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シューマンにおけるベートーヴェン

2015年 FB 過去の今日(6/11)より

 

 

LvB sym3英雄とsym4(これは元素が同じだ)の緩徐楽章がどれだけシューマンに影響をあたえ得たか。

 

弦楽四重奏(五重奏)など。

 

ことにつよく sym 3,4,7(=8)はシューマン的視線でひとつにつながっている。(4と7、3と7はつながると私自身以前から断片的に思ったりしていたが、シューマンの後ろ盾を感じるとつながりがつよまる)

 

sym4 ゼフィーヌゼフィーヌのところの旋律の波など テレーズともきこえるがこれはナポレオンの妻の名だ

 

それとベートーヴェンの、ピアノソナタなどはおろかシンフォニーにおいても恋愛感情につながっていく音を敏感に感じとり、

シューマン自身の耳と心で自分の音楽へと肉化しているのがわかる

 

 それでもベートーヴェンの音楽はやはり政治的感受性と精神、状況論的思考なしにはとても作れないのがわかる

 

(このこともシューマンは感じとっている)

 

英雄の三楽章もシューマンの心の中にそうとう深くまで凄絶に入り込んでいる  ライン sym3 に反映している

 

 

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補記

 

2015 5/12

 

クロイツェルソナタの最終楽章開始の動機性は移調を要するがエロイカ行進曲と全く同じである。

このことからしても、マーラーが巨人でこの2つ(ともに全曲)を背後に同時進行させていたのは必然性がある。

がマーラーがこれに気づきやすかったのはシューマン(の認識)を研究しているからなおさらなのではないか。

 

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ピエロ・デッラ・フランチェスカとミトラ教、グノーシス主義等 その2(長谷川等伯、運慶などへ)

この記事は、前記事のつづきです▶ http://reicahier.jugem.jp/?eid=79

 

 

3月にピエロデッラフランチェスカについて考えてから2か月も過ぎてしまった。

 

ピエロ・デッラ・フランチェスカから入る世界史。

 

20180528

 

友人に参考書を戴いて笑)、苦手だった世界史をざざっとよみ始めているけれど、

ピエロ・デッラ・フランチェスカ(とその仲間たち おそらく アルビジョア-カタリ派)

の思想において

ともかく 政治(統治模索性)性と宗教性はフランチェスカにおいて一つになって感じる。

 

http://redrb.heteml.jp/naganoart/nagano_art_06.html

 

この絵で気になるのは、 慈悲の聖母を見上げるフランチェスコ自身の隣、黒いマスクをしたままの男である...。

ひとつの資料によると、フラアンジェリコ(キリストの嘲笑 Cristo deriso)においてキリストに唾を吐く男の援用というか、ある種向こうを張っているのかもしれない...。

http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/angelico.html

このサイト様の11番目の画像( http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/angelico.html )

 

が、たしかにそうした延用ではあるにせよ、ではなぜそのように危うい挑発的なモティーフを避けず、むしろより黙秘的隠匿的な形であえて提起するのか。そういう画家の態度なり動機が、非常に鑑賞者の何かをそそる処がある。フランチェスカにはそういう個性が、そのきわめて理知的な構築性のうらで————おそらくは彼の宗教観や公共空間における主体定立の「秘義的-敢行的」流儀から生じるのであろう————必然的にある。

(もしかするとフラアンジェリコでさえそちらの立場からの表現だったりして...)

 

このモティフも、およそ宗教というものはそういう運命にありがちかもしれないが————(「こんにち」では異端扱いされているフランチェスカらから見たときの)キリスト教の基盤やら権威の危うさを提起しているようにも感じられる。

 

https://core.ac.uk/download/pdf/67687059.pdf

あとこれも面白い。※しかしこうしたものの、より自然なポーズはプラクシテレスによるサテュロス像にある。。

 

という具合に、ちょっとおもしろいサイトを覗いてはいちいち触れていたら、切りがなくなるので一言だけ。じつは自分は、もう古い出版となったが、コンパクトな美術通史のような本を一冊持っており、詳しいことはわからないがざっと俯瞰程度はできるようになっていた。それでフランチェスカのことも、深入りはつゆぞしないながら、この画風が何とはなしにだが近代の世紀末芸術や象徴主義へと通じていくのでないか、と思っていた。理由はよくわからない...。が、錬金術的?に秘密めいた態度————ギリシア・ローマ的合理性とオリエンタリズムのこうした不思議な同居————というものが、やがて退廃的に世の中に受容されるときには、世紀末的にもしくは精神分析的な意匠を以て再現されるだろう、という予感かもしれない。 あとでふれること ヘルメスとミトラ教 というサイト、またミトラス像(牡牛を倒すミトラスの像 力動性量感流動性と運慶、など)

 

ところでフランチェスカは、自身、ヘラクレスを描いている。

hercules piero de francesca

 

wikiより ピエロ・デッラ・フランチェスカ ヘラクレス

 

その描写をみると、「鞭打ち」において主題となる、画面右半分に、立つ3人の真ん中の男。これをまるでヘラクレス、風に描いている...ように見えなくもない。(フランチェスカについて書かれた、最初に紹介したblogの書き手さんによると、ウルビーノ公の腹違いの男(=殺害された前ウルビーノ公)の子息)談義中も上の空に構え、あまり思慮に富んでいなさげに。

 

やはり前にも考えたように、「鞭打ち」に帰って考えるならば、分割された画面の左右を逆説 復讐の教訓『柔軟と鷹揚さ無き支配——(正統派として異端を)迫害し制する者——は策謀され滅ぼされる  攻め滅ぼした側も明日は我が身。』 等)として描いている。ように思えてくる...。であるから画面右の主題の三人は、コンスタンチノープルが陥落した(東西統一がくじかれた)のち、キリストの鞭打ちを過去の時間軸として教訓にするなら、(われわれの宗教と宗派は)今度どのような宗教と人間と社会のありようを模索すべきかを話し合っている、ということになるのではないか

 

 

 

 

信仰-宗教(学)と政治学の合一理念(民主制、原始共和制? 原始キリスト教)を古代ギリシャ、他文明と仏教等他宗教、グノーシス主義)→これを吸収し・把握し返したルネッサンス期を再考期とらえうる。 ルネッサンスとはあらためて 主体(sub←人の権威にではなく、ただ神のみに対する / ject-ive)= 生身の「人間」としてのめざめ。

その表現と暗号としての芸術、芸術史。

 

補記 主体(sub←※人の権威にではなく、ただ神のみに対する / ject-ive)= 生身の「人間」としてのめざめ。 について。

 

※...よりグノーシス寄りにいうと、《人間に》内在する!神的霊的なもの。イデア。

 

二元論的な霊性イデアについて

[ただ、ここには同時にグノーシスやゾロアスタ、マニ教等二元論の限界といえば限界であるのであって、

●善と悪を、なぜ善と悪と判断するのか、

●神霊的なものは 人間の側に!<内在>するのである、と判断するのか、

 

の<根拠>に たとえば仏教で言う 内在即超越(としての超倫理的倫理)、善悪判断根拠そのものを左右する Etwas mehr があるはずの点に言及しない。シャボン玉の膜のような、(内在 即)超越。

そこに善の神(神、また人の中の神・霊・イデアを見出す時 総合的善の側とともにあろうとする超越的霊性の根元)をなぜ見ないのか、という点は保留の感がつねに残る。

非弁証法的精神。もしくは弁証法の冒険の非透徹。

 

また、**肉の否定におけるある種の狭量さ]

 

**肉の否定における狭量さ ↑ 物質(肉)と霊を切り離したまま放置する。非統合化。 肉「欲」はしばしば悪(支配)を伴うが、肉 は霊と別々でなく 霊性を具現するものであること、霊性のゆくえを先触・暗示し、あるいはこれと交信伝達し合い、場合によっては霊性の質を高めうる点についての言及のないこと。

 

 

ということで私自身はグノーシスや二元論的宗教観宇宙観そのものにたいしては、100パーセント賛同するものではありませんが...。すくなくとも宗教(を必要とする人間)『という位相そのもの』からは。

 

 

 

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※について 180605 FBより

補記

 

内在即超越 の視点の、二元論における希薄?について

 

この事象を、裏側の観点から述べておく。


ところで、では そもそも超越などという——超越「者」はもちろんのこと——ものを、逆に認めることができるのだろうか、と問うてみる。


A-非Aの関係において、非AがAに対してある種の超越性を帯びていることはあるが、それ自身を超越性とは呼ばない(まして超越者などとは)。またAと非Aを(それ自身がある運動性、位相のずれなどを施されることによって、)非Aがそれ自身Aの知覚、認識を成り立たせる条件——図のための「地」性——を有していたものであったが、今では同一地平上に相対する対立条件もしくは交換(交替)要素となるに至った(勿論相互にある種の不可分性を帯びながら)、といった、運動的展開のもとに、Aと非Aを成り立たせる、さらなる「地」・位相が(それ自身はそれ自身をものがたらぬ仕方で)はからずも措えられて——われわれの当座の知覚と認識はあくまでA-非A関係そのものに注がれたままでいる際——いる、そのときその「地」のことを、超越というのであろうか、といえば、そうでもない。

超越とは、凡そそのようなある種の作用であり、たえずそのような「作用が働く」という事態であり、また(認識への)働きかけである、といえるのだろうか。

だが同時にそのような、たえず ずらされ遅らされる、機序によって、それ(=みえざる地)を<それ>(=地の存在、または地の存在すること)として気づく、気づかされつつ則する、そのようなある種の作用を、成り立たせているものが、全面的にわれわれ(相対者)の「外がわにある」のみだったなら、運動そのものが起こりえないし、作用<として>成り立ちもしない。われわれ自身がその端緒を(つねに不完全な形で)一つの状況における[受動的]能動者として負っており、その作用のあらわれを出現・溢出させているのでなければならない。その限りにおいて、その作用は別段、われわれにとって「超越性」ではないかにみえる。しかしわれわれが "個人的"に不完全な、or欠損した「能動者」として、その作用の現出に貢献し、立ち合おうと合うまいと、そのような作用が相対者である誰かが何らかの形で行いさえすれば、かならずそのように出現・溢出するのだという「成り立ち」そのものは、何ら瑕を負わない。
たまたまそれに この”自分という”相対者が立ち合ったかどうかという問題のみである。
——それでも他ならぬこの自分にとっての自分への真理の現出と受肉作用こそが、すべてであり、これを誰も奪うことができぬ、というのも絶対的に保障さるべき条件(そうしてしかこの作用の現実性(真理)を”知りえない”という意味において)なのだが...。

それはともかくとして。
しかしその現前・溢出が、その端緒と動機付けと跳ね返りというものとしてしか、この主体(たち)には体験できぬ、というその事実・事態とはいったい何なのか。
それほどにまでわれわれ一人ひとりは、相対者(準=透明、畢竟不透明な存在)にしかすぎぬというのは?
また、それに対してあるであろう、絶対的、というものへの触手とはまた何なのか、それを想定するというわれわれとは何なのか。
われわれが絶対者(すべてを完括し完結しているもの)ではないということ、歴史性(運動性を受動的-能動的に余儀なくされて?!いるところの)を背負わされている——喜びや驚愕や嘆きとともに——というのは、やはり「根源性」のみならず「超越性」に何らか由来するもの、由来することを知るものでなくして何であるか

 

ということになってくるように、私にはやはり思われる...。

 

以上、余談

 

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ヘレニズム文化とアレクサンダー大遠征、東方へのヘレニズムの浸透

 

 

http://dic.nicovideo.jp/t/a/グノーシス主義 

ニコニコ大百科 DIC.NICOVIDEO.JP

 

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/グノーシス主義

 

グノーシス主義 - Wikipedia

 

 

フランチェスカにおける女性像(聖母、シバの女王の一群など)は、男性のギリシアローマ性に比し、より露骨に、東方ミトラ教的-弥勒菩薩的、である。。。

 

 

補筆 補足資料

 

マニ教(東方ミトラ教)と長谷川等伯とフランチェスカ(ヴェネツィアーノ〜バルドヴィネッティの系譜、初期ルネサンスフィレンツェ派・ウンブリア派----宗教的にはアルビジョア派 カタリ派)

 

http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2010/09/post-22bf.html

マニ教「宇宙図」が日本にあった!: 風来香 HIROHABE.COCOLOG-NIFTY.COM

 

https://heibay.exblog.jp/18002624/

 

ミトラ教9- キリスト教との関係 | 虚空界摩訶不思議 by heibay HEIBAY.EXBLOG.JP

http://chitonitose.com/lessons/wh/wh_lessons4.html

No.4 イラン人の王国 CHITONITOSE.COM 法隆寺 獅子狩文錦とササン朝 (ゾロアスター教マニ教)

 

 

こうしてみると、日本の始まりからもとはといえばミトラ(ス)教由来の世界観に我が国も接している。安土桃山〜江戸時代の画家もまた、その可能性が高いかもしれない。

 

 

 

 

https://ogawakeiic.exblog.jp/13655098/

 

ミトラか、弥勒か、朱舜水。 | 彩遊記 OGAWAKEIIC.EXBLOG.JP

 

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明 清 辮髪

 

ミトラ ——明(ミトラ教における光の国)王朝

 

辮髪——古くはテュルク王朝にもあったらしい。トルコ系。もしかするとこの人(フランチェスカの「鞭打ち」における画面右端

ジョバンニ・バッチとされる人物)はトルコ系の血が入っているのをフランチェスカは知っていて、ちょっと遊んだかも。

 

何故 辮髪 を気にするかというと、ジョバンニバッチとされる人物(「鞭打ち」の右端男性像)が、背景処理の効果?で、まるで辮髪『のように見える』から。なぜこんな不自然なことをしたのか。故意ではないのかと思えたから。

 

ふつう辮髪=清王朝、と思いがちだが

元(モンゴル帝国)時代からも強要があったらしいから、明より前にあったようだ。

 

あとはフランチェスカの時代と照合してみるとよい。

 

フランチェスカ 1412-1492

元 1271-1368

明(ミトラ 弥勒教 の国)1368-1644

 

フランチェスカの時代は明王朝となる

 

 

cf)長谷川等伯 1539-1610

 

※等伯はフランチェスカやバルドヴィネッティの絵をミトラ教として隠れキリシタンに見せられたか。

 

 

ブレラの祭壇画のマリアや、聖木の礼拝 におけるシバの女王、慈悲の聖母のえがき方が、東方ミトラ=弥勒菩薩的なフランチェスカ...。

 

☆このころまだ西欧キリスト教の絵画自体、またそもそも作法、素材自体が総じてオリエンタル(由来)ではあるが!

 

それにしても

フランチェスカの生きた時代 初期ルネッサンスと、弥勒ミトラ=明の国の相関を考えるのは面白い。

 

それと 西洋ルネサンス期であるが

ゾロアスター教由来と思しき?「鞭打ち」において鞭打たれるキリストの、上にある像

(事実 形姿上はこの像がドナテッロの影響下でのフランチェスカ自身のヘラクレス的処理であるとして)、

であれば

あとはドナテッロの周辺環境・時代と、当時の西洋圏へのゾロアスター教の影響である。

 

 

https://bit.ly/2GZpeIg

近世ヨーロッパの思想と社会 BOOKS.GOOGLE.CO.JP  

↑ アルベルティによるゾロアスタ教の研究云々

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/レオン・バッティスタ・アルベルティ

 

レオン・バッティスタ・アルベルティ - Wikipedia

 

https://desireart.exblog.jp/20339352/#20339352_1

 

『ピエロ・デラ・ フランチェスカはアルベルティの研究を学んで立体測定法の理論を学んでいたといわれています。』

!!!!

 

 

ピエロ・デラ・フランチェスカ『キリストの鞭打ち』『セニガリアの聖母』

|… DESIREART.EXBLOG.JP

 

https://ogawakeiic.exblog.jp/13655098/

 

湯島聖堂と弥勒教ミトラ教

 

 

そういえば

↓運慶作の毘沙門天=多聞天も、(ミトラ→)ゾロアスター教由来——火性、炎性——を感じる...。

 

http://adcculture.com/journalist/shiratori-49/

 

3つの国立博物館で「日本のお宝」饗宴 | ADC文化通信 ADCCULTURE.COM

 

 

根元的な威力を感じさせる作風を見ると、運慶はひょっとして古代アーリア的なもの=ミトラ教 (たとえば「牡牛を屠るミトラ」の力動性、ベクトル描出、量感)ーゾロアスター教まで遡って作品を作ったのではないか。。 とすら感じられてくる。。

 

が、どうやってか。法隆寺の所蔵品や寺の雰囲気を見て何かを感じたのか。。

奈良東大寺において僧 実忠とゾロアスター教由来性について何かを把握したのか。。

 

諸処の寺の立像からスタティックでないあらゆる要素 流線、火性や多角的力動を自分のものにしたのか。。

 

http://blog.livedoor.jp/bfr4cadg/archives/1389070.html

 

面白夢工房 : 仏像の起源 BLOG.LIVEDOOR.JP 

 

 

等伯の大涅槃図(本法寺所蔵)や、作者不詳?の非文化財指定美術品↓などにも、ミトラ教?マニ教っぽい○○○文様(日本のものの場合、円形・弧状配置ではないが)曼荼羅にもつながる何かが...。

 

https://bit.ly/2LG0U1H

 

江戸時代の涅槃図など公開/京都・醍醐寺で15日から | 四国新聞社 SHIKOKU-NP.CO.JP 

 

 

この記事関連の前記事▶ http://reicahier.jugem.jp/?eid=79

 

 

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ピエロ・デッラ・フランチェスカとミトラ教、グノーシス主義等

20180324 FB

 

ピエロ・デッラ・フランチェスカ 「鞭打ち」(ドゥカーレ宮 蔵)

 

 

musey.netより

 

 

ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎 Il Mistero di Piero della Francesca

 

とても面白いblogをみつけて、フランチェスカの関連記事を読ませていただいた。

 

このピエロ デラ フランチェスカのblog記事は、研究熱心で面白かった!

関連記事も読ませていただいた。

 

 

画家フランチェスカ自身はもちろん、絵の構図上の主役たち、ジョバンニ・バッチ(エリート聖職者で人文主義者)とヒゲのベッサリオン枢機卿といった登場人物であり仲間たち、つまりは画家及びこれらの人物がみなローマ教皇側からみれば秘密結社とは言わないまでも異教徒もしくは異端キリスト教徒だ、とは、しかしこのblogの書き手さんは想像もしておられない(したくもない)ためか?、推論に四苦八苦されていた。

 

 

 

ベッサリオン枢機卿——これはblogの書き手さんが紹介されているギンスブルグのフランチェスカに関する研究著書にて宣教上重要な役割を果たすと書かれているとされるバルナバ=聖書の登場人物、相当でもあるかも知れない。そしてこの人物の語りと説得の内容=キリストの鞭打ち が、画面左構図、という解釈があるらしい。

 

※調べると、ネオプラトニズムの知識人で正教会からカトリック改宗者。のちにニカエア大司教。

この人物の下に知識人が集まりアカデミアが形成され、盛期ルネサンスの立役者となるとのこと。

 

 

異端———わたしはそう直感したが。(私自身は無宗教者だが...)

みながそういう思想信条の持ち主でローマ教皇権力にアンチし信念を貫きつつもつつも同時にそれを見抜かれないよう秘匿的に生きなければならなかったと理解すれば、すべてがストンと腑におちる。

 

 

ベッサリオン枢機卿

*…https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヨハンネス・ベッサリオン 

*…https://kotobank.jp/word/ベッサリオン-129571 

 

(皇帝ヨアンネス8世によってニカエア大主教に任じられ,フェラーラ・フィレンツェ公会議(1438‐39)に参加,教会合同賛成派として活躍,そのためコンスタンティノープルの教会関係者の不興を買った。)

 

*…別のサイトによると、コンスタンティノープル陥落を機に東ローマ帝国関連の書物が散逸するのを恐れたことから図書館の創始者にもなったそう。

 

 

そのまえにどこかで、(このベッサリオンのように)二股髭をしたものは異教徒で禁欲主義者である、という記事を読んだ。。どこのサイトだったかなぁ

 

 

ギンスブルグによると ベッサリオン枢機卿、とされる男 について。。


これって、鞭打ちで後ろ向いてる人物でもあるのじゃないか。だとすると何を意味するか。

いずれにしても
左側の鞭打ち構図では、自分の信条正義のがわが鞭打たれ、右の主役構図ではその逆(反面教師とせよ、という訓告)、か、でもなければほんとうに(東西統一のためには?)「イエス」キリストが鞭打たれるのさえかまわない流派であることを告白する(とくにミトラ教徒であれば、自分たちが乗っ取られた側なのだから)というのがわたしの理解。

 

枢機卿にあたる説得男の足=立場は両方にかかっている。扇の転換点。


異教徒=境域が軸足!

 

その逆、の示唆(立場がいつ・どう逆転して、正教徒/異教徒の逆転が起こるやもしれぬ)。それが絵の、受取人への 説得内容だった、ということになるか。


 

するとこの絵の受取人は、主役級の構図(右側)中、真ん中の人物[説得されている人物でこの時はもう統治の失敗から殺害に合って死んでいる*]を弟に持つウルビーノ公ということか。

 

*...領民の生活や統治領内の芸術家、文化に貢献する者の立場信条をおろそかにし、弟同様ローマ教皇と癒着関係に入れば、命が危なかろう、という示唆警告?

しかしわたしの何となくの印象では、ウルビーノ公自身は問題意識の欠如していた弟とは違い、また別々に生活していたとあれば、もとより画家らと同じ立場の側(同じ宗教信条の信者とまではわからないが)である、人間の尊厳を軽んじない人物、と映らなくもないが。それでも文化経済の拠点コンスタンティノープルが陥落したぶん、さまざまな良心の自由と考えを持つ領民の生活と文化的保障を柔軟に行い、安易にローマ教皇に擦り寄り散財することなきよう、というのがこの絵の寓意(送り手への直接的意味としては)とでもいうべきものなのか。

 

1453がコンスタンティノープル陥落、なのだから、この絵の製作年からしても[★付記 180529...私の手持ちの、古い美術通史本では1453-54頃?となっていたのだが、先ほどあるサイトをのぞいたら、1455-60年に制作、とある。これで確定であるとすれば、コンスタンチノープルが陥落したのち、今後の自分と仲間たちの対策と教訓を得るため、またその訓告を暗示するため描かれたのである]これを話し合っている、ということは絶対に考えるべき。。

 

 

ヨハンネス8世(ビザンツ帝国最後の王)

 

ウルビーノ公は、おなじ仲間だったのかまでは微妙か。。落ちやすい良心的な説得対象だったのかも知れないが、もしかすると彼も同じ教徒だったかもしれない。腹違いの殺された弟とはちがって。(成り上がり指向?)

 

blogの書き手さんが参考資料にした書物の著者ギンスブルグによれば、画面右側、主題三人の内の真ん中の人物——説教されていても上の空——は、ウルビーノ公の腹違いの、殺された前ウルビーノ公の息子とのこと

 

 

ところで blogの書き手さんも言われるように
鞭打たれるキリストのうしろの柱上にある、古代異教風の像、というのは、ミトラ(ス)教、ゾロアスタ→マニ教あたりかなあ。しかし「形姿は」ギリシャ彫像風なので——それだからこそヘレニズムなのであろうが——、アポロン像あたりか。

(古代ギリシャも P della フランチェスカ当時のキリスト教会・ローマ教皇にすれば異教な訳だ)よく右手を上げている。ヘルメス!像もだ(すべてのヘルメス像がではないが、左手を上げているのがある)。

 

あるいは、アウグストゥス(カピトリーニ美術館所蔵)にもクリソツ。

http://blog.livedoor.jp/tullysworldsouvenir/tag/トラヤヌス?p=3 さんによる画像

世界史の旅 探訪記と歴史グッズ


 

アウグストゥス、帝政ローマ。古代ローマ初皇帝


 ↑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アウグストゥス

アウグストゥス - Wikipedia

宗教と統治の理念、などについてもよく考える宗派であれば、アウグストゥスを図像学上描き入れるのもありなのかもしれない。

だから画家と、かれらの仲間の信ずる教義も、結局このながれなのだろう。。たしかにその影響の広汎さ、東・西欧両義的意匠の獲得においてミトラ(ス)教はありうる。
鞭打ちの玉座にすわるのがビザンツ皇帝ヨハネス8世という推論は東方(緩やかな他民族他教徒支配の態度)に肯定的なら、ただしいとおもう。

 

もしかしてフランチェスカ、ミロス島のポセイドンを真似たのかも。鞭打ち(鞭打つ側)の像として。

 

 https://plaza.rakuten.co.jp/rakutin1944/2009/  さんによる画像

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)


 

つまり、鞭打ってる人間の方がポセイドンの後ろ姿で、それを見下ろす、古代異教風の像とは、アポロンはたまたヘルメス!? か、はたまたアウグストゥス。。。


何れにしてもいかにもミロス島風(エーゲorミノア文明的な柱、壁模様など)の熟達のほうは、弟子?バルドヴィネッティらが受け継いでいる!

 

古代ギリシャは、エーゲ文明より後。。凹 じゃあ、それより前は。。。メソポタミアか、古代エジプト?

と、やっぱり異教風とは、(原始)ミトラ教、ゾロアスター教あたりになるのか...

つまりこの、鞭打たれつつも光輝しているキリストの上にある像は、東西越境的な原始性と同時にこれまた普遍的理知性を帯びるものの象徴という訳であろうか。

 

 

 

この記事を書くとき、まずひょっとして(世界史は得意でないものの... フランチェスカって)アルビジョア派-カタリ派かしら、と目ぼしを(正しいかは別として)つけた事を書いておくと良い気がする。

が何故だっけ。...

画家がフランチェスカという名であることと、ジョットの系譜からフランシスコ派であればスコラ哲学等理知的な古典性と禁欲的匂いと彼の弟子(バルドヴィネッティ)からも来る東洋性かな。すると異端かもと。

 

 

ついでのことだが Arnolfini heresy(異端)でも調べたら
 

そのアルノルフィーニが、フランチェスコの絵の中(復活したキリストの下で顔を覆っている!——ああ。あれか♪)にいる?という別の論文があった。。。

キリストの復活 ピエロ・デッラ・フランチェスカ

 

https://www.musey.net/7394 から

 

 

▶アルノルフィーニ(夫妻像 byヤン・ファン・エイク)

絵の中に様々な図像学と不思議な工夫がほどこされ、ことに握手が普通のそれと違うことから、異端でないかと話題になっていた...

 

まあそれはこの際良いとして...

 

Wikiでのカタリ派 記述によると

https://ja.wikipedia.org/wiki/カタリ派

 

ドイツに現れた というもの...カタリ派という名前は「清浄なもの」を意味するギリシア語の「カタロス」に由来している。名称が初めて記録にあらわれるのは、1181年にケルンで記されたシェーナウのエックベルトの「このころドイツにカタロスがあらわれた」

とのこと。

 

 

ダーミアノ教会??

https://www.travel.co.jp/guide/article/23665/

聖地巡礼・伊「ヴェルナ修道院」聖フランチェスコが聖痕を受けたトスカーナ…

TRAVEL.CO.JP

 

あの、鞭打ちのうしろの像は? クノッスス宮殿の時代?

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クノッソス

クノッソス - Wikipedia


 

弟子の描いた絵画的な素材がある↑


ギリシャでありつつオリエンタル。

 

ミトラ教 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミトラ教

WIKIPEDIA


 

 

 

 https://m.youtube.com/watch?v=1SMmH4YlUlk

La flagellazione di Piero della Francesca - tratto da Il libro di arte e immagine

 

 

 

 

長いビザンツ帝国の終焉と、ヨーロッパルネサンス、遠近法の確立とのリンク。。。ある種の必然性?

 

人間としての目覚め。主体性、他者性尊重=距離と関係性の問題。遠近法。

 

マニ教(非殺傷、グノーシス、仏教に近い?) → カタリ派 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カタリ派

 

カタリ派 - Wikipedia

 

 

 

 

 ↓ 托鉢修道会(フランチェスコ派もある)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/托鉢修道会

托鉢修道会 - Wikipedia

 

 

https://www.kaho.biz/safavi.html

KAHO.BIZ サファヴィー朝

 

 

この記事のつづき▶ http://reicahier.jugem.jp/?eid=80

 

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八ケ岳 2

四月了

 

庭のモクレンが初めてひとつの蕾を開かす。今、森は春をようやく展げはじめている。すこしずつ、すこしずつ...。
カラマツの芽吹きの点描画——あれは小人の捧げものにみえる。淡緑色(ライトグリーン)のとんがり菓子。復活祭のための、恰好のメサージュなのだ。天使らの降天への合図。ひそかな、呼びかけの世界。

 

山桜の枝々は、あちこちの丘にうっすらと気のせいのような紅みを帯びた花を咲かせ始めている。

だがある種のものは遠目にはほとんど紅とは気づかれない。そればかりか花の重なるほどにまるでコブシのそれへと近づくように、雪を通り越し、次第に殆ど乳白色をすら帯びていく。

 

それらは悪戯な雲の、空を覆い過ぎる瞬間には、天からばらまかれた粉乳よろしく輝くのだ。
そうして辺りがふたたび光に充たされる頃には、群がり停まる無数のもんしろ蝶のたたずまいをみせながら、遠い昔のままの画のように、あどけなく憩っている...。

 

 

遠景——コブシ。
かれらは、枝付燭台の蝋燭が仄暗い闇の中を順繰りに灯されるごとく、灰色の森の処どころにくっきりと白い火を灯している。
あるものはまだ、森が織りなすようやく萌えはじめたばかりの山間(あい)の、ちょうど陽の当たる斜面づたいに、おもむろに縁取られていく片側の枝々に、行儀のよい孤を描く灯を点しつつも、まるでそうした樹木のぜんたい、無疵なひとつの白い炎を形象っていくのも、また計らいとでもいいたげに、気高く...陶然と憩っている。

 

デザイン画めいた形状と、何処となく人工的な光を帯びた色彩。——蝋で造った電飾洋燈(ランプ)。

 

炎状にととのった形姿。——あれらは蝋燭の 'うえに’ 灯った火というよりは、むしろ無数のそれを宿す燭台それ自身、ひとつの白い炎であるかとみまがうばかりに、真率に点っている。

その枝ぶりは、天上へと燃えさかるようにというのでもなく、またある形のままたちまち凍り付いたというふうでもなしに、なにかまえもってその形象へと定められていたものの、ひとりでなる成就といった佇まいなのだ。

 

彼らの几帳面さ。——

おとといなどは、八ヶ岳が、その広大なすその一帯を真っ暗な雷雲に覆われて、あやしい風のなか、いつもの真昼の山麓にふさわしい光沢をすっかり喪失したまま、ただ処どころに不屈の、天地さかさまにしたあのディオニソスの髭の、容赦なくグロテスクな線をさらす白樺並木らの交互に織りなす、一種異様な光沢をばかりを際だたせていたが、そんな不可解な暗示に満ちた風景のなかにあってなお、例のコブシの一群だけが、点在する外灯さながらに、ほんのりと親切な光を旅人に向かい放ちながらこれを導くように立っているのが、めずらしく不穏なこの辺り一帯を、ひとつのほのぼのとした素描のなかに、かろうじておさめているようにみえた。

 

 

 

五月のはじまり

カラマツのとんがり帽子は、いつしか霜の結晶よろしき氷砂糖の小部屋に。と、そこから徐々に蜘蛛の糸をまねるモヘアのモオルをつむいでは垂らしはじめた。
エメラルド色のこの梯子が降りはじめると、小人たちはじきにミズキの玉座に光の精らをうつしかえ、カリフラワーさながら形戯けた冠を、いそいそとかかげる準備に入るのだ...。やがて彼らに向かって五月の風が手招きをする。女のひとの指にも似た、あの垂れこめるカーテン越しに。

 

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八ケ岳

八ヶ岳


この頃は隣の林のすぐ近くでクロツグミの声がすばらしい…。早朝は、アカハラの囀りが。
思えば引っ越して早々から、夏を迎える手前になると小鳥たちはいつも、私たちが朝食をとるまでの間にも、入れ替わり立ち替わりやって来ては、無邪気に鳴き交わしていた。家のすぐ傍を、イカル・アカハラと…。

それから梅雨明けに相応しい午前のすがすがしい風にのって、森の方からもの真似好きなクロツグミの器用な鳴き声が、しきりにやってきていたっけ。

 

 

 

晩春の散歩――

みどり湖。湖畔の桜のこと
あんなにもはなやいでいた遠い記憶の花びらを散り落とし、今はもうすっかり重たげになった枝をはりめぐらしている。首をうなだれるように。

 

少し前までは若葉が競って生い茂り、所々に虫食いの地図のような斑点を織りなしていた。

そうしていまはすっかり生い茂った自分自身の葉陰の、ひっそりとした翳りを編む日傘におおわれて、ハンモックを思わす斑模様の影絵を時折煙のようにたゆたわせながら、もうほのぐらいほどのトンネルを、互い違いにつくっては佇んでいる。
と、いつのまに少し青苔のむした着物の縞が、次第にその文様を顕わにし始めた。器用にたわむ、あのしなやかな形姿を生き返らせたという具合に。

 

カラマツたちも今はすっかりカーテンかタペストリのようだ…だがあれらも、五月のほんの始めの頃には、まだ<ふしくれ>だった。カラマツの枝の<ふしくれ>…。ナッツステッチのようにぽつぽつと。宙で織りなすまばらの刺繍。


そういえばあの頃、樅の木のほうでは、尖端々々(さきざき)に、赤茶けたおしゃぶりをぶらさげはじめていた。うとうとしているうち、手招きする女性の嫋やかな指のように風にゆられてはしなうカラマツの、いつの間に大人びた挨拶を、まるでかくまう垂れ幕のように、鋭い光りを帯びるつもりなのだったろう、と――(が、かとおもえばそうするにはまだ少し赤ん坊なのだ、とはがゆくも)――思わせていた。

 

 

不思議なのは春先のあの時期、冬枯れで見慣れたはずの幹という幹が、気のせいとは思えぬ程に白んでみえることだった。まるで内がわから――オーラといったものを醸し出す…。そう、或種の人々が姿態から坦々と放射する、あの内面的な光に似た――あかるさを発散しているようにもみえる。
内部で何かが起きていた。

 

その徴にか――或いはたんにおのずと好対照をなすがために互いを際立たせようとしているのかもしれないが――枝の方はむしろ赤味をすら、帯びているのだった。秋にもまた一度そうなるように(尤もその時期のそれは、もっと湿り気を帯びていないが…)えもいわれぬ独得の赤味がさしていた。

 

そうして遠くの山全体もそれと同じ赤味をにじませ、霞がかっているのだった…。(それも秋とよく似てはいる。)があの赤味、五月のは、やはりもうじき何かがはじまるための、それなのだ…(!)――あれは風景を消沈させない。

 

白んだ木立の群れがその背景にディオニソスの白髯のような無数の掻き傷を入れる…。
ガラス版画のそれ。或いはカンヴァスの布目。

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FSchubert D944(Beethoven symNR9 / symNR3 Eroica etc...)

FBノートから。2012年3月6日 15:52

 

 

主体に脱自を遂げさせ解放させて行くところの動力が、ほかならぬ脱自を強いる情況をまさしく生み出している処の動力である、ということを物語る芸術作品。


言い換えると、表の側面としては、近代化を離れ労苦を伴う自然回帰の物語性を帯びると同時に芸術家の主体を救う開放感と快癒にみちる、という一連の背景にある時代性とその動態として暗(裏)に表出する切迫感や畏怖を、同時に能弁に物語る作品を、同一主体がまさしく生み出しうること、であるとも言える。

 

もちろん表現のスタイルによって、表の側面が強調され、裏はあまり物語られない場合もあるし、背景を強調することに重きが置かれる場合もあると思われる。そのため鑑賞者の針の置き方によって印象が多分に異なりやすくもある。


しばしば個を超えて芸術作品を貫通する運動体。ある芸術家と他の同じ文明下を生きた芸術家、他者同士の身体・精神リズムにも通じるもの。そのもといは両者の抵抗した生を取り巻きはじめ、また苦しめていたところの当のピストン運動である。


芸術家a、b自身のシチュエーション&ロケーションとしてはある側面からは脱文明社会なはずであるのに、その彼をして解放していく動力、ほぼ陽化した執拗なる反復運動の動機そのものが同文明のピストン運動であ(りつつあ)るという自己矛盾と、解放=死を、或種切迫感すら帯びた律動に感じ取れるのである。

 

それ以降、芸術家を支える動機は、死の影を含め、また高貴なる欲動とその成就、昇華という一連を支えるピストン運動それ自身が、上下運動から回転運動への転化のきざしを、より迅速さを増す形で含んでいく。

この律動それ自身に揺り動かされつつ同時にここから脱自されるものとしての。つまり純化されたタナトスの相面の、トポロジックな転換があり、聖化された魔の彷徨(辻音楽師の語りと閉じ——歌)から、生身の他者への献呈へと通じる。

 

 

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FB,FBノート 具体例を提示しつつ述べるver

2012年3月6日 15:52

 

シューベルトのグレイト(シンフォニー第8or番9とも言われるD944)は、主体に脱自を遂げさせ解放させて行くところの動力が、ほかならぬ脱自を強いている処の情況を生み出している処の動力である、ということを物語る、不思議な大曲である。

言い換えると、表の側面としては、作曲家が、都会化・近代化していく場所(ウィーン)を離れ、広大で峻厳なる山岳風景の懐に抱かれ、また登山し、苦労のすえに解放――歓喜と療養の安息――を得るという物語性を帯びていると同時に、こうして作曲家の主体を救う開放感の背景にある時代性とその動態として暗に表出する切迫感や畏怖を、同時に能弁に物語る大曲である、とも言えよう。もちろん、指揮や演奏スタイルによって、表の側面が強調され、裏はあまり物語られない場合もあるし、背景を強調することに重きが置かれる場合もあると思われる。そのため、指揮者の棒の振り方によって印象が多分に異なりやすい音楽のひとつとも、言えるのではないか。

 

このことを換言することにもなるが、グレイトについてこういう言い方も出来るかも知れない。つまり、グレイトとは、シューベルトとしては最大限にベートーヴェン的なモチーフ、もっと直接的に言えばベートーヴェンの第九のモチーフとその基となるよく似た動態から出来上がっている音楽だと言える。典型的には4楽章などの一部にベートーヴェン第九に生き写しのフレーズが出てくる、と言えるばかりでなく、そもそもベートーヴェンの第九のモチーフから、その全体が出来上がっている音楽だと言える言い方も出来よう。

曲の印象としても、シューベルトが、シューベルトらしさをシンフォニーという形にようやく結実せしめた最初で最後の作品であるとともに、最大限にベートーヴェン的バックグラウンドをも有するという独得の両義性を帯びた大曲であると思う。

 

上述したことをもう少し詳細に述べると、たとえばこの大作においてもっともベートーヴェン第九を彷彿させる箇所は、

第九-4… ド#ド#レミミレド#シララシド#ド#ーシシ ド#ド#レミミレド#シララシド#シーララ

 

グレイト-4… ミーレド#ド#レド#シラー(シド#ド#ーシ)

であると思うが、

グレイトには以下のような旋律が頻繁に出現する

ラーミレド#シラ/ミーレド#(ド#レド#)シラ/ラー(ファ#)ミ(ド#レ)ド#シ(←コーダ)など

 

※いわばグレイト4全体が第九-4でできているといってよい。

 

このことは、ベートーヴェン-シューベルト-シューマン-ブラームス-ブルックナーへと繫がるある線を想わせる。このことは別記事で述べることにし、今回は以下の点に絞って簡潔にまとめたい。

 

グレイトを貫通する運動体、わけても1楽章ととくに4楽章に顕著な動態について。これはまた、ベートーヴェンの第九-4楽章歓喜モティフのリズムにも通じた、もといは近代的な(ベートーヴェン、シューベルトの生を取り巻きはじめ、また苦しめていたところの)ピストン運動である。

 

シューベルト自身のシチュエーション&ロケーションとしては脱-都会のはずなのに、彼を解放していく動力、ほぼ陽化した反復揺振運動そのものが産業化社会のピストン運動であ(りつつあ)るという自己矛盾と、解放=死を、或種切迫感すら帯びた指揮に感じ取れるのである。

 

他方、グレイトというのはこうもいえる。グレイトの影響を受けてはじめてオーケストラの着想を得、また実際着手できたシューマン。彼の視点から言い換えると、シューマンはグレイトを以てはじめてシンフォニーを着想できるとともに(私が思うところほぼかれ自身の中の歌曲の発現と同時的であり、音楽史的な事実からは歌曲の方が先に書かれたが、その基となる発想は同じ処から由来しているといえるところがある)歌曲をも着想し得た。

シューマンの春と献呈についていうと、春op38はグレイトとアヴェマリアと死と乙女、という素因の綜合から成る所が大きい。他方献呈はアヴェマリアにのせた死と乙女の高貴なる欲動とその成就であり、アヴェマリア(昇華/至純)化された死の影の強迫的な<揺動する緩い反復運動>ともいえる。このことを以てしても、

グレイトという後世への予言にみちたこの大曲自身も、アヴェマリアとゆったりした死と乙女(のほぼ陽化された反復揺振運動)から出来ている相面が多分にあると思われる。もちろん同時に脱都会的運動も、ここにはあるが、つまり一見矛盾するようではあるが、脱近代/脱産業革命という相面(近代/産業革命としてのピストン運動――それは上下運動から回転運動への転化のきざしを含む――のリズムそれ自身に揺り動かされつつ同時にここから脱自されるものとしての)という重要な要素が、これとともにあるのだが、その述解はまたの機会に置いておくとして、ザ・グレイトがアヴェマリア的揺誘+緩い 死と乙女 の(ほぼ陽化された)反復揺振とから生じる極めて純化されたタナトスの相面を持つように、RSchの春と献呈も、この点で同じである、と言ってみる。春op38はグレイトとアヴェマリアと死と乙女、という素因の綜合から成る所が大きい。献呈はアヴェマリアにのせた死と乙女の高貴なる欲動とその成就であり、アヴェマリア(昇華/至純)化された死の影の反復運動ともいえる。

ex) クーベリック グレイト

http://ml.naxos.jp/work/425806

 

ピストン運動、蒸気機関車(典型)

H.C.ロンビュー: コペンハーゲン蒸気機関車のギャロップ。ドヴォルザークのエピソード。

 

 

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産業革命規定…18-19c

紡績機から。主なこと1733 1764 1769蒸気機関車イギリス 1830年〜(実用化 産業革命)http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume027.html  

 

おもしろいのは、蒸気機関車の実用化はいち早いイギリスでさえ1830年(蒸気機関車の発明は産業革命(第1次)の最後期なのである)だけれども、蒸気機関車以外の産業革命のリズムは、その時代に生きていた人間たちの体の中にもすでに通っていたわけで、(ヤンチャッチャッチャ、タタタータ・タタタータ、金管のパパパパパパ…など)  蒸気機関車に乗ることの無かったシューベルトの体にも、紡績機や紡績工場の環境音や製鉄、他の機械装置のリズムなどは通っていたし、機関車以外の他の蒸気機関のリズムには接していたと、大いに考え得ることだ。 

 

<※cf) ベートーヴェンも時代が重なるが、ベートーヴェンのリズムにはヤンチャッチャッチャの他に、ンチャーチャーチャーチャー、ンパーパーパーパーとか、ヤンン・パ・パッパッなど無意識が吸収した律動を意志から意識へと移行(審級)する、溜めのある動力、反省介在的動力が感じられやすいのに対し、シューベルトのほうが外界から無意識に得ている動態がそのままリズムとなって表出している面が多いと思われる>

 

蒸気船は微妙か?

 

フルトン、蒸気船の実験に成功1807/ミシシッピ川で蒸気船による初の川下り1811 /蒸気船が初の大西洋横断1819 /ネッカー川の水運が再び隆盛を見せるのは1878年のKettenschlepperei (「鎖による牽引の時代」)の始まりによってである。マンハイムとハイルブロンの間115kmを蒸気船が小舟を牽引してさかのぼることで、馬に引かせて5日から8日かかっていた行程を2、3日に短縮することができたのである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%B7%9D) 

 

ターナー(絵画) 

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume027.html

「1844年、イギリスの画家ターナーは、「雨、蒸気、速度」という題名の絵を描きました。その絵は、実用化されて間もない蒸気機関車を幻想的に描いたものでした。19世紀に発明された鉄道は、人びとに大きな変化をもたらすこととなりました。 スティーヴンソンによって実用化された蒸気機関車は、1830年、イギリスの綿工業都市マンチェスターと港湾都市リヴァプールの間を結びました。鉄道は、大量の貨物と旅客を高速で運ぶことができたため、イギリス国内には急速に鉄道網が整備されていきました。蒸気機関を利用する船も、19世紀の初めに、アメリカ人フルトンが実用化しました。そして、19世紀の半ばには蒸気船が普及しました。」   

 

ピストン運動蒸気機関  グレイト…蒸気圧の往復運動。CF)往復運動→回転運動への転換(1769、ワット)点?  ピストン運動 https://goo.gl/rCWQXi

「シューベルト、文化史」

https://goo.gl/UQQK7R

「ベートーヴェンが生きた時代」

http://www.beethovenmaster.com/beethovenmaster/15sekai/sekai.html

「ベートーベンの生まれた1770年前後は、世界が大きく変わる予感にあふれた時期であったといえます。1769年にジェームス・ワットが実用的な蒸気機関を開発し、産業革命の気運が高まりつつありました。その一方で、資本家と労働者の格差は広がりつつありました。」  

ベートーヴェンがオーケストラを拡大していったことと、産業革命が勃発-発展していったこととは無関係ではない。空間性から、リズムから。それに対する(格差社会の発生)反骨精神(解決的悟性、動機-展開-解決のスタイル)とも合わせて。  

 

「オーケストラの歴史」

http://tuhan-shop.net/classic/kikou/ki-kisotishiki-rekishi.html

「弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽(オーケストラ)は、バロック時代にオペラの伴奏として、弦楽合奏の補強のためにオーボエやファゴットなどの木管楽器が加えられたのが始まりです。これはモンテヴェルディのオペラに初期の形態を見ることができます。  このころのオーケストラは、弦楽器を中心にフルート、オーボエ、トランペット、トロンボーンが加えられたものでした。その後バッハやヘンデルたちによってオラトリオやカンタータの伴奏としてもオペラ風の管弦楽が取り入れられて発展し、それが管弦楽独自のための音楽として合奏協奏曲や管弦楽組曲が生まれてきました。その後、金管楽器やティンパニなど加わって大規模になりました。  古典派時代には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽器を増やして大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって現在のような形となりました。 」

 

 

モンテヴェルディ 1567-1643 彼のオペラにオーケストラの原型

バッハ 1685-1750            管弦楽としての発展

ヘンデル 1685-1759                同上

ベートーヴェン 1770-1827         現在のオーケストラの基礎    / 産業革命 

 

楽器に見出すとホルン 角笛からホルンへ ナチュラルホルン(ブラームスはあえて好む)

 

バルブの出現1814

バルブ ピストン式とロータリー式 上下運動から回転へ  

チューバ「18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命により金属の加工技術が飛躍的に進歩すると、ホルンやトランペットなどで音高を変える仕組みとしてバルブが採り入れられ始めるが、こうした動きはやがて低音金管楽器にも波及した。 」

 

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クーベリックやフルトヴェングラーのグレイト!!

これらこそは、産業革命からナチス「the gate of "Arbeit macht frei"」への暗示性の極みである...。(Beethoven nr9 sym、nr3 sym Eroica deadmarch も同様)

 

クーベリックやフルトヴェングラーとある意味対極にある側(長年私自身のグレイトの印象もこうだった)

切迫感や畏怖(つまりこの開放感の背景にあるものとその動態)をあまり強調しない演奏

に共通する印象は、

都会(化していく場所)を離れ、大自然(山岳風景)の懐に抱かれ、登山し、苦労のすえに解放(歓喜と療養の安息)を得る感じ

 

ベーム/ウィーンフィル(手持ち)

ギュンター・ヴァンド/ミュンヘンフィル などもそちらの方向

(金管などをスタカート風に切らないで最大限にテヌートでのばす)

http://ml.naxos.jp/album/ph06014t.co/6IfWwwdO 

Gunter Wand / Munich Philharmonic Orchestra

 

ミヒャエル・ハラース 指揮/ファイローニ室内管弦楽団

http://ml.naxos.jp/album/8.553096

 

ノット/バンベルク響

http://ml.naxos.jp/album/TUDOR7144

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RSch 春 Sym op38――グレイトとアヴェマリアと死と乙女、献呈(ミルテ)op25-1 とのからみ。

 

FB 作成: 日時: 2012年1月8日 11:24

 

RSch 春 Sym op38――グレイトとアヴェマリアと死と乙女、献呈(ミルテ)op25-1 とのからみ

 

 cf)【シューマンの歌曲1840年と交響曲第一番1841年のからみ】

ロベルトの若いときの発狂体験 1833年(23歳)

クララとの結婚 

1840年リーダークライス op24(ハイネ)

1840年ミルテの花 op25 

1840年リーダークライス op39(シャミッソー)

1840年女の愛と生涯 op 1840年ロマンスとバラード op45/49/53/64

1840年詩人の恋 op48

1840年などなど 

 

つまりシャミッソーのリーダークライスよりひとつ前が、sym春op38(1841年) ザ・グレイトの発見(フランツ・シューベルトの兄への訪問)。これは1839年 FSchにおけるザ・グレイト自身もアヴェマリアとゆったりした死と乙女(のほぼ陽化された反復揺振運動)から出来ている相面が多分にあると思われる。

もちろん同時に脱都会的運動も、あそこにはあるが、つまり一見矛盾するようではあるが、脱近代/脱産業革命という相面(近代/産業革命としてのピストン運動――それは上下運動から回転運動への転化のきざしを含む――のリズムそれ自身に揺り動かされつつ同時にここから脱自されるものとしての)という重要な要素が、これとともにあるのだが、その述解はまたの機会に置いておくとして、ザ・グレイトが アヴェマリア的揺誘 + 緩い 死と乙女 の(ほぼ陽化された)反復揺振運動 から生じる極めて純化されたタナトスの相面を持つように、

RSchの春と献呈も、この点で同じである、と言ってみる。

春op38はグレイトとアヴェマリアと死と乙女、という素因の綜合から成る所が大きい。

献呈はアヴェマリアにのせた死と乙女の高貴なる欲動とその成就であり、アヴェマリア(昇華/至純)化された死の影の反復する揺振運動(産業革命という胎内、子宮の胎動!?)ともいえる。

 

ベートーヴェンNR9 グレイト シューマン ブラームス ブルックナー

第九-mov4… ド#ド#レミミレド#シララシド#ド#ーシシ グレイト-4… ミーレド#ド#レド#シラー(シド#ド#ーシ)ラーミレド#シラ/ミーレド#(ド#レド#)シラ/ラー(ファ#)ミ(ド#レ)ド#シ(←コーダ)など

 

※グレイトmov4全体が第九-mov4でできているといってよい (ところでグレイトとくにmov4、また第九-mov4歓喜のリズムのもといは近代的な——ベートーヴェン、シューベルトの生を取り巻きはじめ、また苦しめていたところの——ピストン運動である)  シューマン、ブラームス… ラーミー(レ)ド#ーシラー

 

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NHKらじるFM

ここで思ったこと。プログラム。

RSchのラインとBrahmsの3番(ドソミレド)をぶつけてきていること。通底する演奏の息づかい=ゆったりした波(息絶える前の呼吸)から、もっと時間が長ければFSchのグレイト(4楽章ラ・ミーレドシラ)を冒頭にもってきてたんじゃないか?

天使の主題は、ドソミレドと関係があるのじゃないか

Vn協で、天使の主題ミレドファミレラ(2楽章)がドソミレド(3楽章)に(ソシドレシラとともに)かわっていく

※ミレドファミレはグレイトのドレミラシドと対位(転回)関係にある

 

 

Brahmsは、RSchのVn協を出版差し止めたが、自分はよく聞いて研究したのではないか…Sym3

 

 

シューマン自身のラシドソファソファミ(ベトop98 ラーシドドソソファーミから)の変容としてのグレイト(ドレミラシド)

ドーソーミーレドのこと。 ここ、とは春の2楽章グレイトに内々に通じているものだが、典型的にはグレイトの第2楽章に出てくる

 

 

 

 

シューマン、ブラームス、ブルックナー… ラーミー(レ)ドーシラー

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Wiener Kaiser Walzer & RSchumann op54

Wiener Sangerknaben - Kaiser Walzer (1884)

0:16-24(冒頭 Introduction part)

 

 

 

RSchumann Piano Concerto Op54 (completed in the year 1845)

↓20:45-50 (>20:21-55)

 

 

op54——この曲の きわめて印象深い ”2-3楽章 移行部” で 自問とも訴求ともつかぬもののように

繰り返される 問いと待ち設けの木魂...。

 

これが超有名な皇帝円舞曲に登場していたとは。

 

あれまさかと思ったが、やはり二世の作なので、作曲されたのは1884年であり

シューマンの方が先である...笑)

 

くぅーー。今頃気づいたゼ凹

 

 

※このことも他記事——op68をめぐるもの——に書いたが(※link-1 http://reicahier.jugem.jp/?eid=42 / ※link-2 http://reicahier.jugem.jp/?eid=43 )、このop54動画で指定した

暗示的シーンの「余韻」は、op68「子供のためのアルバム」にも頻繁に登場する。

ことに NON TITLE s 題名のない曲のモティーフにおいて!ひじょうに顕著に。

 

ウィーンに入っていくもの、ウィーンから出ていくもの... いろいろあれど、 数年前ミュージックバード(スペースディーバ)で解説の男性が ウィーン文化とシューマン(ドイツ ライン川)とは関係がない、と言っていたのは???

 

ウイーン文化としてはそうだとしても、それを創り出す作曲家においては話は別ということであろう。

 

先記事にてニューイヤーコンサート関連記事(※link http://reicahier.jugem.jp/?eid=58)にも書いたが

マリス・ヤンソンスが数年前(2012)指揮したNYCでは シューベルトはおろかシューマンさえもが

ワルツ王シュトラウス一家の研究の的となっていたはずである!!

(ヨハン2世ばかりではなく、聞いたところひじょうに勉強熱心そうな兄弟ぜんたいの!)、

ということを、選曲と指揮ぶりからつよく示唆されたように感じた。

 

それは確かだと今でも私は思う...。

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Schumann P Trio & Vn sonata Beethoven&Bach

FB 過去のこの日 およびFBノート から

 

2012年9月30日 16:03

 

R Schumann P Trio Nr1-mov1 ——Rheinische mov4 , Bach & Beethoven

シューマン P trio 1番1楽章
ラインRheinische 4楽章

バッハ平均律1巻(BWV849) 4番 fuga
ベートーヴェン sym3 Erioca Op.55 葬送(mov2)

 

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2012年5月17日 

 

RSchumann vn sonata nr1,2,3 ——Beethoven kreuzer soanta,Spring sonata & Bach bwv1004
シューマンVnソナタ123 ベートーヴェンクロイツェルソナタ・春 バッハVnパルティ−タ2番(BWV1004)
http://ml.naxos.jp/album/CDR90000-095
http://ml.naxos.jp/album/RTECD111
http://ml.naxos.jp/work/99137?af=sft


シューマンのVnソナタを貫通しているのはとくにクロイツェルソナタといえるが、スプリングソナタとバッハパルティータ2番(BWV1004 Sarabande 以下=Sarabande,Gigue,chaconne)が入り込んでいる。
シューマンVnソナタにおけるレプレザンタシオンでもっともわかりやすいのは、3番1楽章冒頭で、ここにおいてはクロイツェルソナタの冒頭とBVW1004-サラバンドの開始が――とはいえ3番全体に、パルティータ2番サラバンド以降が通っていると言える――シューマンの<内奥で>(※表層的にではないところがつねに重要。つまりシューマンの内面と内的必然性を通ってきているということ)合成/再-受肉されている。がその他、
2番の2楽章の開始
タータタタタ、タータタタタ は
スプリングソナタ3楽章の明るい(タタ)ターンタタッ,タッタッッッ,タッタッッッ,タッタッッッ を短調にしたものなどが、リズムや長短調の変化はあるが、入り込んでいる。その他はクロイツェルソナタが支配的に通っている。

 

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 07:39 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

去年の今日の記 アンダンテファヴォリと 遥かなる恋人に寄す Beethoven

FB 「過去の今日」より。(52週間前)

2017年3月29日 22:33 ·

 

 

アンダンテファヴォリ(1803-4)と 遥かなる恋人に寄す

 

Beethoven - Andante Favori in F, WoO 57 Ludwig van Beethoven (1770-1827) Andante Favori in F, WoO 57 Alfred Brendel, piano 

 

テレーゼの旋律は?

エロイカ冒頭と同じだ。

sym4冒頭とも。ファヴォリは。遥かなるも。エリーゼも。第五も六も。じゃ七も八もか。九もだ!

 

 

 

 

Beethoven An die ferne Geliebte Op.98

 

シューマンが好んだ例の旋律(↑遥かなる…ラシドソ)の直後が、アンダンテファヴォリと同一(ドレドシ- シ♭ドシ♭ラ-↑ファミミーレドシ♭ソファ)。

 

だがそれで終わらせるんでは片手落ちで、幻想曲op17冒頭(ララソファーミミーレ〜↑ドラファシドレドシ)やop22pソナタ、op21ノヴェレッテン冒頭(ラソファミレーミレドレミド・ミレ、ファ ♭ミレドシドド♯レ)、op80トリオなどは、アンダンテファヴォリの変形であって、シューマンの中ではやはり結びついていた可能性は大きい。

 

フレーズの順序が逆転しているだけで。

 

ファヴォリは、op31・32にも。

 

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とか、思い出したようにほざいている。。なんか笑えた♪

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Quintet op111,RSchumann Rheinische,op2&Beethoven op132

ブラームス クインテット op111

op111 mov2

41:55-

 

 

これは シューマン ライン(Rheinische op97)の開始、とくに

 

↑0:08-15 フレーズからのインスピレーションである。と、散歩してるとき感じた。


——しかもシューマンが意識してかせずにか移調もせぬまま踏襲していたのかもしれないBach平均律2巻の es dur 7番 Fuga(BWV876。このことは以前の記事に記述)のmotive造形をブラームスもそのまま尊重し継承する形で。——

 

でもこうして聞くとブラームス、Rheinische(ライン)の想起はそのまえの楽章、つまりそもそもmov1冒頭からだ...。
SQuintet op111冒頭とは、シューマン-ジャンパウル、であるところの若々しきシューマン「蝶々 Papillon op2」を、晩年の馥郁たる情感に溢れるブラームスが回想することに始まる曲※だ…。(これも前記事に既述)

 

※...20180417 補記)というよりはそもそも Rheinische 's motivが、同作曲家自身のop2 Papillon に、由来しているのである!、といってよい。

シューマン自身が若き自己を回想しこれに動機づけられている。そのことにブラームスも当然ながら気づいた、もしくは(音楽上においても)合致した、ということなのだろう...。

 

 

いったいシューマンが、若い頃旅し、じつに素敵なところだった...しかし溺れる夢を見たといい、その予感通り自分と知り合った翌年に身を投げたライン川…を!このように万感溢れる浄らかな心境でこころに響かせるまでに、どれほどの辛苦を味わってきたのかブラームス。

 

おまけに、今偶然この演奏で気づいたことには、↑45:24- 46:06 (Brahms SQuintet op111)にて、

 

 

 

Beethoven後期SQ op131 ——この音楽はことに生々しく、姉テレーゼ( op78, À Thérèse )がエリーゼ=ジョセフィーネの懐妊を誤って舞い込んだ手紙のように告げ知らせてきた、あのときの鮮烈な印象を、ベートーヴェンが何度となくこころに蘇らせることに殆ど終始しているような曲だ。もちろん核心は最終章、殆ど終結部にあるのだが、その他の箇所も殆ど...、否、この作品のすべてがその核心のメタモルフォーゼンとしての内省で出来あがっているといっても過言でない作品である。むろんその悟達と枯淡の格調はたぐい稀な高位を保っているけれども...——その、冒頭0:00-0:40...。


このことを晩年の同ブラームス作品に於いても思い切り喚起させるように、この楽団は奏でている…。

 

なるほどそういう風に聞いてみれば、たしかにシューマンとベートーヴェンの旋律がごく自然と、ここ晩年のブラームスにおいて融合している!... むしろ諸人の魂が混然としてさえいる。

 

幾重にも伝え重なる芸術家のいちずな思い…。

 

それにしても、シューマンが蝶々を書いたのは、まさかライン川を旅し溺れる夢を見た、と友人に手紙にしたためたその頃、なのだったっけ??? あとでしらべてみる...。

 

 

ああ。そうだ!ほんとうだ。Op111の語り明かす通り。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蝶々_(シューマン)

 

Papillon 19-21歳!の作品。ライン川で溺れる夢を見た、とシューマンが誰かに手紙を書いたのは、21歳だったと思う。

ブラームス!!! 心が透けて見えるようだ...。

 

すごいな。。そんな風にひとの溢れる心情やめくるめく追憶・秘めやかな感情の余韻までもが、全て音楽の中に語られ密々と守護されるなんて! 芸術万歳。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven: String Quintet "Storm" Op.29 また、Camille Saint-Saëns op. 33のこと

今日のFB「過去の今日」から

 


FB 2017年3月26日 16:37 · 


https://m.youtube.com/watch?v=8pgC6CX9oBA

 

最初、シューベルトトーンで始まり、マーラーも興味を持ちそうな聞き分けがつかないシューベルト性(=歌性・詩性)を帯びた時間を経たのち、

13:00-くらいから、シューマンの匂いがしてくる。


シューマンがop41-1,2,3を書く時、またop44,47の楽想でも、この曲にあちこち足跡を残したようにきこえる。

ということは、メンデルスゾーンをも当たるべきなのではないか。。シューマンがメンデルスゾーンを通さないということはあまり考えにくい...。

 

最終楽章?はメンデルスゾーンオクテット。。。

冒頭はブラームス5,6重奏的でありシューベルト的

https://m.youtube.com/watch?v=pY_gbooPwoc

 

Mendelssohn - Octet in Es groot: Vilde Frang, Julian Rachlin,Rick Stotijn e.a.


ベートーヴェン初期のこの曲の影響力、布衍性は大きい composed in 1801
https://m.youtube.com/watch?v=5BWOHlEyHcs
 

 

Brahms - Sextet No. 1 & 2 - Members of Berlin Philharmonic Octet

 

https://m.youtube.com/watch?v=G55MDE2eaFE
 

Schubert - String Quintet D.956 - Budapest / Heifetz 1941

シューベルト最晩年。d944のあと

 

 

※stormもまた、エリーゼ

 

 

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昨日の、FB「過去の今日」から

 

FB 2015年 3月26日

 

 

Camille Saint-Saëns(カミーユ・サン=サーンス)の 受け継いだもの

 

https://m.youtube.com/watch?v=MC8LjoIaS4g&feature=youtu.be

LvB sym3

https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=sru18UyAweA

 

Camille Saint-Saëns - Cellokoncert nr. 1, a-mol, op. 33 - Sol Gabetta - DR Symfoniorkestret

 

 

この中間的媒介としてあるのはなにか。

 

サンサーンスにとり、シューマンはまさしく中心にあるために?とりあえず除外するとして、

メンデルスゾーン。ブラームス。そして フォレ。

 

或る人間にとって当事者性のある人びと――この問題を突きつけた存在と、これを真摯に引き継がせた中心人物――はあえて除外するとして、その周縁を考えていくと、その人(この場合サン=サーンス)の苦悩がかえって浮かび上がるようで面白い

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven 告別(Das Lebewohl)と恋人(eternal Lover)とカッコウ(Cuckoo)

FB 2018 2月26日 17:39 (2014-5位から考えつづけていたこと)

 

 

ド-レ-ドー-シ-♯ラ-シ-♯ラー-ソ (ミレレードシラファミ)


遥かなる op98 1816年 の、ここ(0:34-48)のパロディが、

pianosonataカッコウCOCKOO op79 1809年 3楽章の冒頭

 


である

 

(※ただパロディorなぞらえ?が先に作られるはずがないので、カッコウは同時期の何かのパロディではないのか、それは告別?)

 

とともに

あの 終結点 後期三大PS の1曲目op109


の冒頭 0:47-52 への序章である...。

 

 

告別の3楽章は、似てしまったというより《意識的に》皇帝に似せられてある。

この作品が、誰に宛てた手紙なのか直感できるようにされている。

またぜんたいに、とくに2楽章はカッコウと同じトーンで作られている。

どちらかというと告別が先に作られてさえいそうである。

 

告別の2楽章ソ♯ファラ×2は、同3楽章のミドシファ×2となって現れる。

(しかも皇帝の変容に引っ掛けて。常に表裏で。)

だが同時に告別の2楽章は、カッコウの2楽章と双子の誕生のようでもある。。。

3楽章はどうか…。

軽快でおどけたカッコウの3楽章(ラド[ド↓ソ]-ファラ[ラ↓ミ]-レファ[ファ↓ド]-ソ-ラ)こそは、

op109となって(op98ドレドシ シドシーラ、や、ラーラシドーソ を含みつつ)化けるのであるが。

 

ジョセフィネ生前に宛てた最後のメサージュとなる。

 

告別の3楽章、もしくは1楽章⁉︎の方は?

1楽章の冒頭が、ドレドシ ♭シドシラ ↑ファミミーレド…となるようにも聞こえる。。。

 

カモフラージュ——パロディ、なぞらえ。

| Rei八ヶ岳高原2 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

恋人の守護霊としてのベートーヴェンとシューマン


シューマン 精霊の主題による変奏曲、というシフのリサイタル スペースディーバより 20120203
2012年2月3日 22:54 FB


シフのリサイタル
シューマンの「主題と変奏」(精霊の主題による…ミレドファミレとその変型)が、ピアノソナタ第一番、幻想曲(ラ(ラ)ソファミレ ということはグランドソナタ レ(レ)ドシラソ クララ主題)も、子供の情景も、みんな貫いていること
蝶々 にはじまり
ピアノソナタ第一番、子供の情景、幻想曲(初稿-第三楽章)主題と変奏変ホ長調 森の情景、幻想曲(最終稿-第三楽章)というプログラム
同じ主題が、だんだん自己崩壊のほうにシフトしていく感じが出てる…

 

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2018年2月3日 18:20 FB

 

↑と言って居る。

これだけ読むと、ミレドファミレがなぜ、ラソファミレなどの下降とじかに同根なのか、とも一瞬思われるが、

このインスピレーション・イマジネーションの出所は、(なんども繰り返すが)ひとえにベートーヴェンの幽霊(——恋人[のキマイラ]の守護霊。ハ調に直すとミファソ(ソ)シドレ〈※第九でもある〉と、すぐに連動するに至るシドレ(レ)ソファミ=ラシド(ド)ソファミ=「遥かなる恋人テーマ 」(このことはまた、同幽霊ドシラソファミレドシラソ… octv上向無視 の転がり——皇帝にもこうした別ver[皇帝の場合は4でなく3音列ずつ]が典型的に登場する——が音楽的展開・変容上おのずと至る「遥かなる恋人テーマ 」ラシドソファミの上下向である、と言い換えることもできる(これはベートーヴェン&シューマンの多用するラシドファソラレミファ(まるでスカルラッティのよう)...、またラシドドミラの飛躍op80等とも繋がる)---この生々しさがいつも彼らの胸に鳴っていた---これがベートーヴェン本人にもシューマンにも同根であったからである。


もっと言うとシューマン以前にシューベルト(グレイト。ドレミラシド ただシューベルトに関しては恋人と結び付けていたわけではないだろう)ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナー、★エルガー など彼ら以降の音楽家にも。

(★エルガー...私の考えでは彼は旋法風にもしくはベートーヴェン後期SQ風に、[(Geister-Code より)ナカ1音取り外す]。が、じつはこれは[晩年のシューマンがかった?笑]エルガーの創意に始まったことではなく、ベートーヴェン自身が第九mov3・後期SQ以外にも、Bagatelles op126-3で、エルガーnimrodそっくりに既にやっていた。...※下記↓)

 

■Bagatelles op126-3    ※cf)Elger ”Nimrod”

 

 

 


なお下降の愛らしさは、アンダンテファヴォリ(何度も繰り返すがベートーヴェン)に代表的な形。他多数。幻想op77のように「激烈な」下降もあるが...。

 

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蛇足 20180308

ところでこうして op126 bagatelles をきいていると、「告別」が否応なしに再生される——それはほぼ全体にちりばめられているが、特徴的なものは第1曲目にすぐに登場しもする——。もちろん皇帝も想起されるが、それ(=そうした回想)も告別に含まれていることから、ようするに《それ》を巡っているのである!ベートーヴェンはまこと、たったひとりにしか己の内奥からの感情を発露・吐露していないし、追悼(op111)後は、たった一人のことしか回想していない(娘を除いては。また、魂の恋人にも係る、娘の未来を託すことになる人物以外には...。秘匿の二重性を余儀なくされた、あの切り離せない政治状況とともに...!)
 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Elger(Enigma Nimrod)-RSchumann(op133/WoO 23)-Beethoven

Elger(Nimrod)-RSchumann(op133/WoO 23)-Beethoven Geister trio/Sym9 mov3 etc...

12月19日 17:15 · 

シューマンの暁の歌op133を合唱でやっているのがないかなと思ったがなかった。それがあればエルガーのnimrodとの親和性が、説明つきやすいのに

Schumann: Gesänge der Frühe, Op.133 (Uchida, Schiff)

Schumann’s Gesänge der Frühe (Songs of Dawn) are the last…

YOUTUBE.COM

 


 

シューマンの暁の歌と、vn concerto WoO 23 天使(霊)の主題のところ、

 

ベトの第九3楽章が(も)彷彿する。

Beethoven - Symphony No. 9 - Mov. 3

Pastoral Visit to the Archdiocese of Milan and 7th World Meeting of Families (June 1-3, 2012) Visita Pastorale…

 

※ここにも エルガー エニグマ↑nimrodが。

 

第九の3楽章って、遥かなる…とかエリーゼとも関係したっけかな。他、いろいろAndantefavoriや色々なピアノソナタ...

その日によってくるくる変わる

 

2015年12月20日 17:41 には、FBに書いている

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そういえば今朝やっていた第九の、指揮者のルネレイボヴィッツ(だと思った。ちがうかな)の演奏が変わっていて(あれこのひと作曲にむしろ興味があって、第九を第九らしく演奏することより色々な曲との連関性を重視しているのじゃないかなと思わせるスタイル)、第三楽章を聞いていたときあれこれはピアノソナタの、たしか2楽章構成のもののフィナーレ部分と同じだなとおもったところがあった。今調べたら第27番,Op.90第2楽章のフィナーレだな〜♪ ベートーヴェンらしくなく?執拗さがなくてあっさり終わるあの箇所

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 第2楽章,Op.90

 

 https://m.youtube.com/watch?v=iu-bfeZOY1w

 

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そして今日は、彷彿するこれ。

Sviatoslav Richter:Beethoven Sonata Pathetique 2nd mov.

 


Pathetic mov2は、直接には幽霊geister trio(第九mov3にも、グレイトのドレミラシド…のように転がり現れる)とつながっていて、そこからRsch Vnc mov2へつながる、という方がわかる。また第九mov3にも? pathetic mov2の悲しい展開部がエリーゼにつながるともいえる

 

 

patheticは、1798-9とあるが、9年だろう。???

ジョゼフィネと出会ってすぐに書かれたろう。この曲は彼女自身である。


 

 

テレーゼ(ベートーヴェンは、秘儀敢行のため、<ジョセフィーネを常にテレーゼと付帯させつつ>表現せざるをえなかった)は、この2楽章のひねりともいえるし、エリーゼでもあるのだ

 


ちょっとおもしろいblog↓

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/12/17/エルガー「エニグマ変奏曲」の謎/

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎 | Sonar Members Club No.1 | since September 2012

 

てか第九の3楽章は、シューマンvnコンチェルト自体がそうなんだよなー。

2楽章

https://m.youtube.com/watch?v=YLod6Ra6f08

Full length - Schumann: Violin Concerto / Frank Peter Zimmermann

 

これが第九の3楽章と通じる。これはElger nimrodとも。https://m.youtube.com/watch?v=R_CP82XN510

 


Beethoven Bagatelles op126-3。この曲もきわめてnimrodに近い(くわしくは次の記事69番の付記にて)。

つまりベートーヴェン自身が、Geister-Code から ナカ1音取り外す、という枯淡で旋法的な新境地の術策を、施していた。第九mov3・後期SQ以外にも、Bagatelles op126-3で! エルガーは、nimrodにおけるこの秘技の敢行者であると私は思う。

 

おまけ。

2015年ごろまでははっきり書かれていなかったが、今では永遠なる恋人はやっぱりジョゼフィネのほうにしぼられていた。

つくづく思うに、べートーヴェンは、1803年以降(否1798?-9年以降)ほんとうに一途に、たった一人の女性にしか己の熱情と思いを語っていない...。涙)

 

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/不滅の恋人

| Rei八ヶ岳高原2 | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フォルムの問題。形式感(観)とは何か

主題と変奏にかんする形式(感)について

 

 

Twitter  Novaris_botより

 

地上的な身体の形象は、内に潜む霊[精神]の表現体や器官としてはあきらかに不十分であるが、この不十分さの知覚こそが、固定化を排して前進する思考そのものなのだ。この思考が、あらゆる真の思考の基盤になり、知性の進化を促すきっかけとなる。 『花粉』

 

複数の人物から成り立っている人物はみな、二乗された人物―もしくは創造的精神[Genius]―である。この観点からすると、ギリシア的創造的精神というものがあったのであって、ギリシア人というものがいたのではないと言ってもいいのではないか。 『断章』

 

 

2012年 FBより転記

 

例 シューマンとブラームス

 

ある作曲家の作品は、主題とのつながりが希薄、等という判断根拠は何か。

その際の判断根拠は、音楽の、その時代時代における形式・構築感に対する理念や感覚、判断力となっている既成観念の呪縛をこえているのか、あるいは(深層)心理学的・哲学的なつながりやら、それらの今後の人間精神に対する探究・洞察の方法の多義的な発展の仕方を考慮したのを、まえもって上回るだけの恒久的な意味を本来的にもつのか。

 

ましてこのことが、言語・弁術における「論理的思考」とはちがい、こと音楽的な{暗黙的}構築性(の価値判断、またはこれを越えることへの価値判断)について拡げて把捉しなおされるとき、その飛躍する想像力の多角的・交錯的な可能性や、芸術が人間心理に与える充溢度を考えた場合、どう考え評価するべき事柄になっていく、と捉えられるのか

(たとえばブラームスとシューマンとの間で、「変奏に関して…異なる考えをもつようになった」…「主題とのつながりが希薄な自由変奏を避けるか避けないか、という相違が生まれた(意訳)」とされる点)

 

主題とのつながり、というのを考えている視野(聴野)の既成範囲、主題の背景となっているエクリチュールへの射程深度の問題も――しばしばこの(既成)範囲と構築性を超えた時、ただちに「破綻」といわれるのだろうけれども――生起してくる気がする。

 

むしろ{暗黙のエクリチュールに沿って}主題が別の主題につながっていくのを理解することによって、逆に迂遠に獲得されて来る、より大きな主題(の流れ)への驚愕、主題aと思われたものが異?主題bとの同一位相内(厳密には転位を含むことになろうが)交錯をあえて汲まれることでより大きな主題Aへと発展する、という芸術表現ならではの感動もあると思うが

 

(※補記 2018/02/04)ということになると、そもそも2主題間の関係の希薄、ましてや別主題であるとの知的判断の射程そのものが、深層心理を含めた世界——創作者の内的必然性——からみればじつは浅慮であった、ということにすらなりかねない事態も、しばしば起こりうる...。

 

★ひとつの身体によって通常得られる変奏(変容)の範囲とその帯びる構築的形式というものを、どの身体もが拘束されるべきなのだろうか。(その意味でzero地点の身体=表現の発現体としての身体は予めひとつであるべきなのか?)

 

 

ツイッターでのまとめ 2012/06/07

 

 

(※※補記 2018/02/04)

こたえは、シニフィアン-シニフィエ関係に於る「シニフィアン優位」性、及び「シニフィアンの自律性」問題等の観点からしても、こんにちの現象学〜精神分析学の諸成果により殆ど明らかであろう。こうした問題意識と事績が芸術の世界に於るフォルム(の価値)観に投影するのも、時間の問題であるように思われる

 

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Beethoven LeonoleとRSch op22,op23,op54 etc...

FB より転記 2015年12月18日

 

このBeethoven Leonole 動画記事の、コメント部分に書いてあったことをblogに転記する

 

 

●英語のwikiで、Schumann op54 pianoconcerto(1841,45)主題が、Beethoven Leonole ouverture(Fidilio)と関係がある、とかかれており、

※wikiにはDavidsbundlermarsch等との連関も指摘されており、例によってこの件も気づいたらあれもこれも切りがなくなりそう

 

その通りだが、まったくただたんに直線的に結ばれているわけではなく、

そこにop22 Pianosonata Nr2 が、噛んでいる。(他にも絡んでいるだろうが少なくともこれは確か)

 

 

(この Pianosonata Nr2 自身も op54 と関連がある。)

 

op22-mov1 prestoで下降の部分など、Leonore ouverture——終盤ちかくの盛り上がり——なしにはありえないだろう。

 

(なおこのprestoの終了後に現れるholizontalな幻想性は、op23 Nachtstock 夜曲にもほぼまったくおなじ音型で流れていく。)

 

無論、大前提としてこの RSch Op22 は、Beethovenの Elise Thema(op61 1806年 → op132 etc... = WoO59 Bagatelle)- Symphony No.5/6(運命/田園 1805-6年) ThemaをSchumannが自己流に展開させている曲調なので、Leonole= Elise(同一人物)であること、を意識していただろう。

 

※ひいては An die ferne Geliebt 遥かなる恋人——これもじつはRSch Op22に反映!何故ならBeethoven sym5,6がElise Themaの変位・変容 Metamorphoseで出来ており(※※e.g. Schicksals-Idea , Pastralにおけるwind-rhysm or "Sturm" etc...)、であり、これがlove——恋人(女性)と人間愛につながることをSchumannが知っているからであるが——までも、同一人物!?とSchumannが理解していたか、別の人間の可能性も考えていたかはわからないが...。

 

※※同時にこれらのBeethoven's inspirationsは、Haendel Messiah にも通じる!のだが...。

 

RSch op22の制作は、1833-38(1833-35、とされている記述もある)と幅があるが、この期間にFidilioを聞いていたと推測される

 

2015年12月18日 15:55 · 編集済み

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リヒテルのBach平均律 雑記断片——空智と実惠

たいていの鍵盤奏者は、その個性が第二巻の普遍性に吸収されるかのように、第一巻においてより二巻においての演奏のほうが(脱人称性を包摂した人称性の地平で)成功するのだが、リヒテルに関してはその逆に思われる。

 

第一巻の成功があまりに超越的であるため(空智)、二巻においてもなお冥想性をひきずり、その悟達がふたたび地上に降りてくる(実惠)という二巻に「ほぼ」通底した特有の世界観に還帰しきれていない惜しい側面が残る演奏があった。

 

本人もそれは反省点だったようで、私がこうしてほしいと思った通りに、翌年ライブでは幾つかの曲の演奏解釈を(悟りを通ってきた実存・地に足をつけた生命体として)やりなおしてくれていた。

 

いずれにしても奇跡的で歴史的な演奏。

 

リヒテルが二度目のライブで果たしたことは別な言い方をするとこういうことだ。

 

一巻においては、『神は、みずからを隠すことなしには、創造することができなかった。そうでないと、ただ神だけしかいないことになる。だから、聖性もまた、ある程度は、意識に対してすらも、隠されていなければならない。そして、この世においても、隠されていなければならない。(Weil-bot)』 

自己救済を希求しつつの、この世界の透徹。

 

だが二巻(この世)の多くの作品においては、上記のような顕現-退隠作用は別の位相——すなわち宗教的実存、実惠——から、

すでに殆ど全開されている(作用的一)

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RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-2

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その2

 

 

ジャン・パウル(Jean Paul)

 

じつはジャン・パウルを未読であるが、であるがゆえにまず今の時点で音楽のみですでに出来上がっている想像を規定する。

 

Beethoven,RSchumann,Brahms,Mahler... etc..

 

●シューマン 蝶々- ブラームス 弦楽五重奏曲-2

 RSchumann Papillons op2  Brahms SQ no2 op111

 前の記事投稿(http://reicahier.jugem.jp/?eid=61)時点で掴んでいだ両者に通底する蝶々(精霊・自由なる霊/超脱さ)のイマージュ。ジャン・パウル(想定)。

 

次に、発展的に——

●RSchumann op2 - Brahms SQ no2 op111 - Mahler TitanにおけるBeethoven

※Beethoven's Eroica - Kreutzer Sonata - Geister trio 的なもの と、RSchumann (犠牲者となった下地) etcetc...

 

 

ユーモア、アイロニー、自己相対化としての道化と分裂気質、(幽)霊、仮装(憑依?)、「なんちゃって」

 

謝肉祭(ジャック・カロー  ホフマン)

 

 

巨人-英雄(主題 含葬送) について。

 

マーラー 巨人 Titan に於ける 英雄 Eroica の changeover of Symbolism 意味転換/象徴性転換

 

英雄 Eroica (ミー ↑ソ ミー↓シ ミソ↑シ ↓ミー ※♭省略)…➡巨人 Titan (レーレレ〜ファレー ↓ラ、レーレレ ↑ラ ↓レ )といった Conversion of symbol 象徴の転換。

 

※但、Mahlerによるこの転換・変移には不思議とクロイツェル(Kreutzer Sonata)的なものが連動(connected)されている!

曲想「全体」を覆う「構成」上の inherit & metamorphose として。

※また、少なくともBrahms op111 に於いては Geister−RSchumannを結びつける遥かなる/精霊の旋律が、同居しているのを聞く。

 Papillon op2 にも、Mahler Titan にも、また元の Beethoven(Eroica,Kreutzer)自身にもGeisterがあるかどうか、これから検証。

 

シューマンとベートーヴェンに於ける 蝶々・(幽/精)霊 的なもの-----舞い、戯れ、無重量性、受肉と離脱。

キマイラ(サテュロス=半人半獣 「ジャンパウル風の山羊の足」 Mゲックp37) 天性魔性。

————ジャック・カロー。ホフマン

 

↓ ジャンパウル的なものの変遷。

癲癇と統合失調と自己疎外。

 

●第1次産業革命時代のジャンパウル————ベト 英雄3楽章的。せっかちな悲壮さとご大層さ。暗黒と凄絶への予見的戯けとしてのホルン→シューマン ロマンチシズム(未到)としてのホルン

 

●第2次産業革命時代のジャンパウル————マーラー 巨人第1,第4楽章的。緩慢な諦観に縁どられた、ご大層さ。後の祭り的喪失感の戯れ的ホルン 喪。死と葬送。

 

なぜ葬送するのか、なにを葬送するのか、の考察… 産業革命下に到来するものとその変遷

 

ナポレオンからナチズム

調性問題(機能和声と調性の拡張崩壊)と 自我。

主体権限と権力。

未到の告白と内面化 シューマン →(未到の「逃亡・逃避」化=)未到未決イデオロギー化 シューマン以降。

 

権力=主体権限の倒錯・自我肥大(ワーグナー問題)→自己疎外(マーラー)

 

☆機能和声…デカルトが「考えるためには、存在しなければならない」ということを思い起こさせるとき、彼は明確化しているのであって、基礎づけを行っているのではない。それは、思考を自ら存在せしめる運動の明確化なのである。『メルローポンティ 心身の合一』

 

すなわち、主体の確立。感受思考判断の出発点としての己の覚醒(レアライズ Realize)。

※これが、機能和声の確立期でもあること!!!(と、私は感ずる♪)

 

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フモール Humor の実質的内容

 

ジャン・パウル的なもののの歴史的な受継ぎが、第一次産業革命時代(ベートーヴェン ロマン主義の勃興期)と、その中間(シューマン〜ブラームス ロマン主義の絶頂期 イデアール=レアールの合致期,or少なくとも二重構造期)と、第二次産業革命時代(マーラー ロマン主義の厭世主義的退嬰期)とではそれぞれ違っていると思う

 

 

ベートーヴェンとジャン・パウルの関係は、シューマンやマーラーのように、影響を受けたというよりむしろ

同時代人としての共通項(のちのシューマンによって鋭く具現)をすでに有するし、己の実体験であり実人生でもあった。

 

サテュロス キメラ(キマイラ)に象徴される異形

 

 

添付

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2011年(何月何日だったか、あとでFBノートを調べる) FBより転記

 

チンドン屋,(軍)楽隊,行列,仰々しさ,礼式/死,葬送 ベートーヴェン(シューベルト・シューマン)→マーラー 遷移する世界観と人間観

楽隊、太鼓、鐘、素っ頓狂なクラリネットの音などが、メルヒェン・死のイメージにつながる(直観的に、潜在意識的に)のはなぜか

 

大道芸人とか‥ 。

 

何らかシニシズムや厭世観、哀愁とかさなり、行進や彷徨とかさなり死に通じる。

 

儀・礼式、鳴り物入り、仰々しさ(物々しさ、馬鹿丁寧さ)、芝居がかった、仮装・化粧、パロディ(享楽/死)とか‥

 

戯け、滑稽/死

 

素っ頓狂=「突」拍子(「突」-日常)/死 真面目(大時代性・畏怖)→さすらい→狂気→悲=喜劇(含 諦念・自己卑下=陳腐化;シニスム)/死 「凸(突)」拍子 の瞬間に 実のなさ ( 虚 仮 喪  盲 唖 聾 戯 儀=祝祭 ) が現出する

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

RSch,LvB&Mahler(JeanPaul,JCallot)-1

2017 11/5日前後のTWから

 

シューマンとベートーヴェンとマーラー(おそらくジャン・パウル、ジャック・カローらをめぐる)その1

 

 

 

謝肉祭 道化 ————「幻想的絵画」(Phantasiebilder)

 

ジャック・カロー(Jaques Callot)的なものが、聴いてる間ぢゅう飛蚊症のように飛ぶよなあ…

 

M Jansons's New Year Concert(ヨハンシュトラウスをやりながらつねにマーラーとそれへの歴史、その周辺等々を感じさせる)でもそうだったが…

 

Jean Paulだなあー。 しかし分裂気質だなあ。。。Chopinだったら絶対こうはやらない、という所だらけ。

 

 

さっき昔の自分の「くせ」にちょっと似た女流ピアニストのop16 Kreisleriana!を聞いていたら、ある部分が謝肉祭コーダなのに気づいた。今頃!

 

自分で弾いていた時代にはこんなことさえ気づかなかった。 そして次の章はグランドソナタに通じているのだ。

こんな単純なことも気づかず全く別の問題にのめり込んで弾いていた...

 

今は、Kreisleriana op16とNovelletten op21の近さも痛感する。

 

だいたいがクライスレリアーナが8章(と、連動した2章)から遡行的、逆算的に(それが意志的-自覚的なものか潜在意識-無意識的なものかの判定は、シューマン自身にもまして他者にも十分に出来はしないのではないだろうか)できている。

そのことも、弾くことからだいぶ離れてから痛感した。

 

ノヴェレッテは穿孔性(verticalな志向性)よりhorizontalな側面をより濃厚に演奏しうる謝肉祭、ダヴィド同盟系の全体に陽気な曲調と思われるが、それだけでなかった訳だ。

フモレスケ以降の典型的なものの内包もある。

 

そしてノヴェレッテの7,8章となると超有名なあのショパンノクターン的な世界にユーモアというより諧謔自嘲を兼ねた世界に至るが、これは別の角度から言ってみれば「英雄(エロイカ)」-「クロイツェルソナタ」的なもの、のR Schumannらしい消化だ。

 

ここには Scriabin's sound pattern スクリャービン音型の予兆もあり、すなわち Erioca-Kreutzer Sonata 的な何者かが引きずられた第二次産業革命的退嬰世界(Mahler Titan)に至る訳だ。

 

Robert Schumann - Faschingsschwank aus Wien - Composer: Robert Schumann (8 June 1810 -- 29 July 1856) -… YOUTUBE.COM

 

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補記

2017 11/23日前後のFBから

 

ウィーンの謝肉祭の道化 Faschingsschwank aus Wien Op26

 

やっぱりこれを聞いてもシューマンは孤独で、たった一人の錯綜する世界を構築しようとしている。誰にも到達でき(て)ない。
この時期からすでに「暁の歌 Gesänge der Frühe」op133 が内包されている。

 

シューマンの人間観・内面観・身体観の自己矛盾に由来するどうしようもなさ。狂おしさ。

この未到、こそが究極のロマンティシズムでなくして何か。「わが憧れと苦悩」

存在論的な、絶対的未解決性である。イデオロギーなしの。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:41 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Chopin Cello Sonata Op65にみる、Beethovenに対するロマン派の興味と謎解き

 

これを数年前に聞いた時、おお、っと思ったのは、

この曲が恰も「ベートーヴェンの主題によるチェロソナタ」といった感じの曲想に聞こえると同時に、

ショパンもまた、メンデルスゾーンやシューマンと同様、ベートーヴェンの残した一連の謎解き問題に関心があったにちがいない、ということだ。

 

このショパンにしてはめずらしい室内楽の冒頭は、あきらかに PianoSonata Therese(=Tempest Mov2)の開始を前提としている。

 

そして、いかにもロマン派的な様相をまといつつとはいえ、展開の仕方から、頭にあったのは(結び付けたかったのは)、

このTherese-themaからElise-themaへの移行——テレーゼ主題とエリーゼ主題との結びつき(後期SQでわかる——String Quartet in A minor, Op.132 No.15-mov5。

 ↓28:41-29:33-30:51) ——である。

 

 

 

 

実際、Chopinは、自身のCello Sonata Op65で同2主題間結びつけの実験をしているのがわかる。

 

 

また、 幽霊 Geister Op71・遥かなる恋人に寄す Op97(シドレファ♯ソラ、シドレラソファ♯)・もし知っていれば Andante Favori(幽霊、遥かなると一致する下降線、FavoriとPastral田園との関係)、等々であろう。

 

また短調になるところだと、 ラソファミレ Tempest Mov1

 

音列3つずつだと、告別(Lebewohl)・Elise dosila。ドシラ,ファミレ,ミレド,レドシなど。

 

また、Tempest Mov3 (ラ)ファミレ・(ラ)ファミレ や、Tempest Mov1 ラソファミレ などなど...。

 

此処から推察されるのは、じっさい色々である。

 

バガテル「エリーゼのために」(Bagatelle No. 25 in A minor WoO 59 Für Elise) は、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンが活躍していた時代には、発表されていなかったという記事だか論文を見たことがあった気がするが、それは別段構わない。

 

いろいろな作曲家にとって、後期作品とそれ以前のベートーヴェン作品を聞けばおのずとエリーゼの主題は関連付けられるだろうからである。

 

となれば、ベートーヴェン以降の作曲家、各々の心中に、エリーゼ的な音楽がエッセンスとして代わりに(謎解きのピースのきわめて重要なひとつとして)おのずと蘇生されてもおかしくはないからである。

 

それほど、バガテルエリーゼが未公開の場合でもエリーゼの暗示となる作品は、あちこちにある。(第九の主題と同じで。)

 

もっともわかりやすいのは、op61-aなどであろうが。

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:43 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Brahms Op. 111(SQ No. 2)と FSch d821 と RSchumann Op121そしてOp2

FBから転記

 

FB 

2017 9月12日

 

わりとどうでもいい件…だけど一応。。

 

Brahms Op111

Johannes Brahms - String Quintet No. 2 in G major Brandis Quartett

 

久々、聞いてて気になった、

18:24-39

 

このフレーズ(『想い』のこだま)。。。

 

 

とろい頭でしばーらく考えてて、このこだまがやって来たのは、意外とアルペッジョソナタ

(FSch d821)だった。

 

15:13-29

 

だけどなんかまだあるよなあ(もしかするともっと身近なのが?)

…と思ってまたかんがえていると、 次に降りて来たのが、、(/ _ ; )

 

(RSch op121)

0:11-22

 

あんまりどうでもよくなくなってきた?。。。 だからして!…もっとあるかもネ。

というか、事をもっと広く長いスパンで、奥行き深く、じっくり把握しなければならないかもしれない。

 

 

これを一身に引き受けるクララ...。よろこびと悩みが重く、贅沢で参るなあ

 

 

 

 

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FB 

2017 9月13日

 

 

ところで、ひきつづき

 

Brahms op111

 

 

昨日言っていた事案

(於:FB 2017 09/12 『想い』のこだま。Brahms op111 - FSch d821 - RSch op121 の件 )

 

は、部分的な問題に終始しえず、ともするとコトが拡大してきそうなのでいまはともかく、

 

もう一つ気になること——

 

このブラームスの、極めて円熟した浄らかな晩年のを聞いている間ぢゅう、

RSchのop2---若くたどたどしい、まだいかにも習作めいた作品---がなにやら仕切りと裏で鳴って仕方がない気がして来ると同時に、

 

 

そういう説明不能な…人に根拠を示すことなどむずかしい 至極あやふやなものほどつい掴もうとしてしまう自分の感受性を、——他方で持て余しつつ——じつは密かに気に入ってもいる…。

 

ブラームスの人生への想いを引きずらせる 苦悩するシューマンと、 ブラームスの瞼の裡に棲む、若き微笑ましいシューマン。

 

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説明不能 ↑ そうじゃない。。。*:`( ゚д゚*)!?

 

op2の、一番初めに、答えはある!!

 

ブラームスからの応えは、彼の作品(Op111)の中の、これまたあちこちに 反響していた...。

無論、Op111冒頭のチェロの低音部旋律が、そのままシューマン(蝶々)への、ブラームスの応え としての主題、及びその発展(変容)形——踏襲するVnによる旋律への変容形(1:58-2:25)。上昇してゆかず、※octvズレになるが)など——だともいえるのだろうが。

 

※注)より素直に、上昇する旋律は後になってやってくる...。

 

 

...応え、としてもっとも直截なのはここ。2:25-2:46

 

もしくは、次の 2:47-3:01(-3:06)

 

————どうだい?精いっぱい やって来たといってくれるかい。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

グールドによる語り ベートーヴェンの一部から思うこと(G.Gould and Beethoven)

FBより。2017 8/24 記。

 

 

FBの「過去の今日(2016 8/24 付)」で出てきた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=ztt1Z_90aag

 

Glenn Gould Discusses Beethoven's Piano Sonata No 30 (Op 109)

Glenn Gould in conversation with Humphrey…

 

(FBの過去記事で2016年度に出てきた動画の同じ「もと」がyoutube上でわからない なのでこれを代わりに添付。日本語訳がついていないが)

 

Ludwig van Beethoven 2016年8月24日 · Glenn Gould on Beethoven Sonatas.

 

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思ったこと(去年の今日)

 

ここでグールドが冒頭で言っているコラールchoralとは、カッコウCuckoo No25と同じものだ。

そしてカッコウは何かの曲のparodyなのだから。。。

何だったろうか...。数年前に感じたことなので忘れた。

告別Les Adioux? ミ・ド・シ・↑ファ-ミドシファ?———ここはカッコウ・告別(Cuckoo-Les Adioux)系の中間体。

※テレーゼ、カッコウ、告別(Therese,Cuckoo,Les Adioux)は 1セット(in a set) だ———これらは英雄(Eroica)系にもandante favoriにもかかる やはりこれもジョセフィネ(Josephine)-アントーニェ(Antonie)の重なる時期

 

[※英雄・告別——Eroica-Les Adioux——系で たしか朝、andante favori のことを考える必要がある、と思った...同じような旋律が...というのはここかな

ラソソファミレ...ラソー,ファミー,レドー,ラソー,ファミー,レドーとか。かなあ(下降)。

あと告別 Les Adioux mov3の最後 下に添付動画 Pollini 15:08-15:29 の雰囲気かも。]

 

 

参照1

告別

 

https://www.youtube.com/watch?v=9TXQSz_4AMY&list=RD9TXQSz_4AMY#t=8

 

Beethoven - Piano Sonata No. 26 "Les Adieux" (Pollini)

 

 

そしてカッコウ(Cuckoo No25)でもあるこのop109根音のchoralラドファラレファソラ(Gouldも紹介) はラ-↑ミ-↓ミ-↑ラ(英雄 Eroica sym3-Josephine 同時にsym7,8-Antonie)でもある

 

だからまたキメラ (Χίμαιρα, Chimaira)になってしまうのだ

 

 

 

参照2

テレーゼ

 

 

Glenn Gould - Beethoven - Piano Sonata No. 24

 

ThereseはLes Adiouxの予告的 実際は後でもおかしくないが(ベートーヴェンは策士だから)

実際にはAntonieとの恋愛が始まった(カッコウ Cuckoo PS No25 の)あと、テレーゼと告別(Therese,Les Adioux)を書いた気がする

 

それにしてもまるで解剖するかのような弾き方をするグールド。ピアニストというより作曲家としての関心だ...。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 15:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

幽霊[Geister]の変身(の変身の変身の変身...)

(大局的に書きたいことの本の断片に過ぎないがメモしておくと...)

 


Beethoven String Quartet No. 13 in B-flat Major, Op. 130 (Grosse Fuge) - American String Quartet

 

あらためてきいてみるに、これは、op70(-1)…のtransfiguration,transformation...というかSecond? Comingかも♪ 

 

すると、Χίμαιρα???

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

ヤンソンスのマーラーの情報から、思い出した近年二つのニューイヤーコンサート

昨日、或るクラシック音楽の非公開グループで、ヤンソンスのマーラーが非常にいい、という記事が出ておりそれに反応しつつ思い出した、ヤンソンス指揮のニューイヤーコンサートふたつ について。

 

 

(グループでのやりとりで、私はだいたいこう、話しておいた)

ヤンソンスは多角的な興味をそそる指揮者で、昨今ではヨハンシュトラウス父子兄弟 と マーラーやチャイコフスキーなどいろいろな作曲家に通底するものを彷彿させながら、産業革命などについてもすごく考えさせる演奏をしていたし、その翌々々年だったか、には、歌劇や喜歌劇のことを感じさせると同時に戦争と奇想、とかさらにはカリカチュアとかそうしたものを考えさせるような演奏をしているのでびっくりしました。とくにマーラーを彷彿させた年の演奏は印象に残っており、ヨハンシュトラウスを通したマーラーじゃなくて、笑)直接マーラーを、彼の指揮で聞きたいなーと思います。

 

 

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ヤンソンス指揮 NYC  ウィーンフィル ニューイヤーコンサート 2012,2016 曲目と、考えておいたこと

 

 

記述したのは ともに2012,2016の正月 FBのtlとノートにて

 

 

2012  ニューイヤーコンサート

J.シュトラウス2世/ヨーゼフ・シュトラウス: 祖国行進曲 J.シュトラウス2世: ワルツ「市庁舎舞踏会でのダンス」 
J.シュトラウス2世: ポルカ「あれか、これか」 
J.シュトラウス2世: トリッチ・トラッチ・ポルカ 
C.M.ツィーラー: ワルツ「ウィーン市民」 
J.シュトラウス2世: アルビオン・ポルカ 
ヨーゼフ・シュトラウス: 騎手・ポルカ 
J.ヘルメスベルガー: 「悪魔の踊り」 
ヨーゼフ・シュトラウス: ポルカ「芸術家の挨拶」
J.シュトラウス2世: ワルツ「楽しめ人生を」
J.シュトラウス1世: シュペルル・ギャロップ
H.C.ロンビュー: コペンハーゲン蒸気機関車のギャロップ
ヨーゼフ・シュトラウス: 鍛冶屋のポルカ
E.シュトラウス: カルメン・カドリーユ
チャイコフスキー: バレエ「眠りの森の美女」より「パノラマ」と「ワルツ」
J.シュトラウス2世/ヨーゼフ・シュトラウス: ピツィカート・ポルカ
シュトラウス2世: ペルシャ行進曲
ヨーゼフ・シュトラウス: マズルカ「燃える恋」
ヨーゼフ・シュトラウス: ワルツ「うわごと」
J.シュトラウス2世: ポルカ「雷鳴と稲妻」
〜アンコール〜
J.シュトラウス2世: チック・タック・ポルカ
J.シュトラウス2世: ワルツ「美しく青きドナウ」
J.シュトラウス1世: ラデツキー行進曲

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cf)
ベートーヴェン 1770-1827 (移動手段:馬車 第一次産業革命)
シューベルト  1797-1828 (馬車 第一次産業革命)
父シュトラウス  1804-1849 (馬車〜蒸気機関車?微妙)
シューマン  1810-1856 (蒸気機関車 以下同じ)
ヨハン・シュトラウス   1825-1899
ヘルメスベルガー  1830-1852
ハンス・クリスチャン・ロンビュー(H.C.Lumbye) 1810-1874
 (※蒸気機関車、コペンハーゲン "Copenhagen Steam Railway Gallop" by Hans Christian Lumbye)
チャイコフスキー  1840-1893
ツィーラー  1843-1922
プッチーニ  1858-1924
マーラー 1860-1911 (第二次産業革命)

 

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考えたこと (2016のNYCから2012のそれを振り返る)

 

正直、つい最近まで、あまり真剣にニューイヤーコンサートを聞くことはなかった私でしたが、2012年のヤンソンスの指揮に衝撃を受け、豊かな体験をさせて戴いたので、やはり今年も聞き逃す手はないな〜と思いました。

 

2012年は、ニューイヤーの直前に、マーラーとヨハンシュトラウス(シュトラウス一家の音楽)の音楽的な濃い繋がりを、サントリーホール2011年10月でのエッシェンバッハの演奏でつよく体感(だいたいがマーラーを聞き始めたのが2010年、ツイッターで遊び始めてからだったという…^^*)、させてもらい、シュトラウス家の音楽にもあらためて興味が湧いていたせいもありましたが、ヤンソンスのこの年に示したたいへんスパン――時間的にも空間的にも、です――の広く長い、網の目のような示唆のせいで、なおさら面白くなりました。

 

あの年は、簡単にいってしまうと産業革命が、ひとつのおおきなメッセージでした(もちろん重要な要素はそれだけではありませんしここから分岐した音楽的・文化的なメッセージもありました。

 

マーラーはもちろんベートーヴェン辺りから、シューベルト(殊にグレイト?)やシューマン、ブラームス、チャイコフスキーらを背後に感じさせる選曲と指揮だなあとおもっていたら、あとでほんとにチャイコフスキーを出してきたりなどしたし。

 

そのことを悟らせるのにヨハンの兄弟の選曲もセンスがありありでした。

 

 

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調べたこと(2012 正月のFBノート)

 

産業革命規定…18-19c   紡績機から。


主なこと1733 1764 1769


蒸気機関車イギリス 1830年〜(実用化 産業革命)http://www.nhk.or.jp/koko…/…/sekaishi/archive/resume027.html

 

おもしろいのは、蒸気機関車の実用化はいち早いイギリスでさえ1830年だとしても、(蒸気機関の発明は産業革命の最後期なのであって、)蒸気機関車「以外の産業革命のリズム」は、その時代に生きていた人間たちの体の中にもすでに通っていたわけで、(ヤンチャッチャッチャ、タタタータ・タタタータ、金管のパパパパパパ…など)
蒸気機関車に乗ることの無かったシューベルトの体にも、紡績機や紡績工場の環境音や製鉄、他の機械装置のリズムなどは通っていたし、機関車以外の他の蒸気機関のリズムには接していたと、大いに考え得ることだ。

また、ベートーヴェンsym3英雄の葬送、あの不気味で異様な推進力!あれは工業化社会に生きつつあった彼にとって何に対する畏怖なのか。彼の見ていたスパンは?

 

彼は無意識に見通していた。この先があまり明るくないことを。

暗澹たる凄絶さにみちた、英雄における「葬送」。予兆的機関車のような、絶望的なあの蒸気圧の駆動——何を葬送してい(見送ってい)るのか。

産業革命以後の人間と人間社会を、という感じが非常にして、ぞっとするのだ。

 

 

※蒸気「船」は微妙か?
(フルトン、蒸気船の実験に成功1807/ミシシッピ川で蒸気船による初の川下り1811 /蒸気船が初の大西洋横断1819 /ネッカー川の水運が再び隆盛を見せるのは1878年のKettenschlepperei (「鎖による牽引の時代」)の始まりによってである。

マンハイムとハイルブロンの間115kmを蒸気船が小舟を牽引してさかのぼることで、馬に引かせて5日から8日かかっていた行程を2、3日に短縮することができたのである。http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83…)http://www.nhk.or.jp/koko…/…/sekaishi/archive/resume027.html

「1844年、イギリスの画家ターナーは、「雨、蒸気、速度」という題名の絵を描きました。その絵は、実用化されて間もない蒸気機関車を幻想的に描いたものでした。19世紀に発明された鉄道は、人びとに大きな変化をもたらすこととなりました。スティーヴンソンによって実用化された蒸気機関車は、1830年、イギリスの綿工業都市マンチェスターと港湾都市リヴァプールの間を結びました。鉄道は、大量の貨物と旅客を高速で運ぶことができたため、イギリス国内には急速に鉄道網が整備されていきました。蒸気機関を利用する船も、19世紀の初めに、アメリカ人フルトンが実用化しました。そして、19世紀の半ばには蒸気船が普及しました。」

ピストン運動蒸気機関

〇シューベルト d944「グレイト」…☆蒸気圧の往復運動-1(予告的)。*このことはぜひblogに書き残したい

CF) 往復運動→回転運動への転換(1769、ワット)

シューベルト、文化史
http://ur2.link/HkFc

「ベートーヴェンが生きた時代」
http://www.beethovenmaster.com/beethoven…/15sekai/sekai.html

「ベートーベンの生まれた1770年前後は、世界が大きく変わる予感にあふれた時期であったといえます。1769年にジェームス・ワットが実用的な蒸気機関を開発し、産業革命の気運が高まりつつありました。その一方で、資本家と労働者の格差は広がりつつありました。」

ベートーヴェンがオーケストラを拡大していったことと、産業革命が勃発-発展していったこととは無関係ではない。空間性から、リズムから。それに対する(格差社会の発生)反骨精神(解決的悟性...機能和声 動機-展開-解決のスタイル)とも合わせて。

 

〇ベートーヴェンsym3英雄(葬送)…☆蒸気圧の往復運動-2(予告的)

★シューマンの時代は既に蒸気機関車が走っていたが音楽性がいかにもそういう感じとなる。ドボルジャークが蒸気機関車の曲を書いている

 

「オーケストラの歴史」
http://tuhan-shop.net/cla…/kikou/ki-kisotishiki-rekishi.html

「弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽(オーケストラ)は、バロック時代にオペラの伴奏として、弦楽合奏の補強のためにオーボエやファゴットなどの木管楽器が加えられたのが始まりです。これはモンテヴェルディのオペラに初期の形態を見ることができます。このころのオーケストラは、弦楽器を中心にフルート、オーボエ、トランペット、トロンボーンが加えられたものでした。その後バッハやヘンデルたちによってオラトリオやカンタータの伴奏としてもオペラ風の管弦楽が取り入れられて発展し、それが管弦楽独自のための音楽として合奏協奏曲や管弦楽組曲が生まれてきました。その後、金管楽器やティンパニなど加わって大規模になりました。古典派時代には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽器を増やして大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって現在のような形となりました。 」

 

モンテヴェルディ 1567-1643 彼のオペラにオーケストラの原型
バッハ 1685-1750 管弦楽としての発展
ヘンデル 1685-1759 同上
ベートーヴェン 1770-1827 現在のオーケストラの基礎 / 産業革命楽器に見出すとホルン 角笛からホルンへ ナチュラルホルン(ブラームスはあえて好む) 
バルブの出現1814バルブ ピストン式とロータリー式 

上下運動から回転へチューバ
「18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命により金属の加工技術が飛躍的に進歩すると、ホルンやトランペットなどで音高を変える仕組みとしてバルブが採り入れられ始めるが、こうした動きはやがて低音金管楽器にも波及した。 」

 

 

 

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2016  ニューイヤーコンサート

 

国連行進曲シュトルツ作曲(初演奏)
宝のワルツ 作品418ヨハン・シュトラウス2世
フランス風ポルカ「ヴィオレッタ」作品404ヨハン・シュトラウス2世(初演奏)
ポルカ「観光列車」作品281
ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「ウィーン娘」作品388
ツィーラー作曲(初演奏)ポルカ「速達郵便で」作品259
エドゥアルト・シュトラウス作曲歌劇「ヴェネツィアの一夜」序曲[ウィーン版]
ヨハン・シュトラウス2世ポルカ「羽目をはずして」作品168
エドゥアルト・シュトラウス作曲ワルツ「天体の音楽」作品235
ヨーゼフ・シュトラウス作曲フランス風ポルカ「歌い手の喜び」作品328
ヨハン・シュトラウス2世(初演奏)ポルカ「休暇旅行で」作品133ヨハン・シュトラウス2世喜歌劇「ニネッタ侯爵夫人」第3幕への間奏曲
ヨハン・シュトラウス2世(初演奏)ワルツ「スペイン」作品236
ワルトトイフェル作曲(初演奏)ワルツ「舞踏会の情景」
ヘルメスベルガー1世作曲(初演奏)ため息ギャロップ 作品9
ヨハン・シュトラウス1世ポルカ・マズルカ「とんぼ」作品204
ヨーゼフ・シュトラウス作曲皇帝円舞曲 作品437
ヨハン・シュトラウス2世作曲ポルカ「狩り」作品373
ヨハン・シュトラウス2世アンコール曲目ポルカ「突撃」作品348
ヨハン・シュトラウス2世美しく青きドナウ
ヨハン・シュトラウス2世作曲のワルツ『An der schönen blauen Donau』Op. 314。
ニューイヤーコンサートの定番アンコール曲。
ラデツキー行進曲ニューイヤーコンサートのトリを飾るヨハン・シュトラウス1世『Radetzky March』。
観客の手拍子が恒例行事。

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考えたこと 2016 正月のFBから

 

 

今年2016のメッセージのキーワードは、わたしなりに掴んだ限りでは、奇想-コメディ(※いわばジャックカロじみた諧謔性にひそむ悲哀も秘めたユーモア)→舞踏/舞踊とその周縁→オペラ/オペレッタ、(その背景には政治と文学)といった軸かなあ。と思います。ウィーン、それも「シュトラウス家の音楽性」を中心としたときに、その周縁にあたる音楽の歴史(音楽家達の顔・顔)、多様な芸術文化・社会的要素との交流。ウィーンから出て行くものと入ってくるもの、などなどです。

(おもうに、ニューイヤーコンサートは、音楽の演目だけではなしに、舞踊の振り付けや衣装にいたるまで、示唆が統一されていて、なかなか演出上手だとおもうのは、考えすぎでしょうか。ダンサーのコミカルな身振りや衣装の魔的な襞の翻りが、「二人のザンニ」を惹起するのも偶然の一致ではないとおもうのだけど)

 

そんなことを考えているうち、ジャンパウルやホフマンをやっぱり読みたくなりました(←え。未だ読んでない?! >▽やあ。。ヤンソンスの世界の広く豊かなこと。個人的な事件や体験の痕跡もおそらく強く捉えつつ、同時にそれを社会的(事件と意味の蓄積)にも余裕で捉える視野など、やっぱり学ぶことが多いような気がします。

 

 

FBの投稿より↑

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※...ヤンソンスの指揮で、上述したようにヨハンシュトラウスを介したマーラーを、ヤンソンスの指揮で痛感させられる訳だが、調べると、なんとマーラーはジャンパウルを実際読んでいた...。その中に、なんと ジャックカロの名が出てくるではないか...!

(有名な話みたい^^;;; が、ということは、私の我田引水ででたらめなイメージではなかった)

 

http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/Library_Mahler_Sym1.htm

 

 

調べたこと(未だ。これから)


歌劇 喜歌劇 (オペラとオペレッタ)というジャンルは正直未開拓。これからなので、ちょっと時間がかかる...

 

だけどなんであの指揮から、オペラやオペレッタを惹起させられたのだっけ...。なにかの曲のフレーズが、私でも知っているような有名どころのオペレッタの一部をありありと想起させたのかもしれない。天国と地獄だったかなあ...?

 

批評性(文化と政治)と音楽 という視点は ヤンソンス的で面白いと思う 彼はラトビアなので...!(混乱の時代に生まれ、親が射殺されている)

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

フランチェスコ・グァルディ 身体としての風景——奥行きと厚み

メルロ゠ポンティbot‏ 


「セザンヌは生涯奥行を追求し続けた」とジャコメッティが言っているしドローネーは「奥行は新しい霊感だ」と言う。ルネサンスの様々な「解決」の後四世紀、デカルト以後三世紀になるが、奥行は常に新しい。そしてそれは人々が「一生に一度」ではなく、一生涯求め続けることを要求する。『眼と精神』

 

何故、奥行は常に新しく、一生涯求め続けることを要求されるのか...。

それは、奥行きが私の身体であり、私という意識と身体だからに他ならない。

 

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アトモスフェールの蘇生とは、

主体がそれとどう関わり巻き込まれたのかの告白や

半ば無意志的な状況論的身体性という形姿での

ロマンティシズムの暴露を、伴わわずにはいられない...

 

場所としての風景が<身体>である——

 

 

グァルディ。


風景画に "詩性” が誕生したといわれる所為。

 

 

※ 詩情がある という理解、とは何か (暗示性とは何か)

 

師(カナレット)との差異——風景を身体から切り離さない。むしろ身体自身を彷彿させるポテンシャリティの示唆と

鑑賞者との間でのこれの共有を果たす——厚みと奥行き としての 《身体性の歯痒い覚醒》をタブローの上に成就する

 

https://artoftheworld.jp/hermitage-museum/515/

 

http://free-artworks.gatag.net/tag/廃墟-古跡

 

 

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詩性の秘鑰をにぎる「厚み」について記したので、追記しておこう...

 

今年の春開催され、人気を呼んでいたミュシャ展。

この呼びかけがSNSでも盛んにおこなわれていた。ツイッターではこのような感想(主催者側?)のツイートが...

 

@mucha2017 は想像を超越してました。
ミュシャが今生きていたら、世界一のAdobe Illustrator使いになっていたに違いない!と思ったのでした。人呼んで、レイヤーの魔術師。

 

近代の獲得した実性(虚構性にたいする実構性?)と 機能性 ——ものの厚みについて。

 

私もオリエンタリズムの洗礼以降(シャヴァンヌ〜ラファエル前派以降)は発想がレイヤー(「平面的に」重層的・再-古典的・レリーフ的)世界であるなあというのは数年前から思っていた。そしてレイヤーとは、あえていうなら 聖性である。
ただその聖性は、ルネッサンス以前の彫像的レイヤーからクロードロランorプッサン的な構成的(構造的構築的——実構的)レイヤーに至る迄より 技法が精緻になっていると同時に、「質が落ちている」(退嬰)。

 

イラストレーションや漫画の技法に近づく のだけれど...。

 

やはりものの厚みの描写の不足、厚みにたいする迫真性の(半ば意図的な)衰萎に起因する。

 

他方で ボケみ(スフマート?)の工夫とスキルは非常に高度かつ凝ったものになっていると思えるが...

がそれもまた、ものの厚みを減衰させる方向に、意図的に寄与させられている気もする。

 

こうした傾向はもちろん、オリエンタリズムの勃興——シャセリオー(→シャヴァンヌ)の系譜 からだろう

 

※ということは、近代人権思想と立憲主義、の精神というのは、実構 なんだな。。。

音楽でいう機能和声 そして厚みを持った

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

プログレ ブリティッシュロックとその他、イタリアンロックなどとその底

一片の小説、詩、絵画、音曲はそれぞれ個体である。つまり表現と表現される物とを区別することが許されない存在、従って直にそれに接することによってしかその意味に近づくことができない存在であり、それらの存する時間的・空間的場所を離れずにその意義を投射する存在なのである。

『知覚の現象学』 (メルロ=ポンティbot @merleaupontybot)

 

1)人のありようのみならず、すべての表現行為は、「状況づけられて」いる、と、自分がずっと言いたかったことのすべてかな。
状況づけられている、ということこそが、(制約性でもあると)同時に 尊厳 でもある、という..。

 

 

2)主体と状況。
たとえば、ある科学者なりある芸術家なりが、自分は政治的人間でない、と宣言しつつ、自分の研究や発言、また作品を、その時の政治状況と無関係に?作り上げたり発表しても、無関係だ「というスタンス・態度で研究し作った」という政治性を帯びてしまう、というカラクリに無頓着であれば、そのような研究や作品となってしまう、ということ。
(このことは、その研究や作品の中で、直接政治的なことに触れ政治の問題として語るかどうかとは関係がない)

 

 

 

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エルガー以降のイギリス系音楽系譜。

 

これがYESを筆頭とするプログレッシブロック( Progressive Rock )の昇華性の高い、調性拡張後の聖歌的『ハモリ』(ポリフォニーや対位法の利用法 これをなしたのは主に影の力?クリス・スクワイヤと、より東洋寄りなジョン・アンダーソンだと思う。ハウは、もうすこしダウランド等の系譜を通っているから。合流しうるとは思うが)と通底するように聞こえる。

 

オルガンを彷彿させるエレキやキーボードなど楽器の声になっていても、同じ。

 

ブリティッシュの音楽家系譜————NAXOSなんかの収録を参考にすると、 具体的には エルガー ディーリアス アイアランド バックス ヴォーンウィリアムス ホルスト バターワース などという把握が妥当のかな。

半年くらい前に気づいたのだが、一番最近ではジョン・ラターという人がいる(この人も同系譜だと言っていいと思うのだけど)、まだ現役でやっている。もしかするとラターは、一応はクラシックなはずだけれどもかなりジャンル横断的に思える。

2013年に亡くなっているジョン・タヴナーなども入れるべき?(すこしバタ臭い、ビザンツ-東欧的匂いも醸す現代——前衛音楽崩壊後——作曲家)

 

(ブルックナーの聖歌などもそうだが、結局このイギリスへ行った[再-]遡及点はシューマン-ブラームスということに私的にはなるのだが。シューべルトもじつは対位法をやっていたが。いずれにしてもヴァーグナーがいてもいなくても、すでに調性拡張の芽は、バッハはもちろん、試みとしてはハイドンがあったし、ベートーヴェンの特に後期には十分音楽として、あったのだから。況やサティ、ドビュッシーにおいてをや つまり彼ら(ヴァーグナー/ドビュッシー)を通過しなくとも、また表立った 起点 としなくとも、調性の逸脱、拡張、崩壊は成された)

 

 

 

イギリスにはクリスチャンロック っていうジャンルがあるんだそう!(知るのが遅すぎる というかプログレ自体を知ったのがかなり最近なのだけれど)

 

 

ところで、この中にあるディーリアス-グリーグという路線の存在。これによりたぶん、 イギリスと北欧がつながっていく。

 

このことはロックの分野にもおそらくそのままつながっている。

 

ブリティッシュのみに進まずに、イタリア系プログレにも興味が引っ掛かっている人びとの意見と感性も面白い。

これもまた、クラッシックの方の系譜を垣間見ても納得ができるから。

 

前にあげた記事で色々触れたので詳細は省くが ざっくりとクラシックからいうと

グレゴリアンチャント(教会旋法)が長々といろいろありつつフランドルなど絡みながらドイツ→イギリスに音楽の系譜が移行するのだけど、その前にヴェネチア(イタリア→ルネサンス)経由しているというのがかなり要諦で——その後イギリスで初期ルネサンスが、後期はイギリス——Wマンディ等——・イタリア(・フランドル)同時!に、高度かつ洗練されたポリフォニーが成就している。それでトレチェント、クワトロチェントをきくと(まあじつはその手前、ヤコボ・デ・ボローニャなどにも)、ルネサンス→モンテヴェルディへ至る鍵が意外とある気がする訳だが、こういう経緯と系譜は、プログレにも反映してるように聞こえる。

 

なにしろルネッサンスが開花したのがざっくりいえばイタリア(フランドルから降りるが、開花のきっかけを多く北〜中部に持つ)なので当たり前なのだが、この時期ヴィクトリアなどのようにスパニッシュなのにフランスの古いシャンソンの原型を象ったような人もいるのだから、いろいろと異化しつつも底の方では グレゴリアンチャントの誕生と展開、そして讃美歌、伝承歌、舞踊などの存在とともに音楽系譜はつながっている。

 

もちろんもっとスパンを広げれば、ケルト民族とその移動などを通じて 世界は東西さえもが、まえもって越境的である。

 

 

またドイツのプログレについては、友人からドイツは他の地域に比べてあまりぱっとしない、とも聞いていたが

その(プログレらしさからすれば?)パッとしない(のかもしれない) ドイツのプログレ、というのはクラシックがドイツで著しすぎる隆盛を見たから、というのもあると思うけれど、ヴァーグナーの存在が調性の拡張で大きいからも無論あるだろう(※もっと言うとバッハ〜ベートーヴェン〜ヴァーグナー〜無調等々と展開して行く調性問題と、同時に哲学的・政治的問題、そしてそれと不可分な芸術の存在の問題、等々が重すぎたのかもしれない)。

[※...この点について、最下部に追記]


まえからFBなどで言っていたように 私は、ヴァーグナーを経由しなくても、ましてドビュッシーを踏まなくても、(ルネサンス以降ジェズアルドのような実験的な音楽が出現しえたこと、そしてバッハが到来し、ベートーヴェンの特に後期の顕著な調性拡張・旋法使用等の試みがあり、シューマン-ブラームスにおいては——ウェーベルンなども注目していたように——すでに十全すぎるほどのその発展継承性を見出し得、フォレもまた、ヴァーグナーの存在なしに(も)自身の音楽性を獲得しえた。音楽のもたらす影響力・効果、という点ではヴァーグナーが大いに参考になったろうが、それ以外のフォレ自身の幽体離脱的音楽性の確立そのものは、調性問題を含め!シューマン(→ブラームス)による先代(〜同時代)の音楽性の発展形という置き土産ですでに十分であり、ヴァーグナーの存在の有無とほぼ関係がない。

よって)調性はどのみち拡張され崩壊した、という意見の方なのだけれど。
ヴァーグナーは世渡り上手。

 

私はこのことを、スクリャービン(→マーラー)的な音楽性を含めて、言っている。バッハ、ベートーヴェンは前提として、シューベルト→ショパンとシューマン(→ブラームス)とフォレがあれば、スクリャービン(的な個性及び音楽)もまた出現しえた。その片鱗は、ニイチェの存在(音楽作品)が明かしている。

 


それと昨日だか一昨日、これを見つけた

http://kakereco.com/magazine/?p=9794

 

これに行き当たったのは ジョン・アンダーソンの音楽性からきこえる東洋志向が(シッダールタ や ビートルズ以来のヨガとヨガ思想の影響などのこともあるが)、ノヴァーリスともなんか繋がっているのかなあと思って、ダメモトで検索したら、直接アンダーソンがノヴァーリスを読んでいたとかファンだったっていう記事はなかったけど、上記を見つけたという訳。。。

読んでいるとなかなか面白そう。

 

 

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追記。

昨日これを書いた後に、ドイツでプログレが生真面目なまま?停滞した点について、ヴァーグナー一つを引き合いに出した形で通り過ぎたが、至極大事な点を落としていたのに気づき(入り込むと、例の巨大な問題——私自身の長い問題——となるので回避した感もある)、どの範囲で止めておこうかそれとなく考えた。

そこへ、友達の反応で、シュトックハウゼンなどがプログレの代わりにクラシック界で突破口をやってしまった感があるのがジャーマンロック停滞の原因ではないかとの指摘があった。

たとえばあの辺りは、タモリの番組でもシュトックハウゼンと数名扱っていたりしていた(クラシックファンからは面白可笑しく取り上げやがって、といった反発も出る分野かも知れない)が、私は正直あの番組「姿勢」に賛成であった。

 

ずっと前の記事にも音楽・美術にかかわらず触れたが、とくにジョンケージあたりからシュトックハウゼンなどのああした破壊的ともいえる試みでクラシック音楽がおおむね自壊(自滅)したと思っていて——私自身は、あまり彼らに対し寛大でない。過去の(けして「等身大」などではない)遺産に対し攻撃的乃至退嬰的な表現と表現者。こうした産物や傾向に対する 物わかりのよさ を拒否するタイプである——自己崩壊音楽と心の中でも呼んでいる。

で、プログレに興味が行ったのも、だったらそちらのほうがむしろ音楽の尊厳を担保することに成功し尊敬できると思ったのである。

 

調性の拡張〜崩壊期間にかけては、作曲家や作品にもよるが、クラシックという分野にそのまましがみついた人々や作品より得てしてプログレの方が表現として成功しているとも思える。

 

調性問題の移行と、プログレの(変拍子など多用するリズム等を含めた)表現形式、「斬新さ」の意味性——attitude——が合っていると思う。

 

もし(ドイツの)プログレがシュトックハウゼンみたいな試みをしたら、私としてはプログレにも失望してしまったと思う。

彼らはそれはしなかった、できないと思ったので、ドイツ外域のプログレよりある意味(生)真面目なまま停滞したのでは、とも思える。

 

がもともとの原因は、私自身はさらにもっと前に遡る、と思っており、それを書き足したい。

 

この記事の中でも、タラレバ的にヴァーグナーを——事実存在していたにも拘らず無き者のように扱っているのも、言いたいことと関係がある。 まあ実際には存在した人だし、居たからにはそれなりの影響力を事実与えたので、無視などできないのだが、それにしてもヴァーグナーに関しては周りの捉え方が過剰かもしくは好意的に迎えすぎ洗脳されすぎたと正直思う。

(こうした点は、哲学・政治、色々な問題が不可分に、表現と表現者の質の判定・価値づけとして関わってきてしまうところなのと、通常のクラシックファンにはとても言いにくいことがたくさんである 笑)が、ヴァーグナー以降えてして構成的にも表現のありようとしても、冗長な音楽が肯定されてきた。(同じ尺度でいえば、やれ構築性に問題があるだの構成的才能に欠けるだのといった、シューベルトやシューマンに対し、まま厳しく当て嵌められた尺度は、調性逸脱-無調-崩壊を辿った人々には当て嵌められずにいるが、それでいいのか?という問題も不問に付されたまま。)そしてその構成上の「冗長さ」が退嬰性と絡みやすい(思うに、これは至当な問題である)のは、類的な音楽(個と同時に人間性全般の尊厳について真摯に向き合っている質のもの)というより、個人的な栄誉や野心、逃避願望等々といった自我(といってもselfというべきものとエゴというべきものがあるが、まま後者に陥りやすいもの)の充足・発散が表現され、作品となっている、と判断される。この質の低落が、調性拡張-崩壊を辿る時期のクラシック音楽のattitudeや質(にも拘わらず彼らはクラシックという旧来のジャンルにしがみついているのである!)より、ここから脱したプログレのほうが、まま、意識が高いと感じざるを得ない所でもある。

 

他者の問題を放棄した自己の延長へと終始しがちな音楽と、調性崩壊問題とのつながり——一言でいうのは難しいが、あえて言うと、(何らか和声上の)「解決」をみようとしない姿勢、むしろいかに解決せず放置・延長するかという、*,**表現における(逆説的)形式主義——内的必然からでなく戦術至上主義、手法の自己目的化——謂わば未到未決イデオロギーに走った結果であるといえるのではないかと思う。別な観点からいえば音楽美至上主義ともいえようが、犠牲にしたものは人間性であったりHonestyであったりするだろう。よってそれはほとんど必ず、社会的位相においては倫理的な退廃だの権力不感症(不耐性)、といった問題にも通じてしまう。

 

*...機能和声上の解決放置、を表現上始めたのはシューマンによるところが大きいが、彼の場合は、その象った形式が内的必然に合致していた、これに徹したといえるのではないだろうか。未解決型和声は、これが登場する場合、自分の魂にとりこの問題(憧憬なり苦悩なり)が未決のままであることの赤裸々な表現に過ぎなかったのである。言ってみればそこが、表現の力量における決定的な差異なのではないかと思っているし、そうした点にこそ芸術の「質」の問題が横たわっているであろう。

 

**...形式のイデオロギー化という点では、ずいぶん前にグールドの題目でだったか、十二音技法についても触れたことがある。

例えばこんな言い方がよくあると思われるが、「十二音技法は理詰めだったために大衆に理解されなかった」それで、別な作曲家らが試みたのには(たとえばヒンデミットとかコルンゴルトというところになろうか)、「受けが良いように上手に調整した」云々。

しかし、この捉え方に終始しないほうがよいだろう。それと引き換えに寧ろ後者の彼らが音楽に「息」を吹き替えさせたのならそれがなぜか、ということを考えたほうがいいだろう。理詰め?だったことそれ自身より、理詰めのありよう(裏を返せば自発性とは何か、自律運動性とその機能(発揮・回復)可能性の裏付けや土台とは何か、その相関関係とはいかなるメカニズムに基づくかetcetc...)についてもう少しよく考えたほうが良いと思う。

[付記。尤も、秘密の多い社会に生きることを強いられる場合、芸術表現がある種の窒息的形態—— 一見無秩序に見えるパターナリズム?——に陥らざるを得ないという面を、私自身、昔ほど理解できない訳でもないのだが。死んだ呼吸を生きなければならないのである。]

 

ヴァーグナーに聞きとれる野心の拡張、逆にリヒャルトシュトラウスに聞きとれてしまうある種の逃避願望、(これらの一見真逆な問題はけして偏倚的ではなくむしろ交錯的な問題でもあると思うが)といったものの、調性拡張-崩壊問題としての現れ方...。

こうした、ドイツはもちろんだろうが、西洋全体を覆った問題に、クラシック界はもう少し取り組んだ方がよいのではないか?

 

 

典型的にはナチズムを台頭/到来させたこと。ひいてはこれに対する長い敗北感(台頭させてしまったことに対し、どう反省・再生したら良いのかわからない)が、芸術界・哲学界、色々な分野の文化人にとって重荷となりすぎ、遣り切れなくなっていった。

こうした精神的に自暴自棄な姿勢が、哲学的にはポストモダンのように犬儒的もしくはニヒリスティックな形で現れるし、音楽表現、絵画表現にも退嬰的 乃至 破壊的に現れていると私は思う。

 

しかしその際言っておきたいのは、ナチズムが、ベートーヴェンを利用したのは「誤解」に基づいているが、ヴァーグナーを利用したのははたして全き誤解なのか、こうした点にもきちんと射程してほしいものである。

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

Beethoven an die ferne Geliebte & R Schumann op39-12,op14,op17,op68 etc...

Spotifyでたまたま出てきたのが

 

to the distant beloved Louis Lortie Piano

to the distant beloved Louis Lortie Piano

 

この中のLiederkreis, op. 39-12だったが

 

ああー グランドソナタop14(=op17 などあまた、なのですが これの場合 op14に、自分にとっては親和性。実際 終結部では最も一致。メタモルフォーゼにより色々と射程が広がるが)と同じ 下降旋律が〜♡

 

もちろんBeethoven由来の二人の暗号(だと自分ではいろいろ聞いてきて、アレ『ら』(※キマイラだからひとつともいえる)がコレと思ってる 世間的にもすでにきっとそう)のところ♪

 

あらためて、おめでとうございます♡ ^^♪

 

シューマンの おや 何やら聞き覚えが... というのはいつも、懐かしい♡

 

えもいわれぬ程遠くから ”襲来” するノスタルジーとともに、なじみ深いものが 何とも新鮮に 再帰する♪

 

※...前の記事でも触れているから省略 笑)

 

 

 

お。今 Liszt の an die ferne Geliebte S469 を聞いているが、(編曲されずとも元 = Beethoven の曲自身のある部分に通じるもの op98 etc..)として、 Op68(R Schumann)も、色々想起されてきた。

 

やはりOp68は家庭的な音楽なだけある...。

ミニョン Mignon は、確かにアレ( A favori WoO 57 = An die ferne Geliebte op98 = An Die Geliebte WoO 140 = Mignon op75-1 1809 = Elise = Ghost Op.70 = Therese & Josephine etc..Chimera Χίμαιρα)だけど、新しい恋人アントーニェに対してのみの語りというには、やや悲しい、、、やっぱりあれ(Josephineの娘 Minona—anonim) は、これのもじりでもある、か。。

この曲(Beethoven's Mignon)が、どこか告別に似(告別 Liebewohl はこの曲の直後に書かれる 1809-10)、同時に A Therese Psonata No24 にも似ていることを思えば、あながちハズレでもないかも...。

 

そう。Schumannの Mignonミニョン(op68)もさることながら、Beethoven自身のあれこれに通じるも、ことにテレーゼ Therese (Opus 78 À Thérèse No24————それも、Andante favoriをも髄しつつ?) をやはり想い起こすことからも、後々関係する Minona (anonim)の 名は、Mignonにも当(宛)てているのかな...。

| Rei八ヶ岳高原2 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

状況づけられない原則など存在しない

状況づけられない原則など存在しない


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phpファイルやjsファイルなどを(もちろん私なんぞは構築そのものをするのでなくて、Webデザイン上、こうしたいという自分の条件に当てはめて部分的にjsコマンドをチェンジする作業くらいなので、まあ覗く程度だけど)見て思ったが、

 

function…にはじまり、if…,else… if…,else…のオンパレード。

 

だけどこれって理系だけではなくて、西洋だと文系でもあたりまえなステップなのかもしれない...。

 

if…(こういう場合は、こう。こうなるのは、今がこういう場合だから。もしその前提を違えれば?…もしくは、この前提そのものが崩れれば?)という仮定想定をすっぽり抜かしちゃったまま議論してお互いの思い(込み)の前提条件を照らし合わせずに話せば当然ぶつかるから、喧嘩して排除、みたいなことのくりかえし。

 

こういう、互いの条件無視型国民性を脱しないと、巧妙なやり手に、意図的に前提条件をするっとすり替えられたとき気づきにくくて、むこうさまのやりたいがままにされてしまうよなあ。。。

 

 

それと、このことと、そうつながらない訳でもないので追記しておくと

 

現代芸術に哲学的概念をあんまり単純につかってほしくないなぁと思うことが多々…。

そんな(高尚な?)概念が、こんな場面(画面やら楽想)に当て嵌まるとしたら、あまりにも使い古されてい過ぎる、とおもうことが多々。物の質や価値(存在のある種の尊厳を物語る諸要因だと思う)を決定づける諸条件設定無視で強引に当てはめられている感がある。

 

 

| Rei八ヶ岳高原2 | 11:32 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

挿入句(Parenthetic sentence)と構築(Construction)

構成における中断・切断・突発的挿入句は、構築性至上主義(仮 臨時造語)から見れば異型であり畸形だが、身体論的世界観にとってはごく普通であって真理である。

 

ノヴァーリス(Novalis)においても、こういう言葉がある。

ノヴァーリスは現象学が登場する遥か以前の哲学者だがすでに現象学的真理を突いている

 

------------- Quotation-------------

自己放棄は、あらゆる卑下の源であるが、逆にまた、あらゆる真の高揚の基盤となる。

その第一歩は内部への眼差し、すなわち、我々の自己を分離して眺める内観である。

ここで立ち止まるものは道半ばで終わる。

第二歩として外部への活発な眼差し、すなわち、自発的で冷静な外界の観察がなければならない。

(ノヴァーリス bot  Novalis bot on twitter)

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つまり、存在の真理の高揚的追求において自己放棄を認め、その際の内部への眼差し、内観には、或る逃れがたい「分離」!、解裂を、経験することを知っていた。

これが身体論的真理でなくて何か。

リルケ(Rainer Maria Rilke)にもこのような表現があるが。

この種のぎくしゃくした「つがい」の分裂運動を不幸に痛感しない 天下る幸 に至るには、熟練を要するとの記述...。

(ドゥイノ Duineser Elegien)

 

フモール ジャンパウル シューマン (Humor - Jean Paul -  R Schumann)

 

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| Rei八ヶ岳高原2 | 14:23 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

グランヴィル

1) グランヴィルの描出法は、(まだ〜ない)と (もう〜ていた)の見えない隙間に触れえた気がする

忘却されえぬ未到と参与であった喪失

「両者を-ともに-描い」てしまえばたちまちのうちに踏み外してしまうあの地点——死が彼自身にまといつく。

 

描法が逆さとはいえモランディも然り。

生も死もさぞ受け容れがたかったと思われる。

 

 

2) グランヴィルの、今まさに描出しつつある世界への共振力は真に迫りすぎている…。

テニエルのように真似事に終始する訳でもなく、

ドレのように辛辣さを辛辣さとして、魔界を魔界として精鋭に描き切ることでこれを超え出るのでもなく、

影と方位を沈黙と佇みの淵へと内部化してしまう真摯さが痛ましい。

| Rei八ヶ岳高原2 | 14:50 | comments(0) | trackbacks(0) | twitter-reiのHOME | - | - |

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