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去年の今日の記 アンダンテファヴォリと 遥かなる恋人に寄す Beethoven

FB 「過去の今日」より。(52週間前)

2017年3月29日 22:33 ·

 

 

アンダンテファヴォリ(1803-4)と 遥かなる恋人に寄す

 

Beethoven - Andante Favori in F, WoO 57 Ludwig van Beethoven (1770-1827) Andante Favori in F, WoO 57 Alfred Brendel, piano 

 

テレーゼの旋律は?

エロイカ冒頭と同じだ。

sym4冒頭とも。ファヴォリは。遥かなるも。エリーゼも。第五も六も。じゃ七も八もか。九もだ!

 

 

 

 

Beethoven An die ferne Geliebte Op.98

 

シューマンが好んだ例の旋律(↑遥かなる…ラシドソ)の直後が、アンダンテファヴォリと同一(ドレドシ- シ♭ドシ♭ラ-↑ファミミーレドシ♭ソファ)。

 

だがそれで終わらせるんでは片手落ちで、幻想曲op17冒頭(ララソファーミミーレ〜↑ドラファシドレドシ)やop22pソナタ、op21ノヴェレッテン冒頭(ラソファミレーミレドレミド・ミレ、ファ ♭ミレドシドド♯レ)、op80トリオなどは、アンダンテファヴォリの変形であって、シューマンの中ではやはり結びついていた可能性は大きい。

 

フレーズの順序が逆転しているだけで。

 

ファヴォリは、op31・32にも。

 

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とか、思い出したようにほざいている。。なんか笑えた♪

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Quintet op111,RSchumann Rheinische,op2&Beethoven op132

ブラームス クインテット op111

op111 mov2

41:55-

 

 

これは シューマン ライン(Rheinische op97)の開始、とくに

 

↑0:08-15 フレーズからのインスピレーションである。と、散歩してるとき感じた。


——しかもシューマンが意識してかせずにか移調もせぬまま踏襲していたのかもしれないBach平均律2巻の es dur 7番 Fuga(BWV876。このことは以前の記事に記述)のmotive造形をブラームスもそのまま尊重し継承する形で。——

 

でもこうして聞くとブラームス、Rheinische(ライン)の想起はそのまえの楽章、つまりそもそもmov1冒頭からだ...。
SQuintet op111冒頭とは、シューマン-ジャンパウル、であるところの若々しきシューマン「蝶々 Papillon op2」を、晩年の馥郁たる情感に溢れるブラームスが回想することに始まる曲※だ…。(これも前記事に既述)

 

※...20180417 補記)というよりはそもそも Rheinische 's motivが、同作曲家自身のop2 Papillon に、由来しているのである!、といってよい。

シューマン自身が若き自己を回想しこれに動機づけられている。そのことにブラームスも当然ながら気づいた、もしくは(音楽上においても)合致した、ということなのだろう...。

 

 

いったいシューマンが、若い頃旅し、じつに素敵なところだった...しかし溺れる夢を見たといい、その予感通り自分と知り合った翌年に身を投げたライン川…を!このように万感溢れる浄らかな心境でこころに響かせるまでに、どれほどの辛苦を味わってきたのかブラームス。

 

おまけに、今偶然この演奏で気づいたことには、↑45:24- 46:06 (Brahms SQuintet op111)にて、

 

 

 

Beethoven後期SQ op131 ——この音楽はことに生々しく、姉テレーゼ( op78, À Thérèse )がエリーゼ=ジョセフィーネの懐妊を誤って舞い込んだ手紙のように告げ知らせてきた、あのときの鮮烈な印象を、ベートーヴェンが何度となくこころに蘇らせることに殆ど終始しているような曲だ。もちろん核心は最終章、殆ど終結部にあるのだが、その他の箇所も殆ど...、否、この作品のすべてがその核心のメタモルフォーゼンとしての内省で出来あがっているといっても過言でない作品である。むろんその悟達と枯淡の格調はたぐい稀な高位を保っているけれども...——その、冒頭0:00-0:40...。


このことを晩年の同ブラームス作品に於いても思い切り喚起させるように、この楽団は奏でている…。

 

なるほどそういう風に聞いてみれば、たしかにシューマンとベートーヴェンの旋律がごく自然と、ここ晩年のブラームスにおいて融合している!... むしろ諸人の魂が混然としてさえいる。

 

幾重にも伝え重なる芸術家のいちずな思い…。

 

それにしても、シューマンが蝶々を書いたのは、まさかライン川を旅し溺れる夢を見た、と友人に手紙にしたためたその頃、なのだったっけ??? あとでしらべてみる...。

 

 

ああ。そうだ!ほんとうだ。Op111の語り明かす通り。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蝶々_(シューマン)

 

Papillon 19-21歳!の作品。ライン川で溺れる夢を見た、とシューマンが誰かに手紙を書いたのは、21歳だったと思う。

ブラームス!!! 心が透けて見えるようだ...。

 

すごいな。。そんな風にひとの溢れる心情やめくるめく追憶・秘めやかな感情の余韻までもが、全て音楽の中に語られ密々と守護されるなんて! 芸術万歳。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven: String Quintet "Storm" Op.29 また、Camille Saint-Saëns op. 33のこと

今日のFB「過去の今日」から

 


FB 2017年3月26日 16:37 · 


https://m.youtube.com/watch?v=8pgC6CX9oBA

 

最初、シューベルトトーンで始まり、マーラーも興味を持ちそうな聞き分けがつかないシューベルト性(=歌性・詩性)を帯びた時間を経たのち、

13:00-くらいから、シューマンの匂いがしてくる。


シューマンがop41-1,2,3を書く時、またop44,47の楽想でも、この曲にあちこち足跡を残したようにきこえる。

ということは、メンデルスゾーンをも当たるべきなのではないか。。シューマンがメンデルスゾーンを通さないということはあまり考えにくい...。

 

最終楽章?はメンデルスゾーンオクテット。。。

冒頭はブラームス5,6重奏的でありシューベルト的

https://m.youtube.com/watch?v=pY_gbooPwoc

 

Mendelssohn - Octet in Es groot: Vilde Frang, Julian Rachlin,Rick Stotijn e.a.


ベートーヴェン初期のこの曲の影響力、布衍性は大きい composed in 1801
https://m.youtube.com/watch?v=5BWOHlEyHcs
 

 

Brahms - Sextet No. 1 & 2 - Members of Berlin Philharmonic Octet

 

https://m.youtube.com/watch?v=G55MDE2eaFE
 

Schubert - String Quintet D.956 - Budapest / Heifetz 1941

シューベルト最晩年。d944のあと

 

 

※stormもまた、エリーゼ

 

 

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昨日の、FB「過去の今日」から

 

FB 2015年 3月26日

 

 

Camille Saint-Saëns(カミーユ・サン=サーンス)の 受け継いだもの

 

https://m.youtube.com/watch?v=MC8LjoIaS4g&feature=youtu.be

LvB sym3

https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=sru18UyAweA

 

Camille Saint-Saëns - Cellokoncert nr. 1, a-mol, op. 33 - Sol Gabetta - DR Symfoniorkestret

 

 

この中間的媒介としてあるのはなにか。

 

サンサーンスにとり、シューマンはまさしく中心にあるために?とりあえず除外するとして、

メンデルスゾーン。ブラームス。そして フォレ。

 

或る人間にとって当事者性のある人びと――この問題を突きつけた存在と、これを真摯に引き継がせた中心人物――はあえて除外するとして、その周縁を考えていくと、その人(この場合サン=サーンス)の苦悩がかえって浮かび上がるようで面白い

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven 告別(Das Lebewohl)と恋人(eternal Lover)とカッコウ(Cuckoo)

FB 2018 2月26日 17:39 (2014-5位から考えつづけていたこと)

 

 

ド-レ-ドー-シ-♯ラ-シ-♯ラー-ソ (ミレレードシラファミ)


遥かなる op98 1816年 の、ここ(0:34-48)のパロディが、

pianosonataカッコウCOCKOO op79 1809年 3楽章の冒頭

 


である

 

(※ただパロディorなぞらえ?が先に作られるはずがないので、カッコウは同時期の何かのパロディではないのか、それは告別?)

 

とともに

あの 終結点 後期三大PS の1曲目op109


の冒頭 0:47-52 への序章である...。

 

 

告別の3楽章は、似てしまったというより《意識的に》皇帝に似せられてある。

この作品が、誰に宛てた手紙なのか直感できるようにされている。

またぜんたいに、とくに2楽章はカッコウと同じトーンで作られている。

どちらかというと告別が先に作られてさえいそうである。

 

告別の2楽章ソ♯ファラ×2は、同3楽章のミドシファ×2となって現れる。

(しかも皇帝の変容に引っ掛けて。常に表裏で。)

だが同時に告別の2楽章は、カッコウの2楽章と双子の誕生のようでもある。。。

3楽章はどうか…。

軽快でおどけたカッコウの3楽章(ラド[ド↓ソ]-ファラ[ラ↓ミ]-レファ[ファ↓ド]-ソ-ラ)こそは、

op109となって(op98ドレドシ シドシーラ、や、ラーラシドーソ を含みつつ)化けるのであるが。

 

ジョセフィネ生前に宛てた最後のメサージュとなる。

 

告別の3楽章、もしくは1楽章⁉︎の方は?

1楽章の冒頭が、ドレドシ ♭シドシラ ↑ファミミーレド…となるようにも聞こえる。。。

 

カモフラージュ——パロディ、なぞらえ。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

恋人の守護霊としてのベートーヴェンとシューマン


シューマン 精霊の主題による変奏曲、というシフのリサイタル スペースディーバより 20120203
2012年2月3日 22:54 FB


シフのリサイタル
シューマンの「主題と変奏」(精霊の主題による…ミレドファミレとその変型)が、ピアノソナタ第一番、幻想曲(ラ(ラ)ソファミレ ということはグランドソナタ レ(レ)ドシラソ クララ主題)も、子供の情景も、みんな貫いていること
蝶々 にはじまり
ピアノソナタ第一番、子供の情景、幻想曲(初稿-第三楽章)主題と変奏変ホ長調 森の情景、幻想曲(最終稿-第三楽章)というプログラム
同じ主題が、だんだん自己崩壊のほうにシフトしていく感じが出てる…

 

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2018年2月3日 18:20 FB

 

↑と言って居る。

これだけ読むと、ミレドファミレがなぜ、ラソファミレなどの下降とじかに同根なのか、とも一瞬思われるが、

このインスピレーション・イマジネーションの出所は、(なんども繰り返すが)ひとえにベートーヴェンの幽霊(——恋人[のキマイラ]の守護霊。ハ調に直すとミファソ(ソ)シドレ〈※第九でもある〉と、すぐに連動するに至るシドレ(レ)ソファミ=ラシド(ド)ソファミ=「遥かなる恋人テーマ 」(このことはまた、同幽霊ドシラソファミレドシラソ… octv上向無視 の転がり——皇帝にもこうした別ver[皇帝の場合は4でなく3音列ずつ]が典型的に登場する——が音楽的展開・変容上おのずと至る「遥かなる恋人テーマ 」ラシドソファミの上下向である、と言い換えることもできる(これはベートーヴェン&シューマンの多用するラシドファソラレミファ(まるでスカルラッティのよう)...、またラシドドミラの飛躍op80等とも繋がる)---この生々しさがいつも彼らの胸に鳴っていた---これがベートーヴェン本人にもシューマンにも同根であったからである。


もっと言うとシューマン以前にシューベルト(グレイト。ドレミラシド ただシューベルトに関しては恋人と結び付けていたわけではないだろう)ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナー、★エルガー など彼ら以降の音楽家にも。

(★エルガー...私の考えでは彼は旋法風にもしくはベートーヴェン後期SQ風に、[(Geister-Code より)ナカ1音取り外す]。が、じつはこれは[晩年のシューマンがかった?笑]エルガーの創意に始まったことではなく、ベートーヴェン自身が第九mov3・後期SQ以外にも、Bagatelles op126-3で、エルガーnimrodそっくりに既にやっていた。...※下記↓)

 

■Bagatelles op126-3    ※cf)Elger ”Nimrod”

 

 

 


なお下降の愛らしさは、アンダンテファヴォリ(何度も繰り返すがベートーヴェン)に代表的な形。他多数。幻想op77のように「激烈な」下降もあるが...。

 

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蛇足 20180308

ところでこうして op126 bagatelles をきいていると、「告別」が否応なしに再生される——それはほぼ全体にちりばめられているが、特徴的なものは第1曲目にすぐに登場しもする——。もちろん皇帝も想起されるが、それ(=そうした回想)も告別に含まれていることから、ようするに《それ》を巡っているのである!ベートーヴェンはまこと、たったひとりにしか己の内奥からの感情を発露・吐露していないし、追悼(op111)後は、たった一人のことしか回想していない(娘を除いては。また、魂の恋人にも係る、娘の未来を託すことになる人物以外には...。秘匿の二重性を余儀なくされた、あの切り離せない政治状況とともに...!)
 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Elger(Enigma Nimrod)-RSchumann(op133/WoO 23)-Beethoven

Elger(Nimrod)-RSchumann(op133/WoO 23)-Beethoven Geister trio/Sym9 mov3 etc...

12月19日 17:15 · 

シューマンの暁の歌op133を合唱でやっているのがないかなと思ったがなかった。それがあればエルガーのnimrodとの親和性が、説明つきやすいのに

Schumann: Gesänge der Frühe, Op.133 (Uchida, Schiff)

Schumann’s Gesänge der Frühe (Songs of Dawn) are the last…

YOUTUBE.COM

 


 

シューマンの暁の歌と、vn concerto WoO 23 天使(霊)の主題のところ、

 

ベトの第九3楽章が(も)彷彿する。

Beethoven - Symphony No. 9 - Mov. 3

Pastoral Visit to the Archdiocese of Milan and 7th World Meeting of Families (June 1-3, 2012) Visita Pastorale…

 

※ここにも エルガー エニグマ↑nimrodが。

 

第九の3楽章って、遥かなる…とかエリーゼとも関係したっけかな。他、いろいろAndantefavoriや色々なピアノソナタ...

その日によってくるくる変わる

 

2015年12月20日 17:41 には、FBに書いている

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そういえば今朝やっていた第九の、指揮者のルネレイボヴィッツ(だと思った。ちがうかな)の演奏が変わっていて(あれこのひと作曲にむしろ興味があって、第九を第九らしく演奏することより色々な曲との連関性を重視しているのじゃないかなと思わせるスタイル)、第三楽章を聞いていたときあれこれはピアノソナタの、たしか2楽章構成のもののフィナーレ部分と同じだなとおもったところがあった。今調べたら第27番,Op.90第2楽章のフィナーレだな〜♪ ベートーヴェンらしくなく?執拗さがなくてあっさり終わるあの箇所

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 第2楽章,Op.90

 

 https://m.youtube.com/watch?v=iu-bfeZOY1w

 

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そして今日は、彷彿するこれ。

Sviatoslav Richter:Beethoven Sonata Pathetique 2nd mov.

 


Pathetic mov2は、直接には幽霊geister trio(第九mov3にも、グレイトのドレミラシド…のように転がり現れる)とつながっていて、そこからRsch Vnc mov2へつながる、という方がわかる。また第九mov3にも? pathetic mov2の悲しい展開部がエリーゼにつながるともいえる

 

 

patheticは、1798-9とあるが、9年だろう。???

ジョゼフィネと出会ってすぐに書かれたろう。この曲は彼女自身である。


 

 

テレーゼ(ベートーヴェンは、秘儀敢行のため、<ジョセフィーネを常にテレーゼと付帯させつつ>表現せざるをえなかった)は、この2楽章のひねりともいえるし、エリーゼでもあるのだ

 


ちょっとおもしろいblog↓

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/12/17/エルガー「エニグマ変奏曲」の謎/

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎 | Sonar Members Club No.1 | since September 2012

 

てか第九の3楽章は、シューマンvnコンチェルト自体がそうなんだよなー。

2楽章

https://m.youtube.com/watch?v=YLod6Ra6f08

Full length - Schumann: Violin Concerto / Frank Peter Zimmermann

 

これが第九の3楽章と通じる。これはElger nimrodとも。https://m.youtube.com/watch?v=R_CP82XN510

 


Beethoven Bagatelles op126-3。この曲もきわめてnimrodに近い(くわしくは次の記事69番の付記にて)。

つまりベートーヴェン自身が、Geister-Code から ナカ1音取り外す、という枯淡で旋法的な新境地の術策を、施していた。第九mov3・後期SQ以外にも、Bagatelles op126-3で! エルガーは、nimrodにおけるこの秘技の敢行者であると私は思う。

 

おまけ。

2015年ごろまでははっきり書かれていなかったが、今では永遠なる恋人はやっぱりジョゼフィネのほうにしぼられていた。

つくづく思うに、べートーヴェンは、1803年以降(否1798?-9年以降)ほんとうに一途に、たった一人の女性にしか己の熱情と思いを語っていない...。涙)

 

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/不滅の恋人

| Rei八ヶ岳高原2 | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フォルムの問題。形式感(観)とは何か

主題と変奏にかんする形式(感)について

 

 

Twitter  Novaris_botより

 

地上的な身体の形象は、内に潜む霊[精神]の表現体や器官としてはあきらかに不十分であるが、この不十分さの知覚こそが、固定化を排して前進する思考そのものなのだ。この思考が、あらゆる真の思考の基盤になり、知性の進化を促すきっかけとなる。 『花粉』

 

複数の人物から成り立っている人物はみな、二乗された人物―もしくは創造的精神[Genius]―である。この観点からすると、ギリシア的創造的精神というものがあったのであって、ギリシア人というものがいたのではないと言ってもいいのではないか。 『断章』

 

 

2012年 FBより転記

 

例 シューマンとブラームス

 

ある作曲家の作品は、主題とのつながりが希薄、等という判断根拠は何か。

その際の判断根拠は、音楽の、その時代時代における形式・構築感に対する理念や感覚、判断力となっている既成観念の呪縛をこえているのか、あるいは(深層)心理学的・哲学的なつながりやら、それらの今後の人間精神に対する探究・洞察の方法の多義的な発展の仕方を考慮したのを、まえもって上回るだけの恒久的な意味を本来的にもつのか。

 

ましてこのことが、言語・弁術における「論理的思考」とはちがい、こと音楽的な{暗黙的}構築性(の価値判断、またはこれを越えることへの価値判断)について拡げて把捉しなおされるとき、その飛躍する想像力の多角的・交錯的な可能性や、芸術が人間心理に与える充溢度を考えた場合、どう考え評価するべき事柄になっていく、と捉えられるのか

(たとえばブラームスとシューマンとの間で、「変奏に関して…異なる考えをもつようになった」…「主題とのつながりが希薄な自由変奏を避けるか避けないか、という相違が生まれた(意訳)」とされる点)

 

主題とのつながり、というのを考えている視野(聴野)の既成範囲、主題の背景となっているエクリチュールへの射程深度の問題も――しばしばこの(既成)範囲と構築性を超えた時、ただちに「破綻」といわれるのだろうけれども――生起してくる気がする。

 

むしろ{暗黙のエクリチュールに沿って}主題が別の主題につながっていくのを理解することによって、逆に迂遠に獲得されて来る、より大きな主題(の流れ)への驚愕、主題aと思われたものが異?主題bとの同一位相内(厳密には転位を含むことになろうが)交錯をあえて汲まれることでより大きな主題Aへと発展する、という芸術表現ならではの感動もあると思うが

 

(※補記 2018/02/04)ということになると、そもそも2主題間の関係の希薄、ましてや別主題であるとの知的判断の射程そのものが、深層心理を含めた世界——創作者の内的必然性——からみればじつは浅慮であった、ということにすらなりかねない事態も、しばしば起こりうる...。

 

★ひとつの身体によって通常得られる変奏(変容)の範囲とその帯びる構築的形式というものを、どの身体もが拘束されるべきなのだろうか。(その意味でzero地点の身体=表現の発現体としての身体は予めひとつであるべきなのか?)

 

 

ツイッターでのまとめ 2012/06/07

 

 

(※※補記 2018/02/04)

こたえは、シニフィアン-シニフィエ関係に於る「シニフィアン優位」性、及び「シニフィアンの自律性」問題等の観点からしても、こんにちの現象学〜精神分析学の諸成果により殆ど明らかであろう。こうした問題意識と事績が芸術の世界に於るフォルム(の価値)観に投影するのも、時間の問題であるように思われる

 

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Beethoven LeonoleとRSch op22,op23,op54 etc...

FB より転記 2015年12月18日

 

このBeethoven Leonole 動画記事の、コメント部分に書いてあったことをblogに転記する

 

 

●英語のwikiで、Schumann op54 pianoconcerto(1841,45)主題が、Beethoven Leonole ouverture(Fidilio)と関係がある、とかかれており、

※wikiにはDavidsbundlermarsch等との連関も指摘されており、例によってこの件も気づいたらあれもこれも切りがなくなりそう

 

その通りだが、まったくただたんに直線的に結ばれているわけではなく、

そこにop22 Pianosonata Nr2 が、噛んでいる。(他にも絡んでいるだろうが少なくともこれは確か)

 

 

(この Pianosonata Nr2 自身も op54 と関連がある。)

 

op22-mov1 prestoで下降の部分など、Leonore ouverture——終盤ちかくの盛り上がり——なしにはありえないだろう。

 

(なおこのprestoの終了後に現れるholizontalな幻想性は、op23 Nachtstock 夜曲にもほぼまったくおなじ音型で流れていく。)

 

無論、大前提としてこの RSch Op22 は、Beethovenの Elise Thema(op61 1806年 → op132 etc... = WoO59 Bagatelle)- Symphony No.5/6(運命/田園 1805-6年) ThemaをSchumannが自己流に展開させている曲調なので、Leonole= Elise(同一人物)であること、を意識していただろう。

 

※ひいては An die ferne Geliebt 遥かなる恋人——これもじつはRSch Op22に反映!何故ならBeethoven sym5,6がElise Themaの変位・変容 Metamorphoseで出来ており(※※e.g. Schicksals-Idea , Pastralにおけるwind-rhysm or "Sturm" etc...)、であり、これがlove——恋人(女性)と人間愛につながることをSchumannが知っているからであるが——までも、同一人物!?とSchumannが理解していたか、別の人間の可能性も考えていたかはわからないが...。

 

※※同時にこれらのBeethoven's inspirationsは、Haendel Messiah にも通じる!のだが...。

 

RSch op22の制作は、1833-38(1833-35、とされている記述もある)と幅があるが、この期間にFidilioを聞いていたと推測される

 

2015年12月18日 15:55 · 編集済み

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リヒテルのBach平均律 雑記断片——空智と実惠

たいていの鍵盤奏者は、その個性が第二巻の普遍性に吸収されるかのように、第一巻においてより二巻においての演奏のほうが(脱人称性を包摂した人称性の地平で)成功するのだが、リヒテルに関してはその逆に思われる。

 

第一巻の成功があまりに超越的であるため(空智)、二巻においてもなお冥想性をひきずり、その悟達がふたたび地上に降りてくる(実惠)という二巻に「ほぼ」通底した特有の世界観に還帰しきれていない惜しい側面が残る演奏があった。

 

本人もそれは反省点だったようで、私がこうしてほしいと思った通りに、翌年ライブでは幾つかの曲の演奏解釈を(悟りを通ってきた実存・地に足をつけた生命体として)やりなおしてくれていた。

 

いずれにしても奇跡的で歴史的な演奏。

 

リヒテルが二度目のライブで果たしたことは別な言い方をするとこういうことだ。

 

一巻においては、『神は、みずからを隠すことなしには、創造することができなかった。そうでないと、ただ神だけしかいないことになる。だから、聖性もまた、ある程度は、意識に対してすらも、隠されていなければならない。そして、この世においても、隠されていなければならない。(Weil-bot)』 

自己救済を希求しつつの、この世界の透徹。

 

だが二巻(この世)の多くの作品においては、上記のような顕現-退隠作用は別の位相——すなわち宗教的実存、実惠——から、

すでに殆ど全開されている(作用的一)

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-2

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その2

 

 

ジャン・パウル(Jean Paul)

 

じつはジャン・パウルを未読であるが、であるがゆえにまず今の時点で音楽のみですでに出来上がっている想像を規定する。

 

Beethoven,RSchumann,Brahms,Mahler... etc..

 

●シューマン 蝶々- ブラームス 弦楽五重奏曲-2

 RSchumann Papillons op2  Brahms SQ no2 op111

 前の記事投稿(http://reicahier.jugem.jp/?eid=61)時点で掴んでいだ両者に通底する蝶々(精霊・自由なる霊/超脱さ)のイマージュ。ジャン・パウル(想定)。

 

次に、発展的に——

●RSchumann op2 - Brahms SQ no2 op111 - Mahler TitanにおけるBeethoven

※Beethoven's Eroica - Kreutzer Sonata - Geister trio 的なもの と、RSchumann (犠牲者となった下地) etcetc...

 

 

ユーモア、アイロニー、自己相対化としての道化と分裂気質、(幽)霊、仮装(憑依?)、「なんちゃって」

 

謝肉祭(ジャック・カロー  ホフマン)

 

 

巨人-英雄(主題 含葬送) について。

 

マーラー 巨人 Titan に於ける 英雄 Eroica の changeover of Symbolism 意味転換/象徴性転換

 

英雄 Eroica (ミー ↑ソ ミー↓シ ミソ↑シ ↓ミー ※♭省略)…➡巨人 Titan (レーレレ〜ファレー ↓ラ、レーレレ ↑ラ ↓レ )といった Conversion of symbol 象徴の転換。

 

※但、Mahlerによるこの転換・変移には不思議とクロイツェル(Kreutzer Sonata)的なものが連動(connected)されている!

曲想「全体」を覆う「構成」上の inherit & metamorphose として。

※また、少なくともBrahms op111 に於いては Geister−RSchumannを結びつける遥かなる/精霊の旋律が、同居しているのを聞く。

 Papillon op2 にも、Mahler Titan にも、また元の Beethoven(Eroica,Kreutzer)自身にもGeisterがあるかどうか、これから検証。

 

シューマンとベートーヴェンに於ける 蝶々・(幽/精)霊 的なもの-----舞い、戯れ、無重量性、受肉と離脱。

キマイラ(サテュロス=半人半獣 「ジャンパウル風の山羊の足」 Mゲックp37) 天性魔性。

————ジャック・カロー。ホフマン

 

↓ ジャンパウル的なものの変遷。

癲癇と統合失調と自己疎外。

 

●第1次産業革命時代のジャンパウル————ベト 英雄3楽章的。せっかちな悲壮さとご大層さ。暗黒と凄絶への予見的戯けとしてのホルン→シューマン ロマンチシズム(未到)としてのホルン

 

●第2次産業革命時代のジャンパウル————マーラー 巨人第1,第4楽章的。緩慢な諦観に縁どられた、ご大層さ。後の祭り的喪失感の戯れ的ホルン 喪。死と葬送。

 

なぜ葬送するのか、なにを葬送するのか、の考察… 産業革命下に到来するものとその変遷

 

ナポレオンからナチズム

調性問題(機能和声と調性の拡張崩壊)と 自我。

主体権限と権力。

未到の告白と内面化 シューマン →(未到の「逃亡・逃避」化=)未到未決イデオロギー化 シューマン以降。

 

権力=主体権限の倒錯・自我肥大(ワーグナー問題)→自己疎外(マーラー)

 

☆機能和声…デカルトが「考えるためには、存在しなければならない」ということを思い起こさせるとき、彼は明確化しているのであって、基礎づけを行っているのではない。それは、思考を自ら存在せしめる運動の明確化なのである。『メルローポンティ 心身の合一』

 

すなわち、主体の確立。感受思考判断の出発点としての己の覚醒(レアライズ Realize)。

※これが、機能和声の確立期でもあること!!!(と、私は感ずる♪)

 

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フモール Humor の実質的内容

 

ジャン・パウル的なもののの歴史的な受継ぎが、第一次産業革命時代(ベートーヴェン ロマン主義の勃興期)と、その中間(シューマン〜ブラームス ロマン主義の絶頂期 イデアール=レアールの合致期,or少なくとも二重構造期)と、第二次産業革命時代(マーラー ロマン主義の厭世主義的退嬰期)とではそれぞれ違っていると思う

 

 

ベートーヴェンとジャン・パウルの関係は、シューマンやマーラーのように、影響を受けたというよりむしろ

同時代人としての共通項(のちのシューマンによって鋭く具現)をすでに有するし、己の実体験であり実人生でもあった。

 

サテュロス キメラ(キマイラ)に象徴される異形

 

 

添付

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2011年(何月何日だったか、あとでFBノートを調べる) FBより転記

 

チンドン屋,(軍)楽隊,行列,仰々しさ,礼式/死,葬送 ベートーヴェン(シューベルト・シューマン)→マーラー 遷移する世界観と人間観

楽隊、太鼓、鐘、素っ頓狂なクラリネットの音などが、メルヒェン・死のイメージにつながる(直観的に、潜在意識的に)のはなぜか

 

大道芸人とか‥ 。

 

何らかシニシズムや厭世観、哀愁とかさなり、行進や彷徨とかさなり死に通じる。

 

儀・礼式、鳴り物入り、仰々しさ(物々しさ、馬鹿丁寧さ)、芝居がかった、仮装・化粧、パロディ(享楽/死)とか‥

 

戯け、滑稽/死

 

素っ頓狂=「突」拍子(「突」-日常)/死 真面目(大時代性・畏怖)→さすらい→狂気→悲=喜劇(含 諦念・自己卑下=陳腐化;シニスム)/死 「凸(突)」拍子 の瞬間に 実のなさ ( 虚 仮 喪  盲 唖 聾 戯 儀=祝祭 ) が現出する

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-1

2017 11/5日前後のTWから

 

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その1

 

 

 

謝肉祭 道化 ————「幻想的絵画」(Phantasiebilder)

 

ジャック・カロー(Jaques Callot)的なものが、聴いてる間ぢゅう飛蚊症のように飛ぶよなあ…

 

M Jansons's New Year Concert(ヨハンシュトラウスをやりながらつねにマーラーとそれへの歴史、その周辺等々を感じさせる)でもそうだったが…

 

Jean Paulだなあー。 しかし分裂気質だなあ。。。Chopinだったら絶対こうはやらない、という所だらけ。

 

 

さっき昔の自分の「くせ」にちょっと似た女流ピアニストのop16 Kreisleriana!を聞いていたら、ある部分が謝肉祭コーダなのに気づいた。今頃!

 

自分で弾いていた時代にはこんなことさえ気づかなかった。 そして次の章はグランドソナタに通じているのだ。

こんな単純なことも気づかず全く別の問題にのめり込んで弾いていた...

 

今は、Kreisleriana op16とNovelletten op21の近さも痛感する。

 

だいたいがクライスレリアーナが8章(と、連動した2章)から遡行的、逆算的に(それが意志的-自覚的なものか潜在意識-無意識的なものかの判定は、シューマン自身にもまして他者にも十分に出来はしないのではないだろうか)できている。

そのことも、弾くことからだいぶ離れてから痛感した。

 

ノヴェレッテは穿孔性(verticalな志向性)よりhorizontalな側面をより濃厚に演奏しうる謝肉祭、ダヴィド同盟系の全体に陽気な曲調と思われるが、それだけでなかった訳だ。

フモレスケ以降の典型的なものの内包もある。

 

そしてノヴェレッテの7,8章となると超有名なあのショパンノクターン的な世界にユーモアというより諧謔自嘲を兼ねた世界に至るが、これは別の角度から言ってみれば「英雄(エロイカ)」-「クロイツェルソナタ」的なもの、のR Schumannらしい消化だ。

 

ここには Scriabin's sound pattern スクリャービン音型の予兆もあり、すなわち Erioca-Kreutzer Sonata 的な何者かが引きずられた第二次産業革命的退嬰世界(Mahler Titan)に至る訳だ。

 

Robert Schumann - Faschingsschwank aus Wien - Composer: Robert Schumann (8 June 1810 -- 29 July 1856) -… YOUTUBE.COM

 

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補記

2017 11/23日前後のFBから

 

ウィーンの謝肉祭の道化 Faschingsschwank aus Wien Op26

 

やっぱりこれを聞いてもシューマンは孤独で、たった一人の錯綜する世界を構築しようとしている。誰にも到達でき(て)ない。
この時期からすでに「暁の歌 Gesänge der Frühe」op133 が内包されている。

 

シューマンの人間観・内面観・身体観の自己矛盾に由来するどうしようもなさ。狂おしさ。

この未到、こそが究極のロマンティシズムでなくして何か。「わが憧れと苦悩」

存在論的な、絶対的未解決性である。イデオロギーなしの。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:41 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Chopin Cello Sonata Op65にみる、Beethovenに対するロマン派の興味と謎解き

 

これを数年前に聞いた時、おお、っと思ったのは、

この曲が恰も「ベートーヴェンの主題によるチェロソナタ」といった感じの曲想に聞こえると同時に、

ショパンもまた、メンデルスゾーンやシューマンと同様、ベートーヴェンの残した一連の謎解き問題に関心があったにちがいない、ということだ。

 

このショパンにしてはめずらしい室内楽の冒頭は、あきらかに PianoSonata Therese(=Tempest Mov2)の開始を前提としている。

 

そして、いかにもロマン派的な様相をまといつつとはいえ、展開の仕方から、頭にあったのは(結び付けたかったのは)、

このTherese-themaからElise-themaへの移行——テレーゼ主題とエリーゼ主題との結びつき(後期SQでわかる——String Quartet in A minor, Op.132 No.15-mov5。

 ↓28:41-29:33-30:51) ——である。

 

 

 

 

実際、Chopinは、自身のCello Sonata Op65で同2主題間結びつけの実験をしているのがわかる。

 

 

また、 幽霊 Geister Op71・遥かなる恋人に寄す Op97(シドレファ♯ソラ、シドレラソファ♯)・もし知っていれば Andante Favori(幽霊、遥かなると一致する下降線、FavoriとPastral田園との関係)、等々であろう。

 

また短調になるところだと、 ラソファミレ Tempest Mov1

 

音列3つずつだと、告別(Lebewohl)・Elise dosila。ドシラ,ファミレ,ミレド,レドシなど。

 

また、Tempest Mov3 (ラ)ファミレ・(ラ)ファミレ や、Tempest Mov1 ラソファミレ などなど...。

 

此処から推察されるのは、じっさい色々である。

 

バガテル「エリーゼのために」(Bagatelle No. 25 in A minor WoO 59 Für Elise) は、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンが活躍していた時代には、発表されていなかったという記事だか論文を見たことがあった気がするが、それは別段構わない。

 

いろいろな作曲家にとって、後期作品とそれ以前のベートーヴェン作品を聞けばおのずとエリーゼの主題は関連付けられるだろうからである。

 

となれば、ベートーヴェン以降の作曲家、各々の心中に、エリーゼ的な音楽がエッセンスとして代わりに(謎解きのピースのきわめて重要なひとつとして)おのずと蘇生されてもおかしくはないからである。

 

それほど、バガテルエリーゼが未公開の場合でもエリーゼの暗示となる作品は、あちこちにある。(第九の主題と同じで。)

 

もっともわかりやすいのは、op61-aなどであろうが。

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:43 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Op. 111(SQ No. 2)と FSch d821 と RSchumann Op121そしてOp2

FBから転記

 

FB 

2017 9月12日

 

わりとどうでもいい件…だけど一応。。

 

Brahms Op111

Johannes Brahms - String Quintet No. 2 in G major Brandis Quartett

 

久々、聞いてて気になった、

18:24-39

 

このフレーズ(『想い』のこだま)。。。

 

 

とろい頭でしばーらく考えてて、このこだまがやって来たのは、意外とアルペッジョソナタ

(FSch d821)だった。

 

15:13-29

 

だけどなんかまだあるよなあ(もしかするともっと身近なのが?)

…と思ってまたかんがえていると、 次に降りて来たのが、、(/ _ ; )

 

(RSch op121)

0:11-22

 

あんまりどうでもよくなくなってきた?。。。 だからして!…もっとあるかもネ。

というか、事をもっと広く長いスパンで、奥行き深く、じっくり把握しなければならないかもしれない。

 

 

これを一身に引き受けるクララ...。よろこびと悩みが重く、贅沢で参るなあ

 

 

 

 

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FB 

2017 9月13日

 

 

ところで、ひきつづき

 

Brahms op111

 

 

昨日言っていた事案

(於:FB 2017 09/12 『想い』のこだま。Brahms op111 - FSch d821 - RSch op121 の件 )

 

は、部分的な問題に終始しえず、ともするとコトが拡大してきそうなのでいまはともかく、

 

もう一つ気になること——

 

このブラームスの、極めて円熟した浄らかな晩年のを聞いている間ぢゅう、

RSchのop2---若くたどたどしい、まだいかにも習作めいた作品---がなにやら仕切りと裏で鳴って仕方がない気がして来ると同時に、

 

 

そういう説明不能な…人に根拠を示すことなどむずかしい 至極あやふやなものほどつい掴もうとしてしまう自分の感受性を、——他方で持て余しつつ——じつは密かに気に入ってもいる…。

 

ブラームスの人生への想いを引きずらせる 苦悩するシューマンと、 ブラームスの瞼の裡に棲む、若き微笑ましいシューマン。

 

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説明不能 ↑ そうじゃない。。。*:`( ゚д゚*)!?

 

op2の、一番初めに、答えはある!!

 

ブラームスからの応えは、彼の作品(Op111)の中の、これまたあちこちに 反響していた...。

無論、Op111冒頭のチェロの低音部旋律が、そのままシューマン(蝶々)への、ブラームスの応え としての主題、及びその発展(変容)形——踏襲するVnによる旋律への変容形(1:58-2:25)。上昇してゆかず、※octvズレになるが)など——だともいえるのだろうが。

 

※注)より素直に、上昇する旋律は後になってやってくる...。

 

 

...応え、としてもっとも直截なのはここ。2:25-2:46

 

もしくは、次の 2:47-3:01(-3:06)

 

————どうだい?精いっぱい やって来たといってくれるかい。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

グールドによる語り ベートーヴェンの一部から思うこと(G.Gould and Beethoven)

FBより。2017 8/24 記。

 

 

FBの「過去の今日(2016 8/24 付)」で出てきた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=ztt1Z_90aag

 

Glenn Gould Discusses Beethoven's Piano Sonata No 30 (Op 109)

Glenn Gould in conversation with Humphrey…

 

(FBの過去記事で2016年度に出てきた動画の同じ「もと」がyoutube上でわからない なのでこれを代わりに添付。日本語訳がついていないが)

 

Ludwig van Beethoven 2016年8月24日 · Glenn Gould on Beethoven Sonatas.

 

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思ったこと(去年の今日)

 

ここでグールドが冒頭で言っているコラールchoralとは、カッコウCuckoo No25と同じものだ。

そしてカッコウは何かの曲のparodyなのだから。。。

何だったろうか...。数年前に感じたことなので忘れた。

告別Les Adioux? ミ・ド・シ・↑ファ-ミドシファ?———ここはカッコウ・告別(Cuckoo-Les Adioux)系の中間体。

※テレーゼ、カッコウ、告別(Therese,Cuckoo,Les Adioux)は 1セット(in a set) だ———これらは英雄(Eroica)系にもandante favoriにもかかる やはりこれもジョセフィネ(Josephine)-アントーニェ(Antonie)の重なる時期

 

[※英雄・告別——Eroica-Les Adioux——系で たしか朝、andante favori のことを考える必要がある、と思った...同じような旋律が...というのはここかな

ラソソファミレ...ラソー,ファミー,レドー,ラソー,ファミー,レドーとか。かなあ(下降)。

あと告別 Les Adioux mov3の最後 下に添付動画 Pollini 15:08-15:29 の雰囲気かも。]

 

 

参照1

告別

 

https://www.youtube.com/watch?v=9TXQSz_4AMY&list=RD9TXQSz_4AMY#t=8

 

Beethoven - Piano Sonata No. 26 "Les Adieux" (Pollini)

 

 

そしてカッコウ(Cuckoo No25)でもあるこのop109根音のchoralラドファラレファソラ(Gouldも紹介) はラ-↑ミ-↓ミ-↑ラ(英雄 Eroica sym3-Josephine 同時にsym7,8-Antonie)でもある

 

だからまたキメラ (Χίμαιρα, Chimaira)になってしまうのだ

 

 

 

参照2

テレーゼ

 

 

Glenn Gould - Beethoven - Piano Sonata No. 24

 

ThereseはLes Adiouxの予告的 実際は後でもおかしくないが(ベートーヴェンは策士だから)

実際にはAntonieとの恋愛が始まった(カッコウ Cuckoo PS No25 の)あと、テレーゼと告別(Therese,Les Adioux)を書いた気がする

 

それにしてもまるで解剖するかのような弾き方をするグールド。ピアニストというより作曲家としての関心だ...。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

幽霊[Geister]の変身(の変身の変身の変身...)

(大局的に書きたいことの本の断片に過ぎないがメモしておくと...)

 


Beethoven String Quartet No. 13 in B-flat Major, Op. 130 (Grosse Fuge) - American String Quartet

 

あらためてきいてみるに、これは、op70(-1)…のtransfiguration,transformation...というかSecond? Comingかも♪ 

 

すると、Χίμαιρα???

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ヤンソンスのマーラーの情報から、思い出した近年二つのニューイヤーコンサート

昨日、或るクラシック音楽の非公開グループで、ヤンソンスのマーラーが非常にいい、という記事が出ておりそれに反応しつつ思い出した、ヤンソンス指揮のニューイヤーコンサートふたつ について。

 

 

(グループでのやりとりで、私はだいたいこう、話しておいた)

ヤンソンスは多角的な興味をそそる指揮者で、昨今ではヨハンシュトラウス父子兄弟 と マーラーやチャイコフスキーなどいろいろな作曲家に通底するものを彷彿させながら、産業革命などについてもすごく考えさせる演奏をしていたし、その翌々々年だったか、には、歌劇や喜歌劇のことを感じさせると同時に戦争と奇想、とかさらにはカリカチュアとかそうしたものを考えさせるような演奏をしているのでびっくりしました。とくにマーラーを彷彿させた年の演奏は印象に残っており、ヨハンシュトラウスを通したマーラーじゃなくて、笑)直接マーラーを、彼の指揮で聞きたいなーと思います。

 

 

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ヤンソンス指揮 NYC  ウィーンフィル ニューイヤーコンサート 2012,2016 曲目と、考えておいたこと

 

 

記述したのは ともに2012,2016の正月 FBのtlとノートにて

 

 

2012  ニューイヤーコンサート

J.シュトラウス2世/ヨーゼフ・シュトラウス: 祖国行進曲 J.シュトラウス2世: ワルツ「市庁舎舞踏会でのダンス」 
J.シュトラウス2世: ポルカ「あれか、これか」 
J.シュトラウス2世: トリッチ・トラッチ・ポルカ 
C.M.ツィーラー: ワルツ「ウィーン市民」 
J.シュトラウス2世: アルビオン・ポルカ 
ヨーゼフ・シュトラウス: 騎手・ポルカ 
J.ヘルメスベルガー: 「悪魔の踊り」 
ヨーゼフ・シュトラウス: ポルカ「芸術家の挨拶」
J.シュトラウス2世: ワルツ「楽しめ人生を」
J.シュトラウス1世: シュペルル・ギャロップ
H.C.ロンビュー: コペンハーゲン蒸気機関車のギャロップ
ヨーゼフ・シュトラウス: 鍛冶屋のポルカ
E.シュトラウス: カルメン・カドリーユ
チャイコフスキー: バレエ「眠りの森の美女」より「パノラマ」と「ワルツ」
J.シュトラウス2世/ヨーゼフ・シュトラウス: ピツィカート・ポルカ
シュトラウス2世: ペルシャ行進曲
ヨーゼフ・シュトラウス: マズルカ「燃える恋」
ヨーゼフ・シュトラウス: ワルツ「うわごと」
J.シュトラウス2世: ポルカ「雷鳴と稲妻」
〜アンコール〜
J.シュトラウス2世: チック・タック・ポルカ
J.シュトラウス2世: ワルツ「美しく青きドナウ」
J.シュトラウス1世: ラデツキー行進曲

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cf)
ベートーヴェン 1770-1827 (移動手段:馬車 第一次産業革命)
シューベルト  1797-1828 (馬車 第一次産業革命)
父シュトラウス  1804-1849 (馬車〜蒸気機関車?微妙)
シューマン  1810-1856 (蒸気機関車 以下同じ)
ヨハン・シュトラウス   1825-1899
ヘルメスベルガー  1830-1852
ハンス・クリスチャン・ロンビュー(H.C.Lumbye) 1810-1874
 (※蒸気機関車、コペンハーゲン "Copenhagen Steam Railway Gallop" by Hans Christian Lumbye)
チャイコフスキー  1840-1893
ツィーラー  1843-1922
プッチーニ  1858-1924
マーラー 1860-1911 (第二次産業革命)

 

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考えたこと (2016のNYCから2012のそれを振り返る)

 

正直、つい最近まで、あまり真剣にニューイヤーコンサートを聞くことはなかった私でしたが、2012年のヤンソンスの指揮に衝撃を受け、豊かな体験をさせて戴いたので、やはり今年も聞き逃す手はないな〜と思いました。

 

2012年は、ニューイヤーの直前に、マーラーとヨハンシュトラウス(シュトラウス一家の音楽)の音楽的な濃い繋がりを、サントリーホール2011年10月でのエッシェンバッハの演奏でつよく体感(だいたいがマーラーを聞き始めたのが2010年、ツイッターで遊び始めてからだったという…^^*)、させてもらい、シュトラウス家の音楽にもあらためて興味が湧いていたせいもありましたが、ヤンソンスのこの年に示したたいへんスパン――時間的にも空間的にも、です――の広く長い、網の目のような示唆のせいで、なおさら面白くなりました。

 

あの年は、簡単にいってしまうと産業革命が、ひとつのおおきなメッセージでした(もちろん重要な要素はそれだけではありませんしここから分岐した音楽的・文化的なメッセージもありました。

 

マーラーはもちろんベートーヴェン辺りから、シューベルト(殊にグレイト?)やシューマン、ブラームス、チャイコフスキーらを背後に感じさせる選曲と指揮だなあとおもっていたら、あとでほんとにチャイコフスキーを出してきたりなどしたし。

 

そのことを悟らせるのにヨハンの兄弟の選曲もセンスがありありでした。

 

 

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調べたこと(2012 正月のFBノート)

 

産業革命規定…18-19c   紡績機から。


主なこと1733 1764 1769


蒸気機関車イギリス 1830年〜(実用化 産業革命)http://www.nhk.or.jp/koko…/…/sekaishi/archive/resume027.html

 

おもしろいのは、蒸気機関車の実用化はいち早いイギリスでさえ1830年だとしても、(蒸気機関の発明は産業革命の最後期なのであって、)蒸気機関車「以外の産業革命のリズム」は、その時代に生きていた人間たちの体の中にもすでに通っていたわけで、(ヤンチャッチャッチャ、タタタータ・タタタータ、金管のパパパパパパ…など)
蒸気機関車に乗ることの無かったシューベルトの体にも、紡績機や紡績工場の環境音や製鉄、他の機械装置のリズムなどは通っていたし、機関車以外の他の蒸気機関のリズムには接していたと、大いに考え得ることだ。

また、ベートーヴェンsym3英雄の葬送、あの不気味で異様な推進力!あれは工業化社会に生きつつあった彼にとって何に対する畏怖なのか。彼の見ていたスパンは?

 

彼は無意識に見通していた。この先があまり明るくないことを。

暗澹たる凄絶さにみちた、英雄における「葬送」。予兆的機関車のような、絶望的なあの蒸気圧の駆動——何を葬送してい(見送ってい)るのか。

産業革命以後の人間と人間社会を、という感じが非常にして、ぞっとするのだ。

 

 

※蒸気「船」は微妙か?
(フルトン、蒸気船の実験に成功1807/ミシシッピ川で蒸気船による初の川下り1811 /蒸気船が初の大西洋横断1819 /ネッカー川の水運が再び隆盛を見せるのは1878年のKettenschlepperei (「鎖による牽引の時代」)の始まりによってである。

マンハイムとハイルブロンの間115kmを蒸気船が小舟を牽引してさかのぼることで、馬に引かせて5日から8日かかっていた行程を2、3日に短縮することができたのである。http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83…)http://www.nhk.or.jp/koko…/…/sekaishi/archive/resume027.html

「1844年、イギリスの画家ターナーは、「雨、蒸気、速度」という題名の絵を描きました。その絵は、実用化されて間もない蒸気機関車を幻想的に描いたものでした。19世紀に発明された鉄道は、人びとに大きな変化をもたらすこととなりました。スティーヴンソンによって実用化された蒸気機関車は、1830年、イギリスの綿工業都市マンチェスターと港湾都市リヴァプールの間を結びました。鉄道は、大量の貨物と旅客を高速で運ぶことができたため、イギリス国内には急速に鉄道網が整備されていきました。蒸気機関を利用する船も、19世紀の初めに、アメリカ人フルトンが実用化しました。そして、19世紀の半ばには蒸気船が普及しました。」

ピストン運動蒸気機関

〇シューベルト d944「グレイト」…☆蒸気圧の往復運動-1(予告的)。*このことはぜひblogに書き残したい

CF) 往復運動→回転運動への転換(1769、ワット)

シューベルト、文化史
http://ur2.link/HkFc

「ベートーヴェンが生きた時代」
http://www.beethovenmaster.com/beethoven…/15sekai/sekai.html

「ベートーベンの生まれた1770年前後は、世界が大きく変わる予感にあふれた時期であったといえます。1769年にジェームス・ワットが実用的な蒸気機関を開発し、産業革命の気運が高まりつつありました。その一方で、資本家と労働者の格差は広がりつつありました。」

ベートーヴェンがオーケストラを拡大していったことと、産業革命が勃発-発展していったこととは無関係ではない。空間性から、リズムから。それに対する(格差社会の発生)反骨精神(解決的悟性...機能和声 動機-展開-解決のスタイル)とも合わせて。

 

〇ベートーヴェンsym3英雄(葬送)…☆蒸気圧の往復運動-2(予告的)

★シューマンの時代は既に蒸気機関車が走っていたが音楽性がいかにもそういう感じとなる。ドボルジャークが蒸気機関車の曲を書いている

 

「オーケストラの歴史」
http://tuhan-shop.net/cla…/kikou/ki-kisotishiki-rekishi.html

「弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽(オーケストラ)は、バロック時代にオペラの伴奏として、弦楽合奏の補強のためにオーボエやファゴットなどの木管楽器が加えられたのが始まりです。これはモンテヴェルディのオペラに初期の形態を見ることができます。このころのオーケストラは、弦楽器を中心にフルート、オーボエ、トランペット、トロンボーンが加えられたものでした。その後バッハやヘンデルたちによってオラトリオやカンタータの伴奏としてもオペラ風の管弦楽が取り入れられて発展し、それが管弦楽独自のための音楽として合奏協奏曲や管弦楽組曲が生まれてきました。その後、金管楽器やティンパニなど加わって大規模になりました。古典派時代には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽器を増やして大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって現在のような形となりました。 」

 

モンテヴェルディ 1567-1643 彼のオペラにオーケストラの原型
バッハ 1685-1750 管弦楽としての発展
ヘンデル 1685-1759 同上
ベートーヴェン 1770-1827 現在のオーケストラの基礎 / 産業革命楽器に見出すとホルン 角笛からホルンへ ナチュラルホルン(ブラームスはあえて好む) 
バルブの出現1814バルブ ピストン式とロータリー式 

上下運動から回転へチューバ
「18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命により金属の加工技術が飛躍的に進歩すると、ホルンやトランペットなどで音高を変える仕組みとしてバルブが採り入れられ始めるが、こうした動きはやがて低音金管楽器にも波及した。 」

 

 

 

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2016  ニューイヤーコンサート

 

国連行進曲シュトルツ作曲(初演奏)
宝のワルツ 作品418ヨハン・シュトラウス2世
フランス風ポルカ「ヴィオレッタ」作品404ヨハン・シュトラウス2世(初演奏)
ポルカ「観光列車」作品281
ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「ウィーン娘」作品388
ツィーラー作曲(初演奏)ポルカ「速達郵便で」作品259
エドゥアルト・シュトラウス作曲歌劇「ヴェネツィアの一夜」序曲[ウィーン版]
ヨハン・シュトラウス2世ポルカ「羽目をはずして」作品168
エドゥアルト・シュトラウス作曲ワルツ「天体の音楽」作品235
ヨーゼフ・シュトラウス作曲フランス風ポルカ「歌い手の喜び」作品328
ヨハン・シュトラウス2世(初演奏)ポルカ「休暇旅行で」作品133ヨハン・シュトラウス2世喜歌劇「ニネッタ侯爵夫人」第3幕への間奏曲
ヨハン・シュトラウス2世(初演奏)ワルツ「スペイン」作品236
ワルトトイフェル作曲(初演奏)ワルツ「舞踏会の情景」
ヘルメスベルガー1世作曲(初演奏)ため息ギャロップ 作品9
ヨハン・シュトラウス1世ポルカ・マズルカ「とんぼ」作品204
ヨーゼフ・シュトラウス作曲皇帝円舞曲 作品437
ヨハン・シュトラウス2世作曲ポルカ「狩り」作品373
ヨハン・シュトラウス2世アンコール曲目ポルカ「突撃」作品348
ヨハン・シュトラウス2世美しく青きドナウ
ヨハン・シュトラウス2世作曲のワルツ『An der schönen blauen Donau』Op. 314。
ニューイヤーコンサートの定番アンコール曲。
ラデツキー行進曲ニューイヤーコンサートのトリを飾るヨハン・シュトラウス1世『Radetzky March』。
観客の手拍子が恒例行事。

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考えたこと 2016 正月のFBから

 

 

今年2016のメッセージのキーワードは、わたしなりに掴んだ限りでは、奇想-コメディ(※いわばジャックカロじみた諧謔性にひそむ悲哀も秘めたユーモア)→舞踏/舞踊とその周縁→オペラ/オペレッタ、(その背景には政治と文学)といった軸かなあ。と思います。ウィーン、それも「シュトラウス家の音楽性」を中心としたときに、その周縁にあたる音楽の歴史(音楽家達の顔・顔)、多様な芸術文化・社会的要素との交流。ウィーンから出て行くものと入ってくるもの、などなどです。

(おもうに、ニューイヤーコンサートは、音楽の演目だけではなしに、舞踊の振り付けや衣装にいたるまで、示唆が統一されていて、なかなか演出上手だとおもうのは、考えすぎでしょうか。ダンサーのコミカルな身振りや衣装の魔的な襞の翻りが、「二人のザンニ」を惹起するのも偶然の一致ではないとおもうのだけど)

 

そんなことを考えているうち、ジャンパウルやホフマンをやっぱり読みたくなりました(←え。未だ読んでない?! >▽やあ。。ヤンソンスの世界の広く豊かなこと。個人的な事件や体験の痕跡もおそらく強く捉えつつ、同時にそれを社会的(事件と意味の蓄積)にも余裕で捉える視野など、やっぱり学ぶことが多いような気がします。

 

 

FBの投稿より↑

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※...ヤンソンスの指揮で、上述したようにヨハンシュトラウスを介したマーラーを、ヤンソンスの指揮で痛感させられる訳だが、調べると、なんとマーラーはジャンパウルを実際読んでいた...。その中に、なんと ジャックカロの名が出てくるではないか...!

(有名な話みたい^^;;; が、ということは、私の我田引水ででたらめなイメージではなかった)

 

http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/Library_Mahler_Sym1.htm

 

 

調べたこと(未だ。これから)


歌劇 喜歌劇 (オペラとオペレッタ)というジャンルは正直未開拓。これからなので、ちょっと時間がかかる...

 

だけどなんであの指揮から、オペラやオペレッタを惹起させられたのだっけ...。なにかの曲のフレーズが、私でも知っているような有名どころのオペレッタの一部をありありと想起させたのかもしれない。天国と地獄だったかなあ...?

 

批評性(文化と政治)と音楽 という視点は ヤンソンス的で面白いと思う 彼はラトビアなので...!(混乱の時代に生まれ、親が射殺されている)

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フランチェスコ・グァルディ 身体としての風景——奥行きと厚み

メルロ゠ポンティbot‏ 


「セザンヌは生涯奥行を追求し続けた」とジャコメッティが言っているしドローネーは「奥行は新しい霊感だ」と言う。ルネサンスの様々な「解決」の後四世紀、デカルト以後三世紀になるが、奥行は常に新しい。そしてそれは人々が「一生に一度」ではなく、一生涯求め続けることを要求する。『眼と精神』

 

何故、奥行は常に新しく、一生涯求め続けることを要求されるのか...。

それは、奥行きが私の身体であり、私という意識と身体だからに他ならない。

 

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アトモスフェールの蘇生とは、

主体がそれとどう関わり巻き込まれたのかの告白や

半ば無意志的な状況論的身体性という形姿での

ロマンティシズムの暴露を、伴わわずにはいられない...

 

場所としての風景が<身体>である——

 

 

グァルディ。


風景画に "詩性” が誕生したといわれる所為。

 

 

※ 詩情がある という理解、とは何か (暗示性とは何か)

 

師(カナレット)との差異——風景を身体から切り離さない。むしろ身体自身を彷彿させるポテンシャリティの示唆と

鑑賞者との間でのこれの共有を果たす——厚みと奥行き としての 《身体性の歯痒い覚醒》をタブローの上に成就する

 

https://artoftheworld.jp/hermitage-museum/515/

 

http://free-artworks.gatag.net/tag/廃墟-古跡

 

 

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詩性の秘鑰をにぎる「厚み」について記したので、追記しておこう...

 

今年の春開催され、人気を呼んでいたミュシャ展。

この呼びかけがSNSでも盛んにおこなわれていた。ツイッターではこのような感想(主催者側?)のツイートが...

 

@mucha2017 は想像を超越してました。
ミュシャが今生きていたら、世界一のAdobe Illustrator使いになっていたに違いない!と思ったのでした。人呼んで、レイヤーの魔術師。

 

近代の獲得した実性(虚構性にたいする実構性?)と 機能性 ——ものの厚みについて。

 

私もオリエンタリズムの洗礼以降(シャヴァンヌ〜ラファエル前派以降)は発想がレイヤー(「平面的に」重層的・再-古典的・レリーフ的)世界であるなあというのは数年前から思っていた。そしてレイヤーとは、あえていうなら 聖性である。
ただその聖性は、ルネッサンス以前の彫像的レイヤーからクロードロランorプッサン的な構成的(構造的構築的——実構的)レイヤーに至る迄より 技法が精緻になっていると同時に、「質が落ちている」(退嬰)。

 

イラストレーションや漫画の技法に近づく のだけれど...。

 

やはりものの厚みの描写の不足、厚みにたいする迫真性の(半ば意図的な)衰萎に起因する。

 

他方で ボケみ(スフマート?)の工夫とスキルは非常に高度かつ凝ったものになっていると思えるが...

がそれもまた、ものの厚みを減衰させる方向に、意図的に寄与させられている気もする。

 

こうした傾向はもちろん、オリエンタリズムの勃興——シャセリオー(→シャヴァンヌ)の系譜 からだろう

 

※ということは、近代人権思想と立憲主義、の精神というのは、実構 なんだな。。。

音楽でいう機能和声 そして厚みを持った

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

プログレ ブリティッシュロックとその他、イタリアンロックなどとその底

一片の小説、詩、絵画、音曲はそれぞれ個体である。つまり表現と表現される物とを区別することが許されない存在、従って直にそれに接することによってしかその意味に近づくことができない存在であり、それらの存する時間的・空間的場所を離れずにその意義を投射する存在なのである。

『知覚の現象学』 (メルロ=ポンティbot @merleaupontybot)

 

1)人のありようのみならず、すべての表現行為は、「状況づけられて」いる、と、自分がずっと言いたかったことのすべてかな。
状況づけられている、ということこそが、(制約性でもあると)同時に 尊厳 でもある、という..。

 

 

2)主体と状況。
たとえば、ある科学者なりある芸術家なりが、自分は政治的人間でない、と宣言しつつ、自分の研究や発言、また作品を、その時の政治状況と無関係に?作り上げたり発表しても、無関係だ「というスタンス・態度で研究し作った」という政治性を帯びてしまう、というカラクリに無頓着であれば、そのような研究や作品となってしまう、ということ。
(このことは、その研究や作品の中で、直接政治的なことに触れ政治の問題として語るかどうかとは関係がない)

 

 

 

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エルガー以降のイギリス系音楽系譜。

 

これがYESを筆頭とするプログレッシブロック( Progressive Rock )の昇華性の高い、調性拡張後の聖歌的『ハモリ』(ポリフォニーや対位法の利用法 これをなしたのは主に影の力?クリス・スクワイヤと、より東洋寄りなジョン・アンダーソンだと思う。ハウは、もうすこしダウランド等の系譜を通っているから。合流しうるとは思うが)と通底するように聞こえる。

 

オルガンを彷彿させるエレキやキーボードなど楽器の声になっていても、同じ。

 

ブリティッシュの音楽家系譜————NAXOSなんかの収録を参考にすると、 具体的には エルガー ディーリアス アイアランド バックス ヴォーンウィリアムス ホルスト バターワース などという把握が妥当のかな。

半年くらい前に気づいたのだが、一番最近ではジョン・ラターという人がいる(この人も同系譜だと言っていいと思うのだけど)、まだ現役でやっている。もしかするとラターは、一応はクラシックなはずだけれどもかなりジャンル横断的に思える。

2013年に亡くなっているジョン・タヴナーなども入れるべき?(すこしバタ臭い、ビザンツ-東欧的匂いも醸す現代——前衛音楽崩壊後——作曲家)

 

(ブルックナーの聖歌などもそうだが、結局このイギリスへ行った[再-]遡及点はシューマン-ブラームスということに私的にはなるのだが。シューべルトもじつは対位法をやっていたが。いずれにしてもヴァーグナーがいてもいなくても、すでに調性拡張の芽は、バッハはもちろん、試みとしてはハイドンがあったし、ベートーヴェンの特に後期には十分音楽として、あったのだから。況やサティ、ドビュッシーにおいてをや つまり彼ら(ヴァーグナー/ドビュッシー)を通過しなくとも、また表立った 起点 としなくとも、調性の逸脱、拡張、崩壊は成された)

 

 

 

イギリスにはクリスチャンロック っていうジャンルがあるんだそう!(知るのが遅すぎる というかプログレ自体を知ったのがかなり最近なのだけれど)

 

 

ところで、この中にあるディーリアス-グリーグという路線の存在。これによりたぶん、 イギリスと北欧がつながっていく。

 

このことはロックの分野にもおそらくそのままつながっている。

 

ブリティッシュのみに進まずに、イタリア系プログレにも興味が引っ掛かっている人びとの意見と感性も面白い。

これもまた、クラッシックの方の系譜を垣間見ても納得ができるから。

 

前にあげた記事で色々触れたので詳細は省くが ざっくりとクラシックからいうと

グレゴリアンチャント(教会旋法)が長々といろいろありつつフランドルなど絡みながらドイツ→イギリスに音楽の系譜が移行するのだけど、その前にヴェネチア(イタリア→ルネサンス)経由しているというのがかなり要諦で——その後イギリスで初期ルネサンスが、後期はイギリス——Wマンディ等——・イタリア(・フランドル)同時!に、高度かつ洗練されたポリフォニーが成就している。それでトレチェント、クワトロチェントをきくと(まあじつはその手前、ヤコボ・デ・ボローニャなどにも)、ルネサンス→モンテヴェルディへ至る鍵が意外とある気がする訳だが、こういう経緯と系譜は、プログレにも反映してるように聞こえる。

 

なにしろルネッサンスが開花したのがざっくりいえばイタリア(フランドルから降りるが、開花のきっかけを多く北〜中部に持つ)なので当たり前なのだが、この時期ヴィクトリアなどのようにスパニッシュなのにフランスの古いシャンソンの原型を象ったような人もいるのだから、いろいろと異化しつつも底の方では グレゴリアンチャントの誕生と展開、そして讃美歌、伝承歌、舞踊などの存在とともに音楽系譜はつながっている。

 

もちろんもっとスパンを広げれば、ケルト民族とその移動などを通じて 世界は東西さえもが、まえもって越境的である。

 

 

またドイツのプログレについては、友人からドイツは他の地域に比べてあまりぱっとしない、とも聞いていたが

その(プログレらしさからすれば?)パッとしない(のかもしれない) ドイツのプログレ、というのはクラシックがドイツで著しすぎる隆盛を見たから、というのもあると思うけれど、ヴァーグナーの存在が調性の拡張で大きいからも無論あるだろう(※もっと言うとバッハ〜ベートーヴェン〜ヴァーグナー〜無調等々と展開して行く調性問題と、同時に哲学的・政治的問題、そしてそれと不可分な芸術の存在の問題、等々が重すぎたのかもしれない)。

[※...この点について、最下部に追記]


まえからFBなどで言っていたように 私は、ヴァーグナーを経由しなくても、ましてドビュッシーを踏まなくても、(ルネサンス以降ジェズアルドのような実験的な音楽が出現しえたこと、そしてバッハが到来し、ベートーヴェンの特に後期の顕著な調性拡張・旋法使用等の試みがあり、シューマン-ブラームスにおいては——ウェーベルンなども注目していたように——すでに十全すぎるほどのその発展継承性を見出し得、フォレもまた、ヴァーグナーの存在なしに(も)自身の音楽性を獲得しえた。音楽のもたらす影響力・効果、という点ではヴァーグナーが大いに参考になったろうが、それ以外のフォレ自身の幽体離脱的音楽性の確立そのものは、調性問題を含め!シューマン(→ブラームス)による先代(〜同時代)の音楽性の発展形という置き土産ですでに十分であり、ヴァーグナーの存在の有無とほぼ関係がない。

よって)調性はどのみち拡張され崩壊した、という意見の方なのだけれど。
ヴァーグナーは世渡り上手。

 

私はこのことを、スクリャービン(→マーラー)的な音楽性を含めて、言っている。バッハ、ベートーヴェンは前提として、シューベルト→ショパンとシューマン(→ブラームス)とフォレがあれば、スクリャービン(的な個性及び音楽)もまた出現しえた。その片鱗は、ニイチェの存在(音楽作品)が明かしている。

 


それと昨日だか一昨日、これを見つけた

http://kakereco.com/magazine/?p=9794

 

これに行き当たったのは ジョン・アンダーソンの音楽性からきこえる東洋志向が(シッダールタ や ビートルズ以来のヨガとヨガ思想の影響などのこともあるが)、ノヴァーリスともなんか繋がっているのかなあと思って、ダメモトで検索したら、直接アンダーソンがノヴァーリスを読んでいたとかファンだったっていう記事はなかったけど、上記を見つけたという訳。。。

読んでいるとなかなか面白そう。

 

 

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追記。

昨日これを書いた後に、ドイツでプログレが生真面目なまま?停滞した点について、ヴァーグナー一つを引き合いに出した形で通り過ぎたが、至極大事な点を落としていたのに気づき(入り込むと、例の巨大な問題——私自身の長い問題——となるので回避した感もある)、どの範囲で止めておこうかそれとなく考えた。

そこへ、友達の反応で、シュトックハウゼンなどがプログレの代わりにクラシック界で突破口をやってしまった感があるのがジャーマンロック停滞の原因ではないかとの指摘があった。

たとえばあの辺りは、タモリの番組でもシュトックハウゼンと数名扱っていたりしていた(クラシックファンからは面白可笑しく取り上げやがって、といった反発も出る分野かも知れない)が、私は正直あの番組「姿勢」に賛成であった。

 

ずっと前の記事にも音楽・美術にかかわらず触れたが、とくにジョンケージあたりからシュトックハウゼンなどのああした破壊的ともいえる試みでクラシック音楽がおおむね自壊(自滅)したと思っていて——私自身は、あまり彼らに対し寛大でない。過去の(けして「等身大」などではない)遺産に対し攻撃的乃至退嬰的な表現と表現者。こうした産物や傾向に対する 物わかりのよさ を拒否するタイプである——自己崩壊音楽と心の中でも呼んでいる。

で、プログレに興味が行ったのも、だったらそちらのほうがむしろ音楽の尊厳を担保することに成功し尊敬できると思ったのである。

 

調性の拡張〜崩壊期間にかけては、作曲家や作品にもよるが、クラシックという分野にそのまましがみついた人々や作品より得てしてプログレの方が表現として成功しているとも思える。

 

調性問題の移行と、プログレの(変拍子など多用するリズム等を含めた)表現形式、「斬新さ」の意味性——attitude——が合っていると思う。

 

もし(ドイツの)プログレがシュトックハウゼンみたいな試みをしたら、私としてはプログレにも失望してしまったと思う。

彼らはそれはしなかった、できないと思ったので、ドイツ外域のプログレよりある意味(生)真面目なまま停滞したのでは、とも思える。

 

がもともとの原因は、私自身はさらにもっと前に遡る、と思っており、それを書き足したい。

 

この記事の中でも、タラレバ的にヴァーグナーを——事実存在していたにも拘らず無き者のように扱っているのも、言いたいことと関係がある。 まあ実際には存在した人だし、居たからにはそれなりの影響力を事実与えたので、無視などできないのだが、それにしてもヴァーグナーに関しては周りの捉え方が過剰かもしくは好意的に迎えすぎ洗脳されすぎたと正直思う。

(こうした点は、哲学・政治、色々な問題が不可分に、表現と表現者の質の判定・価値づけとして関わってきてしまうところなのと、通常のクラシックファンにはとても言いにくいことがたくさんである 笑)が、ヴァーグナー以降えてして構成的にも表現のありようとしても、冗長な音楽が肯定されてきた。(同じ尺度でいえば、やれ構築性に問題があるだの構成的才能に欠けるだのといった、シューベルトやシューマンに対し、まま厳しく当て嵌められた尺度は、調性逸脱-無調-崩壊を辿った人々には当て嵌められずにいるが、それでいいのか?という問題も不問に付されたまま。)そしてその構成上の「冗長さ」が退嬰性と絡みやすい(思うに、これは至当な問題である)のは、類的な音楽(個と同時に人間性全般の尊厳について真摯に向き合っている質のもの)というより、個人的な栄誉や野心、逃避願望等々といった自我(といってもselfというべきものとエゴというべきものがあるが、まま後者に陥りやすいもの)の充足・発散が表現され、作品となっている、と判断される。この質の低落が、調性拡張-崩壊を辿る時期のクラシック音楽のattitudeや質(にも拘わらず彼らはクラシックという旧来のジャンルにしがみついているのである!)より、ここから脱したプログレのほうが、まま、意識が高いと感じざるを得ない所でもある。

 

他者の問題を放棄した自己の延長へと終始しがちな音楽と、調性崩壊問題とのつながり——一言でいうのは難しいが、あえて言うと、(何らか和声上の)「解決」をみようとしない姿勢、むしろいかに解決せず放置・延長するかという、*,**表現における(逆説的)形式主義——内的必然からでなく戦術至上主義、手法の自己目的化——謂わば未到未決イデオロギーに走った結果であるといえるのではないかと思う。別な観点からいえば音楽美至上主義ともいえようが、犠牲にしたものは人間性であったりHonestyであったりするだろう。よってそれはほとんど必ず、社会的位相においては倫理的な退廃だの権力不感症(不耐性)、といった問題にも通じてしまう。

 

*...機能和声上の解決放置、を表現上始めたのはシューマンによるところが大きいが、彼の場合は、その象った形式が内的必然に合致していた、これに徹したといえるのではないだろうか。未解決型和声は、これが登場する場合、自分の魂にとりこの問題(憧憬なり苦悩なり)が未決のままであることの赤裸々な表現に過ぎなかったのである。言ってみればそこが、表現の力量における決定的な差異なのではないかと思っているし、そうした点にこそ芸術の「質」の問題が横たわっているであろう。

 

**...形式のイデオロギー化という点では、ずいぶん前にグールドの題目でだったか、十二音技法についても触れたことがある。

例えばこんな言い方がよくあると思われるが、「十二音技法は理詰めだったために大衆に理解されなかった」それで、別な作曲家らが試みたのには(たとえばヒンデミットとかコルンゴルトというところになろうか)、「受けが良いように上手に調整した」云々。

しかし、この捉え方に終始しないほうがよいだろう。それと引き換えに寧ろ後者の彼らが音楽に「息」を吹き替えさせたのならそれがなぜか、ということを考えたほうがいいだろう。理詰め?だったことそれ自身より、理詰めのありよう(裏を返せば自発性とは何か、自律運動性とその機能(発揮・回復)可能性の裏付けや土台とは何か、その相関関係とはいかなるメカニズムに基づくかetcetc...)についてもう少しよく考えたほうが良いと思う。

[付記。尤も、秘密の多い社会に生きることを強いられる場合、芸術表現がある種の窒息的形態—— 一見無秩序に見えるパターナリズム?——に陥らざるを得ないという面を、私自身、昔ほど理解できない訳でもないのだが。死んだ呼吸を生きなければならないのである。]

 

ヴァーグナーに聞きとれる野心の拡張、逆にリヒャルトシュトラウスに聞きとれてしまうある種の逃避願望、(これらの一見真逆な問題はけして偏倚的ではなくむしろ交錯的な問題でもあると思うが)といったものの、調性拡張-崩壊問題としての現れ方...。

こうした、ドイツはもちろんだろうが、西洋全体を覆った問題に、クラシック界はもう少し取り組んだ方がよいのではないか?

 

 

典型的にはナチズムを台頭/到来させたこと。ひいてはこれに対する長い敗北感(台頭させてしまったことに対し、どう反省・再生したら良いのかわからない)が、芸術界・哲学界、色々な分野の文化人にとって重荷となりすぎ、遣り切れなくなっていった。

こうした精神的に自暴自棄な姿勢が、哲学的にはポストモダンのように犬儒的もしくはニヒリスティックな形で現れるし、音楽表現、絵画表現にも退嬰的 乃至 破壊的に現れていると私は思う。

 

しかしその際言っておきたいのは、ナチズムが、ベートーヴェンを利用したのは「誤解」に基づいているが、ヴァーグナーを利用したのははたして全き誤解なのか、こうした点にもきちんと射程してほしいものである。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven an die ferne Geliebte & R Schumann op39-12,op14,op17,op68 etc...

Spotifyでたまたま出てきたのが

 

to the distant beloved Louis Lortie Piano

to the distant beloved Louis Lortie Piano

 

この中のLiederkreis, op. 39-12だったが

 

ああー グランドソナタop14(=op17 などあまた、なのですが これの場合 op14に、自分にとっては親和性。実際 終結部では最も一致。メタモルフォーゼにより色々と射程が広がるが)と同じ 下降旋律が〜♡

 

もちろんBeethoven由来の二人の暗号(だと自分ではいろいろ聞いてきて、アレ『ら』(※キマイラだからひとつともいえる)がコレと思ってる 世間的にもすでにきっとそう)のところ♪

 

あらためて、おめでとうございます♡ ^^♪

 

シューマンの おや 何やら聞き覚えが... というのはいつも、懐かしい♡

 

えもいわれぬ程遠くから ”襲来” するノスタルジーとともに、なじみ深いものが 何とも新鮮に 再帰する♪

 

※...前の記事でも触れているから省略 笑)

 

 

 

お。今 Liszt の an die ferne Geliebte S469 を聞いているが、(編曲されずとも元 = Beethoven の曲自身のある部分に通じるもの op98 etc..)として、 Op68(R Schumann)も、色々想起されてきた。

 

やはりOp68は家庭的な音楽なだけある...。

ミニョン Mignon は、確かにアレ( A favori WoO 57 = An die ferne Geliebte op98 = An Die Geliebte WoO 140 = Mignon op75-1 1809 = Elise = Ghost Op.70 = Therese & Josephine etc..Chimera Χίμαιρα)だけど、新しい恋人アントーニェに対してのみの語りというには、やや悲しい、、、やっぱりあれ(Josephineの娘 Minona—anonim) は、これのもじりでもある、か。。

この曲(Beethoven's Mignon)が、どこか告別に似(告別 Liebewohl はこの曲の直後に書かれる 1809-10)、同時に A Therese Psonata No24 にも似ていることを思えば、あながちハズレでもないかも...。

 

そう。Schumannの Mignonミニョン(op68)もさることながら、Beethoven自身のあれこれに通じるも、ことにテレーゼ Therese (Opus 78 À Thérèse No24————それも、Andante favoriをも髄しつつ?) をやはり想い起こすことからも、後々関係する Minona (anonim)の 名は、Mignonにも当(宛)てているのかな...。

| Rei八ヶ岳高原2 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

状況づけられない原則など存在しない

状況づけられない原則など存在しない


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phpファイルやjsファイルなどを(もちろん私なんぞは構築そのものをするのでなくて、Webデザイン上、こうしたいという自分の条件に当てはめて部分的にjsコマンドをチェンジする作業くらいなので、まあ覗く程度だけど)見て思ったが、

 

function…にはじまり、if…,else… if…,else…のオンパレード。

 

だけどこれって理系だけではなくて、西洋だと文系でもあたりまえなステップなのかもしれない...。

 

if…(こういう場合は、こう。こうなるのは、今がこういう場合だから。もしその前提を違えれば?…もしくは、この前提そのものが崩れれば?)という仮定想定をすっぽり抜かしちゃったまま議論してお互いの思い(込み)の前提条件を照らし合わせずに話せば当然ぶつかるから、喧嘩して排除、みたいなことのくりかえし。

 

こういう、互いの条件無視型国民性を脱しないと、巧妙なやり手に、意図的に前提条件をするっとすり替えられたとき気づきにくくて、むこうさまのやりたいがままにされてしまうよなあ。。。

 

 

それと、このことと、そうつながらない訳でもないので追記しておくと

 

現代芸術に哲学的概念をあんまり単純につかってほしくないなぁと思うことが多々…。

そんな(高尚な?)概念が、こんな場面(画面やら楽想)に当て嵌まるとしたら、あまりにも使い古されてい過ぎる、とおもうことが多々。物の質や価値(存在のある種の尊厳を物語る諸要因だと思う)を決定づける諸条件設定無視で強引に当てはめられている感がある。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

挿入句(Parenthetic sentence)と構築(Construction)

構成における中断・切断・突発的挿入句は、構築性至上主義(仮 臨時造語)から見れば異型であり畸形だが、身体論的世界観にとってはごく普通であって真理である。

 

ノヴァーリス(Novalis)においても、こういう言葉がある。

ノヴァーリスは現象学が登場する遥か以前の哲学者だがすでに現象学的真理を突いている

 

------------- Quotation-------------

自己放棄は、あらゆる卑下の源であるが、逆にまた、あらゆる真の高揚の基盤となる。

その第一歩は内部への眼差し、すなわち、我々の自己を分離して眺める内観である。

ここで立ち止まるものは道半ばで終わる。

第二歩として外部への活発な眼差し、すなわち、自発的で冷静な外界の観察がなければならない。

(ノヴァーリス bot  Novalis bot on twitter)

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つまり、存在の真理の高揚的追求において自己放棄を認め、その際の内部への眼差し、内観には、或る逃れがたい「分離」!、解裂を、経験することを知っていた。

これが身体論的真理でなくて何か。

リルケ(Rainer Maria Rilke)にもこのような表現があるが。

この種のぎくしゃくした「つがい」の分裂運動を不幸に痛感しない 天下る幸 に至るには、熟練を要するとの記述...。

(ドゥイノ Duineser Elegien)

 

フモール ジャンパウル シューマン (Humor - Jean Paul -  R Schumann)

 

davidbuendler.web.fc2.com

DAVIDBUENDLER.WEB.FC2.COM

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:23 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

グランヴィル

1) グランヴィルの描出法は、(まだ〜ない)と (もう〜ていた)の見えない隙間に触れえた気がする

忘却されえぬ未到と参与であった喪失

「両者を-ともに-描い」てしまえばたちまちのうちに踏み外してしまうあの地点——死が彼自身にまといつく。

 

描法が逆さとはいえモランディも然り。

生も死もさぞ受け容れがたかったと思われる。

 

 

2) グランヴィルの、今まさに描出しつつある世界への共振力は真に迫りすぎている…。

テニエルのように真似事に終始する訳でもなく、

ドレのように辛辣さを辛辣さとして、魔界を魔界として精鋭に描き切ることでこれを超え出るのでもなく、

影と方位を沈黙と佇みの淵へと内部化してしまう真摯さが痛ましい。

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:50 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シュナーベルのべートーヴェンPソナタ30番演奏とその25番喚起——Schnabel plays Beethoven Piano Sonata No.30, Op.109

2014 6/24 FB投稿から

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=5eKGHvoh93M

 

Artur Schnabel plays Beethoven Piano Sonata No.30, Op.109

 

このシュナーベルの演奏――冒頭アクセントの付け方――はもちろんNo.30(op109)のあたまが、No.25(op79)-3楽章とじかにつながっているのを意識した、端的な演奏となっている。

 

なにより音楽自身が自ずから物語ってはいるが、No.30が馴染みのようにマクシミリアーネに献呈されている精神的背景を慮しても両者のつながりを考えるのは妥当。

 

参照)マイラヘスの演奏においてもまた然り。

 

No.25からNo.30は10年越しとはいえ、No.25の1810年というのはけして「早くない」であろう。

 

これをキマイラ(キメラ)と考えうるのかはまだ微妙...。私は、そう思うが。

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:33 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シューマン op80,op68,op54周辺をめぐって  つづき

Schumannのop80の関連。前記事参照

 

Webernの1905(STRING QUARTET)

 

https://m.youtube.com/watch?v=1Sn5wzRJPeQ

 

Anton Webern: String Quartet (1905) Anton Webern (1883-1945):

String Quartet (1905), performed by the MultatuliStringQuartet.

 

偶然この動画がヒットしたのだったが、いい動画を選んだようだ。

ヤコブベーメ絡みで どきっとする文字が登場する。

 

作曲家同士の秘義(秘技)を、共感しつつ世々代々暴露し合い、という感じだろうか

 

 

WEBERNが1:27辺りから着手し、明確には1:30以来2:35くらいまで執拗に繰り返している音列

(これ=2:35 以降は、よりブラームス-メソッドぎみに傾斜しつつ転回対位法的=上昇志向に変容させていく。それは直接には弦楽四重奏五重奏の境域。この際元の土台はこのRschのOp80よりはむしろOp44,47に近づく=扱う主題自身が移行する、ことにもなるのであるが)とは...

しかし要するに、RSch Op80第四楽章の終末、パロールとしては、例のフレーズ(※)であり、エクリチュールとしては、これを原基とするクロマティクな霊性であるが、<それ>とはそもそも「何」の展開(変容)であるのかといえば、(Op80の最初の主題が示唆してもいるところの)ベト遥かなるであり=Favoriに由来し、よって幽霊(Geist)でもあり、つまりはやがてRschの54年幽霊の主題による変奏曲のテーマと帰していくところのものである

 

 

※...26:24-27

 

https://www.youtube.com/watch?v=eLKy0UGDfwM

Piano Trio No. 2 in F Major, Op. 80 - Robert Schumann 

 

 

df)エリーゼ

 

 

上記関連

2016 5/23 FB に書いていたこと。

 

(再度 冒頭 Webern にもどって)

 

Webern のベートーヴェン 後期——幽霊 路線、と同時に!シューマン中後期(Op80)によせる視線


https://m.youtube.com/watch?v=1Sn5wzRJPeQ

 

ウェーベルンによる執拗なフレーズの繰り返しとその展開へのこだわり
曲全体が殆どそれで出来ているが、とくに 2:14-16にはじまるフレーズ。
同、2:22-24など。以来ずっと。

 


Rsch op80 (とくに最終楽章)を 調性拡大(崩壊)への足がかりとしている

最重要point  Op80は、殊に最終楽章にあっては調性問題に極めて示唆的な曲づくりとなっているが とくに

https://m.youtube.com/watch?v=eLKy0UGDfwM

最終版 26:24-27 ! Webernがこだわっていたのは、案の定ここである。

この場所とは、ベートーヴェンの暗号の急所——幽霊Op70-1・遥かなる恋人(←AndanteFavori)・エリーゼ(テレーゼ&ジョセフィネ)のテーマ・後期ベートーヴェンetc..のキマイラの統合的急所——であり、したがってシューマンも(メンデルスゾーンやショパンも同様におそらく気づいていたであろうように)キマイラの発現として当然ながらこだわっていた場所であり、この暗黙の伝達作用はブラームスに受け継がれ、ウェーベルンもまたしかりなのである。

 

 

 

 

2016 4/7付 FB  

 

Schumann op80 の周辺 ふたたび。

 

LvBeethoven   Andante favori

 

https://www.youtube.com/watch?v=iEmaEgWPphc

schumann op80 の調性が同じ( F major )なこと!

 

しかも階段を降りる ソファミレドシラ… のあの愛の暗号もベトから受け継ぐ

Beethoven - Andante favori in F major - Wolfgang Manz Wolfgang Manz performs Ludwig van Beethoven's Andante favori in F major live at the C. Bechstein Centrum Berlin. Learn more about Wolfgang Manz:… YOUTUBE.COM

 

ますますフモールとパロディ精神を見る根拠が。。

無論それだけではないが メンデルスゾーンの死をどう関連づけるか 再考

 

 

 

 

2017 3/30付 FB投稿より

 

Beethoven 

Andante Favori(アンダンテファヴォリ) WoO57(1803-4)というもの。

これと An die ferne Geliebte(遥かなる恋人に寄す)Op98(1816)。

 

https://www.youtube.com/watch?v=iEmaEgWPphc

 

Beethoven Andante Favori in F, WoO 57  1803-4

 

 

cf) これらにおける、「エリーゼ(テレーゼ&ジョセフィネ)」・「テレーゼ(テレーゼ&ジョセフィネ)」のテーマは?

あとでチェック

 

エロイカ冒頭と同じ。sym4冒頭とも。ファヴォリは。遥かなるも。

 

https://www.youtube.com/watch?v=PHUjOTKDQP0

 

Beethoven An die ferne Geliebte Op.98 1816

 

シューマンが毎度告白的に、もしくは精神の到達点として、好んだ例の旋律——Beethoven 遥かなるOp98…[ハ調でいう] ラシド(ド)ソ ——の直後 ファソファミ(Sym2) や ソファーミ(幻想曲Op17) が、Beethoven 遥かなる自身にある帰結であるとともに、同Beethoven アンダンテファヴォリ Andante Favori(0:21-0:35 以降、何度か繰り返される)の、馥郁たるぬくもりある印象的旋律の『再来』——これは、遥かなる(Op98)のほぼ冒頭からすでにほんのすこし変容したのみの形でfavoriが出現しているから、再来なのだが——でもあるのは必定。

 

だがそれで終わらせるんでは片手落ちで、幻想曲op17冒頭(ララソファーミミーレ〜↑ドラファシドレドシ)やop22pソナタ、op21ノヴェレッテン冒頭(ラソファミレーミレドレミド・ミレ、ファ ♭ミレドシドド♯レ)、op80トリオなどなどはみな、アンダンテファヴォリの変形であって、シューマンの中ではやはり結びついていた可能性は大きい。

フレーズの順序が逆転しているだけで。

 

ファヴォリは、op110・111(Psonata 31・32番)にも。

 

------------------------------

Afavori 1803-4

 

https://www.youtube.com/watch?v=iEmaEgWPphc

 

An die ferne Geliebte 1816

 

https://www.youtube.com/watch?v=PHUjOTKDQP0

 

 

 

CiNii 論文 - R. シューマン作曲前期作品の特徴から見た「幻想曲 ハ長調 作品17」の演奏解釈に関する一考察 R. シューマン作曲前期作品の特徴から見た「幻想曲 ハ長調 作品17」の演奏解釈に関する一考察 岩佐 明子 京都文教短期大学研究紀要 52, 91-102, 2014-03-12 CI.NII.AC.JP

 

 

2/12 付 R Schumann の ci.nii 論文について

 

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009684782

 

5度下降がなぜなのか とそれが他の主題(遥かなる永遠の)と繋がるのはなぜか、そこまでベートーヴェンの秘密を(シューマンが)突き詰めていた(はずであろう)ということがなぜか書かれていない

 

 

 

ここで触れられている、聞きなれた3番 grandsonata も、シフで聴くとエリーゼ由来に聞こえた。

 

ノヴェレッテや22番(ソナタ2番)だけではない 幽霊 geist がエリーゼと遥かなる の 端的な統合であることもなぜか抑えられていない

 

 

 

 

補足。某音楽サークルでブラームスsym1番ガーディナー指揮が上がっていて、

全体の1/4-1/3聞いているうち、シューマンop80に聞こえてきた

 

https://m.youtube.com/watch?v=VqrF7Luxwyw

 

Brahms, symphony no. 1 in C minor op. 68, Gardiner, ORR Johannes Brahms, Symphony no. 1 in C… YOUTUBE.COM

 

多分まだ一楽章内の、ある部分

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シューマン op80,op68,op54周辺をめぐって

2016年12月17日 FB投稿より

 

 

シューマン「子供のためのアルバム」op64 (1848年作曲)

についての印象変化。

 

https://www.youtube.com/watch?v=cfGR2h-UQ0M

Robert Schumann: Album für die Jugend, Op.68 - Michael Endres 

 

(開始は No28「想い出」からの設定)

 

 

以前にあれだけ調べ色々なことを見出しておきながら、この曲集について長い間、ただ一番から順繰りに思いつき書かれたかのように無意識に思い込んでいた(もちろんやや錯綜した、殆ど同時多発的ともいうべき曲同士の濃厚な有機的連関性——同一スタイルやテーマのフレキシブルな変容性——は意識してはいたにせよ 前記事参照 Op68-1 / Op68-2 )が、否むしろほぼ中央に位置する曲——メンデルスゾーンの『想い出』Op64-No28(36:50-)が、殆どすべての発出点であり曲集全体の雰囲気を覆っていて(=創作の動機)、またそのことがたいへん馥郁たる意味を帯びて他作品に、否この曲集ぜんたいに、影響を与えているのではないかと、ここ数日で思い至る。

 

Op64-No28(すべての遡及点、同曲集の作曲動機であろうところの、メンデルスゾーンの想い出)は、最後の曲 No43 『大みそか』(1:10:54-)

と、《裏返し》(上下鏡状)の関係。

(※メンデルスゾーンの死は前年11月。おおみそかはそれを回想しつつその一年(曲集全曲)終わる。)

 

ついでながらまた、1番『メロディー』(0:00-)は、半音使いとアウフタクトの有無が、28番との間にあるだけで、やはり酷似した音列による開始である。

 

これも余談ながら、No16『最初の悲しみ Erster Verlust 』(19:11-)冒頭は、『想い出』を短調!にし移調しただけ...。

 

なのでもう、この推論はほぼ確定と見ている♪

 

ただ、ではその 核となるほぼ中央の作品自身は、どうして出来たのかというと、ある作品(同作曲家 複数作品=Op54,50,80など)にも同時に遡行しなければ、というところ。

 

 

 

 

メンデルスゾーン(の死と思い出)テーマをめぐって

 

★Op80(主に 2楽章)

mov2の冒頭は(無論mov1の変容でもあるが)、かなり直にOp68-No28(メンデルスゾーンの『想い出』)テーマ自身である。

※番号としては あい前後するが、Op80のほうがOp68より前(前年)に書かれてはいるが、要するに双子の関係である。

 

Piano Trio No. 2 in F Major, Op. 80 - Robert Schumann

 

(開始は mov2 からの設定)

 

●喚起 mov2 13:10-35

 〜

●解決 mov2 8:48-56/14:28-38

(※時間が相前後するようで不可思議、と思われるかもしれないが、シューマンが挿入句を盛容れたあげく先延ばしされたかにみえる解決は、じつは喚起自身より前以て在り、この喚起 13:10-35 自身への再来としての同じ解決はなく14:28-38としてやや形を変えている)

 

ところで、このスタカート気味に、やや情熱的に上昇する 喚起 とは何か?

(直接的にはベートーヴェンの幽霊冒頭スタカートの逆向=反行形 であり Beethoven遥かなる恋人テーマの変形であり、もしくは遥かなる...の[ハ調でいうところの]レミファソラー(ソファミーレー)部分 であるが、もうひとつ↓)

 

★Op64-no28

 

0:05-0:08

https://www.youtube.com/watch?v=uNMQTU2DP00

 

印象的な上昇音列 これでもある

 

メンデルスゾーンの↑「想い出」の急所でもある、この気分の由来は、直接にはメンデルスゾーン「エリア」の印象(Mendelssohn Elijah:He watching over Israel 0:52-57 が1フレーズ。以下しばらく打ち返す波のように繰り返し)から来るものであろうが、

( https://www.youtube.com/watch?v=RLdtvOoHAvM 0:52から押し寄せる波のように度重なる上昇)

 

He watching over Israelの、"slumbers not nor sleeps"が、Op68-No28の、冒頭であるとすれば、この上昇的盛り上がりの方は、0:52-57以降にあらわれるフレーズの、シューマン的再現である

 

※これと逆(上下の対位関係)であるところの下降音列こそは Andate favori WoO57 (印象的な小躍りする恋愛感情としての下降 恋人のもとへそそくさと舞降りてくる=到着 気分)である(下降——うきうきする上昇と「下降」——音型は、幾つかそのまえぶれとして繰り返しあるが、もっとも典型的なのは 2:56-3:28 以後も繰り返される )これがロべルトとクララの愛の暗号のおそらくモトとなっており、初期ピアノ作品群やOp54などにも使用されている。そして下降(舞い降り)があれば上昇(駆け昇り)があるのが生きた、変容する音楽である...。

 

※※ところで、子供のためのアルバム Op68 の中には Non Title(untitled)の作品が3つある( No21,26,30 その他に、No34 Thema という題名のものもある)が、どれも No28 メンデルスゾーンの想い出(及び自分の家庭・クララ)のイメージがないまぜになった雰囲気の作風である。

例えば No30 untitled (41:00-) の、41:07-41:13 にも、No28「想い出(上述)」と同様、メンデルスゾーン「エリア」の残影がある(Mendelssohn Elias Op70  He watching over Israel, "slumbers not nor sleep" の "..." 部分)

 

尚このno28「想い出」 には トリルもあり《同シューマン作品 op54 のミミファミレ♯ミ tr に相当するようなド♯レド♯シド♯が!!》 およそこれと不可分なラシドミレドをも喚起させる雰囲気。波打ちつつたびたび高揚する気分( : - : )

ファミ♭レドシ ↑ソファミ♭レド ↑ファミ♭レドソ↓シ♭ーラ

 

 

それは、

★op54

https://www.youtube.com/watch?v=Ynky7qoPnUU

ここにはないのか?—— ラシドミレド(op80-mov1 mov2 にあるもの)は?

 

冒頭じゃないか!!! ドシララー(Clara)のすぐ後だ 

 

ラシドミーレード,ドーシー(シ♭ラー ラ↑ 《ミミファミレ♯ミ tr》)

 

すくなくともこれは (幻想曲ハ調でいう)ラーシドドー↓ソー,ソーファーミー (遥かなるLvB op98 に由来するもの、つまりはベートーヴェンにとって andante favori WoO 57 から来るもの二小節目)であり、シューマンのこれらにおける ※(ラシド)ミ↑ーレドーは、このメロディ——遥かなる。【ラー(ラ)シド[ド]ー】 ↓ソー,ソーファー[ミー]...(レーミーファーソー ラー ソファ)【ミ レ ド 】——からのものであり、ひいては ※※ソファミレドというロベルト&クララ暗号への帰着である。

 

※幻想曲OP17の、ラシド ド ↓ソ レ↑ードドばかりが帰着ではない

※ソファミレド型の暗号的下降...この起因は、じかにBeethoven Andante Favori WoO57 に見いだせる。

(展開部 秘めた恋愛独特の躍動感 リンクyoutube)

 

 

 

ただ、このこと(op80:op68-no28関係)を論じるのに、

 

op54
https://www.youtube.com/watch?v=Ynky7qoPnUU

を聞いておいたほうがいい気がする。

 

前の自分の投稿

http://reicahier.jugem.jp/?eid=42

http://reicahier.jugem.jp/?eid=43

 

でも、Op68には、op50やop54の影が濃いことからもいえるが。

 


今思うに最も良い仕方で、メンデルスゾーン(op68に見る)とクララ(Beethoven 遥かなる恋人 op98/Andante favori WoO 57)のイマージュが重なり合っているから。

 

cf)
op19,20,21,22,23...
Elise 「&」 An die ferne Geliebte=Immortal Beloved なのかどうか

 

 

そういう耳で さらに op54!をきいているとやはり、

op68 このアルバム、曲集の全ては、no28(メンデルスゾーンとその死。回想するところの、メンデルスゾーンの<よき>思い出——彼の楽長就任後のライプツィヒ ゲヴァントハウスorchで成功したop54、とクララ。形成しえた家族etc…)から発しているのではないかという仮説がふつふつ浮上する。

 

つまりメンデルスゾーンの思い出(前年度47年11月死去)が、ほぼこの曲集の気分ぜんたいですらあり、そしてこの曲集の中にはop54の余韻が、op68-no28を含みながら同曲集のあちこちに漂うこと、またとくにnon-title 3つの無題作品を筆頭に。。。

(このことは既に当blogに書いてあるが... 上述のリンク2つ参照)。

 

かつそのまえの年=47年、メンデルスゾーンの死の直前に作曲し終わった、とされる op80 Piano TRIO no2 の創作が、メンデルスゾーンへの思い存分に作曲されている感じが浮上。作品の曲想同士の重なり...。

ファニーがこの年(47)の5月に亡くなっていることからの、メンデルスゾーンへのいたわりなどもあろうか?

メンデルスゾーンの死(=シューマンがOp80を完成した直後)のまえに、メンデルスゾーンは代表作エリアを世に出し、シューマンはゲーゼ(かれの名も Op64 子供のためのアルバム の中に登場する)とともにこれを聴きに行っている。(サイトリンク)

 

たしかにエリアの反映が冒頭にある

(he,watching over Israel これの"slumbers not nor sleeps" の部分が、op64-no28 開始に映現しているようだ。全体の、波打つようなたゆたう感じとともに、0:52-の上昇なども、すこぶる暗示的。

 https://m.youtube.com/watch?v=RLdtvOoHAvM )

 

余談だが、この至福感を帯びた「波打つ」感じは、ヘンデル「メサイア」(Pastral〜Suddenly...Angel〜Glory to God 辺りの気分)— ベートーヴェン 田園(第一楽章 田園と草原を吹く風のうねりの線描)の路線からも来ているのではないか

 

 

 

 

2016年12月8日 FB投稿 を機に

 

シューマンop80

昨日思ったこと。

これの前に聞いていたOP41-2との連関から聞き出したが、
ここにもやはりブラームスの足跡が多い。(おもに弦楽5,6重奏曲の掛け合い仕様。天使の主題さえあり!、おそらくブラームスによりかなり研究されている。なお、このことの反映・継承は、Webern 1905 に見事にみられる。これは後日触れる。彼はベートーヴェン後期から彼自身、に至る迄、この点を継承させている)


Piano trio no2は、op80と番号が振られてはいるが

実際には、op68(子供のためのアルバム)のかかれた年の前年、1847年に書かれている。47年というのは微妙な年だ。

メンデルスゾーンが11月に亡くなる。

メンデルスゾーンの死は、おりしもこの作品(op80 Piano trio no2)作曲の「直後」だったのだが

(※先週だか先々週に判明...。2017 6/22付記)、

 

いずれにせよこの年は、メンデルスゾーンの姉ファニーがすでに5月に亡くなってはおり、メンデルスゾーンのショックの激しいのと精神状態の上下高をシューマンは当然察知している(であろう...)。そのためか不安定。

 

聞き慣れていた時は、シューマンにしては、さして短調もないし愉しげな曲想だなあという感覚だったが、よく聞くと精神の不安がよぎる覚束ぬ愉しさ。それが調性の拡張、という形で出ている!——こういうところがシューマンらしい。つまりシューマンにとって調性の拡張〜崩壊(の予兆)といった問題は、自己の精神・身体と切り離された<方法論的>なものなどではなかった。


通常の作曲家は——ブラームスやフォレでさえ——調性の拡張・逸脱を、(機能和声進行の転機を迎えつつあることから)作曲の方法論としてある種割り切っており、その点での健全さ(メソッド、スキーム、ストラテジー等々としての構え)が前提になっているが、シューマンという人間においては、方法の問題と精神-身体の問題とは不即不離である以上にむしろ全く一致している。

偶然とは感じられない。

それこそがシューマンらしさでもあると思えるのだ。

 

機能和声進行の逼塞から逸脱こそが、人間精神の逼塞と逸脱=転機そのものが、いわば集約的に一人の人間において、きわめて裂開的に具現(表徴)されているからである。
やはりなにか精神の拠り所・支柱がない感じ...。

 

 

そのように、メンデルスゾーンをすでに喪いつつある(?)こと、——それが音楽的な意味だけでなく精神的に左右していること——が、もちろんきわめておおきいだろうが、
もうひとつの不審な点として?、それまでにはシューマン音楽の錯綜するシニフィアンにとって、確実にクララであったろう<到達点(シニフィエ)>にすら、すでに揺らぎが生じている感じで——この頃(47年)まだブラームスの登場は無論なく(あれは53年正確には10月とされている)、そうした意味で具象的な代替問題までは浮上していないものの、

かといって——op41やop54の頃のような確信に裏打ちされた憧憬と同じ・もしくはその円熟線上、とは...やはりいいがたい。

 

そのせいなのか、ベートーヴェンの幽霊op70-1——ジョセフィネ像——正確には姉テレーゼを被ったジョセフィネ像(から発せられる「女性」性)と、遥かなる恋人op98——アントニア像(から発せられる「女性」性)——とが癒着している、大芸術家の搦手、暗黙裏の秘匿⁉︎を、無意識下にか意識的にかは知らないが、暴いてしまってさえいる...(キメラ/キマイラ Χίμαιρα)

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:29 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フォルクレという存在

(Kさんのところの雑談にあえて書かなかったこと 2016’12/31 FBにて )

 

フォルクレ(Antoine Forqueray)の存在がないと、音楽は近代に移行しない(機能和声へ到着する必然性を持たない)

 

[かくてラモー(Rameau)の到来を待つ...!?]

 

 

 

※この日はじめて、1,2曲聞いてみて、抱いた感想。

 

作品例

https://www.youtube.com/watch?v=mzyEQg3T6E8

 

 

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【追記】

FB友さんのあげていた、ヘンデルの鍵盤楽器用作品に触れた感想

 

一連のヘンデル(鍵盤)、面白く拝聴した。(じっくりとはきけていないが)。

 

やはり リュリ、クープラン、フォルクレ、ラモーという系譜から統合的に聞いていく必要を感じる。

それとベートーヴェンを基軸にした場合、此処から振りかえってとらえるヘンデルの含蓄を、

ヘンデルとしてのある種の完結性と、ヴィヴァルディ-ヘンデルという流儀の両面からとらえることができるかなと

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

15C初頭〜ラッスス、パレストリーナへの道、モンテヴェルディ、とそれ以降。友達との雑談想定場面

youtubeでみつけた或る録音。

 

これは一体いつの時代の、なんだろう...という問いからはじまった会話

 

https://m.youtube.com/watch?v=nLZaEDDghgk

 

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Kさんに質問してみる...。 Rは私。

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K「いま聴いています♪

13世紀と14世紀の曲が多いです。

リストはここにありました!

http://ml.naxos.jp/album/A332

 

R「あ。あらなんだ。ランディーニも入っていますねえ。不祥のもあるっぽいなあと思っていましたが、やっぱりこの楽団!のはナクソスに入っていることは多いようです♪ やあ。。レヴェルディー(楽団)のだったのですね〜。

ありがとうございます! お騒がせいたしました。ナクソスにアクセスしてみます。」

 

K「CDを買って解説書をみたんですよー。

でも面白いCDでした! 教えていただきありがとなのです!」

 

R「え、おもしろいでしょう?! ...意図が、ありそうな気がしたのです。。

モンテヴェルディの装飾音につながりませんか。。そんなことではないのかなあ...」

 

K「モンテヴェルディまでは感じなかったですよ。」

 

R「そうですかー 残念 笑)」

 

K「モンテヴェルディが活躍したのって1600年の前半くらいだから、今回の音楽とはかけ離れすぎな気がするんです♪」

 

R「そっかあ。。。まあ、もし何かあるとしても、『間』に何か相当、入りますね。。。

私さいきんワロン人(ブルゴーニュ楽派?)のイタリア化と、イタリア人自身のより大きなイタリア的なるものへの融合(ヴェネチアにて!)と、それがやがてイングランドへ行くっていうことが、面白く感じています。 ......

ケルト的なもの(のなごり)がそうさせているのかなあ。」

 

K「モンテヴェルディの時代って、いまみたいにCDもないし、入ってくる情報って限られてくると思うんです。 モンテヴェルディが、マントヴァの地にいながら、彼以前の音楽をどんだけ知っているかはわからないけど、限定的なもんだったとは推測されます。」

 

R「土地が かつてのフランドルみたいに、いろいろなものが『入ってくるような場所』であれば、まだちがうのでしょうけれどネ...。んー あとは流通するのは紙以外では人(脈)だけですものね」

 

K「そうね、そうそう。 もちろん、モンテヴェルディに音楽を教えたお師匠さん(師匠というからには、モンテヴェルディよりも古い音楽を知っているひと)、それからモンテヴェルディはヴェネツィアに行くんですが、そこではいろんなものを吸収したでしょうね!」

 

R「『モンテヴェルディはヴェネツィアに行くんですが』——へぇ!!! にゃんとまあ。。。 レヴェルディ(la REVERDIE)、というこの、なにかと面白いものを録音する楽団は、ヴェネチアの楽団、なんです。なので歴史も勉強しているのかも...(?)」

 

K「それはあるかもですよ!」

 

R「モンテヴェルディ聞いてると、ランディーニや、チコーニアとその弟子ら(ロマーヌスなど)と、ワロン人の音楽とが融合した雰囲気が、もっと複雑になって、ずいぶん年月を経たのち、モンテヴェルディとなって出現してくるように聞こえたので...」

 

K「イタリーの系譜っていうのはあるかもね♪」

 

R「そう。...『ランディーニや、チコーニアとその弟子ら(ロマーヌスなど)と、ワロン人の音楽とが融合』→これは、ヴェネチアで起こって居ます...!」

 

K「モンテヴェルディと同時代の作曲家による作品を聴いてみる必要がありますね♪」

 

R「そうなんですよー それとか、モンテヴェルディの手前の音楽。。。

いまでこそイングランドが話題になってきやすいですが(ハイドンからブラームス はてはビートルズやロックまで、イングランドからバラードなんかの素材をとってきてるので)そのイングランドへ行く前に、遡るとイタリア(ヴェネチア)経由してるっていうことが、何かひっかかっているのです。。いつも。」

 

K「それは面白そうです!」

 

R「そうそう、ここまでしてきた話だと、おもにイタリアで、ルネサンスが花開いていた(モンテヴェルディよりちょい早いですがまあまあ同時期)というのも納得がいく気がしてきて(パレストリーナをはじめ...)、 それぞれ、引き出す主要素は違っていたけれど、このころのヴェネチア音楽から、それぞれ違ったもの(相面)を開花させたのかなあとか。」

 

K「パレストリーナがなんで、ヨーロッパの音楽史にあんだけ絶大な影響を与えたかというと、パレストリーナはローマのサン・ピエトロ大聖堂とかで働いていたでしょ。 ローマ・カトリックの総本山みたいなところでしょ。 そういうところでは、ちゃんと楽譜が保存されていて、死後も代々歌われ続けていたことなんです。 だから彼の対位法が原典というか教典のようなものになったんですよ。 だからバッハもモーツァルトも、パレストリーナのことはよく知っています。 たぶん知らない人はいないでしょう。」

 

R「『バッハもモーツァルトも、パレストリーナのことはよく知っています。 たぶん知らない人はいないでしょう。』——こういう点についていつもおもうことなのですけど...ね、そして、チェチリア運動がおこりました。が、あれはパレストリーナだけなんですか...。ラッススの音楽性ってすごいと思うのですが、ラッスス(ラッソ)は同時に、もしくはそれ(チェチリア運動の起こる時代)より前に、JSバッハの時代とかに、普及しなかったのでしょうか。」

 

K「どうでしょうね? バッハの時代にラッソの音楽を知っている人がいたかどうか。 教会音楽以外は使い捨てでしたからね。」

 

R「ラッススの属しているフランドル学派はフランドル学派で、ちゃんと楽譜を保存するとか、そういう作業はしていなかったのかなあ...」

 

K「教会音楽は、教会の管理がしっかりしていれば残っている率が高いです。 世俗曲の場合は楽譜が散逸する可能性が高いですよ。」

 

R「ラッススって、フランスとイングランドを訪問しています(せっかくのローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂楽長に就任したのに一年で離職し、パレストリーナに後任を譲ったあと)...。そのまえに、ウィキによると『マントヴァとシチリア、そして(1547年から1549年まで)ミラノに足を運ぶ。ミラノ在留中にマドリガーレ作曲家のオステ・ダ・レッジョ(Hoste da Reggio)の面識を得て、初期の作曲様式に影響を受ける。』ですって...」

 

K「ラッススの曲ってどれぐらいのこっているんだろう?」

 

R「youtubeで聞いてると、わりとそれなりに...パレストリーナより瞑想的で、形式を逸脱する分、バッハの不思議な部分には近いと思うんです(というかジェズアルド的なものに移りやすい?) バッハの、時々(短調作品にしばしば出現する)奇異な部分 というかクロマティクな意外性の部分...にも近づくかも...。ちょっと不気味な。」

 

K「バッハも特異な作曲家ですよね。 バッハがどうやってあのバッハになったかというもの面白い課題ですよね。」

 

R「そうなんですよねぇ〜。パルティータ系とかではその面は出にくいですが、平均律とか、調律問題を兼ねた?音楽系でよくふっと出てくる、短調の、半音階志向ものに出現する...東洋無的な瞑想性があるのですが、だれか女性ピアニスト(シャオメイでしたか)が、じっさい東洋人の血が入ってるといったとか...。それはじっさい調べたのか、ピアニストとしての率直な感想などといった文脈かは、ききかじりなのでわかりませんが...私もまえまえから思っていたのですが、東洋的なものは、もしくは東西越境的なものは、やっぱりあると思います...」

 

K「音楽による百科全書的なものを目指したことは間違いないとおもいます。」

 

R「そうですよね。ありがとうございました♪」

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 18:53 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ヴォルケンシュタインのこと、その後継-周辺としての ロマーヌス、ランタン そしてデュファイ、ジョスカン、またパレストリーナへの発展性

NAXOS music library にて la Reverdie 楽団による 下記の録音で知った14C末-15C初頭(ケルト旋法が、この録音のように吹奏楽や、あるいはゴシックハープにより演奏された時代)の音楽。

そしてオスワルト フォン ヴォルケンシュタインのこと。

 

面白い録音に出会う。

 

『女の島 - ケルトの女性たちが中世に響かせたこだま』

http://ml.naxos.jp/album/A311

 

この半年〜一年のずっと、ケルトの旋法とその発展の究極形としてのパレストリーナ時代の到来、という風な軸で西洋音楽の基礎を把握したいと思っていた。

そしてその継承発展期の発端として、15C初期〜前半を捉え、今はまだ(デュファイやバンショワと比し)それほど知られていない H de ランタンや、学生時代に唱った A ロマーヌスの作品(written in praise of Tommaso Mocenigo, who was elected doge of Venice in 1414——ほぼリディア旋法。所々機能和声的)などに、もっと光が当たり、彼らを含んでパレストリーナ時代へと収斂・結集して行かれないかと思っていた。

 

が、 もしかするとかなり優れた、そのための契機——ビザンツ風な残響の多いオケゲム門下と すでにそれを排しつつあり、のちのパレストリーナを予告する地中海的な明るさを帯びていたランタン、ロマーヌス、クロストフォロデモンテらの流れとの 両方を生み出しうる、音楽史の契機、もしくは分岐のつなぎ目——として、予告的に重要な役割を果たすのかもしれないミンネジンガーの名残めいた人物、オスワルト フォン ヴォルケンシュタイン に遭遇。(海外では既に話題になっている?)

 

 

Wolkenstein (* 1377?-1445)

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Oswald_von_Wolkenstein

 

ミンネジンガーの名残のような生き方

early 15thへの架け橋...!

 

できるだけ、当時のヴェネチアを彷彿とさせる吹奏楽版である、上記リンクNAXOSで聞かれたいが、無理であれば下のyoutubeで聞かれたい。

 

Ave mutter kuniginne (Ave, mater, o Maria)

https://www.youtube.com/watch?v=Pn2cfRXH15c

 

この音楽の質。語法...。 驚愕。

やっぱりもうこれは Antonius Romanus (fl. 1400 – 1432)  Hugo de Lantins (fl. 1420–1430)  Cristoforo de Monte (fl. 1383-1437) らと、《ほぼ》完全に同じ語法になりつつある...。

おまけにこの人物の、じつに興味深い 放浪の生涯!!!

チロル国境〜黒海周辺——トルコ、ペルシャの方まで彷徨。またフランス イタリアへ。

 

※この la Reverdie による録音では、ケルト説話が吟遊詩人たちによって歌い継がれた世紀の名残の濃厚な時代なため、トリスタン物語にかんするハープを伴う歌なども収録されている。

 

その中でのヴォルケンシュタイン Oswald von Wolkenstein の存在、である。。

 

 

他方彼にはこのような、どちらかというと暗い側面もある。もちろん旋法の選び方によって明-暗 変化する面も大きいが、これを利用し旋律が受肉した世界の諸々のニュアンスがおもしろいのである(Es Fügt Sich)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=_o0AUCwHzt8

 

これはケルトハープ(ゴシックハープ)と独唱なだけの作品であるが、(謂わば短調であり、しかもより重要なことには)、これの延長線上にあるのは、四度五度を基軸としつつ伸縮しゆらぐ平行和声である。それはビザンツ的である。基本的にデュファイ、バンショワの流れである(彼らにももちろん幅があるが。それは最後尾、付記にも後述。)

 

両者(両面を知り語るもの)。イスラムと15C前期ヨーロッパ(辺境線。このころはまだエオリア旋法・イオニア旋法はないが)の「つなぎ」目、というと、オケゲム(門下)につながるのだろうか... オケゲムはもう近代(機能和声上調性)でいう長調支配の多い気がするが... 

 

 

ヴォルケンシュタインののちの時代に目を移して言うと、

 

(チコーニアから)ランタン、ロマーヌスら15Cヨーロッパ-地中海派は、こちらの道——オケゲム——への暗示性が高いといえるのか。だが、低音部の処理についての明るさ、呪詛性のなさ、バタくさくなさ などは、ある意味オケゲム(門下)を予め通り越している面がある気がするのである...。(含!:旋法上の問題以外の声部と旋律処理)

(だから、前もってパレストリーナを想起させもするのである...)

 

 

デュファイはランタンを知っていた。(Wikiより)

であればパレストリーナが遡行しランタンら当時のヴェネチア音楽を知った可能性も高まるのか。

 

ロマーヌス、クリストフォロデモンテまでをばたとえ知っていなくとも、彼(ランタン)は、きっと知っていたろう!

ロマーヌス、デモンテ、いずれにせよたいへんな夭折であるが...。ランタンに関しては、その活躍期間の短さにも拘らず父親?の仕事も引き継いでいる分、音楽史上に残る痕跡は幾分拡張するのかもしれない。ウィキによればアイソリズムをより導入したのは父親?より革新的であるらしい。

 

注)ロマーヌスはついここ数年で英語版Wikiに登場した(それまではなかった)記憶がある。クリストフォロデモンテは、今でもWikiが見つからない...

la Rreverdie 楽団の着眼の画期性が見込まれるだろう。

ちなみに、 la Rreverdie による他の録音 (※下記参照) において、チコーニア後継・周辺としてであろうか ランタン、ロマーヌス、クリストフォロデモンテの音楽が、終止名でおなじみのランディーニや、パドヴァの音楽とともに収録されており、これも画期的であると思われる。

ここにはロマーヌスの Ducalis sedes Stirps Mocenigo が収録されており自分にとっては再会が感動的であった...。

また最後の曲のクロストフォロデモンテの音楽では吹奏楽器のみならず鐘も使用されており、儀式や祝祭の場でのパーカッションの役割を遡行するにも興味をそそられる。

参考資料)http://ml.naxos.jp/album/A387

 

 

Hugo de Lantins (fl. 1420–1430)

https://en.wikipedia.org/wiki/Hugo_de_Lantins

https://ja.wikipedia.org/wiki/ユゴー・ド・ランタン

 

Antonius Romanus (fl. 1400 – 1432)

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonius_Romanus

quotation----------

彼の音楽は1412年に死亡したJohannes Ciconia(ヨハネス・シコニア ※チコーニアのこと)の影響を強く受けているよう…。 また、Antoniusの後期活動の大部分でイタリアにいた若いGuillaume Dufayにも影響を与えているようです。 ————from Wiki "Antonius Romanus"

 

※たしかに、https://www.youtube.com/watch?v=8d4kpl_X79U&index=17&list=PLEEA380053369A0E0 などをきくと、シコニアのこの曲とロマーヌスのモチェニゴ(1414)とはかなりの類似点があり、創作の決定的動機になっていると思わざるを得ない♪

-------------------

 

ここで、Palestrinaのある曲——Missa Benedicta es à6 を思い出そうと思う。

 

https://www.youtube.com/watch?v=l-UZKRSA-C0

Missa Benedicta es à6 Palestrina

 

 

この曲↑をtwitterで紹介していた方が追記されるには、パレストリーナがジョスカン(Josquin Des Prez; Josquin des Prés, Josquin des Pres, Josquin Desprez 1450/1455? - 1521)の或る音楽( motet Benedicta es caelorum Regina)に触れた後の曲、とあり

保守的とされるパレストリーナが、他方自分以前の音楽を収集研究し(彼の当時の地位からすれば当然のことであろう)、自身の音楽の幅を広げようともしていたことがうかがえる。

 

ところで、ジョスカンはオケゲム門下。

デュファイはランタンを知っていた、のであるならば、パレストリーナが遡行し、自身の音楽の自然な発展形として結びつけやすい音楽に出会ったろう音楽は、ジョスカンやデュファイのみならず、ひょっとすると(ジョスカンやデュファイを介し)若干先んずるランタンやロマーヌス(つまりチコーニア後継・周辺としてのもうすこし別な流れ、よりヨーロッパ-地中海的な流れ)への探究にも及び、以て自己自身の糧・より手堅い礎としたのではないだろうか、という推測が生じてくる。

ペルシャ的、というよりはもうすこし、呪詛的要素の排された、もしくは後々バグパイプのような楽器に代替されうるのであろう通奏低音を含めた低音語法の、極めて少ない、正統的キリスト教的音楽に近しい流れ。ケルト色(旋法)をうまく踏襲しつつもヴェネチア的な明るさの側面を利用し音楽的透明度を高め、以てポリフォニーとして完成する流れ。である...。

 

とするならば、ヴォルケンシュタインのような音楽家は、民間伝承曲と作曲家の創作音楽の仲介役も果たしつつ、地理的にもヨーロッパのチロル地方を中心に辺境地帯という辺境地帯をくまなく移動したことから、グレゴリオ聖歌を中世的に踏襲し(ケルト旋法を生かす術を駆使し)つつ、のちのキリスト教的音楽を純化発展させる伝手をほうぼうに示唆し、優れたつなぎ役を果たしていたのではないだろうか。

尤も、彼の用いる音階を、太鼓などを用いた彼の作品などを通して聞くと、直後へのヨーロッパへの影響のみならず、近代(マーラーなど)への影響までも、考えたくなるのだが!この声楽部分が、交響曲であったとすると、など。また無論、声楽分野においてもである...。

 

 

今日はここまで。

 

15C前半の宗教音楽、ことに当時のヴェネチアの音楽に関しては、また別の機会に、何度か触れたいと思っている。

 

*--*--*--*--*--*--*--*--*

付記 5/31

メモ書き

 

http://ml.naxos.jp/album/A317

『イタリアへの道(ラ・レヴェルディ)』

 

 

アントニウス・デ・チヴィターテ・アウストリエ (Antonius de Civitate Austrie)

 

この人物の当作品は、ロマーヌス、ランタン路線にきわめて近いもの。(トレチェント音楽末期を引き継ぐ?初期クアトロトーセント 15C初頭から前半とみるべきであろうな...。)

ああ、あったあった。Wikiが。

 

Antonio da Cividale (also Antonius de Civitate Austrie) ( fl. 1392-1421) 

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_da_Cividale

 

やはり15Cの頭である。

Quattrocento encompasses the artistic styles of the late Middle Ages (most notably International Gothic) and the early Renaissance.

 

 

パレストリーナを頂点とする場合の、あるべきキリスト教音楽について目指していく明るさに、はやくもつながる。

 

またベルトラメ・フェラギュ(Beltrame Feragut)もそうであると聞こえる。「はしり」なのか? Wikiは?

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Beltrame_Feragut

Beltrame Feragut or Bertrand d'Avignon (Avignon  fl.  1385-1450) 

 

おお!ただ、French Avignon である...。こういうところが西欧の面白さ。(のちに、Victoriaがスペインに生まれながら、まるで古いシャンソンのつくり手でもあるような音楽の側面を有つように)

 

 

他方、デュファイを見ると

彼の、「喜べビザンツ帝国の妃」は、デュファイのわりに、また題名のわりには、ビザンツ色は少なく、ややロマーヌス、ランタン、クリストフォロ...(トレチェント音楽末期を引き継ぎつつアイソリズム,or緩いアイソリズムを導入した初期クアトロトーセント)路線。 (※デュファイの音楽の幅)

 

そして、「天はほめたたえ喜び踊れ」はこれからのポリフォニーの夜明け的な感じである。

デュファイにしては、4度平行和声などビザンツ的ながらもキリスト教らしさをすでに探り始める?

 

「おおイスパニアの後裔、おおイスパニアの星」の場合には吹奏楽が入り、イスラミックな短調色彩には寄りつつも、かなりランタンやロマーヌス(モチェニゴ/Ducalis sedes Stirps Mocenigo)的。

 

 

※いったい、当時何がキリスト教的であろうかと、かれらは異民族の跋扈する地理と歴史の渦中で問い、判断していたのか。

これへの解答の起点が15C前半(主にヴェネチア)に、特に集約的にある気がする(パレストリーナへの道)。

オケゲム(門下)を必ずや?媒介・通過するにしても!

 

だから 私はロマーヌス、ランタン路線(初期クアトロトーセントの、ごく短い時代)にこだわるのだろうな。

 

===============

他の参照 リンク

https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/music/facemusic/fm130514.html

http://www.alisonvardy.com/harp-history.html

http://marienishiyama.com/使用楽器/ゴシック・ハープ/

| Rei八ヶ岳高原2 | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

シューマン ファウストからの情景 (とこれへの着手以降の作曲)からつらつら思うこと

この格調。品位。薫陶。ゲーテへの最大の敬意。

 

https://www.youtube.com/watch?v=BsRtT1-RkCM

 

Schumanns "Faust"-Szenen

(Berlin 1989, Lorenz, Vogel, Fandrey, Worm)

 

あきらかに マーラーに影響を与えている。

(ベルリオーズ、殊にヴァーグナーのことがあるが、それは今とりあえず置いておいて。※この問題は、すでにペリ op50 にも当てはまるところが多いが)

 

そして古きイギリスと、それを継承した新しきイギリス人脈(エルガー以降ブリテンなどまで)をつなぐ手法と同じものが霊性、天上性などに効果的に使われている。

 

マーラーはそれと同じものを感じていたろう。グールドがマーラー(とRシュトラウス)について指摘しているように。(但しシューマンに言及しないまま)

 

この渾身の手法の確立は、シューマンの熟考のすえ、(イギリス的なものと)一致発展したのか、研究も したのか。

 

私は両方だと思う。

 

その営為が、ブラームスのイギリス探求に繋がり(ハイドンやベートーヴェンの探求もあるが、自身の音楽性に消化/昇華したのはここ、シューマンからではないか)、

さらに新しきイギリスの音楽(人脈)形成につながっているとみる。

 

ブラームスから出発される論が多いが、そのまえに、上記の意味でもシューマンの功績は大きいのでないか。

この形式の踏襲と発展・合致はだから、マーラーにも言える(バルビローリも考えたように)

 

マーラーにはスクリャービン手法の交響楽化、とこの両面がある。

 

もっともスクリャービン調の確立(拡張)——直接?にはヴァーグナーからとしても、わざわざ彼を起点にせずとも、源流はすでにあったはずである——も、ショパンのそれのみならずシューマン的要素がないと、至らないと思うが。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 09:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

クラシック音楽と音楽史について 雑感

FB(2017 5/24)より転記

 

クラシック音楽にとって悩ましいのは、だいたいいつも、こういうことだ。

 

ヴィトゲンシュタインをして

「私が、決して近づかない問題。私の世界や、私の道程にはない問題がある。西洋の思想界の問題だ。ベートーヴェンが(そしてもしかしたら部分的にはゲーテが)近づいて格闘した問題だが、これまでどの哲学者も取り組んだことのない問題である」(botより)

 

[といわせつつまた]

 

「ベートーヴェンは音楽によって語られるものの領域を拡大した。」(Rei意訳)

 

といわしめる所のもの。

 

[そしてその後の継承的展開において]

(これまたヴィトゲンシュタインをして)

 

「しばしば考える事なのだが、私の抱いている文化の理想は、新しいものつまり時代にあったものなのか、それともシューマンの時代のものなのか? 少なくとも私にはシューマンの時代の理想の継続であるように思える。 とは言え、当時の理想が実際に継続されたものではない。ー とすれば、十九世紀後半は除外される。それはただ本能的にああなったのであって、よく考えた結果ではないのだから」

 

と言わしめるもの。

 

[そしてこの哲学者にとってはほとんど意味のないマーラーによると] ]

 

「ブラームスを侮辱したってしかたがないけれど、あえて言うなら彼が行き詰まるのは決まって展開においてなんだ。主題はそれなりに美しいのに、それをどう扱ったらいいかが分からなかったのさ。もっともそれが出来たのはベートーベンとワーグナーくらいかもしれないけれど。」

 

と言わしめるものの、存在。

 

 

思うに、ベートーヴェンが否応なくその後の音楽史に課した問題の存在と、(ある種の)時代的達成、及びその「質」自身の問題——シューマンの時代の理想の継続、の問題は、シューマンの作品自身の取り組み仕様・課題にも「すでに」かかっていた——換言すると 理想の継続性そのものの問題(抽象性---具象性の影の取り去り方、とその逆 の問題を含め) それと、 調性(拡張-崩壊の必然とその展開)、とその帯びる「意味」の問題 そして 音楽「作品の展開」能力の問題 みなそれぞれ違うこと。

 

(もちろんまったく接点・基底がないわけでは『さらさら!』ないが)

 

その後、この三者が統合(※但、ベートーヴェンの時代におけるこれの統合、とは形式も質も異なることにはなるのだが、それにしても、統合)されていないこと。

 

勿論、統合されるべきからには 最初の問題においては、二つ目と三つ目は同時に達成されるべきだったのだが... でも、私はあえてこのような書き方(価値の取り方)を、とりあえずはしたい もちろんこの際、そもそも第一の問題---継続 自身が、可能なのかどうか、はまた別にして。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

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