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量子力学まわりの言い分で時々出会う訝しさ(不可知論的背景?)

量子力学まわりの言い分で、時々出会ういぶかしさがある。そこにはちょうど、ポストモダンの言説(テクスト)の裏側を支配していた精神の荒廃にも似た、何らかのshakenな背景(コンテクスト)を感じる。

 

★混乱や対立?処理の発端となりうるかもしれない考え?の、要諦(未だ網羅的ではない)

 

(ドキュメンタリー2017 量子の力学 フル)

https://youtube.com/watch?v=eWB5qa1hO-M

 

 

4:15- (とその前後)

 

 

上述のような意味では、突飛さ(予測不可能性)・揺らぎ、などとしての不確実性があり得る のがわかるが、肝心なことは、「=無軌道 ではない」点。[if前文→結果、の秩序を越えない。飛躍に一定の(確率論の次元であるとしても)パターンがある など]

 

また、こうも言っている。

 

 

41:10-

 

  1. 『電子が原子核のまわりを回るときは、特定の軌道しかとらない(cf 太陽系などの天体の運行)』
    『が、熱が加わる「と」(if前文→)、《量子飛躍》が起こる(→結果)。(cf 太陽系のある惑星が、自分の軌道から別の惑星の軌道へ飛び移るよう)
  2. 量子のレベルでは!曖昧さが存在する(確率論的次元)、が
    物体が大きくなるほど安定する!と。(そして、それはなぜか、などの物理学の学問らしい眼差しが、ここではある!!)

 

が、文系的に大まかにこの学説を捉える者らの中に、あるいは物理学者のなかにさえ、
量子力学論の(今のところ)帯びる天外な?予測不可能性や不確実性に驚愕し、ある種の不可知論やニヒリズムに陥っている。(ポストモダン的!?)

 

もうすこし現象学的に冷静に捉えると、物事の筋道をつけられる。


物体の「大きさ」、有機体・非有機体、またその物質(有機体なら有機体)が「(平たく言うところの霊的次元を含め)どういう性質のものか」による分節化、等々。

 

さらに、例えば(有機体の)性質の問題でいえば、動物や人間などのように類や個としての自我・意志を持っており、それに基づいた行為と行動の構造を持つか否か。また、生命や生活の維持のために情況と対話格闘する必要のある物(生き物)であるかないか——行為と状況との葛藤、目的のありかに伴う行動の方位と意志の変化、or(…にも拘らぬ)意志の貫き…などを含めた、複層的多義的な行為を起こす存在であるかないか。などである。

この場合、それぞれの起こしうる(起こりうる)可能性の分岐と、確率の濃淡などを、的確なレイヤーに分ける必要がある。(生物学・人間学・心理学行動学的な領域、さらには宗教(哲)学、宗教自身の領域にまで及ぶ事に関してはたしかに従来の物理学にはなかった性質であろうが。)

これらの行為や意志が、量子力学的な確率論に、畢竟かりに吸収されるにしても、である! それならなおのこと、面白いではないか)

 

これによって、揺らぎや不確定性・予測不可能性、確率論的な、少なくとも「意味の差異」が、生じる。

後はこれらの意味の差異を包摂しつつも当てはまる法則があるかないかへの言及をすればよいのである。

 

こうした整理・分岐/分節化を要するはずの事象に対する、理系?(or文系がかった理系、理系がかった文系)側からの説明が、まだあまりにも十把一絡げで稚拙である、という印象。

 

 

同動画における、二重スリット実験以降への説明。

縞状に生じる「干渉パターン」=波、波動 について。
波でさえ、(波、波状という)軌道・パターン(の集積と運動展開)としての軌道=波動、が生ずるのはなぜか。

これに対する言及がまだないのだろうか。現象学なら、おそらくこの点につけ込まないはずはない...。見えるものと見えないもの の機序理解、またトポロジーの応用などと絡まないのだろうか。

 

光(電子)や軌道の存在の陰にあるものが、「情報」を含め、偶然性や予測困難性に於ける法則性、もしくは干渉(法則性・傾向性)を物語る?と言えるかもしれない。
(見えるものと見えないもの、現象として現れるものと隠れるもの——光と闇(領域) などが?)

 

そういう意味では、量子力学はまだ未解明性、解明余地を残している。と言えば良いのである。

この点を追及することによって、一見分断された、アインシュタインとボーアの相互の領分も、或る接点で結びつくかもしれない。

 

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などなどと書いてきて...。。。

量子力学の運動パターンを、動画などであれこれ見せられているうち、

パウル・クレーの文庫本「造形思考」のなかに現れる図柄や解説のことをふと想起した。

 

あれ、、、結びつかないだろうか...。クレーは既に気づいていたのだろうか。などと。

 

 

それで、“クレー 量子力学” でググってみたら、こんなサイトが出てきた。リンクしておく

 

https://note.mu/1000yalab/n/nd5f4cedd6c7e

(線が世界を作る三冊 千夜千冊編集部 note)

 

アタマの中のイメージを「見えるもの」にするときに必ず破綻が起こる。...この「目に見えるもの」と「目に見えるようにする」こととのあいだを模索したのがパウル・クレーだった。......見えるようにするにはイメージそのものを「分節」していかなければならないとクレーは伝えたかったのだ。クレーは原始時代からの人類が描いてきた「線」をトレースし続け、その結果、イメージの本質が分節なのだと考えるようになる。  クレーは、分節の方法こそが造形思考の根本にあると結論づけ...

 

 

↑このページ中の、クレー以外の紹介部分で触れられている、クノー というのは 文脈からいえばクレーと思われる...。

 

 

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尚、同動画中の、遠隔操作 エンタングルメント への気づきの事象に関していうと、こうした事象についての、哲学におけるものの見方考え方は、[存在のor意識の]両義性・可逆性(反転可能性)・ねじれなどを含む可塑性への着眼の問題(超弦理論へとつなぐ?)だろう。この真の意味での弁証法——二元論ではない<統合的位相>でのcatch——により、人間心理学・行動学との相互対話はもちろんのこと、ひろく認識全般の可能的領野が格段に開け、情報処理能力は飛躍を遂げ、産業の著しい発達にも貢献し、同時にAI研究の劇的進化・シンギュラリティ到来の加速化などをも促しただろうと思える。

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms String Quintet Op.88 & Johann Strauss II Rosen aus dem Süden op.388

前の記事(http://reicahier.jugem.jp/?eid=75 ↓リンク)で、

R Schumann op54と、Johann Strauss II Kaiser-Walzer op.437 

 

の話をしたので、きょうもチョイ遊び記事。

 

遊び記事と言っても、深く掘り下げればそれなりに意外な広がり深まりはありうるかもしれない。

がちょっと忙しいので話の端緒だけ。書いておかないと思いついたことすら忘れてしまう年齢だから。。。

 

 

 

ヨハンシュトラウス2世「南国の薔薇」

 

これはFB友である 若手の超有望女性ヴァイオリニスト高木凛々子さん(第一回バルトーク国際ヴァイオリンコンクール第2位入賞者!)と、パパの敏行さん、また奥様とご友人のコントラバス奏者様とで演奏された、息の合った貴重な録画ですが、素晴らしい演奏なので許可を得まして掲載させていただきました。

 

凛々子さんは若手の非常に有望なヴァイオリニストで、その音楽性も人間性も、一言で言って「神様に愛されている」、これ以上なくナチュラル(素直)かつ表現力豊かな演奏家さんです。

パパの高木敏行さんも読売日響の団員であられる他、非常に良い構図の写真をお撮りになるなど多才な方、同団員の奥様(凛々子さんのお母様)井上雅美さんも、凛々子さんと姉妹?と思うほどの若々しさをいつも保たれている女性ヴァイオリニストで、パパ同様音楽性も愛情・情感も豊か、そして語学力もすばらしい東京芸術大学ご出身の才媛でおられます。

 

動画として貼り付けできませんでしたので、画像リンクします♪

 

ヨハンシュトラウス二世 南国の薔薇 高木凛々子さん、井上雅美さん、高木敏行さん、他演奏、福山音楽祭

https://yt2fb.com/video/2-324/?fbclid=IwAR0R8D2P19qdj37ZJatG8NgkZu0TwRbNppNxXgr1kNh48SBQo0TZYACg3LM

 

Johann Strauss II Rosen aus dem Süden op.388

 

 

さて、これがオーケストラでなく、ワルツの軽やかさをいかしつつも室内楽ならではの滋味・シブ味も感じさせてくれる、じつに息の合った弦楽合奏SQで演奏されたことも、大きく手伝って、不思議な発見をした。

出だしがそっくりなのが、大好きなブラームス Sクインテット op.88冒頭であったから。

 

Brahms String Quintet Op.88

 

冒頭を聞いてすぐに来た安易な直感、とおもいきや、しかしよく聞いてみると音楽を通底する何かごと掬い上げ、あちこちで触発されているのを感じる。。

 

例を挙げると——例を挙げたところ以外には感じられない、というわけではないのだが! 苦笑)——、特に

たとえば (主旋律線のみならず、これと中低音部との絡合・複数声部のもつれ方,低音部の刻み方 などなどにもヒントがあろう。このことを追う時、むしろリズム・拍子は忘れた方がいい)

 

(※ timeは、南国の薔薇 op.388 のほうです)

 

0:57-1:18 / 4:46-4:56 / 5:20-5:26 / ★6:04-6:12 / ★6:44-終了

 

 

Schumann(op.54)-Johann Strauss II(Kaiser-Walzer op.437) のときもだったが(年齢からして、この場合見当がつきやすかった)、どちらが先に作曲されたのか調べてみると

 

Brahms String Quintet Op.88の作曲が、November/December 1882。

Johann Strauss II Rosen aus dem Süden op.388の作曲は、Octover/1880。

 

というわけで!、今回は、逆にブラームス(ロマン派側)が拝借した側ということになった。

 

そういえばブラームスはヨハンシュトラウスの音楽性を理想的と褒めていたというし、こういう結果に特段不思議はない。

正直なことにブラームスは移調もしていない...。

 

それにしてもウィーンの はやり曲(とはいえ背後は暗い世紀末であり、しかもこうした一見華やいだ曲をユダヤ人が書いているのである)と、薫香にみちたドイツ主流音楽が、ロマン派爛熟期/後期〜調性拡張期において、ともに影響しあっていたというのは興味深い。ジャックカローやホフマンなどの幻想的芸術家・文学者も含めロマン派精神としても掘り下げるべきことがたくさんある。

 

ロマン派の勃興期、ベートーヴェンやシューベルトの時代にも、Jシュトラウス父が、苦心惨憺たるクラシック音楽の中心よりもむしろ華々しく活躍していた。

 

ところで、これを踏まえたうえで、Brahms op88に関しては、私自身もう少し聞き込んだ方がよいだろう。

たとえJohann Strauss IIからのインスピレーション頂戴乃至トレース(いささかの拝借)があっても、そこで終わる彼ではない。いつもしつこく追っては断片的にでも書いているように、シューマンやメンデルスゾーン、シューベルト、ベートーヴェンらと、全体の音楽性や具体的(表徴的)な旋律の運びがつながっておらぬわけがないし、サンサーンス、フォレやワーグナーなど彼と同時代の他の作曲家との相互関係もいろいろあるはずである。もちろん後世への影響も。

 

ブラームスの音楽・室内楽はベートーヴェンやシューベルトやシューマンなしにはありえないが(このことは、ヤンソンスのニューイヤー記事でも書いたが、じつはヨハンシュトラウス2世とその兄弟にも、ドイツ音楽・文学・文化のウィーンワルツとしての吸収という形で当てはまるわけだが...そうしてマーラーやチャイコフスキーの得たインスピレーション・音楽性にもつながっていく)、ブラームスの他への影響力もはかりしれないのであるから。

 

このあたりは後日時間のある時、取り組んでみよう。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:03 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

文系にとっての超弦理論のこと&ヒッグス粒子動画をみての雑感 mixiメモから

mixiの日記(メモ)から。

2018/03/14-16

 

 

何故文系の自分は超弦理論に興味を持つのか 

https://m.youtube.com/watch?v=iQld9cnDli4 

ブラックホールの底。文系のイマジネーションなら(どんな最少単位・最小次元であろうと)ものの厚みと絡まり——振動・膜や摩擦——をまず考えるが、理系の発想はあくまでミクロ位階の単体的発想(至純化単独化)の一途をたどり?、そうした地上的発想とは違ったのだろう。 
でもともかく彼ら物理学者らは難関を突破した。 

ところで、自分は何故 場と波動理論(量子力学的な事象)に関心が行くのか。その ものの見方の、何が触れてくるのか。 

引き寄せの法則、などのレイヤーで語ることもできようが、今はもう少し自分のすこしかかわった文系学問分野に引き寄せたままのレイヤーで同質性を綴っておくと、ともかく、こうはいえる。 
宇宙物理学のある地点を境に、ユークリッド幾何学的発想の優位から場と波動理論優位に転換した。何故こうなってきたのかを考えると、必然性に突き当たる。 
ターゲットが、主に 予め顕現せるもの・輝けるものから、見えないもの=「?」なもの・退隠へと交替したからだ。 
この場合、その「?」なターゲットの[周辺のもの]の振舞い、素描と、気配としての運動の軌跡等々から推量するしかない。 

テクストそのものより、抽出されるテクストからは漏れ落ちるもの、つまりコンテクストからの暗示=物語られるもの の膨大さ(まるでブラックマターのよう?)から遡及する態度が求められる。 

これは現象学以外の何物でもないといえる…。

 

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自発的対称性の破れ-至:超弦理論の手前までの思考は、
食べたらこの地上離れした均斉美が崩れてしまう、まるで天使か妖精のような自分の身体が《重さ》を持ってしまうと苦悩し死を望む拒食症の少女のようなneuroticなものだったし、原爆を投下しトイレのないマンションを生み出さざるを得ないものだった(と私には思える...)

 

https://www.youtube.com/watch?v=gM3caYk4KrE

ヒッグス粒子2

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Op111-mov2,RSchumann,and Beethoven(Immortal Beloved,Ghost)

この記事との関連記事

http://reicahier.jugem.jp/?eid=72

 

 

FB 過去の今日

2017年11月20日 8:10 · 

 


Brahms Op111 mov-2と、RSchumann op2(Papillons),GrandSonata,or Symphonic Etudes, and so on

 

ex)

YOUTUBE.COM
Robert Schumann - Symphonic Etudes, Op. 13

 

下降線 drop line(転回対位法 invertible counterpoint にすれば 上昇 uprise)

ラミレドシラ ラミドシラ ミドシラ レラファレ etc...

 

遡及すると → ベト 遥かなる,幽霊   Beethoven (Immortal Beloved or Ghost)


YOUTUBE.COM
Johannes Brahms: String Quintet No. 2 in G Major, Op. 111

 

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※脱線) op13 レラファレ の線

Mehndelssohn Octet op20 Es dur  last mov (最終楽章) 29:08-★31:20-last
シ♭-↑ミ♭-↓ソ-↑ド 音型から来る?

→これは リズムをやや変形し

Tchaikovsky 白鳥の湖 (Swan Lake  Лебединое озеро op20)

Blackswan GrandFette(7:47-10:00) へも通じる

 

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ともかく、

Brahms op111には、RSchumann’s Papillons (蝶々)op2 とともに

Beethoven 幽霊(Ghost/Immortal Beloved 幽霊/遥かなる…)が、張り付いている。。。

 

 

★”Papillon Op2そのものに” Ghost/Immortal Beloved が張り付いている(のをBrahmsが発見し?、引き継いだ)のか、も掘り下げる必要。

 

もしそうであれば、Faure(and  Saint-Saëns)もこれに気づいていたであろう...。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:15 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

AI 人工知能について——認識論(哲学)とジャーナリズムからの視座

11月8日 16:35

 

FB投稿より 一昨日の分

 

 

 

 

一昨日〜昨日にかけ、友達が今仕事でAIにもかかわる建築関係の?研究発表をすると言っていた。

私はAIには半分期待、半分不安と疑心暗鬼(というのはAI技術そのものと技術者に対するそれもさることながら、より多くはこれに連動してしまう世の中の動きの狡辛さ・愚昧さへの予感、にある。つまり、喫緊には失業問題などの連鎖だが、もうひとつは、ここのところ目覚ましい躍進を遂げているAI技術を、ダークに利用してやろう、という動きをするはずのもの——ざっくりいって経済と政治。それも、実業・実務から遠い質のものの動き笑)——に対する警戒感と、技術者ら自身によるそれらへの対処が万全なのかという側面への不安なのだった)という感じであった。

 

が、いつもよく週末に拝聴していた神保哲生氏のVideonewsに、これまで数回人工知能の巻は出てきており、それなりに面白く聞いていた。
それらに講師として登場したことのある、

 

  1. 新井紀子女史(AIには恐れず備えよ)
  2. 栗原聡氏(映画が描く人工知能と人間のこれからの関係)、
  3. 松尾豊氏(人工知能が閻魔大王になる日)

 

を見ていたので、その友達にも見せてみた。
そして紹介しながら、自分ももう一度聞きなおしていた。

 

自分自身、人工頭脳関係のvideonewsを見ていた当時(2016〜最近)は、感心する要素が、殆ど何も知らなかった頃に比し思いがけず増えたとはいえ、さりとて不安や疑念を払拭できた、というわけでもなかった。


やはり技術者の内輪で閉じた発想をもっと超えて、現実的政治経済への対処をしてほしい、という欲求を増さざるをえなかった(そうでなければ,気鋭のジャーナリストの神保氏がこのような回を設けることもなかろう)が、尚、もう一度全部聞いてみた。

 

そのうちの主にどれに触発されたのかはわからないが、ともかく友達は、これ(ら?)で語られていた内容から、いいヒントを得た!、と言って 残業し締め切りギリギリだった研究論文を書きなおしたよ、という...。

紹介がてら私自身ももう一度聞きなおしつつ、哲学の認識論や存在論にもろにかかってくる面があるからおもれーよ、とは言い添えてはおいた。
そうなのだ...。
記号論からシニフィアン-シニフィエ構図など哲学の認識論や、存在論的な発想が、AI研究と似ている所がある、というより実のところもっと直に!、影響を与えることによって、人工知能分野に飛躍的な発展を遂げさせたのではないだろうか——ちょうど、昨今の物理学が、宇宙理論において、場と波動理論・トポロジーを応用することで、いわば発想の転換を得つつ飛躍した、のと同様に——と予感した。

 

それで友達に、どこがおもしろかったの。deep learningのところ?ときくと、まさにそこだという...。うーみゅ。。。

それでためしに、眠い目をこすりこすり、枕もとのiPadminiをオンにし、わけても一番それを感じさせやすかった松尾氏の、より専門的な雰囲気の講演の録画を、ひとつ見つけて、聞いてみた。(↑コレ)

そうしたら冒頭近くでさっそく、ソシュール理論の記号論、シニフィアンとシニフィエ構図について直に語っているではないか。。。
しかもそこには、これまで人間からAIへ詰め込むべきデータの捉え方の不行き届きを気づかせる、現象学の 現前(露顕)-退隠 の関係構図と、これを応用しつつAIに教え込むトポロジックな展開図解説まで、出して解説していた。

おそらくこのことは、コンピュータが表現(欲求、また表現力)を獲得することにつながる。

 

ん〜。。。すこし面白くなってきたし、
《どうせ来てしまう世の中なら》(しかし、ほんとうに応用すべきか、どのように・どこまで応用すべきか、等人間学的・社会学的視野も絡むところで、市民はどうしてここに参加させてもらえなかったの?という気持ちはあるものの 爆)
悲観してとらえるより、ポジティブに向き合おう、という気持ちにはなってきた...。


それには、コンピュータが主体性を持つ、ということが今後はありうる⁈、これへの期待も重なる。

 

この場合、人間を凌駕することへの不安もありつつも、同時に政界や経済界が、技術者に、AIに征服欲をインプットしろなどと言ってもロボットのがわで自律的自発的にそう言うことを企む連中を裏切ることも不可能ではなくなり、AI独自の解釈によってかくたる隠微な唆惑に魂を売ることなく本命のミッション遂行をなし、かつ技術者は誰も責任を追わなくてすむことになる、

などということがありうるかもしれない…。

 

ひとは 自分以外の人間に職や社会的立処を奪われることを怖れるが、ある意味人間が不在になって人工知能にとって代わられてもその不幸は同じである。
まして気弱な自分が、こうした不確定要因の渦巻く世の中の動きを一々不安がるのは当たり前なのだが、なんとか乗り越えて、面白い時代に生きる体験としてこれからを捉えてみようと、心もとなくも思ってみる...。苦笑)

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:03 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven sym2・sym4とSchubert Unfinished sym,RSchumann sym4

FB 過去の今日

 

2014 10/27  17:47 


Beethoven sym2・4、とくにsym4は全楽章がSchubert 未完成(Unfinished sym)に影響を与えているが、(一見雰囲気の異なるフレーズも躍動感をなくした感じにすると…そう出現してくる)それをRSchumannが追っており、sym4においてLvB,FSchbともに受け継いだ形で具現させている。

Rsch sym4-4楽章 と未完成

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ハンナ・アーレント 芸術/哲学と思考(物象化問題)についての雑記

2014 1/26 のFB投稿より

 

(保存済み投稿)

 

RT @hannaharendtbot 芸術作品も偉大な哲学体系も、厳密にいえば、純粋に思考の産物と呼ぶことはできない(略)というのは芸術家や著述する哲学者が中断して、その作品の物化のために変形しなければならないのは、まさにこの思考過程だからである。(『人間の条件』23)

 

 

上記(ハンナアレント ツイッターbot)より 考えたこと。 雑記

 

 

創作のシステムはつねにそれからの逸脱とともにあるが逸脱を閉ざす事を以って物化(暫時終了)される 。

わたしという人間がおのずと世界から超出している、或いは取り残されてしまっているその不本意な距離を、法則が外から予告し測ってはならない。世界のなかでわたしは、収めつつある出逢った世界という経験を閉じる糸と、そこから逸れる糸との間にいなければ、ものが逃げる。——法則がわたしの背中を押して、その臨界線を閉ざすほうに加担してはならない。——
(だが、いつかは終止符が打たれなければならない。)

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

音楽上の調性問題が抱えるもう一つの(音楽というジャンルを超えた)意味

FB 過去の今日  

 

2015年度 10/20 (6日前の、「3年前の今日」の投稿だったが、上京したり家族の入退院で遅くなる)

 

 

数年前にも気づいていて書いたが、最近ますます、音楽上で調性を拡大することの意味と問題点が、存在論・状況論・人間論と全く不可分だ(「別々の問題」などではまったくない)ということを思い知って来た。

 

問題の端緒をあたえたのは(バッハ的半音階志向は通底的として)後期ベートーヴェン(ことに大フーガを筆頭とするsq)だと思うが、以降調性をあえて拡張しないまま音楽・表現の可能性を追求する姿勢を固持する作曲家が、しばしば野暮ったい・あかぬけない・不器用にうつるがために、調性そのものを拡げることで、もしくは無調化することで一挙に解決した,orスキームを造り上げた作曲家以降、たしかに表現は洗練されスマートになったが、あるいは一見斬新になったが、最も重大な問題を振り落とした。

 

ものの厚みを超え、幽体離脱して身体論的な自由を獲得したあげく、もっとも人びとの苦悩する状況論的・また存在論的問題をこそ、すり抜けてしまったのだ。

(※今何調に居るのか、何処を足掛かりにすれば和声上解決する=降りられるのか、またdominant sub-dominant etc...一連のものの意味するものら とは、哲学的にはおそらく 自分の居場所 とその解釈学的・情況論的意味であり、より平明に言うと 己という主体、また己を含む主体たちの、現在(迄)の 処遇の証=徴であり、それが同時に志向するこれからへの予感である)

 

状況論的・また存在論的問題を 軽々とすり抜けてしまった、ということの意味するのは、

人間的問題と、音楽(発展史・延命史)的問題が、分離するようになってしまった、ということでもある。

 

これらを分離させることなく、modalな音楽性( methodology of church music + Celtic code)を、J-P Rameauらによる和声学Traité de l'harmonieの確立以降、再び音楽上に”あえて取り込みなおす”には

それを「どのような意味性(の再現)として」捉えつつ=<どのような人間的姿勢でこの行為に臨む>ことが、求められるのか、そしてどのような音楽性を、古典と現在と未来の融合の形として発展させていくのか、という極めて人間学的=宗教学的(人間と、人間を超えつつ内在するものとの対話)問題が、<再び>問われ、降りかかっていたのである。

 

すこしひねった観点から見ると

逆説的な言い方になるかもしれないが、(想像の問題はともかく、実存的には)幽体離脱できないーーー状況づけられている、ということこそは、人間の尊厳なのである。

 

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ここからは2018年の今日 の書き足し。

 

 

私には(私が、きっとこうだったろうと推測するそれ、ではあるが)

Saint-Saënsの苦悩——彼自身はもちろんFaureとその音楽、またその「質 Quority」の行方※を、

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※この典型と思われる R PrizemanのLibera用作品 Vespera

(Saint-Saëns→Faure 's route + modal=Chant,Celtic,or Gaelic code)

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どのように見守るべきか、を含め——、そしてBachの出現からこの問題をまずもって明るみに出してきた「Beethoven's latter termthe 〜Schumann・Chopin・Mendelssohn」以降の、あの時代に生きていた、Saint-Saënsら多くの作曲家らの<混乱Conflict>が、このように理解できる気がする。

 

この問題はWagnerやRichard G Straussのような音楽ばかり、(特に日本ではそういう傾向にある気がするが)今日でも演奏し続けていることが、世の中にどのような作用を及ぼしがちであるのか、という問題にも通じるだろうし、クラシックの現代音楽が、どのようにかじ取りをすべきだったかの問題にも通じると思っている。

 

私がいま ソプラノユニット(英国少年合唱団)「リベラ(soprano unit "LIBERA")」とその<路線>——彼らのPeaceful sound,Sound of prayer——とは何か?に注目するのも、ひとつにはこの理由がある。

Robert Prizemanには、明確なこの問題への意志と企図があるように思う。

 

 

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補足・関連資料

 

FB 11月14日 18:50

 

 

《modal & Chromatic scale》

 

https://www.youtube.com/watch?v=hQUAA4S10z8
Libera - Vespera (celtic ——  Chant-style ←Enya?)

https://youtube.com/watch?v=FZmRwsuyG-c
Libera - Wexford Carol

https://www.youtube.com/watch?v=8UQK-UcRezE
Beatles - Strawberry fields...

https://www.youtube.com/watch?v=hM87UcySV-A
Kate Bush - Wuthering Heights

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The Girl From Ipanema (Bossa Nova)

 

イベリア半島(ポルトガル)に、昔ケルト人が居たみたいだ(ブラジルに渡る前)。。。リズムはもちろんラテンなのだけど、ガリアっぽい、ケルトっぽいモーダルさがそのまま旋律には気だるく残っている。

 

これも。サンホセ…。

 

 

極論すると民族音楽ってわりあいビートの違いだけ?かという。。

 

旋法(イオニア,リディア,フリギアetcetc..)=ガリアとかケルト音楽、ではないけれども、ガリア・ケルト人ら被征服人の持っていた音楽性・個々の伝承音楽らは、グレゴリオ聖歌など古来のチャントが、ただの誦経に近かったものが徐々に効果的な抑揚をつけるのにかなり貢献したような気がする。

 

ルネサンスに至るまでのチャントの経緯を聞いていると、キリスト教圏の音楽性の確立とは、いかにかれらの音楽がもともとキリスト教らしさを持って居たかというよりはむしろ、覇権と征服とともに他教・他民族らしさのテイスティな部分をキリスト教会としていかに利用しつつ、逆に泥くささ——いわば呪咀的要素?のほう——はいかに消していくか の工夫の歴史だったというふうにきこえる。

 

そして人間の主体性の確立とともに、旋法そのものも和声法の確立という方向性とともに一度は消失して行ったという感じではある。そして削りすぎたのかもしれない部分(「超越 即 内在」性が、情況から分離できない受動的主体性と同様主体から分離できにくいと悟った側面、そうした割り切れない部分・主体と感じられる個の身体と精神が、じつは自分の足で立ち切れない部分)が、ことに「アフター ベートーヴェン」から自覚的に意味の再生を迫りつつ還帰してきた。——主体と超越との関係。内在(=超越)性と主体-理性悟性とのより自覚的な対話。これを音楽表現上でもどう扱うかが、それぞれの作曲家の課題・個性や倫理観責任感などの処理としてポジティヴィティの表現と同時に足枷になっている。これが現在までの音楽師ではないだろうか。

 

この点に関し、俯瞰してみていると、(凡その言い方になってしまうが) classical music のまる切り中心部よりはむしろ「際」または外部での方がこの問題の真摯かつ大胆な乗り越えに成功しているようにきこえる。

 

LiberaのRobert Prizeman が あえて<現代>においてクラシック音楽の「やや外(周縁)」から、Peaceful(with love and prayer)な、過剰さを求めぬ『良い加減の』幽体離脱性 とともに模索している音楽性、その Typical side というのも、主なひとつにはそうした側面ではないかという気がしているのだが...。

 

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| Rei八ヶ岳高原2 | 12:20 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

カフカ「城」について 再再読

FB 「過去の今日」より

2016年10月25日 付

 

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4,5年まえに読んだ時、もっとも印象に残ったてはいたが、blog記事にする際にはテーマから逸れるため、置いておいた数頁。


気になり続けていたが、そこにかかれていた「意味」をまだ探っていなかった。

今読むと機が熟している気がした(?)

 

程なくその箇所は見つかったけれども、空白時間も長く、しばらく意味をのみ込めずにいた...。


入念に前後の場面をあたるうち、およその構造は、つかめてくる。

 

到達不能——届きそうで届かない...——という世界真理をめぐる未完の長編だが、ここまではほぼ、他所者=異邦者=『招かれたはずの/招かれざる』闖入者、として生きた主人公Kの意味が、少し変わる。

それは何だろうなと思っているうち、しだいに 闖入者→奇襲者 になりかわる時間が、つづられ始めているのに気づく。

 

闖入者にとって、異邦人であることを余儀なくされつづける、無辺の外部性——傍らを離れることなく何処までも付き沿われるのを感じ、あきらかに〈このもの〉を巡っているのだということを知っていながら、それ自身へはけして近づくことの出来ぬ、という あまりに馴染みぶかい——存在真理。

 

それがたしかに、城を巡る一貫したメサージュにほかならなく、じっさいこの終わりなき語全体に、Kの迂遠な非-到達としての異邦者・闖入者たる奇異性と、延々たるはぐらかしの刑の描出テーマ、超越的なものへむかうその隙間への、執拗な投企と挫折の連続体が綴られ、主人公の城への受け容れられなさと力関係を物語りつづけてはいるのだが、
ここへきて——
”ふとした隙”に(そう、はからずも闖入者が奇襲者となるとき、とは、*よりによって放心したとき!、*しかもあの「薬酒」の暗示にみちた場を経由し!...)*あっけない早道が、否むしろ裏口が、用意されていた..。
(※とはいえこの近道が 或るもの「それ自身」へと到達するかというとそうでもなく、せいぜいその *亜象/代理 に触れ合うか否か、という焦慮にみちた様態で!)

この二重拘束——あまりに人間的——な真理が、圧倒的な驚愕と、*待機→自由(=絶望でもある)、そして”*微かによぎる障害感”(この要素を付け加えるのを忘れない、カフカの用意周到さと表現力が圧巻)、*決断-決断不能との相克、etc…にふちどられつつ、きわめて表徴的に物語られていた。


全編中程。

(*...の部分はみな、人間くさいと同時にあまりにも哲学的-存在論的でもあるといえる...。)

 

 

【補足】
面白いことに、また ちょうど<ここの部分>こそは、官僚主義についての滔々たる描写ともとれる全編のにおいのなかで、単なるそれにとどまらず、その官僚主義なるものとは畢竟 恣意性にも癒着せざるをえない——独裁(専制)政治とも繋がるのだ——というかの告発性、カフカにしては抗議に満ちた意味深長な暗示にも満ちている点だった。

というわけで
これまで、滑稽なほど忍耐強い迂遠さのほうにしか興味が届かなかったが、この懶惰な【裏道】にかんする作者自身の洞察の鋭さと、その奇襲性の描出(状況論的切迫感)とは、この作家をマニエリスム文学に属させるにはあまりに諫言的かつ凄絶なものがあった。

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:44 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Liberaまわりと村松崇継氏について。続編

FBの 村松崇継 氏サイトから、ユニバーサルスタジオジャパンに関する 以下のような記事が下りてきた。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの大人気クリスマス・ライブショー「天使のくれた奇跡 〜The Voice of an Angel〜」がいよいよグランドフィナーレを迎えます! 今年も村松崇継が書き下ろした、LIBERA「天使のくれた奇跡」がショーを盛り上げます🎄♫ https://youtu.be/PgkcpuP6AC4

 

今年は、先日の記事にも書いた通り、9月に村松崇継氏のコンサートにも足を運ぶことができたし、 一昨日はリベラの東京公演(新宿文化センター)を聞きに行ったばかりでもあるので、 このさい、ちょっとまとめ。

 

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今年は村松さんのビルボード東京でのコンサートにも、村松さんの曲のいくつかを教会音楽チックにアレンジしたものも手がけているロバートプライズマン(Robert Prizeman)率いる少年合唱団リベラの、新宿でのコンサートにも行きました。 村松さんのコンサートではもう少しリベラ周りの曲目があるのかと思いきや、メロディメーカーとしての才能もさることながら、その他のアグレシヴで精確な、変拍子もある複雑系リズム感満載の多重多層性に満ちた音楽など意外な側面をかなり堪能出来、思いがけない収穫をえました。 が、リベラ路線である 「天使のくれた奇跡(ANGEL)」は、リベラのおとといのコンサートで、聞くことができました♪ リベラは、(チャント-ルネサンス-バッハ-ベートーヴェン主に後期の調性拡張-シューマン・ショパン・メンデルスゾーン etc…の音楽展開から主に発すると思うのですがそこは略するとして、この路線を見つめた)サン=サーンス〜フォレ的↓調性の路線※

 

※この典型と思われる R PrizemanのLibera用作品 Vespera

(Saint-Saëns→Faure 's route + modal=Chant,Celtic,or Gaelic code)

 

 

 

が、やがてBeatlesをも生むことになる英国のmodalかつ斬新な複雑系polyphonyへと移行発展していく音楽文化が形成されていく際に醸成されるゆたかな音楽の質を、クラシカルクロスオーヴァー(classical crossover music)という新しいジャンルに持ち上げた、大変面白い聖性と遊び心豊かなスカイラインを生き生きと渡っているとおもいます。 その路線----村松さんの清らかでポピュラーな!世界と、オルガニストでもある、リベラを率いる音楽監督ロバートプライズマンの荘厳で自由自律的な素描線と「気づき心」の、棄民多き現代社会における⁉︎peacefulな融合----は、いつも不思議で面白いです。 これからも、1聴衆であるとともに、曲作りとその変容多様性を見守るファン、という面からも注目し続けていこうとおもっています。

 

この投稿の関連記事 http://reicahier.jugem.jp/?eid=93

 

 

------------------------------------ 以上 

 

FB投稿より。

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:42 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

錯綜・破綻手前の表現(expression of complication)——R Schumann & F Chopin

FB 過去の今日

 

2015年10月17日 12:40 ·

 

 

ソコロフとラローチャでフモレスクをきいた。そこで考えたこと、またソコロフについて考えていたことがあり調べたら当たっていた点とそこから更に思いついたことはツイッターに記。


それにしてもショパンとシューマンの天才性のちがいを見込んで、なおシューマンの天才を私自身感じるにつけても、ショパンのことを「諸君脱帽したまえ、天才だ」と紹介した、——ともするとその異形さ、狂気にのみ焦点が当てられがちな——シューマンの、心と価値観、思考の広さ,多様性への開け を感じる。

こういう面はかの丸山真男にも通じなかった点みたいだ。(彼はショパンのみを認めている)

 

 

これらは典型的な、シューマンの思考の質について参考となるよい例ではないか

https://www.youtube.com/watch?v=wcS32WnEFiI
https://www.youtube.com/watch?v=L4wDzdGO09Q

 

※Saint-Saënsは、このことについてもしかしたらすごく良く考えていたかも知れない

 

Horowitz- Chopin Piano Sonata No. 2 Op.35 (4/4)- Finale: Presto


 

 

 

Martha Argerich Schumann's Piano Sonata No. 2 in G minor Op. 22, IV…

1

 

表現における、錯乱と錯綜との区別。それらの問題を各々、己の価値体系と歴史の吸収力、また表現力とで果たし、

以て尚、音楽上で片づけられる問題と片付かない問題の両方を抱えつづけたものたちの苦悩と、その時々の解決法。

解決に見いだされる、自発性の秩序感の相違。

 

 

以下は Op22(Psonata nr2)にも通じる、情況と自己という表現——「錯綜」という表情における同作曲家独自の一つの理解ともいえようが

ノヴェレッテンにおけるシューマンの、調性拡張〜崩壊問題にもまさしく絡んでいくであろう、時代の曲がり角を迎えていた様式感への問題意識。

 

8:06-8:54↓ (繰り返される、ひとつの錯綜状態にかんする様式感。これを簡単に異形とか狂気の問題として片づけられるのか...)

 

https://www.youtube.com/watch?v=xJh65eZQCeU

 

 

ZACHARIAS plays SCHUMANN Novelette No 8 Op.21/8 (1992)

 

※これも余談だが、Saint-Saënsはこの曲を案外聞き込んでいたのではないか...。。

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 18:10 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ロベルト・シューマン(R Schumann),エリック・ロメール(E Rohmer)の流儀と現象学(Phenomenology)

これ——現象学的態度——はまさしくシューマンの精神であり、ロメールの精神であり、

彼らの芸術性であり表現態度であって、流儀である。

 

 

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FB 過去の今日 2016 10/16

 

 

RT @merleaupotybot

目に見える物としての全ての個体は、次元としてもまた機能する。それらは存在の裂開の結果として与えられているからである。結局、<見えるもの>の特性は、厳密な意味では<見えない>裏面、つまりそれがある種の不在として現前させる裏面を持っていることだ、ということを意味する。『眼と精神』

 

 

RT @merleaupotybot

受肉せる主観としての私は他人にさらされており――別の観点からは、他人が私自身にさらされているように――、そして私は、私の前で話している他人に自分を「同一化」するのだ。『世界の散文』

 

 

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明日のぶんの記事

 

FB 過去の今日 2016 10/16

 

(シューベルトの後期ピアノソナタ
─ 歌曲を通じての一考察 ─

三好 優美子)

 

http://www.piano.or.jp/report/04ess/ronbunreport/2000/04/01_8989.html

 

面白いとは思う
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社会に適応できず、自然界にも安らぎはない。神を拒否し、優しく包み込んでくれると思っていた死にまで見放され、気が狂うことすらできない。安息を得られないままさまよい続けるのが、『冬の旅』の「さすらう」主人公なのである。
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といった一文なんかも、痛くわかるし 見事だと思うし♬

だけれど
こういう、楽典にも即しつつしっかり語っていそうな分析のなかで
思わず著者の管見が出てしまっている所、たとえば
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「苦難を乗り越えて歓喜へ」と、力強く闘ったベートーヴェンとは少し違い、シューベルトは、「すべてを受け入れる」という方向に向かったのではないだろうか。すべてをあるがままに受容することは、闘うことよりも更に心の強さが要求されよう。否定しないで、苦しいことも事実として受け止める。」
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にくると、めげるというかしょげる...

ベートーヴェンに対する偏見は、批評空間での浅田彰の音楽評論(ヘーゲル=擬制弁証法=べートーヴェン!みたいな捉え方)や
雑誌「思想」での、音楽もの特集(シューベルト特集でも見た)でもよく散見されるけれど——で、シューベルト好きに、多いと思うんだよネ^^*——
ベートーヴェンを「このレベルで!?」批判してしまえることが、結局はシューベルト自身への冒涜にもなっちゃうことに気づかないんだろうか...。

「すべてを受け容れ」なければ——零れるもの、落ちるもの、漏れるものらに、全霊を以て傾注ができるものでなければ——苦悩を突き抜けて歓喜に至ろうなどとは思えないこと、内なる平和と外なる平和が合致する世界の「成就を希え」ないことを、
ベートーヴェン自身ほどじゃなくてもいいから、知ってほしい。
(シューベルト賛歌=ベートーヴェン否定 っていう構図はそろそろいいかげんにしてくれないかな〜)

こんな言葉をスッと書けちゃうって
<創造行為(その創造行為は音楽じゃなくても何でもいいけど)の現場>に立ったことがないことを露呈してしまうのではないのかな

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:03 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Josephine for Beethoven(PS Nr23 op57 Appasionata,op31,SQ Nr14,Nr15,op129,op31,op90 etc...)

FB 過去の今日 2016/09/23 から。

 

アパッショナータ(op57 Appasionata)にもElise's themaの投影が濃厚にある…

 

参照画像(スコア)挿入 (別窓で590×2860pxに拡大できます)

Beethoven-SQ-Nr15

Appasionata+Elise(アパッショナータ+エリーゼ) が、——動機上、冒頭からして全体に濃厚であるが、ことに——後期SQ-Nr15番の<例のところ↓>である。

 

ラー・ミ↓ド↑ララーソ♯ ラーシドレミミミ ミーミソーファミレ ドーミレレ 〜 ファーードミレシ、ミーーシレドラ)

(↑曲全体、とくに添付画像のスコア全体にわたるが、濃厚なのは上記の部分、添付スコア 47小節〜Elise部分の手前 allegro appassionata 部分迄)

 

※しかしこの前段にも同じものは反映されており、そこには appasionata-elise の副次動機ー原動機のみならず a Thereseの暗示も 予兆として含まれる(予兆、というのはのちの 報せ“舞い込み”=添付スコア、グリーンマーカー部分 に反映)と思うため、スコアに含めた。

 

(〜 last mov.=5mov)

 

動画A(with score ※小端末以外では反映されない可能性)

↑34:58-35:47

 

または こちら動画Bでいうと

35:00-35:44

 

(そしてこの next scene として、テレーゼ——A Therese Nr24 op78——が

Toeplitz テプリッツ滞在中のベートーヴェンにジョゼフィーネの妊娠報告を舞い込ませる、あの情景に移るわけだが(添付画像スコア、グリーンマーカー部分)

= 動画A 35:48- / 動画B 35:45- )

 

1octv越しの同音連打も、通常の同音連打も含めて、両者が融合しつつ後期SQに反映している箇所

 

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2018/09/23

 

今日また改めてここを聞きなおすと、後期SQすべてがジョゼフィーネに満ちている——否、ベートーヴェンの殆どの作品が直接間接、この人物、および彼女への愛と情熱を示唆する——といえど、ことにop131,132は晩年らしい趣での枯淡な暗示力が凄絶である。すべてが、原動機であるジョゼフィーネを物語る、と言い切っていい。

が、op131でもop132でも特に最終楽章(last mov.)は、Josephineの暗示云々というよりはむしろ直截的表現(ほぼ原動機の現露)である。それも、——Tempestをはじめ、どの音楽もElise(添付画像スコア、ピンクマーカー部分)を付帯しつつ彼女を表現したといえるのだが、後期ではことに——Apassionata!が(原動機であるElise!をまといつつ)副-原動機となり切っている。(Apassionata=Elise)

このような仕方で、彼女の像を淡々と、なおかつきっぱりと物語り通している。シニフィアンがシニフィエを必要とせず露出した、とでもいう感じ。

 

 

 

 

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FB 過去の今日(昨日分) 2015/9/22 18:15 から。

 

このLvB op31と昨日のop90 両者に通じているのはやはりJosephineジョゼフィーネだ。

 

op31はTempest!!と狩り、という曲と3つで組らしい。op31-1,2,3。K...さんが言ってくれて気づいたが、似ていると言ったlost penny op129を名付けたのはDiabelliディアベッリだったらしいが(勿論これはlost pepi=lost Josephineのもじり。ちなみにディアベッリ変奏曲 Diabelli variationsはop120)、表面的に言われているよりDiabelli はBeethovenと深い仲であったか、少なくとも事情通(knowledgeable person/well-informed person !?)だったのではないだろうか

 

補足

http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/2004/nodaira04.pdf

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven sym2,3,7,8と告別など

2014年8月24日 20:03 

 


sym3(orエロイカ変奏曲),7,8にはラミ↑ミ↓ラの凱旋があり、

sym2(時期はテンペスト頃),告別にはドシラli-be-wohlがある
しかしこれらの二つは無関係ではないという直観


sym7-4楽章にドーーシラ(ドシラ)がある


テンペストは。ラードミラ(1楽章) ド♯ーレミ(2) とラファミレ(3)

 

どう、より得心のゆく整合性をつけていくか...。やはり幽霊op70がかかわるとよいのか。。。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

サンサーンス 交響曲第3番のこと メンデルスゾーン、エルガー、Liberaまわり

 

FB投稿から 8時間前

 

IPadminiを片手に、↑これに聴き入りながら玄関のお花に水をやって来たはいいが、帰りにいろいろ干物を持って上がろうとして玄関ドアに思い切りお尻を突かれて入って来た。

 

それはいいけどこれを聞くとベートーヴェン、シューマン、そしてメンデルスゾーン!(エルガーのエニグマ-nimrodを考える時もメンデルスゾーンに顕著に該当する和声進行は重要だ http://reicahier.jugem.jp/?eid=68 )、ブラームス、エルガー以降の英国、スラブや北欧作曲家、チャイコフスキーやマーラーのことを考えちゃうのはもちろんだけど、シューベルトの第10交響曲のことも何だか思う。。なんだろう。。

(※こう書くと安易にブルックナーに結び付けられるのはいやだなあ...そうじゃない)

 

シューベルトとこの曲との関係だと、未完成交響曲における Dies Irae(Gregorian Chant)のなぞらえの受継について語られるだろうが、私がシューベルトの「第十」交響曲を想念するのは、未完成symが「第十」のある意味での再挑戦(といっても 焼き直し以上の意味を何らか持つもの)、として感じられ、サンサーンスがその意志を受けついているようにも感じられる、のかもしれない...。


シューベルト 第十 は、サンサーンスがsym3を書く(1850頃)までにもう手に入ってor 知っていてもおかしくはないかな。

 

この前の記事(http://reicahier.jugem.jp/?eid=84)で クロスオーヴァークラシカルのソプラノ少年合唱ユニット Libera について書いたときも、

彼らの歌う曲の影響の中で、フォーレのみならず師匠のサン=サーンスの存在は大きかった(RPrizemanがオルガニストだったことも大きいだろう)し、実際このフィナーレを模した曲もあるので、昼間聞いていたのだが。

 

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付記(TWより 180810)

 

サンサーンス。シューベルトから直接彼に向かう線。シューマンを間に介して向かう線(フォーレの伏線)。両方にメンデルスゾーンの和声進行がからむ形の場合(→エルガー)。メンデルスゾーンからじかに彼に行く線。

シューマンから直に彼に行きこれまたフォーレを呼び込む線。総じてエルガー、チャイコのこれらへ向ける視線。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 03:07 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

高橋悠治の言葉

高橋悠治氏(作曲家、ピアノ奏者)インタヴュー の記事について

 

 

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO32785590Z00C18A7000000

 

新譜『余韻と手移り』について
「余韻は音が消えた後の残像みたいな感じ。この音は、と言っているときにはもうその音は消えている。音は記憶でしかない」
「(現代の)ピアノ音楽からはちょっと外れた曲を入れようと考えた。あまり演奏してこなかった曲を探してレコーディングをしているわけだ」

 

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さいきん、フォーレやバッハなどの作曲家の、意味延長可能性あまたある作品以外には

あまり他者のきちんとした楽譜を読むことなく、modalな感覚で音を移動させる実験というか遊びをしている。

 

たとえば、童謡 赤とんぼ を、A 機能和声(functional harmony)からと、B 旋法的和声(modal)の両面からアプローチして、和声進行のつくられ具合を比較体感してみるとか。

 

このさい、実際に(いまごろ笑)やってみてひしひし体感するのは、AB両者は完全に分離した機序も何もかも別々のもの、というわけではなく、どこかで背中合わせになっているというか折り物の「輪」のような癒着した部分を持つけれど、それでも結果として相当ちがった雰囲気と和声の組み合わせが形成される。

 

バッハ+スカルラッティ風な、自分で作れる音楽を仮にやっていて、その線からシューマン的な線〜フォーレ的な線、さらにもっと現代音楽的に多彩に滲む線、などをパラレルに想定しつつなぞってみるとか。

 

きのうは、ごくなんとなくだが、modal-jazz路線かもしれない(形勢?)線を半音階進行でこまかく追っていた。

すると意外にシューマンの音楽がこれに近く存り、バッハ+スカルラッティ路線と、フォーレ的幽体離脱線との関係性を独特に形作って感じられたりしていた。(サンサーンスが現今と未来の音楽について当時から思慮していたものに通じるのかなあ)

 

そんな体感をしながら、これを読むと実に面白かった。。。

 

 

ここで高橋氏のいわれる、『手移り』は、

ちょうどバッハを十分に吸収したロマン派からふたたびmodalな調性に変わる時代の音楽でも重要になって来るし(響の余韻を十分透徹させようとすると生理的にそうしたくなって来る)、フォーレなどにはすでに、グレゴリアンチャント〜ルネサンス期の再現性とともに現代音楽の予兆がふんだんに刻まれている...。modalなので当然東洋的なもの——邦楽(能や長唄、民謡)やモンゴル系など——とも重ね合わさり、ジャンルと時空を超えた世界の螺旋運動が見えるようだなあと思ったら、やはり氏がこの点について言及されていたのか。。

 

カフカに訴えているのもおもしろかった。

カフカにおいては、作品の出来不出来への評価にとって、「閉じ形-完成形(であるかないか)」はそれはほど決定的な力を持たない。

おもしろいのは彼における同じ実存的主題の変容性・変容可能性(開き)であり、それに応じてニュアンスの少しずつ変わる諌言性(想像力のまとう表徴の主題、意味付与の交替感覚とともに同質感覚)だとおもう。

 

 

「バッハの音楽は出来上がっている作品ではあるが、それを演奏していく過程で未完成になっていくような可能性を示せるのではないか。発展していくというよりは崩れていくようなパターンがある。崩れていくと別の形になっていく。だけど別の形になる寸前で、未完成のままで止まってい」る、という点では、

バッハ自身によるフーガの技法の、カノン群とその配置問題などに、すでにそれがあると思う。

どういう曲順で置くべきか、そしてその群を、この作品の中に挿入れるとして、どこに入れるべきか、などなどが分かっていない。

 

まずもってフーガの技法全体に、すでにそういう空気感があるのだが...。
 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/高橋悠治

 

をよむと、

高橋氏の、たとえばシューマンへの評価(これ自体はかなり重なる)が若い頃のピアノ曲に集中しておりその後の室内楽や交響曲には射程されない点などからしても、

シューマン→ドビュッシー→サティというふうに彼の関心評価が進んでいったベクトルが、現代音楽の役割終了感につながっているのかもしれないと思うなどする。もしもシューマン(+メンデルスゾーン)→サンサーンス-フォーレ-エルガーとその後のイギリス、などと、生身の生命体の担保可能性をたたえる形で進んでいくならば、クラシック音楽自身にとってもうすこし窮屈でない、もしくは分析主義的でない?、生きた心地のする進展になっていたかもしれないと。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Liberaのこと classical cross-over のこと

シューマン——6 Etudes after Paganini, Op. 10——聞きながらクロスオーヴァーのこと書くのも変(*)だけれども?笑)、

最近、UKのソプラノユニット Libera に嵌っている。

 

*... 否 そもそも論からするとけして変じゃない。。。あらためて♪

※シューマンが直接歌われるか、ということとはとりあえず関係なしに。ある意味、シューマンを多くの意味で発掘の起点としたフォーレが鑰もしくは(ドビュッシーやサティ以上に大きな)分岐点に、なっている[※ワーグナーとは言わない所が、私らしい...。今のところWikiなどでも、フォーレはワーグナーからいろいろ学んだとあるが、まずそれ以前に調性への問題意識のとっかかりからしてもシューマンであろう。それは早晩明らかになるように思う。ワーグナーは、もし自分が調性拡張の起点であると自負するなら、シューマンが精神病院に行く前から自称すべきであったろう。それと、シューマンが辿った地点からフォーレ的幽体離脱の転換へと至るダイナミズムに絡む、諸問題がある(**)。]ことが改めて把握され、それが脈々たるイギリスの ジャンルを超えた Choir 乃至 多声部音楽の伝統と合流し相まって育くまれていれば十分なのである——ドイツ→フランス(ガリア・ケルト)→イギリス精神(エルガー以降+北欧→アメリカへと通じる調性逸脱)へとつながっていく、例の脈(***)——。

 

**...おそらくベートーヴェンからしっかりと始まった、世界における“自律”的主体性(カント・デカルト等近代観念論とその様式・意匠における弁証法)の確立の必/当然性と、こんにちの弁証法(現象学的真理)の狭間にどうしても一度は横たわった問題であり、それは倫理性を含む。

参照:サン=サーンスの諸言葉(ツイッターのBOTでも手繰れる(★)。かれの悩みは思慮深い。ここには、弟子のフォーレに比しサン=サーンスは保守的であった、などといって解消できない何か様式(美)観=主体性確立問題に、合通ずる、人間的良心(個の自律性及び公共空間の確立とその律法化問題?)と表現倫理の問題がある。ワーグナーの問題も然りである。)

 

***...RSchumann→Brahms・SaintSaens・Faure→Elger(と彼以降のイギリス)+Grieg等北欧、のこの線。その手前に、スラブなど民族派に行く流れがあるのだが)

 

★...

●ああ、明晰さよ。人々はこの明晰さを少しは愛してきた、これは確かだ。明晰さ。これは様式の純粋性だ。

●今日、すべての事柄のしりぬぐいをさせられなければならなく、またすべての事柄の弁明をしなければいけないのは、象徴主義だ。もしあなたが象徴主義者であるとするなら、心おきなく無意味で、耐えがたい程に退屈であるがいい。そんなことは大した問題ではない。

●人々は、昨日の不協和音は今日の協和音だという。確かに、人々はすべてのことに慣れることができる。しかし悪い習慣もあるのだ・・・

●私が死んだら、人びとは20年間私を忘れるだろう。いやもっとかも知れない。私の作品は自力で身を守らなければならないだろう。私は自分の書いたものに自信を持っている。それらの価値を発見する新しい世代がそのうち生まれてくるだろう・・・

●はっきりと世俗的な音楽と区別されるような本来の意味での宗教芸術はない。あるのは良い音楽と悪い音楽であって、それ以外は流行や慣習の問題にすぎない。

——by C_SaintSaens

関係記事 http://reicahier.jugem.jp/?eid=88

 

 

 

 

LiberaとClassical Crossoverに話を戻そう。

 

わたし自身、聖歌隊出身であり、もともとクラッシックのジャンルのなかで人間の声のジャンルではオペラやオペレッタ(これでもか系?^^*)の方に行くよりChoir——聖歌や宗教音楽等、人間臭さの濃くない質の=自我肥大や出世欲などに汚されたくない質の 笑)音楽の方——に行きたがる性分であったので、

クラシカル・クロスオーヴァーの側で、相応の宗教性をもおのずから担保する形で《一定程度》その技術と表現レベルがアップしたなら、ある種のしがらみと形骸にしがみついたままのクラシックの世界よりむしろその『外』の側が、人間と時代との真理といったものを健気に獲得することも、必然といえば必然...と思えるのだ。

 

ところがLiberaの場合、その質においても、一定程度なんていうものじゃなかった。

歌としての技能・技術もさることながら、表現力・純粋度と完成度——自発性(みずからとおのずからの一致)の完遂力。それはまさしくこの時代において至った、本来的宗教性の発露なのである!——といった点においても、完璧というべきだろう。

 


 

■↑deep peace の元歌は、John Rutter!のGaelic Blessing(https://www.youtube.com/watch?v=7d5ZuOVO3f4

 

 

それと、時代が時代、ということが、それこそcrossoverしちゃってる。

 

 

音楽史の点からも“究極の局面”に突入した——クラシック自らの側からもそれ(思い切っていってしまえば、一部の人々の真摯な努力や良心を除き、自らのジャンルの 終焉もしくは自滅)を呼び込んだ、と私は思う...し、クラシックの外のジャンルが成してきた運動展開自身の必/当然性もある——と同時に、<人間社会>という面からも、ざっくり言って「祈り」の時代に否応なく至らしめられた訳だ。

 

 

祈り、というのは、Liberaの子たちがレパートリーとしている多くの曲にも当てはまるのだが、大まかに言えるところの「棄民」排出の多い昨今、『人間』への希いと、それを超越した(しかし『人間』味を失わない)位相にいるであろうものへのひたむきな訴求——寄り添いと見守りと平安への切なる願い、「愛」の希求——が「祈り」として現されていること。人-神の両者が合一化もしくは中間地帯化している領域、そこにこそ住む何かに、彼らから発される至純な言葉も旋律も、向けられていること。ここに、すべてが端的に明かされている。

そう。一言で言ってLiberaの発想と運営には、明確な哲学があり、人間と社会への深い洞察があるのである。

 

 

生身の人間だけに訴えても、おそらくけして成就されはしない(不安や懼れや悪に、所詮打ち勝ちはしない)願いであろうが、かといってまるきり人間の相貌を失った超越的なるものに向かっては、このような純粋さと切実さとが告白されもしないだろうような、魂の領域。。。つまり愛の希求=祈りでしかないようなもの。それを、現代人が抱かされている。そのような時代に至ったということ。

 

 

ところで、バッハパッヘルベルタリス(Canon)サン=サーンスカッチーニシューベルトベートーヴェン(Immortal Beloved)ドヴォルザークシベリウス、といったクラシックジャンル(Liberaが彼らの曲の魅力を最大限に発揮した形で聖歌風に昇華させている)はもとより、日本の上質なポップクラシカルの作曲家・演奏家も、Liberaに曲を提供したり共演したりしている。

 

村松嵩継(Takatsugu Muramatsu)氏である。

私は9月に彼のコンサート(作曲家・ミュージシャンとしてのみならず、シンガーソングライターとしてもデビューされたとか)にも、行く予定である。

 

 

映画「誰も守ってくれない」の主題歌(You were there 冒頭に紹介)や、彼方の光(Far Away)、など自らの曲を提供することで Liberaを日本でも有名にした音楽家 といえるが、

 

 

私の一番好きな曲 We are the Lost(それこそグレゴリアンチャント由来の旋法を生かしたフォーレのレクイエム的コード進行の究極版といえようもの)にも かれは一枚絡んでいる。

 

 

(※ We are the Lost についてのlicenseについて記されたページ——この曲が何人かの作品の集合体ということ——を見ると、LiberaのMusic DirecterでKey ManであるRobert Prizemanの他Dvoark,Sibelius,Holstなどクラシック作曲家とともに、彼 Takatsugu Muramatsu が名を連ねている...。)

 

私はこの曲の譜をもたないが、自宅の小さなオルガンでちょっとこの和声進行の秘義をひそかに手繰っている...。

とてもよく出来ていて驚くばかりである...。

 

 

Liberaの運営に、自由さとともに着実さと画期性を感じるのは、イギリスの伝統でもあろうが、変声期を過ぎた隊員にもそのまま学校に在籍することを許可している点もある。Beatlesでは Paul McCartney,John Lennon,プログレのYesメンバーであるJon AndersonやChris Squireも聖歌隊員であった。その時期にGregorian ChantsからThomas Tallis,William ByrdなどRenaissance期のPolyphonicな音楽を叩き込まれており、作曲に生かした。Kate BushやNorah Jonesもそうだ。リズムや変拍子などに気を奪われやすいが、音列を平易化すれば旋法であるかそれを生かした曲想である。彼女らも、ピアノ、ヴァイオリンなど楽器を習っているが、やはり聖歌隊員としても在籍している。

 

凡その民間伝承音楽がそうなのかもしれないが、bossa nova などもリズムを除外すればもとは旋法チック(Modal)である...。西洋音楽とはもとよりそういうものなのかもしれない。

 

征服されたガリア人やケルト人の元来もつ音楽性が、お経めいたChantの平易さに、よりはげしくメロディックなゆらぎと表情を与えてきたのかもしれない。

そんなこんなで、人材育成の点からしても、系統だった旋法系の多声部学習とその透徹は必須条件なのであろう。

 

Liberaは AVE MARIA をシューベルトのもの、カッチーニのもの、カッチーニのを編曲しつつ新しく創作したもの(by Robert Prizeman?)、いくつか録音しているが、これ↓はそのRobert Prizemanの作曲らしい。

 

 

 

かなりの名曲、名演だと思う!Liberaの少年たちにはもちろんだが、村松氏の作品への眼の付け方や

こうしたAve Mariaの創作仕方ひとつとってもそうであるが、他にも諸古典、FaureやSaint-Saënsの各曲への注目・変容仕方(アプローチ)など、****

やはり個人的にはR Prizemanという人への興味がつきない。

 

****...

Lux Aeterna という曲にはFaure's Requiemのin Paradismから引用乃至インスピレーションを付与されそこから構成されている旋律がある

 

O Sanctissima (Songs of Praise)  には、Saint-Saëns  Le carnaval des animaux「動物の謝肉祭」水族館<Aquarium>の影が支配的に伏在するとか(ソプラノソロの背景になっているコーラスの在りようでわかるのだが、グラスハーモ二カの奏でる最後の旋律でもその描線が暗示されている)。

 

など。

 

 

 

 

最後に。Schubertのもの。これを聞くまで、生きていてよかったと思う演奏。。

この少年のひたむきで的確な表現力には頭が下がる思いだった...。(F Schubert's AVE MARIA)

 

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:42 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シューマンのSQ41-1とPトリオop80(RSchumann sq op41-1とPtrio op80)

FB 過去の今日 から

 

2012年7月6日 23:01 · 

 


シューマン sq op41-1とPtrio op80
http://ml.naxos.jp/album/8.553836 trio2 (op80-2)

http://ml.naxos.jp/album/chan10692(sq op41-1-4) 4:41-5:04(ラーミーファードー)が、

 

trio2 (op80-2)3:46-4:37(ラファレファミドラドファレシレドラファラ)と同一なため=前者が後者旋律のbg=ベト後期風になっている、ソーラーシーシーレーーソ(ファ)の結び=解決が同一になる

 

このことを、ベートーヴェンの幽霊や後期sqとの関係から証せるのか?

 

☆ラーミーファードー
って、マーラー巨人 じゃん!!

だったらなおさらすべき。(180706)

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2012年7月6日 22:54 · 
http://ml.naxos.jp/album/8.553836 trio2 (op80-2)
http://ml.naxos.jp/album/chan10692(sq op41-1-4)4:41-5:04が、trio2 (op80-2)3:46-4:37と同一なため、ソーラーシーシーレーーソ(ファ)の結び解決が同一になる

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:59 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

幽霊・巨人とヤコブベーメ

20170619 FB 過去の今日 より(数日前の過去記事)

 

 

ヤコブベーメ 幽霊 シューマン でぐぐる。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/主題と変奏_(シューマン)

 

 

またベートーヴェン、でググるとどうなるか

 

 

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参考資料

 

http://ex36man.blog.fc2.com/blog-entry-47.html

巨人の誤解 ヤコブベーメ

 

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ジャンパウルの巨人、マーラーの巨人は、ヤコブベーメのそれなのか。

 

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関連記事

 

ウェーベルン 自分の記事(ウェーベルンの気づき について)

http://reicahier.jugem.jp/?eid=50

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シューマンにおけるベートーヴェン

2015年 FB 過去の今日(6/11)より

 

 

LvB sym3英雄とsym4(これは元素が同じだ)の緩徐楽章がどれだけシューマンに影響をあたえ得たか。

 

弦楽四重奏(五重奏)など。

 

ことにつよく sym 3,4,7(=8)はシューマン的視線でひとつにつながっている。(4と7、3と7はつながると私自身以前から断片的に思ったりしていたが、シューマンの後ろ盾を感じるとつながりがつよまる)

 

sym4 ゼフィーヌゼフィーヌのところの旋律の波など テレーズともきこえるがこれはナポレオンの妻の名だ

 

それとベートーヴェンの、ピアノソナタなどはおろかシンフォニーにおいても恋愛感情につながっていく音を敏感に感じとり、

シューマン自身の耳と心で自分の音楽へと肉化しているのがわかる

 

 それでもベートーヴェンの音楽はやはり政治的感受性と精神、状況論的思考なしにはとても作れないのがわかる

 

(このこともシューマンは感じとっている)

 

英雄の三楽章もシューマンの心の中にそうとう深くまで凄絶に入り込んでいる  ライン sym3 に反映している

 

 

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補記

 

2015 5/12

 

クロイツェルソナタの最終楽章開始の動機性は移調を要するがエロイカ行進曲と全く同じである。

このことからしても、マーラーが巨人でこの2つ(ともに全曲)を背後に同時進行させていたのは必然性がある。

がマーラーがこれに気づきやすかったのはシューマン(の認識)を研究しているからなおさらなのではないか。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:53 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ピエロ・デッラ・フランチェスカとミトラ教、グノーシス主義等 その2(長谷川等伯、運慶などへ)

この記事は、前記事のつづきです▶ http://reicahier.jugem.jp/?eid=79

 

 

3月にピエロデッラフランチェスカについて考えてから2か月も過ぎてしまった。

 

ピエロ・デッラ・フランチェスカから入る世界史。

 

20180528

 

友人に参考書を戴いて笑)、苦手だった世界史をざざっとよみ始めているけれど、

ピエロ・デッラ・フランチェスカ(とその仲間たち おそらく アルビジョア-カタリ派)

の思想において

ともかく 政治(統治模索性)性と宗教性はフランチェスカにおいて一つになって感じる。

 

http://redrb.heteml.jp/naganoart/nagano_art_06.html

 

この絵で気になるのは、 慈悲の聖母を見上げるフランチェスコ自身の隣、黒いマスクをしたままの男である...。

ひとつの資料によると、フラアンジェリコ(キリストの嘲笑 Cristo deriso)においてキリストに唾を吐く男の援用というか、ある種向こうを張っているのかもしれない...。

http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/angelico.html

このサイト様の11番目の画像( http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/angelico.html )

 

が、たしかにそうした延用ではあるにせよ、ではなぜそのように危うい挑発的なモティーフを避けず、むしろより黙秘的隠匿的な形であえて提起するのか。そういう画家の態度なり動機が、非常に鑑賞者の何かをそそる処がある。フランチェスカにはそういう個性が、そのきわめて理知的な構築性のうらで————おそらくは彼の宗教観や公共空間における主体定立の「秘義的-敢行的」流儀から生じるのであろう————必然的にある。

(もしかするとフラアンジェリコでさえそちらの立場からの表現だったりして...)

 

このモティフも、およそ宗教というものはそういう運命にありがちかもしれないが————(「こんにち」では異端扱いされているフランチェスカらから見たときの)キリスト教の基盤やら権威の危うさを提起しているようにも感じられる。

 

https://core.ac.uk/download/pdf/67687059.pdf

あとこれも面白い。※しかしこうしたものの、より自然なポーズはプラクシテレスによるサテュロス像にある。。

 

という具合に、ちょっとおもしろいサイトを覗いてはいちいち触れていたら、切りがなくなるので一言だけ。じつは自分は、もう古い出版となったが、コンパクトな美術通史のような本を一冊持っており、詳しいことはわからないがざっと俯瞰程度はできるようになっていた。それでフランチェスカのことも、深入りはつゆぞしないながら、この画風が何とはなしにだが近代の世紀末芸術や象徴主義へと通じていくのでないか、と思っていた。理由はよくわからない...。が、錬金術的?に秘密めいた態度————ギリシア・ローマ的合理性とオリエンタリズムのこうした不思議な同居————というものが、やがて退廃的に世の中に受容されるときには、世紀末的にもしくは精神分析的な意匠を以て再現されるだろう、という予感かもしれない。 あとでふれること ヘルメスとミトラ教 というサイト、またミトラス像(牡牛を倒すミトラスの像 力動性量感流動性と運慶、など)

 

ところでフランチェスカは、自身、ヘラクレスを描いている。

hercules piero de francesca

 

wikiより ピエロ・デッラ・フランチェスカ ヘラクレス

 

その描写をみると、「鞭打ち」において主題となる、画面右半分に、立つ3人の真ん中の男。これをまるでヘラクレス、風に描いている...ように見えなくもない。(フランチェスカについて書かれた、最初に紹介したblogの書き手さんによると、ウルビーノ公の腹違いの男(=殺害された前ウルビーノ公)の子息)談義中も上の空に構え、あまり思慮に富んでいなさげに。

 

やはり前にも考えたように、「鞭打ち」に帰って考えるならば、分割された画面の左右を逆説 復讐の教訓『柔軟と鷹揚さ無き支配——(正統派として異端を)迫害し制する者——は策謀され滅ぼされる  攻め滅ぼした側も明日は我が身。』 等)として描いている。ように思えてくる...。であるから画面右の主題の三人は、コンスタンチノープルが陥落した(東西統一がくじかれた)のち、キリストの鞭打ちを過去の時間軸として教訓にするなら、(われわれの宗教と宗派は)今度どのような宗教と人間と社会のありようを模索すべきかを話し合っている、ということになるのではないか

 

 

 

 

信仰-宗教(学)と政治学の合一理念(民主制、原始共和制? 原始キリスト教)を古代ギリシャ、他文明と仏教等他宗教、グノーシス主義)→これを吸収し・把握し返したルネッサンス期を再考期とらえうる。 ルネッサンスとはあらためて 主体(sub←人の権威にではなく、ただ神のみに対する / ject-ive)= 生身の「人間」としてのめざめ。

その表現と暗号としての芸術、芸術史。

 

補記 主体(sub←※人の権威にではなく、ただ神のみに対する / ject-ive)= 生身の「人間」としてのめざめ。 について。

 

※...よりグノーシス寄りにいうと、《人間に》内在する!神的霊的なもの。イデア。

 

二元論的な霊性イデアについて

[ただ、ここには同時にグノーシスやゾロアスタ、マニ教等二元論の限界といえば限界であるのであって、

●善と悪を、なぜ善と悪と判断するのか、

●神霊的なものは 人間の側に!<内在>するのである、と判断するのか、

 

の<根拠>に たとえば仏教で言う 内在即超越(としての超倫理的倫理)、善悪判断根拠そのものを左右する Etwas mehr があるはずの点に言及しない。シャボン玉の膜のような、(内在 即)超越。

そこに善の神(神、また人の中の神・霊・イデアを見出す時 総合的善の側とともにあろうとする超越的霊性の根元)をなぜ見ないのか、という点は保留の感がつねに残る。

非弁証法的精神。もしくは弁証法の冒険の非透徹。

 

また、**肉の否定におけるある種の狭量さ]

 

**肉の否定における狭量さ ↑ 物質(肉)と霊を切り離したまま放置する。非統合化。 肉「欲」はしばしば悪(支配)を伴うが、肉 は霊と別々でなく 霊性を具現するものであること、霊性のゆくえを先触・暗示し、あるいはこれと交信伝達し合い、場合によっては霊性の質を高めうる点についての言及のないこと。

 

 

ということで私自身はグノーシスや二元論的宗教観宇宙観そのものにたいしては、100パーセント賛同するものではありませんが...。すくなくとも宗教(を必要とする人間)『という位相そのもの』からは。

 

 

 

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※について 180605 FBより

補記

 

内在即超越 の視点の、二元論における希薄?について

 

この事象を、裏側の観点から述べておく。


ところで、では そもそも超越などという——超越「者」はもちろんのこと——ものを、逆に認めることができるのだろうか、と問うてみる。


A-非Aの関係において、非AがAに対してある種の超越性を帯びていることはあるが、それ自身を超越性とは呼ばない(まして超越者などとは)。またAと非Aを(それ自身がある運動性、位相のずれなどを施されることによって、)非Aがそれ自身Aの知覚、認識を成り立たせる条件——図のための「地」性——を有していたものであったが、今では同一地平上に相対する対立条件もしくは交換(交替)要素となるに至った(勿論相互にある種の不可分性を帯びながら)、といった、運動的展開のもとに、Aと非Aを成り立たせる、さらなる「地」・位相が(それ自身はそれ自身をものがたらぬ仕方で)はからずも措えられて——われわれの当座の知覚と認識はあくまでA-非A関係そのものに注がれたままでいる際——いる、そのときその「地」のことを、超越というのであろうか、といえば、そうでもない。

超越とは、凡そそのようなある種の作用であり、たえずそのような「作用が働く」という事態であり、また(認識への)働きかけである、といえるのだろうか。

だが同時にそのような、たえず ずらされ遅らされる、機序によって、それ(=みえざる地)を<それ>(=地の存在、または地の存在すること)として気づく、気づかされつつ則する、そのようなある種の作用を、成り立たせているものが、全面的にわれわれ(相対者)の「外がわにある」のみだったなら、運動そのものが起こりえないし、作用<として>成り立ちもしない。われわれ自身がその端緒を(つねに不完全な形で)一つの状況における[受動的]能動者として負っており、その作用のあらわれを出現・溢出させているのでなければならない。その限りにおいて、その作用は別段、われわれにとって「超越性」ではないかにみえる。しかしわれわれが "個人的"に不完全な、or欠損した「能動者」として、その作用の現出に貢献し、立ち合おうと合うまいと、そのような作用が相対者である誰かが何らかの形で行いさえすれば、かならずそのように出現・溢出するのだという「成り立ち」そのものは、何ら瑕を負わない。
たまたまそれに この”自分という”相対者が立ち合ったかどうかという問題のみである。
——それでも他ならぬこの自分にとっての自分への真理の現出と受肉作用こそが、すべてであり、これを誰も奪うことができぬ、というのも絶対的に保障さるべき条件(そうしてしかこの作用の現実性(真理)を”知りえない”という意味において)なのだが...。

それはともかくとして。
しかしその現前・溢出が、その端緒と動機付けと跳ね返りというものとしてしか、この主体(たち)には体験できぬ、というその事実・事態とはいったい何なのか。
それほどにまでわれわれ一人ひとりは、相対者(準=透明、畢竟不透明な存在)にしかすぎぬというのは?
また、それに対してあるであろう、絶対的、というものへの触手とはまた何なのか、それを想定するというわれわれとは何なのか。
われわれが絶対者(すべてを完括し完結しているもの)ではないということ、歴史性(運動性を受動的-能動的に余儀なくされて?!いるところの)を背負わされている——喜びや驚愕や嘆きとともに——というのは、やはり「根源性」のみならず「超越性」に何らか由来するもの、由来することを知るものでなくして何であるか

 

ということになってくるように、私にはやはり思われる...。

 

以上、余談

 

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ヘレニズム文化とアレクサンダー大遠征、東方へのヘレニズムの浸透

 

 

http://dic.nicovideo.jp/t/a/グノーシス主義 

ニコニコ大百科 DIC.NICOVIDEO.JP

 

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/グノーシス主義

 

グノーシス主義 - Wikipedia

 

 

フランチェスカにおける女性像(聖母、シバの女王の一群など)は、男性のギリシアローマ性に比し、より露骨に、東方ミトラ教的-弥勒菩薩的、である。。。

 

 

補筆 補足資料

 

マニ教(東方ミトラ教)と長谷川等伯とフランチェスカ(ヴェネツィアーノ〜バルドヴィネッティの系譜、初期ルネサンスフィレンツェ派・ウンブリア派----宗教的にはアルビジョア派 カタリ派)

 

http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2010/09/post-22bf.html

マニ教「宇宙図」が日本にあった!: 風来香 HIROHABE.COCOLOG-NIFTY.COM

 

https://heibay.exblog.jp/18002624/

 

ミトラ教9- キリスト教との関係 | 虚空界摩訶不思議 by heibay HEIBAY.EXBLOG.JP

http://chitonitose.com/lessons/wh/wh_lessons4.html

No.4 イラン人の王国 CHITONITOSE.COM 法隆寺 獅子狩文錦とササン朝 (ゾロアスター教マニ教)

 

 

こうしてみると、日本の始まりからもとはといえばミトラ(ス)教由来の世界観に我が国も接している。安土桃山〜江戸時代の画家もまた、その可能性が高いかもしれない。

 

 

 

 

https://ogawakeiic.exblog.jp/13655098/

 

ミトラか、弥勒か、朱舜水。 | 彩遊記 OGAWAKEIIC.EXBLOG.JP

 

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明 清 辮髪

 

ミトラ ——明(ミトラ教における光の国)王朝

 

辮髪——古くはテュルク王朝にもあったらしい。トルコ系。もしかするとこの人(フランチェスカの「鞭打ち」における画面右端

ジョバンニ・バッチとされる人物)はトルコ系の血が入っているのをフランチェスカは知っていて、ちょっと遊んだかも。

 

何故 辮髪 を気にするかというと、ジョバンニバッチとされる人物(「鞭打ち」の右端男性像)が、背景処理の効果?で、まるで辮髪『のように見える』から。なぜこんな不自然なことをしたのか。故意ではないのかと思えたから。

 

ふつう辮髪=清王朝、と思いがちだが

元(モンゴル帝国)時代からも強要があったらしいから、明より前にあったようだ。

 

あとはフランチェスカの時代と照合してみるとよい。

 

フランチェスカ 1412-1492

元 1271-1368

明(ミトラ 弥勒教 の国)1368-1644

 

フランチェスカの時代は明王朝となる

 

 

cf)長谷川等伯 1539-1610

 

※等伯はフランチェスカやバルドヴィネッティの絵をミトラ教として隠れキリシタンに見せられたか。

 

 

ブレラの祭壇画のマリアや、聖木の礼拝 におけるシバの女王、慈悲の聖母のえがき方が、東方ミトラ=弥勒菩薩的なフランチェスカ...。

 

☆このころまだ西欧キリスト教の絵画自体、またそもそも作法、素材自体が総じてオリエンタル(由来)ではあるが!

 

それにしても

フランチェスカの生きた時代 初期ルネッサンスと、弥勒ミトラ=明の国の相関を考えるのは面白い。

 

それと 西洋ルネサンス期であるが

ゾロアスター教由来と思しき?「鞭打ち」において鞭打たれるキリストの、上にある像

(事実 形姿上はこの像がドナテッロの影響下でのフランチェスカ自身のヘラクレス的処理であるとして)、

であれば

あとはドナテッロの周辺環境・時代と、当時の西洋圏へのゾロアスター教の影響である。

 

 

https://bit.ly/2GZpeIg

近世ヨーロッパの思想と社会 BOOKS.GOOGLE.CO.JP  

↑ アルベルティによるゾロアスタ教の研究云々

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/レオン・バッティスタ・アルベルティ

 

レオン・バッティスタ・アルベルティ - Wikipedia

 

https://desireart.exblog.jp/20339352/#20339352_1

 

『ピエロ・デラ・ フランチェスカはアルベルティの研究を学んで立体測定法の理論を学んでいたといわれています。』

!!!!

 

 

ピエロ・デラ・フランチェスカ『キリストの鞭打ち』『セニガリアの聖母』

|… DESIREART.EXBLOG.JP

 

https://ogawakeiic.exblog.jp/13655098/

 

湯島聖堂と弥勒教ミトラ教

 

 

そういえば

↓運慶作の毘沙門天=多聞天も、(ミトラ→)ゾロアスター教由来——火性、炎性——を感じる...。

 

http://adcculture.com/journalist/shiratori-49/

 

3つの国立博物館で「日本のお宝」饗宴 | ADC文化通信 ADCCULTURE.COM

 

 

根元的な威力を感じさせる作風を見ると、運慶はひょっとして古代アーリア的なもの=ミトラ教 (たとえば「牡牛を屠るミトラ」の力動性、ベクトル描出、量感)ーゾロアスター教まで遡って作品を作ったのではないか。。 とすら感じられてくる。。

 

が、どうやってか。法隆寺の所蔵品や寺の雰囲気を見て何かを感じたのか。。

奈良東大寺において僧 実忠とゾロアスター教由来性について何かを把握したのか。。

 

諸処の寺の立像からスタティックでないあらゆる要素 流線、火性や多角的力動を自分のものにしたのか。。

 

http://blog.livedoor.jp/bfr4cadg/archives/1389070.html

 

面白夢工房 : 仏像の起源 BLOG.LIVEDOOR.JP 

 

 

等伯の大涅槃図(本法寺所蔵)や、作者不詳?の非文化財指定美術品↓などにも、ミトラ教?マニ教っぽい○○○文様(日本のものの場合、円形・弧状配置ではないが)曼荼羅にもつながる何かが...。

 

https://bit.ly/2LG0U1H

 

江戸時代の涅槃図など公開/京都・醍醐寺で15日から | 四国新聞社 SHIKOKU-NP.CO.JP 

 

 

この記事関連の前記事▶ http://reicahier.jugem.jp/?eid=79

 

 

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ピエロ・デッラ・フランチェスカとミトラ教、グノーシス主義等

20180324 FB

 

ピエロ・デッラ・フランチェスカ 「鞭打ち」(ドゥカーレ宮 蔵)

 

 

musey.netより

 

 

ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎 Il Mistero di Piero della Francesca

 

とても面白いblogをみつけて、フランチェスカの関連記事を読ませていただいた。

 

このピエロ デラ フランチェスカのblog記事は、研究熱心で面白かった!

関連記事も読ませていただいた。

 

 

画家フランチェスカ自身はもちろん、絵の構図上の主役たち、ジョバンニ・バッチ(エリート聖職者で人文主義者)とヒゲのベッサリオン枢機卿といった登場人物であり仲間たち、つまりは画家及びこれらの人物がみなローマ教皇側からみれば秘密結社とは言わないまでも異教徒もしくは異端キリスト教徒だ、とは、しかしこのblogの書き手さんは想像もしておられない(したくもない)ためか?、推論に四苦八苦されていた。

 

 

 

ベッサリオン枢機卿——これはblogの書き手さんが紹介されているギンスブルグのフランチェスカに関する研究著書にて宣教上重要な役割を果たすと書かれているとされるバルナバ=聖書の登場人物、相当でもあるかも知れない。そしてこの人物の語りと説得の内容=キリストの鞭打ち が、画面左構図、という解釈があるらしい。

 

※調べると、ネオプラトニズムの知識人で正教会からカトリック改宗者。のちにニカエア大司教。

この人物の下に知識人が集まりアカデミアが形成され、盛期ルネサンスの立役者となるとのこと。

 

 

異端———わたしはそう直感したが。(私自身は無宗教者だが...)

みながそういう思想信条の持ち主でローマ教皇権力にアンチし信念を貫きつつもつつも同時にそれを見抜かれないよう秘匿的に生きなければならなかったと理解すれば、すべてがストンと腑におちる。

 

 

ベッサリオン枢機卿

*…https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヨハンネス・ベッサリオン 

*…https://kotobank.jp/word/ベッサリオン-129571 

 

(皇帝ヨアンネス8世によってニカエア大主教に任じられ,フェラーラ・フィレンツェ公会議(1438‐39)に参加,教会合同賛成派として活躍,そのためコンスタンティノープルの教会関係者の不興を買った。)

 

*…別のサイトによると、コンスタンティノープル陥落を機に東ローマ帝国関連の書物が散逸するのを恐れたことから図書館の創始者にもなったそう。

 

 

そのまえにどこかで、(このベッサリオンのように)二股髭をしたものは異教徒で禁欲主義者である、という記事を読んだ。。どこのサイトだったかなぁ

 

 

ギンスブルグによると ベッサリオン枢機卿、とされる男 について。。


これって、鞭打ちで後ろ向いてる人物でもあるのじゃないか。だとすると何を意味するか。

いずれにしても
左側の鞭打ち構図では、自分の信条正義のがわが鞭打たれ、右の主役構図ではその逆(反面教師とせよ、という訓告)、か、でもなければほんとうに(東西統一のためには?)「イエス」キリストが鞭打たれるのさえかまわない流派であることを告白する(とくにミトラ教徒であれば、自分たちが乗っ取られた側なのだから)というのがわたしの理解。

 

枢機卿にあたる説得男の足=立場は両方にかかっている。扇の転換点。


異教徒=境域が軸足!

 

その逆、の示唆(立場がいつ・どう逆転して、正教徒/異教徒の逆転が起こるやもしれぬ)。それが絵の、受取人への 説得内容だった、ということになるか。


 

するとこの絵の受取人は、主役級の構図(右側)中、真ん中の人物[説得されている人物でこの時はもう統治の失敗から殺害に合って死んでいる*]を弟に持つウルビーノ公ということか。

 

*...領民の生活や統治領内の芸術家、文化に貢献する者の立場信条をおろそかにし、弟同様ローマ教皇と癒着関係に入れば、命が危なかろう、という示唆警告?

しかしわたしの何となくの印象では、ウルビーノ公自身は問題意識の欠如していた弟とは違い、また別々に生活していたとあれば、もとより画家らと同じ立場の側(同じ宗教信条の信者とまではわからないが)である、人間の尊厳を軽んじない人物、と映らなくもないが。それでも文化経済の拠点コンスタンティノープルが陥落したぶん、さまざまな良心の自由と考えを持つ領民の生活と文化的保障を柔軟に行い、安易にローマ教皇に擦り寄り散財することなきよう、というのがこの絵の寓意(送り手への直接的意味としては)とでもいうべきものなのか。

 

1453がコンスタンティノープル陥落、なのだから、この絵の製作年からしても[★付記 180529...私の手持ちの、古い美術通史本では1453-54頃?となっていたのだが、先ほどあるサイトをのぞいたら、1455-60年に制作、とある。これで確定であるとすれば、コンスタンチノープルが陥落したのち、今後の自分と仲間たちの対策と教訓を得るため、またその訓告を暗示するため描かれたのである]これを話し合っている、ということは絶対に考えるべき。。

 

 

ヨハンネス8世(ビザンツ帝国最後の王)

 

ウルビーノ公は、おなじ仲間だったのかまでは微妙か。。落ちやすい良心的な説得対象だったのかも知れないが、もしかすると彼も同じ教徒だったかもしれない。腹違いの殺された弟とはちがって。(成り上がり指向?)

 

blogの書き手さんが参考資料にした書物の著者ギンスブルグによれば、画面右側、主題三人の内の真ん中の人物——説教されていても上の空——は、ウルビーノ公の腹違いの、殺された前ウルビーノ公の息子とのこと

 

 

ところで blogの書き手さんも言われるように
鞭打たれるキリストのうしろの柱上にある、古代異教風の像、というのは、ミトラ(ス)教、ゾロアスタ→マニ教あたりかなあ。しかし「形姿は」ギリシャ彫像風なので——それだからこそヘレニズムなのであろうが——、アポロン像あたりか。

(古代ギリシャも P della フランチェスカ当時のキリスト教会・ローマ教皇にすれば異教な訳だ)よく右手を上げている。ヘルメス!像もだ(すべてのヘルメス像がではないが、左手を上げているのがある)。

 

あるいは、アウグストゥス(カピトリーニ美術館所蔵)にもクリソツ。

http://blog.livedoor.jp/tullysworldsouvenir/tag/トラヤヌス?p=3 さんによる画像

世界史の旅 探訪記と歴史グッズ


 

アウグストゥス、帝政ローマ。古代ローマ初皇帝


 ↑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アウグストゥス

アウグストゥス - Wikipedia

宗教と統治の理念、などについてもよく考える宗派であれば、アウグストゥスを図像学上描き入れるのもありなのかもしれない。

だから画家と、かれらの仲間の信ずる教義も、結局このながれなのだろう。。たしかにその影響の広汎さ、東・西欧両義的意匠の獲得においてミトラ(ス)教はありうる。
鞭打ちの玉座にすわるのがビザンツ皇帝ヨハネス8世という推論は東方(緩やかな他民族他教徒支配の態度)に肯定的なら、ただしいとおもう。

 

もしかしてフランチェスカ、ミロス島のポセイドンを真似たのかも。鞭打ち(鞭打つ側)の像として。

 

 https://plaza.rakuten.co.jp/rakutin1944/2009/  さんによる画像

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)


 

つまり、鞭打ってる人間の方がポセイドンの後ろ姿で、それを見下ろす、古代異教風の像とは、アポロンはたまたヘルメス!? か、はたまたアウグストゥス。。。


何れにしてもいかにもミロス島風(エーゲorミノア文明的な柱、壁模様など)の熟達のほうは、弟子?バルドヴィネッティらが受け継いでいる!

 

古代ギリシャは、エーゲ文明より後。。凹 じゃあ、それより前は。。。メソポタミアか、古代エジプト?

と、やっぱり異教風とは、(原始)ミトラ教、ゾロアスター教あたりになるのか...

つまりこの、鞭打たれつつも光輝しているキリストの上にある像は、東西越境的な原始性と同時にこれまた普遍的理知性を帯びるものの象徴という訳であろうか。

 

 

 

この記事を書くとき、まずひょっとして(世界史は得意でないものの... フランチェスカって)アルビジョア派-カタリ派かしら、と目ぼしを(正しいかは別として)つけた事を書いておくと良い気がする。

が何故だっけ。...

画家がフランチェスカという名であることと、ジョットの系譜からフランシスコ派であればスコラ哲学等理知的な古典性と禁欲的匂いと彼の弟子(バルドヴィネッティ)からも来る東洋性かな。すると異端かもと。

 

 

ついでのことだが Arnolfini heresy(異端)でも調べたら
 

そのアルノルフィーニが、フランチェスコの絵の中(復活したキリストの下で顔を覆っている!——ああ。あれか♪)にいる?という別の論文があった。。。

キリストの復活 ピエロ・デッラ・フランチェスカ

 

https://www.musey.net/7394 から

 

 

▶アルノルフィーニ(夫妻像 byヤン・ファン・エイク)

絵の中に様々な図像学と不思議な工夫がほどこされ、ことに握手が普通のそれと違うことから、異端でないかと話題になっていた...

 

まあそれはこの際良いとして...

 

Wikiでのカタリ派 記述によると

https://ja.wikipedia.org/wiki/カタリ派

 

ドイツに現れた というもの...カタリ派という名前は「清浄なもの」を意味するギリシア語の「カタロス」に由来している。名称が初めて記録にあらわれるのは、1181年にケルンで記されたシェーナウのエックベルトの「このころドイツにカタロスがあらわれた」

とのこと。

 

 

ダーミアノ教会??

https://www.travel.co.jp/guide/article/23665/

聖地巡礼・伊「ヴェルナ修道院」聖フランチェスコが聖痕を受けたトスカーナ…

TRAVEL.CO.JP

 

あの、鞭打ちのうしろの像は? クノッスス宮殿の時代?

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クノッソス

クノッソス - Wikipedia


 

弟子の描いた絵画的な素材がある↑


ギリシャでありつつオリエンタル。

 

ミトラ教 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミトラ教

WIKIPEDIA


 

 

 

 https://m.youtube.com/watch?v=1SMmH4YlUlk

La flagellazione di Piero della Francesca - tratto da Il libro di arte e immagine

 

 

 

 

長いビザンツ帝国の終焉と、ヨーロッパルネサンス、遠近法の確立とのリンク。。。ある種の必然性?

 

人間としての目覚め。主体性、他者性尊重=距離と関係性の問題。遠近法。

 

マニ教(非殺傷、グノーシス、仏教に近い?) → カタリ派 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カタリ派

 

カタリ派 - Wikipedia

 

 

 

 

 ↓ 托鉢修道会(フランチェスコ派もある)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/托鉢修道会

托鉢修道会 - Wikipedia

 

 

https://www.kaho.biz/safavi.html

KAHO.BIZ サファヴィー朝

 

 

この記事のつづき▶ http://reicahier.jugem.jp/?eid=80

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 18:28 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

八ケ岳 2

四月了

 

庭のモクレンが初めてひとつの蕾を開かす。今、森は春をようやく展げはじめている。すこしずつ、すこしずつ...。
カラマツの芽吹きの点描画——あれは小人の捧げものにみえる。淡緑色(ライトグリーン)のとんがり菓子。復活祭のための、恰好のメサージュなのだ。天使らの降天への合図。ひそかな、呼びかけの世界。

 

山桜の枝々は、あちこちの丘にうっすらと気のせいのような紅みを帯びた花を咲かせ始めている。

だがある種のものは遠目にはほとんど紅とは気づかれない。そればかりか花の重なるほどにまるでコブシのそれへと近づくように、雪を通り越し、次第に殆ど乳白色をすら帯びていく。

 

それらは悪戯な雲の、空を覆い過ぎる瞬間には、天からばらまかれた粉乳よろしく輝くのだ。
そうして辺りがふたたび光に充たされる頃には、群がり停まる無数のもんしろ蝶のたたずまいをみせながら、遠い昔のままの画のように、あどけなく憩っている...。

 

 

遠景——コブシ。
かれらは、枝付燭台の蝋燭が仄暗い闇の中を順繰りに灯されるごとく、灰色の森の処どころにくっきりと白い火を灯している。
あるものはまだ、森が織りなすようやく萌えはじめたばかりの山間(あい)の、ちょうど陽の当たる斜面づたいに、おもむろに縁取られていく片側の枝々に、行儀のよい孤を描く灯を点しつつも、まるでそうした樹木のぜんたい、無疵なひとつの白い炎を形象っていくのも、また計らいとでもいいたげに、気高く...陶然と憩っている。

 

デザイン画めいた形状と、何処となく人工的な光を帯びた色彩。——蝋で造った電飾洋燈(ランプ)。

 

炎状にととのった形姿。——あれらは蝋燭の 'うえに’ 灯った火というよりは、むしろ無数のそれを宿す燭台それ自身、ひとつの白い炎であるかとみまがうばかりに、真率に点っている。

その枝ぶりは、天上へと燃えさかるようにというのでもなく、またある形のままたちまち凍り付いたというふうでもなしに、なにかまえもってその形象へと定められていたものの、ひとりでなる成就といった佇まいなのだ。

 

彼らの几帳面さ。——

おとといなどは、八ヶ岳が、その広大なすその一帯を真っ暗な雷雲に覆われて、あやしい風のなか、いつもの真昼の山麓にふさわしい光沢をすっかり喪失したまま、ただ処どころに不屈の、天地さかさまにしたあのディオニソスの髭の、容赦なくグロテスクな線をさらす白樺並木らの交互に織りなす、一種異様な光沢をばかりを際だたせていたが、そんな不可解な暗示に満ちた風景のなかにあってなお、例のコブシの一群だけが、点在する外灯さながらに、ほんのりと親切な光を旅人に向かい放ちながらこれを導くように立っているのが、めずらしく不穏なこの辺り一帯を、ひとつのほのぼのとした素描のなかに、かろうじておさめているようにみえた。

 

 

 

五月のはじまり

カラマツのとんがり帽子は、いつしか霜の結晶よろしき氷砂糖の小部屋に。と、そこから徐々に蜘蛛の糸をまねるモヘアのモオルをつむいでは垂らしはじめた。
エメラルド色のこの梯子が降りはじめると、小人たちはじきにミズキの玉座に光の精らをうつしかえ、カリフラワーさながら形戯けた冠を、いそいそとかかげる準備に入るのだ...。やがて彼らに向かって五月の風が手招きをする。女のひとの指にも似た、あの垂れこめるカーテン越しに。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:28 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

八ケ岳

八ヶ岳


この頃は隣の林のすぐ近くでクロツグミの声がすばらしい…。早朝は、アカハラの囀りが。
思えば引っ越して早々から、夏を迎える手前になると小鳥たちはいつも、私たちが朝食をとるまでの間にも、入れ替わり立ち替わりやって来ては、無邪気に鳴き交わしていた。家のすぐ傍を、イカル・アカハラと…。

それから梅雨明けに相応しい午前のすがすがしい風にのって、森の方からもの真似好きなクロツグミの器用な鳴き声が、しきりにやってきていたっけ。

 

 

 

晩春の散歩――

みどり湖。湖畔の桜のこと
あんなにもはなやいでいた遠い記憶の花びらを散り落とし、今はもうすっかり重たげになった枝をはりめぐらしている。首をうなだれるように。

 

少し前までは若葉が競って生い茂り、所々に虫食いの地図のような斑点を織りなしていた。

そうしていまはすっかり生い茂った自分自身の葉陰の、ひっそりとした翳りを編む日傘におおわれて、ハンモックを思わす斑模様の影絵を時折煙のようにたゆたわせながら、もうほのぐらいほどのトンネルを、互い違いにつくっては佇んでいる。
と、いつのまに少し青苔のむした着物の縞が、次第にその文様を顕わにし始めた。器用にたわむ、あのしなやかな形姿を生き返らせたという具合に。

 

カラマツたちも今はすっかりカーテンかタペストリのようだ…だがあれらも、五月のほんの始めの頃には、まだ<ふしくれ>だった。カラマツの枝の<ふしくれ>…。ナッツステッチのようにぽつぽつと。宙で織りなすまばらの刺繍。


そういえばあの頃、樅の木のほうでは、尖端々々(さきざき)に、赤茶けたおしゃぶりをぶらさげはじめていた。うとうとしているうち、手招きする女性の嫋やかな指のように風にゆられてはしなうカラマツの、いつの間に大人びた挨拶を、まるでかくまう垂れ幕のように、鋭い光りを帯びるつもりなのだったろう、と――(が、かとおもえばそうするにはまだ少し赤ん坊なのだ、とはがゆくも)――思わせていた。

 

 

不思議なのは春先のあの時期、冬枯れで見慣れたはずの幹という幹が、気のせいとは思えぬ程に白んでみえることだった。まるで内がわから――オーラといったものを醸し出す…。そう、或種の人々が姿態から坦々と放射する、あの内面的な光に似た――あかるさを発散しているようにもみえる。
内部で何かが起きていた。

 

その徴にか――或いはたんにおのずと好対照をなすがために互いを際立たせようとしているのかもしれないが――枝の方はむしろ赤味をすら、帯びているのだった。秋にもまた一度そうなるように(尤もその時期のそれは、もっと湿り気を帯びていないが…)えもいわれぬ独得の赤味がさしていた。

 

そうして遠くの山全体もそれと同じ赤味をにじませ、霞がかっているのだった…。(それも秋とよく似てはいる。)があの赤味、五月のは、やはりもうじき何かがはじまるための、それなのだ…(!)――あれは風景を消沈させない。

 

白んだ木立の群れがその背景にディオニソスの白髯のような無数の掻き傷を入れる…。
ガラス版画のそれ。或いはカンヴァスの布目。

| Rei八ヶ岳高原2 | 16:10 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

FSchubert D944(Beethoven symNR9 / symNR3 Eroica etc...)

FBノートから。2012年3月6日 15:52

 

 

主体に脱自を遂げさせ解放させて行くところの動力が、ほかならぬ脱自を強いる情況をまさしく生み出している処の動力である、ということを物語る芸術作品。


言い換えると、表の側面としては、近代化を離れ労苦を伴う自然回帰の物語性を帯びると同時に芸術家の主体を救う開放感と快癒にみちる、という一連の背景にある時代性とその動態として暗(裏)に表出する切迫感や畏怖を、同時に能弁に物語る作品を、同一主体がまさしく生み出しうること、であるとも言える。

 

もちろん表現のスタイルによって、表の側面が強調され、裏はあまり物語られない場合もあるし、背景を強調することに重きが置かれる場合もあると思われる。そのため鑑賞者の針の置き方によって印象が多分に異なりやすくもある。


しばしば個を超えて芸術作品を貫通する運動体。ある芸術家と他の同じ文明下を生きた芸術家、他者同士の身体・精神リズムにも通じるもの。そのもといは両者の抵抗した生を取り巻きはじめ、また苦しめていたところの当のピストン運動である。


芸術家a、b自身のシチュエーション&ロケーションとしてはある側面からは脱文明社会なはずであるのに、その彼をして解放していく動力、ほぼ陽化した執拗なる反復運動の動機そのものが同文明のピストン運動であ(りつつあ)るという自己矛盾と、解放=死を、或種切迫感すら帯びた律動に感じ取れるのである。

 

それ以降、芸術家を支える動機は、死の影を含め、また高貴なる欲動とその成就、昇華という一連を支えるピストン運動それ自身が、上下運動から回転運動への転化のきざしを、より迅速さを増す形で含んでいく。

この律動それ自身に揺り動かされつつ同時にここから脱自されるものとしての。つまり純化されたタナトスの相面の、トポロジックな転換があり、聖化された魔の彷徨(辻音楽師の語りと閉じ——歌)から、生身の他者への献呈へと通じる。

 

 

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FB,FBノート 具体例を提示しつつ述べるver

2012年3月6日 15:52

 

シューベルトのグレイト(シンフォニー第8or番9とも言われるD944)は、主体に脱自を遂げさせ解放させて行くところの動力が、ほかならぬ脱自を強いている処の情況を生み出している処の動力である、ということを物語る、不思議な大曲である。

言い換えると、表の側面としては、作曲家が、都会化・近代化していく場所(ウィーン)を離れ、広大で峻厳なる山岳風景の懐に抱かれ、また登山し、苦労のすえに解放――歓喜と療養の安息――を得るという物語性を帯びていると同時に、こうして作曲家の主体を救う開放感の背景にある時代性とその動態として暗に表出する切迫感や畏怖を、同時に能弁に物語る大曲である、とも言えよう。もちろん、指揮や演奏スタイルによって、表の側面が強調され、裏はあまり物語られない場合もあるし、背景を強調することに重きが置かれる場合もあると思われる。そのため、指揮者の棒の振り方によって印象が多分に異なりやすい音楽のひとつとも、言えるのではないか。

 

このことを換言することにもなるが、グレイトについてこういう言い方も出来るかも知れない。つまり、グレイトとは、シューベルトとしては最大限にベートーヴェン的なモチーフ、もっと直接的に言えばベートーヴェンの第九のモチーフとその基となるよく似た動態から出来上がっている音楽だと言える。典型的には4楽章などの一部にベートーヴェン第九に生き写しのフレーズが出てくる、と言えるばかりでなく、そもそもベートーヴェンの第九のモチーフから、その全体が出来上がっている音楽だと言える言い方も出来よう。

曲の印象としても、シューベルトが、シューベルトらしさをシンフォニーという形にようやく結実せしめた最初で最後の作品であるとともに、最大限にベートーヴェン的バックグラウンドをも有するという独得の両義性を帯びた大曲であると思う。

 

上述したことをもう少し詳細に述べると、たとえばこの大作においてもっともベートーヴェン第九を彷彿させる箇所は、

第九-4… ド#ド#レミミレド#シララシド#ド#ーシシ ド#ド#レミミレド#シララシド#シーララ

 

グレイト-4… ミーレド#ド#レド#シラー(シド#ド#ーシ)

であると思うが、

グレイトには以下のような旋律が頻繁に出現する

ラーミレド#シラ/ミーレド#(ド#レド#)シラ/ラー(ファ#)ミ(ド#レ)ド#シ(←コーダ)など

 

※いわばグレイト4全体が第九-4でできているといってよい。

 

このことは、ベートーヴェン-シューベルト-シューマン-ブラームス-ブルックナーへと繫がるある線を想わせる。このことは別記事で述べることにし、今回は以下の点に絞って簡潔にまとめたい。

 

グレイトを貫通する運動体、わけても1楽章ととくに4楽章に顕著な動態について。これはまた、ベートーヴェンの第九-4楽章歓喜モティフのリズムにも通じた、もといは近代的な(ベートーヴェン、シューベルトの生を取り巻きはじめ、また苦しめていたところの)ピストン運動である。

 

シューベルト自身のシチュエーション&ロケーションとしては脱-都会のはずなのに、彼を解放していく動力、ほぼ陽化した反復揺振運動そのものが産業化社会のピストン運動であ(りつつあ)るという自己矛盾と、解放=死を、或種切迫感すら帯びた指揮に感じ取れるのである。

 

他方、グレイトというのはこうもいえる。グレイトの影響を受けてはじめてオーケストラの着想を得、また実際着手できたシューマン。彼の視点から言い換えると、シューマンはグレイトを以てはじめてシンフォニーを着想できるとともに(私が思うところほぼかれ自身の中の歌曲の発現と同時的であり、音楽史的な事実からは歌曲の方が先に書かれたが、その基となる発想は同じ処から由来しているといえるところがある)歌曲をも着想し得た。

シューマンの春と献呈についていうと、春op38はグレイトとアヴェマリアと死と乙女、という素因の綜合から成る所が大きい。他方献呈はアヴェマリアにのせた死と乙女の高貴なる欲動とその成就であり、アヴェマリア(昇華/至純)化された死の影の強迫的な<揺動する緩い反復運動>ともいえる。このことを以てしても、

グレイトという後世への予言にみちたこの大曲自身も、アヴェマリアとゆったりした死と乙女(のほぼ陽化された反復揺振運動)から出来ている相面が多分にあると思われる。もちろん同時に脱都会的運動も、ここにはあるが、つまり一見矛盾するようではあるが、脱近代/脱産業革命という相面(近代/産業革命としてのピストン運動――それは上下運動から回転運動への転化のきざしを含む――のリズムそれ自身に揺り動かされつつ同時にここから脱自されるものとしての)という重要な要素が、これとともにあるのだが、その述解はまたの機会に置いておくとして、ザ・グレイトがアヴェマリア的揺誘+緩い 死と乙女 の(ほぼ陽化された)反復揺振とから生じる極めて純化されたタナトスの相面を持つように、RSchの春と献呈も、この点で同じである、と言ってみる。春op38はグレイトとアヴェマリアと死と乙女、という素因の綜合から成る所が大きい。献呈はアヴェマリアにのせた死と乙女の高貴なる欲動とその成就であり、アヴェマリア(昇華/至純)化された死の影の反復運動ともいえる。

ex) クーベリック グレイト

http://ml.naxos.jp/work/425806

 

ピストン運動、蒸気機関車(典型)

H.C.ロンビュー: コペンハーゲン蒸気機関車のギャロップ。ドヴォルザークのエピソード。

 

 

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産業革命規定…18-19c

紡績機から。主なこと1733 1764 1769蒸気機関車イギリス 1830年〜(実用化 産業革命)http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume027.html  

 

おもしろいのは、蒸気機関車の実用化はいち早いイギリスでさえ1830年(蒸気機関車の発明は産業革命(第1次)の最後期なのである)だけれども、蒸気機関車以外の産業革命のリズムは、その時代に生きていた人間たちの体の中にもすでに通っていたわけで、(ヤンチャッチャッチャ、タタタータ・タタタータ、金管のパパパパパパ…など)  蒸気機関車に乗ることの無かったシューベルトの体にも、紡績機や紡績工場の環境音や製鉄、他の機械装置のリズムなどは通っていたし、機関車以外の他の蒸気機関のリズムには接していたと、大いに考え得ることだ。 

 

<※cf) ベートーヴェンも時代が重なるが、ベートーヴェンのリズムにはヤンチャッチャッチャの他に、ンチャーチャーチャーチャー、ンパーパーパーパーとか、ヤンン・パ・パッパッなど無意識が吸収した律動を意志から意識へと移行(審級)する、溜めのある動力、反省介在的動力が感じられやすいのに対し、シューベルトのほうが外界から無意識に得ている動態がそのままリズムとなって表出している面が多いと思われる>

 

蒸気船は微妙か?

 

フルトン、蒸気船の実験に成功1807/ミシシッピ川で蒸気船による初の川下り1811 /蒸気船が初の大西洋横断1819 /ネッカー川の水運が再び隆盛を見せるのは1878年のKettenschlepperei (「鎖による牽引の時代」)の始まりによってである。マンハイムとハイルブロンの間115kmを蒸気船が小舟を牽引してさかのぼることで、馬に引かせて5日から8日かかっていた行程を2、3日に短縮することができたのである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%B7%9D) 

 

ターナー(絵画) 

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume027.html

「1844年、イギリスの画家ターナーは、「雨、蒸気、速度」という題名の絵を描きました。その絵は、実用化されて間もない蒸気機関車を幻想的に描いたものでした。19世紀に発明された鉄道は、人びとに大きな変化をもたらすこととなりました。 スティーヴンソンによって実用化された蒸気機関車は、1830年、イギリスの綿工業都市マンチェスターと港湾都市リヴァプールの間を結びました。鉄道は、大量の貨物と旅客を高速で運ぶことができたため、イギリス国内には急速に鉄道網が整備されていきました。蒸気機関を利用する船も、19世紀の初めに、アメリカ人フルトンが実用化しました。そして、19世紀の半ばには蒸気船が普及しました。」   

 

ピストン運動蒸気機関  グレイト…蒸気圧の往復運動。CF)往復運動→回転運動への転換(1769、ワット)点?  ピストン運動 https://goo.gl/rCWQXi

「シューベルト、文化史」

https://goo.gl/UQQK7R

「ベートーヴェンが生きた時代」

http://www.beethovenmaster.com/beethovenmaster/15sekai/sekai.html

「ベートーベンの生まれた1770年前後は、世界が大きく変わる予感にあふれた時期であったといえます。1769年にジェームス・ワットが実用的な蒸気機関を開発し、産業革命の気運が高まりつつありました。その一方で、資本家と労働者の格差は広がりつつありました。」  

ベートーヴェンがオーケストラを拡大していったことと、産業革命が勃発-発展していったこととは無関係ではない。空間性から、リズムから。それに対する(格差社会の発生)反骨精神(解決的悟性、動機-展開-解決のスタイル)とも合わせて。  

 

「オーケストラの歴史」

http://tuhan-shop.net/classic/kikou/ki-kisotishiki-rekishi.html

「弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽(オーケストラ)は、バロック時代にオペラの伴奏として、弦楽合奏の補強のためにオーボエやファゴットなどの木管楽器が加えられたのが始まりです。これはモンテヴェルディのオペラに初期の形態を見ることができます。  このころのオーケストラは、弦楽器を中心にフルート、オーボエ、トランペット、トロンボーンが加えられたものでした。その後バッハやヘンデルたちによってオラトリオやカンタータの伴奏としてもオペラ風の管弦楽が取り入れられて発展し、それが管弦楽独自のための音楽として合奏協奏曲や管弦楽組曲が生まれてきました。その後、金管楽器やティンパニなど加わって大規模になりました。  古典派時代には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽器を増やして大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって現在のような形となりました。 」

 

 

モンテヴェルディ 1567-1643 彼のオペラにオーケストラの原型

バッハ 1685-1750            管弦楽としての発展

ヘンデル 1685-1759                同上

ベートーヴェン 1770-1827         現在のオーケストラの基礎    / 産業革命 

 

楽器に見出すとホルン 角笛からホルンへ ナチュラルホルン(ブラームスはあえて好む)

 

バルブの出現1814

バルブ ピストン式とロータリー式 上下運動から回転へ  

チューバ「18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命により金属の加工技術が飛躍的に進歩すると、ホルンやトランペットなどで音高を変える仕組みとしてバルブが採り入れられ始めるが、こうした動きはやがて低音金管楽器にも波及した。 」

 

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クーベリックやフルトヴェングラーのグレイト!!

これらこそは、産業革命からナチス「the gate of "Arbeit macht frei"」への暗示性の極みである...。(Beethoven nr9 sym、nr3 sym Eroica deadmarch も同様)

 

クーベリックやフルトヴェングラーとある意味対極にある側(長年私自身のグレイトの印象もこうだった)

切迫感や畏怖(つまりこの開放感の背景にあるものとその動態)をあまり強調しない演奏

に共通する印象は、

都会(化していく場所)を離れ、大自然(山岳風景)の懐に抱かれ、登山し、苦労のすえに解放(歓喜と療養の安息)を得る感じ

 

ベーム/ウィーンフィル(手持ち)

ギュンター・ヴァンド/ミュンヘンフィル などもそちらの方向

(金管などをスタカート風に切らないで最大限にテヌートでのばす)

http://ml.naxos.jp/album/ph06014t.co/6IfWwwdO 

Gunter Wand / Munich Philharmonic Orchestra

 

ミヒャエル・ハラース 指揮/ファイローニ室内管弦楽団

http://ml.naxos.jp/album/8.553096

 

ノット/バンベルク響

http://ml.naxos.jp/album/TUDOR7144

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RSch 春 Sym op38――グレイトとアヴェマリアと死と乙女、献呈(ミルテ)op25-1 とのからみ。

 

FB 作成: 日時: 2012年1月8日 11:24

 

RSch 春 Sym op38――グレイトとアヴェマリアと死と乙女、献呈(ミルテ)op25-1 とのからみ

 

 cf)【シューマンの歌曲1840年と交響曲第一番1841年のからみ】

ロベルトの若いときの発狂体験 1833年(23歳)

クララとの結婚 

1840年リーダークライス op24(ハイネ)

1840年ミルテの花 op25 

1840年リーダークライス op39(シャミッソー)

1840年女の愛と生涯 op 1840年ロマンスとバラード op45/49/53/64

1840年詩人の恋 op48

1840年などなど 

 

つまりシャミッソーのリーダークライスよりひとつ前が、sym春op38(1841年) ザ・グレイトの発見(フランツ・シューベルトの兄への訪問)。これは1839年 FSchにおけるザ・グレイト自身もアヴェマリアとゆったりした死と乙女(のほぼ陽化された反復揺振運動)から出来ている相面が多分にあると思われる。

もちろん同時に脱都会的運動も、あそこにはあるが、つまり一見矛盾するようではあるが、脱近代/脱産業革命という相面(近代/産業革命としてのピストン運動――それは上下運動から回転運動への転化のきざしを含む――のリズムそれ自身に揺り動かされつつ同時にここから脱自されるものとしての)という重要な要素が、これとともにあるのだが、その述解はまたの機会に置いておくとして、ザ・グレイトが アヴェマリア的揺誘 + 緩い 死と乙女 の(ほぼ陽化された)反復揺振運動 から生じる極めて純化されたタナトスの相面を持つように、

RSchの春と献呈も、この点で同じである、と言ってみる。

春op38はグレイトとアヴェマリアと死と乙女、という素因の綜合から成る所が大きい。

献呈はアヴェマリアにのせた死と乙女の高貴なる欲動とその成就であり、アヴェマリア(昇華/至純)化された死の影の反復する揺振運動(産業革命という胎内、子宮の胎動!?)ともいえる。

 

ベートーヴェンNR9 グレイト シューマン ブラームス ブルックナー

第九-mov4… ド#ド#レミミレド#シララシド#ド#ーシシ グレイト-4… ミーレド#ド#レド#シラー(シド#ド#ーシ)ラーミレド#シラ/ミーレド#(ド#レド#)シラ/ラー(ファ#)ミ(ド#レ)ド#シ(←コーダ)など

 

※グレイトmov4全体が第九-mov4でできているといってよい (ところでグレイトとくにmov4、また第九-mov4歓喜のリズムのもといは近代的な——ベートーヴェン、シューベルトの生を取り巻きはじめ、また苦しめていたところの——ピストン運動である)  シューマン、ブラームス… ラーミー(レ)ド#ーシラー

 

------------------------------------

NHKらじるFM

ここで思ったこと。プログラム。

RSchのラインとBrahmsの3番(ドソミレド)をぶつけてきていること。通底する演奏の息づかい=ゆったりした波(息絶える前の呼吸)から、もっと時間が長ければFSchのグレイト(4楽章ラ・ミーレドシラ)を冒頭にもってきてたんじゃないか?

天使の主題は、ドソミレドと関係があるのじゃないか

Vn協で、天使の主題ミレドファミレラ(2楽章)がドソミレド(3楽章)に(ソシドレシラとともに)かわっていく

※ミレドファミレはグレイトのドレミラシドと対位(転回)関係にある

 

 

Brahmsは、RSchのVn協を出版差し止めたが、自分はよく聞いて研究したのではないか…Sym3

 

 

シューマン自身のラシドソファソファミ(ベトop98 ラーシドドソソファーミから)の変容としてのグレイト(ドレミラシド)

ドーソーミーレドのこと。 ここ、とは春の2楽章グレイトに内々に通じているものだが、典型的にはグレイトの第2楽章に出てくる

 

 

 

 

シューマン、ブラームス、ブルックナー… ラーミー(レ)ドーシラー

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:26 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Wiener Kaiser Walzer & RSchumann op54

Wiener Sangerknaben - Kaiser Walzer (1884)

0:16-24(冒頭 Introduction part)

 

 

 

RSchumann Piano Concerto Op54 (completed in the year 1845)

↓20:45-50 (>20:21-55)

 

 

op54——この曲の きわめて印象深い ”2-3楽章 移行部” で 自問とも訴求ともつかぬもののように

繰り返される 問いと待ち設けの木魂...。

 

これが超有名な皇帝円舞曲に登場していたとは。

 

あれまさかと思ったが、やはり二世の作なので、作曲されたのは1884年であり

シューマンの方が先である...笑)

 

くぅーー。今頃気づいたゼ凹

 

 

※このことも他記事——op68をめぐるもの——に書いたが(※link-1 http://reicahier.jugem.jp/?eid=42 / ※link-2 http://reicahier.jugem.jp/?eid=43 )、このop54動画で指定した

暗示的シーンの「余韻」は、op68「子供のためのアルバム」にも頻繁に登場する。

ことに NON TITLE s 題名のない曲のモティーフにおいて!ひじょうに顕著に。

 

ウィーンに入っていくもの、ウィーンから出ていくもの... いろいろあれど、 数年前ミュージックバード(スペースディーバ)で解説の男性が ウィーン文化とシューマン(ドイツ ライン川)とは関係がない、と言っていたのは???

 

ウイーン文化としてはそうだとしても、それを創り出す作曲家においては話は別ということであろう。

 

先記事にてニューイヤーコンサート関連記事(※link http://reicahier.jugem.jp/?eid=58)にも書いたが

マリス・ヤンソンスが数年前(2012)指揮したNYCでは シューベルトはおろかシューマンさえもが

ワルツ王シュトラウス一家の研究の的となっていたはずである!!

(ヨハン2世ばかりではなく、聞いたところひじょうに勉強熱心そうな兄弟ぜんたいの!)、

ということを、選曲と指揮ぶりからつよく示唆されたように感じた。

 

それは確かだと今でも私は思う...。

| Rei八ヶ岳高原2 | 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Schumann P Trio & Vn sonata Beethoven&Bach

FB 過去のこの日 およびFBノート から

 

2012年9月30日 16:03

 

R Schumann P Trio Nr1-mov1 ——Rheinische mov4 , Bach & Beethoven

シューマン P trio 1番1楽章
ラインRheinische 4楽章

バッハ平均律1巻(BWV849) 4番 fuga
ベートーヴェン sym3 Erioca Op.55 葬送(mov2)

 

-----------------------------------

 

2012年5月17日 

 

RSchumann vn sonata nr1,2,3 ——Beethoven kreuzer soanta,Spring sonata & Bach bwv1004
シューマンVnソナタ123 ベートーヴェンクロイツェルソナタ・春 バッハVnパルティ−タ2番(BWV1004)
http://ml.naxos.jp/album/CDR90000-095
http://ml.naxos.jp/album/RTECD111
http://ml.naxos.jp/work/99137?af=sft


シューマンのVnソナタを貫通しているのはとくにクロイツェルソナタといえるが、スプリングソナタとバッハパルティータ2番(BWV1004 Sarabande 以下=Sarabande,Gigue,chaconne)が入り込んでいる。
シューマンVnソナタにおけるレプレザンタシオンでもっともわかりやすいのは、3番1楽章冒頭で、ここにおいてはクロイツェルソナタの冒頭とBVW1004-サラバンドの開始が――とはいえ3番全体に、パルティータ2番サラバンド以降が通っていると言える――シューマンの<内奥で>(※表層的にではないところがつねに重要。つまりシューマンの内面と内的必然性を通ってきているということ)合成/再-受肉されている。がその他、
2番の2楽章の開始
タータタタタ、タータタタタ は
スプリングソナタ3楽章の明るい(タタ)ターンタタッ,タッタッッッ,タッタッッッ,タッタッッッ を短調にしたものなどが、リズムや長短調の変化はあるが、入り込んでいる。その他はクロイツェルソナタが支配的に通っている。

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 07:39 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

去年の今日の記 アンダンテファヴォリと 遥かなる恋人に寄す Beethoven

FB 「過去の今日」より。(52週間前)

2017年3月29日 22:33 ·

 

 

アンダンテファヴォリ(1803-4)と 遥かなる恋人に寄す

 

Beethoven - Andante Favori in F, WoO 57 Ludwig van Beethoven (1770-1827) Andante Favori in F, WoO 57 Alfred Brendel, piano 

 

テレーゼの旋律は?

エロイカ冒頭と同じだ。

sym4冒頭とも。ファヴォリは。遥かなるも。エリーゼも。第五も六も。じゃ七も八もか。九もだ!

 

 

 

 

Beethoven An die ferne Geliebte Op.98

 

シューマンが好んだ例の旋律(↑遥かなる…ラシドソ)の直後が、アンダンテファヴォリと同一(ドレドシ- シ♭ドシ♭ラ-↑ファミミーレドシ♭ソファ)。

 

だがそれで終わらせるんでは片手落ちで、幻想曲op17冒頭(ララソファーミミーレ〜↑ドラファシドレドシ)やop22pソナタ、op21ノヴェレッテン冒頭(ラソファミレーミレドレミド・ミレ、ファ ♭ミレドシドド♯レ)、op80トリオなどは、アンダンテファヴォリの変形であって、シューマンの中ではやはり結びついていた可能性は大きい。

 

フレーズの順序が逆転しているだけで。

 

ファヴォリは、op31・32にも。

 

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とか、思い出したようにほざいている。。なんか笑えた♪

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Quintet op111,RSchumann Rheinische,op2&Beethoven op132

ブラームス クインテット op111

op111 mov2

41:55-

 

 

これは シューマン ライン(Rheinische op97)の開始、とくに

 

↑0:08-15 フレーズからのインスピレーションである。と、散歩してるとき感じた。


——しかもシューマンが意識してかせずにか移調もせぬまま踏襲していたのかもしれないBach平均律2巻の es dur 7番 Fuga(BWV876。このことは以前の記事に記述)のmotive造形をブラームスもそのまま尊重し継承する形で。——

 

でもこうして聞くとブラームス、Rheinische(ライン)の想起はそのまえの楽章、つまりそもそもmov1冒頭からだ...。
SQuintet op111冒頭とは、シューマン-ジャンパウル、であるところの若々しきシューマン「蝶々 Papillon op2」を、晩年の馥郁たる情感に溢れるブラームスが回想することに始まる曲※だ…。(これも前記事に既述)

 

※...20180417 補記)というよりはそもそも Rheinische 's motivが、同作曲家自身のop2 Papillon に、由来しているのである!、といってよい。

シューマン自身が若き自己を回想しこれに動機づけられている。そのことにブラームスも当然ながら気づいた、もしくは(音楽上においても)合致した、ということなのだろう...。

 

 

いったいシューマンが、若い頃旅し、じつに素敵なところだった...しかし溺れる夢を見たといい、その予感通り自分と知り合った翌年に身を投げたライン川…を!このように万感溢れる浄らかな心境でこころに響かせるまでに、どれほどの辛苦を味わってきたのかブラームス。

 

おまけに、今偶然この演奏で気づいたことには、↑45:24- 46:06 (Brahms SQuintet op111)にて、

 

 

 

Beethoven後期SQ op131 ——この音楽はことに生々しく、姉テレーゼ( op78, À Thérèse )がエリーゼ=ジョセフィーネの懐妊を誤って舞い込んだ手紙のように告げ知らせてきた、あのときの鮮烈な印象を、ベートーヴェンが何度となくこころに蘇らせることに殆ど終始しているような曲だ。もちろん核心は最終章、殆ど終結部にあるのだが、その他の箇所も殆ど...、否、この作品のすべてがその核心のメタモルフォーゼンとしての内省で出来あがっているといっても過言でない作品である。むろんその悟達と枯淡の格調はたぐい稀な高位を保っているけれども...——その、冒頭0:00-0:40...。


このことを晩年の同ブラームス作品に於いても思い切り喚起させるように、この楽団は奏でている…。

 

なるほどそういう風に聞いてみれば、たしかにシューマンとベートーヴェンの旋律がごく自然と、ここ晩年のブラームスにおいて融合している!... むしろ諸人の魂が混然としてさえいる。

 

幾重にも伝え重なる芸術家のいちずな思い…。

 

それにしても、シューマンが蝶々を書いたのは、まさかライン川を旅し溺れる夢を見た、と友人に手紙にしたためたその頃、なのだったっけ??? あとでしらべてみる...。

 

 

ああ。そうだ!ほんとうだ。Op111の語り明かす通り。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蝶々_(シューマン)

 

Papillon 19-21歳!の作品。ライン川で溺れる夢を見た、とシューマンが誰かに手紙を書いたのは、21歳だったと思う。

ブラームス!!! 心が透けて見えるようだ...。

 

すごいな。。そんな風にひとの溢れる心情やめくるめく追憶・秘めやかな感情の余韻までもが、全て音楽の中に語られ密々と守護されるなんて! 芸術万歳。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven: String Quintet "Storm" Op.29 また、Camille Saint-Saëns op. 33のこと

今日のFB「過去の今日」から

 


FB 2017年3月26日 16:37 · 


https://m.youtube.com/watch?v=8pgC6CX9oBA

 

最初、シューベルトトーンで始まり、マーラーも興味を持ちそうな聞き分けがつかないシューベルト性(=歌性・詩性)を帯びた時間を経たのち、

13:00-くらいから、シューマンの匂いがしてくる。


シューマンがop41-1,2,3を書く時、またop44,47の楽想でも、この曲にあちこち足跡を残したようにきこえる。

ということは、メンデルスゾーンをも当たるべきなのではないか。。シューマンがメンデルスゾーンを通さないということはあまり考えにくい...。

 

最終楽章?はメンデルスゾーンオクテット。。。

冒頭はブラームス5,6重奏的でありシューベルト的

https://m.youtube.com/watch?v=pY_gbooPwoc

 

Mendelssohn - Octet in Es groot: Vilde Frang, Julian Rachlin,Rick Stotijn e.a.


ベートーヴェン初期のこの曲の影響力、布衍性は大きい composed in 1801
https://m.youtube.com/watch?v=5BWOHlEyHcs
 

 

Brahms - Sextet No. 1 & 2 - Members of Berlin Philharmonic Octet

 

https://m.youtube.com/watch?v=G55MDE2eaFE
 

Schubert - String Quintet D.956 - Budapest / Heifetz 1941

シューベルト最晩年。d944のあと

 

 

※stormもまた、エリーゼ

 

 

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昨日の、FB「過去の今日」から

 

FB 2015年 3月26日

 

 

Camille Saint-Saëns(カミーユ・サン=サーンス)の 受け継いだもの

 

https://m.youtube.com/watch?v=MC8LjoIaS4g&feature=youtu.be

LvB sym3

https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=sru18UyAweA

 

Camille Saint-Saëns - Cellokoncert nr. 1, a-mol, op. 33 - Sol Gabetta - DR Symfoniorkestret

 

 

この中間的媒介としてあるのはなにか。

 

サンサーンスにとり、シューマンはまさしく中心にあるために?とりあえず除外するとして、

メンデルスゾーン。ブラームス。そして フォレ。

 

或る人間にとって当事者性のある人びと――この問題を突きつけた存在と、これを真摯に引き継がせた中心人物――はあえて除外するとして、その周縁を考えていくと、その人(この場合サン=サーンス)の苦悩がかえって浮かび上がるようで面白い

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

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