの精妙な交換作用が意図され、未完Fのうち最も象徴的なかの第3主題への準備がそこはかとなく施されている。

B-Hを巡る半音階の着脱は、以下の通りである。 第1声部の動きを主眼にして記すと、 まず第1〜8小節前半まではB支配であるが、8小節のH音から9小節まではH支配へ交換される。10小節〜11小節にはBへ戻る。 15〜18前半ではまたHが浮上したと思うと、18後半〜24にはすぐさまBが主役に躍り出る。25から再び30の最後尾にBが出現するまでは、またHが主役となっている。30最後尾のB音から39小節のHまでは、交代劇である。39からはしばらくの間明るいH支配が続く(〜62前半迄。) 62小節の中間にBが出現してからは、73までその支配となる。74の後尾にHが出現するが、まだBを主体とする旋律が80迄つづく。 Finale、とされるパッセージ(81〜最後迄)では、ほぼ2〜4小節毎に交代劇となり、最後はBの支配で終わる。 最終盤、殊に101〜102小節。この終わり間近の旋律はBしか登場しないが、その半音階メサージュは多分に未完F――第1主題(レラソファソラレ)の変容とともに――第3主題の半音階進行特有の精妙さを、意識させる。 ♭シ ♭ミレ ♯ドレミラ

またこの曲には、これ以外の未完Fに於る他の主題の予兆も、感じられる。 主題∀5は、ジーグ風リズムではあるが∀1が基いとなっている。(若しくは∀3と言ってもよいだろう。) 他曲と同様当然つねにA1が基底に流れているといえるが、この曲独自にはその遁走を通しての変奏スタイル、例えば第5〜6小節の第1声部のパッセージなどは(このスタイルは、全く同旋律を4小節遅れで追う第2声部のそれを含め、何度か繰り返される。9〜10小節,変形パターンとして20〜22,29〜31小節等々) 或る種未完F第1主題の変形ともとれる。 (※視点を変えると、当パッセージ・未完F第1主題ともに、∀1(∀3,+A1・A3)の変奏であると云えるだろう。) そしてまた、この曲の全体、すなわちカノン形式を用いたここでのA1主題の展開仕様そのものが、未完F第2主題を目指している(リズムこそは9/16だが、音列そのものに見い出せる意図として。)

 

2005年01月13日

カノンBWV17 グレーザー13番 Canon alla Duodecima in Contrapuncto alla Quinta

未完F第3主題というのは、特有の雰囲気を持っている。 通常主題、とされる最初の3〜4小節部分のみの中にも集約的に充分示される通り、B支配(古旋律のような、レミファソラ ♭シドレ)のtoneから、近代の短調旋律であるH支配(レミファソラシ ♯ドレ)へとまさに上昇しようとする現場のような主題である。その部分ばかりでなしに、未完Fの中で繰られる主題の流れ、あの<全容>を考えても、旋律の動きはたえずHへの上昇と加えて更なる上昇(ホ短調への転調示唆)と逡巡、暗い逆戻り、また繰り返される上昇志向と後退、というように非常に悶々とした、かつ激烈な仕様である。 B-H運動に関わっているのは、何も第3主題のみではない。冒頭から出現する第1主題も、第2主題も、そもそも未完F全体で鳴らされる旋律の全てが、ニ短調という場、この位相にしてこそ可能な妙を駆使しながら、それぞれに壮絶なtoneでこの精巧なB-H劇を物語っていくといっても過言でない。だから第3主題が登場する迄には、その<精妙なる可変性>への凄絶なる準備が、すでに十二分に整っている、といった風である。

さてカノンであるが、動きの細密な6連音符には始まる、二重対位法によるこの12度カノンは、例えば未完Fの全体的な印象としての精神性などと較べれば、やはりバッハらしく暗く知的であるが、凄絶さというよりは寧ろ見透かすような機知に富んでおり、透徹して視界が明るい。 だがここにて8小節差で織られていく双つの見事な旋律には、巧妙なBからH、HからBへと繰り返される問答の糸が、やはり貫通している。 未完Fより暗鬱とした感がないのは、短調〜別の短調への転調の合間をつなぐ、長調(めいたもの)の介在時間が長いからということもあろう。

これは未完F(殊に第3主題に典型的)にもある現象だが、音楽的には古調めいたニ短調(レミファソラ ♭シドレ)から近代的なニ短調(レミファソラシ #ドレ)に移調するには、その前提または間に長調(めいたtone)を介在させなければならない。 未完F第3主題では、――頭の中で、その旋律に添う和音の移行を思い描けば分かり易いが――あのB-A-C-H… ♭シ-ラ-ド-(natural)シ-#ド-レ-#ド-シ-#ド-#レ-ミ-シ-ミ-レ-ド#ド-レ...:第193〜201小節)という一連の短調旋律を分析すると、 まずB支配の古調めいたニ短調旋律(♭シ-ラ-ド;この時([ハ長調前提]→ヘ長調の和音が添う)⇒次にH支配の近代的短調旋律(シ-#ド-レ;ト長調→ニ短調添)⇒#ドシ #ド (イ長調添)⇒#レ_ミシミレ(ホ長調添)⇒ド(イ短調添)_⇒#ド(イ長調添)⇒レ(ニ短調添)、この後紆余曲折して束の間ハ長調に安んじ、すぐにまた同旋律を繰り返す、というふうに、暗にめまぐるしい長調乃至短調に添われた転調を内包している。

もっと単純化して言えば、(前提:ハ長調)-へ長調-ト長調-ニ短調-イ長調-ホ長調-イ短調-イ長調-ニ短調...(ハ長調)、という具合である。 これと似た兆候が、――もっと長調の占める息は長いが――このカノンBWV17にも見られるのである。 最も頻繁な転調(めいたもの)を示すのは第25〜34小節辺りで、ハ長調-(イ短調)-ニ短調-(イ長調)-ハ長調-古調ニ短調-(イ短調)-近代ニ短調、という形である。これは未完Fを殊に彷彿させる。 これ以外にも、B⇔H間の交代が、様々な転調を喚起している。B→Hの交代がニ短調からイ短調への転調のきっかけを与えたり(5小節)、H自身がイ短調からイ長調への移行を内包したり(18小節)、HからBの交代がイ長調からヘ長調への移行を呼び覚ましたり(19小節)再び今度はBからHへの交代でヘ長調からハ長調へと転調(23〜24小節)している(この後イ短調へ)。

このカノンの主題は基本主題A1を装飾し変形した形になっているが、Cp10-E主題などとの併走も可能な主題のように思える。また直接の併走は出来ないが、未完F第2主題(途中までは併走可能である)を生み出すか、変容させつつ生み出す可能性を抱いていると思われる。未完F第2主題をそれぞれに想起させる要素があるのは、他のカノン群の曲たちもおそらく同様である。

 

2005年01月14日

カノンBWV16 グレーザー14番 Canon alla Decima in Contorapuncto alla Terza

基本主題の転回形∀1のシンコペーションである主題∀7。 細かく複雑な書き方をすることも出来るだろうが困難なので、この曲の特徴をごく単純化した表現で記すと、ニ短調という調性の曲とはいえ、内実としては主にへ長調系(へ長調志向,若しくは内在・前提の)古-ニ短調とハ長調系(ハ長調志向,若しくは内在・前提の)近代-ニ短調)と、また時にはイ長調系(イ長調志向,内在の)近代-ニ短調の交代劇、ということになる。主に、である。

もう少し細かく言えば、ホ長調やハ短調、ニ短調(ニ長調?)、イ短調、変ロ長調、変二長調などのニュアンスも含まれる部分があると云えるかも知れない。が大ざっぱに言って全体的色調として明る目のこのカノンは、そのニ短調という位相の中で実はへ長調・ハ長調、時にはイ長調とも言うべきtoneを伏在させつつその志向性を巧妙に交代し、展開していく楽章だと云える。

それは勿論のことながら、めくるめくB⇔Hの交代劇が及ぼす作用としてそうなるのであって、その因果関係からBを含む調(ヘ長調)とHを含む調(ハ長調・イ長調)が暗示的に背後にうごめくのである。 中でも興味深いのは、B支配とH支配が同一小節の中に見事に混在している、例えば第20〜21小節などの場所である。 高音部(ソプラノ)はその少し前からずっとB支配のtoneを保ちつづけているが(=ヘ長調志向的二短調)、低音部(バス)はこの時――20小節後半〜――H支配に変わり(=イ長調志向的ニ短調)、得も言われぬ巧妙な遁走を成立させている。この小節はBとHの支配両義性を帯びることにより古調と近代調の二重性を帯びている。31〜32小節など同様。

尚、第40小節から、ソプラノとバスの役割は交換され、冒頭からここまで10度のカノンを保っていたものが、以後は二重対位法により7度カノン(octv-C)へと転じている。 当カノンも他と同様、全容としてそうであろうが、殊に7小節後尾〜8小節のバスの動き、11小節後尾〜12小節のソプラノの動き(これらの転回形が15〜16,19〜20にあるが)、28〜32小節ソプラノの運動線などは、(octv飛びで幾らか極端化したうごきであるが)未完F第2主題の一種の前哨であると思われる。 勿論全体としてはひとつの旋律乃至小節内でのBとHの共存乃至両義性を確立することに主眼があり、未完F第3主題の存在を前提にしていると思われる。

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バッハ、フーガの技法2
2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2004年03月19日

一ヶ月振りになってしまったが、次回からCp1からの楽曲分析に入りたい。

その前に一度バッハの他の主要作品と比した時の「フーガの技法という作品」に就て、この時点で形成された感慨を記しておきたい。 一体ここで表現されているものとは何なのだろうか。 先ほど自分の部屋を離れ、或る用事で兄の部屋を訪れた時、フーガの技法と「類似した音列」が偶然耳に入ってきた。 たしかに同じ類型に属されるであろう音型である。ドアノブに手を掛けたまま耳を澄ますと、それは聞き慣れたはずの平均律第1巻8番fugaであった。 平均律第1巻それ自体、2巻と較べれは「フーガの技法」の世界とはやや離れたロマンチシズムの有る音楽性のものが多いかも知れないが、4,8,12,24番というのはかなり実存性が濃厚な作品であり、その精神世界も諦観や虚無に通じるシビアさも伺える。 がやはり、8番にはまだ或るロマンチシズムともいえる境地が残っているであろう。あそこには、所謂「祈り」がある。

フーガの技法には、「祈り」はないのだろうか。 厳密な意味に於る祈りは、全くないとは云えないのだろうが、両者にはやはり、宗教性の意味、その位相が異なるという印象を受ける。 元来平均律に於てさえ、その「祈り」とは所謂キリスト教的な意味の祈りというよりは、その境域を脱皮してしまった<実存>の祈り――‘他の存在者’を介在させない、じかに<己自身の魂>の祈り――がある。がそれは言い換えれば余計な要素(介在的観念)を取り除いた、純一に・高度に普遍的な意味に於る「宗教的」次元としての祈りであるとも云える。 だがフーガの技法に見出されるのは、――祈りがある、と言うにしても――もうすでに「祈り」に含意されるであろうロマンチシズム(向き合いつつ包摂される存在者≒神、というものを前提にした主観や観念)の片鱗すら殆ど皆無であって、実存者の思弁と思惟が殆ど剥き出しになっている、という印象を強く受ける。

バッハの作品に限らず、或る音型乃至或る音型の連鎖というのは、そのままその作品および作者の「精神」を現わしている、といえる。そういうことになってしまうのである(音楽表現、というものは、おそらく。)

するとフーガの技法にあっては、そこでバッハが対峙していたものとは神(と言われるもの)でもなくいわゆる宗教「性」でさえなく、敢えて言うなら宗教的もしくは哲学史的に見、また思想的に言っても、本当にぎりぎりの‘宗教性’に属する境位の膜をすら脱皮してしまうかにみえる魂の位相に於ける(祈り)=括弧付きの祈り、であるということが出来るのかも知れない。じつにシビアな実存者としての己が露わとなった世界である。

 

2004年03月20日

>本当にぎりぎりの‘宗教性’に属する境位の膜をすら脱皮してしまうかに みえる魂の位相

とは何か...

所謂「祈り」をなくした次元の実存にも残りうる最後の宗教性、というものがあるとしたら、それは何か。

全てを説明され尽くしたあとに残る一文、 では何故‘このように’在る(有る)のか、という応えのない問いかけであろう。それとともに、とにかく‘このように’在るものにただ即するのみ、という実存の軌跡であろう。 それは言い換えればまた、バッハ自身が達成しえたもの、それ自身のもつ神秘である。 何故かは知らぬが ‘このように在る’ ものに、即し・是を形象化(成就)し得たその特異なる営為、その人為の神秘である。

 

2004年03月25日

平均律第1巻8番Fugueと The Art of Fugueとが、

>同じ類型に属されるであろう音型 であると思われるにも拘わらず 8番にはまだ或るロマンチシズム ・祈りともいえる境地が残っているであろう。のに、フーガの技法には、(殆ど)「祈り」は ない

のだとすると、それは何故か。

>両者はやはり、その持つ宗教性の意味、その位相が異なるという印象を受ける

ということに、何故なるのだろうか。

是に就て、先日まだ省みていなかった。 ところで「フーガの技法」の殊にどの部分が、平均律(1巻)8番と同類型に聞こえる音列と感じられたのか... それはおそらく両者の主題(基)そのものの組成にあるだろう 改めて思い直してみたところ、 最も端的にはこのようなことが思い当たる

・平均律8番…(変ホ短調)ミ♭-シ♭--ド♭シ♭ラ♭ソ♭ラ♭シ♭-ミ♭-ラ♭--ソ♭ファ

・フーガの技法…(ニ短調)レ-ラ-ファ-レ-ド-レミファ-ソファミ [or ・フーガの技法-終曲第1主題…(二短調) レ-ラ--ソファ---ソ---ラ---レ--]

このうち、♭が6つの平均律8番のほうを仮に半音下げて同じ「二短調」にして考えると、こうなる。

・平均律8番…(変ホ短調)レ-ラ--シ♭ラソファソラ-レ-ソ--ファミ ・フーガの技法…(ニ短調)レ-ラ-ファ-レ-ド#-レミファ-ソファミ

[or ・フーガの技法-終曲第1主題…(二短調) レ-ラ--ソファ---ソ---ラ---レ--]

こう見るとやはり同じ親から出現する変奏曲同士のような関係であることはわかる。 ではそのフレーズ処理の主な違いは何か。 一言で言って、双方ともに巧みな対位法に基づいた楽曲ではあるが、前者はメロディク、すなわちメロディ性がより前面に出た音列によりロマンティックなアップダウンが目立つ。そしてその醸し出されるメロディの息の長さが優先される分、対位法の展開が先へ先へと持ち越される形になっている。 だが後者フーガの技法では、メロディクに旋律を生かすことよりも、対位法の駆使が何より優先されている。きわめて厳しい音の持続性と和声の緊張感の高さが際だつ処理がなされていく。したがって、前者ではまだ名残のみられる第2声部の出だしのもつ付随性(主題=第1声部に対する従属性・伴奏性)が、後者に於てはより(主題=第一声部に対し)対等・等価に近づく。

これにより、いわゆる「雰囲気」と呼べるような空気感――主観性の膜――の醸成は削がれ、代わって弾力性・躍動感(こちらは主に冒頭主題)か もしくは、凄絶さ・絶望感(こちらは主に終曲第1主題)が、何れにせよ、現実にじかに即した実存のシビアさのようなものが主題そのものに内在しはじめ、声部同士の関係にも重々しい気分と厳格さが否応なしに具わってくるように思われる。

 

2004年09月14日

再度、再開に際して フーガの技法にかんする研究など、すでに多くの優秀な専門的知識を有たれる方々のなさっていることであろう。 そういう思いが、時折浮上しては、ふとこの探求を私自身にこれ以上続けさせぬよう働きかけてきたかも知れぬ。 だが物事は必ずしもそういうものではないだろう。 これまでの私の筆記を読み流していると、やはりこのよな文句が多々登場する。

「…の主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは…に出てくる基本主題の変形の転回形…といえる形の応用である。それは、元はといえば△△主題の転回形…からおそらく生じているだろう...」

「何故、この二つは呼応するのか。 また何故、××の主題は、《出現しうる》のだろうか」

「このように、別の主題のエサンスの代表同士も、勿論基底が同じな為、互いに緊密に繋がっているのではある。 (これらが半音階性脱着がそのまま主題化し…主題の《巧みな伏線》になることは非常に示唆的である。) バッハは未完フーガに於る対位法駆使の中で、この種の半音階性の脱着を、《水面の波のように可変的に繰り返し》ながら、いよいよ主題そのもののkey音を用いて第1主題→第3主題(=B-A-C-H主題)への移行に寄与させるのである」

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専門的な学科や先生に付いて研究している訳ではないので、私自身まだ参考にする書物といえば2〜3のCDに添付されていた詳しい解説書くらいなものだが、そうしたものを読んでいる際にも、最も立ち止まる点は、 「まずは基本主題と《関係のない》第1主題が展開されゆき、…ついで○○が絡み合うようになる」とか 「この主題は暫く優位を占めているが、《やがてあまり知られていない2つの主題が加わ》って...」といった書法である。 それらの言葉は、まるで『或る主題Cは、AとB両者の対話進行や解決を図るためにバッハによって唐突に挿入された、これまでのものとは“無関係”の主題、』という印象を受ける。

尤もこうした書法は、素人へのフーガの技法の構造解説書としては充分なのかも知れぬ。が、私の場合どうしても立ち止まる。 哲学でもよく、「対立するふたつのものの対話と対決を解決に導くためには、これらと《まったく無関係な第三者の秩序》が必要とされる、そうした者の登場が、稲妻のように解決への道を開く」といった物言いがなされるように思う。

しかし、無関係な第三者的秩序、といわれるものは、そもそも何故登場し得、また本当に無関係、なのであろうか。無関係なものが、(解決のために)突如として!現れる、ということがありうるのだろうか。 物事が進展し某かの解決がはかられる時、そこには底深い次元での緊密な「秩序としてのつながり」が隠されていない、などということがあり得るだろうか…。

私には、ひとの思考・行動が、はたまた自然界のうごめきが、何故「そのように」成立するのか、そこには何が働いているのか、どう作用しているのか、等に就ての執拗な興味がある。 「Cを着眼しろ、そうするとこうなるからZという結論になる」 と言われる時、「何故Cに着眼するのか、何故Cは、登場してくるのか・しうるのか、また登場するべしと“発想”するのか」「(登場すべきは)Dではなくて何故Cなのか」「Cはそもそもどこからどのようにしてやってくるのか」「Cの登場はこのA×B問題の進展・解決と、どこでどう深く繋がるのか、何故それを見抜く(直観する)ことが出来るのか」 端的に言って、物事の必然性に就ての執拗な探求心がある。

それは私自身の思考が飛躍に付いてゆけないからと云えなくもないが、じつは丹念にひもとくと、飛躍の中に目を見張るほどに緊密な摂理と、物事の連関性を裏付けている、その巧みな働き――要素間の磁力的相互作用と、それらの主体の対話・発展をより緊密に成就せしむる磁場そのものの形成もしくは出現、等々――を見出すことが多いからである。

バッハの魅力もそこにある。 殊にフーガの技法ほど、徹底した合理的摂理に裏付けられた自発性の音楽はない。 同時にそれは、徹底的に“自然な自発性”が生んだ秩序をこれほど合理的構造が貫通している作品はない、ということでもある。 作品をつらぬく、このように傑出した濃密な「熟達さ」こそが、たんに神学と音楽、のみならず、科学と音楽、そして科学と神学という一見これ以上ない程相反する、と云われる者同士を結びつける驚愕を生むのだ。

 

2004年09月16日

Cp.1に就て すこし長いブランクがあったが、その間も折に触れてナガラでずっと聞き続けていた。 無意識にも深く入ってきていた所為か、Cp.1――この冒頭第1曲を聞いてすぐ、最終曲(未完フーガ)が彷彿される。聞いていて、そのまま並行するようにありありとあの未完Fが思い浮かぶのである。 そしてまた随所に、これがあの最終章の各声部フレーズの生まれる端緒になっているであろう所のフレーズというのを、既に冒頭フーガのあちこちに、見出す。 あの未完となった最終フーガの4主題のうち、推測される第4主題とされるものは、いかにもこの冒頭、Cp1の第1主題(A)自身であるから、それ以外の各主題に就て順に触れてゆくことにしたい。

まず未完F第2主題(114小節〜)の由来、前哨的片鱗に就てであるが、 この主題の開始、ファソファミレ#ド(レ)、を彷彿させるものが多々ある。わけても直接的なものは、この一連の動きからであろう。(この前哨となっているものは、伏線的効果(=Cp1、第2声部冒頭旋律自身といえる)や転回形めいたものを含め、他にもあるとして)

まずこれである。

Cp1第3声部が登場してから3小節目、つまり11小節目に現れる第2声部、ソ⌒ソファミレド、続いて(目立ちにくいが)14〜15小節目の(ミ)レ♯ドレファミレ♯ド。 (続いて準-前哨線としての)29〜30小節の第3声部の動き、シミ⌒(ミ)ラレ⌒(レ)レ♯ドシ♯ドレミ⌒(ミ)⌒ミレ♯ド、があり)、 これを引き継ぐ最低音部(第4声部)によるファ⌒ファミレドレドシ。 そして32小節の第1声部ド♭シラ♭シラソ♯ファ こうした伏線達に、弾力が付けられ、折々に16分音符での駆け込みも加われば、未完フーガ第2主題を形勢していくことになるのは必然的である。

またCp1の第1主題(主旋律)自身から伏線を見出しうるのは、まさしく57〜58小節、ミ⌒(ミ)ドレミファレソ⌒(ソ)ミラソファミレド...の部分、また67〜69、ラレファミソファミレ⌒(レ)ファミファレミ⌒(ミ)レドシドラソ♯ファソシ♯ド、であるといえる。

次は、Cp1に見出す、未完F第2主題の由来。

 

2004年10月13日

先日Cp1に見出す最終楽章(未完フーガ)での第2主題の予兆(前哨的片鱗)に就て記し、次回は同第3主題に就て記すとしたが、これらを語る際、実は何とも曰く言い難いやっかいな事情があった。 というのも、こうして鑑みるにつくづく、未完フーガの全主題(1・2・3・4)が、このフーガの技法の冒頭主題そのもの=Cp1冒頭自身に既出しており――つまり未完フーガの全構造そのものが元素としてCp1の冒頭に顔を出し――言い換えればCp1の初めの4小節(より正確且つ充全には初めの8小節)が、未完フーガの各主題で「出来ている」とさえ云っていい程の精妙な、イレコ的事情*が、このフーガの技法にはもともとあるからである。

*…私の場合、Cp1第1〜2小節(つまりCp1-第1主題かつ未完フーガの来たるべき第4主題)は、未完フーガ第1主題と同じ親の子。 Cp1第3小節は未完フーガの来たるべき第4主題(=Cp1第1主題)自身の一部であるとともに大いに未完フーガ第3主題(B-A-C-Hの主題)の伏線である――これは更に8小節まで1括りと考えれば7〜8小節目(第2声部の動き)により明確に存在する――と考える。

また未完フーガ第2主題は、Cp1第4小節の後尾が伏線となり、これは更に8小節まで1括りと考えれば6小節目(第2声部の動き)により明確に存在する、そしてその後の運動によってより推進力を得、未完フーガ第2主題の迫力それ自身へと近づく――、と考える。

しかも、未完フーガの各「主題の由来」と成り立ち」とは、同時に「未完フーガそれ自身の構造(運動)」、ひいてはフーガの技法全体を織りなす構造と運動の成り立ちにも重なり合う訳で、こうした点を顧慮した記をしようとなれば、実に表現も説明も狂おしいほどやっかいにならざるを得ないのである。

何れにせよバッハの音楽、殊にフーガの技法は、そうしたえも云われぬ重層性と交錯性を帯びる有機体、生きた音楽というより他ないが、なおかつ思い切って分節化してゆかなければならない... したがって次に書く未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の由来を記す際には、所々で、親でもありつつ、且つ対等な運動をなす4主題のひとつとしても在る第1主題とのイレコ構造や、すでに触れたばかりの同第2主題との緊密なつながりにも触れながら、という形になるかも知れない。

 

2004年12月12日

>こうして鑑みるにつくづく、未完フーガの全主題(1・2・3・4)が、このフーガの技法の冒頭主題そのもの=Cp1冒頭自身に既出しており... 初めの8小節が、未完フーガの各主題で 「出来ている」とさえ云っていい程の精妙 なイレコ的事情*...

と先に記した。

そもそも主題同士の関係がそうなっているのが面白い。 というのも最終曲(未完F)第2主題――勿論冒頭から伏線的に登場しているが、とりわけCp9(,a4,alla Duodecima)によってその個性を明確に浮上させられ、未完F第2主題に直結しているパターンであるが、この旋律系――は、同第4主題(冒頭Cp1曲-第1声部、すなわちThe Art of Fugueとしての初発の旋律、Aに同じ)と、もともとぴったりと同時進行しうる(伴奏風旋律としての)素地を持っている。

また未完F第3主題(B-A-C-H)も、第4主題(=Cp1曲-第1声部=A)と同時進行しうると同時にこの拡大Fugueとして2小節遅れで進行するに相応しい素地も備えている。という風に、もともと共鳴する素地同士の精妙な組合せである。 未完F第1主題のみが、強いて言えば、未完Fでの第2・3・4(=A1)主題との遁走のための導入としての役割を果たしているといえる(A1と第3主題=B-A-C-Hとの両面を有し、のちに各々分立・併走する、含みのある旋律として。)

が、それでいて4声の大Fugueの一声部としての機能も無論果たす、(最後に展開されるであったろう、予想図に叶う)という具合である。

と同時に、第2主題と第3主題同士も、一見大分個性の違いが見られる主題同士だが、実は同じ発現点を有しており、両旋律の源泉は同じであったと考えられもする。

それを示すものとして まず早々に、冒頭曲(Cp.1番)第6〜8小節の第2声部には興味深いものがある。

↑ラー↓ラシドラファー⌒(ファ) シミー⌒(ミ)ファミレミーファ#ーソ

この、↑ラー↓ラシドラファー は、未完F第2主題の伏線であるが、その後の シミー⌒(ミ)ファミレミーファ#ーソ の半音階処理風ラインは、明らかに第2主題(B-A-C-H)の前兆である。もしこの前兆づくりを意識することなく、第2主題的旋律を押し進めていれば、 ↑ラー↓ラシドラファー⌒(ファ) シミレドシラソ#ラソファミレ... (実際この種のラインのまま進行している箇所は他にはあるように記憶する) などとなるはずである。

がバッハに、他ならぬ曲集の「冒頭」で、B-A-C-Hの予告する必要があったと言うことである。

 

2004年12月13日

>未完F第1主題のみが、強いて言えば、未完Fでの第2・3・4(=A1)主題との遁走のための導入としての役割を果たしているといえる(A1と第3主題=B-A-C-Hとの両面を有し、のちに各々分立・併走する、含みのある旋律として。)

と記したが、これでは大きな点を欠いている。

つまり、未完F第1主題とは、

>第4主題=A1(=Cp1冒頭部)と第3主題=B-A-C-Hとの両面を有し ているばかりでなく、 同時にあの重厚で推進力に充ちた第2主題をも「生み出し」「互いを推し進めて」いくものともなっているからである。

もちろん第2主題を誘発し、生み出すと共に添行しやすい相性のよい系譜として<これとの併走遁走(例えば1小節半のズレによる)も、可能である。 第1主題は――当然のことながら――全てとの併走が可能である。 これは他の全ての主題からも云えるが殊に未完Fに於ては第1主題が他の全主題の現出を巧みに促している…。(導入部とされるのは至当)

未完Fの第1主題は、同第2主題をも「生み出し」「互いを推し進めて」いくもの... とはどういうことか。 これは「フーガの技法」冒頭(Cp1)の書法からすでにその片鱗が見られる。

 

2004年12月14日

一昨日記した、Cp1冒頭部(6〜8小節) ラシドラファ⌒(ファ)シミ⌒(ミ)ファミレミ―ファ#―ソ

であるが、 この断続的な、幅のある上昇=ラファ⌒(ファ)シミ⌒(ミ) の進行パターンに注目したい。

これはCp1全体に渡ってあり、重々しい主題を邁進させる力の原理となっている。 最初は静かな上昇パターンとして、Cp1テーマ旋律(=未完F第4主題;A,)や半音階進行風旋律(第3主題予兆)に添行しているが、遁走の中で繰り返すうち次第に推進力を増し、 9〜11小節 ↑レ↓レ↑レ⌒(レ)ド#ーレラド⌒(ド) ラシ♭⌒(シ♭)ミラ 12〜14小節 (ラ)ドーシド⌒(ド)↓レ↑ド⌒(ド) ラシ⌒(シ)ソ#ラ 曲に弾力を与え、加速度的に未完F第2主題にも通じる最初の原理(ソファミレド♭・レドレファミレド、等のパターン:11小節,15小節)を喚起する。

これらの音の飛躍を含む押し上げるような旋律パターンは、高音部での進行と同時に、中〜低音部などへも引き継がれると、 (20〜30小節などが顕著。各声部にて交換的に行われる) 上記の未完F第2主題に繋がる旋律をも加速度的に次々と促していく、という構造が見える。 これは未完Fの構造そのものである。

未完Fは、まさに導入部(第1主題)のレ_ラ_がすべての跳躍的弾力性を象徴しており、この系譜を継いだ各旋律を通し、プレスト第2主題の出現と併行を喚起するとともに一見対比的にたゆたうようなB-A-C-H(第3主題)の出現という展開を惹起させる。(がよく見るとB-A-C-Hの前兆系譜は未完F曲の全般に渡り第1主題の弾力的系譜に添行していたのである、)という恰好である。 こういう訳で結局の所、未完Fの導入部たる第1主題の系譜は、フーガの技法の冒頭(Cp1)から顔を出している、ということになる。

 

2004年12月15日

>未完Fは、まさに導入部(第1主題)の レ_ラ_がすべての跳躍的弾力性を象徴しており、この系譜を継いだ各旋律を通し、プレスト第2主題の出現と併行を喚起する とともに一見対比的にたゆたうような B-A-C-H(第3主題)の出現という展開を惹起させる

としたが、ここで「レ_ラ_」が未完F第4主題(=Cp1第1主題=いわゆるA1)と、この未完F第1主題とに共通なことに再度触れなければならない。

この両者のレ_ラ_の違いは何か。 未完F-4(=Cp1-1=A1) レ_ラ_ファ_レ_ド#_レミファ_-ソファミ 未完F-1 レ_ラ_-ソファ__ソ__ラ__レ 同じ開始でものちのニュアンスの連れ込みに相違があるのにまず注意する。

上はどちらかというと、のちに続くフレーズは半音階的ニュアンスの濃い浮遊的旋律使いを誘発する。これが、A1であると同時にのちに未完F第3主題(B-A-C-H)をも引き出していく傾向。 が下は、実際の楽譜にも見られるように飛躍のある押し上げ的旋律で弾力を鼓舞するニュアンスの旋律使いが続いていくようになる。 その証に、これを受け継いで展開していくフレーズは以下のような群となっている。

未完F 6〜9小節 …レ_ファ⌒(ファ)↓シ↑ミ_↓ラ↑レ↑ラソファ↓レ↑シラ...

12〜15小節 …レ#ドレラ#シ⌒(#シ)↓ソ↑ド⌒(ド)↓ラ↑レド...

13小節(最低音部) …↓レ__-↑レミ 17〜20小節 ファ↓ド↑ファ⌒(ファ)↓レ↑ソ⌒(ソ)↓ミ↑ラソ...

こうしたパターンが諸声部に交代で受け継がれていく。 (この音型を頭に入れると、これよりダイナミズムとしては柔弱だが、その分半音階性への移行可能性をたたえた系譜として、昨日触れたCp1冒頭、以下の小節が浮上する。

9〜11小節 ↑レ↓レ↑レ⌒(レ)ド#ーレラド⌒(ド) ラシ♭⌒(シ♭)ミラ

12〜14小節 (ラ)ドーシド⌒(ド)↓レ↑ド⌒(ド) ラシ⌒(シ)ソ#ラ

これらの冒頭の系譜は、このことからも弾力の系譜――Cp1:A1→((Cp9:D))→未完F第2主題)と浮遊の系譜(Cp1:A1→未完F第3主題B-A-C-H)、両者をたたえている

何れにせよ、未完F-1(Cp14:第1主題)の この弾力が、未完F第1主題それ自身とともに同第2主題のアグレッシブさを触発し、遁走の仕様の中でグイグイと引き出していく傾向。――この未完F-1型は、同第2主題の直接の先駆けとなるCp9-第1主題=D*の跳躍的octv上昇にも、未完F-2(=Cp1-A1)型の側の傾向と共に、絡んでいる。

*…D(↓レ↑レ_-ド#シラソファミレド#レミファ...) この両者の性質が相まって生まれるのが、そもそもフーガの技法冒頭Cp1曲想であり、より弾力的・重厚荘厳な曲想の帰結としては、終曲未完F(Cp14)である。

ところで、他方の浮遊旋律――半音階志向=B-A-C-H型を考えてみると、 B-A-C-Hの音順のままではじぐざぐの蛇行型浮遊に感じられるが、 音順を替えるとこのように並ぶ。

(A-B-H-C) ラ-♭シ-シ-ド

若しくはこれを逆にしたもの(C-H-B-A) ド-シ-♭シ-ラ

この微弱な、考えられる限り最も飛躍のない進行パターンも、この曲集の中にちりばめられている。

これも含めて考えると、B-A-C-Hの予備軍乃至空気は曲集の中にあふれている。これについてはいつかまた触れる。

 

2004年12月16日

こうして見てきた後、Cp1を大まかに振り返ると、絶筆後想定される未完F第4主題でもあるCp1第1主題=A1を、冒頭の主旋律としながら、遁走形式を通じ次第に被せられていく第2声部,第3声部、第4声部の諸添行旋律が、思えばちょうど未完F-第1主題(導入及びエンタテイメントの役割)に直かに通じるものを備えていくよう計られており、その際、これまで分析したような飛躍的な音の押し上げ(時にCp9-Dへも繋がるoctv押上や6度押上を含)を伴う弾力系譜と、半音階な曖昧(浮遊系譜)とを巧みに融合しながら、時にダイナミック、時に微細にたゆたう陰翳を交互にたたえた可変的副旋律として、Cp1(冒頭主題)-A1に付き添いこれを進展させつつ、同時にそれ自身未完F-第2主題と第3主題、両者に相当する両系譜への伏線へと、最終的にみづからを形勢して行っているのがわかる。

Cp1に頻繁に登場する量系譜の融合的旋律とその遁走群は、既出した 6〜9小節 9〜11小節 12〜14,15小節 13小節-最低音部 17〜20小節-第1・第3声部 17〜20小節-第4声部 以外には、以下の如くである。

20〜22小節-第1・第3声部 20〜22小節-第4声部 23小節-第4声部 25小節-第4声部 26〜28小節-諸声部(上下行弾力系) 29〜30小節-第2声部 (29〜31小節-第3・4声部=未完F第2主題へ至る系譜) (31〜34小節-第1・2・3声部=同上) 35〜41小節-諸声部 42〜43小節-諸声部・未完Fの複合体(原基) 44〜47小節-2・3・4声部(上下行弾力系と幾らか柔弱系) 50〜53小節-諸声部(融合的押上) (57〜59小節-第1声部=未完F第2主題へ至る系譜) (59〜62小節-第1声部=未完F第3主題へ至る系譜) 63〜66小節第1・第3声部=推進力の形成(未完F第1主題のモチヴェーション) 67〜最終小節-諸声部・未完Fの複合体(原基) という具合に読める気がする。

いずれにせよ、微弱な、乃至弾力的な旋律の押し上げ――とこれに伴う下降=対位法、転回系としての)は、未完Fの導入(第1主題)のありかたと支配力(第2主題・第3主題の喚起・生起と併走交錯、登場するとされる第4主題との相応、etc――を全て決定づけているように思われる。

 

2004年12月17日

Cp2に就て記す前に、未完の最終楽章を、また何度も聞いてみる。 そして、それぞれに付点が特徴的なCp2,Cp6,Cp7に就て...、それぞれの特徴と質的差異、さらにそれらの構造上の繋がりに就て――当然未完Fを念頭に置きながら――、曲の断片からの閃や想像などを組み立てて、改めて少しずつ形成される思いを馳せていた。

曲集と変奏の始まったばかりである段階のCp2は、仮想の最終構造(つまり未完F)から見た場合、主にA1(Cp1の冒頭主題であるとともに未完Fで予想される第4主題)と、第2主題、第1主題(未完F冒頭出)との掛け合いのための、前哨になっている、と思われる――第3主題(B-A-C-H)は、ここでは未だあまりその片鱗が現れない(皆無ではない)。――

殊に、まずは曲の推進力として重要な、第2主題の生起をより明確化させたステップであるように思われる。(勿論、ステップといっても曲そのものの出来合いとして巧みに自立していることは間違いないが。この曲想は、荘厳さの中に、ある性急さが存り、まるでみづから審判を仰ぎに挑んでいくような様相である)

特徴的な、初めての付点の登場。 つっかけて行くような付点は、どっしりと重厚な曲の全体的な進行の中に或る種の挑戦を見出させ、ぐいぐいと前進するようなアグレッシブな感覚をもたらしている。 アグレッシブ――これは、ちょうど未完Fの中で第2主題がその主な役割を演じているのと同じであるが(但し、未完F第2主題には付点はない)、そもそもその<第2主題的要素>が何処から出現可能であるのか、をよく明かしている部分とも云える。 それは付点の効果により、Cp1より如実に明るみに出されているといってよい。

レ_ラ_ファ_レ_ド#_レ_ミ_ファ__ソファミ..の冒頭主題のうち、 最後のファ__ソファミに付点を掛け、後はそのままこのパターンを継承することでみづからは未完F第2主題の特徴の基をやや強調的・弾力的に作り上げ(つまり第2主題はA1自身から生じている!)、他の声部にA1の旋律を交互に絡めさせることでA1と第2主題との遁走をも形成・成立可能にしている。

と同時に、A1〜付点効果A2の分岐点とは、これが第2主題生成可能性の地点であると共に、のちのA3 A3(レ_ラ_ソファ_ミレ_)の登場を予告する。 そしてA3+∀3(レ_ラ_ソファ_ミレ_ + ラ_レ_ミファ_ソラ_)というのは、未完F第1主題(レ_ラ_ソファ_ソラ...レ)の基点である。

こういう訳で、Cp2の中には主に、未完Fでいう第1(A3+∀3の予兆)・第2・第4(A1)との遁走が成り立っている。 この後、第2の推進力をより顕著に存在させるCp6を通して、より明確化した第1(A3+∀3)と第2・第4(A1)との遁走を経、再度Cp7を通して、今度はより、残りの第3主題(B-A-C-H)への前哨を所々に散りばめながら、あの未完Fの死への疾駆、はもとより、その前の緊迫した曲の膨張、またその後の不安な明るみ(不安定な諦観)等々に当る部分の暗示を早くも造りあげていく。と言う風に見える。 この後、それぞれに相当する部分を詳述していくつもりである...

 

2004年12月18日

Cp2に関して記すに当たって、昨日は主に2つの点を指摘した。

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・第2主題の生起を、(Cp1)よりも明確化させたステップ (主題A1の最後尾に付点処理を施し(=A2)、この付点パターンを以後貫徹することと同時に、同パターン(A2)での他声部との遁走により未完F第2主題の特徴の基をやや強調的・弾力的に作り上げていく。=第2主題はA1自身の変奏(A2)とその遁走の仕組から生じている。同時にCp2曲全体としては、A1と第2主題との遁走の成立可能性をすでに証しはじめている。)

・同時に、A1〜付点効果A2の分岐点とは、これが第2主題生成可能性の地点であると共に、のちのA3(∀3)の登場をも予告する。 (A3=レ_ラ_ソファ_ミレ_) (∀3=ラ_レ_ミファ_ソラ_) ※合わせて未完F第1主題(レ_ラ_ソファ_ソラ...レ)

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このうちまず前者だが、 A1の付点変奏=A2とその遁走が何故、未完F第2主題の前兆となるのかについて。 雰囲気としては掴める人が多いと想うが、説明するのがむずかしい。 だが 未完F(114〜小節) 1)ファソファミレ#ド 2)レラレミファミレファ・ミラミファソ[ファミ]ファソ(8分音符系列:[ ]内=16分音符) 3)ラソファソラ__ソ#ファソラ#シ__ 4)ラソファミレミソファミレドシラシレ...

……

Cp2-A2(4〜小節) 1)ファソファミ・レミレド・ドレドシ 敢えて付点を外した記し方をすると ここまでは直線的進行で波がない (6小節) 2)シラシドレミファレ ここで幾らか上下の波が生じる (未完F-レラレミファミレファ、に近い型) (21〜22小節) 2)#ドレファミレソ#ラシドレファ__[ミレ]#ドレ 全体が8分音符+16分音符進行の中、[ミレ]のまとまりは32分音符、こうしたフレーズは、未完F-2)のミラミファソ[ファミ]ファソ、の類型 そして、11小節移行、フレージングに、未完F-3)に近いレガト(息の長さ)が生じる。 これは異声部間とのやりとりを、ひとつのフレーズとして解釈する場合にも、また同一声部内でのフレージングにも、存在。

例(11小節) 3)ラシドレ_ (11〜13小節) 3)↓ミ↓レ_↑レミ_ファソ_#シラ_ソファ_ソファ_ミレ_ミファ_ソラ_

*この↓ミ↓レ、から↑レの上昇だけは、これまでの付点の巡行性からは異例で、躍動的上下行をする未完F2)の類に近い。ここと並行して (12小節) #ドレミファ_ (15〜17小節-第3/4声部) ミファソラ_........#ソラシ#ドレ_ ..........ラシドレミ_ (19〜20小節)

..................

ラ#ファソラシ_ラ_#ソ ファレミファソ_...ドドラシドレ#ドレ_ミ_ (23〜24) #ドミファソラ_

.............

ラシ#ドレ_ド_ (27小節) ソミラソファ__ (28小節) ミファソラ__ etcetc 多数

未完F-4)パターンに近いフレーズの登場。 (8小節) 4)↓ラ↑ラ#ソラレソ__ファミレ#ド (29〜30小節) 4)#ソシラソファミレソ 明日は、付点変奏(A2)=A3+∀3(→未完F第1主題へ)、について。

 

2004年12月19日

今日は後者、

・A1〜付点効果A2の分岐点とは、のちのA3(∀3)の登場をも予告する… (A3=レ_ラ_ソファ_ミレ_) (∀3=ラ_レ_ミファ_ソラ_)

※合わせて未完F第1主題(レ_ラ_ソファ_ソラ...レ) について。であるが、

何故 A1旋律尾の付点処理が、A3・∀3の登場に契機を与えるのか。 付点が付いても、A1のフレーズとしての音型は変わらない。 レ_ラ_ファ_レ_#ド_レ_ミ_ファ__ソファミ が レ_ラ_ファ_レ_#ド_レ_ミ_ファ__γソファ_γミ(γ…16分付点のかわり) となっただけである。 しかし間もなくこの付点パターンを独立的な仕様として無限に繰り返す他声部(交代制)の出現と、両者(4声部)の遁走を行う内に、多声部間のやりとりがひとつの声部のフレージングとして耳に入るようになり、次第に レ_ラ_ファ_レ_のレガトの間に中間音が介入する仕組みが、おのずと耳の中に蘇生されてくるのである。 何よりまずリズムとしてこの用意が出来る。 またフレーズとしては、間接的に主にこうした箇所に於いて飛躍的に前提が敷かれるような気がする。

(22〜23小節) #ドレγファミγレ#ソγラシγドレγファ__γ[ミレ]ドγレ (31〜33小節) ミγファミγレレγミレγ#ドレ .....................ラシγ#ドレγミファγレミ..................♭シラγソファγミレγ#ドレ

(34〜36小節) ラ#ソラレ_ソ__γファミレミ_ラ_ ........................ドシラソ_ラ_ ...........................ソ⌒(ソ)ファミγレミ

(37〜37小節) ソ#ミ__レドγシドγレミ__γファミγレラ

こうした、中間に音の飛躍のない、細かい動きのフレーズである。 こうした過程を経て ラ〈シドレ〉ミ_ド_ラ_#ソ_ラ_シ_ド... ラ_ミ_〈レ〉ド_〈シ〉ラ_#ソ... などの介入の布石がなされる。 こうして主題A1へ挿入される中間音受け入れの準備(A1→A3・∀3)が出来てくる

Cp2には、まだあの、曲を不可思議な天上的不安と終末美へと超脱・膨張させていくような、未完F第3主題の暗示性は殆ど登場しない(皆無ではないと思われるが)分、悠長な流れの中にもひたひたと向かっていく終末と審判への調べは無いが、そのぶん意志的・雄壮でもある。それは未だ未完F第3主題(B-A-C-H:半音階調)を含意しない段階での、曲の地上的特徴だろう。がここで、たしかにフーガの技法のほぼ全般に渡って要求される、推進力(未完F第2主題)の要素が確立されたのである...

 

2004年12月20日

Cp3、フーガの技法第三曲目であるが、すでに終末的気分の暗示にみち、未完フーガの有つ雰囲気を、曲全体に彷彿させている。 Cp2にて、主に未完F-第2主題の契機が作られ、同-第1主題の大前提(A3+∀3の惹起)がなされていたが、ここCp3は、残り第3主題(B-A-C-H)の成立気分に満ち溢れ、主題である∀1(ラ_レ_ファ_ラ_♭シ_ラ_ソ_ファ__ミファソ)の登場もさることながら、その前口上である冒頭フレーズ∀'1(レ_ラ_ド_ミ_ファ_ミ_レ_#ド__ラシ#ド...とそれ以降の半音階調のながれ)そのものが、B-A-C-Hを彷彿させており、そのゆらゆらと続く半音階調が、次に登場する∀1(主題)に併走し、そのまま付帯状況のように付きまとっていく為、未完Fの成立条件を巧みに含意している。

 

2004年12月21日

またここで新しく登場する主題は先に述べた∀1であるが、半音階進行(細かな中間音介入)に引きずられる曲の進行と共に、Cp2で伏線の作られていたA3・∀3のスタイルが、実際に顔を出しはじめる。(殊に後半) 24〜26,55〜56,58〜59,63(半音階変奏)小節 よって、ここCp3に於て、B-A-C-H(未完F-第3主題)の前兆とともに、未完F冒頭(第1主題)の具体像が暗黙に展開され始める。(より積極的にはCp5にて) (※A3・∀3自身が「主題」として展開されはじめるのは、Cp5からである)

次に詳しい分析。

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(未確定項) ここは非常に語りづらい箇所である。 Cp3と未完F(Cp14)との間には、雰囲気の酷似している点が随所にあるのに、ここがこう、という的確な掴み所がないという気がする。 だが、曲の主題を始終取り巻いているもの、付きまとうものは、少なくとも現時点からもすでに、同じ親から生じる何かだと確信の出来る気がする。 Cp3を通してますます強まる印象は、未完Fに於る、幽玄なB-A-C-H(第3主題)と、勇ましい第2主題とが、ともに同じ起点――最も原基的スタイルとしては、∀1(とそこから派生する付随,併走旋律、としての変奏)――から生じているだろうということである。 そして、この両者を強く結びつけるものは、両者の主題同士、というよりはむしろ、両者の付随旋律の在り様――これの、主題との関係の仕方、また変化・遁走の仕様――といってよいかも知れぬ。

未完F自身、あの4つの主題の現出に至る迄に、さまざまの<伏線>を用意しており、付随旋律・併走旋律とその展開を有している。その間に、それらが或る時はB-A-C-Hの前哨をはったり、推進力ゆたかな第2主題を喚起したり、冒頭第1主題の、或る種の膨張系(一部半音階上昇など)によりB-A-C-Hへの再編を予告したり、という形で弁証法的に進んでいくのである。 どの楽章でもそうであるが、Cp3もそうした伏線やら予兆が多々あり、そのことが未完Fの存在(仕様)を身近に暗示させたり或る種のパラレルな関係を垣間見せる。 未完Fに於る幾つもの(各登場主題への)伏線のうち、13〜20小節(第3声部)の一連の動きや23〜30小節、46〜50小節の1・2声部の半音階的動き、また32・33小節に典型的なラ[シ#ド]レ__レ[ミレ]#ド__、等の動きは、そもそもCp3に酷似しないだろうか。 また未完Fに度々訪れているマタイ的な処理――52〜55、162〜167小節等――と、Cp3の全体的低音処理〔典型的には10〜12小節。だが全体にわたってマタイ的(弦楽)処理と思われる〕、旋律的に膨張を引き起こす72〜73、79〜84、等々の、B-A-C-Hへの変化彷彿の仕様、等々...

また未完F-219〜220小節の処理はCp3-26〜28小節(trを含む)をひとつの原型として示唆させる。etc...

このように未完Fの旋律処理は何か常にCp3(乃至Cp5=∀1→∀3・A3)の要素とその付帯旋律仕様を多分に含んでいると思われる。

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バッハ、フーガの技法1
2003年10月/2004年1〜12月/2005年1月にHPに記したものを転記。このBlog記事総てがその予定であるが、これも電子書籍化なり、非個人的な何かにいずれ発表の予定

 

2003年11月20日 (木)

ついつい、「ながら」でフーガの技法を――オルガン、ハープシコード、弦楽合奏、ピアノと――聞いていた。 それ自身に就て深く聞き込むというのでなく、バッハの他の音楽に就て考えながら、他の音楽家に就て考えながら、演奏家に就て考えながら...そして漠然と、音楽や絵画に就て考えながら、生きていくこと・日常の苛々しい事ども、遅々として進まぬ些末な事どもに就て、考えながらetcetc...。

だがそろそろバッハを考えるに於てこれ以上相応しいもののないであろう、フーガの技法に就て色々と自分なりに探っていかなくてはならないと思っている。 そこで、ついぞ断片的・主題別に摘み読みはするものの未だ真剣に読むことのなかったフーガの技法に就てのCDに添付されたややこしそうな解説書に、目を通してみる。

読んでいるうち、曲を聞きながら自然と形成されていた印象からして、思いもよらぬ記なども、目にする。 ざっと通し読みをしての印象であるが、ミュンヒンガー/シュトットガルト室内管弦楽団のCDに添付されている解説書――高橋昭氏――は、ごく平明で非常にまともであり、納得のゆくものである。

他方G.レオンハルトの「フーガの技法」の解説書は、あまりに意表をつく。 レオンハルトの「フーガの技法」演奏は、彼の他のバッハ作品の時よりずっと装飾が無く、演奏としても演奏する精神としても真率で素晴らしい。私の手持ちの中でも、グールドのピアノによるもの及びミュンヒンガー指揮管弦楽のと同等かそれ以上に、最もお気に入りの、おそらくこれ以上ないほど上質で完璧な演奏、最上級の意味で所謂「過不足ない」演奏である。が、彼が彼自身の解釈により「フーガの技法」の演奏をコントラプンクトゥス18番a・b(これは通常の19番a・bと思われる)で終わらせてしまっていること、また実際そこまでなのである*という彼自身の自信にみちた見解――このCDの解説は彼自身の筆による――には、予め同意できかねるものがある。 何故なら、最後の未完のフーガは、未完といえども最初(第1番)の主題と直結しており、また当然のことながら、彼が此処までが「フーガの技法」と主張する中に含んでいるコントラプンクトゥス第8番や10番、11番にもそれは直結しているからである。 直結しているばかりではなく、寧ろ未完のフーガ(その第1・2・3主題のどれもが)が予めあの「はじまり」(「技法」冒頭の第1主題、所謂“基本主題”と言われるもの)とともに在る、からである。

否…ともに、というよりは寧ろ、未完フーガの1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分である――半音階性が強すぎるため――、がしかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題)を呼び起こすのであると言っていいほどである。 (だからむしろ私自身の正直な印象からすると未完のフーガ――B-A-C-Hの主題(第3主題)と、同時にこれが必要とする同(未完のフーガ)第1主題――は、初発性(謂わば、ネガと粗描のような初発性)であり、同時に大成でもあるはずである。#)

これだけ有機的に濃密に体系として予めつながっている最終曲をフーガの技法の一部として、集大成として、認めず組み込まないのは、ひどく訝しいことである... *未完フーガは原作品の一部でなく、作品の最後に組み込まれたことは作曲者死後の出版上の手違いによるものであり、何か別の曲(3つの新しい作品と言われるもの?)の構想の一部であったとしている。 「フーガの技法」をめぐるこうした問題はレオンハルトにはじまったことではなく、「帰属問題」として昔からあったらしい。(このような問題が、「音楽家」たちの耳の間で歴史的に発生してしまうこと自体――この作品が絶筆であるためにさまざまな研究上の波紋が生じやすいとはいえ――私には信じられない問題である。)

 

2003年11月21日 (金)

「フーガの技法」の楽譜――Peters版Nr.8586b――がもうやって来た。 下手をすると1ヶ月くらい待たされるかと思っていたのに、いささか早すぎる到着... もう少し猶予が欲しかった気もするが、あまり待たされすぎるのよりましである。

楽譜を見ての印象。あまりに有機的で合理的。生物のように、ごく断片的な小節も、他のどこかしらと緊密に繋がっており、隙のない絶対的構築物へと発展されていくという、生々しい予感。 CDを聞きながら追っていると、オルガンも弦楽合奏も、それらの演奏の息づかいが、楽譜を通したバッハ自身の頭脳の呼吸のように、濃密に伝わってくるようで圧倒される。

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昨日の#部に補足 (だからむしろ私自身の正直な印象からすると未完のフーガ――B-A-C-Hの主題(第3主題)と、同時にこれが必要とする同(未完のフーガ)第1主題――は、初発性(謂わば、ネガと粗描のような初発性)であり、同時に大成でもあるはずである。#) これに補筆。 また同第2主題はというと、「技法」冒頭の第1主題ののちの展開――コントラプンクトゥス9番の新主題(開始に単独走する)や、コントラプンクトゥス2番の付点とタイの施された低音部(3小節以降)に象徴的な変奏スタイル、また11番第3主題(8番第2副主題の転回形)とも、じつに緊密な音楽的、乃至運動上の繋がりがあるのである もっとも平明妥当と思われるシュトットガルトChamber orche.添付の解説にも、例えば、コントラプンクトゥス9番開始に単独走する「新主題」に関して、何処から生じるものであるかの説明がないが、こうした、あたかも唐突に出現してきたかのような――or実際そう思われて来た――新主題などにも見られる、有機的な潜伏要素が、これからも、「技法」の各所にバッハによって散りばめられているのが、自分なりに発見(発聞?)できるかもしれない。

 

2003年11月25日 (火)

20日・21日の文章に、補筆を施した

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つづき... 未完フーガ第1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分であるが――半音階性が強すぎるため――、しかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題,所謂“基本主題”)を呼び起こすのであると言っていいほどである。

これに就て 「技法」冒頭第1主題(基本主題)=コントラプンクトゥス第1番の開始:ニ-イ-ヘ-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ と、 未完フーガ第1主題=ニ-イ-ト-ヘ-ト-イ-ニ の差異。 勿論、この間には、当然のようにコントラプンクトゥス5番や6番(反行フーガ)に代表される基本主題の変形、 ニ-イ-ト-ヘ-ホ-ニ という介在者があるので、 こういう書き方をしておくと、 基本主題アルファ=ニ-イ-(ト)-ヘ- (ホ)-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ と 未完フーガ第1主題=ニ-イ-ト-ヘ- ト-イ-ニ の違いは、主に後半部分にある。

前者は基本主題だけあってメロディクで明晰、それ自身に躍動性も存するが、後者は反対に虚しく、茫漠としており、殊に後半の全音符4連の長大な徐行は、他の声部の律動性や躍動的な喚起力を、おのずと要求する。 (この第1主題の茫漠たる長大さは、同じ親から生ずるものの、あの明快な冒頭の基本主題より、はるかに第3主題との関連が濃厚であり、論理的にも緊密な連鎖のある旋律となっている)

実際、この後半ト-イ-ロ-ニの部分にはまず遁走として第3声部の弾力ある旋律が重なるのである――6〜10小節。この進行のダイナミズムは当然同第2主題の予兆であるとともにコントラプンクトゥス8番、11番の各主題とその変形とも連関する――。 また、この後半ト-イ-ロ-ニの部分は、第2声部の動き――17小節以降――をも喚び起こさす。これも基本主題を彷彿させるとともに14a2声の反行カノン(基本主題の変形)も惹起しうる旋律である。 コントラプンクトゥス3番は、最初でもっとも顕著な未完フーガ第3主題の序曲である。それは未完フーガ第3主題の極めて可変的な半音階性を早々に暗示しうる、まだ「明瞭な位相」に於るデッサンであるだろう。

したがって、未完フーガの第2主題はコントラプンクトゥス2番に早くも頭をもたげ(21日に記した)、第3主題は3番にすでに潜在することになる。 余談だがコントラプンクトゥス3番には、未完フーガ第3主題の登場ばかりが見られるのではない。 コントラプンクトゥス3番第3声部の11小節目の動きと、より顕著なのには同第4声部(最低音部)の動き*に、すでに未完フーガ第2主題もが、同時に伏在しはじめて来ている――まだ途切れ途切れではあるが――、といってもまず間違いはなかろう。 *…殊に19〜25小節と、29最後尾〜35小節にその特徴(未完フーガ第2主題の暗示)は顕著である。 またそれらの中間の、trを織り交ぜた26・27・28小節は、未完フーガ第2「主題そのもの」というよりはその遁走部(未完フーガ121〜127小節が代表的)の変奏スタイルといえる。

 

2003年11月26日 (水)

※便宜上、今後「コントラプンクトゥス」をCp.と略す

K.ミュンヒンガーは、通常至極ゆっくりと演奏されることの多いCp.4番を、かなり急速なテンポで演奏している。しかもリズミカルな諸声部同士の掛け合いをややアタッカー気味にくっきりと際だたせている。 このプレストがかったテンポ選択は、まことに示唆的であって、Cp.4番と、最終(未完)フーガ第2主題の濃密な関係を理解させる。 つまり基本主題(Cp.1番)の真の転回形と、未完フーガ第2主題との関係を、である。 ところでこのCp.4番の主題が基本主題の「真の」転回形、と言われるのは、これに対し、その前のCp.3番にまず現れる主題が、基本主題の「調的な」転回形、であるからである。

つまりCp.3番にまず現れる転回形は、調的に転回された基本主題である。 興味深いことに、後半のほんのわずかの差異ではあるが、こちら(調的転回形)は、ファジーな半音階性が顕著で、未完フーガの第2主題をと言うよりは寧ろ第3主題を、彷彿させる。 そしてCp.4番では、3番に較べた躍動感と音階の明瞭さに於て第2主題の本源的な出処が、(まずは付点などの跳躍感を伴いつつCp.2番に於て早々に登場していたものが)いよいよ端的な形で此処にあるのを、確認できるのである。 もっともCp.3番の中でさえ後半には未完フーガ第2主題の前兆(ミュンヒンガーの指揮するテンポでのCp.4番のようなもの)の出現を、特に最低音部の動きに於て、必然的にさせる要素がある。――30小節以降。

であるからここでは謂わば、未完フーガ第2主題のエネルギッシュと躍動感を以て未完フーガ第3主題の半音階的可塑性を描き出す、という恰好がとられているかのようである。―― このように、別の主題のエサンスの代表同士も、勿論基底が同じな為、互いに緊密に繋がっているのではある。 Cp.4番は、オルガンや鍵盤楽器、弦楽合奏など楽器の選定に拘わらずじっくりゆっくり演奏されても非常にうつくしい部分であるが、曲の構造理解という事を考える時、ミュンヒンガーのこの指揮、テンポ選択は非常に賢明のように思われる。

蛇足だがミュンヒンガー/シュトットガルトchamberorche.の音は幾分かup気味である。 (現今)通常とされる「ニ短調」のtoneよりややうわずった調律である。だがこれはCD作成上の問題だろうか まぁいいや

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きのうのつづき... 未完フーガ第1・3主題は、ひとつの曲の開始(主題としての旋律の明快さをおのずと要求される)としては不十分であるが――半音階性が強すぎるため――、しかしあきらかに基いの動機であり、同時に両者の関係のありかたが必然的に第1番の主題(「技法」冒頭の第1主題,所謂“基本主題”)を呼び起こすのであると言っていいほどである。 昨日までに未だ触れられていない、上文の この部分 ・同時に両者の『関係のありかた』が必然的に第1番の主題(所謂“基本主題”)を呼び起こす、 という点に就て。

未完フーガの第1主題と第3主題はいかなる関係の元にあり、また何故それが基本主題を喚び起こすか。

 

2003年11月28日 (金)

・同時に両者の『関係のありかた』が必然的に第1番の主題(所謂“基本主題”)を呼び起こす、 という点に就て。

だがここに第2主題も含めて語られなければならないだろう。 つまりこういうことである。未完フーガの第1主題・第2主題・第3主題はいかなる関係の元にあり、また何故それが基本主題を喚び起こすか。

未完フーガの第1主題――ニ-イ-ヘ-ニ-ハ♭-ニ-ホ-ヘ-ト-ヘ-ホ-ニ は、基本主題の調的な転回と、基本主題の真の転回形の両義性を含んでいる。 他方同第2主題は真の転回形の系列である*――その原型としてCp.4番のようなものは(未完フーガへのより必然的収斂の為には)前提として存在させられていなければならない。実際、言葉少なではあるが、とくに低音部(4声部)には顕著に、19〜22,67〜72小節、73〜76,81〜82小節(これは全声部に渡る)、87〜90小節、などに未完フーガ第2主題の原基的旋律とその運動性は周到に潜在させられている――。

*同時に基本主題そのもの(転回前)ともそのまま呼応する (丁度Cp.9番が基本主題と同時並行で奏じることができるのと同じ原理である) 。第2主題は旋律構造上便利で自在な幅がある。 未完フーガ第3主題は、調的転回の系列に属する。 これらの融合は、その遁走的旋律展開と運動性から、基本主題の転回形あるいは基本主題を喚起する。

 

2003年11月29日 (土)

旋律の帯びる性格とその由来に就ては昨日のようなことだが さらに詳述しなければならない。

運動体としての相互関係 未完第2主題と基本主題との関係。 第2主題は、そのまま基本主題と並行して奏することができるほどハーモニーとしてじかに相和する。 (または基本主題と基本主題の転回形と、未完フーガ第2主題を同時に奏でることも可能であるような関係である。) 第2主題は、(実際未完フーガ147〜152小節、156〜162、183〜188etcにあるように*)1小節遅れ(休符を含み)の第1主題と相和する。

*但し167〜174小節では2小節遅れていることにより、茫漠たる不協和にも近いほどの半音階性を醸し、巧みに第3主題(B-A-C-H)の誘導を計っている [ここでの2小節遅れの第1主題は、殆ど第3主題(の予言)、2→3への変換作業と見なすことが出来るのでないか] 第2主題と第1主題のこうした関係からも、第1主題もまた、基本主題と、1小節(休符を含み)遅れの呼応が可能である 第3主題(B-A-C-H)は、201小節の第1主題対第2主題’(ダッシュ)との絡みから、また上記の*印(例外補筆)から、基本主題とは2小節遅れ(休符を含み)の遁走が可能であり調和的となるような関係性が、あると思われる。

 

2003年11月30日 (日)

昨日の続き *但し167〜174小節では2小節遅れていることにより、茫漠たる不協和にも近いほどの半音階性を醸し、巧みに第3主題(B-A-C-H)の誘導を計っている [ここでの2小節遅れの第1主題は、殆ど第3主題(の予言)、2→3への変換作業と見なすことが出来るのでないか]

何故そう感じるのだろうか。この感覚が一層強くなる箇所がさらに続く。

この後いよいよクライマックスの茫漠たる暗鬱さに拍車がかかるのだが、こうした効果的遁走によるズレは、180小節以降も同様であるが、この第1主題の登場では、この際第1主題は、それ自身も4度上がっているばかりではなく――レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ⇒ソ-レ-ド-「シ」-ド-レ-ソ――、後半のkeypointの音(「シ」)――が半音階上昇し、調的にも変化を遂げている。 それはますますもって第3主題に近づく印象的なステップである。 バッハに特徴的な「半音階性の着脱」を繰り返す旋律パターンは、この未完フーガの始まりから第1→第3主題移行のための伏線の蓄積として割合頻繁に登場するが#、この、主題が丸ごと出現するシーンでのkey音の半音階上昇は、アトモスフェール転換点として尚更劇的に印象づけられる。

これは、以下のような関係を持つともいえるだろう。 第1主題 レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ(原型) ソ-レ-ド-シ♭-ド-レ-ソ(原型移調4度) シ♭-レ-ド-シ♭-ド-レ-ソ(原型’ダッシュ) シ♭レ-ド-シ(ナチュラル)ド-レ-ソ(原型’ダッシュの調的変化) シ♭-ラ-ド-シ(ナチュラル)-ド-レ-(ソ)(原型”ダブルダッシュの調的変化)

こうして、遁走の絡み合いと不協和的響きのトリックを伴いつつ第1主題と第3主題は丸切り無関係に近いというよりはむしろかなり近づいていくのである #…34〜35小節、49〜50,55〜56小節、etcetc...。 (これらが半音階性着脱がそのまま主題化しているB-A-C-H主題の巧みな伏線になることは非常に示唆的である。)

バッハは未完フーガに於る対位法駆使の中で、この種の半音階性の着脱を、水面の波のように可変的に繰り返しながら、いよいよ主題そのもののkey音を用いて第1主題→第3主題(=B-A-C-H主題)への移行に寄与させるのである。 こうして、第3主題の単独の登場(114小節〜)までに響きと運動の緊張感を高めている。 ちなみに、上記の第1主題のkey音による半音階性の着脱のみならず、同主題丸ごとで、このようなパターンの変奏も、開始早々から絶えず行っている レ-ラ-ソ-ファ-ソ-ラ-レ→レ-ラ-ラ-ソ-ラ-シ-レ (ソ-レ-ド-シ-ド-レ-ソ→ソ-レ-レ-ド-レ-ミ-ラ)

 

2004年01月13日 (火)

思いがけない用事で途絶したまま随分と時間が経ってしまった。

以前、多くはミュンヒンガーの弦楽合奏を、また時にヴァルヒャのオルガンを耳にしながら追っていたスコアの所々に見られる走り書きも、自分が書いたものであるにも拘わらず、今となっては意味がわからなくなってしまった。 何故こんな所に文字が走らせてあるのか、何と何をどんなポジションから連関させていたのか、どんな直感や思考に基づいていたのか、意味不明である(笑)

それで、あまり全体、乃至在るべき終局から部分(各コントラプンクトゥスやカノン)を聞き取るのではなく、とりあえず最初から一曲ずつ感じること、また気づいたことを、演奏への感想とともに記すことにする。 そうしているうちに耳もまた馴れてくることであろうし、全容をもう一度再考できていくと思う。

が、 それにしても、フーガの技法の場合、一応の目途を立てておかねばならない。一曲一曲を綴るには、互いの連関が濃厚でありすぎるだけにかえって虚しい。 また毎日、一曲について記す為に、考えの外に置いておくには行かぬ全体というものにも幾らか配慮するべきとはいえ、毎度毎度ただ漫然と聞き流して行くには、その全体はあまりに長すぎるし、巨大でありすぎる。

そこで、Cp11番迄で、前半を一応区切ることにする。 バッハの発想、思考がここでひと区切り付くように思われるし、何より聞いている方の意識としてここで区切りを強いられる気がするからである。 また、このCp11は前半(?)の差し当たりの集大成というべき壮大さを帯びていると言っていい。 これ自身、未完の終曲に直結しうる大きな要素が多分にある。またCp1〜11までの連綿とした世界は、それ以降(Cp12〜未完f)の世界がどちらかというと自存性?のつよい一曲一曲の統合体、ともいうべき世界なのであるのに比べ、その連関性・一貫性がずっと揺るぎがたく思われる。

フスマン、ダヴィッド、グレーザー等、曲順に関しては幾つかの有力な人々による解釈の余地がある中で、ミュンヒンガーもバルヒャも、グレーザーの解釈に依っているようであった。それは私の手持ちのスコアとは曲順が違う。(スコアを追いながらという形ではまだCDの前半しか聞いていなかった。)

バルヒャのCDに添付されて解説書を読んだところ、これは出版原譜の曲順と、バッハの意図していた真の(と思われる)曲順との差異からならしい。 ということで、諸々の問題――バッハ当人によるいきさつやその後の解釈――から、やはり後半?の曲順はバッハ自身に於ても!、また「フーガの技法」研究者による全容の把握の仕方に於ても、幾つかの解釈の余地があるのである。

 

2004年01月14日 (水)

眼と頭が痛くでてモニタを凝視していられないので箇条書きのみ。 Cp8…未完フーガ第3主題/未完フーガ第2主題 との要素(?) 落下のテーマ(注:私の付けた呼称…113〜117/117〜126小節など。ちなみにこれはCp11の117〜最終小節へと発展する)と、 これとよく呼応する

・レードファシシ♭ラレ(ラソラソラソファソ=tr)ファソラソラーレ(Cp8冒頭) 

・ラーシ♭ファドド#レラミーファミレミレーラ(Cp11-27小節、上の転回系とみられる)

これらの半音階的絡みが、もたらす意味 B-A-C-Hへの伏線。

 

2004年01月17日 (土)

一曲ごとへの記述に入る前に、補筆。 Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就て。

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形) Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ #…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形 ##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

こう見ても、如何にCp.8と11とが、予め緊密な織物として連携させられているかがわかるのだが、 驚くべきは、そうした経緯を以て到達して来たここCp.11に於て、織り糸とされるこれらの主題(1・2・3)が、どれも最終フーガ(未完)への意味深長な前触れとなっている点である。

第1主題…未完フーガの第1主題(レラソファソラレ)と第4主題(来るべき冒頭主題レラファレ…) どちらの主題にとっても緊密な変奏曲的関係にある(中和剤、またはどちらへの発展性をも帯びる巧妙なる予備軍)

第2主題…落下の主題及びその転回形、どちらにも旋律上繋がりやすい、もしくは遁走上、きわめて自発的な交代性を持つ音列でありつつ、 未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の予兆的性質を帯びる(この転回前――すなわちCp.8での第1主題時――はそのサワリが未完フーガ第3主題BACHと共通であり、同様の半音階性を有つ。と同時に、遁走性としては――2度上げられていることもあり――かえって転回前よりも未完フーガ第3主題BACHと呼応性を持ち、仮に同時に奏されてもよく共鳴する)

第3主題…(C=落下主題が)転回されたことにより直かに未完フーガ第3主題BACHの音列そのものを喚起する。

未完フーガ第3主題とは、このCp.11の第2/第3主題の奇妙な融合であると言ってよい。

蛇足であるが ここ(Cp11)、及びCp8では登場していない、未完フーガ第2主題はといえば、両者の間に置かれたCp.9に於て十全に扱われているのである。

 

2004年02月01日 (日)

※補記 Cp.6の遁走に於ける全体的変奏スタイルのtheme性が、――短い音符・付点リズムにより独特の(フランス形)を帯びてはいるが、その為に有効的に――未完フーガ第2主題に、非常に密接に関わる、ということ。 3小節後半〜4小節のミファソラファミレドの上昇〜下降型、 18小節第1&2声部の旋律を予兆として 殊に26〜28小節(縮小形として)、また54小節〜(縮小形として)の第3声部の動き (59〜61〜)62〜68小節辺りの3・4声部の動きは非常に如実な、あの未完フーガ第2主題の暗示となっている。 あの第2主題は、第1第3、また来るべき第4主題との接着剤のために唐突に現れたのでも何でもなく、主要主題の遁走の進展と必然性によって着々と事前から頭をもたげていたものであるといえる。

 

2004年02月02日 (月)

※補記 そして、昨日Cp.6で述べたことは、そもそもCp.2でもすでに、当てはまることである(未完フーガ第2主題への前哨線)。 (他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。 周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして)

Cp.2で、未完フーガ第2主題へと向けて、どういう点が予告的であるのかといえば、 ここでもCp.6と同様、付点リズムが特徴的ではある――この付点の躍動感・推進力(近代自我的・ベートーヴェン的音楽性)を、バッハは当然あのCp.9へと、最も的確な形で至らせている。そしてこれが未完フーガ第2主題へと及ぶと同時に、第2主題と、来るべき第4主題(冒頭主題でもある)の自発的遁走を十分に得心させる形を生み出す親と、せしめていく訳であるが、こうした旋律の躍動性にとって有効な付点を効果的に用いてバッハは、(未完フーガ第2主題にとっての)key旋律の基を幾つか作り上げる。

・第4〜5小節(ファ--ソファミレミレド-レドシ-) →未完f第2主題:ファソファミレ#ドの下地

・第6小節(ラシドレミファレミファミレドシラ#ソ)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...=(4度下)ラミラシドシラドシミシドレドシドレミ...に同じ、の下地 また高音部(第1声部の)

・第64〜65小節(♭シラソファミレド#レ「レミファソ」--「ファミファラ」)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...

・第76〜78小節(♭シラソ-ラソファ-ソファミ-ファミレ-シ#ド#ミラ)」)→未完f第2主題:ファソファミレド#〜ラソファソラ--ソファソラシ--の下地。

 

2004年02月03日 (火) 〜 02月04日 (水)

(他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。 周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして) ------ これに就て。 いつかもざっと書いたことだが、次Cp4が「真」の転回形で有るのに対し、こちらは「調的」転回形である。 調的転回形の後にまたCp.4(真)が、ここに置かれ補強されることで、なるほどCp.9への自然必然性が高まり、また未完フーガ第2主題と、あるべき第4主題(冒頭主題再現)との絡みを意図しやすくさせている。 *未完フーガ第2主題との差異は、前進力と躍動性にみちた未完f2との絡みを演じる未完f第4主題が、転回以前(原型)なままであるのに対し、Cp4の方は転回形との絡みである点である。

さて今日のテーマの方に戻るが、 調的転回形であるCp.3であるが、何故これが未完フーガの半音階性際だつ第3主題と、上下動緩やかで荘厳なな第1主題を喚起させる、と直観されるのだろうか。 いつかも触れたように、最初の「調的」転回、つまり 第4小節――#ド--ラシ#ド(レ)(;本来ド--シドレ(ミ)で有る所)――の処理を契機に、 第5〜6小節――ド-シ♭シラ#ソラシド#ド、 13小節――レミ#ファソファミレ#ドレ、 など、ド(=C)・シ(=B)など同じ音の#乃至♭の脱着を開始している点である。 (これは勿論、未完フーガ第2主題でも頻繁に脱着される所の音である) もうひとつ、未完フーガ第1主題をも彷彿させると感じるのは、何故か。

ところで元々、未完f第1主題とは、来るべき第4主題(冒頭主題再来)の変奏曲であるにすぎない。 だが何を目的とした――どこを志向した――変奏なのか。冒頭主題(第4)のほうが、躍動的な同第2主題との競演にマッチした個性であるのに対し、これの拡大的変形である第1主題の個性は、その中間――第2主題とも半音階性濃厚な第3主題とも呼応する、という性質を帯びている。

ところでCp.3に於る第1〜4声部の諸旋律の動きは巧妙にファジーで、お互いの可塑性を尊重しながら未完フーガ第1〜4主題のどれもに成り代わりうる、乃至暗示するに十分な運動を、連携プレーの中でゆったりと役割交換しつつ展開していくように思われる。

 

2004年02月19日 (木)

01/17記 …Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就てのさわり

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形) Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ #…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形 ##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

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この、#と##に就て。

Cp8は前半の集大成ともいうべきCp11が四声三重フーガであるのに対し、三声三重フーガで構成されている。非常に物理学的秩序を感じさせる楽章である。 最初に登場する半音階秩序の不可思議な主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、一見無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは*Cp5(4声反行フーガ)冒頭で出てくる基本主題の変形の転回形――これを4度あげたもの*――といえる形の応用である。もっと言えば、その付点をとり去ったものを、原型としたものの応用・変奏なのであって、その証拠に実際、ここCp8自身に於て91小節から、この付点を取り去った形のものが、第1拍目にシンコペーションを伴って登場する(91小節〜。)これが基本主題のCp3,4的転回)の再現である。

じつに論理的なつながりがあると私には思える。(それだけに、同時に演奏してもおそらくよく共鳴する)

*…それは、元はといえばCp3・4の基本主題の転回形――調的・及び真の――からおそらく生じているだろう... しかも、このCp8の最初に登場するこの主題は、何とも不可思議で効果的な半音階性を付与されていることによって、当然未完フーガ第2主題を暗示させてもいる。 この半音階性の濃い主題は、ミュンヒンガーCD添付解説では、第一副主題とされている。ところでこの半音階的主題は、39小節以降に現れる、私の言う落下の主題と、非常に呼応する。(ミュンヒンガーCDの添付解説では第2副主題とされている) 何故、この二つは呼応するのか。 また何故、落下の主題は、出現しうるのだろうか。 落下の主題は――ちょうど紙を、高い建物から落としたような線を描いて聞こえるので仮にそう名付けたが、面白いことにバッハの対位法の工夫により、他声部、主に低音部の援助によって、この主題は、まるで紙を投げ落とした窓から落ちていくものを見るようにも、逆に建物の下から落ちてくるものを見上げるようにも聞こえる――そもそも何処から生じたものなのか。これも、けして唐突に現れたものではないと私には思われる。 一番近しいところでは、この発想のもとになっているのはCp5(4声反行フーガ)の基本主題変形(同冒頭)及びその転回形(4小節〜)が、基礎であると思われる。この適度の躍動感は、落下主題の小刻みなリズムに移行しやすく、呼応もしやすい。 そしてまた、これらは先ほど述べた基本主題のCp3,4的転回の再現とも、呼応する(148小節以降) すると、このCp8を構成している3つの主題は、――副主題とされる、無関係で便宜的な挿入と思われるものも含め――みな同じ親(A及びその転回形∀の系列)から生じているにすぎないことがありありと浮かび上がって来るのである。

 

2004年02月20日 (金)

フーガの技法を毎日毎日聴くのは、実のところ平均律を聴くより余程厳しいものがある。平均律の時は――記すことは少しは大変であったけれど――毎日が楽しかった。しかしフーガの技法にとことん付き合うのはまだシンドい面がある。 音楽それ自身の巨大な重みと、一瞬たりとも気を抜けぬ精巧度の問題だけでもなかろう。あの長大かつ凄絶な世界観、あの精神世界である。 それとバッハ自身の音楽性が、たとえば平均律第一巻などと較べて二巻の世界がそうである以上に、いよいよ人生の終局フーガの技法にあっては、純-音楽的な自発性というよりはむしろ合理的・物理学的・思弁的自発性(生命秩序といってもいい)ともいうべきものが、彼の音楽の本質を担っており、そのおそるべき科学的有機性が「すなわち音楽的」自発性となっている、という桁外れたたくましさと厳しさに貫通されているために、それと長い時間対峙しているのは、さすがにしんどいのである。 しかし勇気もわく。バッハの音楽は、つねに生み出せ、構築せよ・構築せよと言っている(もし近年の、構築性という言葉に対する世界的アレルギー現象を考慮して言いかえれば、変容(的構築性)と言ってもよいが)。結局は何らかの構築「的作業」をすること以外に、ひとが救われないことを証明している。 逆説的に響くかもしれないが、或意味で、半音階性の極意とも言えるバッハの音楽性ほど、懐疑性を露わにしたとも云うべき表現もこの世に他に無いほどだが、それは言い換えればこういうことにほかならない。 懐疑するにしろ、徹底的に構築せよ。構築し、解体し、再編し再構築する、そうしてただひだすら構築する以外には、懐疑すら成り立たないのだ、そう言うかのようなメサージュに充ちている。懐疑もまた、じつは徹底的構築作業をまぬかれないのである。 そうやって不可知論にも、安易な相対主義にもうち勝つように、バッハの音楽は、フーガの技法は、言っている。 どんな哲学者よりも社会学者よりも、宗教家よりも真正な、弁証法的摂理――「真に」弁証法的思考と「生産的に対話的」なる精神とは何かを、彼自身の音楽を以て全身全霊、体現してくれているのだ。

ほんとうに貴重な宝物をのこしてくれたのである。

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明日から第一曲目からの分析に入りたい。

| Rei八ヶ岳高原 | 12:46 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
グレン・グールド――27歳の記憶 をめぐって
2003年11月にHPに記載したものを転記

2003年11月10日(月)

ドキュメンタリー映画「グレン・グールド――27歳の記憶」の中で、若きグールドが弾いている、バッハ「フーガの技法-コントラクンプトゥス1番」のじつに貴重な録音がある。無論古いフィルムなのであまり音は良くないが、そんなことはもうすっかり飛び去ってひたすら聞き入ってしまえる稀な音楽に、出会うことが出来た。 それは勿論、スタジオ録音の際のあのハミング混じりのとはちがった類の、彼の「素の」音楽で、他者の視線や耳といったものを(“ 殆ど ”、と言っておこう)意識していない、彼特有の自意識の自由即呪縛世界――*非主題的なものが唐突に主題化(出来事化)されないための延々たる緊張状態の持続運動;偶有性拒絶状態の保持;起伏の隠蔽――とは殆ど無縁といえる程に虚心な自我、宙吊りからの解放、**彼の通常のバッハ演奏に於るのとは一見正反対、否逆説的とも思える窮極的ロマンティシズムの地平への自己肯定による、VORT-DA(退隠-現前)の襞了承(*/**付記11.01.02)――から生ずる演奏であったろう。

彼は他者と彼自身の緊張から解き放たれた時、やはりあのようにゆったりとしたテンポの内省的な音楽を奏することが出来るのであった。こうした折の彼から生ずる、奇跡的に純度の高い、と同時に20代後半にしてはあまりに成熟した、意味深長な音楽をきくことが出来るのはじつに一興である。思えばこの成熟度と純粋度は、この映画の録られる翌年後位に演奏された「ブラームス間奏曲集」、ブラームスの最晩年作品でみせた世界にそのまま通じる所のあるものであろう。

その演奏に就てはまた別の日に述べるとして、今日はこのドキュメンタリー映画の中で、彼が知人の音楽家と自宅の居間で雑談をするなかで交わした、興味深い発言について、これを観ながら私自身つらつら想ったことを綴っておきたい。

彼はウェーベルンと同じ学校に通っていた音楽家の知人と、こんな会話をする。

「彼は内向的な性格だった」
頷くグールド。
「彼の音楽もかなり内向的だ」

それを聞くと、突然くるりと椅子を回し鍵盤に向かって言う、
「これが内向的な音楽?」
そうして大胆な身振り手振りと跳梁的指遣いで、ウェーベルンの前衛音楽を奏で出すグールド。 「彼は寡黙な人間だった...寡黙な音楽だ」と知人。
「内向的な音楽というのはこういうんだ」
グールドは言ってシューベルトの交響曲第5番のさわりを弾き始める。その演奏はしかしかなり陽気でたくましく(笑)、いつものハミングよりずっとまともで太い歌声――殆ど声楽家の発声なみにたっぷりとした大声――を発しながら弾かれた。それはお世辞にも内向的、に弾かれてはいなかった。

しかも交響曲第5番の開始(変ロ長調)は、シューベルトの音楽の中でも特別内向性の際だつ音楽とも云えないどころか、寧ろシューベルト自身としてはかなり陽気なtoneで書かれたもののはずである。たとえばピアノソナタop960とか、より端的に内向性を呈する音楽が他にもあったはずであるが、グールドはこの交響曲を、思い付いて弾くのである...

が、聞けばその陽気さ、おおらかさこそは、"内向的人間の"それであるのが、パラドキシカルにわかるのである。

突然ピアノを止めて振り返ると言う。
「もし、一歳半の子供をさらってきて、人っ気の全くない、音楽のない、森の中の隠れ家で育てたとしよう。 そしてその子に、ウェーベルンでもシェーンベルクでもいいがとにかく透徹した12音音階の音楽ばかりを厳選して聞かせるようにする。その子が6〜7歳くらいになった時、彼自身の中にこういう童謡風の音楽が醸し出されるかも知れない。
(purely,と言いつつ ラーラーラー、と唄う)
そしてやがては、こういうふうな旋律が、生まれてくると思う?」
こう言って、「チャーチャーチャー、チャーチャーチャー、チャッ!チャチャ・チャッ!チャ...」不自然にかつ一定の調子で音の跳ぶ旋律を歌ってみせ、
「そうは思わないよ!」とグールド。

「それはわからない。彼自身の個性的な音楽が生まれてくるのじゃないかな?」と知人。

「ところで、きみは作曲を続けているのか」知人が訪ねる。「新しい音楽を生みだす努力を」

「それに関しては悲観的だな」とぼやくグールド。
「今日、調性音楽はすでに役割を終えているんだ。…おおかたの意見はそういうことに、なっている。 だが、ぼくが書こうとする音楽は、今から50〜70年位前のスタイルなんだ。」
そして無調音楽を書くための必然性を自分は感じることが出来ない、というようなことを、彼は呟く。

すぐれた前衛音楽演奏家から、意外な言葉を聞いたという顔をする知人。

「正直を言って行き詰まっている。すでにある形式を使ってはいけないのかな」とグールドが訊く。

もう過ぎ去った、役割を終えたとされる、しかし自分にとっては(※少なくとも今のこの自分にとって)自然-必然的であるスタイルで、音楽を書いてはいけないんだろうか?と彼は問うのである。

※註釈を付けておくと、グールド自身は、十代の頃そうだったように、人生の後半にはふたたびシェーンベルクやウェーベルンの十二音音階に自己自身の表現の座標を見い出している。実際人生の後半には彼自身の作曲のスタイルもそうなっている。無論バッハを積極的に自分のものとして継承していることともつながるが(グレン・グールド「永遠のピアニズム」から。付記2010.07.14)

 

2003年11月11日 (火)

表現行為とは何か、芸術のもたらす意味とは何か。 芸術にとって必然性とは何か。

大方はバッハの構築的合理的でありつつ同時に宗教的で神秘的な音楽に就て、或いはロベルト・シューマンに就て述べつつ、私はこれに関し幾たびかこの日記(HP)にも記してきたが、あらためてこのことを問う時、 芸術の本質は、結局の所

  1. 自然-必然性の成就(自発性と必然性の一致)
  2. 必然性と合理性の一致

    (この合理性とは所謂合理主義的、という意味でなく自然・生命・宇宙の秩序と律動に即した・orそれらを反映した、世界のことだと思ってよい。もしくは自己と他者―世界―の可能な限りの合致とも云える)

  3. 最も高度に純粋な自発性の貫通
  4. 内的必然性の貫通(或る種の普遍性=個性の形象化)

(畢竟、同じことの言い換えにすぎぬ、述べる位相の差異に過ぎぬことかも知れぬが、箇条書きにすれば。)

これら以外のどういうものであるだろうか?(非常に長いスパンで鑑みて、[他者にとっても]意味のある表現=芸術とは。)

という所に、結局考えが至ってしまうのだ。

絵画を含めた前衛芸術、また前衛音楽に触れる時、中には心打たれるものもあるが、だいたいに於て正直な所、その不自然さと同時に耳が慣れてくるに連れ次の音が容易に想起されてしまうあの一定の調子のことを思う。と同時にこれらの音符の連鎖を覚えたり譜面を忠実に追ったりする演奏家の根気強さへの限りない敬意が生じる。

彼ら前衛音楽家たちは、ちょうど当時既に優れた前衛音楽演奏家であったグールドに対し例の知人が問うたように、「新しい音楽、これから役割を担うであろう音楽を、生み出すこと」に心血を注いだ。

もし、それが彼ら自身のかぎりなくpureで自然必然的な作用,或る種のどうしようも無さから生み出された場合、その作品は画期的であると同時におのずから心打たれる音楽となるであろう。

が、新しい音楽、新しい形式の音楽を生み出すために、彼らは某かを「抑え込んで」はいないのだろうか。多くの前衛音楽に共通する、或る種の〜不自然さ〜のなかに、それまでの旋律やハーモニーをわざわざ封殺し封印する用意周到な構築作業、ないし心的作用を感じ取る――***全ての転調可能性や不協和音の解放、対位法駆使の極地化という事自身と、十二音音階への移行とは、おそらくかならずしも「=(equal)」ではないと思われる、たとえばベートーヴェンの大フーガとその後継路線への予測可能性を考えても(***…11.01.04)――。

意表をつく音楽。罠に掛からない音楽。不断に何にも・何処にも当てはまらないよう、己自身に緊張を強い、聞き手をもこの世界に連行する音楽。これらを貫くものを新しい?法則性と捉えるべきなのか、諷刺(軽侮・諧謔)を帯びた<回避性>の強調と捉えるべきなのか…。

それは、かつての、いかに自然発生的であろうともすでに使い古されてしまった旋律、ないし和声といったものを厳密に超脱するために、つまり自然-必然性へと填り込まぬために、<偶有性>というものにすっかり身を任せているかのような形、もしくは<偶有性>の連鎖にこそ至高の意味を見い出しえたかのような形をとりながら、じつは或るどうしようもなく狭く堅苦しい形式、Pattern(形骸)へと、みづから填まり込まざるをえなくなった、そういう種類の営為、恣意的作業の積み重ねではないのだろうか。

何ものかへと当てはまらないようにする努力。

まったく純一に発生した「結果」、何にも当てはまっていない音楽、というよりはむしろ、既存のXへと当てはまらぬよう努力した結果、まさしく「全く自然に聞こえない」音楽、「全く自然発生的に生成しなかった」音楽となることに、成功した音楽。

そこにこそ、この形式へと否応なしに駆られるに十分な苦渋を伴う理由を、どうしようもなさを、見出しうると言うべきなのか...

(※ただ、大戦やホロコーストを経て、一切の言葉を喪失した精神世界を現出させざるを得なかった表現であると同時に、音楽「という土俵を借りた実験・方法論」としても聞こえがちな作品の多いシェーンベルクやベルク、ウェーベルン――とはいえ、本当のところ自発性にとっての問題の本質は、彼ら自身のセリエのパターンそれ自身以上に、むしろその音楽性産出時の切実ささえ欠いた同スタイル踏襲者たち;亜流による続々たる類型産出とその態度のほうであると思われるが――に比し、ヒンデミットやバルトークの作品などは、その徹底した計算にもかかわらずあるパターンへの陥没をも同時に免れ得た尊厳的な何ものか(後期ロマン派以降という逼塞した時代状況にも拘わらずこの辺の不自然さを感じさせぬ、或る至純さ、知性により総監されつくしてもなお変わらぬ生成における自発性)、単純に言って「音楽」を――騒音性の強いとされる曲に於てすら――私にとっては見出しやすく、バッハ(〜ベートーヴェン後期)からよりナチュラルに繋がるセリー音楽へと近づけることに成功していると思われるのだが。ちなみにグールドにもヒンデミットのピアノ曲録音があるし、再評価されるべきとする論文もあるらしい。付記:2010.07.15/2011.01.06)

 

2003年11月12日 (水)

多くの前衛音楽が一様に帯びる刻印...

◇それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽に顕著なもの(端的に表現されているもの)

  1. 偶有性;必然性を阻害・遮断する存在としての偶有性
  2. 必然性を阻害・遮断する偶有性の作用を免れ得ない実存の、或る種の苦悩

    (打ちひしがれた○○,より好意的に言えば?be in progress unwillingly――不本意なる受動性 の映現)

◇それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽に欠如するもの

  1. 自発性;「自然」-必然性;自由

必然性とは、これを遂行する実存,もしくは表現者にとって、一見「=」不自由さ、のようであるが、成功した表現(すなわち芸術作品)に於ては、むしろ逆である(=自由の「獲得」)

芸術作品にとって、必然性とは「自由」である。必然性の獲得とは、自由の獲得である。それは還元すれば、個に内在する生命秩序(自発性)と合理性としての生命秩序の<可能な限りの>合一である――存在の理想郷――

この合一の充溢は 表現のリアリティであり、信憑性であり、作品の奥行きと深みである

だが多くの前衛音楽の中にある、多分に途絶的で唐突な跳躍や、‘内発’的に生成的というよりはむしろ人為的-外的要請と動機にもとづく数理学的秩序、それらが端的に表現乃至反映させているところのものは、がんじがらめさであると思われる...

それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽が最も喪ったものは、云うまでもなく 自由な呼吸、もしくは呼吸する意志である。

 

2003年11月13日 (木)

多くの前衛音楽に顕著なもの

  1. 偶有性;必然性を阻害・遮断する存在としての偶有性
  2. 必然性を阻害・遮断する偶有性の作用を免れ得ない実存の、或る種の苦悩

こうした印象がもし、間違いでなければ、こういうことが出来るだろう。

前衛芸術作品の表現するところのものは、実際、それである。それを表現するものが前衛音楽なのであり、それが存在意義であると。

ところで、不思議なことに、音楽の演奏の際には過去の音楽を今尚尊び、奏でられることが当然とされている割には、作曲の際には、――いみじくもグールドが40年以上前に悩んでいたように――昨今ですらなお、いわゆる<前衛的>とされるスタイルで創作することのできる者が選ばれるという傾向があるように思う。表現の「伝達」者にはその選ぶべき時代が限定されないが、表現の「創作」者には、担うべき(とする)時代とスタイルを、現今を代表するものと限定する、という傾向――この点に、この問題が示唆するものがよく見い出されるような気がする。

だが創作の位相に於ても、当座の時代と形式の枠にとらわれない自由さと視野の拡がりが、保って置かれるべきではないだろうか。新しい表現形式(とされるもの)が確立・発展、ないし踏襲される前に、私たちが充分に過去の表現たちからその神髄を「吸収しつくした」かどうか、そのうえでそれを乗り越える形式として、本当にこの新しい表現形式とされるものが生まれた、のかどうかわからない、ということがつねに保留され問われつづけなければならないし、またこの新しい形式とされるものが流行している同時代に、これとはもっと違う形で未来の形式の確立を志向し(かけ)ているものが、それと判られずに生まれているかも知れない。ひょっとするとそちらの方こそが、過去の遺産から吸収すべきものをより地道に吸収し、もっと別な形で蘇生発展させうる力を持っている、という可能性も、つねに配慮されなければならないだろうと、思われるからである。

絵画でもよく思うのだが、或るひとつのスタイルが天才的人間によって獲得されると、猫も杓子もこぞってそのスタイルのもとに集まり、またそのスタイルを踏襲できることが何より求められる(すなわち才能のある者と見なされる)。後世から見て或るひとくくりに出来る「時代」――長い時間――を通り過ぎないと、その中で、そうした時流とは別の志向性を保ちその個性を孤独に追求しようとする才能の持ち主たちも居たことが、評価されることなく過ぎていくのではないだろうか。その時流に当てはまらない逸材が、評価の枠の外へ追いやられ日の目を見ぬまま時が過ぎ、後世の私たちにも知られずに放擲されている、などというじつに勿体ない例というのが、どれくらいあるものだろうか。

これは前衛芸術の時代に限らず、遙か昔からあったことではないか、と云われればそうであろう。一人の天才によって或るスタイルが獲得された時、これを確立させるのに彼ひとりでは十分でないことがしばしばである、複数の個性を通してそのスタイルが形造られて行きうるというのもわかる。しかし、つねに別の可能性への猶予 は、また過去?のものへの敬意とその再来可能性への猶予 は 保持されておくべきである。

もうひとつ、私が殊に現今の時代――前衛芸術の時代とそれ以降の展開――をいぶかり、この形式が時代を支配してしまうことにこだわるのは、こういった点と不可分に、以下のような事情が孕まれているからである。

前衛芸術は、それ自身、本質的に創造的行為(必然性志向)を否定するイデオロギーを伴いがちのものではあると思うが、前衛芸術の発展した形のうち、一部のものは自覚的に「芸術」を破壊する――人間の創造行為そのものを唾棄すべきものとして扱うに至っている(謂わば、逆ギレのようなものであるが)――し、全体的に見ても、前衛芸術とはやはり人間の素朴でピュアな能動性・創造性に対する諦観を抱き(それ自身はよいが)、これに対し――云ってみれば(表現者としても)自覚的に、背中を向ける傾向から生まれるもの、この傾向に少なくとも暗黙的同意をした所から生まれるスタイルであると思われるだけに、人間存在とその自発性にもとづく創造行為に対してもおのずと(悲観的、はもちろん)否定的、犬儒的にならざるをえない志向性を持つものであると思われる。

そうしたものの形勢と時流によって押し流されてしまった、他の志向性をもつものたちのことを思えば尚更に無念であるし、またいつまでもこのアイロニカルな姿勢を脱することなく非(反)-構築的に生きつづけること、構築的スタンスに冷や水を浴びせ、質の悪いものではテロリズムのようにたんなる破壊主義に終始する、だけでいいのか、ことに「表現者」たちは自問すべきであると思うからである。

人間存在とは、脱(絶?)-構築性が(慎重に、或いは時として突如)余儀なくされる、ものであるということは理解出来る。また、現今とは、不幸にも 外即内、情況対自己、情況対実存etc..に於るそうした否定性を、苦いほど自覚・経験させられざるをえなくなった時代であるというのもわかる。また、これらの問題自身が表現されなければならなさ(主題化の必要性)、も理解出来る(私としては、真に弁証法的な運動こそは、そうした脱(絶)-構築性を必ず内に含む、構築性――或いはこの言葉にまだアレルギーがあるなら変容的構築性と云おうか――を帯びると理解したいが。というのはつまり、この意味での最終的な構築性を、私たちは免れない存在/相対者である、という意味に於いて 付記110206)。問題はそのことの、表現のありよう・質・向きであろう。

であれば尚更芸術によって、表現行為によってこそそれが克服されるよう願い、働きかけられるべきであろうし、本来 芸術;すべての表現行為の意義と精髄とは、「生きること」、この ‘ 被-能動性としての受難の能動性 ’ を、肯きつつ<生きる>ためのもの、これをポジティブにするためのもの、であったはずである。(勇気づけ動機づける=生きられる、ようにするためのものであったはずである。)あるいはまた、こうした能動性を持って生きることが、いかに難しいものか、ということ、生きる苦しみと厳粛な悲しみを、存在の奥深い所で共鳴させられることによって、ようやく癒され再生させられる、そういうもののはずである。また、元来おのずとそうした本質と力を「帯びた」もののはずであると思っている(****ベートーヴェン自身の後期――生成の境域が全的にではないがかなり個我へと移行する――と、ベートーヴェンの後の、シューベルトやシューマンの仕事とその質。 ****…バッハに於いては神と人間の関係が、ベートーヴェンに於いては通常、人間存在・人間社会・世界が、そのまま表現の磁場(したがって目的論的・類的)であった。シューベルト以降は、それが自己(偶発的存在としての実存)の磁場になる。がゆえに、バッハ或いはベートーヴェン的生成秩序の生きた弁証法のダイナミズムが、語る位相の転移とともに、奇矯的変容や異他的転回を伴うそれへと変わるのは、必当然的である。が、にもかかわらず彼らはその生成の質の担保について細心かつ最善の注意を払った、謂わば過去からの<人間的な>歴史に対して敬意を払ったのであり、その意味でもベートーヴェンの遺産を、類的よりはむしろ、より個的-実存的なフェーズに移して、ではあるが、誠実に受け継いだと私には思われる。ベートーヴェンの弁証法的世界は、自らこそが弁証法である、と名乗った(=以てイデオロギー化した)そのことにより非弁証法的;反弁証法的世界になりさがるような質と法則性の元にない。実はこのことを他ならぬシューベルトやシューマンがだれよりも理解していたはずなのであり、この点を見誤ると、その分だけ、結局はいずれより高い評価を得るに至るであろうシューベルトやシューマン自身の音楽の意味性や畏怖と苦悩の質についても見損なう(一定期間、必要以上に迂回する)ことになりもするし、当然解釈が表面的になるのでないかとも懸念される…付記110102)。

もし現代が、一切の表現行為を成立させられぬほどの不幸な時代――私としては、もっとよく考えればまだ余地があるはずという気もするが――であるなら、表現者がそれに同意するなら、それはそれとして、であらばいっそのこと表現者は表現行為(成り立たないもの)を、(*****中途半端な介入すらせず、環境科学的、環境生理学的分析などでなく他ならぬ「芸術/生成・表現」という分野に於いては *****…付記110102)寧ろ辞めるべきである。これ以上表現することは、芸術自身の可能性にとって或る種自殺行為になり、行き場を無くするものであるということを自覚しなければならない、ということになる。ましてやその憤懣のはけぐちを芸術そのものへの破壊行為になど求めぬようにすべきであろう。己のすることは、Art;「表現行為」であるどころか、たんなる自我の発散にすぎぬことを自認するべきであるとも云える。

そうして、一切の表現行為はもはや成立させられぬ、とは諦め切れぬ者たち、何らかの能動的で生産的な対話と構築作業を再生する意思とその形式を模索しうる人々に、次の時代、新しい表現の時代をゆだねるべきなのではないだろうか...

 

2003年11月14日 (金)

昨日の一文について

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一人の天才によって或るスタイルが獲得された時、これを確立させるのに彼ひとりでは十分でないことがしばしばである、複数の個性を通してそのスタイルが形造られて行きうるというのもわかる

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そのスタイル(ものの見方・考え方・表し方)が、一時代を代表し制覇するに足るものである場合には、というべきかも知れぬ。

だがそのスタイルが、一天才の一個性;興味深いある一つの視座、として存在すれば充分である、という場合もあり得る

が、これまでにはしばしば、後者のような存在が時代そのものを支配しすぎていた、という場合があったかも知れない

絵画に置きかえて云えば 例えばキュビズムのような場合、あのような異次元同居の発想と一定の認識論的面白み、空間と時間の処理や存在に対する視線の興味深さ、等々といったものは、ピカソとブラックが居れば充分という感じがする。そうした発想は、ある種未だ舌足らずであったセザンヌの表現――彼はいわゆる「絵画的美」の側面に於いて<巧い>画家であった訳ではない。絵画に於て複数の視点を以て見る者のまなざしを宙吊り的に交換する絶妙さを保持しつづけながらも同時に一つの平面におさまっている、ということを実現するに於ても、その絵画技術そのものの巧みさに於て卓越していた訳ではおそらくない――を経て必然的に生じたともいえようが、この洗練の或る方向性を決定的に確立(!?)した、たとえばピカソの、天才的な形や面を捉える力、描線の過不足なさ、空間に於る明-彩度の絶妙な取得、グラデーションの選定と空間への配置の的確さ、またブラックの、抜群の画面構成力、錯綜する傾斜と間隔の妙、渋い補色関係、セザンヌ的メサージュ伝達の端的さ、等々...らの能弁さを思えば、(☆非-現象学的には)彼らによってすでに語り尽くされた感もあるというのが正直な所感である。(☆…現象学的にはしかし、十全な表現でなかったどころか、かえって著しく漏洩させたものがある――それらを別の方途で丹念にすくい取ったのがたとえばクレーであるといえようが――とするならばなおのこと、そのキュビズム的方法を、ただ単に続々と踏襲するものが現れたところで、「この問題」が解決される訳でもない 11.01.06)

マルクやシャガールの一部の作品がキュビズムを取り込むのは殆ど無意味な面も多く、彼らは彼らで、それぞれの生きとし生けるものへの無償の愛情だとか奇特な夢幻性を追求しつつけるだけでその存在価値は充分だったように思われて仕方ない。 またこうした発想(キュビズム、また脱-具象)の延長が、案の定、ダダのような安易な※芸術否定性、たんなる※※イデオロギーへと移行していくのを見るのは、また或る種の自滅性(自殺性)へと向かって行くのは――至当といえば至当なことながら――残念なことである。

※…彼らの絵画のmessage性を思うとき、それらは単に表現の題材(宗教的テーマとそれにこじつけた裸婦像への偏り云々)、という観点から過去の芸術を否定している、というにとどまらない。何らかの意味で<創造行為そのものの否定>を含む

※※…政治的に反体制的であることはよい。が反体制的、が同時に芸術否定、創造行為否定とも癒着しやすいことには疑問を覚える。過去の芸術には、その題材、テーマの範囲や因習云々の問題を越えておのづから達成された所の、安易に一掃されざるべき創造性と自発性・合理性の追求、その次元の高さがあるからである。

 

2003年11月15日 (土)

一昨日の一文に就て

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前衛芸術とはやはり人間の素朴でピュアな能動性・創造性に対する諦観を抱き(それ自身はよいが)、これに対し――云ってみれば(表現者としても)自覚的に、背中を向ける傾向から生まれるもの、この傾向に少なくとも暗黙的同意をした所から生まれるスタイルであると思われるだけに、

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何故か。

  1. 人生とは偶有性を免れぬものである
  2. 芸術とは必然性を貫徹しようとする自己とそれを阻止する力との葛藤が、おのずと表現映現されるものである
こういわれる時、それらは正しい。

いかに前衛音楽以前の精神性すぐれた音楽、必然性の濃厚な音楽――それは謂わば摂理そのものの如き合理性の貫徹に見える音楽・或いは不屈の意思の貫徹に見える音楽――であろうと、それらにも偶然性の影が宿らざるをえなかったし、これを引き受ける自己の存在が現れてもいるのである。

だから前衛音楽の方法、また表現するものが、それ以前の音楽に比し安易であるとか、創造性を減退させたものであると言うことは出来ない...

だろうか?

それはバッハの音楽をどう捉えるか、またべートーヴェンの音楽をどう捉えるかという問題にも、なる。またベートーヴェン以降の(個の実人生という表現領野にかなり的を絞った、ロマン派の)音楽家たちの仕事(の質)をどう捉えるかという問題にもなる。

それを通じ、彼らの音楽的自然=合理性(不条理;異和感の表現を含む)と、前衛音楽の合理性の差異、が語られなければならないだろうし、つまり彼らの音楽的必然から逆説的ににじみ出る不条理性と、前衛音楽の不条理性との差異が語られなければならないだろう。

このことはつまり、バッハとベートーヴェン以降から前衛音楽以前、に生きていた音楽家が、これらの巨人の出現と圧倒的功績以後、如何に生きにくかったであろうとも、何とか音楽自身の尊厳、またこれを通して自己の尊厳を守ったと言ってあげられるか、の問題とも、なってくる。そしてこれを語ることを通じ、彼ら無調音楽への足がかりを与えた、また無調への過渡期を生きた音楽家たちの音楽に見い出しうる曖昧性・両義性の狭間に於る実存の真率な生きざまと、前衛音楽に於る可塑性のなかに自覚的に居ずまいを変えた実存(無秩序、或いは不条理を表記する形式の中に形骸化された存在)との差異、などが語られなければならない。

 

2003年11月18日 (火) (蛇足)

絵画に於て

脱-現実、ことに脱-具象の試みが、しばしば 「反」-具象、 の意味性を 帯びる/or癒着し易いという志向性…。(殊に、運動として展開される時)
また、その精神構造。

ところで、――これはデ・スティル、シュプレマティズムなどの方法論にもつながるのかも知れないが――

絵画に於て、具象――これは、つまり処遇の記述(己を状況づけているものの書き込み;状況づけられ方の痕跡記述)である(11.01.02)――を捨て去ることは、もともと抽象芸術・時間性芸術であった音楽が元来内包している所の暗示性を生かした表現行為としての抽象性とは、おのずから、「=(equal)」の意味を持たないように思われる。

絵画が具象を完全に捨て去ること( ‘ 芸術 ’ として ※※※これが成り立つ、のだとして)は、音楽がそうであるのと同様に自発的、でありうるだろうか

そうでないとすれば、それはもともと具象の空間から出発したもの、視覚芸術として出発した表現のもつ、条件と宿命のようなものがどの程度左右しうるかの問題

また、自発的におこなわれていった、というよりは寧ろ運動として・主義として、実験的,解体的に行われる場合に帯びがちな挑発性と恣意性(一部、存在への嘲笑性)の問題

完全な抽象主義、には、真摯な運動に於ても――私自身の好き嫌いを越えて――或る種の観念主義への陥穽を見い出す...。

それは考え続けなければならないだろう

※※※…

  1. 形態、色彩、空間、運動、質量の、具象からの独立可能性
  2.  
  3. 上記の、表現としての意味性(乃至、可能性)と 芸術としての意味性の間に生ずる差異

 

2003年11月19日 (水)

昨日の一文に加筆

※※※…
  1. 形態、色彩、空間、運動、質量の、具象からの独立可能性
  2.  
  3. 上記の、表現としての意味性(乃至、可能性)と 芸術としての意味性の間に生ずる差異

これに加え、

  1. 具象そのものがもつ尊厳

表現の方法やレベルによってそれが最大限に発揮された時の、尊厳の大きさ。「状況づけられている、ということ自身が語りうる存在としての意味性」(11.01.06。シェーンベルクら無調派に比しヒンデミットの音楽により顕著に温存されていると感じるのはこうした点かも知れない…)

これらはたんに古びた様式とか因習の問題に還元しえないものを包含するだろう

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14日の一文に就て

彼らによってすでに語り尽くされた感もあるというのが正直な所感である。

これに就て。
ピカソからは、どちらかというと、ここからさらに運動性を強調した未来派、ダダイスム、また立体派(彫刻界)などに派生-延長し易かったであろう

ブラックからはモンドリアンやマレーェヴィチらの運動へと通じていく要素がより強かったであろう

何れにせよキュビズムに代表される脱写実,脱具象の発想は(フォーヴから形而上絵画、幾何学抽象様式などの幅を持ちながら)全く以てこの時代を制覇したのであるが、これと同時期になお具象にもとづく表現者、芸術家が出現しつづけ、才能があれば認められつづける、という土壌、自由な空気があるべきであったし、そのようなキャパシティが時代に無いという不安、過去のものとされつつある様式で自己にとって意味のある表現をし自己実現しようという自由と自発性にプレッシャーをかけ、危機感を与えるような風潮――音楽界に於て或時点(27歳当時)のグールドがそれを感じていたように――が、やはりあるべきではないと思われる。

その問題は、当時もさることながら、現今に於ても相変わらず当てはまる所があるだろう

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前述のこれらの一文に就て
  1. 芸術否定性
  2. 他意性――挑発性・恣意性(一部、存在への嘲笑性)の問題
etc.etc.
| Rei八ヶ岳高原 | 15:19 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
森の情景――森の入り口(R.Schumann)

ローベルト・シューマン『森の情景』第1曲:「森の入口」

弱起の曲ではないが、あそこにははじめから消失した時間がある(それは聞き手をはじまりの “ その前 ” へと呼び戻す)。その、前以て消去された瞬間とともに、おそらくはそれと同じ故郷から来るであろういぶかしさの聴取をおぼえる。たえずまといつく根音の無さ――底の飛沫化=黙示化。根音の消却とは、そこはかとない だが あからさまな 深淵への開けとそれへの誘いである。それはけしてたしかめてはいけないと囁きつつたしかめるように誘う。ここに、沈黙が自然となりすました矛盾がある。それゆえに、調性感のたしかさにもかかわらず、空恐ろしく魔的な響きとなる。 7曲目の「予言の鳥」の不気味さには、むしろ救いがある。あそこには、形式によって――形式が身代わりとなって?――すでに保持された沈黙の象徴化がある。それは、物語が寓話と化すことによって帯びる確かさにも似ている。

| Rei八ヶ岳高原 | 16:19 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
暗黙的なものの生去
世界でもっともなじみ深かったはずの( )=沈黙せるもの こそが、途方もない迂遠さをまといつつ突如襲来する この 余所ものであること。その根源的絡繰りが ときに、ひとを狂わせもする。けれどもその此=差、肯即禁、永遠の合一しえなさなくしては、多くの哲学も芸術もまた、何も語り始めはしなかったろう。

経験から言えるたしかなことは、携えたまま世界であろうとする意識は、(自己自身はおろか)他者によって罰される。おそらくその居心地の悪さを、他者にあずけてしまうからだ。したがって参与とは同時に消去-喪失なのだ。ありのままとはそういう出来事である。
| Rei八ヶ岳高原 | 15:42 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
粗忽長屋(古今亭志ん生の落語)
2004年12月11日にHPに記載したものを、志ん生の台詞回しなどをじっさいに近い形になおし、一部変更付加して掲載。

 

不眠症、中途覚醒で夜中目覚める癖のある私には、志ん生の落語が手放せない。もちろん昼間も時おりリラクゼーションの為に聞いている。名人落語でポンポンポンと切れもよくテンポも速い落語も楽しいが、私の場合それでは余計に神経が冴えてしまうので、やはり志ん生の、のほほんと幾らかいい加減な語り口調が、無性に癒される。なにより人情の機微が細かく、滑稽な中にも昔の人の微笑ましさがにじみ出ていて愉しい。 また「まくら」も含め、落語の噺の空間自体が、現代生活の、時間がありさえすれば仕事・仕事、空き時間にも勉強、といった余裕の無さとはおよそうらはらに、「ついでに生きてる」ような人間をも社会が受け容れ、ほのぼのと支えてやっているような空気も背後に流れているのだが、それが志ん生自身の放埒で滑舌のわるい、天然無垢なしゃべりとひとつになると、もうなんとも身体の底から癒される。

 

CDで聞いているのだが、彼ひとりの声の展開だけで、まるで古い映画かナマの人間同士のやりとりでも見ているように情景が思い浮かぶのがいい。

夫婦ならではな、丁々発止の会話が何とも云えぬ「火焔太鼓」に「替り目」、滑稽な中にも太鼓持ちの哀愁が漂う「鰻の幇間」、一人で何役もこなす「五人廻し」「三枚起請」「文違い」、晩年の志ん生の名盤「らくだ」、等々お気に入りの噺はたくさんあるが、それはまた別の機会に記すとして、今日は噺のテーマそのものが一寸風変わりで可笑しいなぁと思うひとつに就て、記したい。

 

「粗忽長屋」。或る長屋のそそっかしい仲間のひとりが浅草にお参りの帰り、人混みに合う。大通りにむらがる野次馬連中のなかを割ってはいり、野タレ死んでいる見知らぬ誰かの死体の所までたどり着くと、<行き倒れ>なる言葉もろくろく知らぬその登場人物は、死体を自分の相棒のだと思い込み、長屋まで慌てて戻って、引き取りに「本人を」連れて戻ってくる、という馬鹿げた噺である。

「死骸の本人を知っている。相棒に朝会った時は風邪をひいていたが、浅草に出かけたんだ。それが最後になっちまった」と説くと、とりまきの一人に「それはお前さん違う。お前さんは、今朝、相棒にあったんだろう?このひと(死体)は夕べっからここにあるんだ」と言われても「あの慌てものめ。ここで夕べ倒れて、死んだのを忘れて(長屋へ)帰ってきた」んだなどと呆れ返ってみせ、「死体の本人を連れてくる」と、取り囲んでいる人々に向かって言う。「この人の言ってるこたぁ訳がわからねえ」と言いかえされる程、尚更ムキになって自分の正しさを証してみせようという気になる。そして長屋へ帰ると相棒を説得しにかかる。 相棒も相棒で、「自分の死体くれえ、てめえで始末しなくてどうする」という理屈に、「あそりゃそうだ!」と思い立ち、半ば首を傾げながらも結局人混みにまで連れられやって来て、死骸をしょいこむという噺である。

 

最初から最後まで失笑もののストーリーだが、聞いている内に、死というものの中の「在・不在」、自分(とされるもの)を見ている{自分}に気づきにくいという自己認識、自己-他者感覚の一寸した落とし穴、そうしたものがどことなく禅問答を聞いているような気もするし、やや現代哲学版と化したデカルトのコギトなどもふと思い浮かんだりして何か愉快なのである。

 

この、噺の端々に出てくる(死の)本人、当人という言葉には、何やら無性に惹きつけられて仕方がない。大学ノートの最終章にも記したのだが、私の大学時代の聖歌隊の親友が亡くなった時、亡くなるって何?と、葬儀中に何度も自問したのを覚えている。彼女自身のお葬式なのに、私たちと、ここに居る方々は皆、彼女のために集まっているのに、その主人公自身は、式の間ぢゅう(そしてそれ以後もなのだが)けして姿を現さないというあの何とも云えぬ、はぐらかされたような不在の感覚に、嗚咽する自分の声を聞きながらもずっと、憑かれていた。
死とは、死者とは、死を捉えるとは、何なのだろうか。群衆であふれかえる中、棺に直面させられていても、身近な者なだけに納得が行かないと、死とその本人とを一つに結びつけられぬまま、長い間が過ごされてしまうのである。

 

だがこの噺は、いわばその逆を突いており、見知らぬ人間の死体を、相棒「の」だ、と思い込む。それは相棒『だ』、と言うよりもむしろ相棒『の死体』だと思い込む、といった風である。こんなストーリーだ。以下、できるだけ志ん生の台詞回しを忠実に生かした形で紹介しつつ、つらつら思うことを綴ってみたい。

 

(放送1956年3/3、NHKラジオ? しゃべり出し【エエ、おなじみ様ばかりでございまして、落語のほうは…】CD/日本音楽教育センターOCD 43006)

 

「そこに立ってる人!何があんの中に?」(押し合いへし合い立ってる人びとにも解らない)
「前に出なきゃね。」(人の股をくぐって先頭に出る。)
「おまえさん、なんでここへ入って来たの?」(問われ、見せ物かと思うが、説明をうけ、何とか<行き倒れ>があると解る)
「おまえさん行き倒れ知らないの?…おまえさんの前に、あ、あるだろうよ!」
「前に?ああ、よく寝てますね」
「寝てんじゃないの。死んでんの」(人がどかない中、むりに死人の顔を見たがり、覗いてみる)
「ずいぶん汚いねぁどぅも…おや。ちょっと待っておくんなはいよ、どっかで見たような野郎ですから」
「おお見たんならいいね。え、手がかりンなっていい。よく見ておくれ」
「よく見ます。あ。そうだ、そうだ!おぅっ。どしたどした、やぃっ。起きろ!」
「起きやしないよ。死んでんだから」
「てめぇ、、ねぇ兄弟分ですよ。ね、お前と俺ぁ生まれるときには別々だけども、死ぬときには別々だと…そういうことを言い合った仲ですよ。その兄弟分がこんなんなっちゃって、見てられませんあたしぁ。なさけねぇことになった-ことんなったなおめえは。え、どうもよわっちゃったなぁー。えぇ…今しょうがありませんから、このぉ…倒れてるやつをーですねぇ、ここへ連れて来ますからぁ。ひとつぅ、そいでぇ、当人に死骸を渡してやっつくださいな」
「……その人の、親類の人かい?」
「親類の人じゃねぇんだぇ。本人を、此処ぃ連れて来てやるから!えぇ。もぅ…変なんだよ。あぁもぅこの野郎はそそっかしい野郎で。ケツが痒いって人のケツ痒いたりする野郎なんだから。だから、今朝ね、コイツが変な顔してぃやがるから、てめぇどうしたんだ?え?ったら、風邪らしいってぇーから、風邪は気をつけないといけねえぞ。風邪てぇやつはひどくなってくると大風邪ンなっちゃうから。大風邪です。大風邪で倒れたんですよ…倒れてる野郎なんですから」
「それぁ、、お前さんちがう!」
「どしてちがうんで?」
「この人ぁ夕べ倒れたんだから…お前さんは、その、兄弟分てのに今朝、会ったんだろ?んじゃしょうがないじゃねぇか、この人は夕べ此処ぃ来て倒れたんだから」
「それぁ夕べ、浅草ぇ行ってくるぜって、威勢よく、ぅー之がこの世の、別れとなるとは、ゆめつゆ知らずに出かけたんですょこいつは。でぇ、帰りにトーンと倒れやがったんだ。倒れておいてですね、コン畜生そそっかしいから、倒れたのを忘れてかいって来ちゃった…ね。だから実に弱るんですよこの野郎には。ちょいと、本人連れて来ますから」
「おいおいおい、、おい!」…

――こうして、あわてて引き留める声をあとに、群衆を離れ、帰り道――


「やぁぁどうも驚いたこれや。俺が通りかかったからいいが、大変なことになっちゃったなぁどうも。しょうがねぇなぁ……(家でくつろいでいる相棒を見て)あんなことして煙草吸ってぃやがって…あぁいう野郎なんだからねぇ…おぅっ!おうっ!!」
「なんだぇぃ?――へへへ。また、そそっかしいー事ぉすると、承知しねぇぞ」
「何言ってやんでぇ、てめえがそそっかしいんでぇ」
「下駄履いて上がって来やがって。そそっかしいのはやめろ!」
「てめぇは。そんなそそっかしさと、…そそっかしさが違うんだ!…今おれが言うことを聞いてみろ、てめぇなんぞぁ。もぅ、ワァーーーッと、泣くことんなるから。え?人というものは覚悟が肝心だよ。いいか?明日あると思う心のカッパの屁ってこった…」
「どしたの?」
「どしたってもぅ、おらぁねぇ…(と言って顛末を話し出す)大勢人が立ってやんのよぉ…艱難辛苦いかばかりかって…前のほうに出てった、(ほぅ。)するってぇとおめえ、…行き倒れだ」
「へぇーー!…(行き倒れの意味を説明される)」
「死んじゃってやんのそいつがよぉ」
「へぇーーぇ!?で、そいつをてめぇ、眺めていたのか?」
「居たよぉー…こうやって見てたら、きたねぇツラしてたんだけども、、『面影』てぇものはしょうがないもんだ。見てるうちに…あぁ!こいつぁ、、兄弟分だぁーっ!…おめぇだ」
「へ?……おれが?」
「うん。おめぇなんだょ」
「…ほぉぉ。倒れてた?」
「倒れてた。どうだ?驚いたろ?」
「どして倒れた?」
「あーどして倒れたか知らねぇ。これぁ俺の、兄弟分だぁーって、おらそう言ってやったらね、向こうじゃホントにしやがんねぇ。そんなこと、あなた嘘でしょぅと、いうような顔してやがったから、よし!…そぃじゃ今本人連れてきてやろうって」
「…本人て?誰。だれの本人だ?」
「おめぇをよ。な?…むこうのやつもね、<本人>て言葉を聞きやがってね、もう、何にも口が効けなくなりやがった」
「ほぅ!」
「…こっちの潔白をよく向こうに解らせてやんねぇと…ざまぁ見やがれてぇんだ今本人連れて来て赤っ恥かかしてやるからって。おれぁ飛んできたんだから…おめぇこれから行って、これぁ私の死骸ですよって。おめぇが、言わなきゃダメだよ?」
「これがアタシの死骸ですよって、俺が向こう行って、い、言うのかぃ?」
「そう」
「じゃ俺がぁー…死んでるぅー…死んでるようだな?」
「死んでるようだじゃない、てめぇ死んでんだよ!」
「…だって死んでるっておめぇ何じゃねえか、ん〜俺死んでるぅような心持ちンなってねぇじゃねえか」
「死んでるような心持ちって、てめぇ知ってるかよ?…死んでることなんてものはな、もぅ死んじゃってぇーたってぇも解るもんじゃねぇんだぞほんとに。てめぇが今朝寒気がするって言ってた時に、もぅてめぇは、死んでたんだ。どうだ?」
「はぁーー!んじゃぁー…そういう、おらぁ事ンなって倒れてたのか…。おめぇ、…見たんだな?」
「見たんだよ。…俺が其処を通りかかったからいいけども、通りかからなきゃてめぇは、、今頃何処へなに、行ってるかわかんねぇぞほんとに。どっか流されちゃうからもう……てめぇの死体、てめぇで始末しなきゃ、しょうがねぇじゃねーか!」
「…あー、それぁそうだい!」


だから俺と一緒に来い、と相棒を現場まで連れ出す。<行き倒れの当人を連れて来た>と言って、ちょいとちょいとと人混みをかき分けかき分け、行き倒れの傍に着く。


「本人連れてきたんだから。ね?で、本人に死骸渡してやっつくださいな」
「――あにさん?(さっきも話しをしたひとりが訊く)」
「あにさんじゃない本人だよ。ここに居ますよ!…ここに居ますよ見てごらんなさい本人だから」…(略)…
「へへぇ、こんちわ!」
「お前さんは何なの?」
「…あたし。あたしが、倒れたんです。えぇ倒れたのを、我を忘れて、家ぃかいって来た。そいで今、兄弟分にお前があすこに倒れてるぞって言われた時の、あたしの驚きというもなぁ、もぅ、悲しかったでしたよ。だけどもしょうがないですよ。そうなっちゃったもなぁ。へぇ。せめて死骸だけでも受けとってかなゃぁ、あっしぁ、すいませんからね、へ…自分の死骸に対して、申し訳がない。どうか死骸を渡してくださいよ?死骸は。…ね?あなたぁ、渡さないてのかい?渡さなきゃぁあたしゃぁ出るとこへ出て取るよ。自分のものぉ自分が取るの、何がわるい?なぁおい?」
「そうだともー。おめえのって、かまわねぇから、はやく、出てけ」
「出てくとも!じょうだん言っちゃいけねぇや…んとに、なぁ。おうっ!(と言って死骸を担ぎ始める)さぁ!さぁ俺と一緒に行くんだ。おいっしょ、俺と。きたねぇツラしやがってコン畜生。俺がなぁ、俺がだよ、ンー、俺が…俺がそいってぇ、これが俺なんだね。これぁ俺だね?」
「おまいだよ!」
「俺だね。。はぁ俺だ!」

 

それから相棒は、この死体を抱きあげながら、さいごにこう言う。

「死んでるのは俺だ、死んでるのは俺だ。死んでるのは俺だけれども、死んでいる俺を、抱いてる俺は、…何処のだれだろうなぁー?」

この失笑もののきめ台詞で、噺は締められる。

 

粗忽者――。かれは死体(客体=物;res)と、“ 死んだ ” 本人とを同一視しつつ、奇妙に区別してもいる。その区別の仕方が、何とも<分別知>の滑稽味を帯びていて、やや理屈ぽくいうなら認識論とその陥穽、という点からも味わい深い。こんな分かり易い話だから、慌て者の勘違いだといって済まされるが、もう少し高尚な次元では、わりと我々の多くが――教授や学者たち、私自身だって――この種のわなに填っていることがあるやなしや。

おっとりしたこれまた天然ぼけの相棒のほうも、あまり執拗に説得されるのと、死体の顔がじっさい自分に似て居ることから、これは自分(の死体)だと思い込もうと努力する。噺を聞いている間、また眺めている間は、そう思い込めるのだが、実際重い死体を引きずり負うと、その重みを感じている自分の身体に沿った、出自のほうを意識せざるを得ないのである。

昨今、コギトは意識とともにこの身体で実感する我に戻る。此処というものはおそらくそうした発見である。

| Rei八ヶ岳高原 | 19:52 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
「対話」(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ/河出書房新社)を読んで
2010年9月〜11月にTwitterで呟いたことを織り交ぜつつ記したもの。

 

  1. 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(宮澤賢治:農民芸術概論綱要)
  2. 内なるそして外なる平和への願い(Bitte und innern und aussern Frieden)(ベートーヴェン)
  3. 自分のやっていることが最善で、それ以外のすべては無だということを、惨めな思いをしているたくさんの人たちに思い込ませようとする偏狭さを、ぼくは心の底から憎む。ひとつの美によって人間は一生の間感動を受けるということは正しい。だがこの感動の照り返しはすべての他の人々をも明るく照らすはずだ。(シューベルト)
  4. 作動配列とは共-機能作用(co-fonctionnement)であり、「共感」であり、共生である。(ドゥルーズ「対話」p85)

ジル・ドゥルーズの「対話」を読んだ(クレール・パルネとの共著/河出書房新社)。これを読んで、私が共鳴しつつも振り返っておきたいポイントは主に二つだったように思う(両者は同じ事柄で通底するが)。それは主に、

  1. ドゥルーズ=ガタリによる解釈および解釈症批判・シニフィアン批判と、
  2. 同じく彼らによる弁証法,構築(的),自発性etc..といった言葉の強烈な回避願望?

    (とはいえそれらは、それらの言葉が示す内容そのものに関してではなく、むしろ「言葉使い」・その倒錯した「既成-観念」に対するアレルギーのように映る。何故なら<実質的・内容的には>彼らの思想はこれらの言葉が “本来” 指し示していたはずの思考方向や内容をたんに受容するどころかむしろこれへこれへと私たちを積極的に促しているのだから)

とに、分けられる。

■以下、しばしばドゥルーズをD、ドゥルーズ=ガタリをD=Gと略。

 

<< 第1点:「解釈」批判(権威化形骸化した精神分析を代表的に例示)と「解釈症」(フランス的知性)批判 >>

 

解釈することと解釈症の、生きた表現(彼らの言葉では欲望-逃走=生成)に及ぼす弊害――これはじつは、解釈「することそれ自身」へよりも、解釈の「方法」、向かい方の間違い、或いはまた「解釈」をするwissen(知)の射程範囲が狭すぎることetc..の問題に関して指摘されるほうが望ましいと私は捉えるが――の問題は幾つかの重要な点で繋がっていると思われる。非常に精鋭な指摘がある。まず、Dの挙げる「解釈」の弊害の要旨は何かを、自分なりに記してみると、このようになるのではないか。

解釈しようとする知の陥穽の問題は、以下の視点に分けられるものの、つまりは同じ一つの問題の、側面の違いに過ぎない。あえて記すと、

  1. ひとつには、「精神から」生身の「人間への」理解がいつも、状況から離れてしまうことにおおきく由来するだろう。つまり、条件法としての、人間の或るありのままの姿から離れてしまうことに由来するだろう。(この時、この ありのまま、の言葉の意味は、状況から<抽出された>純粋事実としてのありのままではなく、ただたんにこれ以外ではない現実、もしくはこれ以外にはありえなさ・ここから以外には出発することの出来なさとしてのありのまま、であることに注意しよう。つまりそれは、たとえば*シューベルトの言う「ある<べき>ままにではなく、そうであるままに受けとらなければならない」ところのもの、Dの言う「此性」である。)と同時に、これは同じ事柄の裏表だが、(予め限定された)シニフィエから出発し、予め想定されたシニフィアン(!?)にそって事実(!?)へと逆行する点である。この際、逆行は、生の解決・救済を意味せず、逆に当嵌・封じ込めを意味する。

    *シューベルトはこう言っている。「精神は、支配者であるべき性質のものだ。人間は、あるべきままにではなく、そうであるままに受けとらなければならない。」すなわち真に人間的-生成的なものとは、まず<べき/であるはず>のほうから<である>に向けられる=あてはめられる、ことに抗議するのだ。

  2. もうひとつは、解釈の志向性が、自己-状況すなわち外/間(〜とともに;通常自我には不可視な側面ないし暗示的運動を多く含む)へと向かわず、自己自身(自己同一性:一対一対応)の固定的・静的-線的解釈もしくは結果論的解釈へと向かうことである。これこそが、典型的な解釈症(Dの言う、ナルシシズム的審判、過剰に批判的すぎる知性云々)そのものの問題となると思われる。これは解釈症の問題としてDの言葉を適宜引用しつつ感想を述べたい。

……………………

この問題は、ひと言で言って精神=知の性癖にある。精神がとかく、(現働化しつつある生成の動態に対し)1)静的な自己同一化を志向しがちであり、同時に2)「完全可視化=明証化を志向し、かつ結果論的」に捉えがちであることとも重なる。このうち特に、「静的・自己同一化」性向は、疑似シニフィアン-疑似シニフィエの<一対一対応>(上記)と解釈症(下記)に、また「完全可視化性向・結果論的性向」は、解釈症の批判精神の過剰さにも、シニフィエからシニフィアンへの<逆行>(上記)にも、濃密に繋がるであろう。とはいえどれも不可分の問題ではある。

実例を見てみよう。Dが挙げつつ批判している、不本意な知の作業の代表例として、精神分析における「解釈」が言表の形成を妨げる仕方。

p128 (精神分析家たちが)不定的な者の背後に、隠された限定的なもの、所有詞、人称代名詞が存在するよう望んで憚らない(表象をひとつだけに限定しようとする)。(またフロイト自身も)状況をまったく考慮に入れない。…切片をひとつに抽出…その契機をひとつ抽出するだけで十分…欲望の集合を壊し、※1現働状態にある生成を壊し、それらに代えて過度に表象的な関係のアナロジーを置く…いかなる(患者の)現実的-欲望もすでに消失してしまっている。それに代置されるのが、ひとつのコードであり、言表の象徴的な超コード化…

これが患者を無視し、虚構の主体を造る=解釈、のだという。

注)※1…がじつは “ これ ” こそが本来の意味のシニフィアン(線的に遡られない生身の-状況づけられた或る生成=志向的体験)というところのものである?! したがってD=Gが一貫して精鋭に批判するところのシニフィアンとは、既成の体系的知(〜であるはず・〜であるべき)から逆行的に生の現実(〜にある・〜である)へと挿入される形骸化したシニフィアンのことであるようだ。こうした権威化した疑似シニフィアンはしばしば代表的-抽出的シニフィエ(これまた形骸化された表象的なもの=表象代理、生から抽出され遊離したwissenの型と言ってもよいが)から意図的-限定(固定)的に、また線的に、逆行される知性の “ 向き ” にかんする典型的で重大な陥穽のひとつと、されなければならない問題だとたしかに思う。

逆行的…精神・思考の陥りやすい、人間性に対して非本来的な向き、と私自身は捉える。(cf:シューベルトの言葉)

そして、精神分析が言表の形成を妨げる仕方を、実例(ハンス坊や)を挙げつつ語っている。(多少、省略・意訳)

p128 幼少期のブロック、ハンスの馬への生成のブロック、ひとつの生成を印づけることとしての不定法、逃走線、あるいは脱領土化の運動、をまったく考慮に入れない。…現働状態にある生成を壊し、それらに代えて過度に想像的な類似(馬-僕のパパ)や過度に表象的な関係のアナロジー(後脚で蹴る=セックスをする)を置く

シニフィアンス(意味形成性)が解釈に取って代わり、シニフィアンがシニフィエに取って代わり、分析者の沈黙がその人の註釈に取って代わった…硬直化

フロイトの体系自身が孕む問題――すなわちあまりに「性」化された体系の傾向性の問題と、そればかりでなく、そもそも患者自身が状況から引き離され、抽出された情報の断片を以て(例えば男根なら男根と)或るひとつに「表象代理」<化>されることの持つ危険の、ふたつ――に触れなければならないだろう。

そのうちひとつ目については、私たちが性的な存在でもある以上、物事にはたしかに「性」性というものの反映するのはたしかだとは思うが、その帯びる傾向があまりに性に偏ったものである、ということ自身の持つ問題にみえる。(郵便的の記事でも少し触れた。)がここでは深入りしない。

もうひとつは、――今回非常に惹かれた点だが―― 表象代理化とその体系が私たちへと向かってくる思考回路・思考の方向の問題である。これは社会的・政治的な意味でも多局面に当て嵌まる問題だが、精神分析を土台にしたまま述べると、すなわち知の体系なり地図が作り上げられると、その一端出来あがった思考から、生身の人間へと降りて来て当て嵌められる、という仕方にある。一度定型化・権威化したその表象代理と思考とが、生身の人間へと持ち運ばれ・填め込まれた結果、人それぞれが、“ まったく ” 違った仕方、もしくは隣人のケースとは “ 絶妙に-しかし-決定的に ” 異なった仕方で、各々に自律的な問題を抱えている、その個々が<状況づけられた>処遇を、まったく無視されるのであっては、まさしくその「状況づけられ方」に於いて何らかの異常を発している患者への理解は、たしかに到底成り立たない。

(権威化された)解釈が陥りやすい方法の誤謬(解釈症の問題にも共通する)とは、まずいきなりシニフィエを限定し(生から抽出されたwissen;「最初の」解釈投与)、そこから線型的に状況へと(その際の状況!?も、じつは形骸化させられ結果論的で異様に明証化された視野に拘束されてしまっているのだが)逆行するという思考パターンの問題である。Dの言うとおり、それは健全な実験精神に逆らうし、生のリアリティ・現働化しつつある生成を決定的な仕方で破壊する。

そもそも患者(苦しみ)が救われるとは、十分な<対話>もなしに、用意されていた解釈(wissenとしての体系的成果の一部;既成シニフィエ)を当て嵌められることではなく、その個々の<状況ごと理解>され、患者ががんじがらめにされていたその<状況ごと-且つそこに属していた自分の分身とともに-炙り出される>ことに他ならず、人間の救済とは、その<隠れていた問題が、「患者自身の生の内的同意とともに、患者の縛り付けられていた状況ごと」露わになる=条件法が-形姿と-なって-現れる>ことに他ならない、と思われるからである。
生まの経験:生成(含、自己回復)にとって、シニフィエとは「自分のいない外に」予め出来上がっているもの=あてがわれるもの ではけしてない。(外/間;志向的体験なしに「自分の中のみに」予め出来上がっているものでもないが。)

言い換えると、私たちを救出する側のシニフィアンが予めそれ自身の内容を出来るだけ持たず(鏡のようでありつつ透明に近く)、私たちの生と生成が属させられ-形勢されつつあるシニフィアンへと「オーバーラップ」することにより救い出される、ということになるだろう。このオーバーラップが、部分的であるよりは、より全的で患者の向きに沿い重なり合う度合いが大きいほど、すぐれた救済(平等に漂う注意:デリダ)であるとも、言えるのかも知れない。(!ただ、この点に関しては、wissenの投入を排している間、救い手-分析者の側にはシニフィアンの現成が無い=シニフィアンそれ自体が存在しない=つまり、広い意味での「理解-解釈(相対性);志向的体験」そのものが “ 介在しない ” 、のではないということに 個人的には、あくまでも注意したい。*救う側は救う側で或る内容を秘めたシニフィアンを帯びることは人間である以上避けられないからである。これはフロイト自身も言っているはずである。)このスタンスは相対「主義」や不可知論ではなく、ニヒリズムでもなく、むしろその逆である。にも拘わらず、可能な限り平等に漂うためには、外のシニフィアン、場合によっては実験的ポジシオンの交換さえも可能な逆のシニフィアンも、持続的に内包しうる程のダイナミズムを、分析者のシニフィアンがおそらく有つのでなければならない)。

*…「存在論的、郵便的(東浩紀、著)」p284-5:分析者と被分析者とのあいだにはつねに「転移」が生じる。したがって必然的に、「分析治療の見通しに影響を与え、また抵抗という仕方で治療を困難にする諸契機においては、分析者の固有性もまたある場所を占め」ることとなる。つまり分析者の人格が被分析者の症状に影響し、またそこから影響されるという循環…第二に分析者は、被分析者のエスにもまた踏み込まねば…被分析者のエス(当時の術語では無意識)が、分析者が自分自身のエスを対話に介入させることではじめて操作可能となるということを幾度も強調…「いかなる精神分析医も、自分自身のコンプレックスや内的抵抗が許容するかぎりでのみ分析を進める」ことが出来る

 

それと精神の性向として同時に大きな問題は、自己同一性へのつよい志向と思われる。言い換えれば一対一対応の性向。「状況づけられた」自己の問題から、あるいは「状況づけられた」不可視の部分自己-他者、自己-社会の問題から遊離した自己自身を、精神というものは見出しがちである。精神つまり「〜であるべき・〜であるはず・〜でなければならない」をモットーとするものは、つい<それを>鏡に映し出し、またその思う通りに解釈しようとするのである。これは人間の生まな在りように逆行する。解釈の更新とは、生成の当体がマイノリティであることを自動的に余儀なくさせられる無名主体(へ)の<変様(容)=Metamorphose>である。が解釈の更新がエクリチュールの非人称性へと解放されず、自己同一性の側、すなわち(表現の扱い手そのものがもっとも誤解しやすい)自己自身へと、向かい空転する、このからくり。本来むかうはずであった自己-状況すなわち 外/間 の視座、すなわち「〜とともに」の地平。これはそれ自身、暗示的運動性にみち、日常的自我(同一性・明証的一対一対応を好む)には不可視な側面があるだけに、エクリチュールという非人称性へと投げ出されるはずの生成/表現の当体にとってもやはりその生成のあり方が日常的性向もしくはエゴイズム・ナルシシズムの性向に近づくほど自己同一性の側に還帰しやすく、ともすれば踏み外しやすい領域となりうる。

Dはこう言っている。

p14 魅力が生に非人称的な、個人に優越する力能を与えるのと同時に、文体はエクリチュールに外部の、書かれるものを逸脱した目的を与える。
p79 実を言えば、書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。それはひとえに生が個人的な何かではないからである。あるいは、エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである、と言ったほうがよいかもしれない。

 

それ自身が本来、「個人的な何かではない」処のものであったはずの生成。あるいは、「エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである」がゆえに、非人称性を帯びているはずの生成。が、生成の当体がたまたま<この>身体に、この身体に於ける精神に物理的に(日常的自我の自覚の上だけでも)閉ざされるかに見える以上、生成はつい、その翻りと旋回を以てはからずも己自身に還帰し己自身を充填しようとする(ただ、これは知の問題、知だけの問題なのだろうか。この志向は、理知性・精神だけが帯びやすいのでなく、欲望=wollen=無意識も同様であり<うる>ことを証明した哲学者はいないのだろうか。解釈-知を奪ったあとの生成-欲望それ自身に、この同じからくりが生じ得ないのかどうか。もしそうだとすると、私たちは結局生成・生そのものの根源を、何処に置いたらよいのか。この辺りはDの言説に沿って後述することになると思う)。それはともかく、たしかに私たちは世界の意味とその(準-)全体を、<己のうちに>実現しようとしてしまいがちであり、その非人称性を実現しえた他ならぬこの代弁者を見よ、ということが目的化し自己権威化してしまう認識の罠、といったものがあり得る。

 

こうしたことを踏まえた上でなお、「状況づけられた」生命、「状況における」人間(その分身としての自己や他己、勿論、潜在領野に飛沫化している分身をも含む)を、状況ごと理解すること・条件法ごと理解すること(むしろ「どんな!」条件法に即しているのか、そのものを理解しようとすること)を以て、社会という共同体・共感体・ネットワークへと返すべく解釈するかぎりにおいて、また生から遊離しない知-解釈であるかぎりにおいて、<解釈する知の働きそのものを否定>すべきではない、というのが私の意見ではあるが…。

Dの思想は、ニーチェの影響が深いとされる、ニーチェは、「事実は存在しないのであり、ただ解釈が存在するだけだ」と言う。がそれはむしろ当然の事柄である。実際、あるのはただ私たちによる世界への解釈、世界という解釈である。が、それで何を言いたいのか…。それ(結局普遍ではない)を指摘することが、だから解釈など無効である、ということになるのだろうか。また、解釈し、知り尽くし、世界を一端整理しようとする行為は、人間の弱さとニヒリズムから生ずる、というニーチェの人間「解釈」を受け容れるにしても、それを以て状況を、世界の成り立ちや有りようを、出来るかぎりよく知ろうとすること・また「整理することそのものに」罪がある、ということになるのだろうか。というよりは、一度整理されたものが利用される仕方のほう、つまり整理した本人によって世界の排他的代弁者となる形に陥ることと、それを無批判に踏襲したまま人々が使用し権威化する態度、また生まの人生・人間・歴史への<適用の仕方>のほうに、罪があるのではないのだろうか。それともう一つ問題なのは、(近代的)知が、世界について語るものが解釈にすぎぬとしてかりに知=解釈を無効とするか、もしくは禁じる場合、では残された知以外の領域(知と完全に綺麗に分離される知以外の領域なるものが存在しうるかどうかも疑問だが?、仮にあるとして)によって表現される処のものならば、一切の解釈(性)を帯びないのか、ということも問題として残る。つまり知的解釈を排した 生成/表現(Dが言う処の、理解しようとせず、現状を把握=解釈 することもない生成)が、その非人称性の有り様が、世界への「解釈性」を一切帯びないでいられるのかという問題。それも一種の(ひとつの生成という)解釈ではないのか、という問題である。私見では、生成/表現に於ても(或る生成による世界という)解釈となるのだし、またその生成/表現には、何らかの形で知的なものが介在・反映せざるを得ない(厳密には知と生成は精緻に絡み合い切り離せないし、絡み合うことを禁じることも出来ない――ローベルト・シューマンもしくはベートーヴェン)、という事になると思う。また、それでよい(=生成に何らかの責任を持とうとする以上、自然である)のだとも思うが。

それはともかく、一端この著書に戻るとして、実際読んでいて興味深かったことは、以下のような点である。さらに具体的に見ていきたい。

D=Gが、精神分析を、ひとつの端的な舞台とし、指摘していた問題提起により、いずれも彼らの時代の精神分析の実態が、もっとも反『弁証法』的な――この反『弁証法』的の意味は、D=G、またデリダなどがしばしば用いるヘーゲル弁証法(線形的・逆行的で結果論的に整理され全可視化・明証化されたそれ)やマルクス唯物弁証法(<最終的には>下部構造が上部構造を規定する、としてその体系を<閉じた>ことにじつに端的に現れている)のような形骸化・イデオロギー化した弁証法、疑似弁証法の方を指している――思考と同様の誤謬をおかしていたことを知る。と同時に、同著書においてD(D=G)の促している方向とは、おおむね、本来的意味での、永遠に開かれた(=態度として開かれ、個別の生成のケースとしては一端閉じられるがまた再開される)、逆行しない、生まの弁証法(これは後述することになる)的思考と方法に、重なる方向であるといえるだろう。ほんらい人間が行う「解釈」というものは何か、それがドゥルーズやデリダらの鋭く指摘しているような反-弁証法的思考でありつづけては本末転倒である、と思われるだけに、私としても拙なる感想を付しておきたい部分となった。

Dは説く。

p64 解釈なしに、状況を理解することなく愛することができるようになれ。
p78 あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。

と。

が、他方では表現=生成について、こう言っている。

p それはひとつの作動配列アジャンスマン、言表行為の作動配列なのである。ひとつの文体とは、自分自身の言語(自国語)において吃るようになることである。…そのように吃ることの必然性がなければならない…自らの発話(パロール)において吃るのではなく、言語活動(ランガージュ)それ自身で吃るのである。自分自身のラング(言語)において外国人のようであること。逃走線を描くこと。

このように、表現=生成する自己の中の異邦人を、そして吃りを、Dは評価する。ところでそもそも吃りとは何であろうか。思うに、吃りこそは解釈――状況-自己(の分身)関係の振り返りをかねた意味の――見知らぬもの=他所を、此処に招き込む、またはその反対に此処をさらなる他所・他の位相へと渡す――ずらしであり、メタモルフォーゼである。解釈は、ニーチェ=ドゥルーズ的にいえば、「弱さ(世界を知ろうとする近代的知の欲望の起源は弱さ・ニヒリズムである、というのが彼らのスタンス)」であると言えるのだろうが、じつはそれとともに「誠実さ」としての現れである、と捉えたい。こういうとDとDを「よく知る人々」は笑うのかもしれないが、自己の中の異邦人・吃りは、(パロールに於いてもランガージュに於いても)「解釈」志向の<誠実さという側面>としての現れであろう(シューマン=ホロヴィッツ。VORT-DAはその起源なのか?或いは最も端的なあらわれなのか…)。そして吃りはなによりも、好むと好まざるとに拘わらずこの世に生まれて来、そうであればこそ否応なしに他者のただなかに生かされてある以上、そうした「非連続」の連続の運動を余儀なくされる他者との接近戦・ゲリラ戦(**P88/江川隆男氏解説部分 p236 哲学とは「折衝・交渉;pourparler」であるとのくだり、 Dの言葉。)のただ中で、少しでもよく生きようとするための<状況-自己>理解の余地を顕すもの(生成の軌道の描く<非連続の連続>における「非連続」の正体・意味の発現現場)以外の何ものでもないからだ。

**… 哲学は、私たち各人のうちでの他の諸権力に対する折衝であり、自己自身のうちにすでに浸入している諸権力との戦いなき戦争、ゲリラ戦である。この意味において哲学は一つの接近戦である。哲学は、諸権力を構成せず、諸権力と混同されないが、しかし自己自身のうちで諸権力との真の接近戦をなすものである。それは、到達不可能なほど遠くの、それら諸権力の中枢や源泉に、もっとも破壊力のある非物体的な武器を仕掛ける意志をもった接近戦である。

 

「p11 理解すべき何ものもなければ、解釈すべき何ものもない」、とD=Gは言うが、吃りこそは謂わば、状況理解の反映だろう。保留――別の生成への余地と方向性をたえず予覚しつつ、準-外を孕みつつ、見えないものを現働化しようとすること。「非連続」の連続つまり吃り(時間軸の空間化?)とは、解釈の余地、ひとつ外での「此性」の、すなわち潜勢的なものの現勢化の “ 把持しなおし ”である。

 

ところで、では精神分析ののぞましい姿、患者の治療(すこやかな生成の現働化)とは、どうあればよいのだろうか。生成の邪魔をしない鉄則として、Dはこう言っている。

p126 ひとつの主体を表象しないこと。というのも、言表行為の主体は存在しないからである。そうではなく、ひとつの作動配列をプログラムすること。言表を超コード化しないこと。その反対に、言表がシニフィアンと称される布置の暴政の下で揺れ動かないようにすること。

和語にも――Dは、時に東洋を引き合いに出す――このような言い方がある「己を無にする(空しうする)」。西洋がともすると主体・主体と言いがちの処を、「構えず、虚心坦懐」「予断なし」に向き合う。そこでは世界は所謂対象ですらなくなる。書物を読解するのにも、(平たい言い方をあえてすれば)主観を交えずにその著書の文脈の流れだけをできるかぎり追っていくと、文脈とともに著者の負っていた状況すなわち「条件法ごと」見えてくる地点が現れる。そこで現働化してくるものが、その「生成者自身のシニフィアンでもある」という仕方で現れてくる(シニフィエなきシニフィアン、シニフィアンス)。つまりここで著者が何の地平を「前提に」しておりそこに於て何に抵抗し、何を守ろうとしているのかごと、理解できたりもする。もとい、理解するとは本来、また実際、そのようでなければならない。

が実は、それは必ずしも容易ではない。ことに、読み手の個人的事情が絡みやすい場合がそれだ。読み手自身の資質や、当座自分の抱えつつ押殺している問題に、その内容が偶然近かったり触れたりする場合には、ことさら顕著にその問題が立ち現れる。どうしても読み手の側の神経や志向性が敏感に反応するがゆえ、これを抑えるのは相当の熟達さが必要であって、十分な訓練を受けた大家ですら、時にはその案件に手慣れていること・他よりはるかに熟知している(近くにいる)ことを以てしてかえって陥りやすい罠さえ――その、「予断のなさ」を保証するものが不在であるだけに――ありうるといえる。まして素人に於てをや、ということなのではあろう?、今回実は私が心配している問題のひとつも、実際この障りに突き当たっているのかも知れない。というのは、D=G自身の言う、「理解すべきもの・解釈すべきものなど何もない(p11)」、という或る種の不自由さを帯びてみえるシニフィアンをどう相対化するかが問題となってしまう。すなわち生成を遂行する際、また生成を追う際に、解釈の余地が生じうる地点、つまり諸々に自律的な生成の遂行を余儀なくさせている処の、世の中に通底している <からくり=マジョリティの姿> が見えてくる地点と、さらにはそのからくりをこの際大いに利用しようといつも手ぐすね引いて待機している人々の目論見の、見えてくる地点。その怖ろしさゆえ、動態においても或る程度俯瞰的な視座から、脱主体的生成をなしつつある当体銘々の責任に於いてその実験的解析の地平を失わないようにしたいという思い、逆に言うと諸生成の経験がタコツボに終わらないようにという注意を、尊重したいのだが、「解釈するな・現状を把握することなく」生成せよ、と言われてはそれが禁じられてしまう。

勿論、D=Gが解釈するな、実験せよ、というにはそれに足る十分な理由と正しさがある。彼らは体系化(閉じられた-「樹」系)を回避する。その体系的知が陥りがちの性癖も、逆行などの形で先述した。ただだから、ツリー化をば差し控えるとしても、また実際それが彼らの言うように今度は地図化;プログラム化された場合でも、その記録装置の<<適用者ないし敷衍者>>として振る舞う「代理」を何らかの仕方で通す方途が無くならない以上、また派閥化などを含めそのように方向づけるシステム自身が無くならない以上は、元の木阿弥という危険性がある。つまり上述したこの思考の向きと質の問題が克服されぬかぎりは、いくら語りの座標軸を歴史→地理へと移行したり、表象を樹→草、体系→プログラムへと代えて行くにしろ、また論理的な言語から暗号的言語へと移行するにしろ、畢竟いたちごっこと言葉狩りになってしまうだろう。

だから言ったのだ、解釈するなと。と言われるかも知れない。が、すると今度は、結局それ自身を私たち人間社会が乗り越えるのは、はたして解釈する「な」に拠ってなのだろうか、という根本的問いが生じる。むしろ、より健全な解釈を求めよう・よりすこやかな解釈の「生かし方」を求めよう、とし「解釈は施しつつも、この生に於ては、誰にも取って代わられぬ生成者たれ、共感体のなかでの生成者たれ」と言われるのが、望ましいのではないかと思えてならない。というのは、こういうことだ…。何を最も重要な問題として考えるのか。知の功罪を問うて、知識人自身が知(伝達可能な手段を用いる知)を否定し放棄した時、我が意を得たりと喜ぶ人々がいないだろうか(彼らこそはそもそも、私たちの最大の敵ではなかったのだろうか)。そのことに拠って蒙る損失は、計り知れないのではないだろうか。また過去に我々はそれに似た過ちを侵してこなかっただろうか。システム(逆行する知-思考のシステム)に支配される不合理からも、システムを操るマジョリティ=権力装置の魔の手からも、私たちマイノリティの生成が逃れるためには、不可視な状況をあえて把握する権利を捨てないことが、むしろ重要なのではないだろうか。各々において責任ある「解釈をしよう」とすることを<以て成功する>だろう、とまではかりに、言い切れぬにしても、せめて(もっと広く深い意味での)知を働かせること=状況を理解し解釈を試みること、それなくして、システムを操る権力装置にいい所取りをされるのだけは、かろうじて回避できるようにしたい、ということだ。これもまた、後述する。とにかく「狭い知性」による反弁証法的なシステムの運行の行き詰まりにより、知が知を放棄し、それを以て<代弁装置-権力装置に好都合に利用され>、私たちの社会を支配されないこと。少なくともそんな無念な仕方で、意図的に抽出されたシニフィエ(代理象徴者)が、この現実の政治-社会に於て個々の生成者の生へと逆行してこないこと。それを希うのみということだ。

たとえば先の精神分析の場合で言えば、自分でもよく見えていなかった、「状況づけられ方」を知らされること、己を状況づけているもの、己自身にもまだ見えていない処のものが、それに束縛されていた自分の<分身/処遇>ごと見えてくる(=到来)ようになること。それを援助してくれるのが、そもそも精神治療のはずであるのに、これを無視した形でただたんに機械的にシニフィエを「挿填」されないことが、患者にとっては大事だと言ったが、ましてやそのシニフィエ=表象代理が、社会のイデオロギー装置に取って代わられたとしたら?…そう思うだけで、ぞっとする。私たちの「知」とは、本来そのような不幸に我々が陥らないよう、危険を回避できるためのものでは無かったのだろうか。少なくともそのことに貢献できなくて、よいのだろうか…。また生成自身も、そのような状況理解と無関係でばかりいられるのか。もし「知」では貢献できないし、これまでも出来なかったというなら、それは知(解釈)そのものが罰され破棄されるべきなのではなく、知の有りよう・射程範囲の狭さ・解釈の「仕方、向き」の問題ではなかったのか、という問いが、やはりつよく残る。いわば生まな人間の経験自身が一つの表象代理に取って代わられぬようにすること が、とまれ、重要になってくる。

さて、たしかにDの列挙するこの、解釈の陥りがちな性癖と弊害。形骸化し逆行する弁証法;非本来的知。これを回避するためにこそ、私たちは結局 「外/間」 「〜と共にある」の地平を述べなくてはならなくなる。が実のところ、この形勢と地平こそは、本来的意味の「解釈」の地平ではないのだろうか。Dが評価する処!の「吃り」=『と、と、と』。もしくは 現勢状態のさなかにある時間軸の空間化、という名の “省み” 。そういう交錯を織り込んだ、我々の生という、時間の流れ。たとえばローベルト・シューマンの音楽――Dはシューマニアーナであったらしいが――etc..それらはまさに「理解-解釈」たるもののすぐれた具現体では、ないのだろうか。

 

さて、もうひとつ、Dがフランスの知識人に端的に見られる としている、解釈症の問題について触れたい。これはじつは上記と重なる面も大いに有るが、Dの把握によると、解釈症は、生成/表現において最も大事な実験精神を縮減させる、という。大いに肯け、卓見が随所に見られる。

これを私としては、こう捉えたい。先にも触れてきたように精神が、現働化しつつある生成に関し、つい統一性・完全可視化(まったき明証化)を志向しがちであること、また(同じことだが)結果論的-逆行的に物事を見、批判しがちであること。これはじつは、解釈症の問題にもつながる。批判精神の強すぎること(スタティック・整理癖、全可視化スタンス)が生きる上での愛を欠き、実験しつつ前進する精神を失うこと。とともにこれは、精神の(自己)同一性志向、一対一対応志向、ナルシシズムの問題等にも繋がる。精神がそうした性向を帯びるのに対し、逆に生成とは、あくまでも動態であり、つねに暗示的・不可視的状況下にあり、位相が錯綜し、つねに実験せざるを得ないこと。このギャップに、人間の生・生成が晒され引き裂かれる、という危険が事実ある。

フランス人の知的すぎる解釈症について、Dはこう述べる。示唆に富み非常に興味深かった。該当箇所以下。

p76 ローレンスは、フランスの文学全体を貫いているように彼にみえるもの、すなわち「不潔で小さな秘密」への偏執を告発していた。登場人物と著者はつねに小さな秘密をもっており、この秘密が解釈することへの偏執に滋養を与えるというのである。…「シニフィアン」なるものが発明されて以来、物事はうまくいかなくなった。言語を解釈する代わりに、言語が私たちを解釈し始め、そして自分自身を解釈しはじめたのである。意味形成性(シニフィアンス)と解釈症(解釈せずにはいられない性質)は大地における二つの病気であり、専制君主と司祭のカップルである。
p78 あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。

p79 逃走するとは、現実を生産し、生を創造し、武器を見つけることである。一般に、生が個人的な何かに縮減され、作品が自らの目的をそれ自身のうちに見出すとみなされるのは、同じ間違った運動においてである。…フランス文学は宣言、イデオロギー、エクリチュールの理論に満ち溢れており、また同時に、人と人との争い、調整の調整、神経症的な心遣い、ナルシシズム的な審判に満ち溢れている。…フランス文学はしばしば神経症の最も恥知らずな讃辞である。…それは下劣だ。それはつねに世間の最善なる意図に収まっている。生が矮小化されればされるほど、作品は偉大なものにみえるようになっていくわけだ。こうして作品を貫く生の力能を見ようとする大胆さが失われる。何もかもが前もって押し潰されてしまっているのだ。作品が提起する究極目的としてのおおきなシニフィアンを賦活し、生が想定する便法としての想像的な小さなシニフィエや幻想を賦活するのは、去勢におけるのと同じルサンチマンであり、同じ嗜好である。ローレンスはフランス文学を、治癒し難いほどに知性的であり、観念論的かつ理想主義的であり、本質的に批判的であり、生の創造者であるよりもむしろ生の批判者であると言って非難していた。文学におけるフランスのナショナリズム、それは判断し判断されることへの凄まじい偏執がこの文学を貫いているということだ。フランスの作家と彼らの登場人物の中にはあまりにもヒステリックな人が多い。憎み、愛されたいと望むのだが、愛し、賞賛する能力をまったく欠いている。実を言えば、書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。それはひとえに生が個人的な何かではないからである。あるいは、エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである、と言ったほうがよいかもしれない。

解釈の更新とは、生成の当体がマイノリティであることを自動的に余儀なくさせられる無名主体の変容でありながら、同時に、これを隙あらば中断させ封殺しようとするマジョリティ(繰り返すが表現者の純粋な欲望を自動的に-余儀なくマイノリティにさせる処のマジョリティというのが、つねにすでに存在しているのであって、この政治性こそが最も問題である)が形成される仕組み・不思議と決まって素描される描線の罠と、想定しうるあらゆるパターン(つねにその民族国家と時代に相応しい新しい形姿を纏いやって来る)を検知し解明し、これに挑みこの危険を乗り越えようとする「開かれた知」的試みでもある、としよう。が、解釈の更新がエクリチュールの非人称性へと解放されず、表現/生成の当体の自己同一性の側、すなわち(表現の扱い手そのものがもっとも誤解しやすい)自己自身へと向かうとき、解釈症は起こりうる。解釈症とはいいかえれば、生のリアリティ(他者の存在する場、炸裂可能性=意味の出現可能性)を閉ざした場に他ならない。未来にむけての時間が閉ざされており流れの凝結している状態であって、この問題はナルシシズム・エゴイズムとも濃密に絡み合うし、表現の場合にはヒロイズムとも絡みうる。またエゴイズムの場合殊に、私見では、生成の質とも不可分ともなるのであろう(D自身は強度=質、としているが)。

ただ、ではだからといってこのからくりの克服のためには、一切解釈するな(知の破棄)、というのが正しいのであろうか、というのがまたしても問題になってくる。かえって注視されない自己への異常な憧れ、観察しようとする自我への憎しみと強烈な解放願望から、その精神は萎縮し空転するか錯乱してしまうだろう。だいいちそれでは逆に「この人を見よ」的なエゴイズム・ナルシシズム・ヒロイズムの固執からも自律的になれない、という皮肉な精神のからくりをすら感じる。観察しようとする自我への憎しみ・放棄願望は、じつは代理者願望的なエゴイズム・ナルシシズムの魔的固執ともおそらく不可分であるし、後述する自己破壊の問題とも通じるであろう。


ともかく、観察され解釈されることそのものから逃亡しようとするその姿も、精神による身体の支配と同様に、まったく自然でない。私たちのありのままの姿とは、むしろ、自己を生々しく不透明だったあの状況へ、生成へのリアリティへと返されることでかえって自然と得られるのだ。気づきの自我の介入を禁じれば禁じるほど、気づきから注視へ、注視から監視へ、批判へ、懲罰へと滋養(!?)される自我のそのからくり。そうした偏執から解放されるには、つまり無心(たんなるわれわれという準-事実)に近づけるには、――馬鹿馬鹿しい言い方をするようだが――不可視性にみちた生の状況へ、生まの “ 状況のリアリティ ” へと一端返されることである(遡行)。がしかもそれは、ただたんに「もとへと返す」のではない。未来がどうなるか解らないなりに、今は前の状況と自己の関係をひとつ外から(自己をも他己をも或る種の分身として)俯瞰ないし観照しうるのだから、その視座から、状況のありようを責任を持って解釈しつつ進もう、というべきではないのだろうか。解釈することの一つの大きな問題は、解釈「していること」自身より、「状況をでなく自己自身を」解釈していることが問題なのであり、自己が自己自身によって状況(自己-他己)との関係から<抽出>され、シニフィアン-シニフィエの空転状態とされていること、つまり生まに「状況づけられていない事」そのものが問題である。解釈が、「状況への」判断となっていないことのほうが、問題である。前術の問題とも重なるが、解釈自身を放棄すると、生成のマイノリティが状況(多くの場合マジョリティ・権力・イデオロギー装置・ファシズムへの陥穽等の危険を孕む)との関わりからどう自由に振る舞いうるのか、これをどう克服しうるのか、を、その生成/表現 に於て責任をもって選択しえなくなることは、一層問題である。また、その克服の仕方を、どう他者に伝えれば、それを社会システムとして(たとえ問題によってはその来るべき時代の到来そのものは、まだまだ先であろうにしても)共有しやすくなるのかを伝える権能さえも、これにより放棄することになりはしないだろうか。

解釈が、本来向かうはずの、動態である自己-状況(自己-他己の間・外)にではなく、スタティックに既成の自己自身へと向かうとき、解釈は解釈症になる、ということ。これを確認した上で、かえって不安になるのがこのような点である。つまり精神にそわない身体的存在を、精神が支配者として抑圧し、抹殺さえするのが私達に危険をもたらすと同様に、今度は精神(意志的精神)が精神(理知)に異様な懲罰をくわえ、これを放棄しようとすること。(スピノザの姿勢はこれとも異なるはずである。ニーチェはどうだったのだろうか?全ての知は解釈にすぎぬ、という処から、知=禁 解釈=禁 という仕方で、彼ははたして解釈を「禁じた」のだろうか?これを抹殺することはじつはむずかしいが…。逆らうこと・憎悪するを以てして解放されるかにみえるが、鳥もちにかかるだけである)これを志向してしまってはいないだろうか。これ、つまり解釈すること=鏡に映し出そうとする自我の働きそのものをいたづらに禁じ抹殺することも、同様に我々を過度に傷つける。何某かの危険から(繰り返すがここにはじつは根拠がある)我々を守るべく注視する自我、振り返る自我を、あまりに敵視することが、今度は人を無監視状態への憧憬という慟哭、つまり狂気へと、誘ってしまう。日常的実践の問題としては座禅を組むことで乗り越えようとする人もいるだろうが、表現の場などでこれを貫通させることは容易でないし、専制やファシズムを含む権力装置(それは、表現者の外からも、内からも!やって来る)へと吸収される危険の問題からしても、表現においてそうした一切の危険を回避しつつ、同時に監視ないし意味付与する自我に一切侵されないというのは事実上不可能と言える。だから問題はあくまでも、意味付与ないし観照のあり方と向かい方である。それがスタティックな自己同一性に基づいているのでなく、既成の表象代理(べき)から生-生成(である=となる)へと一方的に挿入されるのでもなく、状況自身と、それを形勢しつつある力・作用の全容へと向かいつつ同時にそれ自身を外化する態度を保つものであれば、少なくとも不健全ではないのである。

むしろ表現/生成者は、このような点に気をつけるべきかも知れない。今はマイノリティであるところの或る表現が、社会-大衆化によってマジョリティとなったあかつきにも、危険をはらまない質のものであるかどうか。その出自が、既成の秩序やイデオロギー・「薄汚い」権威道徳への復讐心から、あわよくば他の生をも奪還しようとする力能に動機づけられた生きる意志ではないように…。気になるのはいつもこの点である。

 

ところで自己解釈はナルシシズムの問題を喚起させる。

ナルシシズムとは何かを、たとえばシューベルトには、よく考えさせられる…。鏡。ただひたひたと容赦ない対面と直視が彼にはある(その縁から変幻自在な水鏡へと移るにせよ)。だがそこから出てきた言葉は「私は美しい」でも「この人を見よ」でもなく、美しいのは授かった才能と信念から生まれる音楽。ありのままの人間の姿とその純浄な変容とがあるだけだ。だから彼の彼の鏡像とは、ユニゾンの場合でさえナルシシズムというよりはむしろ、分析者と被分析者の間の転移であるかのようだ。かれの音楽には無意識から洩れてエクリチュールの影を媒介し殆ど他者と見まがうほどの相貌を帯びて再来した分身による、その膜の外もしくは準-外からの、振り返りざまの意味付与(シューマンのような)はあまり、登場しないといってよい。無意識から自我、超自我への距離が短く強靱で密度が濃く、息苦しいほどに漏洩が少なく?、むしろ無意識の膜に観照する理知性が張り付いており、力能の均斉がとれ凝縮されている。そのため、変容の発生のためのリズムに、さして大胆なバネ=跳躍力も登場の必要がないほどである。彼の音楽にはモーツァルトとはまた違った意味で「3度」のもたらす自発性の効果がおおきいが、水鏡を帯びるにしたがい、その輪郭はたちどころに曖昧になり、魔的もしくは霊的吸引力をおびる。時には凄絶でさえある反復強迫にみちたその音楽は、あまりに生の直接性・根源に位置したままでいるために、隠喩の手垢すらついていない。

それはともかく、話を元に戻せば、生成におけるそうした<傾注・理解のスタイル>は、意味付与型か、観照型かなど、人の資質による相異の問題もあるのでともかくとすれば、おそらくひとついえることは、「この生成に於るナルシシズムのからくりの克服」そのものを、むしろ表現に盛り込むことにより、これを共有し、ともによりよき生成へと参与しようと…。そういう生成もありうると。そしてより健全な――自滅しない・破綻しない――生成へと向かおうと。

 

D自身、マジョリティというものをこう把握している。以下、引用。

p25(ハイデガー問題のくだり)思考が人々に向かって、<私のことを真剣に考えなくていい、というのは私があなたたちに代わって思考し、私があなたたちに見合ったものを、諸々の規範と規則を、ひとつのイメージを与えるからです。あなたたちは、「それは私に関係ない、重要なことではない、哲学者たちや彼らの純粋な理論に関係することだ」と言えば言うほど、そうした規則や起案に従うようになっていくのです>と言うとき、それが思考の権力機構の効果であるということにまったくならないわけではない。 哲学史は哲学において、そして思考においてさえも、つねに権力のエージェントであった。

こう言われる時、それはただしい。だが哲学史(偏狭な知の範囲)だけでなく、もっとやっかいなのは、社会体制・政治権力こそが好んでそう言う(「私たちが代弁者だ。任せなさい」と言う)こと、つまり我々ひとりひとりに考えさせない、ということである。自分自身の目で見、肌で感じ、足で歩いて行こう――それは何も理解し解釈しない、まして現状を把握しない、のではなく(実のところ、人間にとってこれほど「不」自由な、不安に満ちた状況はない)、むしろ逆に自分自身で考えよう――とする人々、もしくは自分ひとりで考えざるを得ないほど追放された人々、いずれにせよ(その判断がほんとうに正しいか間違っているか、あるいは後で振り返って正しかったか間違っていたかはともかく)理解・解釈・判断<する>ことによって「かろうじて生きて行ける」人々、「精一杯意志的で・自由であろうとする」人々である。彼らが身を挺して避けたいのは、「真剣に考えなくていい、というのは私があなたたちに<代わって>思考し、イメージを与えてやるのだから」という人たちと装置の罠であるにちがいない。

 

状況ごとの生(人間)理解、とは、逆に「マジョリティ理解」とも不可分であろう。むしろマイノリティである生が、本来如何にあるべきかをよく知るにも、マジョリティとはいかなるものかをよく知ることが必要だが、それはどちらかというと、こういう理由からだ。権力装置にとって、哲学者らが率先して「だからいっそ解釈するな・知を働かせるな」と言ってくれるその言い分ほど、大衆操作するにおいて好都合なものはない、ということ。この立場に立って、哲学と哲学史を考え直してみることがおそらく急務である。

マイノリティの生成にあたり知が悪い影響を及ぼし「うる」ことを以て、精鋭に知そのものを否定すること(不可知論でも相対主義でもアナーキズムでも何でもよいけれども)は、はからずも 権力装置を肥やしよろこばせることに、何より貢献する。この点を見落とすとき、昨今の哲学および哲学史の意義は本末転倒になるだろう。

知を利用する権力装置は、不断に相貌を変えてやってくる。私たちはよく「歴史を語り継げ、<あの>戦争を忘れるな」、というけれども、権力装置は、二度と昔と同じ姿、同じ仕方では現れない。つねに新しく、親しみやすい形姿を纏いやって来る。つまりマジョリティ(権力+それに乗じる大衆)がつねに、いかなる仕方でマイノリティの生成の生命線(Dの表現では、折衝的=政治的であろうとすること)を奪おうと企み、手ぐすね引いているか、どんな仕方で自律的生の封殺へとアプローチしてくると考えられるか、そこには或る共通した老獪にして執拗なる装置が隠されているだろうが、これを<統合的に>探究しえないか、という、新しい解釈への希望を、やはり諦めるわけにはいかない。勿論それは、文献(至上主義)としてのではなく、人間理解(学)としての解釈(学)への。と同時にそれは、この自己自身も、いかにして自由なマイノリティから疲弊したマジョリティへの変貌を遂げてしまいかねぬかへの探究とも重なるけれども。

 

じっさいD自身、解釈・解釈症を禁じつつも、生成(=逃走)の過程に於いて、こうも言う。

ファシズムから逃走しつつ、私たちは逃走線の上でファシストの凝結を再び見出す。すべてから逃走しつつ、どうしたら…私たちの権力形成を…パパ-ママを再構成しないでいられるのか。逃走線が…純然たる自己破壊の運動と混同されないようにするためには、どうしたらよいのか。

と。

その危機をファシズムと、または自己破壊と、察知し、理解し、この危険からみづからの生成の軌道を死守しなければならなくなる…。いわば、「私(主体)」と言う権能を奪われているその領域で責任を取らされるようなものである。が――にもかかわらず――(状況-自己/他者-自己への)「理解-解釈」の正しい位置、理性のもとよりの役割と持ち場はここにあるはずなのである…。理性にそんな働きなど出来るか、と問われるかもしれないが、たとえ理性がこの場を去ったところで、我々の生がこれらへと陥る危険性そのものも無くなりはしない(Dのいう、「ファシズムから逃走しつつ、私たちは逃走線の上でファシストの凝結を再び見出す。すべてから逃走しつつ、どうしたら…私たちの権力形成を…しないでいられるのか。」の問いそれ自身、理性を罰したところで無くなりはしない。というのは、私たちが物事をみずから理解し判断しないようになることを望む者達が居る、そのからくりが無くならないからだ)。むしろ理性が立ち会っていなければ、喚笛(ホイッスル)すら鳴らせない…。とはいうが、畢竟理性が警告したところで、マジョリティの巨大さと狡猾さには勝てまい、われわれは実際いつも敗北してきたではないか。キリスト教的欺瞞;神の代理者、ファシズム、ホロコースト、スターリニズムetcetc..、と言われるかもしれないが、だからこそ私たちは、これらの経験を個人的な経験、或る民族固有の経験・或る国家固有の経験に、タコツボに、終わらせてはいけないのではないだろうか。むしろ共有のために、諸々の表現を自由に確保すると同時にそれら表現の集積と伝達の地平、さらなる実験的解析の地平を、提示しておく必要があると言えないのだろうか。

おそらくこのことは、Dに手厳しく(自己?)批判されるところの、フランス文学・哲学ないしフランス国民が、何故こうも「*治癒し難いほどに知性的(ローレンス)」に成らざるを得なかったか、を語っているともいえるだろう。彼らが何故これほどにまで批判精神に富み、解釈症にまで陥ったか、その敵は何だったのか。フランス人が、他国民に比しより優れていた敏感さと視座。理知を、神経過敏なほど発達させなければならなかった背景。すなわち反帝国主義、反イデオロギー、反ファシズム。反覇権主義(反-他国領土侵犯、反フロンティア精神? 但、ナポレオンを除く)…総じて封殺的状況に対する感覚の鋭さ。彼らの敵はだから、本来生成者をおのずとマイノリティにせしめるところの、多様な意味に於るマジョリティであり、権力装置・代弁装置ではあった。知的批判精神が、実際おそらくもっとも向かおうとしていたはずのもの、また実際向かうべきであったのは、マジョリティ-権力装置の、誕生の地平及びそれへの分析なのだろう。

 

さて、解釈症に陥るに足るだけのそうした危険にみちた背景についてはともかく、健全な生成/表現、というものそれ自体を考える場合、Dの言うように、実験精神について、考えないわけにはいかない。解釈症を発する背景と、解釈症の罪・表現に及ぼす阻害と損失は、あくまでも分けて考えなければならない。

たしかに生成が健全でダイナミックに行われるためには、実験精神の旺盛であることが必須である。というより、それ以外に前進のしようがない。解釈症を併発している心においては、生き延びるための基本的な自己肯定すら欠いており、実験精神の大胆さが損なわれるだろうことは想像に難くない。表現者と解釈者、両刀使いにならなければならない、などと同一次元に於て言うのもたしかに非常な困難と精神的危険が伴う。

Dの捉える、よく生きるとは、たくましい生成とはどういう事か。哲学に於いては経験主義、文学に於いてはフランス文学と対照的な英米文学の例などを挙げつつ、Dはこう言いたいように思われる。自我の(徒らな)発達は、生に対し批判的な態度(愛の欠如)に陥り、生の力能・生産性・実験精神を欠き、生を矮小化し、<大胆さ>を縮減させがちである。「幻想なしに、(自己)解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。」と言う言葉の正しさが、たしかにある。それはたとえば、ともするとあまりに批判的精神の卓抜なために生成的力能と神経の萎縮しがちなシューマンの音楽にも言えることで、この批判精神・解釈能力の発達した人間が、同時に生成者として要求されるある種の<大胆さ>を表現当体に呼び戻すためには、想像を絶する負担がかかりがちな所があるに違いない。
本書の文体からも、みずからがフランス人の潔癖症と異常なほどの繊細さを併せ持つとさえ思われるDの口から発されるこの言葉は、むしろ大胆にも良心的というべきだろう。この意味を汲み取るとき、彼を繊細さという武器を放擲し開き直ったアナーキストだとか、みづからの潔癖さゆえに自暴自棄な不可知論者だなどと片づけるわけには毛頭行くまい。

実験的であることを強くDは推奨する。たしかに、無意識に任せて(そこでは自我意識がいちいち介入せず)実験的に色々吐き出させるのはいいことなのだろう、また結局それしかないだろう。とりあえず無意識を基本的に肯定し跋扈させておくこと。ただこれが地理的か歴史的かは、その人間の無意識・潜在意識の質に任せれば良く、どちらかにイデオロギー化しなくともよいのではと思うが。おのずと、一度その無意識による軌道=時空の軸を、意識が、反省ないし観照という形で「空間化」を行うこととなるだろう(それが、D=Gの行った地図・プログラムの作成に当たるように思われる?だから彼らは「解釈」(学)が本来やるはずであった位相の仕事を、実践していることになる)。

がひとつだけ気になることは、実験精神によって遂行されるその生成/表現の、質の尺度である。D自身は、質を「強度」でのみ表す。が、私にとっては、その生成の質の根源を問わなくてよいのかという疑問が残る。いかなる根底から発された生成であるのか。愛と、生きる意志=力というけれども、それは他者をも生かす・共生する意志(Dのいう「と」・「とともに」)で表現されているのか、それとも自己のみを愛し生かす(願わくば他は黙らせるor封殺する意志「おれが非人称という名で代わりに語っているのだからお前たちは語らなくてよい」)で表現されているのか。そして(繰り返すが)その生成に関し理知が、状況理解-解釈が、ほんとうに介在しなくてもよいのか。ともすると己から生成される軌道そのものが外や間を失ってマジョリティへの生成を含みつつあるのではないか、といった事を意識=理性がチェックしなくてもよいのか…。己の無意識-潜在意識の描く生成が、他己の自律性と自発性を同時に尊重し、外・間に開かれているような質のものかをチェックしなくてもよいのか。むしろここ(生の最も深く根源的領域)で、あえてD的に言い換えれば表現の強度の「質」が、生の根源の名に於ても、同時に(同じ次元から!)道徳の名に於ても、問われるのは仕方がないのではないだろうか。専制権力から真の意味で自由な生成を守ることのためには、諸々の生成自身を外のマジョリティとの折衝からも、同時に此処から生み出す生成の内なるマジョリティ(超越性もしくは非人称性という名のもとでの自己唯一絶対化、という罠)との折衝からも、おそらくそれは問われなければならない。そういう「非連続」の連続的な意味で、意識すなわち「と-ともにある」を肯定する自己(セルフ)=本来的理性からの意味付与ないし観照を受けることすらも、否定する(解釈するな・現状を把握することなく愛せ)というのは、やはり自然でない。この代弁主義の鳥もちを乗り越えないかぎり、執拗なるファシズムが再び形成される危険を遠ざけることは出来ないのではないだろうか…。生成当体の責任に於ても、社会全体の責任に於ても。


 

<< 第2点:構築性・自発性否定から肯定への箇所。文脈は次第にこれの肯定へ向かっていくのである >>

 

この点に関しては、非常に重要だと捉えてはいるが、簡便に記したい。

本書パルネとの対談の冒頭では、Dは 生成とは最も知覚しえないもの…「歴史ではない」、生成に於ける表現(文体)とは生の様態(生活様式)と同じように、「構築ではない」というのだけれども(p10)、他方では、否 読み進むに従い、「 諸々の形態の展開と諸々の主体の形成とに同時に関わる平面[*これは<組織体>と命名可能な平面である…Rei注]は、(お望みとあらば)構造的<かつ>発生的 であり 構成主義的 である、とする(p150)。また私たちの生=欲望を形勢する内在平面について(これを<自然>平面とも呼ぶことができるが)、ここでは自然-人為という区別なく…むしろ自然こそ(内在平面のすべての)人為を用いて構築されなければならない当のものである」、とさえ言い切るに至る(p152)。これは非常に意味深く、興味深いことである。


(所々、重要なDの論理について、※を施し、これらについての私の感想・意見は [※…] で記した。)

引用分を整理する。はじめのうち、Dの表現はこのようである。

p10 文体は生の様態(生活様式)と同じように構築ではない。文体において、生成とは語でも、文章でも、リズムでも、文彩でもない。生において、生成とは歴史でも、原理でも、結果でもない。

 

そして次第に、このように移っていく。

p140 欲望はひとつの主体の内部にあるのでも、また対象をめざすのでもない。欲望が厳密に内在するのは、自らが前もって存在しない平面であり、構築しなければならず、微粒子が放出され、流れが結合し合う平面である。欲望が存在するのは、そのような領野の拡張が、そのような流れの増殖が、そのような微粒子の放出が存在する限りに於いてである。ひとつの主体を想定するどころか、欲望は、誰かが<私>と言う能力を剥奪されている地点でしか獲得され得ない。

p141 <あなたがそれを構築することに成功しなければ、あなたがそれをつくる術を知っていなければ、あなたは欲望することはない>、と。同時に次のことを言わなければならないだろう、すなわち、<存立平面はそれだけでつくられるが、しかしそれを見る術を知りなさい。そしてあなたは存立平面をつくらなければならない、それをつくる術を知らなければならない、※自ら全責任を負って、正しい方向を取らなければならない

[※このとき、「解釈すべきなにものもない・現状を把握することなく…」というのとおのずから矛盾する。「不完全」「未整理」でもいいから、暗示性・不透明性に取り巻かれながらも一度準-空間化されること・(他者性を抱えながら、他者性に取り巻かれながら)或程度の見通しを持つこと、動態のさなかで外への可能性を保有しつつ俯瞰・観照することなしには、成しつつある生成に責任を負った方向の選択は出来ない]

p143 二つの平面を、平面の二つのタイプを区別しなければならないだろう。
○一方…<組織体>と命名可能な平面(=超越平面?、法則の平面)
諸々の形態の展開と諸々の主体の形成とに同時に関わる平面。(お望みとあらば)構造的<かつ>発生的。いずれにせよ、相補的な次元、もうひとつ余分な隠された次元を、意のままにすることができる。というのは、それがそれ自身のために与えられるのではなく、つねにそれが組織するものから出発して結論され、推論され、帰納されねばならないから。例、音楽において、作曲の原理がそれによって与えられるものとの直接に知覚・聴取可能な関係の中で与えられるのではないのと同じ。したがって<自然>の、or<無意識>の深奥に埋めて隠すことによって、最大限の内在が貸し与えられるときでさえ、この平面は超越平面であり、人間or神の精神の中にある一種の意図である。このような平面は、それが諸々の形式・ジャンル・モチーフを組織し展開する限りで、そして諸々の主体・人物・性格・感情を割り当て進化させる限りで(=つまり諸々の形式を調和させ諸々の主体を教育する限りで)、<法則>の平面である。

[※上記が真の意味での弁証法的展開でなくして何であろうか。。勿論、この運動は同時にここに生のリアリティを感じる当体;Dの言う「此性」なしには生成なされえないが]


○他方…<此性>を知る平面(=存立平面、内在平面?)
上記(前述の一方の平面)の事にまったく従事しない別の平面。運動と静止・速さと遅さの関係、(相対的に)形成されていない諸要素の間の関係、流れによって運ばれる分子・微粒子の間の関係しか知らない平面であり、また諸々の主体を知らず、むしろ諸々の「此性」と呼ばれるものを知っている。実際、あらゆる個体化はひとつの主体or事物の様態にも生起しない。一時間(一日・一季節・一気候・一年or数年・気温の一度・一強度・※相互に構成し合う諸々の強度)は形成された事物や形成された主体の個体性とは混同されない完璧な個体性をもっている

[※これが、弁証法的展開を動機づける、また動機づけられる、諸要素の自存性・自律性でなくて何だろう]

 

p150 あらゆる作動配列は欲望を可能にする平面を構築することによって、欲望を表現し、欲望をつくるのであり、また欲望を可能にすることによって、欲望を実現するのである。欲望は特権的な人たちだけのものではない。それはまた、一度なされた革命の成功のためだけのものでもない。欲望は、それ自身において内在的な革命のプロセスである。欲望は構成主義的であって、自発性信奉主義的ではまったくない。

p150 グループであれ個人であれ、各々が自らの生と企てを誘う内在平面を構築するのだ。これが唯一の重要なことである…
欲望の唯一の※自発性とはそんなものだ。すなわち、抑圧され、搾取され、屈従させられ、隷従させられたくないということ

[※それだけで十分なのだ、自発性信奉主義でなくとも…!だってこれが自発性そのものなのだから。自発性とは、生成者が人間である以上、すなわち意識であるにしろ生(欲望の当体)であるにしろ、物自体を掴むことは出来ず、まして物自体になることもできぬ<相対者>である以上、どうしても構築的なものであり、構成(主義)的にならざるをえない。それで十分なのである…。]

Dの言うとおり、生(欲望)は、権力保持者・特権的な人間だけのものではなく人間すべてのものであるから、誰にも代弁されることなく全ての人間において個別になされ、そのおのおの自律した歴史を繰り返されなければならない。と同時にそういうひとつの同じ構造において、通底させられている;閉じられることのない理解可能性。ドゥルーズ=スピノザの言う、「外」と「間」という関係の成り立ち。

p152 子供においてさえ、諸々の作動配列からなる諸々の政治しかない。あらゆるものは政治的である。プログラム(ダイアグラムや平面)しかなく、記憶や幻想さえもない。生成とブロック(幼少期・女性・動物性への。生成への現働的ブロック)しかない。…相互に交叉・結合・妨害し合う様々な線によって、内在平面の上でしかじかの作動配列を構成する様々な線によってつくられる…その内在平面は、当の平面を合成するそれらの作動配列に先立って、その平面を描くそれらの抽象線に先立って存在するのではない。私たちはつねに、その平面の内在性を示すために、それを<自然>平面と呼ぶことができるが、自然-人為という区別がここで関与している訳ではまったくない。その一方が他方に比し自然的である、といった幾つかのレヴェルを共存させる欲望が存するというわけではない。自然こそ内在平面のすべての人為を用いて構築されなければならない当のものである。

p155 欲望-快楽-欠如の間のこうした既成の同盟を断ち切るために、私たちは多くの曖昧さをもった、突飛な人為性を通過せざるを得ないのだ。…欲望の作動配列の日付を書き込むこと、それは歴史をつくることではない。それは歴史に表現と内容の座標軸を、諸々の生成という不定法・冠詞・此性を、与えることである(※あるいは、歴史をつくるとは、そうしたことなのか)。

[※ →然り]

 

つまり、Dが、自然-自発性の有効的に働こうとする観念を避けようとして、自然と人為とがいかに区別し難いかを語るほど、つまり自然がいかに人為的であるかを語るほど、われわれを動かす力がわれわれの歩みとともに<構築的>であること(構築されなければならないものであるか)を語っているのが興味深い。(p149〜150前後,ことにp152)

この問題を、こうも言い換えることが出来るだろう。

理性的なもの<とされているもの>の陥穽指摘と理性全否定とを区別しなければならない。旧来でいう、二元論的な思考法、物自体を見出し得たと錯覚する等の性癖を持つ知と、より統覚的で広義な意味での理知性(以てこれを自発性、真の意味での弁証法、Dの言うところの「構造的・発生的」「構築されなければならないもの」であり「構成主義的である処の欲望 p150」と捉え直したい)とを区別しなければならない。

これはデリダに関しても当てはまる気がするが、知的なもの・解釈(学)から、すなわち世界や意味を知ろうとすることから距離を取ろうとすることと、弁証法から、または構築的で自発的なもの・歴史(時間的なもの)の勢成・シニフィアン(orという言葉)から<距離を取ろうとするのは何故か>、をやはり考えさせられざるを得ない。彼らが捉えているのは殆ど意図的にといっていい程、形骸化したほうの知・我々の現実の知より非常に矮小化された知の形態であって、本来的知のほうでない。近代知性批判はいいしその弊害を考えるともっともな話でもあるのだが、マイノリティの側に要求する知の質に神経質になるあまり、つねにすでにあるマジョリティ、権力装置+大衆のカップルの狡猾さ、知を放棄した者を立ちどころに餌食にする社会的存在と、彼らの本能に対する警戒を怠らないで欲しい、繰り返すが敵をきちんと見定めて欲しいというのが正直なところである。そうでさえあれば、本来の意味に於ける弁証法的思考、構築的で自発的なもの・歴史(時間的なもの)の勢成をなおざりにはできないはずであり、他の思想潮流との同盟関係・協力関係の強化へと、そのスタンスも移行するはずである。知の質に対する精鋭さが、言葉狩り・結果論的に出来上がった観念・言葉遣い・知のカラクリに対する過剰反応に陥り、以て結局、事の優先順位と条件法を忘れた思考の陥穽?にはまることになるのを、まずもって避けた方がいいのでは?という動機から、この感想を書いた。

 

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| Rei八ヶ岳高原 | 17:54 | - | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
マーク・ロスコと自滅の去就

以前マーク・ロスコの絵を見た時、このやり方はずるいと思ったが、その意味が自分にも――抽象表現主義の手法「だから」という簡便な偏見と*少し違う処から来ているような気もした――まだよく解らなかったので放っておいた。けれども最近シューベルトのあの “ 親密な ” 死への手なづけ方を学ぶうち(この種の親密さは、その絶対的な孤独と全然矛盾しない)何となく感じ始めたものがある。

そういえば少し前に何とかいう作家がロスコの絵を見ると自殺したくなる、と言ったとかいう文章を見た気がするが、その作家はおそらく良心的か、そうでなければロスコとは<別の>死を企てるだけの勇気もしくはそれに足る動機があるのかも知れない。

私にはロスコの絵は自殺というより自滅に近いと思えるが、それではその自滅に同乗できるかといえば、そうもいかない。あそこには予め孤高のLet it be――「これは私の自滅であってあなたのではない」――があるが、その意味の由来の多くは彼がシューベルトのようにナルシシズムと死への恐怖を同時に昇華して行った(昇華のプロセスを私たちと共有した)のとは違って、ナルシシズムの所在、もしくは何らかの無条件な自己肯定とか過剰な自己否定とかの問題を、前以て棚上げしたことにあるだろう。とちょうどそのぶんだけ不可解な恐怖が、あの入念な禁欲的安息と絶妙な色彩の交換作用のさなかにあって恐怖だけが、濾過されぬままタブローの背面を漂うことになる。したがってあれらの絵の前に立たされたものは、<同乗>出来ずにその自滅を手をこまねいて見ているか、目を・身体を背ける(見なかったことにする/関心がない)かの選択を迫られる。それなのに――意味を了った場合――その、死が親密にならない、誰でもあり誰でもないものにならないまま猶予されていた分の、謂わば放置された自滅の恐怖もしくは深さを<こちらが>(引き込まれ追放されつつ)引き受けなければならなくなるのだ。

 

 Favourite:Mark Rothko,Orange and Yellow 1956

(こうした世界はたとえば東洋的滅却;生の極限としての空滅、というよりはやはり自-滅=死、へと至るだろう、作品の全てではないにせよ)

 

*…まったくではなく、少しと言っておきたい。というのも、逆説めくかも知れないが 具象性/個々が被っている処遇というものを語りつつこの克服(顔のなさにまで至る過程)を公開することを、予めかなりの程度棄てた次元から出発するのをゆるされている抽象表現主義というスタイルのもつ特権状態とこの問題とが全く無関係で有りうるのか――それはちょうど、意味が蘇生するまでの一定の内的時間(運動)を費やさずに意味が出現したことを一方的に通告する音楽作品と似た意味を持たないだろうか、勿論それ程にまで専政的ではないにせよ――今でも解らずにいるのである。或いはたんに絵画という対象世界に於ける時間軸の引き受け(させ)方の問題なのだろうか。
| Rei八ヶ岳高原 | 18:43 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | | ログピに投稿する |
フェルメールとヴェラスケスにおける外界示唆(窓・鏡)
2003年03月30日にHPに記載したものを転記

フェルメールとヴェラスケスに於る比較(前記事との関連から)――鑑賞者と 鏡・窓(乃至 額縁)の関係
(このような比較もあろうかと思い、図として記しておくことにした)

 

窓や、額縁、鏡、などといった存在が、フェルメール作品にもヴェラスケス作品にも示唆的な役割を持つものとして登場する。それらは単独で配置される場合もあるし、並んで配置、もしくはほぼ同一次元に配置、される場合もある。

フェルメールの場合は、主に単独で登場し、配置されるのは「窓」である。ヴェラスケスの場合、単独で登場・配置されるものとして他者性への開けを喚起させるものは「鏡」であり(「ラス・メニーナス」及び「鏡の前のヴィーナス」の場合)、また扉である(ラス・メニーナス)。

この際、ヴェラスケスの鏡とフェルメールの鏡(窓)に、次のようなことが云える。

フェルメールはいつも、

 

窓―――モデル
\鑑賞者/

 

という構図で、窓or鏡に<モデルを>そのまま直面させる。窓・鏡(他者性)はあくまでもモデルにとっての、またモデルの居る空間にとっての他者性である。(絵画中の別の登場人物はともかく)われわれ鑑賞者は、つねにじかにこの間に割って入ることはなく、それ故に徹頭徹尾 影の存在、絵画空間に対しては傍観者として、姿を隠したままに立ち会わされる。

他方ヴェラスケスの場合は、「ヴィーナス」の場合(また、以下で触れるが「ラス・メニーナス」の場合も)

 


|(モデル)
鑑賞者

 

<鑑賞者に>、いきなり鏡を直面させ、モデルはその脇の媒介者や一種の喚起体=我々(鑑賞者の身体)の化身、または立場の代理のようなものであるところが、面白いし、ヴェラスケスらしい。

 

ここに、もうひとつの道具が配置される場合も同様である。

フェルメールの場合もヴェラスケスの場合も、「鏡」と「窓」(または「扉」など<もうひとつの世界>を示唆する道具)は、ほぼ‘並んで’置かれることにより、その効果と役割とを発揮することがあった。

フェルメールの場合、「鏡や額縁」がつねに“モデルに対して”正面か・ほぼ正面であるのに対し、ヴェラスケスの場合、これらはむしろ直接私たち“鑑賞者に対して”正面、乃至ほぼ正面であるところが興味深い。

ヴェラスケスでは「ラス・メニーナス」中、 「鏡」と「扉」(「扉」…それは半ば開けられた、もうひとつの世界としての存在として配置)とは、並んで置かれていた。

他方、フェルメールの一部の作品中にある、「窓」と「鏡」(※さらに、額縁の絵・地図など,ここには図像学などの解析余地がある、付記10/09/30)は時折、並んでいる。もしくは、ほぼ同一次元(もっとも奥まった層)に配置される。

 

フェルメールでは、(首飾り天秤音楽の稽古
図1
フェルメール構図01

または
図2
フェルメール構図02

 

ヴェラスケスでは、(ラス・メニーナス)
図3
ヴェラスケス構図03 となるのである。

 

たしかにこの比較は、彼らの“主題”とその際の道具の扱いと配置、役割の持たせ方…etcetc.、それゆえ至当に帯びる構図性といったものを、それぞれ端的に示唆しているように思われる。

注1) ことにフェルメールの場合、窓・(半ば)開いた窓、などが、殆ど鏡と同じような効果をすでに持つ面が多くあると思われる。

  1. 1)閉じた窓:全き自己同一性=鏡1
  2. 2)他者にむかって幾分か開きかけた窓≒鏡2(地図などが最も奥手の層にあったりする)

というような具合…

注2) 尚、ヴェラスケスの場合、「ヴィナス」に於る「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである。

「ヴィナス」に於るトリックは、本来画家の立つべき視座を、画家自身の気配を空無化したまま鑑賞者にあけわたした格好で、画家のかわりに特権的闖入者である私たちが、絶対不可侵領域でにいるはずのモデルに見られる、というものであるが、ラス・メニーナスに於る「見られる者の交換」が4重構造になっている、――つまり扉を開け放って傍観する紳士、鏡に投影された国王夫妻(ともに、あちら側-彼岸とこちら側-此岸の交換)、また本来ここに立つべき画家自身、身体のない国王夫妻、また鑑賞者(絵によって存在を暴かれ視線としては絵画空間の中を侵入しうるも、身体として永遠に参与できぬ自由で不自由な鑑賞者)、の間で――のと較べれば、画家と鑑賞者との間で生じる、まだ単純で原初的なものである。

また鏡に写っているのが、「ヴィーナス」ではモデルであるヴィーナス自身(此岸と彼岸の中間地帯――純粋「絵画空間」に在る者)に過ぎぬのに対し、「ラス・メニーナス」では国王夫妻(画内に受肉しないモデル;鏡像として示唆されるモデル;此岸であり彼岸)、という重層トリックであるという面からの比較でも、「ヴィーナス」に於るそれはまだまだ素朴な現象学である。

が、ヴィーナスの「鏡」がほぼ中央ながら、向きとしては斜めである、この効果は、モデルと画家の位置づけ上当然のことながら、見方を変えればそのままおそらくちょうど「ラス・メニーナス」に於て、画家ヴェラスケスの姿と、私たち鑑賞者の間に立っていた“カンヴァスの背中”の役割と同様であって、画中のモデル乃至登場人物たちが<視線>をぶつける対象であるとともに、そこで「くの字」に曲がった彼らの視線を、私たち鑑賞者の視線と交換させる為の喚起体である。 (2003'04/05:附記/2004'03/06一部施:訂正)

 

2003年03月31日 (月)

ディエゴ・ヴェラスケスの画を丹念に見て行くのは、ラス・メニナスがきっかけとなったつい昨日からのことで、まだよく解らないし、正直 生まも見たことがない(来日したスペイン王宮絵画展を見ておくべきだった)。

しかし、こうして時を追って彼の画を見ていくと、時間の流れとともに彼の芸術の多面性を、垣間見ることが出来る…。

カラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する、ことに静物に於る写実主義にはじまり、1630〜40年代の比較的動性ゆたかな画風。筆致にはある種の省略法のようなもの見受けられる。

=====

  1. Three Musicians, Gemaldegalerie, Berlin(年代不詳?)
    カラッチ(豆を食べる男)→ドメニキーノなどとともにボローニャ派の特色ももつが、その中にあるカラヴァッジョ的。

    以下は皆ヴェラスケス自身の画。
  2. An Old Woman Cooking Eggs, approx. 1618
    多分にカラヴァッジョ的。。。
    下の画に較べ、カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率もまだ働きはじめない…。奥行きを出すのに効果的な上からの角度を保持。
    ※(カラヴァッジョ-シャルダン的な静物に於る奥行の圧縮率…カラヴァッジョの徹底したリアリズムの中で唯一置き去りにされているものがあるとすれば画面の奥行であろう。これが満たされるには詩性を帯びる画風を待たなければならない。たとえば17Cオランダ絵画 cf)カメラ・オブスキュラの登場。シャルダンに関しては故意であろう。)
  3. Christ in the House of Martha & Mary(年代不詳?たぶん10年代後半ではないだろうか)
    オランダのアールスト的な徹底的写実主義が、物の描き方に見出されるが、それに比し人物のほうは、幾らか実在感を省略されている感があるのはおもしろい。静物に較べた時の人物描写のこの実在感のなさは、写実主義の未成熟というよりは寧ろ近代主義の先駈けだろう…。
    ここにはカラヴァッジョ的明暗法から生じるスルバランなどと共通する静物に於る写実主義と、同時にシャルダンと近代絵画に共通の、奥行(z軸)の圧殺も見出される気がする。 が、右手の断片はすでに17Cオランダ絵画同様の素描的省略法(シャルダンにも見られる)が。
  4. Joseph's Bloody Coat Brought to Jacob, 1630
    プッサン→‘カラヴァッジョ周辺画家’的 人物描写とその動性…。色彩はバロック(プサン〜リュベンス)/新古典主義アングル・ダヴィッド
  5. The Adoration of the Magi, 1619
    カラヴァッジョ的、でも微かにティエポロ的なものの予感が(?)。。
  6. The Needlewoman, 1640
    ここには、フェルメール的<没入>――他者非介入が見出される。
  7. The Coronation of the Virgin, 1641-44
    ここにはムリーリョが。(動性、また色彩)
    cf1)ドラクロワ
    cf2)↑リュベンス?×ヨルダーンス;同時代バロック
  8. A Woman as a Sibyl, 1644-48
    ここにはロココの予兆。
  9. The Feast of Bacchus (Los Borrachos), 1628-29
  10. Don Sebastian de Morra, 1645
    庶民を描く。リアリズムと省略法の同居。こうした庶民的粗野さ・伏在する動性は、17c初期オランダ絵画ハルス、フランスのル・ナンの人物画が彷彿する。またはヴェラスケスよりやや後のボルフ(17Cオランダ)へ?こうした省略はロココへ通じるのではないだろうか。
  11. Juan de Pareja, 1650, oil on canvas
    ここには、はやくも写実主義の或る種の頂点がある。何故ならこれ以降(ヴェラスケス自身を含め)、写実主義は新古典主義的形式主義を帯びはじめるからだ。他方、ロココやオランダ絵画は、すでに印象派にも通じる主観(主義)的動性を帯びてくる。がこの絵には、未だ静性→動性の可変的両義性、瞬間の抽出におけるごく自然で適切なバランスがある。
  12. そして昨日のラス・メニナスの中の、幾人かの人物や、同年のこうした王女の絵
    The Infanta Margarita, 1656
    には、ダヴィッドを典型とする奇妙な新古典主義的「停止性」が、すでに伏在する。
    もっともこの宮廷風な凝結感は王女のドレスなど当時の形式的な文化から生じるのであろう。逆に庶民を描く際は生き生きと動的である。宮廷の人物には、動きの瞬間・時間の断片がひとつの空間に奇妙に持続させられるかの強制力をともなった停止を強調する。
  13. The Medici Gardens in Rome, 1650
    これなどに見受けられる或る種の省略法(<ものの厚みのリアリティを確保した>詩的省略法)は、グァルディなど18世紀ヴェネチア派を想わせる!(或いは英自然主義ボニントンの海岸の絵)。カナレットのような写実主義にはこの点=厚みが欠けていた――ことに壁面、大地の描き方――。
    が同時に樹木などの幾分かよどんだような暗い省略法には、すでにテオドア・ルッソーのようなバルビゾン派〜英・仏ロマン派の予兆が混在してみえる…(そしてそれらは印象派に通じるだろう)。
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